慶長五年(一六〇〇年) 初春
石田三成は頭が痛かった。
常日頃から頭痛の種が尽きることはないのだ。それというのも、自身の神経質ともとれる潔癖さが原因であるということは己が熟知していることなのだが、近頃はようやくと諦観に逃げるだけの寛容さを身につけたような気がしないでもない。最早諦める他ないと割り切るしかない状況であるということも分かっていて、それでも頭痛が絶えないというのは一種の未練がそうさせているのだ。
思えば長い未練だった。この頭痛やなんともいえない空虚感は何年も前に始まって、今尚、自分を悩ませている。誰が悪いというのでもない。誰にも罪がないと頭で理解しているにも関わらず、あえて自身にとっての悪者を決めつけるとするならば、それは現在朝廷を凌ぐ権勢を得て、長く戦乱の続いた国々を統一し日本の新しい王として君臨する、織田信長その人であろう。
ふっと口内で重い嘆息を掻き消した三成は、端麗な面に僅かな不快を滲ませて奥歯を噛み締める。思い返す程に頭痛は増してゆくと分かっていながら、ついつい思い出してしまうのは、信長の存在を考える時、男の傍らには必ず、自分が神にも等しい忠誠をもって敬愛し心酔している、元の主君、羽柴秀吉の存在があるからであろう。奇妙な感覚でもあった。不快な人物のことを考えると、なし崩し的に貴ぶ人物のことも思い出される。それがまた三成にとっては頭の痛いことであり、同時に腹立たしさを助長するものでもあった。考えなければよいものを、だが、自分がそういう器用さを持ち合わせていないことも痛切に知っていて、己の偏屈ぶりがやはり頭痛の原因になってしまう。
三成はともすれば眉間に浮かび上がりそうになる皺をなんとかやりすごし、両肩を落として再び溜息をついた。
堺の町へ続く街道沿いには活気のある町々が多く、売りさばかれる土産物や工芸品の中には西洋の物品を真似て作られた珍しいものもある。そぞろ歩くには飽きないが、急ぎでないとはいえ、ゆっくりと見物を楽しむ余裕がある訳でもないので、それらの町々は通過しただけで終わったが、そそられた興味は自身に僅かな残念さを与えてもいた。
最近では宿場町で西洋人の姿が見られるようになったが、それも稀な話ではなくなった。港に近しい町や村は活気づいている場所が多く、特に繁栄極まる堺の近隣ともなればやはり規模が違う。堺では連日多くの品物が取引され、輸出入の船が頻繁に港を往来し、外国の商人達が町中を闊歩しているという。自由貿易が許可され、各地で続々と港が開かれてゆく中、堺は会合衆などの組合が一致団結して、全国屈指の規模を誇る日本三港の内の一つとなり、現在では「欲しいものがあれば堺へ行け」とまで言われるようになった。
一方、堺最大の好敵手ともいうべき博多港も負てはいない。西洋の国ばかりを相手に交易するのではなく、明や琉球との貿易も密に行っており、両者ともに日本一の港の名を相争い、日夜取引する品物にも力を入れていると聞く。
元々堺は昔から特殊な自治を行っていた町であったが、政府の体制が根本から変革した今では純然たる貿易港として栄えている。様変わりした現在の堺を見たことのない三成にとっては、どれ程の賑わいなのか予測がつかないだけに興味はわくが、自分が堺へ向かうのは観光ではないと分かっているので、別段楽しみという程のではなかった。
堺港に発着するのはなにも貿易船だけではない。
自分が迎えるのは、海外から帰国する日本人を乗せた船であり、そこに頭痛の種があることが何より三成を複雑な気持ちに追いやった。
三成は整備された山道を歩く馬の背に揺られるのどかさとは裏腹に、怜悧な目元を些少吊り上げて自身の前を行く青年の背に目をやる。
濃紺の小袖の上に羽柴家の家紋である五三の桐が刺繍された陣羽織を着込み、腰にはかつて秀吉が信長から下賜された刀を佩いている。後ろからでは見えないが、片腕には秀吉がしているのと同じ二連の腕輪をはめているため、馬が歩く度にかちあって涼しげな金属音を響かせていた。
「どちら」の父親に似たのだろうか、幼い頃から馬術に長けていた青年は、どのような暴れ馬も見事に乗りこなす才を生まれながらに身につけており、今現在彼が乗る馬も、数日前に野で捕らえた気性の荒い馬であったが、乗り慣らして飼い犬がごとく手なずけてしまった。
青年の名は羽柴秀勝といい、希代の才覚を持って生まれた二人の父親を持つ三成の現在の主である。二人の父とは、実父である信長と、そして、養父である秀吉のことだ。
昔、子がないことを不憫に思った信長が、自身の四男を秀吉に養子として下げ渡したのが彼、秀勝である。その後、播磨出兵にも同行して初陣を飾り、本能寺の変以降、秀吉が羽柴家当主の座を退くに際して家督を継いだ。秀吉が長浜に拠点を置いていた当時、子飼衆として集められ育てられた三成他、加藤清正、福島正則、大谷吉継らよりは年下であったため、長浜の子飼衆とは兄弟のように暮らしてきた仲でもある。
しかし、秀吉に子がなければ次期当主として羽柴の家を受け継ぐことが決まっていた彼と、三成は常に一線を敷いて接してきた。不本意ではあっても、秀吉以外に自分が仕えるとするのならば、秀勝をおいて他にはいない。自身がいずれ仕えることになるであろう主に、兄弟のような気安い振るまいで接することに慣れてしまえば、いざ彼が当主の座に就いたとしても主従の境が曖昧になってしまう。己のけじめとして、それだけは避けたかった。故に、秀勝が兄のように自分を慕ってくれていたものをあえて突き放し、必ず主にするのと同じ礼をもって接してきた。それを単なる冷淡と受け取り、三成を倦厭するならばただの子供に過ぎなかっただろうが、さすがというべきなのか、秀勝は幼いながらも他者の胸中を読み取ることに優れており、自分の意図を汲んでその分別と考慮を尊重してくれた。
信長の他の子供達も決して愚鈍という訳ではない。だが、秀勝が実父から受け継いだ血を最大限に生かし、彼の才能や聡明さを目覚めさせたのは養父である秀吉の力が大きく影響しているといえるだろう。
