天正十年(一五八二年) 六月二日
色濃い暗黒は東の果てから次第に青みを増し、静かに闇の合間を貫く白い輝きが薄暗い空を着実に夜明けへと導いていた。
いつかの夜、それとも朝、彼とともに見つめた空と同じ神秘に彩られた暁闇は、胸の奥にまで浸透する深い静謐を帯び、すべての生命に厳粛な沈黙を与える。繁雑な思考の一切を忘却し、同じ空の下で同じ夜明けを見上げているかもしれない愛しい者の姿だけを心に思い描くこの瞬間の、優しすぎる高揚と震えるような貴さが全身に満ちていく。清い静けさの中で、己の体に残る彼の温もりが鮮やかに心臓を焼いた。
じきに東の空から朝日が昇る。光の薄絹を幾重にもはためかせ、天を類い稀な色彩に染め上げながら、何かが目覚め生まれ変わるような真新しさと神々しさで、果てしない天空を覆い尽くすだろう。
織田信長は静かに溜息をつき、欄干にもたせかけた巨躯を起こして自身の寝所へ向かい渡り廊下を歩いた。結局眠る気にはなれず、深更からの長い時間、渡り廊下からただ夜空を眺め見ていた。しかし、いまだに眠気が訪れる気配はなく、軽い頭痛を訴える脳内にくっと喉の奥で自嘲気味に笑う。
我知らず興奮しているのだ。天下を掌握する戦いに王手をかけることに、彼と会えることに血が沸き立っている。眠れるはずなどなかったが、馬を駆り長距離を移動せねばならない心身には休養が必要不可欠だ。横になるだけなっておけば一眠りできるかもしれなと思い立ち、信長は寝所へと戻ることにして、広い双肩をゆったりと落としながら再び溜息をついた。
明日、否、既に今日というべきだろう、いよいよ備中への進軍を開始することになる。堺港までは馬を疾駆させれば一日とかからないが、率いる兵士卒がいることを考えれば二日、三日の余裕を考慮に入れる必要がある。ならば単騎で、などと即座に思い至ってしまうのは、はやる気持ちが心を急き立てるせいなのだろう。出立までは最早ほんの数刻程度の間しかなかったが、何はともあれ仮眠でもとり、落ち着かない気分を鎮めるべきだ。信長は己自身を急かせる想いに内心苦笑いを漏らして渡り廊下を歩く。鷹揚に進みながらも目はじょじょに白さを増してゆく空に向けられていた。
ふと、庭に植わっていた低木の青葉が、一部分のみ微かに揺れてざわめく。風が吹けば葉は例外なく揺らめいて涼しげなさざめきを発するはずだが、皮膚に触れるのは湿度の高い空気だけで微風の気配すらなかった。信長は両目をすがめて足を止め、無表情のまま動いた青葉の暗がりを睥睨した。にわかに、自身の立つ渡り廊下の真下から、こつっという軽い音が、注意していなければ聞き落としてしまいそうな微かさで響く。信長は面から感情の一切を消し去って腕を組んだ。
「ご無礼を」
廊下の板を挟んで足元から突然声が発せられる。低いというよりは聞き取りにくいとも思えるぼそぼそとした声音だが、奇妙なことに話すことの内容は聞き返す必要がない明確さで鼓膜に触れた。別段驚くこともせず沈黙をもって声に応じると、信長は再びかたわらの欄干に半身を預け、爪先で廊下の板をとんと弾く。かけられた言葉と同時に、先程は皆無に等しかった人の気配を唐突な程の鮮明さで足の下に生じる。存在を訴えるため、殺していた気配をわざと表したのだろうと予測はついた。本能寺周辺を見張らせていた自身の忍びであろう、この時間に何の用もなく信長の元へ馳せ参じるはずがない。ただ事ではないとだけ知れて素早く思考が切り替わり、脳内と胸奥は鋭利に澄み渡った。
「火急の事態故、用件のみ言上致しまする」
廊下の下から再び声が発せられた。忍びの言葉に、やはりなと胸中で頷いた信長は眉間に皺を刻む。
忍びの中には喉を鍛練することによって特定の人間にだけ声が聞こえるよう特殊な発声方法を会得した者がおり、彼らの声は、例えば信長に伝える事柄があった場合は信長にしか聞こえないようになっている。声音としては聞き取りにくいはずの籠もった声があまりにも判然と耳に届くのは、恐らく、足の下で控えている忍びもまた、その技術を会得した者の一人なのだろう。この声に答えることは廊下で独白することとなんら変わりがない。用件を聞き、指示の必要があるまでは黙して耳を傾けることが妥当な対応である。
信長は廊下の板を足の親指で叩いて先を促した。
「昨晩より沓掛にて不穏な動きあり。幾千の松明が京に向かい下る様を確認致しました。尋常ならざる速さにて接近中にございます。急ぎ、具足の御用意を」
予想外の報告にこれといって驚きもせず、忌ま忌ましげに顔を歪めた信長は沓掛と聞いて奥歯を噛み締めた。
明智光秀の所領である丹波の亀山城から備中へ向かうには三草山を越えてゆくか、京を経由するなれば老ノ坂から沓掛へ至り、山崎方面へ南下するという二つの経路がある。光秀から受けた報告では、男の率いる軍勢は備中へ向かう際に三草山を越えるとのことだった。自分に報告した経路を直前で翻し、沓掛にまで軍を進めるという突飛な行動は、光秀の生真面目な性分を考えれば単に人を驚かせるための演出ではないはずだ。そもそも光秀は自分や秀吉のように奇想天外な企画を催し、民衆の耳目を集めるといった演出には消極的であり不得手でもある。
沓掛はまた、東へ進み桂川を越えれば京の町まで間近に迫る分岐地点でもあった。半ば察しはついていたが、信長は長い沈黙の後にくっと喉の奥で低く笑う。
「いかに見る」
宙空を楽しげに睨み据えて足元へと鋭く問う。しばしの無言の後に
「標的なるは上様の御身かと存じまする」
と返答があり、信長は、で、あるかと顔色一つ変えずに呟いた。
最早疑いはない。兼ねてより秀吉が危惧していたように、再び信長を窮地に陥れる背信が起こったとみていいだろう。誰もが本能寺には自分の他に少数の供回りの者しか存在しないと思いこんでいる。防御手薄な本能寺に奇襲をかけるのであれば、これ程の好機はないと信長自身すら考えるぐらいなのだから、凡骨の士にとて容易に思いつくはずだ。既に謀反人の顔は頭に浮かび上がっていたが、信長は念のため床板を瞥見する。
「敵は誰ぞ」
「物見を放ちました所、旗印は桔梗の紋であったと」
予測していた通りの返答を得て、ふんと鼻で笑った。
「きんかん頭が」
喉を嘲笑にうごめかせ、忌ま忌ましげに吐き捨てた信長は欄干から身を起こし口元から笑みを消す。
桔梗の紋は明智光秀が家紋とするものである。今までの仕打ちを考えれば、光秀が離反する原因はなきにしもあらずといったところではあったが、単独で謀反などという大それた行動を取れる男ではない。忍びの報告から推察するに、沓掛周辺においてのみ動きがあるとするのならば、光秀が周辺豪族を始め、諸大名への根回しをしていないことは明らかだ。自分ならば間違いなく諸大名に調略を施し、沓掛のみでなく丹波口など京の入り口四方を固め、現在織田家当主でもある息子、信忠の投宿する妙覚寺、そして、自身がいる本能寺へ同時に攻め入り挟撃するであろうからだ。信長か信忠のいずれかを取り逃せば謀反は失敗に終わる。それが分からない光秀ではない。いずれかを逃す可能性が大きいと知りながら、一方向から侵入し攻めてくるということは、何らかの勝機、あるいは、算段があってのことだろう。
となれば考えられることは一つ。
後ろ盾があるのだ。自分の首級を上げた後に諸大名への手回しを行っても、優位になれると信じられる確実なつてがある。
信長は油断ならない共謀者の存在が光秀の背後に透けて見えるようで、ひどくおかしくなった。自分が本能寺に投宿するのと日を同じくして、備中への援軍を約定した徳川家康は極少数人の供回りを連れ堺を遊覧しており、信長のいる本能寺からは近い場所にいる。そのため、前日本能寺において開催された茶会に家康を招いたが、堺を見物した後は急ぎ三河に帰って援軍の準備を整えるからと丁重に断られた。京に住む公家衆ばかりでなく、現関白太政大臣である近衛前久を招いた盛大な茶会である。前久という、現職の関白とまみえることは後々のことを考えると顔と名を売りこむ良い機会と言っても過言ではない。腹に野心を抱える家康のような男が、その絶好の機会を援軍の準備などという理由で袖にするはずがなかった。断られた時、信長は意外に思ったと同時に男の胸襟に何事かあると鋭く読み抜いていた。
