一冊目の写真集が好評を博した花祭果凛は二冊目の企画も持ち上がっている中、東都ホテルでのファンとの誕生日サイン会を終え、リムジンの後席に座っていた。
「ジイヤ」
「はい」
少し迷ってから果凛は話した。
「……一蹴のアパートに向けて」
「はい」
リムジンが進路を変える。
「………ジイヤ」
「はい」
「今日、遅くなるから。迎えは明日の朝でいいわ」
「……っ…はい…」
かなり動揺した梅原ジイヤだったが、運転は正確だった。ただ制限速度の80%ほどになっている。すでにサイン会を終えた時点で22時を過ぎていた。
「……ジイヤ…急いでるわけじゃないけど、あんまりのんびり走らないで」
「はい」
ジイヤが諦めて加速しようとしたときだった。
ブオォォンゥゥ!!
見覚えのあるスポーツカーが猛スピードで追い越しをかけ、テールランプの残像を残していった。
「「…………」」
二人の予想通り、スポーツカーは鷺沢一蹴のアパートの前に停まっていた。
「…ほっ…」
「ジイヤ!! 今、ホッとしたでしょ?!」
「い、いえ! 別に!」
慌てて否定したが、果凛は追及を投げ出して、タメ息をついた。
「……カナタ……タイミング悪すぎ…………決心が鈍るじゃない……」
「……出すぎたことを申し上げるようですが、ご決心が鈍る程度のもののようでしたら、今夜は思いとどまられてはどうでしょう。こういったことは後悔のないように…………また、後日ということで」
「……ジイヤ、怒るよ。また、ビンタするよ」
「失礼しました」
リムジンが停車した。
「近くで待っておりますので、いつでもお呼びください」
「……」
果凛は帰れといっても帰らないだろう執事のことを諦めて「いつも、ありがとう」と礼を述べてからアパートに入った。
「「ハッピーバデェ!!」」
予想通り、カナタと一蹴からクラッカーをお見舞いされた。困ったような嬉しいような顔をして果凛は礼を述べて座った。
「のんは?」
「「秘密」」
「相変わらずね」
果凛は意外と気が利く親友と、意外に気が利かない、もしくは解っていて邪魔している親友のことを想い比べながら、一蹴の手料理を堪能した。
「もっと、呑みなよ」
カナタがラッパ呑みしていたウイスキーを果凛のグラスに勝手に注いだ。
(あんまり酔いたくないのになぁ…)
果凛は形だけ唇をつけたが、カナタは泥酔し始めている。
(まさか、この状態で運転する気……)
いつも表面的には合わせているが、親友の運転に対する姿勢には釈然としないものがあった。幼い頃の記憶が交通事故というキーワードで触発されてしまう。それでも一度だけ、ほんの偶然からカナタが安全運転をしているのを見かけたことがあった。
(……加賀くんを乗せてるときだけは……安全運転なんだから……カナタも可愛いな……)
かつての想い人に思いをはせていると、酔ったカナタの瞳に見つめられた。
「いま、ショーゴのこと考えてたでしょ? ヒクッ…」
「まっ、まさか! そんなわけないよ! カナタ酔いすぎ! 会話に脈絡ないよ!」
「ふふン~、りかりんはね、ショーゴのこと考えるとき左手を握りながら、右下に目線を流すクセがあるのよぉぉ~ん。自分で気づいてないでしょぉ?」
「……」
恐るべき親友の観察力に果凛は心寒いものを覚えるほど戦慄した。とっさに反論ができずに沈黙で肯定してしまっていた。
「どぉーするぅ? アホイッシュー」
カナタは哀れみの視線を一蹴に送った。
「りかりんてば、他の男のこと考えてたよぉ~ヒクッ……悲しいね……慰めてほしい?」
「いい加減にしろよ……カナタ酔いすぎだって……」
(なんで、いまだにカナタのこと呼び捨てなのかなッ)
果凛は少しイラついてグラスを乱暴に置いた。
呼び捨てを求める女に苛立っているのか、応じている男に苛立っているのか、自分でもわからないが不愉快なことに変わりはなかった。
普段なら気にならないことが、奇妙に腹立たしい。
「アホイッシューも呑めぇ」
「私の彼氏をアホ扱いしないで!」
