※この作品はR-18です。

龍は真朱の黎明に鳳凰と舞う   作:雷電五郎(旧)

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九 章


Bell canto -美しい歌-

天正十年(一五八二年) 六月

 

播磨姫路城は中国征伐の前線基地として用いていた城である。

姫路城を黒田官兵衛から譲り受けた秀吉は、古い様式で建築された城に大幅な改修を加えて四つの天守を擁する大城郭とし、城を広大な敷地を有した巨大要塞に作り替えた。一際大きな大天守に、西、乾、東の小天守三つを加えた天守群は、壁を白漆喰で統一してあり遠目から眺め見ても純白の城壁が空の青と山の緑によく映えた。また、城ばかりでなく、城下町では楽市を敷き、港での貿易にも力を入れているため町は活気づいており、以前よりも豊かな生活を送ることができるようになった播磨の民衆は秀吉を新しい領主として心の底から迎え入れてくれている。

 

安土へ帰還する際に立ち寄る姫路城の大天守からは、遠く霞む瀬戸内海を臨むことができ、大きな翼を持つ白い鳥達が海へ向かって飛び立つ優雅な姿を目にする。海に近い立地だが姫路の周辺には山々も多く、平地に忽然とそびえたつ大天守の屋根や欄干へ、野鳥達が羽を休めにやってくることも珍しくはなかった。その軽快で華奢な体躯を心地よさげに羽づくろいし、人がかたわらにいても悠然と翼を閉ざして小首を傾げる鳥達の無防備に秀吉は微苦笑する。

 

四方の妻戸を開放すると、埃臭かった室内を海風が吹き抜け、淀んだ空気が一掃された。整えた髪をいたずらに嬲る風の強さに秀吉が眉宇を濁して両目をすがめると、すぐ真隣から大きな手が伸びてきて冷たくなっていた頬を熱いてのひらで撫でた。温かい熱が冷えた肌に染みこんでゆく気持ちよさに睫をゆっくりと伏せた秀吉は、不意にこみ上げる涙を拒むように唇を噛み締めて俯く。自身の頬に触れる手に手を重ね、確かに存在する温もりにすがるみたく鼻先を擦り寄せた。

「信長様……」

咎めるのに似た口調で呼ぶと、ふっと吐息交じりに笑った主、信長の面に鋭利な影が走る。秀吉もまた一歩離れて主の後方に退くと、膝をついて叩頭した。首飾りの鎖はまだ治っておらず、妙に軽く感じる自身の首に違和を感じながら顔を上げて信長の背を凝見した。

 

織田家の重臣であった明智光秀の謀反は、近畿一帯の国々に激震を走らせたと言っても過言ではなかった。しかし、秀吉の願いを受けて事前に本能寺の警護を固めておいた信長は、襲撃を受ける前に堺へと逃げ延び、合流した二万近くの軍勢によって、追撃してきた光秀の兵士卒を食い止め脱出の時間を稼ぐことができた。どこからともなく現れた予期せぬ大軍に成す術もなく、光秀が堺へ入った時には港からすべての船が姫路へ向けて出発した後だった。船に乗った信長や信忠、福島正則、丹羽長秀らと織田の兵士は、本能寺襲撃の翌日には姫路の港に到着し、全軍がほとんど無傷の状態で窮地を脱して播磨へ逃げることに成功したのだった。一方の秀吉は光秀から放たれた密使を捕らえて本能寺襲撃計画を知った六月一日の早朝に備中を発ち、寝る間も惜しんで姫路へと駆け通し、二日後の六月三日には姫路城へ入っていた。城へ帰り着いた自分の元へ本能寺にいるはずの正則が戻り、信長の無事を知った秀吉は取るものも取らず港へ走った。

