※この作品はR-18です。

龍は真朱の黎明に鳳凰と舞う   作:雷電五郎(旧)

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一 章


La folia -気違いざた-

天文二十二年(一五五三年) 七月

 

 

「提案がある」

 

極力語調に力をこめ、楽しげに交わされる雑談を鋭く遮って言い放つ。

全員が口を止めて自分に視線を注いだのを目だけで確認し、織田信長はにっと口端を吊り上げた。

「捕われたれば、一日鬼に従うというのはどうだ」

愉快であろうと語尾を続け更に口角を歪めると、場にいた青年達のほとんどが新しい悪戯を投げかけられて目を輝かせた。うち一人、柄を朱色に塗った長い槍を両肩に担いでいた青年が、俺は乗りますぜと明言してそわそわする青年達をぐるりと見回す。すると次々に、俺も! 俺もだと信長の意見に賛同し手を上げ始めた。

はしゃぐ青年達の中にあって、一人戸惑いの表情を滲ませる、ある人物だけを延々と見つめながら信長は、なれば開幕と愉悦にほころんだ面で頷いた。

己が狙いを定めた「彼」からは視線を一瞬も逸らさずに。

 

町の外れに広がる草原は時折野馬が草を食みに来るだけで人の手はまったく入っていない。手入れする者が誰もいないせいで青草は伸び放題に伸び、背の高い野草は子供がまぎれこめばその姿を覆い隠してしまう。近場に川や沼がないため水田としても利用できず、森に近接しているため昼を過ぎると木々の陰が地に落ち、土は肥沃であっても作物の育成には向いていない土地がらのせいか、いつまで経っても開墾の手が入らない。おかげで、村々の子供達にとってはかっこうの遊び場としてよく利用されていた。

かくいう信長もまた、この草原へよく馬を走らせにくる。人のいない草原で気兼ねすることなく馬を駆ることができる爽快感は、自身の足でどこまでも疾走するのと似た清々しい気持ちよさがあった。

しかし、十八歳で家督を継いだ身の上では最早単独での乗馬は立場上、あまりに軽率な行いになる。規則にとらわれることを嫌い自由奔放を好む信長といえども、己の身に背負う責務の重さを軽んじている訳ではない。近頃ではさすがに近習数人と身の回りの世話をする小人の幾人かを連れての外出が増えた。十八の頃から変わっていないことがあるとすれば、それは自分の奇妙な着こなしぐらいだろう。およそ領主に相応しいとは思えない珍妙ながらの湯帷子に半袴、真黒の髪を緋色の紐で大雑把にまとめ上げた髷とも言えないような髷、腰には柄に荒縄を巻いた長い太刀を佩いて、更に火打石や木の実を入れた巾着袋や瓢箪をぶらさげているといった有り様だ。

この姿で町を歩けば「大うつけが歩いている」と、小馬鹿にした失笑とともに囁かれたが、生憎自分にとっては最も動きやすく、利便性を考慮して自ら改造した服装なので変える気はさらさらなかった。

 

晴れやかに澄み渡る真っ青な炎天の暑さを意に介することもなく、今日もまた近習数人と小人達を連れ、竹槍を使った合戦の真似事に興じ、遊戯を一通り楽しんだ後は、汗だくになった体を清めるため川にゆき皆で水泳を楽しんで一息ついてからこの草原へやってきた。草原のちょうど真ん中にあたる地面は僅かに小高くなっており、小さな盛り上がりの頂点にけやきの巨木が悠然と植わっている。大きく太い枝を伸ばした樹木の瑞々しい青葉が日陰を作り、容赦なく照りつける日光を避けるにはちょうどよい木の下で、各々昼寝をしたり握り飯を頬張ったりしていたが、そんな青年達の姿を眺めていた信長がふと思いついて平素とは違う遊戯を提案したのがつい先程のことだ。自分を含んだ近習と小人達を半々に編成し、追う隊と逃げる隊に分けるというもので、つまりは鬼ごっこと同じ要領の遊びである。

自分自身をきっちり追う隊に振り分けて、尚、提案したのだ。

追う隊の人間が逃げる隊の人間を捕らえた場合、捕まえた人間を一日従わせることができるといった更なる遊び要素を。自分の真意を知らない青年達は一も二もなく賛成の意を表明したが、その中に一人、ぐっと口を噤んで困ったように信長を見つめている者がいる。その彼だけは、どうやら自分が何故唐突に鬼ごっこをしようなどと言い出したのか分かっているらしかった。

一時も視線を逸らさずに彼を熟視していた信長は、獲物を見据える獣のように鋼色の瞳へ濃密な喜悦をちらつかせた。彼は自分の強い視線を受けて脅えたようにひくりと双肩を縮める。丸く大きな鳶色の両目は、普段朗らかに輝いているが今は困惑めいた戸惑いに曇り、彼のその惑いが信長を獰猛な歓喜でぞくぞくすると刺激する。先刻から食い入るように彼一人を観察し続けていた自分の瞳には、彼を困らせる程の甘い熱っぽさが知らず知らず滲み出ているらしかった。

周囲に立つ青年達と比較しても背が小さく、手足の細い彼の痩躯は自分と二つ程度しか歳が変わらないはずなのに、青年というより少年と見まごうばかりだ。平素から笑顔の絶えない顔を更に柔和に快活に見せる陽気な瞳の彩りと同じ髪の色は、粗雑に結い上げた髻からほろほろとこぼれ、微風にふわりと舞ったそれが日光を帯びると黄金にきらめいて見えた。粗末な小袖と袴に身を包んではいるが、気温のせいではなく衣服の下で体温を上げて汗ばむ肌の色も感触も、実際触れているのと同じ鮮やかさで想像できる。信長は殊更双眼を細めて、俯いた彼の赤くなってゆく耳朶を凝視した。今すぐにでも駆け寄って衣服を剥ぎ取り組み敷いてやろうかなどと、凶暴で淫猥な衝動に駆られ胸中で自身の堪え性のなさに苦笑しつつも奥歯を噛み合わせる。

 

彼の名前は藤吉郎といった。

 

最近足軽の一隊に組み入れて小人の役職をくれてやった青年で、元は農民だったらしいが、継父との折り合いが悪くなって生家を出奔し、諸国を商って旅をしていたらしい。

最も身分の低い小人という仕事柄、常に主君の側を着いて回らねばならず、体力のいる役職ではあったが、彼は敏捷な身のこなしと生来回転の早い頭脳をもって他の小人達とは違い、信長が「いないと不便だ」と感じる程に役に立つ青年だ。

貧しい農家で生まれた彼に苗字はなく、最初は日吉という貧相な名前しか持ち合わせていなかったため、仕えてからすぐに信長が藤吉郎という名を与えてやったのだった。また、木登りを得意としていることから「猿」という渾名をつけてやり、外出の時には必ず彼を連れ回している。

 

「猿」と出会ったのは突然のことだった。むしろ、彼にとっては計算通りであっただろうか。

いつものように信長が乗馬を楽しんでいると、藤吉郎が路傍の草むらから唐突に転がり出て来て、走る馬の前に飛び出してきたのだ。さすがの信長もこれには驚き、慌てて馬を止め、死にたいか! とみすぼらしい風貌をしていた彼を怒鳴りつけたのである。

しかし、藤吉郎は詫びを言うでもなく、否定するでもなく「死にとうございます」と簡潔に応じ、馬の鼻先で平伏して動かなかった。

あまりにも予想外な返答に呆気に取られた信長は眉を吊り上げた。戦場ならばともかく、日常において今まで自身の前でこれ程捨て身な行いを演じた者は誰一人としていない。唖然としたのも束の間、信長は彼の豪胆さに、つい大笑いしてしまったことをよく覚えている。

