天正五年(一五七七年)
貴重品を扱う慎重さでもなく、慣れ親しんだ道具を引き寄せる乱雑さでもなく、触れることが当然であるかのように触れる。
確かめる強さで、暴く細やかさで、肌を通過し心の奥底をなぞる丁寧さで、指先と唇が、手と視線が、溜息と温もりが触れられる場所のすべてへと滑りこみ、甘くほてりを残して躯幹を焼いてゆく。
頬を撫で上げるてのひらの皮膚は堅く、刀の柄に刻まれた紋様に沿ってできた、たこが奇妙なこそばゆさを感じさせた。解けた髪を弾く太い指は、繊細さをまるで知らない無骨さを思わせながら、至極丁重に、くすぐったい程の優しさで髪の一筋まで愛おしむように梳いてゆく。研ぎ澄まされた暗黒をたたえた双眼はあられもない恥態をさえ容赦なく嬲り、熱い口づけとともに耳朶をよぎる吐息に血はなまめかしく焦げついて、いつの間にか、抗うことも拒むこともできなくなってしまう程に、心を理性を溶かし落としてゆく、ひたすらに自分を役立たずにさせる恐ろしい感触と愛して止まない感覚。
何故、あんなふうに触れることができるのか不思議で、何故、触れられるだけで嬉しいと思えるのか滑稽で、その手の、唇の、瞳の、届かない場所へ逃げたいと臆病に震える困惑や羞恥は、今となってしてみれば懐かしい昔の出来事であり、いとけない戸惑いに過ぎなかった。
くすぐったいような、安心するような、そんな温かさと同時に、焼けてしまいそうな、目眩がしそうな、激しい熱さを抱く彼の人の手に、己のあるがままを知られてゆく度、繋がる絆は離れがたく強く互いを結び合って、いつしか触れることはただただ自分達の間に横たわる距離を消し去るための手段へと変わった。幼い自分達が無我夢中で重ね合った恋しさとも違う、互いを信じ切れずにいた未熟さを責めるように叩きつけた悲しみとも違う、今愛しさは揺るぎなく胸に息づき、心を静かな炎で温め燃やしてゆく。胸を震わせ尽きることなく溢れて止まない感情を一瞬たりとも忘れえぬように、手触りとして記憶として残すために触れ合うことの心地よさは、とろける安堵とともに無上の喜びを自分に与えてくれる。肌と肌が詳らかに馴れ合う程に、自分のものとは違う温度が皮膚よりも深い細胞の奥底まで刻みこまれてゆく至福の時をもたらす、彼の人の指先、唇、てのひら。自分もまた、彼の人が自身に触れるのと同じように、あの鋭く美しい巨躯に触れてみたいと思う。そこに自分の温度を残したいと思う。
触れられることに脅えるみたく震えていた昔の己からは考えられもしない望みだった。こんなふうに触れたいと思うこと自体が、羞恥と忠義に枷された自分にとっては有り得ないことと言っても過言ではない。長い時間を要しても、なかなかには取り去ることのできなかった消極性が、ここ数日の余暇の間にゆるゆると解かれ、羞恥を覚えるくらいに自分を素直に強欲にさせる。きっと、彼の人に夜も待たず愛されるが故に、色めいた大胆さを身につけさせられたせいなのだろう。欲した時に欲し、貪欲なまでの率直さで自分を求める苛烈さに長年翻弄されてきたせいなのだろう。どうしようもないと分かっていても、自身の願望に抗いたくなるのは、辛うじて残された理知が必死に無欲であることをこの身へと強いるせいだ。ちりちりと焦げつく本心と理性のせめぎ合いは、しかし、彼の人が肌に触れた瞬間には白化し燃え尽きていってしまうというのに、悩ましく頭を痛めること自体が愚かしいに決まっていた。
ああ、これだから……と内心苦く呟いて、羽柴秀吉は思わず片手で顔を覆った。
顔に微か迫り上がる熱っぽさで、自身の目の下が赤く染まっていることは容易に想像がつく。ぐっと奥歯を噛み締めて、喉の奥に滞っていたほんのりと熱い溜息を口内で霧散させ、微熱を訴えるように内側からじんとしたほてりに焼かれる自身の痩躯を小さく震わせた。
押し寄せる眠気は幾分ましになったとはいえ、脳内の回転は甚だ鈍く、平素と同じ活発を取り戻すには明らかに睡眠時間が不足しているのだと自身でも分かっていた。気を抜くとすぐにぼやける意識に半ば辟易しつつ、秀吉はさして乱れていない襟元を更に正して、半身を預けていた柱から痩身を起こす。下肢に力が入らないため、柱から体を離すと足を揃えて座ることもままならない。止むなく両手を畳について、ゆっくりと体の向きを変えてから再び柱にもたれると、秀吉は、んっと小さく呻いて眉間に淡く皺を刻んだ。
同じ向きで体を預けていると、柱に触れている箇所が預ける重みで次第に痛くなってくるので、億劫ではあってもある程度時間が経ってから柱と接する体の部位を変えなければならない。再び上体を柱に預けてほっと一息ついた秀吉は、肩に羽織った帷子の袷を握り締めて、些少ぼんやりとした双眸を晴れ渡る空に向けた。
病を発した訳でもないというのに、ここ数日、体は常に奥底からぞくぞくとした寒気を感じており、肌よりも身体の内部が甘いほとぼりを蓄えている。今とて、血管からねっとりといやらしい蜜が分泌されているようで、熱に浮かされるみたく堪え切れない不足感を覚えていた。いたたまれなくなって両目を堅く閉じると、じんとした痺れとともに四肢の末端へ、筆舌に尽くしがたい淫猥な感覚が走り抜け、夜毎自身の体を細やかに暴いて貪る巨躯の荒々しさと力強さを否が応にも思い出す。自身の痩躯が奇怪な反応を示していることは分かっていたが、不満げな熱っぽさをどうすることもできず、落ち着かない下肢を持て余す他ない。唯一吹きこんでくる秋風の涼しさだけが熱を快く冷まし、普段の自分にあるまじき望みを抱く恥ずかしさと淫らさを少なからず慰めた。
秀吉は身にまとった小袖の裾に素足を隠して、冷たくなっていた爪先に体温を与え、ほうと小さく吐息して柱にこめかみをぶつける。