三成にしてみればなんとも厄介な話である。秀勝が秀吉の実子であったなら、悩ましい頭痛の種を抱えることはなかったのだ。秀勝個人には何の問題もないと分かっている。むしろ、秀吉が退いた後、若いながらもよく家中をまとめ上げ、束ねていると感心さえするし、養父の性分を色濃く受け継いだ人柄は好ましいものだった。
だが、信長の子なのだ。その事実にだけは目をつぶることができなかった。
三成にとって、信長という男は主の主でしかなく、これといって関連性も面識もない他人でしかないはずだった。しかし、秀吉を自分から、否、自分達から取り上げた憎い男となった今、たやすく許す気にはなれない。子供じみたわだかまりだと分かっていても、納得することができる程達観に至ることは今ですらできなかった。
秀吉の元で多くを学び、多くを知り、誰よりも深い忠誠と敬愛を捧げたかった。
それなのに。
信長が明智光秀に襲撃され、辛くも難を逃れた天正十年、本能寺の変の直後、信長とともに逆臣光秀を山崎の戦いで討ち果たした秀吉は、光秀の反逆により混乱していた畿内での騒動が終息した後、突然隠居すると言い出し、さっさと家督を秀勝に譲り渡して長浜に隠居屋敷を作る土地を探し始めた。主君のあまりに唐突な引退宣言に家中の誰もが驚愕し、考え直すよう懇願したが秀吉は頑として宣言を覆すことはしなかった。
信長の命で中国戦線に赴いた当時、既に秀勝は元服を果たし戦陣に加わっており、若いながらも武勲を上げ華やかな活躍を見せていた。主はそんな秀勝を見て、早めに羽柴家の頭をすげ替えるべきだと判断したのだろう。譜代の家臣を持たない秀吉にとって、長浜で育成してきた小姓達、子飼の衆は将来自身の宿将となる大切な種子であったことだろう。種子は芽吹いて育ち始めていたが、このまま自分が居座り、小さな芽が樹木になるまで世話を続ければ、若い木々達は秀吉を絶対の主として忠義を尽くすに違いない。それでは、いざ秀勝に家督を譲った時、我が子が家臣達を御することに苦労するのは目にみえている。秀吉は当主の座を早くに秀勝へ譲り渡すことによって、家臣達の忠誠がより強く子に集まるよう仕向けたのだ。
そればかりではない。
秀吉が隠居することをまるで見計らったかのように、安土城では「祐松庵」という特別な屋敷が増築され始めていた。広間と客間数室に茶室を設けたその屋敷は、信長に謁する人々を待たせる間、接待する場所であるということだった。だが、秀吉が信長に隠居の旨を伝えにいった日、男は「なれば、以後はうぬが身一つで我に仕えよ」と命じ、なんと完成して間もない祐松庵を秀吉の住まいとして与えたのだ。秀吉は一旦考えさせてもらいたいと申し出て長浜にいる妻、ねねと相談したようだが、次の日には信長の申し出を受け入れ、早々に祐松庵へ住まいを移してしまった。当初はねねもまた祐松庵に招かれる予定であったが、まだ秀勝の面倒をみたいと長浜から移り住むことを断った。ねねにとっても秀勝は大切な我が子であったし、元服していたとしても母親からすれば子供は何歳になっても危なっかしく感じられるものなのだろう。また、秀勝が家臣達の心をつかむまでは秀吉の代わりとしてねねが羽柴家の内部をまとめる役割を果てしており、若い二代目が当主として一人前になるまでのほんの少しの間、いわば、後見人として我が子を支えた。そんなねねも現在は長浜を離れ、山崎の戦い以降秀吉が与えられた播磨の領地に移住し、秀勝とともに暮らしている。
三成はこの状況に不審を覚えざるを得なかった。あまりにも諸々の事柄の時期が合いすぎているとしか言いようがない。すべてが元々仕組まれていたかのように、一つ一つの出来事がぴたりと当てはまり、結果という絵を作り上げているように思えてならなかった。げんに、秀吉が祐松庵へ移り住んでからというもの、信長は庵に入り浸りだと人づてに聞き及んでいる。
まるで謀だ。信長が秀吉を手元に置くために張り巡らせた私事なる謀略としか三成には思えない。
取り上げられたと思った。秀吉を信長に攫ってゆかれたと。
しかし、信長の秀吉に対する執着に自分は随分前から気がついてもいたのだ。それは執着などという生易しいものではなく、互いが互いの生涯ただ一人のつがいであるかのような、間に他者の介在を許さない強い絆であるということも分かっていた。だからこそ、こんな日が来るのではないかという恐れがいつも心のどこかに存在していたのだ。よもや、現実のものになるとは思いたくもなかったが。
生き方を決めるのは秀吉自身だ。秀吉が自ら選択して信長の元にいることを己の人生と定めた。秀吉を恨めしいと思う気持ちは僅かにある。だが、それ以上に秀吉を捕らえて離さない信長という男の存在を憎く疎ましく、嫌悪して止まなかった。
根拠のない想像と自分勝手な感情だと理解している。秀勝に対する複雑な思いも自身の問題でしかないと分かっている。分かっているからこそ頭が痛くなる。この頭痛のせいで連日溜息も止まらない。
一際強く吹きつける海風に双眼をすがめた三成は、数十年経った今でも胸から消え去ることのない懊悩に、自身嫌気が差して思わず片手で前髪を掻き乱した。
信長の秀吉に対する寵愛ぶりをやっかむ者の中には「猿の側室」と秀吉を貶め口汚く罵る輩も大勢いた。しかし、考えてみれば、秀吉は信長の子供に自身の領地だけでなく、育て上げた家臣まで明け渡して己の忠義の真を示してみせた。即ち、主から下賜された褒賞と財産をすべて返却し、自身の育成した家臣という土産までつけたということになる。それを罵倒する権利は何者にもないはずだ。信長とて無論そう考えていたのだろう。それ故、秀吉に自身の秘書官達の長となる書記司総代という新しい役職を与えた。
これまた巧妙な手口である。各地の戦線で働く武将達を取り次ぐ小姓達、秘書官の長ということは、実質秀吉が信長へ伝達される報告や謁見申請の窓口であり、援軍要請や兵糧の受け渡しなどの重大事項は大体が秀吉の口から信長に伝えられることになる。陰で秀吉の悪態を吐いていた者も、この人事には心臓が凍りついたことだろう。秀吉の機嫌を損ねれば、信長への報告に偽りを交ぜられ、いらぬ告げ口をされる恐れがある。人間とは勝手なもので、さんざん秀吉をこき下ろしていた連中はころりと態度を変え、一斉に書記司総代へおもねるようになった。