ちょうど船から降り立った主は黒い南蛮胴具足を身にまとい、特に平常と変わった様子もなく涼しげな顔をしていたが、息を切らして走ってきた秀吉の姿を見た途端、たわけ! と怒号を上げ、勝手に備中の戦陣を離れた自分を手厳しく叱った。自分の胸中を占めていた、いい知れない不安と恐怖が杞憂であったことに安堵し、主が生きている、生きてここにいるという実感に嬉しくなって、秀吉は叱られているにも関わらず笑いながら泣いていた。頭上から絶え間なく落とされる怒号に伏して詫びながら、嗚咽と笑い声を一緒くたにして肩を震わせる秀吉に主は、この猿め! 我が命を聞かぬ奴よ! と憮然と言い放ってから豪快に笑って、面を上げよと優しい声音で言葉を続けた。秀吉は一旦顔を上げたが、見慣れた主の笑みを改めて熟視した刹那、涙腺が壊れてしまったかのように涙が止まらず、そのまま顔を伏せてむせび泣いてしまった。

 

とにかく嬉しかった。ほっとしたのだ。

首飾りが千切れた上に、密書を見てしまった自分にとっては、信長の顔を見るまでは心底から安堵することも、また、不安や恐怖を取り除くこともできなかった。警護を配備したといっても、自分がその場に立ち会っていない以上、確実に信長を守れるという自信も確証もなく、同時に警護を一任した正則の身にも危険が及んでいないか心配でもあった。

信長の無事を自分の目で確認した時、胸中からすべての恐れが消え去ったことをどこか他人事のような冷静さで理解した。感情が高ぶるあまり人格が二つに割れてしまったみたく、現実を把握して安堵する自分と、ただただ主の無事に歓喜する自分が、他の何も考えつかない程の激しさで同時に心を震わせていた。そして、力の抜けた秀吉は思う様涙を流した後、張り詰めていた感情が緩まって途切れたせいか、いつの間にか意識を手放していた。

目が覚めたのは姫路城の西天守の一室で、かたわらには具足を脱ぎ、鎧直垂姿になった信長が座っていた。部屋には誰もおらず、目覚めた直後ではっきりとしない頭でもひどく静かな室内の雰囲気に、室内には主と自分だけしかいないと判断することはたやすかった。慌てて跳び起き平伏した秀吉の耳に、よいと聞き慣れた低音が触れ、不覚にも再び眦に涙が滲んでしまった。顔を上げられなくて、床と見つめ合ったまま動かない自分の腕をつかんだ主に強い力で引き寄せられ、その両腕に、その胸板に深く抱きこまれていた。がくがくと震える双肩を押さえこむように包むてのひらの温度を、背中を締め上げる堅い腕の筋肉の感触を、主が目の前に、生きて自分の目の前にいる現実に何よりも安心し、何よりも歓喜した。いつまでも震えの収まらない自分の痩躯を一層強く抱き寄せ、ようしたと信長は一言耳元でそう囁いた。ようしたと、ただそれだけを囁いて口を噤み、秀吉の肩口に顔を埋めた。

 

女々しいと言われるかもしれない。情けないと罵られるかもしれない。しかし、思った。目の前にいるこの主がいない世界で、自分は生きてゆくことなどできないと。生きてゆく意味も価値すらもない。

 

主の胸にしがみついて嗚咽を噛み殺しながら泣いた。主もまた秀吉の体温を確かめるように両腕の力を強めた。すぐさま備中に取って返し、毛利との講和をまとめて光秀を討たねばならない状況下で長くは憩う暇もなく、それはほんの一瞬の安息だった。

 

姫路城で合流した信長と秀吉はその日のうちに備中へ舞い戻り、官兵衛の手回しが功を奏して六月五日に延長された清水宗治の切腹を見届けてから、兼ねてよりの約束通り、毛利との講和を取りまとめた。とはいえ、講和をまとめた直後に毛利に背を向け畿内へ戻れば、がら空きになった播磨や因幡欲しさに約定を破棄しないとも限らない。そこで毛利には謀反人明智光秀を討伐するという名目で援軍を要請した。毛利が光秀の背信を知ったのは講和後、信長が援軍を願い出た時で、秀吉は自身の陣中に捕らえおいた密使の間抜けさに心底感謝せざるを得なかった。謀反の計画を記した密書が毛利方に渡っていれば、信長に従わずとも済むとして、毛利は確実に一斉攻撃を仕掛けてきただろう。