なるほどと笑いながら心中で頷き、信長は乱暴に床板を踏み締め本堂に向かって渡り廊下を素早く歩く。
三河、遠江、駿河の三国を所領とする大大名となった家康が、信長亡き後、光秀の味方に着けば戦局はどうなるだろう。周辺の大名達は残された信長の子らや織田方の将卒ではなく光秀方に傾く。大国の領主である徳川が味方に着けば、今後の利害を考えた時、謀反という不義を差し引いても光秀に味方するのが得策と判断するはずだ。
きんかんが狸に化かされおったわと胸中で舌打ち交じりに吐き捨てた信長は立ち止まり、顔を後方へ傾ける。
「信忠にも伝えよ」
移動したはずだったが命じると足下から、御意と短く応答があった。
「既に軍馬、兵士ともに準備整いましてござりまする」
続けられた語尾には答えず、信長はにっと口角を歪めて、鋭く光る黒鉄の両目に一際冷淡な光を浮かべる。光秀が自分を討ち漏らしたと知れば家康は地団駄を踏んで悔しがるだろう。もしくは、知らぬ存ぜぬと無関係を貫くか。いずれにせよ、愚かしい野望に駆られた強欲な人間にくれてやる程自分の首は安くなどない。氷のように冷たく冴え渡る胸中に理知的な思考とは別の、怒りにも似た熱い感情がこみ上げてくるのが分かった。火花を上げて燃え盛る激情の正体が闘争本能だということは熟慮の余地もなく分かり、信長は現状において逃げるより他に術がないことを口惜しいとさえ思う。
総力を率いているのであれば返り討ちにしてくれるものを。
ふつふつと胸を満たす楽しさに重く肩を揺らしながら、東の空に一瞥くれた一瞬だけ、面から凶暴な歓喜を消し去り目を細めた。
「役目を与える」
静かに、しかし、厳然とした語調で足下に言い放つ。沈黙で応じられ、前方を見据えた信長は端麗な面から表情の一切を消し去った。
「予が去った後、この寺に火をかけい」
言下に、御意と返答があり、足の下に感じていた気配が霧のように掻き消えた。
じきに妙覚寺にいる信忠にも現状の危うさが伝えられ、慌ただしく逃走への支度が整えられるだろう。隠し置いた兵は二千、光秀が率いる軍勢は少なく見積もっても一万を越える。正面から激突すれば数で圧倒され、攻め滅ぼされてもおかしくはない物量差だ。この場合、本能寺に立て籠もることは自殺行為であろう。いかに防御に優れるとはいえ寺は城ではない。籠城戦を挑むには町中という立地の面でも不利が目立つ。いち早く堺港に向かい、要諦に潜んでいる秀吉の軍勢と合流する必要があった。だが、現在大将として兵士卒に指示を下せるのは信長と信忠しかおらず、自分と信忠、役職を考えれば、いずれも殿軍として本能寺に残る訳にはいかない。追いすがってくるであろう光秀の軍勢を食い止める殿部隊の編成は見込めないが、多少の時間稼ぎが必要となるため、ないという訳にもいかなかった。ならば、一刻でも長く敵の目を逸らすためには、自身の宿所である本能寺を燃やし、攻めこんできた敵兵士を撹乱させなければならない。
本能寺はよい宿所であったが
「是非に及ばず」
くくくと喉元で短く笑い信長は再び本堂へ向かった。だが、気づいて足を止める。
砂利を踏みしだく馬蹄の音が暗闇の中から次第に近づいてくるのが聞こえ、眉間に皺を刻んだ。よもや既に攻めこまれていたのかと一瞬身構えたが
「信長様! 信長様はいずれにおられまするや!」
そう懸命に叫ぶ声を耳にとららえ、門に近しい庭先へ向かい渡り廊下を走った。庭に面した廊下の上から門の方向を凝視すると、篝火に照らし出されて暗がりから一頭の馬と馬にまたがる若武者が姿を現す。若武者の背には五三の桐、即ち秀吉が家紋とする紋を染め抜いた旗印がはためいていた。若武者は信長を見つけ、転げ落ちるように慌てて下馬すると砂利の上に片膝をついて深く頭を下げる。
「御前における無礼、お許しを!」
いかにも不慣れといった敬語が緊張のために些少震えていた。兜を目深にかぶっているため顔の判別はつきにくいが、声だけでも年若い青年であると知れて、秀吉が長浜で集め育成していた子飼いの将達のことを思い出した。長浜城へ赴いた際に、秀吉が育成していた幾人かの子供達を目にしたことがあるが、幼かった彼らが具足を身につけ、馬を乗りこなす程大きく成長していることに淡く感動を覚える。子がない秀吉は彼らを父親のごとく可愛がっていた。誰それが元服した、誰それは仕事の覚えが早いと嬉しげに彼らの成長を語ることが度々あった秀吉に感化されたせいだろう、我が子にも感じ得なかった子供の成長の早さにある種の感慨が胸をよぎった。信長は鋭利に吊り上がっていた眦を和らげ、無言のまま青年に言葉の先を促してやった。
「我が主、筑前守より身命を賭して大殿をお守りせよと申し遣って参りました! 本能寺に残り敵を食い止めまする! 信長様におかれましては急ぎ堺へ!」
興奮と緊張がないまぜになった怒声にも近しい大声で、勢いよく言って拳を握った青年を凝視した信長は微かに眉をひそめる。
「名を申せ」
端的に尋ねるとまさか名前を訊かれるとは思わずに驚いたのか、青年は顔を上げ戸惑った表情をしたが、すぐに太い眉を吊り上げぐっと唇を噛み締めて平伏した。
「福島正則と申しまする」
名前を口にした青年、正則に、面を上げよと命じた信長は
「正則よ」
と青年の名前を呼んだ。間髪入れずに威勢のいい声が、はっ! と応じる。
「身命を賭すと申したな」
「はいっ」
信長は迷いなく返答した正則に眦を吊り上げ、たわけが! と怒鳴りつけた。
秀吉が己の可愛がっていた子飼い衆の死を望むはずはなく、命を賭けろなどという命令を青年に託すことは考えられない。身命を賭けるという言葉も、本能寺で敵を食い止めるという申し出も正則の独断だと予測がつく。
何のために秀吉が丹波口や山崎に伏兵を置いたのか。信長の身を確実に守り抜くことは無論のこと、遣わした兵士が無駄死にすることを防ぐためでもあろう。数が多ければ敵軍も圧倒され深追いはしない。逃げ切るまでに背後が疎かになるといっても、武将一人の命を使い捨てにしてまで殿軍をおかねばならない状況ではなかった。敵の動向よりも信長の、否、信長と秀吉が一歩勝り迅速な退却が可能となった今、足止めに長い時間を必要とはしない。血気盛んな若者らしい正則の発言に苦笑いを禁じ得ないが、猛進し死に急ぐだけが忠義の在り方ではないと、青年を諌める必要があった。
信長は重く溜息をついて腕を組み、緊迫に強ばった正則の顔を睨み据える。
「筑前なる男は、己の臣下に死して役目を果たせなどとは決して言わぬ。この信長にそれが分からぬと思うてか」
途端に青年は顔を狼狽にひそめ、あたふたと両手をつき一際恐縮したように頭を下げた。
「も、申し訳のう……っ」
再度頭を下げる正則の背にあった旗印がひらりと微風に翻り、まるで秀吉が「もうお許しになってやって下されませ」と苦笑しているようでもある。
「うぬを死なせれば、あやつに面目が立たぬわ」
本心から吐露して信長は小さく笑った。秀吉を悲しませることは、いつの時も自身の本意ではない。自分の無事と正則の命、この二つのいずれが欠けても彼が辛い思いをするということは目に見えていた。このような時であっても、このような時であるからこそ、自分はいずれか一つではなく、二つともに欠け得ぬことを選び取る。
「正則よ、うぬは先頭を走り、予を姫路まで案内せよ。しかと命じる」
よいなと念を押して顔を上げない青年に指示を下す。正則は胸を突かれたように顔を上げて信長を凝視した後、地面に頭突きする程の勢いで叩頭し
「ありがたき……っこの身に代えましても必ずや!」
