未題 - 或ル白狼天狗ノ手記ヨリ 作:荒木田久仁緒
あれから、また少し時間が経った。
今日も、いつもの小屋に、いつもの音が響く。
藁と敷き布がこすれ、床板がきしむ音。肌と肌が触れ合う音。そして、互いの名前だけを呼び合う声と、熱い吐息。
変わらない逢瀬。変わらない行為。だけど、変わったものもある。
わずかに涼しさを帯びた風が忍び入る小屋の中で、口づけの雨が降っていた。私の唇に、まぶたに、頬に首に。
かつては私の胸に埋もれていた顔が、今は私の頭よりも少し上にある。逞しい胸板に乳房を押し当て、身を寄せる私の背中を、肩の外側から抱えこむように、太い腕が覆い、抱きしめる。
人間の成長は、本当に速い。そんなに年月を重ねた気はしないのに。
立派な雄となった彼のかたちを、胸から腹筋へと手のひらでなぞり、やがて猛り立った肉の柱へと辿りつく。太く長い欲望のかたまりを握り、少し上下にさすってその大きさを確かめただけで、それが私の中に入ってくる感覚がありありと下腹部によみがえり、もじもじ動くお尻の下で、体が早くもそのための準備を始めていた。
頬を彼の体にこすりつけて滑り降りるように、頭を下げ、股間へと寄せる。目の前で眺める彼のものは、本当に大きく、その強烈なにおいとあいまって、心の底から圧倒される。
最初のころは、片手には少しあまる程度だったのに、今はもう、両手で握っても足りないくらいで、太さなどは私の手首とそう変わらないほど。なのに、これがすべて私の中に入ってしまうという事実は、私の肉のかたちが、それだけの時間をかけて彫り刻まれ、堀り拡げられて、すっかり彼のかたちに合うように変えられてしまったということを、改めて強く意識させ、余計にその穴を火照らせる。
大きく口を開けて、彼の先端を口の中へ納める。芯のある弾力を舌全体に感じながら、張り出した段差から小さな割れ目までを満遍なく舐めまわす。以前は丸ごと飲みこめたけど、今はこれが精一杯。代わりに乳房で竿の部分を軽くはさんで、上下に撫でるように肌をこすり合わせる。谷間で感じる硬さと温かさが、私の胸をちりちりと炙っていく。鼻と脳の境目を溶かすにおいに包まれたまま、穂先から湧き出す蜜を舐めとり、飲み干し続けていると、私は彼を愛撫しているのか、それともただ貪っているだけなのか、よくわからなくなってくる。
彼の硬い手が、柔らかく私の首筋を撫でた。そのまま肩へ、背中へ、さっき私が彼をなぞったのと同じように、ぞくぞくとした震えを私の背骨に刻みこみながら、お尻のほうへ降りていく。やがて背骨の付け根、腰の真上へたどり着くと、ほんの少し窪んだところを指先でねっとり押しこむように撫でまわす。
押されたところがじんわり温かく、すぐに熱くなってくる。彼に見つけられるまで、自分でも知らなかった、私の奥に火をつける場所。燃え始めたお腹がどろりと重くなり、背骨ごと垂れ下がって、自然とお尻を突き上げた格好になってしまう。それを確かめた彼の指はまた動き出し、お尻の割れ目を滑るように下へ、その深い谷間へと分け入り、更に下へ。
既に縁からこぼれ落ちるほど濡れている秘唇が、左右に割り開かれ、その真ん中で彼を待つ穴が、ぽっかりと大きく口を開けたのがわかった。けれどその貪欲な空洞は、太くごつごつしたものが中へ差し入れられたとたん、触れた肉にぴりぴり電気が走って、それを待ち構えていたみたいに小さくすぼまり、しゃぶりついてしまう。さらに出来る限り奥まで飲みこもうと、はしたなくうごめく腰の中心で、彼の指がぐるりと円を描くように動いた。
縮もうとする肉の圧力に逆らって、彼は私の穴を容赦なく押し広げていく。花びらの付け根をぐりぐり撫でられると、小さな快楽の粒が生まれて膨らみ、汁のしたたる肉芽をおしっこの穴ごと内側から押されると、その粒が弾けて煮えた汁が吹き出す。それが何度も繰り返される。そのたびに弾ける粒はだんだん大きくなり、腰の痙攣が激しくなる。
