出陣を翌日に控えているにも関わらず、城内に満ちているのは緊張でも高揚でもなかった。
参列者は皆、鎧直垂に身を包み、今すぐにでも馬へまたがって城を発することの可能な態勢でありながら、面には鋭さなどかけらもない。その癖、水を打ったように静まり返った姫路城の本丸には、茶筅が忙しく抹茶を掻きまぜる軽やかな音だけがはっきりと聞こえていた。
奇妙な光景だと心中で溜息をついた石田三成は、切れ長の眉を些にひそめて手にしていた鉄扇を強く握り締める。
明智光秀の謀反により、信長が襲撃された動揺と混乱の中で、織田の軍勢は現在播磨と岐阜に分断されている状態である。しかし、幸いにも、信長と家督を継いだ信忠が難を逃れて播磨へ逃げ延びたため、攻め入る光秀の軍を凌いで岐阜でなんとか持ちこたえている柴田勝家、滝川一益の軍勢は、士気を下げることなく予想以上の善戦を果たしていた。信長という巨大な柱が砕けずに生き延びているという状況は、尾張の頃より仕えてきた勝家、一益にとって大きな精神的支えとなっているはずだ。なんとか岐阜を守り抜き、信長が戻るまでの時間を稼ごうと命賭けなのであろう。
また、本能寺襲撃事件の直後、光秀に傾きかけていた大名、豪族達は、播磨から発せられた檄文に信長が生きていること知り、態度を翻して織田方に味方する者が後を絶たない。僅か数十年のうちに数々の戦を平らげ、天下統一の実現に王手をかけた信長の苛烈な処断の恐ろしさは今尚人々の脳裏へ鮮烈に刻まれているはずだ。下手に明智方へ着いたがために、己がその処断の対象となる地獄を率先して味わいたがる愚かな人間はそういない。光秀にしてみても、諸国諸大名への手配を蔑ろにしすぎたというべきであろう。信長存命の報によって一度は手を結んだ大名や豪族達にたやすく翻意されたところを見ると、襲撃前に念入りな根回しをしていない可能性が高い。そうせずともよい確固たる勝機があったのかなかったのかは、三成の想像の域を出なかった。
信長は孤軍となりつつある光秀をいち早く討ち滅ぼすため、重臣から背かれた衝撃を一片たりとも垣間見せることなく、驚くべき迅速さで軍を編成し、秀吉や官兵衛、長秀などに命じて具足や軍馬、兵糧を掻き集めさせ、出陣の準備をたった数日のうちに完了させてしまった。明日には海路と陸路の二手に分かれ京を目指す。数からいっても勝てる戦であることは火を見るよりも明らかだったが、絶対に勝てるという油断や甘えを許さないのが信長という男の凄まじさなのだ。既に明智討伐軍には、捕虜はとらず明智一門、将卒に至るまでを皆まで斬り捨てよという厳命が発せられ、光秀及び、光秀の宿将なる者の首を取った人間には金百貫を与えるという褒賞まで用意されている。この戦で華々しく活躍すれば、今後再び政局の中枢に返り咲いた信長に引き立ててもらえるかもしれないという甘やかな期待が、誰の胸にもひっそりと芽生えているはずだろう。
姫路は日に日に織田方にくみすることを約定した大名、豪族達の援軍で溢れ、ついには七万を越える巨大な大軍勢となった。今回初めて合流した新参の大名達との親睦を深めるため、戦の前に茶会が催されることとなり、姫路城の本丸において茶席が設けられることになった。戦いの前にこうした親睦会が開かれることはさして珍しいことではない。結束を強めるために互いの腹の内を知り、尚且つ、ともに茶を飲み食事をするという他愛ない交流は、簡易とはいえ接した相手に親しみを覚えるには十分だ。結束を強めることによって裏切りを防ぎ、信用されているという安心感を与えて士気を高めることができる。
今にも出陣せんばかりの勢いで準備を整えておきながら、こういった席を設ける念入りさと余裕はさすがに信長といったところであろうか。三成は忌ま忌ましげに歯ぎしりして、鉄扇を握る指先に更なる力をこめた。