と涙声で言った。どうにも正則は命や己の身を賭けるという大仰な言葉が好きなようだ。青年の剛直さに、ふっと思わず微苦笑を漏らし、信長はきびすを返して本堂へ足を向ける。
「誰ぞある!」
大股に歩みながら声を張り上げると、肩衣袴を着こんだ自身の小姓、森蘭丸が控えめに姿を現し、おはようございますと平伏した。
夜明け前の森閑とした空気は瞬く間に変質し、皮膚に突き刺さる緊迫に張り詰め荒々しい熱気にみなぎっている。慣れた空気だと信長は思った。戦を前にして兵士卒の体躯から滲出する緊張と高揚、そして、恐怖が入り交じる独特の先鋭さと熱に満ちた空気だ。先程から漸次高まっていた緊迫感に、伏し置いた兵士達が周辺寺社から集まり本能寺南北の門に集結しつつあるのだと分かった。
じょじょに高まる鋭さに鼓膜がきんと痛んだ。巨躯の隅々を巡る血が冷たく静まり心が鉄壁の冷徹に固められゆく。だが、身内で煮えたぎる黒い炎は体温を熱く上昇させ、残忍な歓喜をもたらして止まない。
信長は蘭丸を一瞥し一旦足を止める。しかし、すぐに本堂へ向かい歩みを進めた。
「具足を持て」
最早事態を飲みこんでいるらしい蘭丸の動揺一つ窺えない凛とした表情に口角を歪め、通り過ぎ様、短く命令を下した。
様子がおかしい。そう気づいた時、身内をいい知れぬ寒気が走り抜けた。
だが、おかしいというのならば自身の行動自体が最早狂気の沙汰である。だが、今更恐れたところで後戻りなどできはしないのだ。自身に言い聞かせながらも、血を凍えさせる予感めいた恐怖は一向に消え去る気配はない。
明智光秀は馬上から暗黒に沈む京の町を凝見し、間断なく聞こえる涼やかな川のせせらぎを煩わしい思いで聞いていた。平素の自分ならば、真夏の暑さを和らげる川音の風情を楽しんでいたに違いない。しかし、心を占めるのは無闇に自身を追い立てる焦燥と正体不明の怯懦のみで、手綱を握る掌中には伝い落ちる程の汗をかいていた。今自分が最も欲する報告を一刻も早く耳にしたいとそれだけを祈るような痛切さで願う。また、願わずにはいられなかった。
主君を弑逆するという、己にとってしてみれば空前絶後の決意を実行に移しているのだ。
主君、織田信長の首を検分するまでは安堵の溜息すらつくことはできない。信長というのはそういう男だ。確実に死んだと分かるまで油断ができない。もしも、信長を取り逃し生かしておいたままにすれば、謀反を起こした自分は必ずや反撃され攻め滅ぼされるだろう。例え今が優位であったとしても、しぶとく生き延びて力を蓄え、敵を跡形もなくその牙と爪で引き裂いて滅ぼす。家臣にさえ爪を立てることを厭わない、苛烈な信長の性情を間近で見てきた光秀には分かるのだ。信長を生かしておけば死ぬのは自分だと。
少数の供回りのみを連れて信長が本能寺に投宿すると知った時、好機だと思った反面、躊躇いもした。取り逃がせば好機はたちまちのうちに己の窮地へと成り代わる。光秀には背水の陣ともいうべき戦であった。信長の恐ろしさを骨身に染みて理解している自分には、反旗を翻した以上、元の主君を完全に抹殺するという選択以外にとるべき道はない。その他の選択肢の一切は眼前に残されていない。
本来ならば自身が軍を率いて先頭を切るべきであったが、娘婿でもある明智秀満に「殿がじかに手を下せば謀反のみならず、主君殺しの汚名をかぶることになる」と諌められ、沓掛から桂川付近まで進軍した後は、尖兵隊とともに京へ侵入した斎藤利三、明智秀満の軍に本能寺侵攻を一任した。現在は彼らの帰還を待つのみであり、総勢一万三千にのぼる兵士の一部とともに桂川で待機している最中である。
主命を果たすなれば、自身の所領となった丹波の亀山城から、現在毛利と抗戦中の羽柴秀吉に援軍として合流しなければならなかった。
だが、自分は亀山城で一晩考えた末に腹を括った。信長を討つと。
秀吉の笑顔が脳裏をよぎる度に、なんともいえない罪悪感が光秀の胸を鋭く刺す。できることならばこのような事態に陥る前に約束を果たしたかった。否、約束などというのは口実にしか過ぎない。会いたかったのだ。日差しのように微笑む秀吉の陽気で前向きな性分は、彼が思っている以上に周囲の人間を救い、荒んだ心に潤う水を与えてくれる。自分がその最たる例であるといっても大袈裟ではなかった。後悔があるとすれば、信長を信仰にも等しい強さで敬愛する秀吉の敵となり、彼の神ともいうべき主君を弑逆した裏切りだ。
彼の笑顔を思い出すと胸に苦々しさが満ち、詫びたいという強い気持ちに駆られて光秀は歯ぎしりした。
光秀は秀吉が播磨へ出兵する前、安土にある彼の装束屋敷を突然訪ねたことがあった。当時、武田征伐のため甲斐へ出陣した信長は、そのまま駿河を回って富士を見物すると言い、安土へは帰陣していなかった。信長とともに甲斐への派兵に加わっていた光秀は自身の発言が原因で、諏訪に敷いた陣において主から猛烈な折檻を受けるはめに陥った。髪を鷲掴みにされて欄干に幾度となく額を打ちつけられ、気が遠くなる激痛の最中で、与えられた屈辱に臓腑の底が黒く爛れてゆくのが分かった。深い傷を負った額の痛みとともに、解消しきれない憤懣と自分に対する信長の手ひどい仕打ちへの疑問に、光秀の胸中は憂鬱で淀み切っていた。流浪の身から引き立ててくれた恩があるとはいっても、ここ最近、光秀に対する信長の言動は酷烈を極め、耐えがたいものになっていた。誰かに愚痴を吐いたとしても、それが信長の耳に入れば自分への仕打ちは一層峻烈になるだけでしかない。
光秀は迷いに迷った末にふらりと秀吉の元を訪れた。自分でも何故彼の元へ足を向けたのかは分からない。彼とは特に懇意にしている訳ではなかったので多忙を理由に断られる可能性もあったが、秀吉は出兵準備で忙しさを極めているにも関わらず、光秀に会う時間を設けてくれた。彼の言葉や笑みは胃の底を糜爛させていた鬱屈を解き放ち、信長に憎悪と酷似した怒りを感じていた光秀の心を随分と和らげ救ってくれた。
自分は心のどこかで彼に依存していたのだと、今更ながらに思い至って光秀は両目を閉ざす。
自分が秀吉に対して好意的でいられたのは、家中での立場や出自において彼よりも優れているという優越感がなきにしもあらずであったからだろう。無意識のうちに彼を見下していた。自分より下位にある人間に敵愾心を抱くことは己の地位や自尊を貶めるだけのことでしかない。だからこそ、自分は優位にあるという余裕から、秀吉に好意的な態度を取ることができたのだと思う。それなのに、いざ立場が逆転した途端、自分は秀吉の優しさにつけ入って、あたかも被害者といわんばかりの顔で彼を頼った。情けないばかりでなく、姑息で卑劣な自分自身に吐き気がして、光秀はより強く、秀吉に詫びたいという気持ちが胸中に積もってゆくのを感じた。
信長との余暇を終えて帰った際は、ともに酒を飲もうという約束を彼としたが、出兵を目前に控えていよいよ多忙極まる秀吉にそのような時間が取れるはずもなく、約束は果たされないまま数年が経過した。一年前、久しぶりに秀吉が安土に帰ったと聞き、光秀はいてもたってもいられず彼に会いに行った。
信長に対する不満は強まる一方であったが、それとは別に心揺れる出来事が自分にはあった。
秀吉が播磨へ赴いてからしばらく経った後、信長から武田の旧領である駿河の国を拝領した礼を述べるため、徳川家康が安土へやってきた。光秀はその時、家康の饗応役を申しつけられたが、肝心の信長はというと宴席に僅か居座っただけですぐに退席してしまった。各地から懸命に集め持ち寄った最高級の食材を使った料理の数々に、家康は満足した様子であったが信長の膳は箸一つつけられていなかったと侍女から聞き及んでいる。そもそも、軍司令官たる光秀に接待役を申しつけるのはお門違いも甚だしい。接待の役を担うに相応しい旗本や吏僚がいるにも関わらず、敢えて自分に饗応をさせるという信長の考えもよく分からなかった。分からないというより、その頃の自分は信長が何をしても当てつけているようにしか取れなかったのだ。信長が秀吉に特別な執着を持っていることに気づいていながら、彼を重用することすらも自分への厭味や皮肉としか考えられなかった。それだけ鬱憤が溜まっていたこともあったが、精神的に追い詰められていたと言う方がより正しいだろう。