気づけば怒鳴っていた。そんな果凛をカナタと一蹴が驚いて見ているが、カナタが挑発的に微笑んだ。
「アホにアホって言っちゃダメぇ?」
カッと果凛の頭に血が上った。
「バカナタ!!」
「……………………りかりん……それを言ったら…私もガマンしないよ!」
カナタまで怒りに顔を歪め、反撃した。
「バカリン! きゃははははっ」
怒った顔は芝居で、一瞬にしてバカ笑いを始めた。
「二人ともやめろよ…ぷくっ…くくっ」
「なんで、一蹴まで笑うかなッ?!」
「だって、カリン……プクくッ…くく」
笑いを耐える一蹴を果凛が睨んでいると、カナタが「頭痛生理痛にバカリン」などとテレビCMのモノマネを完璧な演技力で再現したので、一蹴も耐えられなくなった。
「ブハハハハッ! それはバファリンだ! ブハックハハハハ!」
「一蹴!」
「天才バカリン」
「ブハッ! ハハハ! それはバカボンだ! ブハハハハッ!」
果凛は怒りが頂点に達した。
「いい加減にしてよ!」
思わず持っていたグラスの中身をカナタにぶちまけていた。
「「………………」」
「…………」
バカ笑いをやめたカナタと一蹴。
果凛は怒ったまま睨んでいると、カナタが立ち上がった。
「りかりん」
「何よ?!」
カナタは顔を濡らしているウイスキーをペロリと舐めた。
「なにマジになってるのよ? そんなに怒ること?」
「…………」
「アホイッシュー」
「…な……なにかな?」
「シャワー借りていい?」
カナタが濡れた服を指でつまむと、一蹴は浴室を教えた。
オレはカナタにシャワーの使い方を教えてから、部屋に戻った。
「…………」
「……………」
カリンが怒ったような、困ったような顔をしている。
「……私って……気が短いのかな……」
タメ息と涙声を混ぜているから、オレはカリンの隣に座って抱き寄せた。
「そんなことないよ。どうも、今日のカナタの矛先はオレじゃなくて、カリンに向いてるみたいだな。あんまり相手にしない方が…」
オレは絶句した。
カナタの素っ裸…………の幻覚が見え………違う。
「アホイッシュー、バスタオルとシャツ貸して」
「「………………」」
間違いなく、カナタは素っ裸だ。
幻覚じゃない。
キレイだ。
スレンダーだ。
シャワーに濡れた肌が蛍光灯でも眩しいほど輝いてる。
これが超一流のプロ……引き受けた仕事は必ずやりとげるという……じゃない。そっちのプロじゃなくてプロモデル。
「「………………」」
シミ一つない肌に…………そして、アソコの毛が無い。
なぜ、パイパンなのか。
「ああ、これ? ほら、水着のときとか、チョロっと見えたりすると最悪だし、いっそ全部無い方がサッパリするからよ。りかりんも同じだしぃ」
「カナタ! なんてカッコで出てくるのよ?! 正気?!」
カリンが喚いた。
「あ、そういえば、ダメだったわね。忘れてた。てへっ!」
とってつけたような「てへっ」で誤魔化すと、カナタは浴室に戻った。
浴室から「親しき仲に…」とか唄ってるのが聞こえたけど、やっぱり親しき仲にも礼儀がいる気がしてきた。
「………………」
「………オ……オレは……そうだ! バスタオルとシャツだよな」
オレはカリンから目をそらして、やや前かがみになりつつ、バスタオルとシャツを浴室に投げ込んでドアを閉めた。
「一蹴……いま、カナタの身体に見惚れてたでしょ?」
「いえ! そのようなことはありません」
「説得力ない」
「な、なにをおっしゃるやら! だんじて女体など見ておりませぬ」
「……そのキャラ変」
カリンが睨んでる。
ジットリとイヤな汗が浮かんでしまう。
「お風呂ありがと」
カナタが出てきてくれた。
シャツ一枚っきりの姿で。
乳首が透けてみえる。
何を考えてるんだ。
ドッキリか。
いや、二人は芸能人だけど、オレはパンピーだ。
オレをハメるテレビ局はない。
「カナタ! 下着くらい…………あのさ! いい加減にしてくれない!」
カリンがキレたのに、カナタは馬耳東風でクタクタと壁にもたれて座ると、寝息を立て始めた。
「「……………………」」