大将格の部将とその近習数名が居並ぶ座は、中心にある茶会の主の座、即ち信長、信忠の座を取り囲むようにして円状に配されている。三成の主君、秀吉の席は信長親子と同じく円の中心にある座に配され、長秀ら織田の重臣とともに並んで正座しているので、円状の座の更に末席に座る自分からは敬慕する主の姿は見え辛かった。しかし、並みいる織田の重臣達を差し置いて信長に最も近しい主賓の席を与えられた秀吉の栄誉に、三成は口にこそ出してはいないが胸を張りたくて仕方がない。今回の本能寺襲撃事件で一番の功績を上げ、信長に対する至上の忠義を示したのは他の誰でもなく秀吉である。主君の身を案じて本能寺の警護に手を回し、見事信長の窮地を救って姫路までの逃げ道をも切り開いた。信長はいたく感激し、茶会においても秀吉に主賓の席へ座することを自ら命じた程だ。
三成は我が事のように誇らしかった。これが秀吉様の御力だと、さんざん主を蔑み罵ってきた人間達に嫌という程思い知らせてやりたいと思った。しかし、当の秀吉はというと、特に誇らしげという訳でもなく、平常と変わりない快活な笑みで愛嬌のある面をほころばせている。小さな体躯からは人の心を緩めて溶かしてしまう、底抜けに明るく楽しげな雰囲気が滲み出ており、第一の功労者と信長から認められたという太々しい自尊や偉ぶった態度は微塵もない。だだ、にこにこと笑みを崩さず、茶人に劣らない流麗な手さばきで茶を点てる信長の静かな横顔を熟視していた。
三成は己の主の清々しい謙虚さに深い感動を覚えて、穏やかに感嘆の吐息をつく。傲慢や怠惰を嫌い、常に信長という主君のためを思って一心不乱に尽くして働く秀吉のひたむきさが好きだった。純真可憐とも思える一途さと、生来の天真爛漫さで、困難な任務の数々を率先して引き受けやり遂げてきた秀吉は、単に人がよいというだけでなく、誰もが想像し得ない奇想天外な策略を考えつく卓抜した頭脳の持ち主でもある。そして、父親のような包容力でもって自分達を可愛がり、育ててくれた掛け替えのない人なのだ。
自分を拾い上げ一介の将として取り立ててくれた恩も無論あったが、それ以上に秀吉は三成にとって唯一の主君だった。秀吉が神を信じる無償で信長に至上の忠誠を誓っているように、自分もまた何があっても主への忠誠を覆しはしないと決意している。
三成には秀吉以上に尊崇するに値する人間はいない。信長ですら例外ではなかった。むしろ、忌ま忌ましいとさえ感じている。四六時中、秀吉の心を占めて止まない信長の強すぎる存在感が堪らなく苛立たしいのだ。それだけに、信長と秀吉の間にだけ存在する、目に見えない強い結びつきの合間に入りこめない自分の不甲斐なさが口惜しかった。
常日頃から感じていた。二人は完全に主従であって、互いの立ち位置を厳然と維持し、寸分たりとも揺らぐことがない。だが、彼らの間には何者かが割って入る隙など一片たりともないのだという思いに駆られる、決して壊れ得ぬ何かが漂っている。秀吉の心から信長という男の存在、記憶、崇敬を消し去ることはできないのだと痛感する度に、三成の胸奥は嫉妬めいた不快感でちりちりと焦げついた。
点てた茶を秀吉に差し出した信長の面は、遠目からも冴え冴えとした無表情だと窺えたが、深い暗黒を映す双眼には表情程の冷淡さはないように見受けられる。茶を受け取り器に口をつけた主を熟視する信長の目には、愛しい者を見つめるのにも似た歓喜と熱情が満ちている気がしてならなかった。
自分の邪推にすぎないのだろうか。
三成はふうと深い嘆息をついて微かに俯き、鋭利な視線で左隣を瞥見した。自身の隣には右に黒田官兵衛、左に福島正則が座っており、先刻から正則が恰幅のよい体をそわそわと身じろがせ、興奮した様子で頬を紅潮させているのを目障りに感じていたのだった。秀吉の配下のうち、列席を許されたのは、秀吉の弟である羽柴秀長、黒田官兵衛、信長の四男であり秀吉の養子となった羽柴秀勝、そして、三成、正則の五人で、中でも正則は本能寺における働きぶりを認められ、信長自ら名指しで茶会の席に座することを許された。