どうやら主と自分の運の強さは筋金入りのようだと苦笑せざるを得ない。

事情を聞き、快く申し出を受け入れた毛利方の小早川隆景、吉川元春が援軍として信長とともに姫路へ向かうこととなり、これで後背の憂いは完全に消え去った。

現在は姫路城において、安土を占拠した光秀の軍を討伐するための準備に追われている最中である。畿内では主を討ち漏らした光秀が安土城へ進軍し、近江の豪族を味方につけて上洛を狙っているらしいと忍びから報告が入ったばかりであった。地方の戦線で奮闘していた司令官のうち、信長襲撃事件によって安土からの補給を断たれ、孤立してしまった関東の滝川一益軍、越後の柴田勝家軍はともに合流した後、岐阜城に集結し近江との国境において光秀の軍と交戦中とのことだった。

そして、徳川家康はというと、いち早く堺から逃れ三河に帰り着いたその足で早速行動を起こしていた。

信長の生死が定かではなかったために、いまだ滅んだ武田家を根強く慕っている甲斐、信濃の民衆がぞくぞくと一揆を起こし、主君が死んだと思いこんだ森長可、毛利秀頼は身の危険を感じ領地を捨てて逃亡、甲斐の河尻秀隆に至っては一揆により攻め殺されてしまった。これによって織田領となっていた甲斐、信濃が空白地帯となり、更に滝川一益が岐阜へ軍を退かせたため、上野もまた空白となった。家康はどさくさにまぎれて甲斐と信濃に攻め入り、己の領土としてこれを掠め取り、現在は上野を巡って北条と交戦中だという。

信長は播磨から、謀反人光秀を討つため姫路城へ集合せよという内容の檄文を各地に発し、態度を曖昧にしていた諸大名に自身が生きていることを明示した。信長が生きていると判明した直後から状況は一変し、光秀方に着いていた豪族や大名が手勢を率いて次々と姫路へ集結した。様子見のため沈黙を続ける大名も少なくはないが、秀吉はそれらの中立勢力に手早く調略をしかけて次々と味方に引きこんでいった。

今や明智討伐の軍勢は七万を越える。かつてこれ程の大軍勢を秀吉は見たことがない。無論、信長もそれは同じだろう。広大な敷地面積を誇る姫路の城郭ですら、七万の軍勢を皆まで擁することは難しく、城に入りきらなかった兵士卒は城下町で待機しているといった状態だった。

稀に見る威容を大天守から眺めたいと言った信長につき従い、天守内部を案内しながら最上階を目指した。安土城の天主閣より低い土地に建てられているとはいえ、周辺を田園に囲まれた姫路城の大天守から眺める景色は、海と山を同時に臨む爽やかな目映さを持っている。最上階に達して主と自分は、最初眼下にひしめく兵士達の姿を見下ろしたが、目はいつの間にか、翠玉の色をした海原を、海よりも青く抜ける空を眺めていた。

 

主は何も言わなかった。何も言わず、気づいた時には静かな無表情をたたえた顔を傾けて自分を見つめていた。視線を重ねれば理性が崩れ自制を見失う気がして、鋼の瞳を見つめ返すことはできなかった。おもむろに頬へ触れた手から、もっと自分に触れたいと望む信長の感情が流れこんでくるようで、怖くなって主の名を咎めるように呼んだのだ。触れたいと願うのは自分も同じことであったが、今はまだその時でないという冷静な思考が辛うじて緩みかけた気持ちに枷をした。主もまた秀吉の胸中を知り、あっさりと手を引いたのだろう。

 

後方へ退いた秀吉は顔を上げたまま押し黙る主の背中を熟視し言葉を待った。信長の広く大きな背には怒りよりも楽しげな雰囲気が滲み、これから仕掛けるべき報復戦における策略を、何かの祭を催す気楽さで熟考しているだろうことが窺えた。