これは秀逸な采配だと三成も思う。信長は己の偏見や私情で秀吉が他者を貶めるような真似などしないと熟知しているはずだ。秀吉が仕事に対して何者よりも真摯であり、有能であることをよく分かっている。自分を悪く言ったからといって、差別をするような秀吉ではないのだが、心にやましさのある連中にはそれすらも分からない。実際、秀吉は取り次ぎの手続きに現れる際、誰に対しても同じ態度で接している。自身、遠方の戦地で泥まみれになって働いていた経験をしてから事務方の役職に就いた秀吉には、事務だけを司る秘書官達の不満も理解できるし、戦に駆けずり回る武将達の苦労も痛切に了知できた。単に秀吉への悪感情を押さえこむだけではなく、文官、武官の両方の気持ちを察して取り計らうことのできる人材を取り次ぎという要諦においた信長の人事は疑いようもない。
ずるいと思う。二人ともに頭が良すぎる。若者にも劣らない新鮮さと行動力、大胆さと柔軟な思考を今でさえ持っている。自分には及びもつかない。日本という国の中でしか物事を考えられない自分には到底、信長と秀吉の考え方を真似ることはできなかった。そういう点では偉大な人々だと尊敬する部分もあるのだが。
二年は長すぎると心中で殊更苦々しく吐き出して、三成は眉間の皺を深める。一年だったはずではないのかとやはり心の中で言を継いで、一際深々と溜息をついた。
天正十年のこと、本能寺の変が起こる以前、基督教の洗礼を受けていた九州の大名達、大友宗麟ら切支丹大名の名代として、イタリアのローマへ派遣された少年達がいた。宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーニに伴われて海外に旅立った彼らを遣欧少年使節団といい、約八年の歳月を経て天正十八年に帰国した少年達を、信長は大阪城へ招いて見聞してきた国々の話や技術、芸術などを語らせた。少年達の話を聞いた信長は海外の国に強く関心を示し、日本人が自由に渡海する権利を認めて、堺、博多、長崎港における旅客船の就航を提案した。確かに、西洋人の乗る船は技術的に優れてはいたが、日本で作られた船とて勝るとも劣らない丈夫さと機動力を兼ね備えている。尚早く、尚安全に渡海するため、大型船の改良を九鬼嘉隆に命じた信長は、新しく作られた旅客船を使い、ここ数年の間に使節団をいくつも結成してヨーロッパの国々へと派遣した。彼らが帰国し外国のこと語る程に信長の興味は国外へと向けられていったのではないだろうか。そして、いつしか自身が海を渡ろうという考えに至ったのではないか。
有り得るなと胸の内でこぼし、三成は樹木の合間に見え隠れする堺の町並みに双眼をすがめた。
今日、「鶴寿丸」という名の一隻の旅客船が堺へ到着する予定になっている。秀勝と三成はその鶴寿丸に乗っているであろう人物を出迎えるために播磨からやってきたのだ。
現在秀勝と自身が住む播磨の国、姫路城から、摂津河内の堺港へは船で行けば二日、三日の旅程である。当初、三成達も姫路から船で発ったのだが、途中、鶴寿丸が嵐に合い到着が幾日か遅れるとの連絡を受けて兵庫の港で船を下り、時間をつぶしながら馬で堺を目指すことにしたのだった。兵庫からは湾に沿った道筋をたどれば堺はさして遠い距離でもなかったが、秀勝が道の途中にある尼崎港に立ち寄り、舶来から輸入されてくる品々を見物したいというので尼崎で一泊を過ごした。
始めの内、秀勝の供は自分だけではなく幾人かの兵士をつける予定だったのだが、治安が安定した今日において、当主という身の上であっても厳重に護衛を配置する必要性もなくなった。むしろ、一国一城の主、君主という考え方が世間から淘汰されつつあるのだ。
土地には限りがある。褒賞として大名達に土地を与え続ければ、日本の土地だけでは足りなくなってしまうことは火を見るより明らかだった。そこで信長がとった方法は、政のあり方を根底から変えてしまうことだった。国内で無数に別れていた国々を、日本という一つの国と土地として統一して、各国を統治する主要大名のすべてを大阪城に招集し、事細かに分けられた各機関の長に任じて政治の中枢に置き、空白となった地方には統治者ではなく代行管理の機関を設置する。そして、中央から地方の管理をする人間を任命し派遣するといった具合に、あらゆる指示は中央から発せられ、地方には実質、統治代行者はいても統治者はいないということになる。これによって、一国の主であるという矜持を捨て切れない大名達に個人能力の重要さと民なくば国は立たないという意識を徹底的に叩きこみ、また、大名達を一つ所に集中させておくことで、無闇に反旗を翻さぬよう各々が牽制し合い無駄な争いをなくすことができる。
現在では別段珍しくもなくなった政治体系により、今まで日本国内で細かく区分されていた国というものの概念が根幹から覆された。例えば、今でも播磨国という呼び方は残っているが、正式には播磨州と改称され、国と呼ぶべき存在は唯一日本のみとして貴ばれるようになった。
無論、政治改革が行われたことにより、元来の世襲制は廃止され、土地の相続は親から子ではなく、より優れた者に託されることになる。といっても、土地についての考え方も大きく変わってしまった。
播磨は羽柴家当主を退く以前の秀吉が信長から拝領した土地だが、現在子である秀勝がそのまま受け継いでいるという訳ではない。それというのも、全国の土地は一斉に検地され、測量単位も貫高制から石高制へと改められた。測量は政府から派遣された測量奉行が担当し、改ざん、偽装が起こらないよう緻密に石高を算出した後、開墾した者の財として、武士ではなく主に農民達に与えられることになった。検地帳なる帳簿に土地の面積、田畑の生産量、耕作者が記載され、農民は農耕の自由と権利を与えられたが、代わりに移住する際には一定の手続きが必要となった。また、石高によって定められた課税率により、常に一定の税ではなく、その年の収穫高によって納める税が変動するため、凶作の年であっても民は飢えることがなくなり、飢饉対策として食料を備蓄する余裕も作られる。