昨夜は昼頃から延々と寝入ってしまったこともあり、適度に肌を温める日差しの心地よさに微睡みを誘われはするものの、眠気を我慢し切れない訳ではなかった。しかし、体躯につきまとう疲労感は解消されることはなく、活発に動き回ることを好む秀吉の身を、初秋の日向がわだかまる縁側へと縛りつけている。これでは清洲に滞在していた昨日と同じだと、珍しく腰の重い自分自身に少々呆れながらも、なにとはなしに口端へ苦笑がよぎった。
自身が世話をせねばならないはずの主が、今現在、鷹狩りで不在であるという点においても昨日と同じ状況だ。これで主が鷹狩りから戻り、自分を……と考えてから秀吉は頬を紅潮させて眉をしかめる。そこまで、おんなしにならんでもええわいっと胸中で喚いて一人苦虫を噛み潰したが、一度顔に広がった熱はなかなか引く気配がなかった。
甲斐から発し駿河、遠江、三河を回って、尾張の清洲、岐阜を経て安土城へ帰還するという、主君、織田信長の長い休暇のうち、安土へ至るまでの後半七日間に同行することを命じられた秀吉は、昨日宿所とした清洲城を発ち、岐阜に至って現在岐阜城下の千畳敷に滞在している。
金華山の頂きに天守を持つ岐阜城は非常に奇妙な造りになっており、山麓に御殿、即ち公邸と千畳敷という私邸の他にこじんまりとした天守が存在し、山頂の天守へ続く道は麓にある私邸の敷地に入らなければ通ることができない。通常、城主は山頂の天守で朝夕の寝食を済ませ、山麓の天守では日中の公務を行うが、そのためには毎日頂きから麓、麓から頂きへの道を往復しなければならず、ある種、心身ともに壮健であることが城主の第一条件ともいえる城である。
安土城へ移住する以前、信長が使用していたこの城は、現在嫡男として織田の家督を継いだ信忠が城主を務めているが、やはり日々の登山下山は馬を用いたとしても億劫であるのか、五日のうち三日は山麓の天守に留まっているとのことだった。
甲斐侵攻の後に信濃から直接岐阜城へ帰陣した信忠は、岐阜へ入った信長の一向を出迎えて以後、御殿で顔を合わせた際、その話を耳にした父親に、けしからぬと早速叱責を受けていた。
当の信長はというと、岐阜城にいた当時、一日も欠かすことなく日々の登山下山を繰り返していたのだから信忠には反論の余地もないだろう。何せ剛健という点においては、ずば抜けている主のこと、今とて病に倒れることも皆無に等しく、成した子の数も二十人以上と、多忙な生き様を考えればその精力たるや、なんとも見事という他ない。そして何より、褥における苛烈な旺盛さをいやという程熟知している秀吉にとってしてみれば、天守から天守への往復路など、信長にはさしたる苦ではないことぐらい想像にやすかった。
駿河から岐阜に到着するまでの間、幾度となく主に挑まれ、その度に逐一受け入れてきたことを考えれば、羞恥とともに信長と自分の体力差を歴然と痛感してしまう。秀吉自身が生来小柄なため、瞬発力や敏捷さという面では突出してはいたが、華奢な体格が如実に表すように体力、腕力は常人よりも劣る。だが、逆に主はといえば、家中でも抜きん出て背が高く、幼少より水泳、馬術、武術鍛錬を欠くことのなかった肉体は鋼のごとく鍛え抜かれ、筋力ばかりではなく持久力についても極めて優れた性能を発揮する。そんな主の巨躯は尽き果てるという言葉を知らない怒涛のようですらあった。並大抵などという程度でないことは、初めて主の両腕に抱きとめられた時から気づいていたことだ。子は親に似るといっても、信忠が主と同じ体質、強壮を有しているとは限らない。故に信忠が億劫がるのも無理なからぬことではあるが、主がそれを叱責するには怠惰であるということとは別に防衛上の問題もあった。
わざわざ天守を行き来するのは、朝や夜など人間が最も油断しやすい時間帯にこそ城主がより安全な場所に身を置く必要性があるとともに、居場所を曖昧にすることで暗殺や奇襲による生命の危険を極力回避するという目的がある。麓の天守に常駐していれば敵から攻め入られた際、二の丸や三の丸に配した兵は結局麓まで下山するはめになり、堅牢な城も守るべき城主が最前線に身を置いていたのでは些少の役にも立ちはしない。また、仮に城主が急いで山頂の天守に戻るとしても、登山の最中に敵方と違えられ味方に攻撃される恐れもあり、ただでさえ情報の入り乱れる戦場で更なる混乱を招かねざるを得ない。そうした大事を失念し、日々の言動をおざなりに構えていると、緊急時の対処にも自ずと緩みが生じる。信長が、けしからぬと腹を立てるのは、そうした意味があったし、信忠もまた叱責された理由を理解できない程暗愚ではなかった。
今朝方から信長は信忠を連れて鷹狩りに出ている。岐阜城から安土城へ居を移してからさほど年月が経っている訳でもないので、岐阜における鷹狩りは久方ぶりという程大袈裟なものではない。自分もまた同行しようとしたが、これまた昨日と同じく、休んでおれと主に宥められ、止むなく私邸である千畳敷で一人無聊を持て余している最中である。
とはいえ、馴れた土地での鷹狩りは主にとってしてみれば、すぐに飽きのくる遊興と変わりがないだろう。昨日よりも早く屋敷に戻ってくることは間違いないと予測がつき、秀吉はなんとか眠らずに信長の帰りを待っていた。
秀吉が身を置く座敷は屋敷の一際奥まった箇所にある部屋であるため人の訪れはなく、縁側から眺める庭園へ舞い降りて、地面をついばんでいる小鳥達が時折高くさえずるだけである。涼風の中を淡く注ぐ日差しは静けさを伴い、一層優しく痩躯をいたわって疲れを溶かしてゆくようだった。
秀吉は心地よさに目を細め、背伸びをしてゆっくりと吐息する。
自身にとって岐阜城は懐かしいと例える程過去の存在ではない。近江、長浜の地を与えられるまでは岐阜城下の武家長屋で過ごしていたのだから、久しぶりだという感覚はあっても懐かしさを覚えるはずはないのだが、この城だけは勝手が違う。岐阜城は秀吉にとって強く印象に残る城であり、今現在の立場を思うとひどく感慨深くもあるのだ。