「こたびの騒動、光秀のみならず『三河の狸』めが関わっておるようだが」

うぬはどう見ると語尾を継いで巨躯を反転させ、秀吉を顧みた信長は欄干に半身を預け、鬱陶しげに袴の裾を蹴り上げると長い脚を軽く組む。端麗な面にはやはり怒りではなく笑みが浮かんでいた。

「間違いないかと」

問われて極力淡々とした口調で答えた秀吉を瞥見し、主は、ふむと頷いた。

本能寺襲撃を予期していたかのように、素早く堺から逃れ三河に帰った家康は、信長の生死を確認する前に信濃と甲斐を奪い取っている。あの家康が、そこまで大胆な行動に出たのは信長は死んだという確信あってのことであろう。腹の底で燻らせていた野心を用心深く隠し通してきた家康が、何の根拠も保証もなく行動を取るとは思えない。光秀と共謀していたか、あるいは、光秀から事前に襲撃計画の秘を打ち明けられていたか、どちらにしても関わりがあることには違いない。加えて、領主が不在とはいえ、信長が生きている限りは信濃、甲斐、上野は織田領であることに変わりはない。それを奪ったということは、その時点で信長に背いたと同じことであった。安土を占拠した光秀の軍が再三に渡って三河に援軍要請を送っていることは、忍びの報告により明らかになっている。家康の狡猾を思えば、今回の事件も光秀をそそのかして誘導したものである可能性が高いと推測せざるを得なかった。

「容姿爽やかにして実直なる性根の光秀が、自らわしに背くとは思えぬ。やはり家康の教唆あってか」

信長はふうと嘆息をついて肩を僅かに落とす。突然、重罪を犯したはずの光秀を褒める言葉を口にした主を怪訝な面持ちで見つめ、謀反人を擁護するにも等しい発言をするなどと、主の言葉とも思えず秀吉は眉根を寄せた。同時にふつふつと胸の奥が焼けるような苛立ちを覚え、渋面になって

「信長様、恐れながら」

と今し方の主の言葉に反論しようとした。しかし、信長は秀吉の言葉を無視して更に

「まったく惜しいことよ。光秀程の逸材をみすみす謀反に走らせるとは、黄金を失うたも同然ぞ」

まったく惜しいと続け、いかにも辛いといった風情で再度嘆息をつく。

 

秀吉はなんともいえない不快な気分に陥った。ちりちりと嫌な感情が心を焦がす。今になって光秀を褒めそやす主の意図するところが分からないことも不愉快な感情を覚える一因ではあった。だが、もっと単純に、どのような理由があれ謀反に走った光秀を信長が褒めるのを聞きたくないだけなのだ。しかも自分の目の前でこれみよがしに言われたのでは、さすがの秀吉でも気分はよろしくない。光秀が主に背いていなかったのならば、自分とて苛立ちと腑に落ちなさがないまぜとなった筆舌に尽くしがたい不快感を味わってなどいなかっただろう。あからさまに渋面を険しく深めた秀吉の耳を低い笑いがよぎった。

「などと、わしが言うと思うてか」

肩をすくめてにやにやと笑みを浮かべる信長に唖然とし、一瞬きょとんとしていた秀吉は、あっと声を上げて即座に眉を吊り上げる。主にからかわれたのだと分かった時には遅かった。いつも信長の揶揄をかわせないのは言葉巧みに仕掛けを凝らして自分を困らせることを楽しむ、主の底意地悪い愛情表現のせいだとも分かっているため本気では怒れない弱みもある。秀吉は心中で呻いて頬に迫り上がる熱さをなんとか押し殺した。

「か、からかわんで下されませ!」

ひどく顔をしかめ、眉をひそめて責めた自分に両目を細めた主が口角を吊り上げる。

「筑前ともあろう者が悋気を起こすとは、愉快なること」

光秀を褒めることに嫉妬をするとは愉快だと、喉を小刻みにうごめかせて信長が笑った。起こしたのではなく起こさせておいて、この言い様である。とはいえ、秀吉は図星をつかれて赤面したが