もう、彼を気持ちよくさせるどころじゃない。間違って歯を立ててしまわないよう必死に我慢しながら、ただ口と乳房とで彼にしがみついているだけ。けれど既に、それすらも限界だった。喉を押し上げる肉棒から口を離し、転がるように、逃げるように頭を彼の足のほうへと向ける。そして顔と肩を敷き布に深く埋め、その反対側、まだ彼の指をくわえこんだままのあそこを、彼に向かって精いっぱい高く掲げた。お尻の穴まで丸見えの、慎みのかけらもない、雄を誘うためだけの淫らな姿勢。
ずるりと指が穴から抜かれる。伸びた粘液の糸が垂れ落ち、限界まで飛び出した突起に絡みつく。名残惜しさに震える肉襞が切なくて、腰をふるふると左右に揺する私は、もはやただの獣だった。本能のままに尻を振りたてて、ひたすらに交尾をせがむ、発情した一匹の雌狼だった。
彼が身を起こし、膝立ちになる。大きく逞しい両手が私の腰をがっしり掴んだ。それだけで体の奥に大きな期待感が広がって、開いた穴から淫汁があふれだす。それをふさぐように押し当てられる、大きな大きな、熱いかたまり。もう一目盛り、頭の芯の温度が上がる。呼吸の音が、自分でも信じられないくらい、荒い。
息を止め、お腹にぐっと力を入れる。内側から押された肉の花がまくれあがり、彼の先端を包みこもうとする。きっとそれを待っていた彼の手に、ひときわ力がこもる。
ああ、来る。
今いちばん欲しいもの、ただ一つだけ欲しいものが来る。早く来て、はやく。
肉襞の狭間に浅く彼が食いこみ、そのままゆっくり奥へと押してくる。じわじわと入り口が引き伸ばされ、太股の付け根の肉が圧迫されて、鈍痛にも似た快感が股間から広がる。拡がっていく。私の体が、彼の大きさにまで、拡げられていく。拡がって、伸びきって、やがてついに、貫かれる。彼のいちばん太いところが、私のいちばん狭いところをくぐって、ずるんと私の中に入ってきた。
思わず、あっ、と声が出てしまう。彼はどんどん私の奥へ進んでくる。それに合わせて私の頭の温度もぐんぐん上がっていく。入り口を、膣の壁をごりごりこすりながら、お腹いっぱいに広がって、深く深く、そして一番奥に届く。
ずうんと重く、大切な部屋の扉を叩かれた衝撃が、一瞬で脳髄に到達した。絶頂が来る。敷き布を強く握り締めた腕が、弓なりの背筋が、がくがく震える。別の生き物みたいに彼にからみつく肉穴から、快楽があふれて私を溺れさせる。呼吸が苦しい。ひゅうひゅうと喉が掠れた音を立てる。
まさか、入れられただけで、達してしまうなんて。どうして、今日はこんなにも。
いや、違う。きっと、今日だから、だ。ううん、考えるのはやめよう。今はただ彼を、彼のことだけを、思って。
はっ、はっ、と獣そのものの息を吐きながら痙攣していた私の上に、彼はそっと覆いかぶさって、動きを止めていた。逞しい胸が触れる背中が、いつのまにか抱かれていた乳房が、暖かい。だんだん波が過ぎ、落ちついてきた背筋に、柔らかな口づけが押され、胸が静かに揉みしだかれる。
猛々しい柱は、まだ私の中に埋まったままじっとしている。私はそれを、限界まで膨らまされた膣肉で何度か握りしめ、腰をうごめかせて合図する。それに応えて、彼の腰が動き始める。最初は浅く、ゆっくりと。張り付いた粘膜をこすりたてながら、次第に深く、速く。消えきらずにくすぶっていた残り火が、すぐに勢いを取り戻し、私の体の真ん中で燃えさかる。
粘り気を伴い、沸き立つ水音。小屋に響く、尻肉に腰がぶつかる音。溶けた穴をえぐる、激しい抽送。
柱の先端の小さな段差、手や唇で触れたときには、もっと柔らかかった気がするそれが、私の中に入ると不思議に大きく硬く感じられ、まるで鉤爪のように、充血した肉壁をかきむしる。膨らんだ肉芽に彼の指が伸び、軽くつままれ、こりこりと転がされる。