だが、飛び出してきた青年の真意など分かるはずもなく、死にたければ他所で死ねと鼻で笑って言い捨て、さっさと馬首を返した信長に対し、彼は「殿のために死にとうござる。どうぞ、この身を拾うて下さりませ」などと、とんでもないことを口走るではないか。

まったく、怖いもの知らずなのか図々しいだけなのか、恐らく両方であるのだろう、彼の大胆さにも呆れつつも、疾駆する馬の前へ飛び出してまで自分に仕えたいと直訴してくる度胸だけは気に入ってしまっていた。かといって、氏素姓も知れない輩にたやすく仕官を許す程、信長は短絡的でも楽観的でもない。まずは彼がどれくらい本気なのかを確かめるため、城まで着いてこれれば考えようと提案し、馬を全速力で走らせた。彼は思いのほか脚が早く、小さな体でなんとも粘り強く後を追ってきて、とうとう城までの長い道程を脱落することなく駆け抜けた。約束は約束なので信長も仕官を許し、自分の身辺の世話をする小人という職を与えてやったのだった。

彼に、ある種の好奇心や興味をそそられたことは事実だ。

「うつけ」との悪評高い自分に進んで仕官するなどと、言うなれば正気の沙汰とも思えない言動をとった藤吉郎の真意を知りたくて仕方がなかった。世情を鑑みれば、大国である駿河の今川家や美濃の斎藤家を頼りそうなものだが、藤吉郎は自分を選び仕官を望んだ。彼が自分に何を求め何を見ようとしたのか、ひどく興味が沸いたのだ。身辺の世話役に任じたのも、彼を観察する目的あってのことだった。

しかし、自身の興味は藤吉郎を身近に置いて接するにつれ少しづつ、だが、着実に形を変えていった。

 

嫡子として家督を継いだとはいえ、日頃の素行を一向に改めない自分に、父の時代から支えていた家臣達が辟易していることを信長は知っていた。実の母である土田御前までもが、品行方正な弟の信行を溺愛し、信長に対してはまるで毒虫でも見るかのように嫌悪をあらわにする。

城には自分の居場所らしい居場所がなかった。物理的な居場所という意味ではなく、精神的な依りどころとしての居場所がない。自分が無為に放埒な言動をとっている訳ではないと見抜く者はおらず、無能と信長をそしる無理解の最中へ常に身を置く苦痛は何者にも分かりはしなかっただろう。

城にいると息が詰まった。絶えず悪意にさらされているかのような重苦しいむかつきを覚えて止まなかった。そんな環境下で呼べは即座にやってきて、満面に笑みを浮かべながら子犬のごとく自分に駆け寄る藤吉郎を見ているとささくれ立つ心が安らいだ。自分を見て心底嬉しそうな顔をする人間など彼ぐらいなものであろう、大抵は驚くか脅えるか、あるいは侮蔑の色を浮かべるかのいずれかだ。いつも連れ歩いている近習達や親しく交わる町の若者達にさえ、自分が毎日のように野山を駆け回り、奇妙な格好をしている本当の理由など分かりはしないだろうが、彼にはどうやらそれが分かっているらしく、信長がいくら奇妙な言動を取っても幻滅や失望の色を見せることはなかった。むしろ、頼もしくさえ感じている強い信頼感を、彼が自分に持っているのだという気がした。

 

理解されていると何故だか分かる。彼は自分を理解していると。

 

揺るぎなく自分を信じる理解者がいるという状況は、父親の信秀が死んでからは初めてのことだった。まずは安堵感、そして、次にこそばゆさ。彼がともにいる時程、自由に振る舞うことに何の後ろめたさもない解放感を得られる。次第に彼を手放しがたくなってゆく自分がいることに気がつき、逆に藤吉郎のことをもっと知りたいという愛しさを自覚した。愛しいという感情を持っていると自覚したのなら、自分は迷いなく行動に移す質だということは了知している。

 

だから、手に入れるために最も単純で素直な手段を用いた。彼を抱いたのだ。

二度抱いて、三度目に自分の腕へ彼を捕らえたのは一昨日の夜のこと。三度も肌を重ねたのに、彼は平常のような笑顔を見せず、いつも泣いて許しを請うだけで一向に自分を受け入れようとしない。体は手に入れたが心がそれに伴っていないということが、信長にはひどく我慢がならなかった。

心も欲しい。だが、彼が自分をどう思っているのかが分からない。ならば答えは簡単だ。

 

本人に訊けばよい。

 

「よし、散れ!」

信長が大声でそう叫ぶと、逃げる隊の青年達がからかうように笑い声を上げて散り散りに逃げていった。逃げる隊に振り分けられた藤吉郎は狼狽の色もあらわに、暫時おろおろと周囲を見回していたが、ぐっと唇を噛んで決心したみたく信長の視線を振り解き、一層草の深い場所を目指して一人別の方向へ走り去ってゆく。彼のほっそりとした背中が瞬く間に草葉の波間へ埋もれてゆくのを眺めながら、猿めと彼のすばしっこさに微苦笑し、じきに自身が捕縛することになる痩躯の温度を想像して愉悦に双眼を細めた。

 

追う隊は百を数えてから出発することになっているので、残った鬼役の青年達が声を揃えて数を数え始めるのを黙って聞いていた信長は、ちょうど五十が過ぎたあたりで自身の間近に立っている長槍の青年を瞥見する。先刻、信長の提案にいち早く賛同した青年だ。

「又左よ」

と軽く呼ぶと槍を片手に持ち替えて振り向いた男が、はい! と大袈裟なくらいの大声で返事した。

男の名前は前田又左衛門利家と言い、十四歳の頃から信長に仕えている近習の一人であった。付き合いが長いこともあり、家来や取り巻きというよりは親友に近い気の置けなさを利家には感じている。曲がったことを嫌う剛直な熱血漢だが多少血の気が多すぎるところもあり、町中でよく大喧嘩などしている困った男でもあった。

風貌は自分を真似て奇抜な姿をしており、がらは異なるが湯帷子と半袴という格好は同じだったが、利家のそれは、湯帷子の裾を袴には入れず外に出し、だらしなく垂れ下がった上衣をしめ縄で腰にとめていた。しめ縄からは真っ赤に染め抜いた手ぬぐいがぶら下がっており、利家が歩くとひらひら宙空で舞って、赤い蝶が男を追いかけているようにも見える。手に持つ槍もまた一風変わっており、通常よりも長い柄は鮮やかな朱に塗られ、刃を保護する鞘は獣の皮で作られていて、太刀打ちの金具からぶら下がっている槍印には雉の尾羽が結わえられているという、非常に派手な代物である。

自身、相当に奇抜な風貌をしているという自覚がある信長も、利家の様には若干負けるとも思えて心中で微苦笑を漏らした。

 

利家の手にある長槍が示すように、男の得意とする武器は槍である。「槍の又左」などと呼び名される程に、男の操槍術はずば抜けて優れていた。

槍の柄の長さは通常三間と決まっていたが、それでは敵に届かないとして信長は更に長い三間半の柄を用いている。長い柄の槍はいち早く敵に届き、しかも敵方の槍を寄せつけないが扱いが困難でもあったため、突く以外の攻撃でこの長槍を手足のごとく操ることができる者は多くなかった。しかし、利家は長槍を軽々と使いこなし、疑似合戦の遊戯においても抜群の槍術を発揮する。槍は男の代名詞に等しく、利家もまた槍を常日頃から手放さない。いうなれば朱色の柄をした長槍だけでも、男が利家だとすぐに判別がつくということでもあった。