「信長様!」

と握った拳で床板を打って赤い顔をしたまま眉を吊り上げる。信長はそんな自分の風体に両肩を揺らして笑っていた。だがしかし、すぐさま面から笑みを消し去り、鋭利な双眼を殊更険しく吊り上げて眼下の軍勢を眺め見た。

「これより三日後、二手に兵を分け姫路を発つ。信忠は海路を、わしは陸路を行く。海路を回る軍は我らよりも先に畿内へ入るであろう。いち早く京へ攻めのぼり、日和見を続ける阿呆どもを取りこんで後、京の警備を固めさせる。光秀に上洛を許さば天下は再び乱れようぞ。事は迅速を要する故、気を引き締めてかかれ」

無駄なく紡がれる主の言葉に、はっと短く応じた秀吉を目線だけで一瞥した信長は

「信忠には長秀と隆景の軍を預ける。うぬは我に従え」

そう言を継いでから再び眼下に目をやった。御意と頭を下げた自分に向き直った主は欄干から身を起こす。

 

光秀が上洛を果たせば、かつての信長がそうであったように、諸大名に号令する権力を持ち得る人間だと周囲から見なされるだろう。そうなれば、織田と明智、いずれにくみし、いずれを見限るか、利害を巡っていよいよ敵味方内に裏切りが続出し、戦局は悪化の一途をたどることになる。事態を最も無難な形で終息させるには光秀が上洛する前に叩く他ない。

現在、岐阜にいる勝家、一益の軍勢と戦っている光秀の軍は、今の段階では京へ上る余裕はないだろう。しかし、勝家や一益は知将というより猛将と呼ぶべき性分で、戦の内容も大体が力で強引にねじ伏せ猛進するといったものであるため、戦略については一日の長がある光秀に敗退するのは時間の問題である。勝家、一益を打ち敗れば、光秀は安土に拠点を置き、京へ軍を向けるはずだ。

七万の大軍を引き連れて陸路を行くのは時を浪費するだけのことでしかない。いち早く光秀の上洛を食い止めるには行軍の時間を大幅に短縮するため、軍を二手に分けて海路、陸路から回りこむことが最善策と言えた。信長とまったく同じことを考えていた秀吉に異論はない。

秀吉が顔を上げると、信長はどことも知れない宙を睨み長い眉を不快げにしかめる。すがめられた主の両目には憎悪にも見える暗い炎がぎらぎらと揺らめいていた。

「安土を踏み荒らしおった下郎どもを根絶やしにしてくれるわ。一人たりとも生かしてはおかぬ。捕虜はとらず皆殺しにせよ。光秀一門の首級を上げし者には褒賞金を出す」

一際冷酷な声音で唸るように言い放ち、異存ないなと強く語尾を継いだ主の目が、秀吉を咎めるのに似た厳しさで射た。

「異存はござりませぬが……」

秀吉は躊躇いがちに呟いて目を逸らす。

皆殺しという言葉をどうにも素直に飲みこむことができない。相手が謀反を起こした人間であっても、今回ばかりは止むを得ないと分かっていても、即座に頷くことができない。光秀に関しては自分が何度も会って様子を確かめていれば、謀反などという大それた行いに走ることはなかったのではないかという罪悪感と後悔がある。だが、己の後ろめたさのあまり、光秀を助けてくれるよう主に頼むことは間違っているとも分かっていて口を噤むしかなかった。自分の手落ちをそのような形で償おうとすることは姑息であるばかりか卑劣でしかないからだ。

 

自分は偽善者ではない。人が死ぬを嫌がって、誰彼構わず命を助けてやることは単なる無責任だと了知している。救えばいいというものではない。助けることが正義という訳ではない。捨てられた子犬を拾うたやすさで、人の命を救うという重い決断に納得してはならない。自分はそれをよく知っている。分かっている。救うにも殺すにも覚悟がいるのだということを、主とともに歩んできた自分には誰よりもよく。

 

致命的な反逆に走った光秀を信長の激怒と憎悪から救う手立てはないに等しい。草の根も残らぬ程の掃討作戦をもって男と戦い、滅ぼす他に術はなかった。また、それに対して異存はない。だが、すんなりと頷くにはいまだに少しの抵抗が残っていた。