もう、どこが弱いだとか、そんな程度ではなく。尖った乳首が揺れる胸も、飛び出したお豆も、入り口から奥まで、私の体ぜんぶが、彼に触れているだけで快感を生み出す泉となって、溺れかけた私の頭と体を、あっというまに新たな高みへと押し流していく。そしてまた、弾きだされる。さっきよりも高い場所へ。全身が猛烈な快楽に痺れて燃え上がり、また大きく痙攣する。
震える膣穴が、思いきり肉棒をしめつける。粘膜が一分の隙間もなく、剛直に貼りつき、その大きさと硬さを、痺れる快感の津波と一緒に、私の脳に送りこんでくる。内臓ぜんぶが彼に満たされてるみたいな錯覚と、征服されつくした自分への奇妙な恍惚感。目がくらむほど暴力的な甘い熱風に、体も頭も融かされていく。
彼はまだ、果てていない。絶頂に耐えている私を案じてか、また動きを止めて私を抱き抱えている。その最中の行為は、感じるけど、感じすぎて苦しいから。そんな優しさが私の胸を、快楽とは違う炎で暖める。けれど、荒波に沈む心の中から、別の思いが湧き上がっていた。
止めなくていい。
ぐちゃぐちゃになりたい。
苦しさに壊れるほど抱いてほしい。
そんな気持ちに衝き動かされ、私はまだ静まらない波濤に翻弄されながら、自分から腰をぐいぐい押し付け、首を捻って背後の彼を、にじんだ視界の向こうの彼の顔を見る。
急に彼のものがあそこから抜け出て、その刺激でまたのけぞった私の体が、くるりと仰向けにひっくり返された。すぐに背中に腕が回り、上体が起こされ、抱え上げられる。
座った彼の腰の上にまたがり、正面から抱き合う姿勢。大きく開かれた足の付け根に、再びそそり立つ槍が押し当てられ、そして私の体がその上に降ろされる。私も自分から体重をかけ、その穂先を飲みこんでいく。
あっというまに腰が下まで落ちきり、私の胎内が奥の奥まで貫かれ、さらに押し上げられた。また小さな絶頂にうちのめされる私を抱きしめ、すぐに彼の腕と腰が動き始める。私の腰を、尻をしっかりと掴んで、上下左右に激しく、私の中を蹂躙する。まださっきの波に揉まれていた体に、また新たな波が浴びせられ、何もかもを燃え尽きさせようと、煮える油を
肌と肌、粘膜と粘膜が絡みあい、全身に甘く強烈な静電気が沸きあがる。彼の肩に乗せ掛けた顎の下から、厚い胸板にこすりつける乳房の先から。彼の指が、唇が這う首筋から、肩から、背中から、わき腹から。押し付けられる二人の下腹部に挟まれた肉芽から。深く深く彼が突き刺さる、私の
あふれでた電気は背骨へと集まり、上へ下へ幾度も往復し、脳と腰とを熱く焼き、融かす。大太鼓の響きにも似た、重く深い衝撃が体の奥底に叩きこまれるたび、巣立ったばかりの子鴉が親に甘える鳴き声のような音が、だらしなく開いたままの口から漏れる。
肌を粟立たせる痺れの波に身をまかせながら、私は彼の名を呼ぶ。
私を抱きしめる力の込め具合を確かめるように、彼は私の名を呼ぶ。
寄せては返す言葉の波が、その名前と愛おしさ以外のすべてを、私の心から洗い流していく。
彼の動きが速くなる。背中と尻にまわした手で私を揺さぶり、私の中の特に敏感な場所を、的確に叩く。それはさっきよりも一段と太く、熱い。否応なく意識が下腹に集中する。じんじんと全身の肌を覆うものは、もう痺れなのか痙攣なのかわからない。
視界が溶けて崩れてゆく。頭の中の血が沸き立ち、眠気にも似た
そして、これ以上はいけない、最後の限界に、私は体ごと激突し、世界が割れて飛び散った。
経験したことのない大きな快感が、私の真ん中で爆発した。目の裏に白い光が降ってくる。脳が光に焼きつくされ、蒸発する。体が飛び跳ねるほど激しく震え、握りつぶさんばかりに彼をしめあげる。そんな肉壷をもう一度、強引に突き刺して私の中心を打ち抜き、彼の息と動きも止まった。
