弘治三年(一五五七年) 十一月
昼間は日差しの温もりを帯びていたせいだろうか、吹きつける涼風はたおやかに心地よく感じられたが、夜ともなれば風の冷たさは増して肌がぞくぞくと粟立った。
水辺に近づくと尚更夜気は冴え渡り、冷えきった空気が一気に押し寄せて衣服に居残る温もりを消し飛ばす。夏は清涼感を与える水の音も、晩秋の寒さの中では温もりをさいなみ奪いとるものでしかない。
藤吉郎は辺りに漂う寒気に思わず、ふるりと身震いしたが、両手はふさがっていて体をさすることはできなかった。片手には提灯を掲げ、もう片方の手には馬の轡を握っているからだ。奥歯を噛み締めて寒さをやりすごすと提灯を更に高く掲げて前へ進む。握った轡を力強く前方に引くと、馬が軽くいなないてすらりとした脚で枯れるかけた雑草を蹴った。青毛の馬は黒い毛色が闇に溶けるので、轡を引く時の重みを感じるまで存在するのかどうか疑わしく感じられて時折妙な気分に陥る。馬の額にある白い菱形の模様だけが暗闇の中に浮き上がり、蹄鉄の音とともに上下する菱形が宙で踊っているようにも見えた。そんな自分の胸中を察してか、馬上から、くっと短い笑いが降ってくる。藤吉郎が笑いにつられて馬上を瞥見すると
「あれよ」
滑らかに言葉を紡ぐ低音が端的に言い放つ。
藤吉郎は立ち止まり、提灯を鞍に寄せて馬上の主、織田信長を照らした。
奇抜な服装を好んでまとっていた以前とは違い、青褐色の素襖に身を包み綺麗に髷を整えた主は、精悍な面に笑みを滲ませて藤吉郎を一瞥した後、手にした鞭で前方を示す。鞭がさし示す方向に顔を向けると、ほんの数十歩先の方に炎を上げる篝火の輝きが闇を裂いて燃えていた。藤吉郎はこくりと無言で頷き、前へ向き直ると再び足を進める。馬の後方につき従っている自身の家来二人が同じく提灯を手に着いてきた。
間もなく篝火のある場所にたどり着くと、そこはどうやら船着き場らしく、船頭らしき男のかたわらには三艘程度の舟が停泊していた。藤吉郎が船着き場の端に馬を繋ぐと信長は素早い身のこなしで馬上から降り立ち停泊している舟に歩み寄る。すると、船頭が主の足元に平伏し一艘の舟をてのひらで示した。
闇夜では判別がつきにくいが、見覚えのある場所だと藤吉郎は船着き場を繁々眺めて、昼間の様子を脳内で思い描く。
長良川から分かれて流れる細い川の一つが蛇行し砂の堆積によって埋められ、流れが途切れたことよりできた河跡湖がある。名もないその小さな湖に夏場、主はよくやってきて水泳を楽しんでいた。また、船着き場を作り、舟を何艘か浮かべて川涼みや鵜飼いの弟子達が練習する様を眺めに来ることもあった。大抵の場合、主の外出には必ずつき添う藤吉郎にとって、自身の眼前にある船着き場はよく見知った場所でもある。
しかし、季節や時間を考えると今から川涼みというには少々寒すぎるし周囲の景色も見えない。鵜匠達の姿もなく、主が保護して技術の伝承に努める鵜飼いを観賞するということでもないらしい。
藤吉郎は時期が時期なだけに些少心配になって、舟に乗りこんだ信長の背を見送る。にわかに主が振り返って、藤吉郎と鋭く呼んだ。自身の家臣達に待つよう命じてから提灯を持って、はい、ただいまと返事をし主に駆け寄る。信長はそんな自分を見て小さく笑みを浮かべたまま、無言で手招きをした。乗れと命じられていることに気づき、一礼してから主と同じ舟に乗りこむ。ぐらりと揺れる足元にあたふたと体勢を立て直しながらも、舟の綱を解いた船頭から棹を受け取り船着き場の板を突いて舟を出した。さして力を入れずとも舟は軽快に水面を滑り、船着き場はあっという間に離れてゆく。小さくなってゆく篝火を茫然と見つめていた藤吉郎の背に
「来よ」
と信長の低い声が響いた。藤吉郎は棹を引き上げ舟が揺れないよう慎重に体を反転させる。舳に提灯を据えてから主の前に正座し、笑顔とも無表情ともつかない曖昧な色合いを端麗な面に滲ませる信長を静かに熟視した。
主に仕えて四年が経とうとしていた。
激動といっても決して大袈裟ではなかった四年間、自分もまたあらゆる仕事を与えられ、毎日のように終始忙しく奔走していた記憶しかない。