中央政府で働く大名、否、現在は奉行と呼ばれる彼らの民に対する意識もこれまでとは大きく変わらざるを得なかった。民を所有物、あるいは、己より下級の地位にある存在ととらえていた大名達が、今や民の納める税によって衣食住を賄われているに等しい。己の生活を支えている民の存在を粗雑に扱えるはずがなかった。
天正十二年から始まった検地は、信長が最初に統治した畿内一帯の土地から始まり、現在も新しく土地が開墾される度に測量奉行が各地を駆け回っている。新しい田畑が増える程に政府の財源は増す仕組みだ。税を納めやすくなった農民、商人達が納税を渋ることがなくったおかげもあり、国の財政は豊かに潤っている。税とは無縁であった僧侶達にも賦課され、今までのようにお布施や寄進物を己の財として蓄えることができなくなったため、僧侶が信者へ無用に一揆を煽りたてることもなくなった。何故なら、一揆とは戦に等しい代物であり、戦には膨大な金が必要になるからだ。資金がなければ一揆を継続することは難しく賛同者も集まらない。
大体、農民達をけしかけようというのも無理な話である。彼らは自由に田畑を営み、生活する権利を得たのだ。いかに工夫すれば収穫量を高めることができるのか、作物や肥料を改良する技術に没頭し、互いに競う合うことはあっても、一揆のために武器を手に取る暇も無駄もなくなった。
国の王と、王の下で国を動かす長官、地方を管理する代行官、税を納める農民、商人、僧侶が一つの組織のごとく綿密に繋がり、連携を組んでいるこの体系は恐るべき速度で成果を上げ、人々の中に浸透していった。
たった十数年、たった十数年でこの国は大きく変わった。
武士や僧侶が上位にあり、商人や農民は下位であるという階級思想を廃し、手に職を持ち勤勉に働く者は誰しもが平等という考え方が馴染みつつある。今まで野武士や落ち武者に手をこまねいてきた農民達にしてみれば願ってもない構想であっただろう。勿論、完全に平等という訳にはいかないが、処罰の対象を定める法もおおまかに整った今、武士という身分をかさにきて略奪を行う者はいなくなり、農民達から高価な寄進物を取り立てる僧侶も少なくなった。商人、農民は横暴さをなくした武士や僧侶達に敬意を払うようになり、自然、彼らの職務を尊重するようになる。
日の本の民たる者はすべからく強くあるべし。それが我が国であり我が民である。
それは日本国総統の座に就いた当時、信長が口にした言葉だ。武士、僧侶、商人、農民、そして、貴族達でさえ例外なく「日本」という国の民であり、それら皆が強く生きることを許された国であるべきだと、自らをこの国の王の座に押し上げた男はそう言ったのだ。
誰もが想像し得なかったことだ。様々な肩書を得て人は自らの本質を見失うことが多々ある。しかし、信長の言う通り、この国に住む者は皆、日本という国の子であり、民なのだ。本来ならばそこに身分の上下や血の貴賎などあり得ない。身分という価値観だけで日本の子が日本の子を貶めるような真似をすべきではない。
最初の内は抵抗する者もいた。だが、信長の唱えた思想は次第に人々の心に定着し、多くの人間に生きる気力と権利を与えた。人々が活気づけば、国もまた気勢盛んに輝きを放つ。知っていたのだろう。己の号令の元に国を一つにすることが、様々な成果を上げることを。理解していたのだろう。己にはその才と器があると、信長は。
三成は鈍く痛みを訴えるこめかみを指先で押さえて、気に入らんなと心中で一人ごちた。ゆったりと歩みを進める馬の横を通り過ぎる旅人や行商人の姿を眺めながら、路傍に立つ真新しい塚に目を移す。港町に近い道は人の往来が多いが、堺の近辺ともなると段違いに行き来する人の数が増える。
全国的に関所が廃止され、町と町を繋ぐ街道が整備されてから何年も経っている訳ではなかったが、湾に沿った道というだけでなく、目立って通行人が多いのは、関所の税で生計を立て旅人を襲うことを生業としていた山賊の類いがことごとく駆逐されたおかげもあるだろう。整えられた交通網と関所の全面廃止により、人々は今や自由に全国各地を旅し渡り歩くことが可能となった。目的地へ到着するのにかかる具体的な距離と日数を簡単に知るため、政府の方針で一里の距離毎に「一里塚」と呼ばれる塚が立てられ、旅人達はより一層快適かつ計画的に旅程を組むことができるようにもなった。唯一彼らの脅威であったのは山賊の存在だったが、それもここ数年の内に治安維持隊と名を変えた兵士達の手により捕縛されるか、あるいは処刑され、稀に現れても近場の町に駆けこめば常駐している治安維持隊がそれを討伐する。まったく計算され尽くされた仕組みには、呆れる程感服させられるというものだ。
最も通行にやすい主だった街道には各々名がつけられており、現在では大勢の旅人が往来している。旅人が増えるにつれて駕籠屋や馬貸という新しい業種も登場し、旅籠との連携を密にして潤っているという。人は環境さえ作り上げれば、自ら稼ぎ出す方法を編み出すというのは、以前謁見した際に秀吉から聞かされた言葉であったが、当の秀吉も、自身の構想がここまで円滑に成果を上げるとは思ってもみなかったことだろう。また、全国に開港し他国との自由貿易を推奨した信長の政策は功を奏し、各地では輸出する物品を生産するため固有の産業が次々と生み出されていった。例えば、伊勢では塩や伊勢布を海外へ輸出し、砂糖や果実の種を仕入れて日本にはない果実の栽培に着手し始めており、養蚕の盛んな加賀では、海外の市場において高値で取引される良質の絹や絹織物を輸出している。近年開かれた江戸港では、これといった輸出品はないものの、元来保存食の加工に長けた日本人の腕を生かし、船旅の途中で食料を調達してゆく外国人に魚の干物や溜まり醤油、干し飯などの保存食を売り栄えているという。