本能寺から帰還した後、雲上の人間ともいえる信長と間近に接した正則の興奮は、危機を脱した緊張の緩みのせいか収まる気配もなく、俺が信長様を姫路まで案内したんだぜ! と仲間を相手に胸を張って自慢していた姿を度々目撃している。まるで信長が己の主君とでもいわんばかりのはしゃぎぶりに、三成は正則の単純さを心の底から腹立たしく思っていた。自分達の主は秀吉をおいて他にはいない。信長は単に秀吉の上司というだけの話で自分達の主君ではないではないか。だからこそ、己の主君を守り抜いたかのような誇らしさに満ちた正則の様がどうにも許しがたかった。そう思うのは、恐らく、三成が信長を嫌い、秀吉を敬愛して止まないことも原因なのだろう。
三成は、鬱陶しい奴めと胸中で手厳しく呟き、落ち着きない正則に呆れて大きな溜息をつく。
親睦を深める目的の茶会では皆があまり形式張らず、信長が茶を点てている間以外は、雑談や談笑がそこかしこで聞こえ非常に和らいだ雰囲気である。背筋を美しい直立に位置して、正座に組まれた脚を些少も動かさずに黙っていた三成も油断していると気が緩みそうになる程だった。終始和やかに進む茶会の暢気さに、ともすれば翌日から戦が始まる現実を失念しそうになっている自分がいる。結束を強める交流のために催された茶会ならば、この打ち解けた空気は十分目的を果たしているといえるだろう。
主賓席で茶が振る舞われた後、待機していた侍女達がすかさず響膳を運びこんできて参列者の前に並べてゆく。戦の前ということもあり、膳には山鳥の肉を中心として精のつく食材を用いた料理が、控えめな分量で五品程度置かれていた。腹八分というには適度な量であろう、腹一杯になりすぎず、さりとて空腹を満たせない程でもない。参列者に配慮された品々と量は、戦を前にした諸将の健康へのさりげない気遣いを感じさせて厭味がなかった。信長という男は単に激しい気性で人々を恐れさせるだけでなく、こういった端々のことにも目が利く根っからの凝り性だと言ってもよい。秀吉も信長とよく似て、饗応などにおいては招かれた人々に驚嘆と感動を覚えさせる名人だと言わざるを得ない。こういった細やかな配慮をかいま見るだに、悔しいが、信長が他人に厳しいのも分かる気がした。己があまりにも多才であり、情感が豊かに過ぎるのであろう。凡人の感覚では、そういった特殊な思考を持つ人間を到底満足させることはできないのではないかと思う。自身の前に配された膳を凝視しながら、ふと思い至って三成は渋面になった。俺は認めんと心の中で苦くこぼして、一瞬でも信長の才覚を認めてしまった自分を腹立たしく思いながら箸を手に取る。
不意に、参列者が一斉にざわめいて三成は顔を上げた。何事かと片側の眉を吊り上げ、主賓の座に目を向けると、一旦は配された響膳が再び侍女達に持ち運ばれ、席に座っていた秀吉始め、諸将が三成達と同じ円陣の座に腰を降ろした。円の中心に残ったのは信長ただ一人だったが、参列者は半ば興奮したように歓喜の溜息をつく者もいる。
右隣にいる官兵衛の色合いのない冷淡な横顔をちらりと横目で見ると、気がついた男は黒髪に交じった白髪を微かに揺らし、有岡城で土牢に幽閉された折り、額に負った痣の見目を気に病む風情もなく無感動に顔を傾けた。
「信長様が敦盛を舞われる」
官兵衛は至極淡々した声音で詳細を訊かずとも見事に三成の疑問に対して明確な答えを口する。三成はさして表情を変えることなく、ああ……と見慣れ芸事に飽き飽きしたといった風情で吐息した。敦盛といえば信長が好んで舞う幸若舞で、その中の一節である「人間五十年、下天のうちをくらぶれば」で始まる部分を特に好んで舞うという話は有名である。参列者の中には初めて見る者もいるだろうから、興奮するのも無理なからぬことだった。無論、三成も今回初めて目にするものだが、信長に対する尊崇の感情を持たない自分には感動を覚える程のことでもない。二本の扇を手にした信長から目を逸らし、秀吉の姿を探した三成は違和感に気がついて、揺るぎない強靭を感じさせる巨躯を再度凝見する。