尾張は元々、守護大名である斯波家が統治していた国だが、斯波家の権勢が衰えたため守護代であった織田氏二家が権力を握るようになっていた。同じ織田一門とはいっても、清洲城の大和守家と岩倉城の伊勢守家の関係は劣悪で、同門でありながら頻繁に相争い、尾張国内での小競り合いが後を断たなかった。
藤吉郎が仕える主、信長は、同じ織田の姓を名乗ってはいたが、大和守家、伊勢守家いずれの流れも汲んではおらず、織田大和守信友に仕えていた三奉行のうちの一家を出自としている。しかし、主の父親、織田信秀の類い稀な才覚と辣腕により、奉行の身分で主家を凌ぐ権勢を得て、一門内におけるの評定の場でも着実に発言権を強めていった。信秀の築いてきた手腕と手法は嫡男である信長にも受け継がれ、主は主家に対してなんら臆することなく自身の確たる立場を維持し続けることに成功していた。だが、信長が家督を継いで後も多々、主家による同門同士の小競り合いは絶えることなく続いた。
権力を求め国内を戦で荒らす主家は信長にとってしてみても邪魔な存在でしかなく、主は叔父の信光と共謀して大和守信友を謀殺し、那古野城から元は主家が居を構えていた清洲城へと住まいを移した。分家筋が主家に取って変わったことにより、残る伊勢守家との関係は膠着状態に陥ったが、目立った動きもなく今日に至る。恐らく、信長はいずれ伊勢守家を掃討し、己の名の下に尾張の統一を果たすことを望んでいるだろうということを藤吉郎は薄々察していた。
争いは更に激化する。となれば、自身が活躍する場も必然的に増えることになるだろう。
手柄を欲して活躍を求めている訳ではない。苛烈な志しとともに高みを目指して飛翔を始めた主に着いてゆくには、己自身もまた飛び立つだけの力が必要なのだ。
清洲城に移り住んでからというもの、藤吉郎は以前にも増して懸命に働いた。城の塀を修復したり、薪炭奉行を務めるなどして、小人から小頭、小頭から小人頭に出世し、現在は数十人の小人達をまとめあげる立場になっていた。惜しむらくは、いまだ戦においての武功がないという点で、一足飛びに成り上がることを狙うのであれば敵武将の首を討ち取ることが最も近道だが、武芸に堪能でない藤吉郎にはそれも難しい。刀を振るうだけの腕力を持たない自分にも、扱いやすい武器の考案にはいつも頭を悩ませている。
職務とは別に、多忙な仕事の合間にも主の命で寝所に呼ばれることは度々あった。今とて、その頻繁さに藤吉郎の方が音を上げる程、信長の要求は途切れることがない。
四年前、主従としてではなく互いが互いを愛おしんでいることを知り、生い茂る青草の床で主と肌を重ねた。以降、主自身が断言した通り、自分は過ぎた贔屓をされることはなく、こなした仕事の結果のみで褒賞を与えられてきた。藤吉郎自身もおかげで安心して与えられた職に没頭することができた。唯一仕事でないのは主と床をともにすることぐらいだろう。時折、一日と間を置かずに求められることもあったが、同門との小競り合いに明け暮れるばかりでなく、旧来の慣習を廃して新たな取り組みに没頭する主を「狂気の沙汰」と倦厭する宿老達が多い家中で、理解者を得られず孤立する信長の少なからず疲弊しているであろう胸中を思うと、自分が少しでもそれを癒せるのなら、できる限り側にいたかった。
決して憐憫でも同情でもない。まして、忠義でもない。
ただ純粋に愛する人のかたわらに添うていたかった。依存するだけでも依存されるだけでも、愛情は成り立たない。互いが倒れ崩れてしまうような愛し方など、主と自分にしてみれば無意味で消極的なただの相身互いでしかなかった。
互いの腕で互いを支え、互いの身を上へと押し上げてゆく強さで、受け入れ補い合い結ばり続ける。二人と存在しない、何にも変えがたい互いが、互いの安息の在りかとして寄り添い合うことにこそ意味がある。苦しみも悲しみも喜びも怒りも分かち合いたい。強く揺るぎなく毅然と振る舞う主の中にある、ひとかけらの弱さを自分に預けて欲しい。
自分ごときが身分に相応しくない大それたことを考えていると苦く感じることもある。しかし、主と接するだに、黒鉄の瞳がすがるのに似た激しさで訴えかけてくるようで、やるせなさと悲しみに胸が詰まるのだ。側にいろと、離れるなと、裏切るな見限るな、そう喉を嗄らして叫ぶ強さで自分を抱く腕の微かな震えが、涙する程切なくて愛しかった。