主が城下一帯の地を岐阜という名に改めた際、城の名前も岐阜城と改称されたが、元は稲葉山城と称されていたこの城は、美濃にあっては難攻不落と謳われた堅城であった。山という地形を利用して築かれた要塞として何人の侵攻をもはねのけてきた城は、頂きの天守閣へ至るまで中腹には二の丸、三の丸を擁し、高みにあることで尚有利に防御を固めることが可能で、下から山を登り攻め入ってくる者があれば、投石や矢などによってことごとくを打ち払われることになる。狭い山道では大軍を動員することもかなわず、天守へ到達する前に反撃を受けて敵は潰走することになるだろう。加えて、頂きへ至る道は極限られており、城の背後から奇襲をかけることも到底不可能と思われていた。
だが、秀吉はその城を攻め落とす契機を作り、稲葉山城攻略において最大の功績を成した。当時、斎藤家の禄を食んでいた竹中半兵衛を調略して味方につけ、「今孔明」と称される知略を有する男から情報を得て、天守の裏手へ通じる間道があることを知った秀吉は、僅かな手勢を連れて道ならぬ道へと分け入り城へ奇襲をかけた。現在も自身の馬印として使っている千成り瓢箪の由来は、山頂の天守閣を陥落させた際に己の手で合図として掲げた瓢箪に基づいている。功を成すごとに一つづつ瓢箪を増やし、主君への感謝と家臣への慰労を表した千成りの馬印の最初の一つ目を掲げた、それがこの稲葉山城であり今日の岐阜城だった。がむしゃらに主とともに歩むべき道を探し、ひたすらに功を上げることに勤しんだ自分の大きな一歩はここから始まったのだ。
稲葉山城攻略に尽力したとして馬印を掲げることを許され、武士としての地位を認められた最初の場所に特別な愛着がないはずはなかった。
平常、元結できつくまとめ上げている髪は、外出の予定がないこともあり、今は黄金に紫の布をはめこんだ愛用の髪留で乱雑に結わえている。頭を些に揺らしても、馬の尾っぽのように長く垂れた髪が動きに合わせて左右に振れ、心なしかいつもより軽く感じる頭をそれでも重たげに持ち上げて、秀吉は庭先から覗く金華山の紅葉に双眸を細めた。
「あん頃は……毎日が戦みたいなもんじゃったわなあ……」
のんびりと独白して苦笑いを口端に滲ませたまま、鈍重な動きで再び柱にもたれていた体躯を起こして位置を変える。
岐阜城を掌握した頃、多忙という点では今と大差ないはずだったが、与えられた職務のすべてが危急に行わなければならなかったという部分では大きな違いがある。戦争にせよ、外交にせよ、確実性とともに迅速であることを求められ、皆が皆、東奔西走、始終働き動き回っていた。足場を固めて間もない段階で周辺他国に多くの敵を抱えていた主にとっても、また自分にとっても、綱渡りに修羅場を乗り切ってきた緊迫の時期でもあった。それを思えば、各地方の遠国へ撃って出ることが急務と定められた現在の忙しさは、まだしもゆったりと思案を巡らす余地があった。
まっ、大事にゃ時間がかかると相場は決まっとるがと心中で呟いて、秀吉は鮮烈に視界を染め上げる樹木の緋色に微かな感嘆の溜息を漏らして瞼を伏せる。
暇というのではなく、時間が余るということにどこか慣れずにいる自分がいた。信長に士官してから今日まで、忙しい日々が途切れたことは滅多にない。しかも、主の休暇につき添うという名目で同行しているはずの自分が、鷹狩りに着いてゆくでもなく、信長の帰りをただ待つだけという状況に、良いのだろうかと小さな危惧さえ覚えた。とはいえ、信長の命じたことであり、行きたくとも体がいうことをきかないので止むを得ないといえば止むを得ないことではある。こき使われている方が落ち着くというのも妙な話だが、はよ帰ってきて下され……と小声でこぼして眉を八の字にしかめた秀吉は途端に、はっとして細い首を左右に振った。いや、もそっと遅くても……と自身の言葉を翻し、眉宇を濁して頬の上に迫り上がる熱を追い払う。主が帰ればまた自分は、堅固な筋肉をまとう両腕に抱きとめられ、日も沈まぬ内から苛烈な白熱に繋ぎ止められてしまうだろう。拒む気はない。抗う理由もない。しかし、これ以上、自分の体力が主につき合い切れるのか、自信がまったくなかった。改めて、主の底知れない壮健に頭を抱えて、秀吉は、せめて手加減頂かにゃ、身がもたん……などと胸の内で吐露し、顔をしかめたまま頬を赤く染める。
体力が続かないとこぼすのには理由がある。秀吉が同行した七日の内、今日を除けば信長に触れられなかった日は合流した初日のみだ。ほぼ毎日といえる頻度で要求される激しさに、体が奇妙な甘みを記憶し羞恥を緩ませ、あらぬ望みを自分に抱かせて止まない。主が自分に触れることは、既に当然といえる位に自然のことになってしまった。しかし、主が触れるように自分は精悍な肉体へ触れたことがあっただろうか。淫らな意味合いではなく、ゆっくりと、鋭く歪みなく整えられたその造形を確かめてみたいと思う。てのひらに、指先に、主とともに酷烈な時代を生き抜いてきた強靭な生命を宿す身体の美しさを、小さな傷痕も余すことなく感じてみたい。そして、その麗しい強さに自分は抱擁されているのだと改めて実感し、悦びに喜びを重ねたい。
自分の温度を主の身に残せたらと思う。
自分が己の全身で主の温もりを記憶し焼きつけるように、長く離れていても忘れないように、否、忘れられないように。今しかそれができないことを了知しているからこそ、平素の頑なな自制を捨て去ることに躊躇いもせず、純粋に主に触れて欲しい、触れたてみたいと望まずにはいられなかった。