宴席の翌日、信長は家康と鷹狩りに興じた。家康はそのまま三河への帰途につくことになり、送るよう命じられて岐阜までの道を家康に同行した。家康は押し黙る自分に卒然、天下が一人の人間の手に委ねられることをどう思うかといった質問を投げかけ、唖然とする光秀にこうも言った。
信長が天下統一を果たせば、今まで戦に打って出ることを専門として働いてきた部将達は不必要になり淘汰されるだろう、と。
気づいているはずだ、と男は続けた。
信長から格別の寵を受けている秀吉以外は、皆一様に始末される。必要のなくなった道具のように処分されるのではないかと、底冷えのする暗い目で自分を凝視して語った家康は突然笑い出し、冗談だと物騒な言葉を煙に巻いてしまった。
しかし、しばしの間をおいて、天下を握るに相応しい人間は信長ではなく他にいると、温厚な面に笑みをたたえたまま、家康は尚もただごとならない言葉を続けた。光秀は家康の冗談とも本気ともつかない言葉を咎めることもせず思わず問うていた。
では、誰が相応しいのかと。
家康はやんわり微笑んでから馬を止めて道端に降り立つと、草むらで揺れていた桔梗の花を一輪摘み光秀に差し出した。そして、再び馬にまたがり、困ったことがあればいつでも三河へいらっしゃるとよいと言い残し、供回りの者を連れて颯爽と去っていった。
手渡された桔梗の花に光秀は自身の忠義が大きく傾くのを感じていた。家康とのそんなやりとりがあってから、自分は三河へ頻繁に手紙を送るようになっていた。家康からの手紙は光秀の才覚を褒め称え、優秀な人間を軽んじる信長の辛辣が信じられないといった内容が多く、自身を認めてくれる相手に飢えていた光秀は家康との書簡のやりとりを楽しみとするようになり、次第に男がしたためた通り、自分の才覚を認めない信長の方に非があるのだと思うようにまでなっていた。
怖くなった。長い流浪の人生から拾い上げ、引き立ててくれた信長には一生尽くしても返せないだけの恩がある。だが、揺らいだ。天下を取るに相応しい人間は桔梗の花、即ち、桔梗の紋を有した人間だと、家康は暗に光秀をけしかけたのだ。また、不必要になれば始末されるという男の言葉も大きく響いていた。とはいえ、家康の言葉に易々と乗じる程光秀は軽率でもない。
日々を懊悩の中で過ごしていた光秀にとって、秀吉の数年ぶりの帰還は安堵ですらあった。しかし、彼は信長に呼び出されたまま深更になっても屋敷に帰ってくることはなく、諦めて丹波へと帰った光秀の元に秀吉から手紙が届いた。また次の機会にともに飲もうという約束が記された手紙に、光秀はひどく喜びを感じたことをよく覚えている。早速返事を書いた。返信はなかったが、次に彼が帰還した時が約束の果たされる時だと、なにとはなしに思っていた。
だが、約束は果たされない。永遠に果たされることはない。
秀吉の援軍要請を受け備中へ出陣することを決めた信長が、本能寺にほんの数人の近習達と投宿すると知った時、訪れた絶好の機会に自分の心は瞬時に固まった。信長を討ち自分が天下を掌握すると。
家康とは、信長を倒した後には光秀の後押しをすると密約を交わしており、調略によって本能寺襲撃の情報を漏らすよりも、手勢で奇襲をかけることの方が確実と判断し、備中へ赴くはずだった足を京へ向け、今に至る。家康という大国の領主が味方に着けば、本能寺襲撃後の織田軍討滅においても、他の大名達が利を考えて光秀側に着くという確実な算段もあった。
自ら彼との約束を破棄したにも相応しい行いをしておきながら、せめて一目会いたかったと願ってしまう。秀吉には彼を嫌悪していた人間の心をすら溶かして好意を抱かせてしまう、何か才能とも違った独特の力があるように思えてならない。自分も彼の力に溶かされたのだろう。信長を裏切ることよりも、秀吉を悲しませることに強い罪悪感を覚えている。詫びたいと、彼に詫びたいと、再びどうしようもなく苦い気持ちが胸を満たし、光秀は堅く双眼を閉ざして奥歯を噛み締めた。
「伝令ー!」
突如鼓膜を貫いた声に、はっとして苦く曇る思考を強引に断ち切る。秀満、利三とともに本能寺の様子を見に行かせた尖兵隊が戻ってきたことを知り、我知らずほっとした光秀は、強ばっていた面を微かに和らげた。背に桔梗紋の旗印を差した伝令が暗がりから駆け現れて光秀の乗った馬のかたわらに膝をつく。
「ご、ご報告致します!」
どもりながら頭下げた伝令のひどく慌てた様子に、光秀は怪訝な面持ちになりつつも無言で言葉の先を促した。
「本能寺炎上……! 本堂、殿舎とも火の手が回り、境内は火煙に巻かれ近づくことかないませぬ!」
「燃えているだと……?! 何故です! 一体何故……!」
予想だにし得なかった報告に光秀は血相を変えた。原因を問いただしても伝令は申し訳なさそうな面持ちでかぶりを振るだけである。
本能寺への襲撃は夜明けとともに開始される予定だったが、東の空は白んでいるといっても太陽の姿さえいまだ見えない時刻だ。夜明けというにはまだ半刻程度の時間がある。秀満、利三に限って、功を焦り突出することは考えられなかった。そもそも寺に火を放てば信長の遺体は燃え、最悪の場合、その首諸共灰になってしまう恐れがある。首級を上げなければまったくの無意味にしかならない状況下で、手勢のうちの誰かが本能寺に火を放つことは考えにくい。
自分が攻めかかることを知っていたかのように燃え上がった本能寺に、光秀は全身が震えるような不気味さを感じて止まなかった。一体どうなっている……と口内で狂い出した自分の計画に、思わず狼狽にまみれた呟きを口にする。と、にわかに、伝令! と喚声を上げ再び兵士が光秀の足元に滑りこんで膝をついた。
「何事です!」
考えがまとまらないうちに思慮を妨げられた苛立ちに自然、語調がきつくなる。伝令のかたわらには二人の農夫が同じように跪いて怖ず怖ずと自分を見上げていた。
「一刻程前、本能寺を脱する信長の姿を見たという農夫を連れて参りました」
伝令の言葉に、何?! と呻いた光秀は、全身の血が冷えて体の下方に滞留してゆくのを感じて青ざめる。これ以上、想定していなかった事態が起こることは避けたいと願う自分の祈りも虚しく、考えられる限り、最悪の状態で本能寺襲撃の計画が頓挫したことを瞬時に悟った。光秀は大きく息を吸って胸中の激しい動揺を抑止し、二人の農夫を見下ろす。
「確かに信長様の……いえ、信長の姿を見たと?」
極力平静を保って尋ねると、農夫の一人が殊更恐縮して身を縮こまらせながら、へぇと返事をした。
「間違いねぇ、ありゃ信長様でした。京の町であの御方を知らん者はおりゃしません」
しきりに頭を下げて緊張した口調で言った農夫の言葉に、わしら農民もじゃと隣にいた農夫が顔を上げてつけ加えた。
農夫の言うことは確かに一理ある。頻繁に京へ出入りし、治安維持や徳政令、派手な祭の催しを行ってきた信長は、今や天皇よりも町民達に好かれ慕われている。京周辺に住む彼らが、度々町に現れる信長の顔を知らないはずがなかった。
光秀は目眩を覚え片手で顔を覆う。厳重に機密を守ったつもりでいたが、自分の襲撃は事前に信長の知るところとなっていたらしい。信長が本能寺から既に脱出した後であるのならば、秀満と利三を配備しておくことは時間の無駄だった。すぐにでも逃げた信長を追撃せねばならない。本能寺に僅かな供回りの者と投宿していた信長は恐らく単騎、あるいは少人数で逃走しているはずだ。となれば、急いで追いかければ、まだしも首級を上げることができるかもしれない。そうと決まれば一刻の猶予もなかった。