願わずとも命じられずとも、自分は貴方の側にいると少しでも伝えられたのなら。言葉にしてしまうと途端に陳腐になってしまう、だが、心で思うだけでは伝えきれなくて。
手を重ね唇を重ね、視線を合わせ肌を合わせ、互いの心に触れるように深く濃く、繋ぐことのできるすべてを繋ぐのは、言葉よりも簡潔に、思いよりも明確に、互いの胸に秘めた真実を探り合うための行為だった。主も自分も欠けていた何かをようやく手に入れたような充実感を味わっている。決して拭えなかった孤独を、渇ききった心を、互いが出会って初めて満たすことができた。主以外の誰にも自分を満たせないように、自分以外の誰にも主を満たせはしない。
最初は逃げられないと思っていた。信長の手からは逃げられないと。
だが、今は違う。離れられない。離れたくない。
主の身を案じるが故に、昨今の厳しい状況には危惧を感じていた。
隣国美濃を統治していた斎藤道三が、嫡男義龍に背かれ戦死したのは昨年のことになる。道三の娘、濃姫を正室に持つ信長にとって、道三は心強い後ろ盾であり同盟者でもあった。しかし、その道三が死んだことにより、常日頃から主に不信感を抱いていた旧臣達が、愚かな信長を廃して、聡明な弟の信行に家督を継がせようと決起した。道三という強力な後ろ盾を失った信長を追い落とすに絶好の機会と考えたのだろう、家中は信長派、信行派に二分され対立が表面化し、ついには信行らが挙兵して主を攻めた。だが、易々と首をくれてやる程信長は愚かではない。襲いかかってきた信行の軍勢を逆に打ち破り、追撃してこれを追いつめた。信長に返り討ちにされた信行ら一党は末盛城に立て籠もったが、主と信行の実母である土田御前の仲介もあって結局は和解することになった。
現在は反信長派もなりを潜めているが、今また、家臣達の間に信長は当主に相応しい器量ではない、などという悪評が広まっている。家中には常に不穏な空気が流れ、誰もが気を尖らせ緊迫した状態が続いていた。そんな折りに、かつては信行にくみしていた重臣、柴田勝家からの密告により、信長暗殺計画が企てられていることが明らかになったのは今朝方のことであった。
ちょうど遠駆けに出る主に馬を引いた藤吉郎は、暗殺計画の報を得た瞬間の信長の反応を間近で見ている。
別段、顔色を変えることもせず「で、あるか」と短く返答しただけで、主は驚く素振りもなく馬にまたがり、そのまま城を出た。後を追って駆け出した藤吉郎の目に、平素は大きく見える主の背がひどく小さく感じられ、胸を締めつけられる思いがした。
主は出かけた先でも終始無言だった。帰城するまでの間、一言もしゃべらなかった。生来寡黙な主の沈黙は別段珍しいものではない。だが、他の小人達には分からずとも自分には分かるのだ。いつもとは違う、主の背に滲む拒絶にも似た無言は、苦悩を噛み殺すための自制なのだと。
早々に清洲城へ取って返した信長は、他の重臣達と何かしら話し合っていたようだが、自分はまだ評議の末席にすら名を連ねることのできる身分ではないので会話の内容は知り得ない。主のことが心配で堪らないものの、仕方なく自身の仕事を片づけて足軽長屋へ帰った。
信長から唐突な呼び出しがかかったのは日が沈んでからことで、主の胸中を慮り、悶々と夕餉を食んでいた藤吉郎にとっては寝耳に水であった。どのような用向きなのかまるで想像もつかず、取るものも取り敢えず長屋を飛び出して、主に命じられるまま馬を引き、この湖にたどり着いた。
信長は藤吉郎を前に座らせたまま熟視しているだけで何も言わない。珍しく焦れたのは自分の方が先だった。舟の上ならば相当な大声でない限り会話の内容は誰にも聞かれることはないだろう。
藤吉郎は意を決し
「信行様とお会いになるというのは一体」
そう口に出してしまってから気まずくなって、すぐさま唇を噛んだ。
遠駆けから帰った主は、信行の謀を密告した勝家に「明後日の昼、信行と会う」と簡潔に告げて、詳細を語ることもなく部屋に下がり評議に入ってしまった。その場に居合わせた藤吉郎はずっと気になっていたのだ。いかに実弟とはいえ、主の暗殺を企てている人間と会うなどと、安直であるばかりでなく非常に危険な行為と言わざるを得ない。出世したとはいえ、いまだ下級の地位にある藤吉郎が口を差し挟むことではなかったし、主に限って何も考えていないということはないだろうから、自分の杞憂にしか過ぎないのかもしれない。