これだから……と再び呟いて、秀吉はやんわり唇を噛み、眉根を寄せる。頬よりも体の奥底がぞくぞくと熱く、身内で疼くこの温度も、今宵主の手で暴かれるのだと想像するだけで首の裏側が痺れるように粟立った。いたたまれなくなって柱にすがり俯いた秀吉は、ああっ、今帰ってこんで下されぇ! と心中で情けない悲鳴を上げ赤く染まった顔を懸命に手の甲で擦る。
だが、必死の願い虚しく、廊下を踏み締める荒い足音が座敷に近づいてくる音を耳にした。秀吉は両手で軽く頬を叩いてなんとか紅潮を引かせながら、中々いうことをきかない両脚をなんとか揃えて正座し、主屋の方へ続いている廊下をじっと見つめる。一定の調子で廊下の板を踏み鳴らす足音は、あっという間に近づいて大きく響き、予測に違わず、主、信長が颯爽と姿を現した。秀吉は一度立ち止まった己の主君に叩頭し
「お帰りなされませ」
と出迎えの言葉を口にする。声が微かにかすれてしまったのは、胸中の動揺を隠し切ることができなかったせいだろう。頭を下げたまま待っていると、微かに主の笑う気配を感じ取り、自身も口元を微かにほころばせた。
「待ち侘びたか」
心地よい低音が揶揄しているのか、それとも試しているのか、心臓が高鳴る程優しげに穏やかに問う。秀吉は面をゆるりと上げ、口角を吊り上げた信長を熟視し柔らかく笑った。
「はい」
平素ではありえない素直さで答えても、主は別段意外そうな表情も見せず、大股に歩みを進め秀吉の目前で立ち止まった。
鷹揚に主の腕が伸び、屈んだ巨躯に視界が遮られる。瞬きをした刹那に軽々と引き寄せられ、あっと小さく声を上げた時には主の唇に言葉を攫われていた。腰を抱く腕がするりと下方へ落ち、大きなてのひらが帷子の裾をめくりあげ、小袖の上から尻の輪郭を丁寧になぞる。ひくりと肩を揺らして喉を震わせると、噛みつくように唇をついばんでいた主のそれが僅かに離れ、頬を軽く滑り目の下に音を立てながら口づけた。
頭の後ろから、かちりと髪留が外れる音が聞こえ、まとめ上げられていた髪がふわりと肩に流れ落ちてくる。解かれた髪に指を絡めながら顎をやんわりと持ち上げる手はゆがけに包まれていたが、てのひらの熱さは布を介していても鮮明に伝わり、とくんと心臓が高く跳ねて、秀吉は熱くなる面が主の視界に映らないよう懸命に顔を背ける。上様と喘ぐように呟くと耳朶に淡く歯を立てられ、思わずこぼれそうになった甘い溜息を辛うじて飲みこんだ。
やはり昨日と同じだと、とろけてゆく思考の最中で思う。清洲城でも鷹狩りを行った主、信長は屋敷に帰り着いて早々、秀吉が休んでいた奥座敷へやってきた。そして、清洲城で過ごした若かりし頃を回顧しながら、あるいはそれは自分だけであったかもしれないが、緩やかに肌を交えた。自分もまた拒まなかった。抗いもしない。かといって、ただ受け止めるのではなく、自ら望んで受け入れたのだ。
一日でも、一刻でも、一刹那でも惜しい。側にいる時間を一瞬でも長く濃く感じるために、躊躇も羞恥も頑是なさも投げ捨てて、目の前にある欲した温度の確かさに迷いなく手を伸ばす。遠く長く離れてゆく互いの存在を少しでも傍らに留めるために、呻くがむしゃらさで互いを手繰り寄せて口づける。この七日間の休暇は、主と自分にとって距離を埋める手段であり行為として与えられなければならなかった時間だった。言葉すら煩わしく感じる程に、もっと強く抱き締めて欲しいと、もっと激しく求めて暴いて欲しいと秀吉自身が望んでいる。明日、安土へ帰陣すれば次に会える時はいつかなのか、約束をすることすら許されはしないと痛切に分かっているからこそ、主従という圧倒的な壁に遮られる切なさを互いに一人で耐え抜く強さを積み重ねる。今日まで、この岐阜城にいる今日という日までが、純然と主のものとしてだけ在る自分でいられる時なのだと自身に言い聞かせる度に、脳内で自制を強いる照れや恥ずかしさが弾けて消えてゆく気がした。
そろりと手を伸ばして信長の胸にしがみついた秀吉の細い背中を鋼のごとく強靭な両腕が包みこみ、華奢な体躯はすっぽりと主の胸に収まってしまう。おとなしく厚い胸板に頭を預けた自分の顎を主がてのひらに乗せ、ゆるりと上向かせられた。言葉を交わすよりも雄弁な視線がかち合う。互いに表情もなく黙って熟視した後、どちらともなく、ふっと小さく笑いをこぼした。すると、軽く唇で唇をなぞるように触れるだけの口づけを落とされ、耳朶を舌先でからかうみたく撫でられて、そして、顎の付け根にやんわりと歯を立てた主は秀吉の首筋に顔を寄せ、抱き締める腕に力をこめる。襟元から僅かに覗く肌に甘く噛みつきながら、項に顔を埋めた信長が、秀吉の皮膚に染みついた主自身の匂いを静かに吸いこみ、揶揄するみたく、くっと短い笑いで喉を鳴らした。
幾度となく体を重ねて自分の全身にすりこまれた信長の香りは日を負うごとに色濃く艶めいた甘さを放ち、主を満足させるとともにその強固な理性をちりちりと焦がして灰にしてしまうということを秀吉は知っていた。
綾藺笠と腰刀のみを取り去っただけの狩装束そのままに、射籠手をつけた太い腕に堅く抱きこまれて身じろぐこともなく、秀吉はただ成されるがままに身を預ける。
くんと鼻を鳴らして微かに空気を吸いこむと、信長が平素から衣服に薫き染めている香の匂いはむしろ自分の痩躯から強く放たれ、主の身体からはつい先刻まで野にいたことを示すように草いきれの名残が匂い立った。草花の青臭さに、昔、草原の中で互いを知り尽くした時のこそばゆい愛しさが蘇り、胸の奥がほんのりと熱く締めつけられる。あの頃と少しも変わりなく、自分を愛おしんでくれる主の真摯と一途を、同じ強さと深さで愛しいと思った。