スースーと心地良さそうな寝息と立ててる。
「……カナタ………どのくらい呑んだっけ?」
カリンが不安そうにテーブルを見ると、サントリーウイスキー「響」17年が二本、同じく25年が一本……カラになってる。もちろんカナタが持ち込んだ物品だ。オレが用意したのはワイン一本だけだ。
「カリン……どのくらい呑んだ?」
「グラスに二杯……」
「オレは……三杯くらいだったと思う……」
ということは残りはカナタの身体に…………ちょっと怖い。
「なあ……カリン……急性アルコール中毒って……こんなのか?」
「……たぶん……違うと思うよ。気持ちよさそうに寝てるし」
カナタは熟睡してるように見える。死にそうではない。
「………………」
「…………」
カリンと見つめ合う。
今日は暗黙の約束があった。
カリンを抱く。
カリンは雰囲気とかで曖昧に抱かれたくないって言った。
で、結局選んだのが自分の誕生日。
意外と平凡な発想だと思ったけど、それは黙っておいた。
言うと怒るだろうから。
そして、今日は約束の日。
オレとカリンは一つになるはず……の日。
「………………」
「……………………」
沈黙が重い、カナタの寝息だけがスースーと場に響いてる。
「一蹴……」
「……なに?」
「…今日は…………やめようか?」
「……そうだな……これじゃあな」
オレはカナタを見下ろした。
無防備すぎる。
オレを信頼してるのか、それともカリンを信頼してるのか、こんな姿で眠り込むなんて。
透けた乳首、見えそうなアソコ、丸出しの長い脚。
ヤバイ。
オレは目をそらして前かがみになった。
「……一蹴…………私……ジャマかな? 帰ろうか?」
「な、なななな、なにを言ってるんだよ! ジャマなのはコレだ!」
オレは見ないように泥酔体を指した。
「よろしい。少なくとも邪魔者を間違えなかったことだけは許してあげるわ」
「当たり前だろ」
「…………さあ、どうしよっか?」
「……そうだな……」
このままカリンが帰ると、カナタと二人っきりになる。
その選択肢はカリンの頭にも無いだろう。
すると三人で寝るのか? カリンを抱けず、カナタに見るだけ攻撃をくらい、オレは眠れるのか? もしかして、ホントはオレに抱かれるのをタメらったカリンがカナタを呼んだのか? そんな疑問まで出てくる。
「…………」
「……」
見つめ合うカリンの瞳がキスくらいなら、いいかなって語ったから、オレはカリンを抱き寄せた。そっと唇を重ね、強く抱きしめる。
ダメだ。
抱きたい。
めっちゃくちゃ抱きたい。
ここで抱かなきゃオレはバカだ!
というか、単純に欲望で目が眩んでる。頭が痺れる。
「……一蹴……」
抱きしめて離さないオレをカリンが視線で咎めてくるけど、抱きたくてガマンできない。
腕の中にいるカリンと一つになりたい。
服を剥ぎ取りたい衝動だけは抑えて、やさしくカリンの背中に手を回して服の上からブラジャーのホックを外した。
「………一蹴……やだ…………巧すぎる。私以外の女の子と寝てるでしょ?」
「…………ぁ…………その」
ウソをついても後々やっかいだろう。
「正直に言うと……陵さんと……あの例の…………長い髪の…………高校時代の彼女」
「そう……まあ、そんなことだろうとは思ってたけどさ」
カリンがタメ息をついた。
「カリンはバージンなのか?」
「さあ?」
カナタのモノマネをしてから、急に不愉快そうに顔を歪めた。
「そうよ! バージンよ! 大っ切なバージン! なのに、なんでカナタが寝てる隣で、抱かれなきゃならないかな?!」
「……そ……そうだね」
オレの頭が冷静に戻った。
そうだ。
カナタがいる。熟睡しているとはいえ、カナタがいるのにカリンを抱けない。
「ジャマだ。黒須カナタ」
オレはカナタを睨んだ。
「そうよ、ジャマよ!」
カリンも心を決めた。
追い出そう。
起こして、追い出す。
きっとカナタはジャマなことを承知のうえで、楽しんでる。
「カナタ、起きてよ!」
「カナタ、起きろ!」
オレとカリンが声をかけると、カナタはパチッと目を開いて、微笑んで舌打ちした。