だが、それとは別の、もっと根本的で単純な心配事が藤吉郎にはあった。
実の弟に命を狙われている主の胸中は、血族に裏切られる苦痛に満ちていないだろうか。それとも、二度までも背いた信行に対する激しい怒りに支配されていないだろうか。いずれにせよ、懊悩にさいなまれているであろう主の心を危惧して止まなかった。
眉を八の字にしかめた自分の視線から目を逸らし、信長は、うむと頷くだけで明確な返答はしなかった。不意に、にっと口端を吊り上げた主の態度に藤吉郎は訝って顔をひそめる。
「故に、うぬは俺の相手をせい」
すかさず紡がれた主の二の句に一瞬唖然とした。主の言葉を脳内で幾度か繰り返してから、ようやく意味を理解して目を見開く。はい……?! と素っ頓狂な声で問い返すと主が憮然と溜息をつき、にじりよって藤吉郎の肩をつかんだ。あまりにも唐突な要求に驚いて、お待ちを……! と呻いた藤吉郎は、体を後方へ退かせて顔の前で必死に両手を振る。
「ちょ、ちょっとお待ち下さい! そりゃあ、一体どのような理屈でごさいますかっ」
信長はふんと鼻で笑って前進を阻む両手をぱしりと叩き落とすと、後ろにのけ反りかけていた藤吉郎の背中に腕を回して引き寄せ顎をつかんだ。
「相も変わらず、こうるさい口よな」
そう言い捨て、信長はぽかんと開いたままの藤吉郎の口唇に自身のそれを重ねる。脅えのためでなく、びくっと双肩を引きつらせ、慌てて顔を背けた藤吉郎は尚も迫ってくる主を必死に押し戻しながら、殿……! と咎めるように呼んだ。
主と自分が身動きする度に舟が大きく揺れてちゃぷちゃぷと派手に水の音が響く。腕の力を緩めようとしない主の強情さに押し負けてしまいそうになりながら、安定の悪い舟の大きな揺れに気が気ではなかった。転覆という縁起でもない言葉が脳裏をよぎり、藤吉郎はとうとう諦めて主を押し返す手から力を抜く。このまま暴れていれば、舟が引っ繰り返ってしまう恐れがある。こういった場面で、信長は決して引かない性分であることを藤吉郎は嫌という程熟知している。押し負けるのはいつも自分の方なのだ。
仕方なく主の成すがままに身を委ねると、より一層強く抱きこまれ、堅固な両腕と強靭な胸板に押し潰されそうになって小さく喘いだ。背骨が堅い筋肉に押さえこまれて痛い。締め上げるような抱擁を受けたのは初めてで、些少の息苦しさを覚えながらも藤吉郎は応じるみたく主の胸に顔を埋める。何故だか、離してほしいと口にすることはできなかった。
「藤吉郎」
今までに聞いたこともない暗澹たる声音でおもむろに名を呼ばれて冷たく心臓が跳ねた。はいと返しながらも、地を這うような信長の低音に背筋が凍え寒気が走る。普段の主とは明らかに違う様子だと悟り、藤吉郎は息苦しさの中でおとなしく次の言葉を待った。
「俺は信行を殺す」
耳元で確かに囁かれた主の決意に、目を見開いて四肢を強ばらせる。返す言葉を考えられず、ただ主の腕の中で身を萎縮させることしかできない。自分の驚愕が伝わっているのだろう、主が喉の奥で短く笑った。
「母を同じくする実弟よ。それをこの手で殺めるのだ。俺を慰めい」
慰めろなどと冗談じみた命令をしておいて、語調にはいつもの気安さはまったくなかった。藤吉郎はぐっと奥歯を噛み締め苦く顔を歪める。
「殿……なにゆえ……」
思わず唇を滑り落ちた自分の台詞に歯がみして藤吉郎は両目を堅く閉じた。
問うまでもなく分かり切ったことではないか。
実の弟とはいえ、二度の裏切りを企てた謀反人は家長たる主の手で罰せられねばならない。二度とも許せば、恐らく信行は三度目も同じことを繰り返すだろう。信行の狙いは信長を排除し己が当主の座に就くことだ。側に支える旧臣達がそそのかしたとしても、兄であり現当主である信長に対する重大な裏切りを一度は許されながら、再び愚行を重ねようとしている。同じ血をその体に流す者であるはずなのに、信行は兄を尊ぶことより自身の野心を優先させた。裏切りを断罪せねば家臣に対しても示しがつかない。外に敵を抱えている以上、内の憂いは完全に排除せねば、何者にも後背を預けることができなくなってしまう。主は腹をくくったのだ。血族といえども罪を犯せば罰によって裁き、決して例外は作らない。当主としての責務をまっとうするには、当主自ら処断する義務を遵守せねばなるまい。