紫紺の鎧直垂に身を包んだ男の手には、確かに二本の扇が握られていた。信長はそのうち一本を利き手に握り、にわかに円陣の座へと歩み寄ると、何者かにもう一本の扇を差し出す。おおっと官兵衛が淡泊な性分の男にしては珍しく興奮した様子で声を上げ、正則が紅潮した面を更に赤く上気させて、この上なく嬉々とした笑顔を浮かべ上体を乗り出す。二人の反応を察するに扇を差し出されたのは。
三成は目を戻した。差し出された扇に怖ず怖ずと小さな手が伸びる。その手首には、三節棒という特殊な武器を弾くための腕輪が二本はまっていた。
反射的に腰を浮かせて円の中心を熟視する。そこには、差し出された扇を手に取り、立ち上がった秀吉の姿が確かにあった。
信長に導かれ、元は座っていた場所に扇を持って立った秀吉は、困惑気味に隣に立つ男の薄い笑みを瞥見していた。しかし、信長と視線が重なり一時見つめ合う。ほんの一瞬とも思える僅かな時間、二人の瞳が互いを映して柔らかく細められ、どちらともなく、その口元に微苦笑が浮かんだ。じきに秀吉の面からは戸惑いが消え去り、背筋を伸ばして信長と並び立つと、二人は互いに計ったかのようにして同時に扇を開く。信長の扇には龍が、秀吉の扇には鳳凰がそれぞれ描かれており、他にあまり見かけたことのない珍しい絵柄にも驚かされたが、何よりも、目の前で繰り広げられている光景に愕然とした。眉間に皺を刻んで苦い顔をしている自分とは違い、両隣の二人は自分達の主が前代未聞の栄誉を授かったことを素直に喜んでいた。
そうなのだ。このようなことは話に聞いたことがない。
あの信長が、いかに寵臣といえども、臣下たる者に敦盛をともに舞うことを許すなどと尋常ではない。秀吉の功績が抜群であったとしても、家臣に対してはまんべんなく厳しい信長の行動としてはあり得ないといっても大袈裟なことでは決してなかった。
そうこうしているうちに、二人は開いた扇をそれぞれ左手と右手に持ち、扇で顔を隠して地に片膝を着く。そして、緊張を感じる程の長い沈黙の後、深い静けさをはらみながら、鋭く鼓膜を貫く低い声が謡った。
敦盛を。
人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり
ひとたび生をうけ 滅せぬもののあるべきか
扇を腰に落として立ち上がり、そのまま扇を持つ手を前へ回しながら、一歩ずつ後退してゆく信長と秀吉の動きは、鏡を合わせたかのようにまったくの対称であり、事前に二人で練習し、示し合わせていたのではないかと勘ぐってしまいたくなる程に一糸の乱れもなかった。扇に描かれた龍と鳳凰の動きが、舞う二人と同じく、ともに舞い踊っている。
ゆっくりと右足から歩みを進め、扇を腰のあたりに落としながら弧を描いて移動した二人は、くるりと前方に向き直り、右足を後ろに払う。そして、一歩下がり扇を上げて一寸手を止め、今度は左に向きを変えて左足から歩いてゆくと同時に、扇を腰へ下ろした。再び弧を描いて元いた場所に立ち、前方に向き直ってから両手を上げ、揺らめくような動作で右へ巨躯と痩躯を傾けてから、扇を腰へ下ろし、今度は左に体を傾ける。そして、その体勢を保ったまま左前方へ進み、左手を下げて扇を上げながら、打って変わって流麗な所作で横を向いて扇で滑らかに宙を切る。
判然とした体格差でありながら、信長の低い声音に合わせて舞う二人の姿は滑稽などではなく、むしろ、目が離せなかった。三成はいつの間にか、眉間に深々と刻みこまれていた不快な皺が完全に消え去っていることに自身気がつくこともなく、心を奪われたように無心で二人が舞う様を見つめていた。他の参列者も同じだ。雑談は愚か、耳打ちすらしている者はいない。誰もが眼前で舞われる二人の敦盛を食い入るように熟視していた。