青草の匂いに鼻先を埋め、秀吉は茫然と、触れたいと心の奥で呟く。触れられるばかりでなく、主に触れたい、触れてみたいと、そう、陶然とぼやける思考の最中でも強く欲した。だが、口に出して望もうなどと考えていた訳ではない。考えていたはずではなかったのだが、主の胸に抱かれる心地よさに自制が緩んだ。一生の不覚といっても決して大袈裟ではなく、秀吉はつい
「信長様……」
とねだるような甘い声で気づけば主を呼んでいた。呼んでから即座にはっとして、心中、しまった! と叫んだが、口に出してしまった以上取り消しはきかず、なんでもないとかわしてしまうには、どうにも相手が悪すぎる。自分の二の句を待って無言で秀吉を凝視する信長の目線から堪らず双眸を逸らして、伏せた視線をさまよわせながら、あー……と曖昧な言葉を発した秀吉は、止むを得ず、さもなんでもないといった風情を取り繕って顔を上げる。
「やっぱ、いいっす」
些少引きつった笑顔で頭をかいて軽快な口調で言うと、主の片眉があからさまに胡乱を含んで不機嫌そうに跳ね上がった。
「言うてみよ」
眉間にうっすらと皺を刻んだ主に問い詰める強さで命じられ、秀吉は声なく、ああっやっぱり! と予測通りの反応をする信長に声なく叫んだが、なんとか面に止めた笑みを崩すことなく、はははとわざと声を上げて笑い目を逸らした。
誰しも、まるで何かを請うように名を呼ばれれば気にかかるものだろうが、一度発した言葉をうやむやにされることを特に嫌う主の性分ならば、口にすることを躊躇った言葉を、必ず自分に吐き出させるまで追及の手を緩めないことは察しがつく。誤魔化したまま素知らぬふりを貫き通すことが最も不可能な相手に迂闊な言動を取ってしまった。しかも、やっぱりいい、などと答えてしまった時点で、主になにがしか言いたいことがあると気取らせてしまったのも失態という他ない。
だが、本来ならば、主君に触れるなどということは、特殊な場合を除いて非礼にあたることなのだとも分かっていて、素直に望むには己の立場を顧みる遠慮が勝った。いかに休暇中とはいっても、主と自身の立場は主従という枠からは脱しきれはしない。信長に求められるまでは触れたいなどと、自分ごとき立場で口にすべきではないのだ。
浮かれすぎじゃと胸中で自身を苦く叱責して、秀吉は訝しげな目を向ける主に満面の笑顔で応じる。
「いや、本当にいいっす。お気になさらんで下されませ」
両手を振って申し訳なさそうに信長を見上げると、主の端麗な面が殊更険しくしかめられた。ゆがけに包まれた手がおもむろに伸びてきて
「言えと申しておる」
言うや否や、いきなり耳を掴まれ引っ張られる。唐突に襲った痛みに、びくっと体を跳ね上げた秀吉は、首を振ってもなかなか耳から離れない主の指に、あいたたたっ! い、痛いっすよ! と涙目で訴えて上体をのけ反らせた。自身の風体をふんと鼻で笑い飛ばした主は、手を離すと睥睨する強さで凝見し、無言のまま白状することを促す。秀吉は耳を押さえて、いてて……と呟いたが、やはり逡巡してしまい咄嗟に苦笑いを浮かべて、尚も誤魔化しに徹した。我ながらの頑なさに呆れてしまうものの、口に出したところで自分の望みは許可されることなどないという諦めが、いっそ伝えてしまった方が冗談で済まされるはずの願いを頑固なまでに喉元へと滞らせる。
「下らぬことにありまする故、何卒ご容赦を」
「強情な」
明らかに苛立ちを含む低音が、すがめられた鋭利な双眼とともに隠した狼狽を貫いた。内心、うっと呻いて、咎めるように刺さる視線に体を硬直させる。
「座興になろう。とっとと吐け」
主のあんまりな言葉に、座興にございますかぁ?! と思わず素っ頓狂な声を上げた秀吉は、口を真一文字に引き結んだまま眉を八の字にひそめた。要するに、暇つぶしにでもしてやろうという主の言葉には、言えば聞き届けてやらないこともないという意図が言外に含まれていることを読み抜いて、秀吉は益々眉を八の字に寄せた。
しかし、自分の考えていることなど主には既に見透かされているとも分かってしまい、何故だかほっとして微苦笑を滲ませる。かなわんなぁ……と胸中で嬉しげに呟いて、秀吉は両肩を落とし小さく吐息をした。じっと主を見つめ返すとあぐらをかいて射籠手とゆがけを取り去り畳に打ち捨てた信長が、顎をしゃくって、言えと命じる。そのまま行縢の紐を解いて、上下ともに鎧直垂姿となった主を二、三度瞥見し、わざとらしく咳払いをした秀吉はようやく決意して、いずまいを正した。
「触れてもよろしゅうござりましょうか……?」
促されるまま吐露してしまったが、言下に羞恥心が噴き上がって一気に体中が熱くなる。手の甲で懸命に頬を擦り、熱が集中してゆくのをかき消そうとしながら秀吉は
「いやっ……そのっ……! 変な意味ではござりませんぞ!」
と首と両手をちぎれんばかりに振り、慌てて言い添える。一瞬、信長は心底意外そうな表情を見せたが、すぐさま口角を歪めて物珍しいとでもいいだけに、ほうと漏らし、吊り上がっていた眦を緩めた。
「稀よな」
楽しげに囁かれた低い声音に、ただでさえ乱れていた鼓動が大きく跳ね上がる。
確かに主の指摘通り、秀吉が触れたいなどと望み、それを口にすることは今まで皆無に等しかった。常に望み求め欲するのは主であったし、秀吉自身、己の体に残され刻まれてゆく切なくなる程に愛しい温もりを、決して忘れ得ぬよう肌と肌の下へ記憶することに必死だった。指先、唇、視線、吐息、声音、鼓動、温度、そして、心を、数えることも億劫になるくらいに重ねて、全身で知った主の感触と感覚は、自分の心の最奥に、体の真芯に、解けることのない絆の息づかいを鮮烈に感じさせて止まない。しかし、激しいほとぼりもこそばゆい愛しさも、それは自分ばかりが手にする喜びで、主に同じ歓喜を知って欲しい、同じ喜悦を差し出したいと望まずにはられなかった。揺るぎなく満ちては溢れる熱情を与えてくれる、磨き抜かれた巨躯の造形を、ただただ自身の手でなぞり確かめてみたくて、ただただ自身の体温をもっと知ってほしくて、つたなくではあろうとも伝えたいと思うのだ。