激しい抱擁に身じろぐこともできず、信長の胸板に頬を預けながら藤吉郎は
「避けては通れませぬか」
と呻くように掠れた声で問うた。
「通れぬな」
言下に主が迷いのない強い語調で答える。藤吉郎はくしゃりと顔を歪め、唇に歯を立てて口を噤んだ。
そうだ。決して避けられない。
分かっていても問わずにはいられなかった。信行を殺めることによって最も傷つくのは、他の誰でもない信長自身だ。主が傷つかずに済むのなら、避けて通れるのならば、選んで欲しくはない道だった。
だが。
無理だ……と悲しみに締め上げられる胸の内で呟いた藤吉郎は、微かに四肢を震わせて声なく言を継いだ。
誰もこの人の決意を覆すことはできない、と。
説得する気など毛頭ない。主が決めたことであるのならば、最早自分はそれを受け入れるしかなかった。人の道理にかなった正しさだけを信長に望んでいる訳ではない。いかに苦痛を伴えど、主と同じ道を進むのならば厳然たる決断の価値と意味を理解しなくてはならない。残酷であっても、無慈悲であっても、主はその茨を踏み締めて遠い明日を目指し歩みを進めるだろう。ならば自身もまた同じ痛みと苦しみを越えて、血を流す主の背を追いかける。自分だけが安穏と、平坦な道を進むことなどできるはずがない。
「何故、それがしにかような秘義をお話下さるのですか」
自分に重大な秘事を話して聞かせた理由を察することはかなわず、藤吉郎は素直に自身の疑問を主にぶつけた。信長は、はははと気のない笑いで応じて、藤吉郎を解放し舟底にあぐらをかく。自分を見据える主の黒い瞳が、諦観にも似た苦々しさの中に一瞬、炎のような激情をちらつかせた。
「信行を殺せば、御前殿に悪鬼がごときとなじられよう」
「そのようなことは……っ!」
言下にかぶりを振って否定したが片手で、よいと制して主が自嘲気味に笑った。
主は実の母親である土田御前を「母上」とは呼ばない。「御前殿」とまるで他人のように呼ぶ。主が母を母と呼ばない理由を藤吉郎は知っていた。
子を愛さない母を、子もまた愛さない。母親の愛情を請う時期はとうに過ぎてしまったのだ。主は納得し受け入れてしまったのだろう。母といえど所詮他人なのだ、と。
藤吉郎とて愛情豊かな家庭に育った訳ではなかったが、母を恨んだり憎んだりしたことは一度としてなかった。しかし、主は「御前殿」と呼んだその時に、最も深い血の繋がりを持つ母をさえ見限った。そして、今は兄である信長に刃を向けようとしている信行を切り捨てようとしている。
血の繋がりは捨て去ってしまいたくとも容易に途切れてしまうものではない。だというのに、必ずしも血が絆を生むとは限らないのは何故なのか。この乱世において、さして珍しくもない骨肉の争いは、血で血を洗い互いを滅びの道へと誘う際限のない地獄と同じだった。争いの巻き添えを食って、傷つけ奪われ虐げられる人々がいるのならば、その闘争に誰かが終焉をもたらさねばならない。主もまた、これ以上の無益な流血を終わらせるために親兄弟の繋がりを断ち切ろうとしている。
胸が痛かった。誰のためでもなく主のために、主を思い胸が痛んだ。
藤吉郎は拳を握り締め薄く笑う信長を凝視した。主は一度瞼を伏せてから両目をすがめる。その頬が一瞬、微かに引きつった。ゆるりと、だがと言を継いだ主の眉間に薄く皺が浮かぶ。
「うぬは俺を悪鬼とは呼ばぬ」
随分と間を置いてから静かに続けて、主が端麗な面を苦笑に歪めた。しかし、表情とはうらはらに、鋭利な双眼には例えようのない寂しさが滲んでいた。藤吉郎は置き去りにされた子供のように痛々しい孤独を背負う主の姿に、涙がこぼれそうになってぎゅっと唇を噛み締める。
理解者を得られず孤立する自身の言動と、親兄弟にすら受け入れられない思想、そして、他者にどれ程てのひらを返されようとも、己が己たることを否定することはできない誇り、自身では消化しきれない葛藤に主は傷ついているのだ。誰が想像し得るだろうか。今までに存在しなかった新しい統治者として、既にその片鱗をかいま見せるこの主人が、誰しもがそうであるように、拒絶され忌避され無能のそしりを受けて心をさいなまれる辛さに苦しんでいることを。