前方に向き直った二人は扇をゆっくりとした動作で高く掲げ、頭上でくるりとそれを回転させると、一旦腰にまで落とした扇をもう一度胸のあたりまで上げ、滑るような動作で扇を再度腰にまで下ろす。幾分か静止した二人の左足が突如として地を蹴り叩き、一歩づつ後退して、最初そうであったように地へと片膝を着いた。
信長の声が敦盛の節を謡い終えると今度は秀吉が高い声で敦盛を謡い出し、同じ舞いの動作を、やはり少しも乱れずに繰り返す。そして、二度目の舞いが終わり、三回目、二人の声が同時に敦盛を謡った。
誰もが息を呑んだ。むしろ、微かな呼吸音すら憚られるように自ら堅く口を噤んだ。
信長の低い声音と秀吉の高い声音が糸のように織り合わされ、音楽にも聞こえる精妙な一つの音色に溶けてゆく。
三成はへたりこむようにして浮かせた腰をその場に落ち着けた。同じ動作を三度繰り返して舞う敦盛の、このように例のない振りつけは初めて見るものだった。しかし、二人の舞いが人の目を奪い釘づけにするのは、単に物珍しい振りつけで舞っているということが理由ではないと三成には分かっていた。
人は誰しも真の意味で理解し合うことはできない。血の繋がりがあろうとなかろうと、別個の人間として生を受けた時から人の魂は永遠に孤独である。寄り添い合うこともできるが、一つのものとして同調することも共鳴することも、ましてや、融合するのに近しい濃密さで溶け合うことなどできはしない。誰しもが他人の踏み入ることができない不可侵の領域を持ち、生きて思考を続ける限り、様々に色や形を変えてゆくその自我は他人と完全な共鳴を果たすことなど不可能なのだ。時と同じく人の思想や性情も不変であり続けるものではない。
だからこそ、人は絶え間なく孤独を抱える。決して満たされないと知りながら、孤独の中で飢えにもがき苦しむ。揺らめく移ろいの中で同じ形を、同じ色を、心のどこかで常に探し求めている。生きることを長い旅路に例えるのならば、恐らくは死という終着点まで、生命とは探求であり続けるのだろう。
だが、探し求めたものと巡り会ったとしたら、生まれ出でる前に己の背からもがれた片側の翼を取り戻したとしたら、人はきっと深い孤独の底から解き放たれ、永劫の自由を得るだろう。かつて地より見上げるだけに過ぎなかった、高く広大な空へ還る日が訪れた時の幸福を、無上の喜びを知る。誰もが探して続けている、魂の半身ともいうべき伴侶との巡り逢いだけが、地に棲む獣に天を翔る翼を与えてくれるのだと。
眼前で舞い続ける二人を見ていると、運命などという感傷をすら素直に信じてしまえた。理知で固められた無感動な自分の心にすら、筆舌に尽くしがたい高揚をもたらす二人の姿が、彼らを見つめる他の参列者にも、ともすれば涙がこぼれ落ちそうな深い感銘を与えていることは熟慮するまでもなく知れた。
三成は己の心中で絡み合う複雑な感情に唇を些少噛む。
悔しかった。自分が主の片翼であり得なかったことが。
羨ましくもあった。何者の手をもってしても断ち切ることのできない鉄鎖の絆を、惜し気もなく、明け透けに奏で出すことのできる二人の情熱が。
だが、不思議なことに三成の口元には笑みが滲んでいた。胸が躍るような高揚を感じていた。許されるのなら自分もまた二人のかたわらに立ちたいと、我ながらがらにもなく浮足立ち、鼓動を速める熱い喜びが確かに胸奥を震わせている感覚に体中が舞い踊りたいと力み出す。合わせ鏡のようにぴたりと左右対称の動きで紡ぎあげられてゆく麗しい敦盛の舞いが、三成には好き勝手に地を蹴り、手を振って踊る子供の姿に重なって見えた。これから戦に赴くことなど少しも感じさせない、戯れに笑い合い、喜々としてじゃれ合う幼子の姿に。
高鳴る胸に沸き上がる高揚とは別に、心の奥底は揺るぎない安堵に満たされてもいる。三成は気がついて涼しげな双眼をやんわり細めた。