「どこへ向かったか分かりますか」
馬首を反転させ口早に問うた光秀に二人の農夫は顔を見合わせ、小声で方角を話し合う。そして、双方が納得したのだろう、おおっと手を打った一人の農夫が京とは違う方向を指で示した。
「山崎の方じゃったと思いますけんど」
山崎……! と叫んで瞠目した光秀は怜悧な面を苦々しく歪めて鞍を拳で打った。山崎をそのまま南下すれば、摂津、河内の国に入り、信長の三男、信孝と丹羽長秀が率いる四国征伐の軍勢が待機している堺港に至る。
「堺へ向かうおつもりか!」
当然と言えば当然の選択であろう。少ない手勢では光秀の率いる軍勢にすぐさま攻め滅ぼされてしまう。堺へ逃げこめば少なくとも五千以上の織田兵と合流することができるはずだ。また、堺から船で遠方に逃げ延びることも可能であり、どちらにせよ光秀にとっては非常に不利な状況になる。
「光秀様、いかが致します」
隣で同じく馬にまたがっていた藤田伝五が色濃い狼狽を滲ませ自分を見た。
「信長を追うのです。秀満と利三にも、堺へ向かうよう伝えなさい!」
叱咤する強さで睨み返し語気荒く命じた光秀に従って、はっと短く返答した伝五が京の町へ向かい馬を走らせた。光秀は兵士卒を一度眺め見た後
「全軍、堺へ!」
と怒号に近しい大音声で言い放つ。額には暑さ故ではなく、滴る程の多量の汗が浮かび上がっていた。
我先に馬腹を蹴って馬を疾駆させた光秀の背後で、京の町中から突如として立ちのぼった紅蓮の炎が、刻一刻と青みを増してゆく暁闇を激しく焦がした。
山崎を過ぎる頃、夜は完全に明けていた。
目映い朝日を受けながら一心不乱に馬を走らせ、昼を過ぎて後数刻、堺の入り口に到達した信長は、丹波口、山崎で合流した兵士達を率いて堺の町に入った。二万に膨れ上がった軍勢の最後尾は、今尚、追撃してきた光秀の軍と抗戦中である。妙覚寺に投宿していた信忠を加え、軍の先頭を走り抜いた森蘭丸、福島正則らは堺へ到着した時、具足に守られた肩を大きく上下させ馬上で苦しげに呼吸を繰り返していたが休憩をとる時間はない。突如現れた大軍に堺の町は騒然となり、事態を聞きつけてやってきた堺代官、松井友閑に手早く事情を説明した後、素早く港に入った。
堺の町は現在信長の権力化にあるとはいえ、元は商人達が牛耳る自由都市であり、国からも離れ独自の権勢を誇っていた町だ。近畿における貿易の中枢であり、異国からの輸入品も数多く取り扱われている。鉄砲などの精製にも長け、最先端の品々を扱う商業都市は経済的にいっても重要な土地であった。この町を戦で荒らす訳にはいかず、また、商人達は我関せずの態度を取り、光秀の軍勢が侵入してくることを容易に許すのは目に見えていた。この町では権力者でなく儲けを運んでくる人間が貴ばれ、商人達から嫌われれば支配権を持っていてもそっぽを向かれてしまう。不運なことに、過去、堺から独立権を取り上げた経緯のある信長は商人達からあまり好かれてはいなかった。
それらの事柄を鑑みれば、戦線が堺へ接近した際、光秀の軍勢が易々と町に入りこむ可能性が高かった。一刻も早く船を出さねば、正に背水の陣で戦を強いられることになる。兵士の数で勝るとはいえ体勢を立て直し、後々光秀に攻撃を仕掛けることを考えれば手勢の損失は極力防がねばならない。
堺では自身の三男、信孝を奉じ、尾張時代から仕えてきた宿老、丹羽長秀が四国征伐の司令官として渡海の準備を着々と進めている最中である。案の定、港では多大な荷駄を船へ積みこむ水軍を指示して回る丹羽長秀の姿が見受けられた。
馬から降りた福島正則に轡を取らせ、信長は下馬せずに長秀に近づく。馬蹄が地面を蹴る音に気づき、振り向いた長秀は細長い双眼を目一杯見開いて、う、上様?! と叫びしばし茫然と立ち尽くしていた。しかし、すぐに、はっとして膝をついたが、事態が飲みこめないらしく、閉口し頭を下げたままでいる。信長は喉元で、くっと短く笑い、いななく馬の手綱をきつく張って跪いた男を見下ろした。
「家康はいかがした」
家康を接待した松井友閑の話によると男の姿が見当たらないという。港で朝早くから積み荷の準備に奔走していた長秀ならば、あるいはと考え、端的に問うたのだった。堺を見物に来た後に友閑と宿所を同じくしていたはずの家康がいないというのは妙な話である。ある程度の察しはついていたが、事実であるかは定かではない。昔から自分に仕えてきた長秀は、信長が極端に言葉を省略した話し方をするということを熟知しており、尚且つ、家臣にしつこく説明を請われることを嫌うということも分かっている。何故、堺に現れたのかという説明よりも先に家康の所在を尋ねた信長に対し、長秀は怪訝な顔もせず、はっと短く応じた。
「三河へお帰りになると先刻発たれたばかりにござります。上様が討たれたと申しておりましたが……」
はて? と首を傾げる長秀には構わず、信長は片側の眉を跳ね上げて苦々しく奥歯を噛み合わせる。
家康の行動は異様に早い。長秀が港でのうのうと出港の準備を整えているということは、堺にはまだ本能寺で起こった出来事が伝わっていないということなる。ということは、家康が堺にいた時点では本能寺の事件も明るみにはなっておらず、無論信長の生死は不明であり、光秀が堺まで攻め入ってくるかどうかも曖昧な状況であろう。それなのに何故堺から逃げるように去る必要があるというのだろうか。最早、頭を巡らせずとも想像にやすいことではあったが、改めて分かると静かな怒りにはらわたが焦げる。
家康は光秀が本能寺を襲撃するということを事前に知っていた。だからこそ、一足先に逃亡を計ったのだ。信長が死ねば、各地方に派遣された織田の軍は光秀に反撃するか、統率を無くして散り散りに逃走するかのいずれかの行動を取り、いずれの場合も光秀の敵となることに相違はない。だとすれば、京から一番近い堺にいる信孝、長秀の軍は次に攻め滅ぼされる危険性を持っている。光秀の軍勢が堺に乱入すれば混戦の様相を呈し、そのどさくさの中で逃げ惑えば織田軍と間違えられ攻撃される恐れがあることは明白であろう。家康は巻きこまれないために逃げたのだ。そして、逃げるだけの根拠を持っていた。
疑いようもなかった。家康と光秀は共謀して信長の抹殺を計ったのだ。
「狸めが。化けの皮が剥がれたか」
冷笑を交えて独白し口端を歪めた信長だったが、双眼には一片の笑みもなく、怒りにぎらついていることは自身でも分かっていた。
「一体何事にごさりますか。それがしには事態が飲みこめませぬ」
いまだ状況を把握できずにいる長秀が訝しげに顔をしかめる。信長の馬の轡を握っていた正則が、自分と長秀を交互に見比べてから思い切ったように
「惟任日向守、謀反にごさいます」
とぎこちない敬語で伝えた。途端に長秀の両眉が大きく跳ね上がり、これ以上ないというくらいに両目を見開いて、馬鹿な! と跳び起きて叫んだ。
「光秀殿が?!」
長秀は愕然とした表情のまま立ち尽くす。
にわかに信じられないのも無理のない話だ。光秀の実直と勤勉は家中の誰もが認めるところであっただろう。光秀を好く好かないを別としても、謀反から程遠い人柄であったように見えたことは事実だ。
だが、謀反は起きた。この世に絶対などという言葉は存在しない。光秀がいかに真面目であったとしても魔が差すということもある。また、そそのかされて応じたのであれば、信長にとっては狡猾に陰謀を巡らせた家康と同罪としか言いようがなかった。
絶対などと呼べるものがあるとすれば。
信長は不意に目を閉じる。鼓膜の奥底で金属が合わさって鳴り響く高い音色を聞いた気がした。その音色が耳に触れた一刹那、胸中を埋める冷酷が脆く瓦解してゆくのが分かる。
秀吉、と心中で自分が最も愛する者の名を呟く。もう一度、秀吉よ、と。
彼が自分を呼んでいるような気がしてならない。自分を、泣き叫ぶ強さで呼んでいる。側に来たがっている。会いたがっている。