秀吉は急におかしくなって小さく笑いをこぼした。
これだから、愛情は厄介だと言わざるを得ない。主から与えられたもののすべてが、刹那に途絶える代物であったなら、自身のこの我がままな望みは、育まれることすらもなかっただろう。
永遠という名の種は芽吹いて大きく葉を広げ、天へ枝を伸ばし、花を咲かせて再び種を生む。幾度も地にその身を埋めて芽を吹く情愛は、確固たる形を持ちながら時には種、時には葉、そして、時には花となり、育っては新しく生まれることを繰り返しながら心に深く根を張ってゆく。自身のこの願いもまた、咲いた花の一つなのだ。決して途切れることなく成長する想いから生まれる新しい感情と感覚。
秀吉は信長と視線を重ねて淡く微笑んだ。
頬にとどまっていた熱は自然と引き、狼狽のあまり乱れていた鼓動は平穏を取り戻す。先刻主の名を呼んだ時の滑らかさで、何卒……と小さく請うて頭を下げてから、即座に顔を上げると黙って主の返答を待った。信長はしばし無表情だったが、両目をすがめて、くっと短く喉元で笑い秀吉の頭を軽く叩く。それが返事だということは理解できて、ありがとうございますと素直に礼を述べた。
予想外であったのは信長が卒然着物の帯を緩め、両袖から腕を引き抜いて鎧直垂の上衣を脱ぎ出したことだった。秀吉は目を丸くして
「上様、あの……お召し物はそのままでも……」
いいんすけどと口内でもごもごと語尾を濁していると
「気に入らぬと申すか」
鎧直垂の下に着込んでいた小袖も脱いでしまい、半裸の状態になった信長が眉をしかめて秀吉を鋭く一瞥する。
「め、滅相もないっす! ですが……そのぉ……お脱ぎになられんでも」
反射的にかぶりを振ったものの、はっきりと脱ぐ必要がないとを伝えることができず、引きつった苦笑いを浮かべたまま目線を曖昧に移ろわせる。
「やはり気に入らぬとみえる」
一層険相をしかめて自分を睥睨する主に、とんでもないっす! とすかさず首を左右に振って応じるが、気に入る入らないという以前に、衣服を脱ぎ出したことに驚いてしまい、主の行動をどのようにいさめればよいのか判断がつかなかった。
「ち、違いますって!」
と更に言い添えてみるものの、信長の険相が解れる気配はない。
「わしは気に入らぬ」
溜息交じりに返された言葉はひどく不機嫌そうで、ええっと困った声を上げはしたが、秀吉にはこれ以上、脱がなくともよいと主に言い立てることはさすがにできなかった。
「うぬが請うたことであろう。聞き入れてつかわすというに不平ばかりほざきよる。その非礼、平常なれば許さぬものぞ」
主が鋭く言い捨てて広々とした肩をすくめ腕を組む。眉間に深々と皺を刻む整った顔が、ささやかな反論さえも許しはしない威圧を含んで困惑する秀吉を凝見した。
確かに触れたいと願ったのは自分なのだ。だが、よもやじかに触れることが許されるとは思ってもみず、率直な驚きを隠せずにいる。布を介した接触であっても十分だと考えていた自分に、思いも寄らない主の提案は贅沢と言っても過言ではない許容だった。よくよく頭を巡らせてみれば、主と自分は互いに互いの体を誰よりも熟知している者同士でもある。自分が触れたいと請うて信長が極自然に着物を脱いだのは、今更布越しに触れて確かめられるものなどないと分かっているからなのだろう。重ね合わせてきた肌が知っている以上のことを、衣服越しに探れるはずなどない。夜毎互いを抱き締めて手にする温もりと同じ温度をもっと知りたいのなら、残したいのなら、体と体が触れ得なければ理解できることも、記憶することもできはしないのだ。
そうだった。
なんでわしゃ、いつもこう……と苦々しい愚痴を心中でこぼして秀吉は奥歯を噛み締める。主の意図を汲めずに当惑していた自分の愚鈍さに嫌気が差し、内心嘆息をついたが主を真っすぐ見据えて最早余計な言葉を吐くことのないよう口を噤む。
暫時、向かい合ったまま見つめ合った。いまだ苛立ちを滲ませる主の面を瞥見し、秀吉は、ほんじゃあ、ご無礼してと一礼してから申し訳程度ににじりよってゆっくりと両腕を伸ばした。しかし、途中で手を止めて些に俯く。強い力と輝きを有する黒鉄の瞳は、伸ばした手でも卑近にある痩躯でもなく、秀吉の瞳を熱心に見つめている。視線の中に感じる熱っぽさが無性に気恥ずかしくて直視できず、ゆっくりと触れたくとも見られていると落ち着かない。頬が熱くなり、秀吉はたまらず、か細い声で
「目を……目を閉じて頂けんでしょうか」
と懇願した。
「何故だ」
すぐに返された疑問符に、そりゃあ……と目線を逸らして言葉を濁す。見られていると恥ずかしいなどと、乙女じみた理由を答えられるはずがなかった。
「料簡多きことよ」
片側の眉を跳ね上げ、さも呆れたと言わんばかりに深く吐息した主は、秀吉の腕をつかむと力任せに引き寄せた。秀吉は突然加えられた力に勢いあまって前のめりになってしまい、信長の胸に鼻をぶつける。いつっと呻いた時には素早く顎を捕らわれ口づけを見舞われていた。唇と唇が触れるだけの軽い接吻は合図にも思え、静かに身を引いて主を見上げてみるとその両目は堅く閉ざされていた。眉間に寄った皺は解れてはいなかったが。
秀吉は心の中で、ありがとうござりますと礼を呟き微笑んだ。そして、目の前に存在する体躯の輪郭をゆっくりと目だけでたどり、怖ず怖ずと両手を伸ばして、太い首にひたりと小さい手をあてる。