まるで、そう、これは、この二人の姿はまるで。
美しい世界に平穏をもたらすために舞い踊る幸福の獣。その牙は、その翼は、天を統べる王の資格を兼ね備えた唯一無二の存在として、はるかな高みに君臨する輝き。
それは結ばれることを約束された伴侶とともに歓喜を謳い続ける、龍と鳳凰の。
ああ……と心中で溜息を漏らし、三成は眉間に淡く皺を刻む。鉄扇を握る片手が緊張や苛立ちのせいでなく汗ばんでいた。
これは共鳴なのだ。誰とも交じり合うことのできなかった二つの魂が、ようやく巡り合い結ばれ、ともに響き震えながら奏で出した一つの歌であり、二つの孤独と孤独が邂逅し、運命という名の道を織り上げていったその軌跡をなぞる至高の舞踊。同じ波長を持って響き合う鼓動を、同じ温度を持って溶けゆく心を、同じ色を持って鮮やかに染まりゆく魂を重ねて確かめる、まるで戯れにも似た美しい儀式なのだ。
扇の龍と鳳凰が二人の動きに合わせて舞い踊る。やがて、終焉が訪れようとする舞いの最中で二人の視線が互いを追い、重なり合って、熱く見つめる瞳を解けぬままに左足で地を叩く。信長と秀吉の間には歩幅一歩程度の僅かな距離があった。だが、他愛ない距離を隔てる二人の無表情な面に、張り詰めた躊躇いと切なさ、そして、歓喜が色もなく滲んでははかなく消えてゆく。
きっとこの場にいる誰もが思っている。平常なら馬鹿馬鹿しいと切り捨てる感慨を、今この時、誰もが当然のことのように抱いている。
二人の王がいる。二人だけのために用意された至上の舞台で、戯れ合いながら舞う二人の王が。
ついに片膝を着いて舞いを締めくくった信長と秀吉は暫時静止していたが、鷹揚に立ち上がって、舞いと同じく、やはり同時に扇を閉じる。ぱちんと重なって響いた軽快な音に、恍惚と二人の敦盛を熟視していた皆々がはっとした。我に返って自分達が何故放心していたのか考える間も惜しんで手を打ち、半ば狼狽しつつ舞いの素晴らしさを称えた。
信長は参列者の反応を見て、口角を苦笑に歪め隣を一瞥して憮然と溜息をついたが、秀吉はそんな信長を見て、宥めるように眉を八の字にひそめ苦笑いを浮かべていた。
ふと、気づいて、手にしていた鳳凰の扇を信長に返そうと思ったのか、一歩踏み出した刹那、秀吉の体ががくりと傾き地面めがけて勢いよく倒れこむ。倒れた瞬間跳ね上がった両足とともに、誰かがしまい忘れた懐紙がひらりと宙を舞って、ゆらゆらと左右に揺れながらうつ伏せに卒倒した秀吉の頭上に舞い落ちた。
場が唖然とした沈黙に包まれる。信長もまた、口唇を真一文字に結んで足元の秀吉を見下ろした。秀吉は、あいたた……と呻いてなんとか顔を上げると、鼻先を押さえて信長を見上げる。しばしの間、黙って見つめ合っていた二人だったが、秀吉が頭を掻いて気まずそうに、へへ……と小さく両肩をすぼめて笑った。すると、信長は秀吉の情けない風体に喉を低く笑いでうごめかせていたが、次第に肩を揺らし堪え切れないといったように上体を反らせて、あっはっはっと大声で笑い出した。秀吉もまた、ははは……と控えめに笑っていたが、信長があまりにも豪快に笑うので、そのうちつられて、あはははっ、あはははっとうつ伏せの体勢で笑い始めた。
二人の様子に参列者の合間からも笑い声が漏れ始め、じきに皆の笑い声が重なって高く空へと響き渡る。三成もいつの間にか笑っていた。平素では考えられない程に大口を開けて思う様笑っていた。何がおかしいのかは分からない。だが、気持ちがよかった。ただ無性に笑いたくて、晴れ晴れとした歓喜に胸をくすぐられるまま笑った。
胸中に蒼穹を抱いているかのようにこの上なく爽快な気分は、繁雑な思考の一切を忘れさせる。三成は清々しい幸福感に目を閉じて微笑むと、片手で顔を覆って尚も笑い声を上げ続けた。快哉と続く皆の楽しげな声に負けじと、腹の底から愉快に、喜ばしげに。