藤吉郎は、信長様……と呟いて相好を歪めた。他人から受け入れてもらえないという、自己の力では解決しきれない絶対の孤独を痛切に理解している自分にとって、主の姿は切なかった。信長の苦しみや悲しみがまるで己のものであるかのように、激しい辛苦を伴って心をさいなむ。救いを求める声を、癒しを請う叫びを、血を吐くようにして悲鳴を上げる孤高の魂が流す涙を、全身で受け止め全身で感じていた。
目端に涙が滲み視界が曇る。喉の奥が痛くなって、身内からこみ上げてくる震えが止まらなかった。どうしようもなく悲しい。主が傷ついていることが、主を傷つける人々の無慈悲が、どうしようもなく悲しくて悔しかった。
「信長様は人です」
俯きながらも怒鳴るのに似た強さで言い放って、藤吉郎は堪え切れずに泣いていた。
「鬼でも修羅でもなく、人にございます……」
涙声で続けて鼻をすすり、指先が白くなる程拳を握り締める。
人は人でしかない。鬼のように残虐になれたとしても、修羅のごとく冷酷になれたとしても、人に生まれた者は終生人以外の何者にもなれはしない。だが、自己の理解の範疇を超える人間が現れると人は皆、鬼と呼び、修羅と恐れる。鬼と呼ばれ、修羅と恐れられ、人間たる者が傷つかないはずがないと知りもせず。
人は誰しも弱い。強さだけでは生きていけないからこそ、弱さを合わせ持つ。己の強さで他者を支え、また他者の強さに己の弱さを救われる。ならば、誰にも救ってもらうことのできない弱さは一体どこへ向かえばよいというのだろう。
涙が溢れて止まらなかった。必死に歯を噛み締めて嗚咽をやりすごしても、唇がわなわなと震えて言葉を紡ぐこともできない。そんな自分を見つめて信長は眉をひそめた。眉をひそめて、静かに笑った。
「泣くな」
言って主は、いやと小さく首を振る。
「泣け」
俺の代わりに。
主が口にはしなかった言葉が聞こえたような気がして、藤吉郎は、はい、はいと何度も頷きながら、しゃくり上げてぼろぼろと大粒の涙を流した。刹那、強い力に素早く引き寄せられ再び堅い胸の中に捕縛される。応じるように藤吉郎もまた両腕を伸ばし、主にしがみついていた。
本当に泣きたかったのは主の方だっただろう。しかし、泣けない。主は泣けない。傷つく弱さを持ちながら、涙をこぼす脆さをこの主人は持たない。脆く崩れ落ちるには強すぎる人だった。心も覚悟も、誇りも理想も、志しまでもが。
泣いて癒せる傷があったかもしれない。叫んで消え去る痛みがあったかもしれない。だが、傷も痛みも飲みこんで、血を流し苦しみに耐えながら前へ進もうとする悲しいまでの強さが、この上なく愛おしく、この上なく切なかった。
自分に何ができるだろうか。何もできなくともいい。それでも。
この人と同じ道を歩み、同じ明日を見たい。
今まで漠然と望んでいた思いを今は確信と同じくらいの鮮やかさで強く自覚する。
この人の側で、同じ未来を見つめたい。そう、強く。
常にかたわらに在り、横に立ち並んでこの人を支えたいと切実に思った。
親鳥が自らの翼で雛鳥を強い日差しから守るように、この人を守り慈しむ翼になりたいと。
揺れる舟底の堅い感触を背に、藤吉郎は泣きながら腕を伸ばした。そして、捨て去られた子供のように、すがりしがみついてくる巨躯を両の腕へ懸命に抱きとめた。
淡く霧が立ちこめる水面を舟はゆらゆらと覚束なく滑ってゆく。
絶え間なく水に揺られる舟底から紫紺に染まる天空を見上げ、信長は片腕に抱いていた痩躯に鼻面を寄せた。心なしか気温は僅かに上がったような気がしたが、肌に霧が触れる度に身内で蓄えていた体温は容赦なく盗み取られてゆく。脱ぎ去った自身と彼の着物が裸身を包んでいるとはいえ肌寒い朝だった。
だが、彼に、藤吉郎に触れている箇所だけは汗ばむ程に熱く、冷たくなった皮膚を癒すこの温もりは単に体温の高さが与える熱度ではないことを信長は知っていた。
鮮烈な紫に染め抜かれた空の端から赤と白の輝きがじりじりと押し寄せ、微かに居残っていた夜の色彩を追い立てるみたく、目映い光が幾筋もの帯になり次第に広がってゆく。美しい光景だった。真新しく何かが生まれ創られてゆく、そんな神秘に満ちた光景だと思う。信長は眩しさに目をすがめて、白化してゆく空を睨んだ。