産業が豊かになれば国全体の経済も潤う。経済の潤いはそのまま政府の懐を豊かにするということでもあった。政府の財源は税のみではない。各地の金山、銀山を直轄領として管理下におくことで、金銀の輸出を制限する変わりに、市場での価値を安定させることができる。また、採掘される金、銀を利用し、新しい貨幣の鋳造にも着手して全国統一通貨を定め、これを流通させたことにより貨幣の価値は常に一定に保たれる。同じ通貨を使用するとこいうことは、農民達にも物の価値が判断できるようになり、値段の高低が自ずと理解できるようになってくる。自然、人は安値で良い物を求めるようになり、商人達も物をより多く売りさばくため価格競争に励むという訳だ。
これは大きな循環であると三成は考えている。各々が好き勝手に政を営めば、主君の器量によって国々に格差が生じることなるというのは、今までの幕府のあり方を鑑みても容易に想像がつくことだ。個人単位の経営は、いざ日本が外国から攻撃を受けることになった時、いたずらに人々を混乱させるばかりでなく、自己主張の激しい主君達では迅速な連携を取ることも難しくなる。海外との貿易が盛んに行われているとはいえ、いつ何時、国外に敵が出現するかは誰にも予測がつかないことだ。
国を一つにまとめるということは、敵の出現にも備えることができるという利点の他にも、頂点に座る王から末端の農民達に至るまで、各々の生活の一つ一つが密接に結びつき、大きな輪となって巡っているという点にある。農民、商人の税で暮らす奉行達はよりよく政を行い、結局それはこの国で生活を営む者達に還元されてゆく。効率よく循環してゆく輪は、人々に生きるはりを与え、国への愛情を育んでゆくだろう。
誰が考えられただろうか。新しい国のあり方を。既存の制度を忠実に再現することを当然と思いこんでいた大名達には到底考えもつかなかったことだろう。良いものは残しつつも、無駄を省いて効率のよい手法に切り替えてゆく革新的な政治手腕は、簡単に真似できる代物ではない。信長であるからこそ可能だった。そして、信長の構想に寄り添うように協力する秀吉の存在があればこそ実現できた。
だが、日本という国を大きく変えた信長、秀吉はといえば、今日本にはいない。
天正十一年、小牧の戦いにおいて徳川家康の軍勢を撃破した織田信長は、名実ともに日本という国を統べる権力者としての地位を確立せしめた。九州の島津、そして、関東の北条、東北の伊達と反勢力を残してはいるものの、政治の中枢を占める畿内での支配権は完全に信長の手へと収束し、最早天皇と並ぶ権威を得たことはまぎれもなかった。
一方、小牧で敗れた家康は処刑こそ免れたものの、信長から略奪した信濃、甲斐の他、元の所領であった駿府、遠江、三河を取り上げられ、しばしの間、牢に繋がれた後、天正十三年の四国遠征、越中遠征の内、四国の戦陣に参加を許され、以後十五年の九州征伐に転戦した。そして、九州を平定後、天正十八年の関東小田原攻で北条一族を下し、手に入れた関東一帯の地を信長に与えられ、未開に等しい土地の開墾と発展に尽力し、ようやくその罪を許された。
現在は家康は奉行より下位に位置する番頭の役職与えられ大阪城に詰めている。今までは敵をみなまでに滅ぼし一掃していた信長が、小牧の戦い以来、大きな方針転換をしたと言わざるを得ない。使える人材ならば罪を許し、彼らの才覚を自身の政に生かすという、信長にしては随分と寛容な対応をとるようになった。小牧の戦は秀吉が織田の主力軍に参戦し、信長の直臣として戦場に出た始めての戦いでもある。三成には信長の突然すぎる方針転換の影に秀吉の姿が見え隠れしているように思えてならない。無闇に血を流すことを嫌う秀吉の存在があるように思えてならないのだ。
げんに小田原攻で信長は異例の戦術をとった。本隊他、おびただしい数の軍勢を投入し、竣工以来かつて何者にも陥落させられたことのない難攻不落の小田原城を、大軍勢でもって包囲したのだ。相模湾にも水軍を配置して立てこもる北条の兵士達が長い沈黙と緊迫に戦意を殺がれてゆくのをひたすらに待った。北条は籠城を続けながらも、同盟を結ぶ奥州伊達政宗の援軍が小田原に駆けつけてくれることを期待していたようだが、織田軍本隊が小田原を囲んでいるのとほぼ時を同じくして、信長の嫡男、信忠率いる三万の軍勢が奥州に攻めこみ政宗と対峙していた。
小田原城を攻囲している間にも別動隊が支城である、松井田城、岩槻城、韮山城を攻め落とし、残すところ忍城と小田原城本体のみとなったが、敵の士気を更に喪失させる策として、城前方の土地に石垣山城という小城を建設し、それを城の中の兵士達に見せつけた。三成がまだ生まれていない昔のこと、秀吉が成したという墨俣の一夜城を小田原攻めにおいて再現したのである。
攻囲から二カ月、とうとう北条は城の門を開き、北条氏政が切腹することによって北条一族郎党は助命されることになった。
時間はかかるがほぼ無血の解決を見る手段で戦を終結させる。この戦法は秀吉が信長の麾下にいた頃から頻繁に取り入れていた策だ。信長が方針を変えたのは、ひとえに、秀吉の助言もしくは嘆願があったからではないかと三成は予測している。
関東、東北地方を平らげた信長は、同年右大臣の位を朝廷に返却した。朝廷は信長に対して征夷大将軍に就任せよという要請を再三にわたってしていたらしいが、それらをすべて断り、信長は竣工仕立ての大阪城へ居を移して幕府ではなく政府という構想の下に改革を推し進めていった。
今までは朝廷から征夷大将軍の位を授かることにより幕府を開く権限を与えられ、征夷大将軍こそが武将として最高位の座であると考えられてきたが、人から与えられる地位など信長にはまったくの無意味であり、興味すらもなかっただろう。
