十一話 春景
三月二八日の午後。
楓が我が家にやって来て、三ヶ月が経とうとしていた。
吹き付ける朔風は暖かい物に変わり、三ヶ月前より大地との距離を一層近くした太陽が、積もる雪を溶かして木々を色鮮やかに色付かせる。
山々には多くの花や山菜が生り、それを採りに山へ入ると人や獣、妖怪の姿を多く見る様になった。
そんな森や林道では活発になった妖精が元気に飛び回りながら遊んでいる。
そう、異常なまでに長い冬を終え、春が訪れたのだ。
その証拠にさっきから我が家の周辺では慌ただしく春の訪れを告げる、春告精の声が聴こえて来る。
平和だ。
これ以上無く、ただただ平和な日常の一風景だ。
だが問題が何も無い訳では無い。
何時か永遠亭を訪れた時、楓の記憶はすぐに戻ると診断された。
だが未だに彼女の記憶は戻っていない。
更に問題なのが、記憶の断片すらも思い出せ無い事だろう。
彼女も不安だろう、何時までもこんな危険な世界に居たくは無いだろうに。
だが彼女の記憶が戻って欲しいか欲しく無いか問われれば……俺はきっと、戻って欲しいと答える。
それが本心では無いとしても。
「おはようございます!歌留葉さん♪」
宙にぶらりと浮いた様な感覚、その正体である睡眠欲を永劫に貪りたい気持ちを押し殺し、普段は見ない夢の世界に決別を告げてからゆっくりと眼を開ける、すると我が家に住まう同居人である彼女の柔らかい笑顔が眼前一杯に飛び込んで来る。
何時も笑顔を欠かさず、意識せずに表裏無く接する事が出来る彼女は珍しい人間なのだろうと、心底感心させられる様な笑顔だ。
「楓さん…お早う御座います」
寝惚け眼を指で擦りながら体を起こし、欠伸を漏らす。
朝から彼女の笑顔を見ると、その日一日を気分良く過ごせるのだが…今日はそんな訳には行かない日だ。
「楓さん、今日は…」
「朝ごはんは要らない。ですよね?大丈夫、ちゃんと覚えてますよ」
そう言って、長い髪を左右に揺らしながら彼女は笑う。
開いた窓から吹き抜ける風により、彼女の髪から香るのは柑橘類特有の、柔らかな甘酸っぱい香り。
彼女がやって来てからは、彼女から教わった「しゃんぷー」と呼ばれる洗髪料をお互いに共通の物を使用しているが、何故か彼女から香る匂いと、自分から香る匂いが違う。不思議だ。
「済みません。では身支度を終えたら直ぐに出掛けますので」
「お帰りは何時くらいに?」
「……恐らく、遅くなるかと」
「なら晩ご飯は…」
「頂きます」
「……ふふっ、分かりました」
彼女は三ヶ月の間に、料理の腕を上げている。
最近では俺よりも美味しい料理を作る物だから、何かに負けた気分だ。
それよりも彼女の料理が大好きなのだから、余計に負けた気分になる。
でも…彼女の料理を食べると、何だか不思議な感情が心中に渦巻く。
もしもこの感情が、幸せ、と言うものならば。
俺は今、幸せなのかも知れないな。
まぁ良い、今は取り敢えず支度を済ませてから八雲邸に向かおう。
ーー妖怪の山、山道ーー
暖かい陽射しが眩い山道を、履き馴れた草履を履き、歩く。
道端に咲き誇る花々に目を遣りながら歩いていると、屋台の様な物が在った。
色彩豊かな絵が描かれた扇子や、赤色や黄色、緑色等の墨で染めらた扇子、独特な書体文字だけが書かれた簡素な扇子等が列べられた屋台である。
そんな屋台に少しだけ目を遣ると、屋台の主人であろう人物が此方を見ていた。
黒く、大きなリボンが飾られたつばの広い麦藁帽子を目深に被った、白い髪を肩辺りで切り揃えた朱眼の少女。
少女と目が合った瞬間、何故か嫌な予感がしたので、俺は少女から直ぐに目線を外すと山道を歩む足を少し速める。
「若し、そこの道往くお兄さん」
足早に屋台を通り過ぎた所で、不意に声を掛けられた。
まさか声を掛けられるとは思っていなかった俺は、思わず歩みを止めてしまう。
呼び止められ、立ち止まったのだから彼女の方を向き、返事をしなければいけないだろう。
それに約束の時間まで、まだ少し時間がある。
なので俺は彼女の呼び掛けに応えて、少しの時間潰しをする事にした。
「…俺に、何か用でしょうか?」
出来る限り愛想良く努め、飛び切りの愛想笑いを作りながら振り返る。
すると少女は俺の顔を見るなり、小さな口の角をグニャリと吊り上げた。
「……やっぱり、柊さんだね?」
少女の口から飛び出した言葉に、場の空気が凍り付く。
何故初対面である筈の少女が、俺の名を知っているのだろうか?
俺は少しの警戒心を心中に隠し、それでも尚、笑顔を作り続けた。
「はは、そんなに警戒しないでおくれよ」
何処か馬鹿にした笑みを浮かべ、少女は俺の顔を見ている。
「…何処かでお会いしましたか?」
「いんや、初対面だけど?」
「なら何故、俺の名前を?」
俺がそう訊くと、少女は浮かべていた笑みを解き、その表情を冷たい物へと変えた。
「お兄さんは有名人だからねぇ…良い意味でも、モチロン悪い意味でも」
有名人、成る程…俺の考えが正しければ彼女は…
「…貴女は一体何者ですか?」
「私かい?私はただのしがない扇子屋さ。お兄さんの事はお得意様に聞いたのさ♪」
「………ハァ、八雲紫ですか」
「あと西行寺のお嬢様からね。いやぁ、それにしてもお兄さんって噂以上の男前だね。私ビックリしちゃったよ」
心地好い陽の光の中、何故この様な面倒臭い生物に絡まれなければならないのか?
いくら自問してもその答えは返ってこなかった。
「けどさ、駄目じゃないかな?」
「…何がですか?」
俺が少女に訊いた瞬間、少女の口角が更に歪むのを俺は見逃さなかった。
「仮にも“式神”であるお兄さんが、ご主人様を名呼びは駄目でしょ?」
「……………」
「ん~?どうかしたのかい?」
何なんだこの女は。
何故こんなに不愉快な言葉を俺にぶつける?
駄目だ、俺はコイツが一瞬にして苦手になった。
「……そろそろ時間が迫っているので…これで」
歌留葉は少女に一礼すると、直ぐ様進むべき道を歩み始めた。
そんな歌留葉の背中をジッと見ていた少女は、その小さな頭を横に傾けながら呟く。
「ん~…気に障ったかぁ……」
「…妖気は隠せても、人の匂いは消せないみたいだねぇ…さてどうなるかな?」
少女の口角が、再び歪む。
古ぼけた屋台には、何かを暗示するように沢山の春雪が積もっていた。