信長は口端を歪めて利家の槍を指で示す。数え上げられた数は既に九十に達していた。

「うぬの槍を貸せ」

代わりにこれを持てと言って自身の腰に佩いていた太刀を利家に放ってよこした。

「そりゃ、構いませんが……なんでまた槍を?」

太刀を受け取り、自らの槍を丁重に差し出した利家の怪訝な面持ちを鼻で笑って、信長は一言

「策よ」

などと冗談めいた答えを返す。

だが、あながち嘘でもない。自分が狙う獲物は一匹の「猿」だ。小賢しい猿を捕縛するには自分が「信長」であると相手に悟らせてはならない。彼が逃れるのは、信長に捕らわれることを恐れているからだ。だからこそ、彼に警戒心を抱かせずに近づくには、正体をぼかす必要があった。槍を持つのは化かし合いをより有利にするための作戦の一つなので、策と呼んでも差し支えはないだろう。

豪気で直情的な性分の利家は、明朗快活で裏表のない藤吉郎とは気が合うらしく、身分は違えど二人は随分と懇意にしているようだった。二人の仲が良いというのはあくまで友人としてだと分かっているのだが、藤吉郎に激しい恋情を抱く信長にとっては、彼が他の男と親密になるということが非常に気に入らない。誰にでも分け隔てなく接するのは彼の長所だと理解しているはずなのだが、子供じみた嫉妬は簡単に拭い去れるものではなかった。

自身の頑是なさに口内で舌打ちし、信長は手にした槍を強く握り締めて溜息を一つこぼした。

利家は自分の言ったことの意味がよく分からないのか、怪訝な表情をしたままだったが、一度問うたことに対して信長が更に詳細を言い加えることはしないと知っている男は、尋ね返すこともせずに、太刀を腰に差して、様になってますかね! などと笑い腕を組んで顎を反らした。

「殿の太刀をお預かりするとは、俺もはや一人前っすか」

軽く笑って太刀の柄を叩いた利家のわざとらしい得意げな顔をふんと笑い飛ばした信長は、けやきに繋いであった青毛の愛馬をひと撫でし、口元に苦笑いを滲ませた。

「槍の又左に刀は不似合いよな」

揶揄すると利家が精悍な面を崩し、はははと苦笑いして頭を掻いた。

 

にわかに、追う役の青年達が一斉に声を張り上げて、百! と叫び、信長を顧みる。信長は片手を掲げて応じ無言のまま、追えと指示を下した。青年達が草原を散り散りに疾駆してゆくのを見て、利家もまた歩き出す。信長も草むらに向かって歩を進めたが、同じく草の青い波の中へ消えゆく利家の背に

「今一つ言うておくが」

と声高に呼びかける。気づいて振り返った男が、はい? とやはり大声で応じた。

「『猿』は俺の獲物故、手を出すでないぞ」

自身と交誼の長い利家には薄々分かってはいるだろう。信長が最近飼い始めた「猿」をことのほか気に入っているということなど。

だが、猿と仲の良い男には敢えて釘を刺しておく必要があった。論理的な理由があってのことではない。これまた、彼と最も仲がよいといっても差し支えない男に対する、ただの幼稚な嫉妬である。

おおっと納得いったみたく頷いた利家の、少し間の抜けた面構えを喉で短く笑って、槍を片手に握り締めたまま生い茂る青草を掻き分けて踏み入る。

「承知」

という返事も聞かず颯爽と走り出した信長の背を見送りながら、はー……と感心したような、同情するような、なんともいえない調子で声を上げた利家が

「藤吉郎も大変な御方に気に入られたもんだぜ……」

などと呟いたことを信長は知るよしもなかった。

 

 

 

 

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一心不乱に草むらを掻き分けて、押し寄せる緑の波の合間を走った。

鼓動が身内にうるさく響いて肺腑が鈍い痛みを発していたが、それでも息を切らして懸命に両足を動かす。

微風にも柔らかくさざめく緑の葉は、強い風を受けると生き物のようにうねって波打ち、その度に草のひんやりとした温度が汗の滲む肌を撫でて心地がよかった。更に奥深い海原の底を目指すみたく、風に揺れる草葉の波を両手で目一杯掻き分けてその合間を走ってゆく。手の甲がひりひりと痛むのは、押し寄せる緑の刃が皮膚を薄く切り裂いたせいなのだろう。しかし、手に刻まれた無数の傷を確認する暇も惜しかった。時折立ち止まって息を潜め、背後を振り返って少しも物音を発てないよう慎重な動作で耳を澄ませる。誰の足音も聞こえないと分かると、自身でも大袈裟だと呆れつつ、ほっと胸を撫で下ろした。

藤吉郎は腰を屈めて再び青草の波を大きく避けると、注意深く左右をきょろきょろと見回した。自身の小柄な体躯を今だけはありがたいと苦く思いながら、その場に腰を下ろして青臭さの充満する草葉の檻の中に身を縮めて佇む。

背の高い草は自分を完全に覆い姿を隠してくれるので心底ありがたい。声も発さずにおとなしくしていれば、まず見つけられることもないと安心する反面、この悪戯から逃げ切れたとしても後々どんな仕置きをされるか分かったものではないという不安がちらりと脳裏をよぎり、背筋を冷や汗が伝う。

揃えた両脚を腕に抱えこんで、両腕に収まった膝頭に額をぶつけた藤吉郎は、先刻から激しく脈打つ心臓の音に目の下を赤く染めて戸惑いに眉をひそめた。乱れ切った心音は疾走していたせいばかりではないと分かっているからこそ、胸にこみあげてくる脅えに彩られた羞恥をやり過ごすことができない。

深く息を吸いこみながら、中々整わない鼓動に頬が熱くなるのを感じ、溜息をついて目を伏せる。つい先程まで自分だけを一心に見つめていた鋼の瞳を思い出すと、我知らず全身の体温が上がった。指先で触れるように、唇で撫でるように、強く熱く一途な視線に、いつも自分は抗えない。月のない夜闇を思わせる漆黒の最中に、炎を秘める鋭い双眼は、苛烈な光と底知れない情熱をたぎらせ、逃れようとする自分をたやすく搦めとってしまう。

拒まなくては抗わなくてはと自身を叱咤しても、筋張った太い両腕に捕縛された時、すべては手遅れになっていた。

 

逃げられないと思う。あの人からは逃げられないと。

 

藤吉郎は顔を歪めて膝に鼻面を寄せ、奥歯を緩く噛み合わせた。

尾張の織田家に仕官したのはつい数か月前のことになる。織田に仕える以前は駿河、遠江の二国を占める今川家の臣、松下加兵衛に仕えていたものの、氏素姓も知れない自分が主人に可愛がられていることを他の家来達に妬まれ、してもいない盗みの疑いをかけられたり、あることないことで陰口を叩かれ、結局は追い出されるようにして出奔するはめになった。自分が主人に気に入られたのは昼夜を問わず懸命に働く姿勢であり心根だというのに、同じ働きをせず他人の功績をひがむのは筋違いも甚だしい。だが、主人はまだ働かせて欲しいと訴えた自分の意見を聞き入れず、追い出すことによって事の解決を図る選択をした。身を粉にして働いた見返りが解雇という裏切りとなったことに、藤吉郎は加兵衛の無慈悲を恨み、失望にさいなまれながら尾張へ戻った。