「チッ……りかりんとアホイッシューの愛の歴史……その一歩を目撃できるかなぁって……歴史の生き証人になれるかと思ったのに、残念ですわぁぁ」
「「…………」」
やっぱりわかってたのか。
そしてタヌキ寝入りだったのか。
許せん。
オレとカリンの気持ちは一つになった。
「「出てけッ!!」」
「でわ……お二人様……ごゆっくりと、お励みになってくださいましぃぃましぃぃ」
カナタは干してあった自分の服を持つと、オレの部屋から出ていき、信くんの部屋に入っていった気配がしたけど、それはカナタと信くんの問題だから、オレは部外者だ。
「まったく! カナタってイタズラが過ぎるわよ!」
「ホントになっ! カリンが友達続けてること、尊敬するよ」
しばらくカナタの悪口を言ってから、オレとカリンは雰囲気を高め合い、裸になった。
「………………」
布団の上で素っ裸になったカリン。
キレイだ。
とってもキレイだ。
整えられたボティーライン。
肌のキメ細やかさ。
記憶の中に美化されてある陵いのりよりも、はるかにキレイだ。
さすがモデル。
シロウトの陵いのりなんか、比べるのが失礼だ。
これが無駄のない身体か…………見ているだけで吸い込まれそうだ。
とんでもない引力を感じる。
「…………カナタより、キレイって……想ってくれた?」
「………………」
珍しくカリンがオレの心中を外した。
いくら何でもカナタはチラッと見ただけだし、やっぱり陵いのりだろうに、カリンが外すなんて、あのエープリルフール以来だ。
「………正直が美徳とは……想わないけど、誤魔化さないで答えるなら、カナタのことは考えて無かったよ。昔の女……陵さんより、ずっとキレイだなって……想ってた」
「……そ…そうよね。私……おかしいわね、なんで、ここでカナタが出てくるのかしら」
「………抱くよ」
「…………はい…」
いい返事だ。男心を知ってる。
何度か裸で抱き合い、それからカリンのクリトリスを吸った。
「はぁっ……んっ…」
いい声だ。
しばらく鳴かせてから、オレはカリンと一つになった。
中も良かった。
ほどよく鍛えられたカリンの身体は最高だった。
ピアノばかり弾いていて弱った下半身なんか比べものにならない。
弾力と吸引力に溢れ、オレはカリンを恋人にして本当に良かったと想った。
むしろ、別れてくれた陵いのりにありがとうと言いたい。
ありがとう陵いのり。
君がいたから、カリンの素晴らしさがわかる。
比べることで、比べものにならないってことがわかる。
冷静に考えれば、当然のことじゃないか。
陵家はパンピーだけど、花祭家はリッチだ。
陵いのりはピアノが巧いだけの女だけど、カリンは二流モデルだ。
とくに身体なんて月とスッポン。
知性だってカリンが優れてる。
ああ、本当にカリンでよかった。
うれしくてバージンだったカリンには悪いけど、何度も抱いて夜を過ごした。
翌朝、リムジンで迎えにきたジイヤに「最高だったよ」とカリンに聞こえないように告げた。
一ヶ月後、花祭果凛は仕事を終えた後、リムジンを鷺沢一蹴のアパートに向けさせた。
(一回許したからって、毎日抱かせてあげるわけじゃないのよ…………こんな計算って……汚いかな? でも飽きられちゃヤダし……)
物思いに耽りながら、一ヶ月ぶりに合う恋人のことを考えている。
(一蹴って奥手っぽいけど、さすがに高一から彼女がいただけあって、やさしく丁寧にしてくれたし………お互い初めてだったら……どうしていいか、わからなかっただろうなぁ)
写真家の葛西陽心も初夜を終えた果凛を誉めることが多くなっていた。それも嬉しいことだった。果凛が用意したワインボトルを持つと、リムジンが停車した。
「ジイヤ……迎えは、明日の朝にお願いします」
「…はい」
それ以上は余計なことは言わずに果凛はアパートの階段を昇った。
「一蹴……」
ドアを開けた果凛は信じられない光景を見た。
「………………」
布団の上にいる一蹴の上に、カナタがいた。
ガシャンッ!