とくとくと、乱れることなく流れる血の脈動がてのひらへ鮮やかに触れて、微かな振動が心地よく肌に馴染んだ。そのままそろりと主の顎に指先で触れると、切れ長の眉が一瞬小さく跳ねて、くすりと笑う。顎の突端を覆う黒々とした髭は硬く、今現在は身支度のために剃ってしまった自身の柔軟な髭とは色も質もまったく違っていた。今は髭がないと分かってはいたが、思わず己の顎を片手で撫でて眉をしかめた秀吉は、わしも上様のようにならんもんかと、生まれついての体質からか、生えにくい自身の髭に微かな嘆息を漏らす。
気を取り直して、両手でやんわりと引き締まった頬を包み、目の下に影を落とす長い睫に指先をそっと滑らせ、皺を解すように親指の腹で眉間を撫で上げた。すると、仕様もないといった風情で短く息をついた信長が薄く瞼を持ち上げ、吊り上がっていた眉を緩める。主はすぐに両目を閉じてしまったが、機嫌の悪そうな皺は綺麗に消え去っており、嬉しくて口元をほころばせた。
昔、尾張一の美男子と称された端麗な顔貌は年を経た現在でも際立っており、単に美麗であるだけでなく、重ねた歳が威厳と冷徹をそこに加える。女性の美貌とはまったく異なる、野性的でありながら高貴を失わない苦み走った端正な顔立ちは、織田家中の何者よりも勇壮で雄々しい。向かい合って互いを熟視する機会は多くあったが、改めて眺め見る信長の面立ちに心臓が些少早く脈打つ。主の心と魂を第一に愛してきたが、眼前で静かに目を閉ざす鋭利な美貌は誰もがそうであるように、自分にとってもまた好ましいものだった。主の容姿も好きだと実感するのは、自身、意外にも今日が初めてではないだろうか。
おっとこ前だわ~と心中で惚れ惚れと呟いたのもつかの間、秀吉は、はっとして素早く身を引く。見とれるている内に我知らず顔を寄せていたことに気づき慌てて離れたのだ。今少し近づけば唇が触れていただろうという至近距離まで身を寄せていた自身に恥ずかしくなって渋面を作ったが、目の下に集中する熱で紅潮が広がっていることは分かっていた。主に目を閉じて欲しいと請うてよかったと情けなくも安堵して、目を巨躯の首から肩へ移ろわせる。
隆々と筋肉をまとった肩口には古い弾倉が刻みこまれ、両腕には無数の刀傷と矢傷が走っていた。既に癒えて口を閉じた傷は皮膚の皺を裂いて盛り上がり、薄れることはあっても決して消えることのない白い痕を残す。苛烈な戦いの中を生き抜いてきた証しを、唸りを上げて押し寄せる怒涛の時代を乗り越えてきた印を、指でたどたどしくなぞりながら秀吉は瞼を伏せた。
主もまた戦場を駆け回り、自ら武を奮って戦況を打ち開いてきたからこそ、多くの傷を負ってきた。時には狙撃されることもあり、名も無い雑兵が振り回す切っ先に血を流すこともあった。主はいつの時も多くの兵の先頭に立ち、従うすべての人間に進むべきを道を切り開いてくれる偉大な力を持っている。信長がそういう力を持っているのは、傷つくことを恐れず、血を流すことに脅えず、歩むべき未来への道標を自ら築いてきた鉄の覚悟と鋼の強さをこの体に宿しているからだ。これ以上傷つかないでほしいと願うことはできない。それは主の道ではなく、また自分の道でもないからだ。だからこそ、傷の一つ一つを、生まれついて体に刻まれていたものであるかのように愛おしく感じる。
傷の中でも一際目立つ弾痕に頬を寄せ、秀吉は主の膝上に半ば身を乗せながら肩から腕へてのひらを滑らせ胸板に手を置いた。綺麗に隆起した腹筋とそれそのものが鎧とも思える胸板の厚さは、引き締まった腕の筋肉とともに猛々しい精悍を宿しているが、みなぎる気勢はあくまでも静かに、冴え冴えと切りつける冷たさで、凶暴とすら感じ得る主の体躯を一式の重厚な具足が佇むのに似た厳粛に包んでいる。思い浮かべるのは、残忍で気高く、強靭でしなやかな獣の姿だった。駆け出せば容赦なく敵を食いちぎる激しさの中に、張り詰めた静けさと美しさを合わせ持つ、獣のような荒々しい肉体。
感嘆の溜息が唇を滑り落ちる。女であれば尚更のこと、主のこの整い切った体を前にすれば悦びの震えを催すだろう。男である自分でさえ、ぞくぞくと背筋が粟立ち身内が熱くほてった。それは主を受け入れたことのある身であればこそ、目の前の巨躯が秘める力強さが見せかけだけでないことを熟知しているせいでもある。体の奥底から押し寄せる熱い震えに、信長の胸板に触れていた手が引きつった。ふるりとおののく指先を無理やり胸板から引き剥がし、ゆっくりと二の腕へてのひらで触れて滑らせ、浮き上がる筋肉に添って主の膝上に鎮座する大きな手の甲にたどりついた秀吉の手は、即座に太い指に絡めとられ、堅い皮膚に覆われた掌中に握りこまれる。両手ともに捕らわれてしまい、最早瞳をもってでしか触れることのかなわない信長の身体を、端々まで丁寧に眺めて秀吉は、眼前にある広い肩へ誘われるようにして頭を預けた。目を閉じて眉根を寄せ、嬉しさと愛しさに結び合わせた唇を震わせながら、何度となく思ったことを、今までで最も強く痛感する。
美しい人だ。
磨き抜かれた刀身のように鋭利で、僅かも歪曲することを許さない潔癖なまでの麗しさの中に、牙を持つ雄の苛烈な野蛮さを合わせ持つ。龍のごときその牙も爪も、苛酷と知りながら主が選んで歩んできた道であればこそ、彼の人はこれ程までに美しく、何者よりも気高い生き様に身を置いている。
この主とともに生きてこれたことを心の底から誇りに思う。そして、これからもともに生きてゆけることを何よりも喜ばしく光栄に思う。
秀吉は微かに震える四肢を押さえこむように奥歯を噛み合わせ、主の肩口に頭を擦り寄せた。髪留から解放された髪が柔らかく散って涙の滲む眦を覆い隠す。歓喜が次から次へと胸に溢れ、熱い感情だけが体内を満たした。そろそろ離れなくてはと自身を叱咤してみても、唇がわなないて言葉を紡ぐことすらできず、捕らわれた手を自ら解いて、己のてのひらにてのひらを包みこみ堅く握り締める。
ふと髪を撫でられ、小さく肩を引きつらせると
「よいか」