とはいっても、藤吉郎に帰る家などどこにもなかった。戦の負傷が原因で実父を失った後、母が再婚した竹阿弥という男は、実の子でない自分をことあるごとに殴って蹴り飛ばし、毎日続く酷烈な虐待に死をかいま見た藤吉郎は耐え切れずに家を飛び出した。残酷な仕打ちから逃れるには家から離れるしかなく、実父の遺産であった永楽銭十五文を元手に針を買い、行商をしながらなんとか日々を食いつないでいた。行商で得た利益は極僅かで、そのうち蓄えは底を尽き、食べるものにも困窮するようになった。小さな獣のように草葉で身を縮めて野宿することも珍しくなくなり、癒されない空腹に苦しめられながらさすらった末、ようやく駿河にたどりつき、幸いにもそこで加兵衛に拾われたのだ。

しかし、仕事と住居と食料のある満ち足りた駿河での生活は長く続かない。救いがあったとすれば、自分を追い出すことに気が引けたのか、加兵衛が僅かばかりの金銭を藤吉郎に持たせてくれたことだった。だからといって、自分に帰るところがないという現実が消え去る訳ではなかったが。

暮らしを助ける仕事もなく、寄り添って生きてくれる伴侶もなく、一人であてどもなく放浪する。合理性を考慮して与えられた仕事を簡素化し、常に効率のよい方法を模索して提案する、自分は誰よりも多くの仕事をこなし、こき使ってもらいたかっただけなのに、何故、放り出されてしまったのだろうか。悔しくて泣き喚きたかった。歯がゆくて怒鳴り散らしたかった。だが、絶望に程近い諦観に削ぎ落とされた気力は奮起することもなく、藤吉郎はただ黙々と、帰る家などないはずの尾張へ続く道をたどっていた。

 

尾張では先代の当主、織田信秀が急死したため、嫡男、信長が家督を継いだが、新しい当主の評判はすこぶる悪く、どこにいても「尾張の大うつけ」の話は耳に入ってくる。

尾張に戻って以後、蜂須賀小六という地元の豪士の下で働いていた藤吉郎は、その頃から更なる大きな仕事を求めて、武士になる夢を思い描いていた。小六の元で働きながら、良い士官先を探していたのである。

藤吉郎は当初、評判の悪い織田家の若き当主は、士官するに値しない暗君であると決めてかかっていたのだが、うつけなどと評されている割りには、耳に入る噂や人々の心証は決して悪いばかりではなく、むしろ好感を抱いている人間が多いことに驚かされた。次第に「うつけ」と呼ばれる若殿に興味を抱いた藤吉郎は、いつの間にか信長のことをもっとよく知りたいと思うようになっていた。

自ら那古野城下で信長の情報を集めているうちに、自分は若い織田の当主がうつけなどではないことに気がついたのだ。生まれが農民であることもあり、藤吉郎には武士の規範などというものは分からないが、諸国を放浪しながら商いをやっていたことも加わって、物事の合理性や利便性には敏感だという自負がある。

信長が河原で合戦の真似事をしている様子や、自身の領地の状態を逐一把握するため頻繁に遠駆けへ出てゆく様子など、動向を窺っていた藤吉郎は確信した。信長の言動には古い慣習にばかりとらわれた視点では見ることのできない合理性が存在していると。

人は嘲笑うが、通常よりも長い柄の槍も、腰にぶらさげた火打袋も、太刀の柄に縄を巻くことにも意味がある。何より、藤吉郎が信長を見込んだ決め手は、戦になると農村などから兵士を集める従来の方法を一新し、戦闘を専門とする集団を組織編成して、戦に備え常に訓練を施すという兵農分離の思考である。戦うことを専門とする職は戦の度に人手が減るため、絶えず人員を必要とするので自分のようなあぶれ者にも出世の好機が巡ってくる。その上、農民は戦の度に駆り出されることもなく、農作業の人手を失わずに済むという非常に合理的な体系であった。

うつけなどというのは正に信長が作り上げた奇策であろう。当主の悪評が広がれば広がる程に周囲の国は織田家を恐れるに足りずと油断するはずだ。

藤吉郎は織田家に仕官することを決め、信長に仕事をくれと直訴した。通常ならば怒りを買うか、あるいは無礼を働いたとして斬り捨てられても文句は言えない思い切った行動ではあったが、約束された未来のない自分にしてみれば、先に死ぬか後に死ぬかの違いでしかない。

結果、仕官を許され現在に至る。

小人という最も身分の低い役職ではあれども、主の身の回りの世話する仕事なので信長に接する機会が多く、主を知りより一層深く理解することが楽しかった。また、身近にいる分、主の家中に置いての立場なども透けて見えてくる。決して幸福とはいえない状況と環境に、信長が苛立ちや疎ましさを感じているということは肌で感じていた。一見、揺るぎのない強さを持つようにも見える主の人間らしい葛藤や懊悩を知るごとに、藤吉郎は同情ではなく信長に惹かれていった。

 

主をもっと理解したい、もっと信用されたいと願ったのは、単に主君への傾倒が過ぎたためではない。

 

紅蓮の炎をまとい、天上へと昇りゆく龍のごとき峻烈さと強靭さ、その激しさの中に見え隠れする苦痛を美しいと思った。容貌ではない。顔立ちも無論端麗ではあるが、それ以上に主の心を美しいと、そう思った。

 

今まで幾人もの人間と接し、彼らの心を巧みに汲み取って接してきた自分にとって、信長は初めて触れる型の人間と言っても過言ではない。主の前では偽りを吐けず、誤魔化しも言い訳も意味を成さなかった。すべてを見透かすような鋭敏な感性で人を観察し抜いて看破し、屈服させる飛び抜けた頭脳や才覚を持ちながら、何かを探し求め、得られずに飢えている。主を心の底から満たすことができるのは、信長という人間そのもの理解し受け入れることのできる相手なのだと藤吉郎にはぼんやりと分かっていたような気がする。

 

例えるなら、魂を共有する強さで結ばり合う絆を有する伴侶のごとく。

 

もし、なれるのなら自分が主の伴侶でありたいと望んでしまった。かつて、誰にも抱いたことのない恋慕の情は、砕いてしまおうと試みても心に根を張り日毎に甘い熱を蓄えてゆく。醜く浅ましい感情だと分かっていても消し去ることができなかった。人を慈しみはしても、愛したことのない自分が、生まれて初めて自身では制御することのかなわない、熱情のうねりを体感している。

 

主が好きだった。主君としてではなく。

 

ある日突然、信長に体を求められた時は驚きとともに苦しみと悲しみを覚えた。

物珍しい家臣への好奇心なのか、それとも手近にいたのが自分だったからなのか、伽を命じられて主を受け入れなければならない苦痛に心が張り裂けてしまいそうだった。

自分の主への好意と、主の自分への好意は中身も質も完全に別のものだろう。主の好意は珍しい玩具を手に入れた子供のそれと同じものであるに違いなかった。

自分の抱えている想いは決して実を結ばないと知り、ならばせめて仕事で役に立つことだけを純粋に願うしかなかった藤吉郎には、義務として課される伽は苦痛以外のなにものでもない。

 

勘違いしそうになる。愛されていると勘違いしそうになる自分が、ひどく醜悪な人間のように思えて何よりも辛かった。

情事の最中、泣きじゃくって許しばかりを請う自分に腹を立てた主に、黙らぬか! と怒鳴られたのはつい一昨日のこと。

昨日は平素と変わらぬ自分を装ったが、主は特に何も言わず何もしてはこなかった。今日もまた、そうなればいいと願っていたが、つくづく自分は甘いと思い知らされて止まない。主の頭に諦めるという言葉は恐らく存在しないのかもしれないと、藤吉郎は少し恐ろしくなってふるりと肩を震わせた。

 