泣いているのかもしれない。脅えているのかもしれない。なんらかの形で本能寺襲撃の報を既に知ったのであれば、あり得ないことではなかった。
信長は空を仰ぎ見る。隔てる距離のもどかしさに苦い感情を胸にわだかまらせつつも、天空を舞う翼を持たない自分には頑として彼との間に横たわる遠い道程を一瞬で越える術などなかった。彼が自分へと続く帰途を見失う前に手を。手の届く距離へ一刻も早く行かなければ。奥歯を緩く噛み合わせ、信長は眉間に薄く皺を刻んだ。すうっと息を深く吸いこみ、ひびの入った理知を補正するかのように、冷厳とした思考で脳内を固めてゆく。すぐに心は静寂をたたえ、氷の冷たさと頑なさを取り戻した。信長はいつまでも凝立している長秀に焦れて、長秀と強く男の名を呼ぶ。
「船を出すのだ。讃岐侵攻は取り止めよ。全軍姫路へ進路を取れ」
「姫路ですと?」
「問答の暇はない。ただちに出港の準備に取り掛かれ」
問い返した言葉には答えず、必要最低限の命令を下した信長に、長秀は不満な顔もせず、はっと返して荷駄を運んでいた兵士達を呼び集めた。長秀が出港準備に取り掛かるよう手早く指示を下すと、命を受けた兵士達は俊敏な動きで四方に散ってゆく。
「信孝様は大鉄船を視察中にございます」
こちらへと片手を掲げた長秀に応じて馬を降りた信長は冷たく、捨て置けと言い放った。船に乗っているのであれば、わざわざ呼びに行く必要もなければ、自分が来たことを知らせる時間もないので、出港してから事態を説明しても遅くはないと判断してのことだった。
正則は会釈すると馬を引いて足早に立ち去る。堺の入り口や町中に残る秀吉の兵士を招集しにいったのであろう。彼らには別に用意された船があるらしく、港には信長が把握していたよりも多くの安宅船が停泊していた。その内の何艘かは秀吉が用意すると言っていた船であろう。信忠はというと一足先に船へ乗りこんで、出港に備えている。残る積み荷は信長自身といったところであろうか。
「しかし、なにゆえ姫路へ?」
歩きながら長秀が振り向いて問う。
「筑前がおる」
端的に答えると長秀が不思議そうな顔をして
「筑前守は備中におられるのでは」
と再度問うた。最もな疑問である。秀吉は現在播磨の姫路城にはおらず、備中で高松城の陥落に当たっているはずなのだ。備中から高松へは急いでも二日以上はかかる。本能寺襲撃の連絡を受けたとしても、すぐに帰り着ける距離ではなかった。
だが、信長には分かるのだ。彼は姫路に向かっている。あるいは、既に姫路に到着している。そして、自分が生きて現れることを切に願いながら待っているのだと。
「あやつも姫路へ向かうであろう」
淡々と言葉を放った声音に知らず知らず熱っぽい感情が籠もった。何故姫路へ向かっていると確信が持てるのかは言ったとしても長秀には分からないことだ。予感でしかない。自分と彼を繋ぐ見えない糸が伝える予感でしか。この予感は自分と彼にとっては間違いのない真実であっても、他人には気のせい、思いこみにしか映らないだろう。
秀吉とは以前から懇意にしている長秀は、なるほどと納得した様子で頷いた。彼の有能を考えればあり得ない話ではないと思っているらしかった。
「まずは筑前と合流し毛利と講和を成す。討って出るはそれからよ」
二の句を継いだ信長に長秀は、ごもっともにございますと頷いてから口を噤み足早に歩いた。男の後ろを歩きながら、信長は空を瞥見して目を細める。
「姫路へ」
誰にともなくそう呟いた声は、波のさざめきに攫われてはかなく消えた。
天正十年(一五八二年) 五月三十一日
広大な暗闇に瞬く星は東方の天際から伸びてゆく青白い輝きに飲まれ、じょじょに薄れて青みがかる空の中へと飲まれてゆく。傾ききった月は山の陰に隠れ、音もなく歩み寄る夜明けから逃れるようにして、残された暗黒へと身を沈めようとしていた。
いつかの夜、それとも朝、主とともに見つめた空と同じ神秘に彩られた暁闇は、胸の奥にまで浸透する深い静謐を帯び、すべての生命に厳粛な沈黙を与える。繁雑な思考の一切を忘却し、同じ空の下で同じ夜明けを見上げているかもしれない愛しい人の姿だけを心に思い描くこの瞬間の、切なくなる程の高揚と泣きたくなるような貴さが体中に溢れてゆく。清い静けさの中で、己の体に残る主の温もりが優しく心臓を焼いた。
じきに東の空から朝日が昇る。光の薄絹を幾重にもはためかせ、天を類い稀な色彩に染め上げながら、何かが目覚め生まれ変わるような真新しさと神々しさで果てしない天空を覆い尽くすだろう。
羽柴秀吉は床几に腰を据えたまま、ほんの微かに面を緩め口元に淡く笑みを浮かべる。篝火にくべられた薪は既に燃え尽きて黒く炭化し、入ったひびの合間に明々と炎の高熱を残すのみだった。人のまばらな陣中には自分以外にも近習数人が控えてはいたが、いずれもうつらうつらと頭を前後に揺らしては、はっとして姿勢をただすといった動作を先刻から何度となく繰り返していた。
中々訪れない眠気に秀吉は明けゆく空を見上げて双眸を細める。不謹慎と叱咤されても仕方がなかった。講和が決まったとはいえ、敵と対峙を続ける緊迫した状況に身をおきながら、思い出すのは主、信長のことばかりだ。主の手から直々に下賜された首飾りの金鎖を指で幾度も弾きながら、しゃらんと軽やかに響く金属の涼しげな音が耳に触れる度に、心がじわりと熱くなってゆく感覚に、秀吉は瞼を伏せて眉宇を濁す。頬が焼けるように熱を帯びてゆくのが分かり、堅い籠手で自身を叱咤するみたく頬を擦った。
一年前、歳暮を届けに安土へ戻った際、信長と安土城の天主閣で談話する機会を得た。中国地方に赴いてからも常々光秀のことが気掛かりだった秀吉は、主に本能寺警護の任を必死に請うたことをよく覚えている。何度懸命に頼みこんでも信長の口から承諾は得られず、では、許しをもらえないのであれば、せめて光秀と会って様子を窺う程度のことはしておこうと辞去しようとした途端、信長の機嫌は悪くなった。人と会うために辞する旨を伝えた自分も失言であったのだ。中々帰還することのかなわない秀吉が安土に戻る際、主がより多くの時間を自分と過ごしたいと望んでいることは分かっている。秀吉にしてみてもそれは同じだった。だが、自分が遠方に離れている間、光秀がどのような様子で過ごしているのか、この危惧がある限り、心安らかに主の腕へ身を預けることができない。
官兵衛という優秀な軍師の命と信頼を失うすんででもあった荒木村重の件は記憶にまざまざと残っている。更に丹波の光秀が村重と同じく主に背けば、他方面へ軍勢を送ってしまったため、空になった安土にいる信長の身の危険は論をまたなかった。
想像するだけで体中の血が凍える程に恐ろしかった。主が死んでしまったら、主を失ってしまったら、自分は一体どこへ還ればよいというのだろう。帰途を見失いさまよう他ない。片側の翼だけでは空へ舞い上がることもかなわず、底のない奈落へと失墜してゆくばかりだ。何よりも恐ろしいのは信長を失うという耐えがたい苦痛だった。それを回避できるのであれば、自分はどんなに不可能なことであろうともやってのけて見せる。
会う相手を問い詰められ光秀の名を口にした時、信長の端正な面が憎ましいとでもいいたげな渋面に歪められたのを、秀吉は身が凍る思いで凝視していた。光秀に辛辣な態度をとっていると話には聞いていたが、実際男に対する主のあからさまな嫌悪を目にすると恐ろしくなった。光秀が主に不審と不満を抱き背信するのではないかという、推測に過ぎなかった未来が現実になるのではないかと。