私の中で彼がいっそう大きく膨らむ。腰を突き上げ、小刻みに奥を叩く。熱く強く、魂に刻みこむように注がれる、彼のすべて。その脈動を全身で受け止めて、何かを叫びながら、私の意識は白い闇の中へ落ちていった。
最初に感じたのは、温かさ。
誰かの熱い肌。それが私の喉に、胸に、体の奥に触れている。
そっと目を開ける。少しの間、気を失っていたらしい。彼の腰の上に座り、頭を肩の上に乗せたまま。そして、今も硬く私を貫く彼と、深くつながったまま。
私の肩に、何かが掛けられて、上半身を覆っていた。この感触と匂いは、彼の着物か。この程度の肌寒さくらい、私にはどうということはないけれど、そんな彼の気遣いがとても嬉しくて。
だけど今は、それがひどく悲しかった。
両腕が、彼の背中を抱きしめようとする。いつも、ずっとそうしていたように。それをねじまげて、今日の私は、彼の肩を両手で押し、自分の胸をそこから引き剥がした。注がれる怪訝な視線が、どうしようもなく痛くて、見返すこともできなくて、ただ私はそれから目をそらし、立ち上がる。
肩から着物がずれ落ちる。溶け合うように貼りついていた肉が引き剥がされ、彼が私の中から抜け出ていく。栓が外れた穴から彼の精液がこぼれ、太股に垂れ落ちたけれど、それをぬぐいもせず私は、彼の体から、寝床から離れ、ふらりと背を向けて、小屋に満ちる静寂の真ん中に立った。
少し歪んだ小窓から、痛んだ壁の隙間から、差しこむ光と風は、うす黄色い。もうじき秋は深まり、そして冬が来る。
二人の逢瀬に欠かせないあの小道も、草木が枯れ、葉を落としてしまえば、流石にその用を成さない。だから、その時期になれば私がそれを告げ、長く寂しい冬を越えて、また次の春、新しい悦びを重ねあう。そういう約束を、何年も交わしてきた。
そう、去年までは。でも。
「……私がこの小屋に来るのは、今日が最後」
背後の寝床の上で、彼が勢いよく立ち上がった気配がした。振り向かず、私は言葉を続ける。
「これで終わり。すべて終わり。年が明けても、次の春が来ても……もう二度と、来ることは無い」
最近、私についての噂が増えた。
禁を破って、山の外に出ているのじゃないか、と。天狗の情報を、他の勢力に流しているのかも、とまで。
事実ではない。けれど、無根でもない。誰にも知られず姿を消し、誰と会っているのか山の誰も知らない、そんなことを、ずっと続けてきたのだから。
前の噂までなら、鴉天狗が興味本位で追いかけるくらいで済んだ。でも、この噂が大きくなったら、きっと上が動く。それは一月後か、三日後か、明日か。もしかしたら、もう既に。
「ここでのことは、いずれ知られる。知られれば、掟に従わなければいけない。……妖怪と、人の掟に」
妖怪に喰われるもの。妖怪に怯えるもの。それが人間。妖怪を恐れない人間など、いてはならない。少なくとも、人間の里の中には。
同時に、人間をおびやかさない、いや、おびやかせない妖怪も、いてはならない。少なくとも、妖怪の山の中には。
「人と交わった妖怪は……いつか、正体を知られ、人を喰らい、人の前から消える。お話の最後は、そう終わる決まり。だから……」
自分の声とは思えない、低い、掠れた声が小屋に響く。呼吸の音もなく、彼は立ち続けている。そして私は、その最後の言葉を告げた。
「だから、これは夢。何もかも全部、ただの幻想。そんなお話は、最初から、無かっ」
抱きしめられた。
背後から、強く。
「嫌だ」
耳元で、小さく、熱く囁く声。
「どうなっても、構わない。一緒にいる。最後の一瞬まで、ずっと」
そして、彼は私を呼んだ。呼び捨てで、私の名を呼んだ。
心臓が、砕け散るような音を立てて動いた。まるで今まで止まっていたみたいに。心の奥底に、点いてはいけない灯がともされようとしていた。
振りほどけ。本気を出せば、人間の力など。指を、腕をへし折ってでも、引き剥がして、突き飛ばして、裸のままだろうと、小屋を飛び出して、振り返らず、二度と戻らない。そうするしかないのに。