追う側、逃げる側に分かれて遊ぶという遊戯を信長が提案した時、少しも目線を逸らさずに自分を見つめていた主の瞳は、獲物を狩る喜悦に浸る獣と同じ獰猛に輝いていた。更に、捕らえられた人間は捕らえた人間の命令を聞く、などという余計な遊び要素を付加されて藤吉郎は悟ったのだ。主は自分を捕らえる気だと。捕らえて何をするつもりなのかまでは予測もつかないが、また伽を望まれるのであれば辛いだけだ。

見つかりたくない、捕まりたくないと切実に思う。

藤吉郎は早く日が暮れてくれることを願いながら、青草の中で痩せた四肢を更に小さく縮めた。主を好いているからこそ、性欲を処理するだけの道具として扱われるのは耐えがたい。それも仕事の一環だということは分かっている。我がままだと自分が情けなくもなった。

しかし、ずたずたに切り裂かれて激しい痛みを訴える心を、隠して偽る術を自分は知らなかった。罵られて蔑まれることになら慣れている。辛くないことはないが、それでも笑顔を見せるだけの余裕は保つことができた。だが、今自分の胸をさいなむ痛みは今まで経験したことのないもので、どのように耐えればいいのかも、どのようにやり過ごせばよいのかも分からない。

藤吉郎は自身の胸を片手で強く押さえて、益々膝頭に顔を埋めた。奥歯を強く噛み締めてみても、鼻の奥がつんと痛くなり眦に熱いものが迫り上がってきそうになる。

一刻も早く、主でない誰かに捕まってしまおうと思いつき、藤吉郎は半ば自棄になって鼻を勢いよくすすると、自身の頬に軽く平手打ちを食らわせて立ち上がった。

ふと、背の高い草の合間にふらふらと見慣れたものが見え隠れしていることに気がついて目を凝らす。鮮やかな朱色の棒が草の合間から突出し、はめこまれている金具が日差しを反射してきらめいていた。持ち主ととも移動しているらしい長い棒のきっさきは、獣の革でできた鞘に保護され槍印と思しき旗には雉の尾羽が飾りつけられている。

藤吉郎にとっても見覚えのある棒、否、槍だった。一際派手な装飾を施した槍の持ち主を自分はよく知っている。途端、安堵が胸に広がり苦々しく歪んでいた面が緩んで笑みに変わった。藤吉郎は槍が動いている方向に草を薙いで数歩進む。すると、草擦れの音を聞いたのか、槍がぴたりと止まった。

「利家殿っ」

極力小声で呼びかけると、藤吉郎の声に反応して槍の尾羽がくるりと向きを変える。再度、利家殿! こちらですと呼びかけて

「藤吉郎にござる」

と名乗った刹那、乱暴に草を掻きわけて近づいて来る人間の気配を感じた。

 

何故だかひどく嫌な予感を覚えて小首を傾げる。派手な装飾の長槍は間違いなく、自分が懇意にしてもらっている前田又左衛門利家の槍だ。利家に捕まれば、肩を揉めだの馬の世話をしておけだのと雑用を命じられるだけで済むだろう。わざわざ名乗ってまで自分のいる場所を教えたのも利家に捕まるためなのだが、どうも様子がおかしい。

利家は何につけても豪快な男で、こうして藤吉郎が呼びかけた場合には大声で笑い出し、教えちまって、どうすんだ! などと呆れてながら歩いて来そうなものである。終始無言というのは利家らしくないといえばらしくない。

妙じゃなと小さく呟いて立ち尽くしたまま首を捻っていたが、そうこうしているうちに青葉の合間に人影が見え隠れし始め、居場所を知らせようと手を掲げかけて藤吉郎はぎょっとした。

 

槍を片手に握る巨躯の腰には瓢箪と火打袋がぶら下がっており、先刻と異なる部分はといえば、佩いていた太刀がなくなっていることぐらいだろう。いかにも機嫌が悪そうに整った面をむすっとしかめて自分を睥睨する男の姿に、藤吉郎は仰天してへたりと腰を抜かしてしまった。

 

「とっ、殿ぉ?!」

 

無礼とは知りつつも、震える手で男を指さし叫ぶ。槍を握り締めていたのは利家ではなく、自分が今最も会いたくないと願っていた織田信長その人であった。

「小賢しい奴。このようなところにおったか」

不機嫌そうに紡がれる低音に、藤吉郎は訳もなくぶるぶると首を左右に振った。信長は切れ長の眉を吊り上げたまま槍を片手でくるりと返し、藤吉郎の帯へ素早く石突を貫き通してから槍を持ち上げる。自然、痩躯は地面から軽く浮いて、安定を失った体に思わず、わっと声を上げた藤吉郎の手首を締め上げる強さで主がつかみ取った。瞬間、びくりと躯幹を引きつらせて脅えた目を向けてしまう。主は自分の顔を見、仏頂面を微かにひそめて、逃げるでないぞと一言命じて槍を帯から引き抜いた。手首をつかまれて硬直していた自分を無表情に一瞥した主は、おもむろに手を離すと地にどかりとあぐらかく。

「座れ」

戸惑っていると主が苛立ったように眉を吊り上げて手前の地面を叩き

「座らぬか」

と半ば怒鳴られる。藤吉郎は反射的に体を直立に正していた。

「は、はいっ」

慌てて返事をし、信長が叩いた場所に正座する。

 

自分をじっと睨みつける信長の双眼にさらされながら、藤吉郎はまるで体中を触られているようだと思った。目線で愛撫されていると錯覚する程の強い凝視に、視線へこめられた自分への好意を熱烈に感じる。別段嫌悪のためでなく、いたたまれない。前にいるのが主でなければ逃げ出してしまいたいくらいに恥ずかしいのだ。

今まで戸惑う程の激しさで誰かに求められたことなど一度としてなかった。常に自分の身にふりかかるのは嘲笑や罵倒で、真摯に実直に勤勉を貫いても人は自分の働きを一向に認めてはくれない。出自が卑しいせいなのか、それとも、自身は真面目なつもりでも他者から見れば性分に問題があるのか、いくつもの理由を列挙してみて改善に努めても、状況は相変わらず好転しなかった。

主がことのほか自分を気に入っているということは分かっている。それも今までの主人とは違う、可愛がるなどという程度ではないことも信長が身をもって教えてくれた。自分とて今まで仕えた主人の中で一番信長が好きだと思っている。

 

しかし、怖いのだ。

主を疑っている訳ではない。自分が臆病なだけだっだ。

 

これ程に自分を求めてくれる人から嫌悪されたらと想像するだけでも恐ろしかった。物珍しさや好奇心は永続しない。飽きた道具は粗雑に扱われ、そのうち見向きもされなくなるだろう。せめて仕事で役立ちたいと願う自分が、伽に使うには飽きたと捨て去られることになったとしたら、藤吉郎に残されるものは絶望しかない。役に立たないと見限られるのならば、自身の才のなさを憎めばよい話だ。しかし、肉体に飽きたと言われれば自分にはどうしようもなかった。

他の主に打ち捨てられようとも、信長に見限られることだけは避けたかった。だからこそ、安直な方法で主と繋がることが恐ろしい。

安直な繋がりは、たやすく途切れてしまう。途切れてしまえば二度と修復は利かない。

欲しているのはそんな軽々しい絆ではないのだ。

「何が不満だ」

暫時、藤吉郎を繁々と眺め見ていた信長が卒然渋面で尋ねる。しかし、極度にしかめられた精悍な面は暑さのせいではなく、僅かに紅潮していた。

「……はい?」

ひくっと肩を揺らして首を傾げた藤吉郎も、主の赤面につられて頬の熱が上がってゆくのを止められない。あたふたと俯き、見る間に紅潮する頬を必死に主の目から隠した。

信長はじれったいとでもいうように上体を乗り出し、

「俺は容色麗しく頭も賢しい。武芸とて人に劣らぬ。だのに何が気に入らぬのだ」

眉をしかめて問い詰める主の、心底分からないとでも言いたげな表情に、藤吉郎は一瞬言われたことの意味が分からずぽかんとしてしまった。何を言われるかと思いきや、よもや主の口から「俺の何が気に入らないのか」などという問いかけがもたらされるとは想像もつかず、つい目を丸くして、ええっ?! と声を上げてしまう。とはいえ