暫時押し黙る自分の姿に信長は小さく失笑し

「謀反人を救えと、わしに請うつもりか」

そう冗談とも本気ともつかない、揶揄めいた言葉を投げかけた。秀吉は即座にかぶりを振り、いえっと強い口調で答える。

「御意のままに」

言を継いで深く頭を下げた秀吉の頭上から

「安堵したわ。うぬが願わば許しとうなる故」

自嘲とも思える苦笑を含んだ語調で主がそう呟く。秀吉は弾かれたように顔を上げて、眉間に薄く皺を刻んだ信長の面を熟視し奥歯を噛み締めた。

自分が願えば許しがたい裏切りを犯した光秀の命さえも助けたくなると主は言う。信長ならば決して光秀を許しはしないであろうし、誰が懇願しても主の怒りを覆すことはできないはずだった。

 

それなのに。

 

主は自分が請えば許したくなると、だからこそ、請わずに頷いた秀吉に安堵したと言うのだ。異存なしと答えることに僅かでも逡巡した自分を責めることもせず。自分の願いなら聞き入れると明言した主の思いは、ただの贔屓でも愛故の許容でもない。秀吉に無上の信頼を置いてくれている。自分が願うことならば間違いはない、不利を招きはしないと信じているからこそ、許せると信長は言ったのだ。

自分が急に情けなくなり、秀吉は顔をくしゃくしゃに歪め、何も言えなくなって唇だけを動かす。

「異存など……」

絞り出すように掠れた声で呟いて、秀吉は両手を堅く握り締め眉をひそめて信長を見た。

「異存などあろうはずがありゃしません……! それがしは上様を襲った光秀殿を……光秀を許せませぬ……っ」

ようやく本心を吐き出し、荒く吐息して唇が白くなる程強く歯を立てる。

自分は光秀を嫌ってはいなかった。だが、今は違う。主君に対する背信も反逆も、乱世というべき今の時代にあってはさして珍しいことではない。自身がよりよく利益と安泰を得るため、常に様子を窺い情勢に注意深くあらねば、乱れ荒れ狂う時代の苛烈さを乗り切ってゆくことはできない。故に、秀吉は光秀が謀反を起こしたことを責めるつもりは毛頭なかった。

最も憎んで止まないのは、主をこの世から消し去ろうとした行いそのものなのだ。信長を殺そうとした、そのことだけは、どのような償いをもってしてもあがなうことのできない大罪に等しく、秀吉の心を憎しみと怒りで黒く爛れさせる。己を嫌悪する人間すら憎悪したことのない自分が、心の底から光秀を許せずにいた。理知的な思考を取り去った自分の私情は、信長をこの世から消し去ろうとした男を憎み恨み責め続けていた。いかに冷静な思慮で押さえこもうとしても光秀を許すことなどできなかった。許せるはずがない。自身が男を止められなかったという罪悪感も、皆殺しにすぐさま頷けない苦悩も、光秀が憎いという激しい感情を越えることはできない。本当は吐露してしまいたかった。許せない、憎いと怒りに任せて吐き出してしまいたかった。そうしなかったのは、主が無事であったことへの深い安堵と、冷静であらねばならないという頑ななまでに強すぎる自制が、今の今まで秀吉に口を噤ませていたせいだった。

 

主が死んでいたかもしれない。

 

想像するだけで体の血が一斉に下方へと流れ落ち、躯幹から身震いする程の寒気が押し寄せた。秀吉は目端に涙を溜め、血の気を失った顔で項垂れたまま動けずに唇を固く結ぶ。自分のみっともない姿を主に見られたくはなかったが、胸奥に込み上げてくる感情は抑えようもなく恐ろしくて、憎ましくて、辛くて、全身の細胞が冷たく苦い感覚に震え切っていた。

 

「来よ」

 