信長が着手する政府の構築によって、名実ともに大阪が政局の中心となり、京都に住まう天皇は形式だけの権威を保っていたが、じょじょに政治へ介入することを許されなくなっていった。天皇に仕える貴族達もまた同じ、大阪へ移った信長に京都の統治を全面委譲されたものの、民衆の考えを理解しない彼らは、自身の贅沢のために考えもなく税を取り立て、そのため、不当に税を課される京の町を捨て、一定の税を取られるのみで安定した仕事と生活を得られる大阪へ逃げ出す者が後を断たなかった。これにより、京都は廃墟同然に荒れ果て、貴族達は生活に窮して信長に泣きついた。信長はこの機を待っていたはずだ。天皇を無力化するには、彼らが己の政治能力のなさを痛感し、信長を頼ってくることが必要だった。頼った貴族達も信長に逆らうことで援助を切られてしまうことを恐れ、言いなりになるしかない。
早速、信長は貴族や天皇が政治に口を差し挟むことを禁じた法度を作り、貴族、天皇にこの法度を厳守することを誓わせ、宣誓書までしたためさせた。おかげで彼らは京の町から出ることを許されなくはなったが、安定した生活が送れるだけの資金援助を受け、のうのうと暮らしている。
信長は天皇の支配下から離脱した政治を目指していたはずだ。だからこそ、自身が作り、自身に課す新しい位を作り上げた。即ち、総統である。
正確には日本大使首総統という長い名称だが、略して総統と言う者も多い。
信長が初代日本大使首総統就任の宣言をした天正二十年、ここに真実の天下統一が成されたことは誰の目にも明らかだった。
そして、日本の統一を終えた信長は、国内が安定し憂いがなくなったとみるや、慶長三年、一年間の時をかけて海外を見聞するため、堺港から旅客船鶴寿丸に乗りこみ、一路イスパニアを目指した。無論、同行者の中には秀吉もいた。
当初、一年のはずだった海外見聞は二年に引き伸ばされ、予定よりも一年遅い今日、堺に鶴寿丸が帰着する。信長と秀吉を乗せて。
三成は両肩を落とし一際盛大に溜息をついた。苦く顔をしかめるとずきりと頭が痛くなり、眉間を指でつまんで解しながら、ついまた重い吐息をこぼしてしまう。
年号だけは現在でも天皇によって定められるため、正親町天皇が崩御され、後陽成天皇が即位してから天正が文禄となり、文禄が慶長に変わった。今年で年号が慶長となってから五年経つが、この五年は三成にとって頭痛の絶えない年月でもあった。
信長が海外へ赴くのならば、必ず秀吉を連れてゆくだろうことは予測の範疇だった。何しろ、あの二人ときたら、好奇心だけは子供よりも旺盛で、未知を恐れることなく、むしろ楽しむ性分なのだ。常人が国の外へ出ると聞けば、多少の恐れと戸惑いを見せるだろうが、信長と同じく、未知なるものを己の目で確かめずにはおれない秀吉の性情を考えれば、海外への旅に同行することを二つ返事で了解したに違いなかった。
前触れもあるにはあった。
慶長二年に醍醐寺で開催された花見でのこと。信長を始めとし総代、奉行達のそうそうたる顔触れが、なんと皆、様々な仮装をして現れた。単なる花見では面白味がないと信長が命じたのだろう、中には百姓の姿をしたり、髭面に打掛腰巻姿などという女装をした者もいた。このような仮装を総代や奉行という高官達がやっているのだから、花見にやってきた客はおおいに沸き立ち、声を上げて笑った。中でも見物客を驚愕させたのは、信長と秀吉の姿だ。なんと、二人ともに髷を落として短髪にし、髭を剃って西洋人と同じ衣服に身を包んでいたのだ。ただの仮装にしても、髷を落とすなどということは尋常なことではない。まして、総統たる国の王が西洋人と同じ格好をして現れたのだから、見物客以上に裏方で働いていた三成達などは、仰天どころの騒ぎではなかった。
思えば、この花見の時から既に二人の心は海の彼方にある国々へ向けられていたのだろう。まったく信長の用意周到さには目眩さえ覚える。三成は歯がみして口唇を真一文字に結ぶ。
播磨州の代行官に任じられた秀勝はよく大阪城へ、二人の父親に会いに出向いており、今でも秀吉を慕う自分や清正などの子飼衆は、若い主の同行役を我先に願い出る。何故秀勝に同行したがるかといえば、信長が一緒とはいえ秀吉に会えるからだ。秀吉を父親と思っているのは、何も秀勝だけではない。子供の頃から長浜で生活をともにしていた子飼衆達にとっても、秀吉は主であるだけでなく父なのだ。その父を、懐かしむ程大人でもなければ、過去と言ってしまう程年をとってもいない。だが、その秀吉が日本にいないのでは話にならなかった。
二年は三成にしてみれば長すぎる時間だ。信長と秀吉がいない二年間、二人の面影を色濃く宿す秀勝に接する度、嫌悪と敬愛が同時に胸を支配して、筆舌に尽くしがたい気分に陥った。おかげで常に頭が痛い。自分自身の聞き分けのなさと、秀勝に対する罪悪感や苛立ちがぐだぐたに交じり合い、三成の胸中はいつも曇っている。
俺はまったく……と心中で苦虫を噛み潰した三成は、口から漏れ続ける溜息を止める術もなく、播磨を出立してから何度ついたか分からない溜息をやはりついて眉間に皺を浮かべた。
ふと、前方を見ると秀勝の両肩が小刻みに震えていることに気づき、三成は、秀勝様? と後ろから声をかけ、馬の手綱を緩めて主と馬首を並べる。すると、秀勝は端麗な面をくしゃくしゃにして眦へ涙まで滲ませている。どうやら笑いを堪えているらしいと悟って三成は怪訝な表情で主を凝視した。自身の訝しげな視線に秀勝は片手を振って応じると、すまんすまんと笑いに震える語調で応じて苦笑いを見せた。
「いかがした、三成。先刻からしきりと溜息をついておるようだが。あんまり溜息ばっかり聞こえとるものでな、おかしゅうなってもうたわ」
腹を押さえて再び笑いを堪える秀勝に三成は内心むっとしたが、面には無表情を張りつかせたまま、然様にございますかと淡々とした声音で答えるにとどまる。
いつ見ても思うことだ。顔の造形は正に信長の若かりし頃を思わせる端正さでありながら、よく変わる表情や尾張なまりを含んだ物言いばかりでなく、家臣の溜息などという些細なことにもよく気がつき、それを「面白い」と笑う茶目っ気は秀吉を彷彿とさせる。面だけを見ていれば苛立つはずの態度も、秀吉と似た箇所を見せつけられると無闇に責めることもできず、三成は自分の感情を持て余して思わず眉宇を濁した。
秀勝は再び、すまんと軽く詫びを口にしてから少し困ったように微苦笑を浮かべ
「ここ数日、お前はしかめ面しか見せとらんな」