明日、自分は実の弟を殺す。
弟の信行を清洲城へ呼び出す書簡は既に発した。名目は信長自身が病に倒れたとしてあるが、無論、虚偽の書簡だった。普通に呼び出したのでは警戒されてしまう。速やかに信行を始末にするには、警戒されないに越したことはない。
無意識に感じている。胸中に冷たく滞る思考があるということを。血族にさえ無慈悲になれる徹底した冷酷が自分の中にあるということを、信長は随分と前から分かっていた。許したいと思いながらも、怒りがそれに勝る。自身に近しい人間であればある程、背信を許すことのできない憤怒が胸奥でどす黒く渦を巻いた。何故自分を裏切るのか、何故自分を信じてはくれないのか、他人ばかりではなく血の繋がりさえも信長に背を向ける。許したい、許せない、せめぎあう二つの苦悩が自分を傷つけて追いつめる。
しかし、悩み抜いた末に選択を誤るぐらいなら、例外なく罪を粛正する無慈悲を学んだ方がまだましだった。冷淡に割り切る術を身につけた方がまだしも。
自分は家督を継いだ時点で、同時に多くの責任をも背負った。己一人の迷いや苦しみで、負った責任ごと倒れてしまう訳にはいかない。
だからこそ決意した。弟をこの手で。
ぐっと拳を握った途端、腕に抱いていた小さい体が身じろいで微かに唸った。信長は仰向けに横たえていた体を横臥させ、惚けた顔で寝入る藤吉郎を眺めた。あまりにも心地よさげに寝入る彼の姿に喉で笑ったが、泣き腫らした瞼に指を伸ばして眉をひそめる。
今まで幾度となく彼を抱いた。昨夜もまた貪るようにして藤吉郎の痩躯を押し開き支配した。以前、互いの気持ちを知り得なかった頃、感情のままに彼を抱いて泣かれたことが何度かあった。その時、藤吉郎は自分に許しを請い、ただただ悲しげに泣いて自分を拒むだけだった。今は互いに分かり合っているので、そのようなことは皆無に等しい。彼が行為の最中に許しを請うとすれば、今は体力が続かないという理由で勘弁してくれと泣きつかれるぐらいだろう。
だが、昨夜彼は自分の腕の中でずっと泣いていた。拒絶のための涙ではない。悲哀による涙でもない。自分の懊悩を、嗟嘆を知り、心をさいなむ苦痛をまるで引き受けようとするかのように流した涙だった。感覚的に互いの胸中を理解し合う自分達にとって、都合の悪い感情だけを隠蔽し偽ることなど不可能に近かった。自分が彼に心を偽れないのと同じく、彼も自分には心を隠せない。
昨夜、藤吉郎を急に呼び出したのは単に会いたかったからだ。自分を理解しない人々には弱さや脆さを微塵も見せてはならなかった。自分を真実理解する彼だからこそ、側にいてほしいと思った。
彼を手放したくない。彼ならば自分と同じものを、同じ夢を見ることができる、だからこそ。側にいて欲しいと痛切に願った。お前だけは俺を見限るな、裏切るなと心の中で叫び続けていた。しかし、彼は決して自分に背を向けることはなく、むしろ、一歩一歩着実に信長との距離を縮めてくる。
失いたくない。そう口にするには意地が邪魔をする。彼の前では常に毅然とし、心身ともに強靭でありたいと思う見栄だけはどうあっても譲れなかった。彼が自分に幻滅することなどありえないと知っていても、挫ける姿を見せることにはひどく消極的にならざるを得ない。惚れた弱みであればこそ、彼が最も愛する「織田信長」の体裁を保ちたいというものではないか。だが、本当は分かってもいる。自分の弱ささえも彼は愛するだろう。信長という人間のあらゆる要素を、彼は肯定すると知っていた。藤吉郎の無限とも思える受容に、自分はどんどんつけ上がってしまいそうになる。
信長は投げ出された彼の手をやんわりと掌中に包み、その手の甲へ唇を落として額を押し当てた。
この先、自身が歩む道は峻険であるばかりでなく、時には人がましい感情を捨て去らねばならない苛酷な道程であるだろう。人は皆、自分の冷酷や厳粛に「信長は人に非ず」と口々に叫ぶに違いない。しかし、誰に罵倒されたとしても自分の胸は痛まないだろう。
ただ一人、唯一と定め愛した人間が自分を人だと言う限り、前だけを見て一心不乱に駆けてゆくことができる。だが、徹底して峻烈であらねばならない自分から救える人々がいるのならば救ってやってほしい。自分が破壊によって一新するのであれば、彼には庇護することによる革新を任せたい。