沈黙していた信長が落ち着いた低音で短く命じる。しかし、中々立ち上がることができず、秀吉は俯いたまま微動だにしなかった。すると、別段苛ついた様子もなく、もう一度、近うと命じられ、なんとか立ち上がってふらつく足を鈍重に進める。主の足下に膝をつこうとしたが腕を取られ阻まれた。そのまま主の手は秀吉の襟元を包み、下を向き続ける顔を上向かせる。

今にも泣き出しそうな顔をしていると自分でも分かった。だが、目一杯強ばらせた顔から一瞬でも力を抜けば、涙が溢れてしまいそうで歪んだ表情を元に戻すことができない。そんな自分を無表情のまま黙って熟視していた主の整った相好が、仕様のないとでもいいたげに微苦笑を滲ませる。

「決して背かぬとうぬは言ったな」

唐突に投げかけられた問いに、しかし、秀吉は理解して、漏れそうになった嗚咽を喉の奥に押しこめる。

 

先に死ぬな。後に生きるな。ともに生き、ともに死ね。

 

昔、主は自分にそう命じた。そして、自分は決して背かないと頷いた。今尚胸に息づくその約束を、秀吉が忘れるはずはない。

「はい……」

震える声で答えると主は微かに口端を歪めた。

「なれば」

囁くような優しい声音で短く言葉を紡いだ主の両腕が大きく広げられ、秀吉の痩躯を力強く引き寄せ、そして、抱擁する。

「然様な面をするではない」

 

視界の端で鳥達が一斉に飛び立ったのを見た。

 

風を切る羽音の最中で耳朶に触れた声音に、秀吉は眼窩の奥から迫り上がる涙を拒むようにして眉間に深く皺を刻んだ。ああと心中で深く溜息をついて、睫を濡らす塩水が頬を伝い落ちてゆくのも構わず、主の胸にすがって顔を埋める。

自分は主に同じ思いをさせたことがある。今自分が感じる、魂が氷りつくような恐怖を主に味わせたことが。金ヶ崎からの撤退の折り、万に一つも生き残ることはできないと思われた殿軍の役目を、自ら引き受けた時に主が見せた顔が脳裏をよぎった。許すと言い放った声の重々しさと痛みを耐えるかのように鋭利な双眼をすがめた苦悶の表情の意味を、今正に自分は痛い程に理解している。

ともに生きると誓った。ともに滅びると約束した。生きてゆくのも死んでゆくのも、二人でなくては。互いを一人にはしない。互いに孤独を与えはしない。その誓約だけは、何者にも砕かれることなく互いの胸に息づき輝き続ける。だから、恐れるなと、見失うなと、そして、悲しむなと、主の言葉なき言葉が、触れている箇所から染み入る温もりとともに心奥へと流れこんでくる。

 

最早溢れる涙を拒むこともせず、秀吉は、はい……と弱々しく答えて双肩を何度もしゃくり上げた。

 

主は何も言わなかった。何も言わず、ただ息苦しくなる程の強さで秀吉を抱きすくめた。必死に腕を伸ばして信長の背や肩にしがみついた自身の耳に、泣くなと優しく宥める低い声が滑り、再び、はい……と答えた秀吉は、堅く閉ざした瞼の合間から滲んでは流れ落ちる涙を堪えることもせず、広い胸板に顔を擦り寄せた。

 

室内に飛び立った鳥達の羽が柔らかく舞い落ち、吹きつける海風に攫われてあてどもなく空へと吸い上げられてゆく。強い風の中で二人、身を堅く絡ませながら立ち尽くした。いつしか鳥達は戻り、再び欄干にとどまって美しい羽を手入れする。彼らの無遠慮さを苦笑することもせず、長い沈黙と抱擁をいつまでも解かずに会話する滑らかさで互いの心を交わらせた。

 

お前だけだ。

ともに生きることを許すのも、ともに死ぬことを促すのも。

貴方だけだ。

ともに生きたいと願うのも、ともに死にたいと望むのも。

 

例えば運命というものがあるとするのなら、それを共有すべき片割れとして側にいることを望むのは、他の誰でもなく。

至上の舞台でともに舞い踊る、魂の伴侶ともいうべき存在は。

 

彼しか、主しか、いはしない。

 

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