果凛の手からワインボトルが落ち、土間に転がった。
「ハーイ、りかりん」
一蹴は背中を向けたまま、果凛を見ようとしない。
代わりに、カナタが明るく挨拶してくれた。
「…………一蹴…………カナタ…………どう…いうこと?」
「意外と平凡な質問ねぇ? りかりん」
「……」
「どう見える? どう想う?」
背中を向けたままの一蹴を置いて、カナタは裸のまま立ち上がった。
土間から、部屋にかけてはカナタのバックや服、下着が散乱して落ちている。
まるでドアを開けたあと、待ちきれないかのように抱き合った……そう思える光景だった。
カナタは自信たっぷりに微笑んでいる。
「いつからッ?!」
果凛は擦り切れたような声をあげた。
「最初から」
「フザけないで! 許せない! こんなの許せない!」
「平凡なセリフねぇ……ちょっと、りかりんには失望したかも」
果凛は怒りのあまり蒼白になった。
切れそうなほど唇を咬むと、怒鳴った。
「説明してよ! ねえ! 一蹴! なんで黙ってるの?!」
一蹴は背中を向けたまま一言も語ってくれない。それが絶望を刻々と増してくる。
「そっか、りかりんって、こういう状況に説明とかつけた方が好みぃ?」
「………カナタ………私……あなたが憎…」
「憎い? 憎いの? で、説明がほしいよね?」
「……」
「ま、ご覧のとおりだけどさ。私ってさ、りかりんのモノ盗ってみたかったのぉ。これが私の感情の説明。でね、もう一つ説明を加えると、りかりんって私にコンプレックス感じてるでしょ? ショーゴのときも、モデルになってからも、ずっと私に勝てない。でも、勝ちたい? でも勝てない」
「…………」
「やっと一蹴の中だけでは勝てたかな? とか、ちっちゃい幸福感にひたってたでしょ? そんな小さな満足されたんじゃ、私としても面白くなかったわけ。で、こうなったの」
「……………私………あなたを殺しそう……お願いだから態度……気をつけて…」
果凛は散乱しているカナタのバックから零れ落ちたスタンガンと護身用ナイフを見ている。本気で殺意を覚えていた。
「ダメよ。りかりんは土下座して私に頼まなきゃいけないもの」
「はぁっ?! カナタ頭オカシイの?! なんで、私が土下座するのッ?! フツーさ! こういうとき土下座するのはカナタの方でしょ?! でも! 許さない! 土下座したってこんなの許さない!」
「お嬢様育ちだね」
「何が言いたいのよ?!」
「なんにも家のこと知らないでしょ? いま花祭家が、どういう状態か、どんなことになってるか、なんにも知らないよね」
「………」
「先週ね、私の父さんに、りかりんのパパ様が土下座して頼みに来たの知らないでしょ?」
「…………」
「なにを頼んだのか? 気になる? 気なるよねぇ?」
「……言いなさいよ!」
「パパ様の会社、花祭土木だっけ、中堅ゼネコンだよね。けど、公共投資の削減で、中堅以下のゼネコンはみーんな青息吐息、りかりんのパパ様も同じでね。私の父さんに20億円貸してくれって頼みにきたの。私の父さんは哲学ばっかりだけど、お祖母ちゃんが死んでから、ぜんぜん不動産を動かさなかったのが、大正解! バブル崩壊後も悠々自適なのよ」
「……20億……」
「そして、もう一つ。私の母さんが、ずっと社会運動やってるの知ってるよね? いまね、市民オンブズマンまで進んでるんだけど、市議会議員の花祭女史、だいぶ公職選挙法無視してるって証拠もあがってるの。あとは検察庁に持っていくだけって段階なの」
「何が言いたいのよ?! どういうことよ?!」
「お嬢様のパパ様も、ママ様も、私の父さん次第ってこと」
「…」
「私が父さんに頼めば20億くらい貸してくれるかもよ。きっと返ってこない不良債権になるだろうけどさ。りかりんのパパ様に再起のチャンスがあるかも。それに検察の方も議員辞職って線で妥協してくれるかもよ。イヤでしょ? ママとパパが逮捕されたらぁ?」
「…………そんなこと……聴いたことない……」
「だから、お嬢様だっていうの。パパ様もエライよね、火の車だってのに、娘にはリムジン使わせてさ。知ってる? りかりんが事務所からもらった給料と、リムジンの維持費とジイヤの人件費が、どっちが多いか? そんなことも知らないでしょ?」
「………………知らないわよ! だって誰も言ってくれないもの!」