と穏やかな低音でそう続けた。ああと一人、何かを察して手を打った秀勝がにこりと面をほころばせる。
「厭味ではないぞ?」
くすっと小さく笑って、上体を些少屈め、下方から自分を覗きこんでくる秀勝から思わず目を逸らし
「存じております」
そう、いかにも興味がないといった風情で小さく頷いた三成は、極力色合いのない表情で主を瞥見した。自分が何故溜息を連発し、しかめ面を中々解そうとしないのか、普通の人間ならば直截理由を聞き出そうとするのが常だが、秀勝は決してそのようなことはしない。遠回しに揶揄を交えながら指摘を加え、本人の口から理由を言い出すよう仕向ける話術や仕草を極自然に身につけているのだ。ただ一つ、逃げ道があるとすれば若者らしい堪え性のなさと、いまだ技巧が未熟であるという点で、頑なに理由を言わず一蹴すると
「で、いかがした」
結局はこうしてじかに尋ねてくることが多かった。秀勝は興味津々というよりも、微かに心配そうな気配を漂わせて、やはり三成の顔を覗きこむ。
「何も」
「何も、とは異な答えよ。然様な面構えに思うところなしなどと、嘘が下手にも程があろうに」
すかさず反論してきた秀勝の口調が、駄々をこねる子供に似ていたせいか、さすがの三成も苦笑いを禁じ得なかった。実際自身よりも年下の彼には、まだ子供じみた所作がいくらでも残っている。言動に捻くれたところがなく、時折家臣に対してでさえ拗ねたような物の言い方をすることがあった。こういった少しふて腐れるような言い方は秀吉もよくしていたことを思い出して、三成も苦笑せざるを得なかったのだ。
「秀勝様」
主を呼ぶ声に自然と鋭さが消えた。
「おう、なんじゃ?」
首を微かに傾けて、ぱちくりと瞬きする秀勝に、わざとらしく顔をひそめ、いかにも困惑したような表情を作った三成は、自身の胸元に片手を添えた。
「お分かりのことと存じますが、大任を預かり緊張致しております」
吐息交じりに言って指先で眉間を軽く押さえる。大任というのは勿論信長と秀吉の帰国を出迎えることを差している訳だが、地味とはいえこれは重大な任務であることに変わりない。
一カ月程前に信長から書状が届き、派手な出迎えは必要ないと戒められたため、船の迎えは極限られた官吏だけが集められることになった。その中に二人の息子だという理由から秀勝も選抜され、供を一人許された。羽柴家では誰が供をするのか、子飼衆同士で喧嘩が勃発した程揉めたのだが、結局は公平をきしてくじ引きを行うことになり、当たりくじを引いた自分が今、主の供をしているという訳だ。
国王を迎える役目なので単に秀吉と会えることばかりに喜んでもいられない。とはいえ、大任を預かったという自覚はあったが緊張しているなどというのはまったくの嘘である。秀勝の問いかけに対して、いつまでも続く頭痛と嘆息の原因は信長だと言えるはずがないので話題を終わらせようと試みたのだ。
「なるほど。然様な逃げ口もある、か」
片目をつぶって口端をほころばせた秀勝は、あっさりと三成の演技を見破ってしまった。
「お前はまこと、『安土の父上』が苦手と見える」
前に向き直って、はははと軽く笑い声を上げた主の言葉に、三成は些少ぎくりとさせられた。
『安土の父』というのは秀勝が信長を表す際に使う呼び名である。何分父親が二人もいるので、彼が「父上」と言っても信長のことなのか秀吉のことなのか、にわかには判断がつかない。人が混乱すると察して、分かりやすく安土城に住んでいた信長のことを『安土の父』と呼ぶようにしたらしい。といっても、大阪城が竣工してからというもの、もっぱら信長の住まいは大阪城なので、そろそろ『大阪の父』と言わねばならないところだが、大阪城には秀吉も移り住んでいるので、これまたどちらのことだか混乱する。それ故、秀勝も信長のことを常に「安土の父上」と呼んでいるのだろう。ちなみに、ただ「父上」とだけ言う時は秀吉のことを差している。
「然様なことは」
三成はかぶりを振って眉をひそめると秀勝から目を逸らした。自分が信長を苦手としていると知る者は家中に誰もいない。無論、そのように振る舞っているし、信長と謁した際にも徹底して平素の態度を装っているのだから、誰にも自身の本音など分かるはずがないのだ。しかし、秀勝は不思議と即座に三成の本心を見抜いてしまう。人の機微にひどく敏感な青年に慣れない嘘をついたせいだろうか。些に狼狽したものの、三成はやはり面には出さず、閉口して秀勝の言葉を待った。
「心配すな、咎めはせんよ。だが」
黙りこくってしまった三成を一瞥して、少し困ったように笑った主は
「寂しくはある」
と言を継いだ。
「……秀勝様の実のお父上であり、現日本総統閣下にあられる信長様に、恐縮こそすれ何ゆえ嫌悪など抱きましょう。そのような不義はかけらもございませぬ」
「そうか?」
微苦笑を浮かべ小首を傾げて三成の顔を覗きこむ秀勝の凝視に耐え兼ねて、咄嗟に瞼を伏せた。
三成が最初に秀勝に対して抱いた感想は、質が悪い、だ。信長を彷彿とさせる鋭くたくましい容貌に冷徹な印象を抱く反面、柔らく微笑み、気安く接してくる人当たりの良さには秀吉の面影を色濃く感じ得る。信長を好きになれというのは三成にしてみれば、不可能な話だ。だが、同じく、秀吉を嫌いになれというのも出来ない相談である。二人の特徴を有している秀勝の存在は、三成の頭痛を助長する大きな要因だったが、若い主にはなんの非もないと了知していればこそ、申し訳ない気分にも陥るのだった。
内心深い嘆息をこぼし、油断すれば無意識に眉間へ浮かびそうになる皺をやりすごして、三成は無表情のまま軽く頭を下げた。
「はい」
うなずいた途端、秀勝が、はははと軽く笑う。
「無理をせずともよい」
微苦笑を滲ませて主が穏やかな声で言った。ここでむきになって反論をすれば、信長を嫌っているということを肯定することになる。こういった会話の、押しと引きの絶妙さは正に秀吉譲りというべきか。幼さをかい間見せる反面、こうして妙に大人びて落ち着いた態度をみせることもしばしばある。まるで、すべてを見通しているかのように、しかし、他人の本心を知りながら、決して責めることも咎めることも、まして、憤ることもせず、漆黒の双眸で真っすぐに人を見て心の内を見極めようとする。その率直さや明け透けさの爽やな様が、誰からも好かれ慕われるのは当然のことだ。