染み入るように優しい低音にそう問われ、こくりと頷いた。
「はい」
すんませんと言を継いで離れようとした秀吉の襟足に主の手が回り、やんわりと自身を引き寄せる力におとなしく従った。軽い痩躯は広い胸へたやすく収まり、主はそれでも足りぬとばかりに、組んだ足の片側で半端に乗りかかっていた秀吉の尻を持ち上げて膝上に押し上げてしまうと、囲いをして閉じこめるように片膝を立てた。
「無欲よな」
ただ見て触れるだけの秀吉に苦笑し、ふんとで笑った主は、おもむろに帷子の襟を背まで引き下げ、小袖の袷を指で割って僅かにはだけた胸元へ口づけを落とす。ひくりと身を揺らし鎖骨のくぼみへ歯を立てる唇から離れようとすると、立てた脚に背がぶつかり阻まれてしまった。うなじを伝い顎の付け根を舌先で撫で上げる主の悪戯に頬を紅潮させながら
「多くを望む自儘は許されぬ立場にござりまする故」
謙遜のつもりで口にした言葉は、我ながらひどく自虐ぽく聞こえて秀吉は眉を微かにひそめた。そういえば、今まで想像したこともない。幾百と自分の体を端々まで堪能し尽くした主にとって、秀吉の体は最早慣れ親しんだが故に、真新しさも面白みも感じ得ない使い古した玩具と同じなのではないか。急に危惧がよぎって秀吉は閉口したまま睫を伏せた。途端
「下らぬな」
顔を上げた主が溜息とともに一蹴する。驚いて信長を凝視すると鼻先に主の渋面が迫った。
「下らぬことに、いらぬ頭を使うておる面よ」
「そのようなことは」
眉を八の字にひそめて苦笑いを浮かべてはみたが、自分の度重なる誤魔化しを戒めてか骨張った指先で額を弾かれた。
「言え」
袂から手を忍びこませ、二の腕の下を撫で上げながら耳元で甘く責め立てる主の声音に鼓膜が熱く痺れる気さえする。
「言うのだ」
再度囁かれた言葉とともに唇をふさがれ、こぼれた吐息ごと舌先を絡めとられた。命じながら威圧する強さなどかけらもなく、艶やかな響きを潜ませた声音で、耳朶を鼓膜を嬲る主のやり口に、ずるいと恨みがましく双眸を堅く閉じたが、抵抗する気力をことごとく殺がれてゆく自身の呆気なさに最早諦めがついて
「我が身に触れ飽いたと申されるでにゃあかと……」
些に口唇を離した刹那、秀吉自身驚く程の素直さで胸の内を口にしていた。言ってからじょじょに恥ずかしさがこみあげ、片手で顔を隠して赤面した顔を信長の目から遠ざける。
「ああっ、今のは……! 今のは聞かんかったことにして下されませ!」
やはり駄目なのだ。自分は主の前で率直になればなる程、羞恥から逃れられない。しかし、両腕と片脚で作られた囲いの中にあって、信長の視線をかわすことなどできるはずもなく、面を覆っていた手を取り上げられ、顎をつかまれた。
「好かぬ」
憮然とした口調で端的に言うと、信長は、はっと短く溜息を漏らす。
「貫け」
すかさず放たれた二の句の後に
「冗談ということにしたくば、な」
と締めくくって主は僅かに眉をしかめ、秀吉の顎から手を離した。
主の言うことはもっともである。真実を吐きながら、それを即座に否定するぐらいならば、冗談だという言い訳を貫徹した方がまだしもよいではないか。本音を口にする恥ずかしさを捨て切れない情けなさのために、告げた言葉をなかったことにするのは相手に対して無礼な振るまいに他ならない。主に指摘された事柄は、まったくもって反論のしようもなく、秀吉は肩を落として俯いた。
「飽いたなるは即座に糊塗するうぬの態度よ」
「すんません……」
追い打ちをかけられて殊更落胆したが、辛うじて詫びを口にした秀吉の頭上で主が笑う気配を感じた。ゆるゆると顔を上げて上目使いに見つめると、意地悪く口端を吊り上げた信長の顔が鼻先にある。嫌な予感を覚えて身構えたが、いつの間にか帯は解かれており、小袖の袷がだらしなく左右に広がってゆく。はだけた胸元に口づけを見舞い、主は
「されば、次は予の番だ」
と袂の中でうごめいていた手で背のくぼみを撫でながら下方へと滑らせて、尻の谷間へ指を差し入れた。秀吉が望んだのと同じように、今度は自分が触れる番だと言い放った信長に困惑の眼差しを向け眉根を寄せる。そうこうしている内にも痩躯は傾けられ、畳の上へと沈められていった。
「いかに余暇と申されましても、こう頻繁では……」
うなじに歯を立てる主の腕の中で成されるがままに躯幹を投げ出しつつも、体力が持たないということだけは事実なので、躊躇いがちに主をいさめた秀吉は、絶え間なく自身の体に触れてうごめく大きな手に下帯を剥ぎ取られ、あっと小さく驚きの声を上げた。反らせた喉元に軽く唇を押し当てた信長がいかにも楽しげに、くくくと低く笑う。
「わしはうぬと違うて欲が深い」
それに、だと言を継いだ主が卒然秀吉の腰を強く引き寄せる。刹那、股間と大腿へ、袴越しにもそれと分かる主の怒張が食いこみ、秀吉は、びくっと四肢を震わせた。
「我が猛りを鎮めるはうぬの役割であろうが」
「いつそのようなお役目を賜ったのか、記憶にございませぬっ」
言下に反論した自分のささやかな主張を、はっと鼻で笑い飛ばした主がにっと口角を吊り上げる。
「今だ」
端的に、しかし、ひどく鮮やかに囁かれた主の声に、秀吉は大仰に目を開いてから屈託のない笑みで満面をほころばせた。
貴重品を扱う慎重さでもなく、慣れ親しんだ道具を引き寄せる乱雑さでもなく、触れることが当然であるかのように触れる。
確かめる強さで、暴く細やかさで、肌を通過し心の奥底をなぞる丁寧さで指先と唇が、手と視線が、溜息と温もりが触れられる場所のすべてへと滑りこみ、甘くほてりを残して躯幹を焼いてゆく。
心地よい温もりと気が触れてしまいそうな悦びの中で、重ね合わせる体と心が自分の中に愛情という種を育てゆく歓喜を噛み締めながら、何度となく開く花が、彼の人のためだけに咲くのだと触れて伝えたい。