「気に入らぬなど滅相も……!」

と咄嗟に答えて、ちぎれんばかりの勢いで首を左右に振った。

腕が立つというのはまだしも、自分のことを顔が良い、頭がいいと言い切ってしまえる豪胆さが少し羨ましくなって、藤吉郎は懸命にかぶりを振りながら内心、わしにゃあ言えんわなぁ……としみじみ呟いた。

実際、信長は鋭く整った顔立ちをしており、誰が見ても美丈夫と褒めたたえるであろう。吊り上がった眦と強い輝きを秘めた漆黒の双眸にすっと伸びた鼻梁、身の丈六尺はあろうかという長身の割に、筋骨隆々といった風情ではないが引き締まった四肢と、体躯からみなぎる気勢や威風は、同年代の青年達とは比較するべくもなく圧倒的だ。背が高いため細みには見えるが、人より長い太刀を片手で振り抜く腕力を有した巨躯は、一分の隙もなく鍛え上げられていることを、主の両腕に抱かれて夜を過ごした自分は嫌と言う程に知っている。容姿や武芸の腕前で主を嫌うなどということは自分を含み、大半の人間にとっても有り得ないことではないだろうか。藤吉郎は呻いて考えこみながら、もう一度、滅相もないっす、本当にと語尾を付け加える。

すると今度は信長の方が心底意味が分からないという表情をして腕を組み益々苦い顔を作った。

「なれば、何故逃げる」

「そ、それは……っそのっ」

容貌や頭脳、武芸の力量が問題ではないと分かったが早いか、語気荒く詰め寄ってくる主にどんな答えを返せばいいのか、頭が混乱して平常のように機敏に回らなかった。藤吉郎は慌てふためき胸中で、なんなんじゃ、こりゃ一体! とたまらず悲鳴を上げていた。

不意に主が眉をひそめて

「俺の性根が気に入らぬか」

ぽつりとそう尋ねる。先程までの荒く強い語調とは異なる、落胆にも似た静かな低音に、藤吉郎は考えるよりも先に

「とんでもない!」

と答えていた。

「尾張のうつけ」など噂され、噂に違わぬ奇抜な風体と言動で織田家の宿老達を悩ませている信長だが、実際にはうつけは素振りであると藤吉郎は知っている。愚者を装う知があり、新しい思考を展開する豪胆さを備え、広まるのは悪評であるはずが人々から好感を得ている人望を鑑みれば、十分人の上に立つ素質を有していると言えるだろう。藤吉郎とて主の性根を悪しきものだと思ってはいないし、何よりも好いているのは信長の慣習にとらわれない自由奔放な想像力なので、気に入らないなどということは正にとんでもなかった。

「いかにうぬが気に食わぬと申せど、性根だけは治す気がない故、安堵したわ」

自分の返答を聞いて、うむとほっとしたように頷いた主はからりと笑って膝を打った。

藤吉郎は一体主が何を考えているのか測り兼ねてぐったりと項垂れる。よもや捕らえられた挙句に、このような尋問をされるなどと誰に想像できるだろうか。無性に居心地の悪さを覚えて

「殿、もうご容赦下され……」

そう呻くように懇願した。しかし、主は再び渋面に戻って

「たわけ! 許さぬわ。我が手を拒む理由を吐けと言うておるのだ」

焦れったいとばかりに、言え! と怒鳴って藤吉郎を睨みつける。

どう言えばええんじゃろか……と心中でぼやいていると主が眉をひそめた。怒るというよりも辛苦を噛み殺すのに似た痛みをはらんだ表情に戸惑って、藤吉郎はぐっと口を噤んで主の言葉を待つ。

「厭うておるか」

「それは違います! 普通にないっすよ、信長様を嫌うだなんて……!」

嫌悪しているのならば、とうに信長の元を出奔していただろうし、伽を要求されれば必死に拒絶していただろう。いかに仕事熱心とはいえ、好きでもない主の元にいつまでもとどまり続けることは無意味だ。主人を選ぶという点については冷静な目を持っていると自覚がある。

藤吉郎は、そんなん普通になしじゃろっと胸の内で愕然としながら叫んだ。まったくもって有り得ないことを立て続けに問う信長に、藤吉郎は慌てるより他に成す術がない。自分が完全に否定すると信長が嬉しそうに目を輝かせて

「ならば好いておるのだな」

と今度は明るい口調で尋ねる。えっと声を上げてしばし考えこんだ藤吉郎は、はぁ、まぁと……歯切れ悪く応じて

「確かに……そういうことになります……けども」

などと目線を逸らしてぼぞぼそと低く返した。確かに好いていることは好いているが、主君としてではなく好きだとはさすがに言えない。主が問うたのは、恐らく主君として自分を好いているか、ということだろう。

藤吉郎は困りに困ってしばらく心の中でうんうん唸っていたが、とうとう意を決して信長を強く見た。

「格別の寵を得て、成り上がったと言われとうない一心にござりますれば、何卒伽を命じるはご勘弁頂きたく」

言い終えると同時に両手を地面に着いて叩頭すると、頭上で、ははははっという主の哄笑が響いた。

「顔に似合わず、自惚れ屋じゃな」

ぺしりと軽く頭を叩かれて、うっと小さく呻いた藤吉郎は予想外の言葉に驚いて顔を跳ね上げた。

「侮るでないわ。惚れたというて、才覚のない奴に仕事をくれてやる程俺は甘くないぞ」

言下に信長が一瞬、しまったというような顔をし、片手で口元を押さえて目を逸らした。藤吉郎もまた顔の温度が急激に上がってゆくのを最早堪えることができなかった。ぎゅっと目をつぶって深々と顔を下げる。主の口からはっきりと「惚れた」と言われたのは初めてで、今まで抱えこんでいた不安が一気に消し飛ぶような浮かれた気持ちになっている自分のどうしようもなさが恥ずかしくて仕方がない。

 

しかし、藤吉郎は、はっとして顔を曇らせた。

主が惚れているのは自分の仕事ぶりか、あるいは他の人間よりも変わった出自故の異質であろう。信長の口にする好意は自分の想いと根本的に異なっているのだ。藤吉郎は心中で自身を、たわけじゃと鋭く罵って歯ぎしりした。

 

しばしの沈黙が続いたが、耐えられなくなったのは主が先で、あーっと面倒そうに喚いて頭をがしがしと掻き乱す。

「要するに、過分な贔屓をせねばよいのであろうが」

投げやりな口調で言って、ふいとそっぽを向いた信長の横顔にはいまだ微かな赤みが残っていた。

「いえ、そういうことでは……」

顔を上げられず暗い語調で低く答えると主が軽く舌打ちした。

「まだあるか」

言われて藤吉郎はこくりと頷き、顔を上げて怖ず怖ずと口を開く。

「そりがしはその……出自卑しき身の上にて、殿に相応しゅうないと思いまして……」

「下らぬな」

間髪入れずに、はっと鼻で笑って端的に返した信長の片側の眉が跳ね上がる。心底下らないと思っているらしいことが表情から分かって、藤吉郎は嘆息をついた。

「貴賎を気にかけるなれば、そもそもうぬを召し抱えはせぬ」

主の至極まともで道理の通った返答に、ごもっともとつい心中で大きく相槌を打って、がくりと肩を落とす。

次々とふさがれる逃げ道に窮して、袴を握り締めながら視線をさまよわせた。だが、どうしても逃げ切りたい。何か良い言い訳がないか必死に頭を巡らした。実は一つある。あるが、この言い訳はできれば使いたくなかったのだ。が、現状止むを得ない。