一人では世界を変えることができない。それを自分は心のどこかで知っている。ともに歩み、ともに生きてくれる伴侶がいなくては、はるか高みまで昇りつめることはできないと知っているのだ。
「離れるな」
命じるのではなく口にして信長は藤吉郎の手を握り締めた。
「決して、離れるな」
更に続けて彼の寝顔に唇を寄せる。
「どこへ行こうとも」
離れず裏切らず、着いてくると誓え。
心の中で言葉を繋いで信長は自嘲気味に苦笑いを浮かべた。この自分が、そんな誓約を切に求めていながら、口に出す自信がいまだにないだなんて。
臆病者め。
信長は心中で自分を罵って溜息をついた。
瞼をくすぐる柔らかい髪の心地よい感触に、奥歯を緩く噛んで眉間に深々と皺を刻む。
自身でもどうにもならない。彼が好きだという激しい想いだけは、どのような枷を用いても御することができない。たまらなく愛おしくて、たまらなく好きで、失うことにどんどん臆病になってゆく自分がいる。
信長は仏頂面で頭を掻き乱してから勢いよく上体を起こし立ち上がった。ぐだぐだと考えこむのは性に合わない。いずれにせよ、彼を手放す気など毛頭ないのだ。自分の心は既に決まっているのだから、これ以上執拗に考える必要などない。
くだくだしく続く自身の思考を無理やり遮断して、信長は身を起こし舟底を蹴ると裸身のまま湖面に飛びこんだ。派手な音とともに沈んだ身体を、刺すように冷たい水が包みこむ。水の冷たさに身震いしながらも、体の内が引き締まる感覚に平常の自分を取り戻した気がして爽やかな冷静が心に蘇った。
しばし、水中に潜っていたが息が続かなくなり水面に顔を出すと、なにか重いものが水に落ちるような音が聞こえて反射的に舟を見た。どうやら、自分が着水した音に驚いて跳び起きた反動で、図らずもも藤吉郎が舟から投げ出されてしまったらしい。否、投げ出されというよりは、転げ落ちたと表現する方がより適切だろう。
突然の目覚めとともに水中に落ちた混乱のせいか、彼は手足をばたつかせてもがいている。藤吉郎は泳げるはずなのだが、状況を判断する間もなく冷たい水に放り出された動揺に混乱しているのであろう、彼の胸中を察するにはあまりあった。湖の水深は浅く足が着かない場所はないので溺れ死ぬようなことはない。が、信長は溜息交じりに微苦笑し、水中で暴れる彼の元へ泳いでいって、じたばたともがく細い腕をつかみ勢いよく引き上げてやる。ようやっと水中から顔を出すことができた藤吉郎は肩を大きく上下させて荒く呼吸を繰り返しながら、多分涙目で信長を見た。多分というのは、彼がずぶ濡れなので実際は目に涙が滲んでいるのか判別がつかなかったのだ。
藤吉郎は濡れてだらりと顔に垂れた前髪を掻き上げ、呼吸が落ち着いたところで信長に向き直った。
「おはようございます……」
ぐったりとしながらも弱く笑って頭を下げた藤吉郎が、咳きこんで僅かに水を吐く。痩せた背中をさすってやりつつ、うむと応じた信長は濡れそぼった彼の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。自分が乱暴に撫でつけたせいで、朗らかな色をした髪は変な方向に跳ねたり曲がったりしている。
「よい様であるな」
堪らず吹き出して彼を指さすと、藤吉郎は自身の怪しい髪形に一時眉をしかめたがすぐに、はははと声を上げて笑い
「そうっすね」
と陽気に頷いて、一片のかげりもない明るい面へ、柔らかい笑みを滲ませた。彼の笑みにつられ、背を反らせて豪快に笑った信長は、不意に空を見上げて目を閉じた。
覚悟はできている。
自分は鬼の道を、牙の定めを。
彼に人の道を、翼の定めを預け、自分は。
立ちはだかるあらゆる他を破壊し、天空に続く道筋を迷いなく進んでゆく。
信長は小首を傾げて自分を見つめる彼の冷えきった痩躯を温めるように抱き締めた。信長様? と不思議そうに見上げてきた鳶色の双眸に苦笑で返す。温かい瞳に当てられ凍てついた心が熱を取り戻すこそばゆさに体が染み入るように柔らかい温もりを訴えている。
華奢な体は自分が少し力をこめただけでも砕けてしまいそうに脆く感じられ、どうしようもない愛しさに、信長は少しだけ泣きたくなった。