でも、できやしないことは、とっくの昔にわかっていた。
ああ、新聞に載っちゃうな。
頭の中で、そうつぶやく。彼と初めて巡り合ったあの日、恐れた最悪の事態。それを避けたくて、彼を見逃したはずなのに。けれどそこから始まった運命の糸が今、それをもう遠くない現実に結びつけようとしている。なぜ、その糸の先を彼に委ねたのか。どうして、こうなってしまったんだろうか。
違う。私が選んだのだ。こうなることを望んだのだ、私自身が。
今までだって、引き返す機会は、いくらでもあったのに。この結末を予想しなかったはずがないのに。いやむしろ、予想してしまったからこそ、止めることができなかったのだ。なんて愚かで、浅ましい女。なのに涙がこぼれるほど、嬉しい。
胸が揉みしだかれる。太い指が股間に滑りこみ、濡れた肉襞を掻きわけ、硬い突起を転がす。
膝から力が抜ける。くずれ落ちそうになった腰を、彼の腕と、後ろから差し入れられた肉の梁が支える。私はそれに手を添え、私の中へと導き入れる。じわりと引き伸ばされる入り口の、ほんのわずかな抵抗を反動にして、勢いよく打ちこまれた衝撃で背筋が反りかえり、喉まで貫かれるような錯覚に、また口から鳴き声が飛び出す。自分でも驚くほど大きな声が、小屋の外まで響き、誰かの耳に届いたかもしれない。だけどもう、そんなことはどうでもよかった。
その日、それからのことは、よく覚えていない。彼の名前以外の、何かとても恥ずかしいことを、口走ったような気もするけど。好き、とか、愛してる、とか、お嫁さんがどうとか、赤ちゃもう知らない。思い出せない。忘れた。
そして。
◆ ◆ ◆
紅葉の神は、その仕事の半ばを終えたようだった。
妖怪の山でも、人里でも、彼岸でもない、境界線上の小さな道の上に、私は立っていた。見上げた空は薄く茜色に染まりつつあり、高く遠い。
空の彼方に、黒いひとひらの羽が舞った。渡りの鳥にも見えた影は、雲を切りつけながら空を走り、頭上はるかな天辺でくるりと輪を
「や、や。お久しぶりですねえ。元気そうで、なにより」
陽気な声を上げる、見知った顔の鴉天狗。身にまとった小さなつむじ風に、短めの黒髪がはためいている。
格は少し上だが、上司ではない。といって同僚でもない。友人、というような仲でもない。一言で言えば、ただの知り合い。けれどそんな、ただの知り合いという関係は、天狗の社会では少し珍しく、だからそれがきっと、彼女が今日ここにいる理由なのだろう。
何か、時宜にかなった挨拶をしようと思ってはいた。だけど、適当な言葉は口から出てこなくて、私はただ、無言で軽く頭を下げた。
「おや、しばらく見ないうちに社交辞令も忘れてしまいましたか。元から出世に縁遠そうな人でしたけど、それにしても多少は……ま、今はその話はいいとしましょう。……その子、ですか?」
かくん、と首をかしげて、彼女が私の背後を見る。視線を追って、私も振り返る。
道の先、三歩ほど離れた所に立つ、幼い女の子。背中の後ろで結わえた、薄い金色の長い髪。緋というにはくすんだ、鳶色の大きな瞳が、今にも崩れそうに、風に揺れている。
「そんな顔をするな」
歩み寄り、しゃがんでその顔を正面から見つめ、そっと笑ってみせる。
「一緒には暮らせないけど。同じ空の下にいる」
手を伸ばして撫でた頭は柔らかく、温かい。流れた髪の房がくしゃりと指に絡む。私の手を、縛りつけようとするかのように。
「……うん」
そう言って唇と一緒にぎゅっと閉じた瞼の端から、こぼれた雫が風に吹かれて草原に消えていく。軽く鼻をすする音も、声にならない嗚咽も。
ややあって、再び開いた瞳は、どこかしら力強く見えた。
頭から手を離し、娘の両肩を腕で抱くようにつかんで、くるりと後ろを向かせる。そのまま立ち上がり、顔を上げた向こうに、もう一人。銀髪で背の高い、人間の男の姿。
