ああ、きっと食事をするというのは素晴らしいことなのだろう。僕は知らない世界に想いを馳せて、ふわふわと夜空に漂う雲と己を重ねた。
味覚障害とかそんな大それたことでは無い。けれど昔から自分は食に無頓着で、栄養がそれなりに取れて、不味くなければそれでいいと思ってしまう人間だった。食レポをするテレビの人や、タピオカに小一時間も並ぶ若い人たち、自分の店に誇りを持っているラーメン屋の店主に、三ツ星レストラン。たかだか栄養補給にどれだけの情熱を注げば気が済むんだろうか。人間の欲望は果てしなく深い深海のよう……いや、深海には底があるから、宇宙という方が正しいのかもしれない。
なんにせよ、僕はそんな食文化とはかけ離れた場所にいるちっぽけな奴だ。決して自分が雲の上から下々の民を見下げているなんて思っちゃあいない。むしろ雲を見上げる蟻のようなもんだ。もっとも、蟻だってどの植物の蜜が美味いか知っているのだから、蟻に対して失礼な例えかもしれない。とにかく宇宙規模の欲望と比べたら、自分はちっぽけなんだ。
それでも一つ聞いて欲しい。こんな僕でも、やっと美味しいということを感じることができたんだ、二年B組の佐伯さん。細身で色白でちょっと虚弱だけど優しいけど、不運な交通事故に遭ってしまって可愛そうだったなぁ。それでも、入院することになったけど、命に別状はないし手術も成功。後遺症もなく退院すれば昔と変わらない生活を送れるってお医者さんが言っていた時はホッとしたんだよ。その彼女の事故現場にたまたま居合わせてしまった僕が、すぐに救急車を呼ばなかったら手遅れだったかもしれないって。で、その事故は結構な流血騒ぎになったんだけど。駆け寄った僕の手もべっとりと赤黒く染まるくらいにね。
それで、たまたま、つい好奇心でね、手に着いた血を舐めてみたんだけど……衝撃だった。美味しいってこういうことなのか、って雷が落ちたようだった。その時は無我夢中で、非現実的な事故の直後だから気が動転してたんだと思ったんだよ。でもあの味が忘れられなくて、もう一度舐めてみたくなってね。
それにしたってまた佐伯さんが事故に遭うなんてことは望まないし、対して仲の良い間柄でもないのに「貴方の血を舐めさせて」なんて言えないでしょ。いや、かなり仲の良い相手でも血をくれなんて言えるはずもない。とにかく、血を舐めてみたくて自分で指を切ってみたんだ。
僕は初めて「不味い」を知ったね。激辛ラーメンとか食べれたものじゃない食品も多々あるけど、あれは辛いから食べられないんですよ。辛くなければ美味いはず、それは何となくわかるんだけど。自分の血がこんなにも不味いことを知らなくて驚いたのと同時に、美味いと不味いがあるんだってことを実感できて興奮したね。
それからは即断即決、美味しいを求めていろんなことをやってしまったよ。まずは魚を買ってきて捌いてみたけど、生臭くてムリだった。次は何の鳥だったか、たまたま死んでいたのを血だけ採取して帰って舐めたんだっけ、ぜんぜんダメ。子供が怪我した時、介抱する隙に少し舐めてみたら美味しいにとても近くて、でもどこか違っていてね。ああー、やっぱり鮮度?とか品種?とか大切なんだなぁ、産地だの無農薬だのって大事なんだなぁと、世間が言ってることがよーく分かってきたところで、やっぱり新鮮なものが欲しくて。でも人間の血なんてそう簡単に手に入らないでしょ、だからちょっと強引に、血を貰うことにしたんだ。
最初は深夜に帰宅途中のOLさん。雑味があって正直うーんって感じだったけど、最初の頃と比べたらとても佐伯さんに近い味だったんだ。次は小学生の女の子、さっぱりしてて良かったよ。一緒にいた男の子も割と良かったけど、少し塩辛くて。やっぱり佐伯さんじゃないとって思っちゃった。だから、君の血が欲しいんだ。
返事は無かった。もともと答えを貰うつもりもなかったし、彼女がハイと言ってくれる可能性は万に一つもないことは理解していた。だから薄れていく彼女の意識にこうやって語りかけることで、ある種の罪滅ぼしをしていたんだと思う。これが罪滅ぼしではなく、これは自分なりの「いただきます」なんだと気づいたのは、随分と先のことなのだけど。
彼女の身体から流れ出る血液はとても美味で、瞳からこぼれ落ちた涙を混ぜるとより一層深みが増すことに気づいて、とても惜しいことをしたと後悔した。ああ、もっと早くに知っていれば、すぐ殺さずにたくさん味わったのに。
まだ温もりを残している彼女の白い艶肌に、鮮血が滴るのを舐めとって。僕は欲望という無限の宇宙を彷徨った。