「無知ね。なんでも知ってる顔して、何にも知らないお嬢様……とっても可愛いわよ。その泣き顔」
「……………………」
「ほら、一蹴を寝取った私に土下座して頼めば?」
「……………なんで……こんな意地悪するの?」
「やってみたいから。見て見たいから、りかりんの顔とか、涙とか」
「……………………」
「昨日の友は?」
「…………………………」
果凛は黙って床に転がっている護身用ナイフを見つめた。
「恩知らずな娘ねぇ。今日までゼイタクさせてもらったのに、パパやママのために土下座一つできないの?」
「…………………」
「親不孝ねぇ。あっそか! 私を殺して、いっしょに刑務所に入ってあげるんだぁ! 同部屋だといいね。親子仲良く塀の中……なんか、演歌になりそうよ」
「…………………………するわよ! すればいいんでしょ?!」
「イイ子だねぇ……パパとママも泣いて喜ぶよ」
「………………」
果凛は必死に感情を押し殺し、土間に膝を着いた。
「…………」
「……」
「やっぱり、できない?」
「…………」
怒りに震える果凛の手は土間に揃うと、秀でた額を迎え入れた。
ピッタリと土下座し、肩震わせ悔し泣きしている。
「ぁぁ…最っ高っ…さっきのイッシューとのエッチよりゾクゾクするぅ」
カナタは「動かないでね」と命令すると果凛に頭を軽く踏みつけ、せせら笑うと満足した。
「いいわよ。帰っても」
「……っ……っ……これで……父に……ほんとうに頼んでくれるのよね?」
泣きながら念を押した果凛に、カナタがアホを見る顔になった。
「アホ?」
「………………」
「本っ当にアホね。小娘の土下座一つで20億も動くわけないでしょ? そんなこともわからない? そこがお嬢様なのよ」
「…………ど…………どういう……こと?」
「勝手に塀の中でも、橋の下でも、住めば? バーイ、りかりん」
カナタはウインクすると背中を向けた。
果凛の中で憎悪が爆発した。
床のナイフを拾い、カナタを押倒した。
何度も、何度も、ナイフを突き、カナタと果凛は真っ赤になった。
カナタは悲鳴らしい悲鳴もあげず、動かなくなった。
「…ハァ…ハァ…ハァ………」
果凛は紅く染まった自分の手とカナタを見つめ、冷静さを取り戻しつつあった。
「……これは……違う……」
紅く染めているのは血ではなかった。
血と同じ真紅とヌメリ……だが、匂いは石油臭い……見覚えがあった。
撮影用の血糊だった。
「…………カナタ……生きてる?」
「生きてるよ」
ムクッとカナタが起き上がった。
「……」
「……」
ナイフは精巧に造られた撮影用の安全な物だった。
ブンッ!
果凛のビンタをカナタは予測していたので、後ろに逃げた。
「……」
「……」
カナタは部屋の押入れを開けた。押入れの中には果凛も見覚えのある人物がカメラを構えていた。シャッター音が聞き取れない超音波モーター内臓の業務用カメラだった。
「……葛西陽心……先生……」
無口な葛西陽心は満足そうに頷いた。
「りかりんの二冊目の写真集の企画は、絶望と憤怒だって葛西が言うから、協力してあげたのよぉ~、感謝してね。感謝、感謝ぁ! 出血大サービスよ!」
「…………一蹴は?!」
カナタは布団の上に転がっている一蹴を蹴った。
「ぐっすりとクスリで寝てるね」
「……」
不意に部屋のドアが開いた。
ジイヤが立っている。
「お嬢様、どうか冷静に皆様のお話を聞いて…」
言い終わる前に、果凛のビンタでジイヤは吹っ飛んだ。
以前の20倍のビンタだった。
「ジイヤまで知ってたのね!!」
「一応、アホイッシューにも提案したらね、さすがに止めるから、眠らせたの。よかったね、一人でも信頼できる人がいて」
「………………みんなに……お願いがあるの……」
果凛は三つの要求をした。
一つ、全員を思いっきりビンタさせること。
二つ、二度とカナタは一蹴の部屋に入らないこと。
三つ、一蹴はカナタを「黒須さん」と呼ぶこと。
「ヤダ」
「カナタ!」
果凛が睨むとカナタは条件を付けた。二冊目の写真集が一冊目の売上を上回ったら、要求は無効になるという条件を付加された。結局、果凛にとっては不本意だったが、二冊目は大幅に売上を伸ばすことになった。
絶望と憤怒の表情が評価された果凛は、水曜サスペンスドラマの犯人役女性としてレギュラー扱いされるようになったが、一蹴は果凛のトラウマを癒すのに、さらに年月を要することとなった。