俺の目の前に居るのは壊れ掛けた烏天狗。
破れた衣服に身を包み、全身を冷水で濡らして震える哀れな妖怪だ。
「射命丸さん」
「ひっ……ぁ…は、はい…ぃ…」
名を呼んだだけでこの有り様。
どうやら心底、俺と言う存在に恐怖しているらしい。
何故彼女は抵抗も何もしないのだろう?
答えは簡単だ。単純に勝てないから。
俺と彼女との間には、比べるのも億劫な程に力の差がある。
別段、彼女が弱い訳では無い。
そして俺も自身が特別強いとも思っていない。
だがやはりそこには差があるのだ。
更に彼女は理解している。
自分自身と俺との力の差を。
だから手が出せないのだ。いや、出せないのでは無い。
彼女の本能が、彼女自身に警告している為に手が出ないのだ。
それを理解した今、俺は考えを一つ改めてみる事にした。
「射命丸さんは…生きたいですか?」
「……え…?」
「生きたいかどうか訊いているんですが」
「……も、勿論!生き…たいです…」
未だに死を恐れ、生を渇望するとは…正直呆れる。
だが彼女を見ていると、反省の色が見えない訳でも無い。
なので彼女にチャンスを与えてみることにしよう。
「…射命丸さん、はい」
「…………ぇ……?」
そう言って歌留葉が懐から取り出し、手渡したのは錆びだらけで、しかも刃毀れした一本の
それを目の当たりにした文は、未だに意味が判らずに小さく疑問の声を口にしていた。
「判りませんか?」
「…ぁ…あの…その…ボロボロの鋸で…何を……」
文が疑問を口にする、すると歌留葉の口からは信じられない、いや、信じたく無いような答えが飛び出した。
「その鋸で、自分の左腕を切り落としてください」
歌留葉の表情に初めて柔らかい笑みが浮かぶ、そして文の表情は今までに無いくらいに恐怖に歪み、そしてその体は再びガタガタと震え始めた。
「…ぅ、う、腕…を…?じぶん…で……?」
信じたく無い文は、再び歌留葉に訪う。
だがそうすればするほど、それは確実な恐怖とプレッシャーと化して文を襲うのだ。
「はい、この鋸を貸してあげます。貴女がもし自分の腕を切り落とす事が出来れば、貴女を見逃しましょう」
歌留葉は笑みを絶やさず言う。
文は再び差し出された鋸を見る。
黄土色に錆び、更に腐壊が進んでいるのか土留色に変色した箇所もある鋸。
こんな鋸で、いくら少女の細腕だからと言って、切り落とせる訳が無かった。
だが、切り落とせば命が助かる。
だから尚、文は食い下がる。
「こ、こんな錆びだらけの…まっ茶色に…風化した鋸で……?」
涙をポロポロと溢し、歌留葉の眼を見詰めながら訴える。
常人なら情に流されただろう。
だが歌留葉にとってそれは全くの無意味だ。
歌留葉は文の頭に掌を乗せ、文の濡れた柔髪を優しくく撫でながら言った。
「はい」
文の目の前が暗くなる。
あまりにも酷い現実を直視出来なかった。
これが夢ならば覚めてほしい、だが夢じゃないのなら、せめて出来るだけ楽に…
「せ、せめて他に刃物…」
文は俯きながら、震える声で言った。
その瞬間、歌留葉の表情から笑みが消える。
「文さん、これは罰です。何故貴女が楽をしようとしているのですか?さぁ、大丈夫、貴女なら出来ます。さぁ」
無理矢理、文の手に鋸を握らせる歌留葉。
最早、何も言えなくなってしまった文は血が滲むのも気にせず、唇を噛み締めて覚悟を決める。
ゆっくりと右手に握ったその鋸の刃を、自身の二の腕に近付ける。
息が荒くなり、無意識に涙が頬を濡らす。
全身からは嫌な汗が止めどなく流れ、既に寒気とは別の理由で全身が震え上がっていた。
「ふぅ…ふぅ……ふぅ…!ふぅ…!」
鋸の刃が、二の腕の肉に当たる。
ひんやりとした感触に、文の心臓が思わず跳ね上がった。
そして意を決して、二の腕に強く当てた鋸を、力一杯引き抜く。
「…く……あ…ぁぁ…ぁっ!!」
凄まじい激痛が文の体を襲う。
錆びた薄い鉄板で、自らの腕を切断しているのだ、無理もない。
だが文にとっての地獄はこれからだった。
そう、全く切れていないのだ。
筋肉が少し切れた程度、なのに何故これまでの激痛なのか?
それは錆び付いた刃が傷口を抉るからだ。
更に雑菌が繁殖した刃は、切れば切るだけ痛みを増していく。
文はそれに気付いた。
だが気付いた所で仕方がない。
文は、震える手を必死に抑え、再び二の腕の傷口に鋸の刃を、当てる。
そしてゆっくりと上下に動かし始めた。
「ひ…ぁ…い…った…ああ…!!い…や…ぁぁ…ふっ…ぁ…痛い…ぃ…」
文は、手を動かしている間は口を動かさないと気が狂いそうだった。
そこまで追い詰められていても逃げ出せない。
なら出来るだけ早く終わらせたい。
「は…やく……ぅ…」
ブシュッブシュッと血を噴き出させながら、文は腕を切り続ける。
次第に切る速度は速くなり、ようやく半分に到達したその時。
「……い…た…いぃぃッ!!」
ゴリッと言う音と共に、文は鋸を地面に落とす。
そう、骨に到達したのだ。
(無理ッ!!もう無理絶対無理ッ!)
文は泣きながら傷口を押さえ、首を横にブンブンと振った。
そんな文に歌留葉は再び笑い掛ける。
「ほら、あと少しですよ文さん」
文は再び俯いて動かなくなった、しかし十秒程すると再び鋸に手を伸ばし、鋸を掴んだ。
そして傷口から覗く、血で紅く染まった白い骨に刃を当て、再び力一杯引く。
「あ…ぁ…ッ!?ひ…ぅ…ぅ…!」
ゴリゴリと骨の削れる音だけが、洞窟内に響き。
それを見ている歌留葉はただひたすらに無表情だった。
やがて十分程掛かって骨を断ち、文は最後の力を振り絞る。
「はぁ…はぁ……あぁぁああああ!!!」
最後は力任せに肉を断ち切り、繋がりを失った文の左腕はボトリと地面に落下した。
「ハァ……ハァ…………ハァ…」
満身創痍の文。
いくら彼女が妖怪とは言え、血を失い過ぎた様だ。
「お疲れ様でした、文さん。その切り落とした腕は後で頂くとして。約束通り貴女を見逃します」
「……は…い…」
壁に寄り掛かり、浅い呼吸で返事をする文。
あと半日もすれば彼女の命は失われるだろう。
だが歌留葉は守るつもりでいた。
だなら歌留葉も彼女に約束をさせる。
「良いですか?これからは一切俺を嗅ぎ回らない事。勿論、楓の事もです。俺にとってのたった一つの願い。それが約束出来るのならば貴女を永遠亭へ運びます」
「……わかり…ま、した…」
「…約束ですからね?」
喋る気力さえ失った文は、静かに頷く。
歌留葉は溜め息を漏らすと、瀕死の文を抱き抱えて血塗れの文の額にキスを落とし、囁く。
「もし約束を破れば…次は俺が貴女の首を切り落としますから、そのつもりで」
恐怖に震える文を抱えたまま、歌留葉は洞窟を後にした。