不機嫌に任せて自分を抱こうと追い詰めてくる信長に始めて本気で怒った。どうあっても本能寺警護の任を承諾してもらいたかったのだ。だが、腕力でも体力でも、そして、体格でも、圧倒的に主より劣る秀吉には、信長の手をかわし切れるだけの力などない。敢えなく、ほぼ無理やりに近い形で主を受け入れた。両手首を縛られ、主の動きに合わせて鳴り響く首飾りの高音に、顔が焼けてしまいそうな羞恥を感じながらも、久しぶりに与えられた恍惚に体は素直に応じてゆく。信長が着物に薫き染めている上等な香の匂いに全身を包まれ、瞼を閉じれば鼻孔をくすぐる香りに主の腕や指先を想起する、逃れようのない法悦に沈められた。
一頻り肌を重ねてから主は不意に「何を危惧している」「あのきんかん頭とまみえるも、わしが案ずるが故か」と自分に問うた。秀吉は承諾が得られなかったせいもあって落ちこんでいたため、そのような出過ぎた事ではないと曖昧な返答をした。信長は自分の頑固さに呆れたのだろう、溜息をついて、お前の好きにしろととうとう許可を与えてくれた。
しかし、光秀と会うことについては許しを得られず、結局明け方近くまで主の腕の中で過ごすことになった。元々、播磨へ向かう前、計らずもまみえた光秀と酒を酌み交わそうという約束をしていたのだが、主との余暇を終えてから安土城下の装束屋敷に戻った秀吉は、出兵の準備に追われ、時間を取ることができないまま中国征伐に向かった。光秀からは、時間が取れるようならばお会いしたいという控えめな手紙が何通か届いており、返事を書く暇すらなく播磨に赴いた不義理に多少の後ろめたさを感じていた。
それ故、安土に帰還した一年前のこと、自分は光秀のいる丹波を訪問し、亀山城で一泊して因幡に戻ろうと考えていた。丹波に行く旨は光秀に伝えていなかったので、唐突な訪問になってしまうのだが、次はいつ安土へ登城できるかも分からないので、この機を逃せは当面男と会う機会を得られない。止むを得ないと判断して丹波へ行くつもりでいた。
だが、信長がそれを許さず、翌朝、否、引き留められ装束屋敷に戻ったのは結局、正午であったろう、屋敷で留守を守っていた近習から、光秀が来ていたと知らせを受けて頭を抱えた。まさか再び光秀の方から出向いてくるとは思わず、自分が絶好の機会を逸したということだけは知れて、落胆せずにはいられなかった。
せめてもの償いに因幡へ戻る前、書簡をしたため光秀に送った。内容はといえば、なんということはない、わざわざ自分の屋敷に来てもらった礼と会えなかった詫び、そして、次に会する約束を記した。光秀からの返事は因幡の陣中で受け取った。素晴らしく流麗な文字で書かれた手紙は、自分が勝手に訪ねていったので気にしないでほしいということと、次の機会をとても楽しみにしているという好意的な内容だった。
男からの手紙を受け取った時、秀吉は少なからずほっとした。以前会った時のように憂鬱を抱えている訳ではないのかもしれないと多少の楽観はした。だが、危惧を拭い去る決定打にはならず、主に備中への援軍要請を送ったのとほぼ同じ頃、本能寺警護の任務にあたらせるため、自身が長浜で見出した子飼い衆の一人、福島正則に兵士を託して京へ送った。正則には危急の事態あらば主を先導し、姫路へ向かえと命じてある。警護の任にあたる兵士は総勢二万に及び、並大抵のことでは突き崩されることのない物量だ。完全に安心できるという訳ではないが、何もしないよりははるかにましな状況ではある。
首飾りを何度も指で弾きながら、秀吉は身内からぞくぞくと迫り上がってくる温度に堅く双眸を閉ざす。主を受け入れた肌にはその時の火照りがいまだに居残っているような気すらした。秀吉は目の下に熱が集まるのを感じて、兜を目深くかぶり口唇を無理やり真一文字に引き結ぶ。主と早く会いたいと、どうしても気持ちがはやった。今は考えてはならないと戒めてみても、心は一刻も早く信長に会いたいと求めている。
安土の天主閣で主を受け入れた時、情事の最中で信長は首飾りの鎖の一部分に口づけてくれた。主の唇が触れた鎖の部分を指先でつついて、叫びたくなる程に嬉しいなどと思ってしまう自分の純情に、どうしようもない羞恥がこみ上げてきて仕方がなかった。秀吉は誰の目もないと知りつつも、熱くなる顔をしかめて半眼になる。しかし、ふっと小さく笑って、主の触れた鎖を指で撫で上げ、信長様と声なく呟いた。信長様と、もう一度噛み締めるように心で。
にわかに、がきっという鈍い音が響き、秀吉は驚いて思わず立ち上がった。刹那、首飾りの金具が千切れ、首からするりと鎖が落ちてゆく。金の枠にはまっていたべっこうが地に勢いよく落ち、その衝撃で自身の家紋とする桐紋に大きな亀裂が走った。秀吉は茫然とそれを見下ろしていたが、鈍重な動作で千切れて地に散らばった首飾りと鎖を拾い上げる。
壊れにくいように鎖を繋ぐ金具の一つ一つが太く頑丈に作られているはずの首飾りは、確かに肌身離さず首から下げてはいたが、今まで戦の中であっても、激しく動き回っても、決して千切れるようなことはなかった。金属やべっこうが劣化しないよう、常に手入れも欠かさず大切に扱ってきた品だ。何よりも、家紋ともども主の手ずから与えられた物であり粗雑に扱うはずがない。秀吉は自身の首飾りを凝視しながら、金具が傷んどったのか? と首を傾げたが、千切れた箇所を見、全身から血の気が引いてゆくのが分かった。金具には四方から亀裂が入り、叩きつけた訳でもないというのに見事二つに割れている。他の金具には何の変化もないのに一部分だけが壊れるというのはひどく不自然だが、偶然ともいえなくはない。
だが、秀吉には偶然とは思えなかった。
割れた金具はちょうど主が接吻を見舞った箇所。
指先から熱が失われゆくのが分かった。血から体温が失われ、思考が凍りついて喉の奥から震えがこみ上げてくる。鎖が千切れたことを大袈裟にとらえているという程度のことでは決してない。主と自分を繋ぐ形のない絆から伝わる予兆は、決して偶然や気のせいなどではなく真実であり現実なのだ。微かな予感すらも恐ろしい程の鮮やかさで伝わる。体が越えることのできない距離を補うように、心はどのような隔たりをすら越えて長く繋がり合っているからこそ、これがただの予感でないことは痛切に理解できた。
四肢が引きつり全身から小刻みな震えが迫り上がってくる。秀吉は強ばった表情で空を仰ぎ見た。真っ白になった脳内へ最初に浮かび上がったのは、本能寺へという言葉だった。本能寺へ行かなければと、常日頃から忙しく思考を巡らせる頭は停止し、何の計画性もなくただ、それだけが正しい答えであるかのようにそう思った。
凝立したまま微動だにもせずにいた秀吉の凍りついた思考を引き戻したのは
「秀吉様」
と突然背後からかけられた石田三成の声だった。肩をびくりと大きく揺らし、はっとして秀吉は振り返る。血の気の引いた面はひどく青ざめているだろうが、いまだ暗くよどんだ空の下では三成とて判別もつかないだろう。
「なんじゃ」
極力平素の調子を取り繕って応じたが、声がどうしても震える。秀吉は首飾りを握り締め、辛うじて口元に薄く笑みを浮かべた。
「不審な男を捕らえましたが、いかがなさいますか」
この時刻まで眠らずにいた自身と同じく、一睡もしていないであろう三成は、秀吉の前で膝をつくと怜悧な面に少しも眠たげな様を見せず、冴え冴えとした無表情で報告する。不審な男? と訝しげに眉をひそめた秀吉は、陣幕の陰に縄で捕縛された行商人風情の男の姿をとらえ、ほうと声を上げた。
「調べたんか」
ようやく普段と同じ冷静さを取り戻し、秀吉は明るい口調にも司令官としての厳格を滲ませて鋭く問う。三成は、はいと静かに頷いて頭を下げた。
「草鞋の緒に書簡が編みこまれておりました。恐らくは毛利方への密書かと」
秀吉は青年の報告に耳を傾けつつも眉宇を濁した。