羞恥心に頬が熱くなるのを感じながらも、藤吉郎は

「かような習いには疎いものですから、粗相をしでかしては……」

と消え入りそうな声で口にした。

かような、とは主が申しつける伽のことだが、武士の間には衆道といって主従が肉体関係を結ぶ行為がしきたりとして存在する。農民出の藤吉郎は織田家に仕官してから衆道というものの存在を知った身なので、当然どのような作法があるのかなどということはまったく知り得ない。要するに、行為の最中に失態をするのは申し訳ないなどという、とてつもなく恥ずかしい言い訳だが逃げられるのならば内容など問うている余地はなかった。

しかし、予測に反して信長は顎を撫でながら、ほう……と呟いてにやっと笑う。

「健気なことを申しよるわ」

羞恥のあまり俯いた藤吉郎の顔を覗きこんで揶揄じみた感想を述べた主は、平素は鋭く響く低音に蜜のような甘みを滲ませて

「さような心配はするでない。俺がことごとくを教えてつかわす」

そう断言した。鋭利な双眼が獲物を補足した獣のように細まり、口角がいかにも喜々として吊り上がる。ことごとくを、の部分を殊更に強調して言い放った信長の意図を察して、藤吉郎は心中、涙声で、もういかんわ……と心底からの諦観を滲ませて呟く。この手ごわい狩人から逃げることは不可能に近いと思い知って一瞬くらりと目眩がした。

「最早よかろう」

唐突に膝を叩いて信長が言った。

へっ?! と間抜けな声を上げた藤吉郎には構わず、立ち上がった主は前に上体を屈めて険しい面持ちになる。

「この上まで、俺を欺くか」

今までの言葉はすべて言い訳だと見抜かれていたらしい。

藤吉郎は主の腹立たしげな双眼を見返し、図星をつかれて真っ白になった頭を叱咤することも忘れて、ぱくぱくと口を動かしたが発音は伴わなかった。

「打つ矢は尽き果てたであろう。観念せい」

言下に信長の手が伸びてきてあっという間に青草の床に組み敷かれる。藤吉郎は驚いて足をばたつかせたが、覆いかぶさってくる大きな体躯はびくともしない。

「うわ……っ! 殿! ちょっと……!」

お待ち下さい……! とのしかかってくる主の身体を両手で必死に押し返しながら、かぶりを振ったが手首をつかまれ、地面に押さえつけられてしまった。

「十分待ったわ」

ふんと鼻を鳴らした信長が、帯を緩め湯帷子から両腕を引き抜いて上衣を脱ぎ捨てるのを見上げ、藤吉郎は拘束された痩躯をなんとか身じろがせたが効果はなかった。何しろ体格があまりにも違う。藤吉郎の貧弱な体に主の腕力と巨体をはねのける力などありはしない。

「俺の得心がゆく返答を用意できなんだうぬが悪い」

「どのように申し上げても、すべて覆されてしまわれるでにゃあですかっ!」

涙目ですかさず反論すると主が口端を歪めた。

「申したであろう」

藤吉郎は、は? と一瞬動きを止めて怪訝な面持ちになった。それを心地よさそうに眺め見て信長が

「俺は賢しいと」

と続ける。それにと更に二の句を継いだ主は

「捕らえた鬼の命に従うが、この遊戯の掟故、な」

いかにも愉快といった風情でにいっと笑って、放心していた藤吉郎の小袖の胸元へ手を滑りこませた。ひくりと身を揺らして、痩せた胸板を這い上がるてのひらの熱さに四肢を縮める。

藤吉郎はぎゅっと両目を堅く閉ざし、小刻みに躯幹を震わせて自身の体をまさぐる手の感触に耐えた。ふっと首筋に吐息がかかり信長が顔を近づけたことが分かったが、目を開く決心がつかず、拒絶の意を示すために顔を背ける。

主は何も言わなかった。だが、藤吉郎と重々しい声音で自分の名を呼び

「どうあっても逃るるを望むなれば、死ぬ気でせい」

そう冷ややかな口調で言い放った。

藤吉郎は恐る恐る瞼を開き主を凝視する。精悍な面には冷淡な無表情が張りついており、怒るでも憎むでもない無色がぞっとする程恐ろしく感じられ体を萎縮させる。そんな自分を見て表情を曇らせた主は、藤吉郎の首元に顔を埋め

「死ぬ気で逃げよ」

と静かに囁いた。

「それができぬとあれば、俺の物になれ」

主の語調に命じる強さはかけらもなかった。

まるですがるのに似た、請うのに似た、掠れた声音に平常の気勢はなく、鮮やかな温度を伴って耳の奥にある薄い膜へ触れた言葉に、藤吉郎は無性に泣きたくなってくしゃくしゃに顔を歪めた。

言われずとも既に自分は貴方のものだと、このような行為を強いなければ逃げはしないと叫んでしまいたかった。

 

主が自分の何を欲しているのかが分からない。

体なのか心なのか、それとも、両方なのか、分からない。

 

分からない。

 

藤吉郎は堪り兼ねて首を左右に振った。弾かれるように信長が顔を上げ、奥歯を噛み締める。見る間に端正な面が怒りとも忌ま忌ましさともつかない険相に歪んだが、双眼は虚ろに濁りいつもの苛烈さは微塵も残っていなかった。

 

ゆるりと主の手が動く。袴の空きから入りこんだ手が器用に藤吉郎の下帯を解いた。大腿のつけ根に指が這い、お止め下さいっと悲鳴を上げた時には帯を解かれ、袴を引き下ろされていた。乱暴な手つきで小袖の袷を左右に大きく開いた主が、暴れる自分の喉元に口づけを見舞う。

「殿……っ! 何卒、何卒お許し下され……っ!」

何卒……っと繰り返してかぶりを振りながら、藤吉郎は唇を噛み締めた。

 

いたたまれない。

 

報われもしないというのに、このような行為を繰り返すことがたまらなく悲しくて、堪えきれずに両目から大粒の涙をこぼし、お願い致します、お許しを……と嗚咽交じりに懇願した。

途端、信長が素早く離れ骨張ったてのひらで藤吉郎の両肩をつかみ、強烈な力で地面に押さえつける。痛みに呻いた自分には構わず、主の太い指が薄い肩に食いこんだ。

「何故拒む?! 理由を言え! 言わねば分からぬ! 分からねば許しようもない!!」

叩きつけるように怒号を上げた主の顔は苦しげに歪められ、それは怒りというよりも、受け入れられないことへの焦燥や苛立ちを吐露しているようにも見受けられた。

「それがしは……殿のお役に立ちとうございます」

藤吉郎は顔を両腕で覆って引きつる喉からなんとか言葉を絞り出す。

「伽などではなく……己の働きにてお役に……お役に立ちとうごさりまする……」

涙声でなんとか自身の懇願を吐露すると、主が、何だと?! と腹の底から唸って沈黙した。

不意に体が軽くなり、藤吉郎は腕を解く。見ると主が自分のかたわらでふて腐れたようにあぐらをかいていた。

「うぬは俺に劣らず大うつけだ」

うつけじゃ! と再度苛立たしげに喚いて、主は手近にあった草をむしり、投げ捨てる。

「役目と思うて抱かれておったか、貴様」

苦虫を噛み潰したような面持ちで吐き捨てて信長が睨みつけてくる。藤吉郎は上体を起こし小袖の胸元を整えて顔を背けた。

「お役目でなければ一体……?」

分かり兼ねて思わず唇から滑り落ちた言葉に主が舌打ちで返す。

「二度も同じことを……っ」

再び吐き捨てて草をむしり、今度はそれを地面に叩きつけた信長は、はぁっと乱暴に大きな溜息をつくと黒髪を掻き乱す。そして、茫然としていた藤吉郎の胸倉をいきなりつかんで引き寄せ、額に額をぶつけた。驚いて目をしばたたかせていると、しかめ面を作った主が