「……どうか、宜しくお願いします」
今度は深く、頭を下げる。
「ああ。とりあえずは、店の仕事でも手伝ってもらうさ。その先の生き方は……少しずつ、自分で決めていけばいい」
山を離れてから知り合った、里はずれに住む変わり者。顎に手を当て、計りがたい笑みを浮かべる姿は人だが、人ではない。さりとて妖怪でも神でもない。境界線上を生きる者。今この両手の中から、枯れ野へ歩き出そうとしている、小さな娘と同じさだめの。
「さあ、行きなさい」
とん、と手で肩を押す。数歩つんのめるように歩いて、前に伸ばした小さな手が、差し出された彼の大きな手の中に納まる。びくりとこわばる体。振り返り、私を見上げる瞳。
行こうか、と彼は言い、娘の手をそっと握りしめて、後ろを向き、ゆっくりと歩き出す。
娘はその手に曳かれ、ためらいながら歩き出す。途中、何度かこちらを振り返ったが、やがてそれも止む。
小さな背中が遠ざかっていく。私はそれを見送りながら、ただじっと笑顔を保って、立ち続けていた。西の空に日が音もなく傾き、赤く照らされた彼方の林の向こうへと、緩やかに曲がってゆく道の先が消え去る、その時まで。
「……さて。もう、いいですかね?」
「はい、終わりました」
背中で受けた声に、振り向かず答える。
「なかなかに退屈な見世物でしたが、これも独占取材の代価と思うことにしましょうか。そうある事例ではないですからねえ、今の体制になってからは、特に」
そんなことを言ってはいるが、彼女はあまり、この手のことを記事にしないはずだ。個人的興味や好き嫌いからか、何らかの主義や信念からかは知らないけれど。それも、選ばれた理由のひとつだろうか。
「まあ、積もる話は追い追い聞かせていただくとして。食べましたか?」
さらりと放たれた言葉が、ざあっと音を立てて草原をなびかせ、耳朶を打った。横髪が跳ねて舞い、頬を叩く。
「ええ、もちろん」
そう言って、ぎしりと向き直り、彼女の顔を正面から見返す。
「本当に?」
右手に持った葉団扇で口元を隠しながら、にやりと笑う彼女の顔は、もうだいぶ沈みかけた夕日の逆光に包まれて、よく見えない。深い紅色の瞳の奥も。そこに映っているはずの私の顔も。
「……食べたくなんか、ありませんでしたよ」
視線を外し、宵闇に背後から覆われつつある空を見上げる。わずかに散らばった浮き雲が、群青のにじんだ夕暮れの中を流されていく。
「最期は老いさらばえて、ほとんど骨と皮でしたし。筋張ってて硬くて、冷え切った、あんなの……」
そうとも。なのにどうして。数十年ぶりの、人肉は。
ああ、本当に、
おいシかッタ、ナア――――
ぱたり、ぱたりと、雫が落ちる。私は狐じゃない。嫁入りの日でもない。私は妖怪、白狼天狗。だったらなんだ、この雫は。
「……いいんですよ、それで」
したたる雨の向こうから声がする。
「人間を糧とするもの。人間をおびやかすもの。それが妖怪、そうでなくてはいけません。いいでしょう。本日、私が委任された権限により、あなたの帰還を承認します」
ざ、と葉団扇を横に払って告げる。むやみに芝居がかったしぐさは無意識の癖なのか。それとも。
「胡蝶の舞に泣き笑い、これにて終幕の滑稽物語。
けらけらと、からかうように投げつけられる口上は、やたらと明るく、軽く、冷たく、けれど優しい。
「では、行きましょうか」
「……はい」
乾いた返事が、湿って引きつれた唇の隙間から漏れ出す。どうやら私も、笑っているらしかった。
身をひるがえして舞い上がる彼女の後を追い、私も地面を蹴る。
久しぶりの空。久しぶりの風。
私は戻ってゆく。境界線の内側へ。属さぬものから、属するものへ。それは幸福なのだろうか。答えのない問いを、心に投げかけながら。
寒さをたたえた青い星空から、ひとつぶの光が地に流れ落ちて、消えた。
それは今からちょっと前の、遠く忘れた日の思い出。