講和の条件が双方合意に達した今現在の状況で、毛利方に密書を送ることに利を得る反織田勢力の名はすぐには挙がらない。距離的に考えられるとすれば四国の長宗我部があったが、瀬戸内海を挟んで毛利と抗争を続けてきた長宗我部が、織田憎しとはいえ簡単に積年の恨みを忘れて手を結ぶことを持ちかけてくるとは思えない。では、九州かと頭を巡らせてみたが、九州地方を治める三家の大名は島津家以外、織田に味方する意思を明確にしており、では島津が密書を送ったのかとも考えられるが、島津の領地である大隅、薩摩は九州地方の最南端に位置する土地で、中国地方に近接する筑前、豊前などは敵対大名の領土である。また、豊後は大友家の領地であり、九州の覇権を相争って長きに渡り戦い続けてきた島津と大友の険悪な関係を考えれば、島津の密使が領地を通過することを大友が易々と許すはずがない。最悪、大友の手に密使が捕らわれれば、織田に密書の内容を報告される恐れもある。そのような危険を犯してまで毛利に密書を送る理由が島津にはなかった。
「講和がまとまろうっちゅう時に密書とは穏やかじゃにゃあわな。内容にもよるが、物騒なもんなら困る。わしが預かっとくわ」
秀吉が顎髭を撫でて苦笑いを滲ませると、はっと応じた三成が、懐からぼろ布のように薄汚れた紙面を取り出し、てのひらに乗せ丁重な所作で自分へと差し出す。それを受け取り早速広げた秀吉をじっと見つめ、青年はちらりと後方に冷淡な目線を向けた。
「密使はいかに?」
尋ねる語調はひどく冷酷で、三成が言外に、密使は始末した方が得策と訴えていることはすぐに分かった。そうじゃなぁと青年の訴えを知りながらも、惚けた調子で笑った秀吉は
「しばらくはこちらの陣中にいてもらうか。密書の内容を知っとったら厄介じゃからな」
そうさらりと青年の鋭利な視線をかわして命じる。三成は別段不満げな表情は見せなかったが、承知致しましたと答えた言葉に深い溜息が入り交じっていた。ぷっと青年には分からないよう口内で吹き出し、秀吉は汚い紙面に記された文字をゆっくりと目でたどってゆく。
しかし、最後まで読み終える前に、先刻と同様、全身が氷りつくような恐怖に見舞われ顔を強ばらせた。
密書の文字に秀吉は見覚えがあった。
本人の性格を如実に現す流れるような美しい文字は、本能寺において信長を討ち果たす旨、そして、信長死後は味方に着いてくれるよう毛利に願い請う驚愕の内容を綴っている。その文末には、自身がもらった手紙にも記されていた、明智光秀の花押がはっきりと記載されていた。
顔色を変えて双肩を小刻みに震わせる。光秀殿、なんという短慮を……! と心中で絶叫した。きしむ程に歯を噛み締め、堅く双眸を閉ざした秀吉は密書を片手で握り潰す。
「秀吉様?」
尋常ではない自分の様子に三成が怪訝そうに声をかけた。しかし、青年には応じず、秀吉は顔を上げると
「三成、馬引け!」
鋭く命じて首飾りを懐にしまいこむ。自分の突飛な指示に三成が目を剥いて立ち上がった。
「どちらへ行かれるおつもりですか!」
「姫路へ……っ」
間髪入れずに答えて青年の横を小走りに通り過ぎた秀吉の背後から、え? という胡乱げな声が追いかけてくる。
「姫路へ戻るわ……!」
振り向きもせずに言い放って陣幕を飛び出した秀吉を追ってきた三成が
「なにゆえでございますか!」
と声を荒げて問いただす。秀吉は立ち止まって握っていた密書を青年に差し出した。三成は紙面を受け取り、素早く目を走らせると、これは……! と呻いて整った眉を吊り上げる。
書の内容はまぎれもなく織田信長暗殺計画を記したものだ。しかも、織田家の重臣、明智光秀が発した密書である。光秀の筆を見たことのある秀吉には、書簡が偽造されたものでないことは既に分かっていた。五月末に備中へ届いたということは、光秀の密書が幾分か前に発せられていたことになる。秀吉は、ああっと唸り握った拳で額を打った。
自分が主に援軍要請を送った時だ。その時に光秀の心は最早覆せない決意に固まっていたのだろう。信長が備中出陣のため安土を発つのは六月に入ってからになる。六月までは残すところ一日。否、今日が六月一日だ。最早一刻の猶予もない。迷って立ち止まっている時間すらも、今はもうないのだ。
「上様の御身が危ない。急ぎ姫路へ戻り、少数精鋭とともに本能寺へ向かう」
密書を凝見して氷りついた三成に低い声でそう告げた秀吉は、陣幕の外に繋がれていた自身の馬に素早くまたがり、馬備に加藤清正、蜂須賀小六の一隊を呼んでくるよう手短に命じた。
「毛利との講和は如何様になされます?!」
立ち尽くしていた三成がようやくはっとして馬上の秀吉を見る。青年の端正な顔は苦しげに歪められ、密書を持つ手がわなわなと震えていた。本能寺へ連れ立つ少数精鋭の中に三成は入っていない。青年は武力に長じるといった類いの将ではないので、連れてゆけば危険な目に合わせることになるだろう。秀吉にしてみれば気遣いであったが、三成にとっては己の不甲斐なさと非力を、敬愛する主に指摘されたと同然のことかもしれなかった。しかし、だからといって死の危険性が高い場所に腕力のない青年を連れてゆく気にはなれず、秀吉は眉をひそめて三成から目を逸らす。
「官兵衛に任せるわ。わしが帰るまで時間稼ぎを頼むと伝えといてくれや。そいつを見せれば、あいつなら納得するはずよ」
連れて行けない代わりに、秀吉の軍師、黒田官兵衛に密書の内容を伝える役目を与え手綱を緩めた。馬がしなやかな脚を前に進めようとした瞬間、三成の手が轡を握る。馬は突然歩みを止められたことにへそを曲げて荒々しくいなないたが、青年が冷ややかな眼光で射ると、おとなしく頭を垂れて静かになった。
「お供致します」
馬備に自身の馬の用意を命じ、三成が揺るぎない口調で言い放つ。
「ならん!」
お前は残るんじゃと叱咤する強さで首を左右に振った秀吉を見上げ、青年は今にも泣きだしそうな顔をして拳を堅く握り締めた。
「お連れ下さい! お側を離れては秀吉様をお守りすることもかないません……!」
何卒! と語尾を継いで轡を握ったまま頭を深く下げる三成に、秀吉は半ば呆れて溜息をついてしまう。自分が許すというまで青年はきっと轡を離さないだろう。辟易して中々顔を上げない青年を見下ろした秀吉は、不意に眉間へ淡く皺を刻んだ。何よりも一番に主君の安全を思い、頑ななまでに守り抜く役目を欲する三成の姿が、一年前、安土で信長に本能寺警護の任を願い出た自分と重なって見える。
主もまた今の自分と同じ気持ちであったのだろうか。中国征伐という大事に集中せねばならない自分に余計な危惧を抱かせているという苛立ちと、それでも許してやるべきなのだという理知以上に、その健気さを愛しく感じていたのだろうか。自分は執拗に頼みこんで信長の許しを得た。だが、警護の許可を主に頼みこんだ自分の判断は正しかったと今は安堵してもいる。供回りの者数人と本能寺に泊まることになっていれば、信長は確実に殺されていただろうからだ。側にいられないからこそ自分は必死だった。どんなことをしてでも守りたいと思った。杞憂であったとしても、自分の根回しが無駄に終わったとしてもよかった。主が無事であるのなら、厳しく叱責されても、殴られても構わなかった。
これは信長を困らせた自分に対する罰なのだろうか。皮肉なことに今、秀吉には一年前の自分の気持ち以上に主の思いがよく分かる。
秀吉は微苦笑を滲ませ、ふっと軽く吐息した。
「まったく頑固もんじゃな、お前は」
いかにも呆れたといった風情で首をすくめた自分に、三成は顔を跳ね上げる。平素から感情の移ろいに乏しい青年の静かな面が淡く笑みに解れ、その手が轡から離れた。
「はよ、用意してこい。置いてくぞ!」
進み出そうとした馬の手綱をきつく張った秀吉は、わざとらしく眉を吊り上げて青年を睨んだ。三成は、はっと短く応じて颯爽ときびすを返す。密書を官兵衛に渡しにいったのだろう。意気揚々と走り去る三成の背を見送りながら秀吉はほころばせた口元から、すぐさま笑みを消した。そして、懐にしまいこんだ首飾りに具足の上から触れ、苦く面を歪めて空を見上げる。
「姫路へ」
噛み締めるように呟いた言葉は、けたたまくし響いた鳥の声に敢えなく掻き消された。