 

「惚れたのだ」

 

そう簡潔に端的に、些少自棄になったみたく乱雑な口調で告げた。

「故に抱く」

顔を離した信長が真顔で語尾を続ける。今度は藤吉郎の方が渋面になった。自分の反応に些少鼻白んだ主が

「それでも嫌か」

と眉をひそめて尋ねてきた。

 

平素から忙しく回転し、休む間もなく思考を続ける自分の頭が完全に真っ白になる。何も考えられずに藤吉郎は目を見開いたまま硬直した。

惚れた、というのは一体どのような意味の言葉であったろうか。ようやく、それだけ考えついて、惚れた……? と硬直したまま尋ね返すと、主が口をへの字に曲げ、三度は言わぬ! と叱責して眉を吊り上げた。

 

職務の一環としての伽ではないのだろうか。

主が自分を好きだという感情は使える道具を愛するそれであって、愛着ではあっても愛情ではない、そう思っていた。自分が好きだというように、主が自分を好きだと思っているなどという可能性は、今まで露程も考えたことがない。

お役目では……? と藤吉郎が不思議そうに言うと、主はつかんでいた胸倉を離し、違うと言うておろうに、このたわけがっと怒鳴って自分の脳天に強烈な拳骨を落とした。突然襲ってきた激しい痛みに、ようやっと目が覚め、頭を押さえて地面を転げ回る。ひとしきり悶絶して痛みをやり過ごしてから、藤吉郎は頭をさすりながら落ち着くためにふうと大きく吐息して正座した。

主もまた真向かいにあぐらをかき、自分をじっと見つめた。

「ずっと、お役目と思うておりました……」

まずは正直に告白する。主はやはり、阿呆がと忌ま忌ましげに吐き捨てて眉間に皺を刻んだ。

「さようなことが聞きたいのではない」

上手く言葉を口にすることのできない自分に焦れて主が切りこんでくる。回りくどい言葉を好まない信長にとっては、望む答えだけを手早く知りたいのだろう。指で忙しく膝頭を打ちながら自分を睨む主を怖ず怖ずと瞥見し、藤吉郎は口ごもった。

 

実感がわかない。

主が自分を家臣や道具としてではなく好きだといった言葉の意味が、にわかには飲みこめずにいる。

しかし、確かなのは。

 

「嫌ではない……です」

 

お役目じゃあないんじゃったらと語尾をぼそりとつけ加えると、小生意気な奴め! と間髪入れずに主が鋭く応じた。しかし、その顔は笑っている。

急に恥ずかしくなって、藤吉郎は顔を下に向ける。

考えてみれば、主の言うとおり、確かに随分と身勝手な態度ではないか。役目で抱かれるのは嫌だが、愛情故に抱かれるのであれば嫌ではないなどと、まるで小娘のような言い分だ。阿呆じゃと主にぶつけられた叱咤を胸中で自分自身に浴びせかける。目の下が熱くて耳朶にまで火照りが広がってゆくのが分かった。

一人で赤くなっていると、藤吉郎と呼ばれ慌てて顔を上げて、はいっと答えた。すると、強い力で引き寄せられ信長の膝上へと座らされる。鼻先に主の顔があったが、最早逃げる気も暴れる気も、無論、拒む気も起こらなかった。ほんっとにげんきんなやっちゃな、わしゃあと内心自分の調子のよさにほとほと呆れる。

じっと主の黒い瞳を見つめていると一瞬信長の目線が下方に移り、すぐに藤吉郎の瞳に戻ってきた。怪訝に思って主が一瞥した下方に視線をやると、袴と下帯を引き剥がされた下半身が、隠すものもなくあらわになっている。わざとらしく咳払いをして小袖の裾で下肢を隠してしまうと、主が少し残念そうな顔をした。

「俺は言った。うぬも言え」

おもむろに藤吉郎の小袖の襟を引っ張り、痩身を包んでいた布を腰まで引き下ろしてから主がせがむのに似た柔らかさで命じる。臆面もなくさらされた上体を隠すこともせず、え? と、首を傾げると、主が口角を吊り上げた。

「俺を好きだと、言え」

恥ずかしくなる程の単刀直入さで再度言われ、藤吉郎は一時意味が分からず惚けていたが、すぐさまはっとして、ええっ?! と目を剥いて喚いた。早うせいと叱りながらも、大きな手は尻を撫で回し、主の抜け目なさに半眼になって藤吉郎は

「ご命令とあれば……」

などと素っ気ない返答をしてしまった。

「うぬは、まったく強情に過ぎるわ。かくも抗うか」

すぐさま眉を吊り上げた信長に、すんません、今のはなしで! と慌てて取り消しを請うと、主はふっと微苦笑した。

 

「命にあらず」

 

はっきりとした口調で主は簡潔にそれだけ言う。そして、少し照れくさそうに笑って

「頼みだ」

そう、続けた。

 

再び、早うとねだるような甘みを含んだ低音が、滑らかに耳朶を撫で鼓膜をくすぐる。身内から噴き出て一気に躯幹へと広がりゆく耐え切れない熱さに、顔が赤く染まり頭がくらくらとした。主の口から、頼むなどという言葉が出てくるとは思いも寄らず、また、自分の告白をねだる主のひたむきさが堪らなく愛しくて、胸の奥が甘い痛みに締めつけられた気がした。だが、羞恥心を中々拭い去ることができず、藤吉郎は、えーっと、あの、そのっなどと色気のかけらもなく、しどろもどろと珍妙に呻いてやっとの思いで口にした。

「好き……です」

と。

 

「俺は二度申したが」

すかさず畳みかけてくる主のにやついた顔に、この御方は! と心中で喚き散らしたものの、まんざらでもない自分に心底呆れ果てて、藤吉郎は満面を真っ赤に染めながら上目使いに信長を一瞥し

「好きです」

ともう一度囁いた。

 

不思議と告白してしまえば顔の熱は嘘のように引き、代わりに胸がひどく熱くなる。じんと痺れるのと酷似した温みが胸奥に滲み、身内へ浸透してゆくのが分かった。体の真芯が震えるような深く穏やかな熱度は、胸から上がり喉の奥で止まって、歯を噛み締めた途端に目の縁へ温かい塩水が迫り上がる。

 

藤吉郎は自身でも意識せずに口を動かしていた。

「信長様が好きです」

続けて吐露してしまった刹那、悲しくないはずなのに自然と両目から涙が溢れた。

 

頬を滑り落ちてゆく滴の跡を主の口唇が丁寧に追い、やがて瞼に口づけが落とされる。そのあまりにも優しい感触に次から次へと滴が頬を伝った。慰めるみたくやんわりと抱き締められて、広い肩に腕を回し自ら主に口づけをした。離れると、何故泣くと柔らかい声色で宥めるように問われてかぶりを振る。分かりませんと答えたが、主は苦笑して、愛い奴……と呟いただけだった。

 

むせ返る草いきれの中で、穏やかな波のさざめきを聞いた。

風に打たれて豊かにうねる、青々とした草の海。

柔らかく耳を撫でる波音の中で、欲しかったものをようやく手にした無上の喜びに深く溺れた。

 

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