「俺と同じだな」
くくくと苦笑いにも似たいたずらな笑い方をして、卒然秀勝がそんなことを言った。三成が驚いて微かに目を見開き主を凝視すると、彼は首をすくめて見せた。
「正直申すとな、俺も安土の父上が何を考えておられるのか、さっぱり分からんのだ。だからといって、苦手ということはないんじゃが……」
ふうむと小さく呻いて眉をしかめた秀勝に今度は三成が小さく笑みを浮かべた。
「思うところがおありのご様子とお見受け致しますが」
ふふふと口内で低く笑って若い主を横目に見る。おっ、分かるか? などとおどけて見せる秀勝の朗らかな笑顔に秀吉の面影が重なった。
「お二方ともども、俺を可愛がって下さっとるのは分かる。だが、問題はそこではないのだなぁ……」
両手を手綱から離し、眉を八の字にひそめて腕を組んだ主は、走り出そうと力んだ馬の脇腹を器用に両脚で挟み、寸分も体勢を崩すことなく愛馬の力みを解した。注意していなければ見落としてしまいそうな細やかな技だが、別段馬術に劣っている訳ではない三成でも、両手を手綱から放して馬を歩かせるなどという芸当は決してできない。
秀勝の技術に感服しつつも、面には無をとどめて三成は
「問題と申しますと?」
首を捻って秀勝を熟視した。問われて主が半眼になる。人差し指で頬を掻きながら、いやな……と些少恥ずかしそうに引きつった笑いを浮かべた。
「子の立場がないんじゃよ。何せ、俺が割って入る隙もない。父上お二方とも、大変仲がおよろしい故、時折置き去りにされてまうのよ。ことに異国語で内緒話をされると落ち着かんわ」
何を言うとるかさっぱりじゃしな! と言を継いで大仰に肩をすくめた秀勝のふくれ面に、三成は思わず小さく吹き出してしまった。
醍醐寺の花見が催された数カ月前に、秀勝は機嫌奉伺で信長に謁するため大阪城に赴いた。秀勝が来ると信長だけではなく必ず秀吉も同席するので実際は二人の父親に会いに行ったことになる。その時、秀勝の供をして謁見の場にいた清正の話によると、信長と秀吉は時折、聞いたこともない異国の言葉で互いに会話をし、談笑を交わしていたという。さすがの秀勝もこれには参ったはずだ。二人の父親が知らない合間に異国の言語を覚え、耳慣れない言葉を使い滑らかに会話をしているという、主にしてみれば異常事態にどのような対応をすべきなのか分かるはずもない。秀勝は信長と秀吉が異国語を口にする度に「今、なんと?」「何を仰っしゃったのです?」としきりに食い下がっていたという。
息子である秀勝の目から見ても、二人の仲睦まじさは割って入れるものではないと思えてしまうのだから、この上、更に意味の分からない言葉で公然と内緒話をするような真似をされたのでは主もいたたまれないというものだ。置き去りにされてしまう、というのは言い得て妙であろう。信長、秀吉の深い絆を知る三成には不本意だが、その時の秀勝の狼狽ぶりは想像にやすく、ついつい、ふっと微かに笑いをこぼしていた。
「いたたまれませぬな」
正直な感想を口にした。自身が秀勝の立場でも、そう思うだろうからだ。おうと短く応じて秀勝も笑った。
「いたたまれん」
吐息交じりに苦笑いして片手を振る主の仕草に微笑んだ。
ふと、いつの間にか頭痛は収まり、眉間の皺も消え失せていることに気づき、三成は、かなわぬものだと胸中で微苦笑する。頭痛の種である秀勝の存在は、いつも知らず知らずの内に自分の心を解して胸に残るわだかまりを和らげ消してしまう。主の仕草や笑みが、いつまでも晴れない胸中に清々しい風を呼ぶのだ。これはある意味才能ともいえるし、二人の親から授かったものを彼自身が己の個性として昇華しつつあるということでもあるのだろう。
なんという質の悪い主であることか。
三成は再度痛感して整った面に淡く笑みを滲ませた。
「良いものだ」
空を仰いだ秀勝が三成を瞥見した。
「心契の友となるものは」
語尾を継いで、自ら深く頷いた主の横顔には、二人の父親に対する尊敬の念と少しの羨望が浮かんでいる。秀勝もまた、二人の父親が主従を越えた絆を有し、互いに絶対の信頼を置いていることを、きっと理解しているのだろう。
「三成」
不意に鋭く名を呼ばれ、はっと頭を下げると秀勝は前を見たまま
「お前にはおるか?」
と尋ねる。主は、心許せる友がいるかと自分に訊いているのだ。問われて即座に盟友とも言うべき大谷吉継の顔が脳裏をよぎった。
「おります」
力強く答えた自分に、微かほっとしたような声音で、そうかと深く頷いた主は手綱を握り直し、この上ない笑みで満面をほころばせた。
「俺は俺に従うてくれる皆とそうなりたい」
無論、お前とも。
秀勝の声ならぬ声が聞こえたような気がして、こそばゆい感覚が三成の胸中を駆け抜けた。柄にもなく自身が照れているのだと理解して、返す言葉を逸してしまう。恥ずかしげもなく、面と向かって「皆と友になりたい」と言ってしまえる素直さが、三成には眩しく感じられ、主を見据える双眸を細めた。
閉口してしまった自分をじっと見つめて、唐突に、よしと声を上げた秀勝が手綱を強く引き、馬の足を止めさせた。
「堺まで勝負とゆくか?」
堺へ続く前方の道を顎でしゃくって示す主に応え、三成もまた馬を止めて、ふっ短く笑った。
「望むところです」
自身の言葉とともに主が手綱を緩め、はっと掛け声をかけて馬を疾駆させる。三成も主に追いすがり馬を走らせ、すっかりよくなった頭痛のことなど忘れ、吹きつける風の爽やかさに頬を緩めた。
空も海も世界も、計り知れぬ程に広く美しいのだとしたら、自分もそれをこの目で見てみたいと今なら思える。その時はきっと、主の友の一人として、新世界への船出へ供をするだろう。
未知の船出に漕ぎ出す時、自分は未熟な殻を脱ぎ捨て、自由という名の翼を手に入れる。皆とともに、友とともに。
そして、無二の主とともに。