桜舞い散る山道を抜け。野屋建ち並ぶ畑道を抜け。障気漂う森を抜け。 死臭充ちる墓場を抜け。大きな門を抜けて漸く辿り着いたのは一軒の屋敷。
その屋敷の表札。古風な木製の表札には「八雲」の文字が刻まれていた。
数時間は歩き続けていた歌留葉は、疲労が溜まった脹ら脛を擦り、着崩れた衿元を正してから呼鈴を鳴らす。だが反応は無い。
数分待ってから再び歌留葉は呼鈴を鳴らす。だが結果は同じだった。
やがて歌留葉は踵を返し、来た道を戻ろうと数歩歩んだところで引き戸がガラリと開いた。
「……紫様が待って居られるのに…帰るつもりか?」
歌留葉に声を掛けたのは九の尾を持った妖狐であり、八雲紫が使役する式神ある八雲藍だ。
歌留葉は藍の姿を見ると軽く会釈する。
藍は歌留葉を尖った目付きで睨み付けながら、九の尾を揺らす。そしてこう続けた。
「ふん、相変わらず無愛想な顔をしているな……挨拶の一つくらいしたらどうだ?」
「…どうも、藍さんもお変わり無い様で何よりです」
その言葉を聞き、藍の表情が険しい物に変わった。
藍は歌留葉にゆっくりと近付くと、歌留葉を見上げ、更に鋭い目付きで睨み付けながら呟く。
「…嫌味か?」
歌留葉は無表情のまま、藍を冷めた眼で見下ろしながら答えた。
「まさか…落ち着いてください」
歌留葉を睨み続けていた藍だったが、暫くすると渋々歌留葉の前から退き、言い放つ。
「……チッ、紫様がお待ちだ。さっさと入れ」
その言葉を聞いた歌留葉は、藍に一礼すると開いた引き戸から屋内へと姿を消す。
それを後ろから見ていた藍は、歌留葉が完全に消えたのを確認してから呟いた。
「……紫様…何故ですか…?」
大きな歯軋りと共に、藍の眼が紅く濁る。
「私では無く…何故あの男なのですか…ッ!」
藍は眼を大きく見開き、帽子の上から一心不乱に頭を掻き毟る。
「何故……お前なんだ……柊…」
藍は歪に欠けた、血の滲む右手親指の爪をかじり続けた。
だだっ広い屋敷の中を歩き、八雲紫の自室を目指す。
何故、二人きりの生活の為にこれだけの広さの屋敷が必要なのか…理解に苦しむ。
この屋敷を目指し、歩く道程も心労が凄まじい物だったが、あの女の部屋を目指して歩く道程の方が心労然り、肉体的疲労然り、格段に上であろう。
そんな事を考えながら歩き続けていると、あの女の部屋の前にまで到達していた。
恐らく、この襖の奥にはあの女が厭な笑みを浮かべながら嫌な顔をして待ち構えているのだろう。
意を決して、俺は目の前の襖に手を掛ける。
「…歌留葉です、失礼します」
一言声を掛けてから、ゆっくりと襖を開け、部屋へと入る。
予想通り、八雲紫は口許に悪趣味な柄の扇子を当てて俺を見据えている。
「あら、何時もより早いのね?」
甘ったるい匂いが充満した部屋、その部屋の中心には猫撫で声で男を誘う
余りに甘く、鼻腔を突く匂いに俺は吐き気を催してしまった。
鼻と口を掌で覆い、出来る限りの不快感を瞳に宿しながら八雲紫を視る。
「…この匂い…嫌い?」
八雲紫の問いに、俺は首を縦に振る。
それを見た八雲紫はニヤリと笑い、不意に立ち上がると俺に歩み寄る。
「貴方には……八意の薬も効かないのね…詰まらないわ」
やけに甘ったるい匂いだと思った。
成程、永琳さんの薬か……今の八雲紫の反応からして恐らく催淫成分の混合された香だろう。
「…小細工ばかりして楽しいですか?」
「ええ、貴方の反応を見ていると悪戯したくなっちゃうのよ」
八雲紫はニヤニヤとした笑みをずっと浮かべながら、俺の肩に手を置く。
八雲紫が背伸びをし、俺は軽く膝を曲げるとそのまま八雲紫は俺の唇を奪った。
「…………」
何も感じない。
ただ息苦しいだけの接吻が、一分、二分と続く。
残念ながら、俺は八雲紫に対して一欠片の好意も持ち合わせていない。
寧ろ嫌悪感すら感じているのだから、この接吻は拷問に近い行為だ。
「……ん……っ」
永遠にも思える長い長い接吻が終わり、八雲紫の唇が離れる。
目の前の女は、先程よりも上気した表情で俺を見詰めていた。
「……ッ」
気を抜けば嘔吐してしまいそうな程の嫌悪感。
俺は無言で口許を拭いながら漏れる嗚咽を隠す。
「…さぁ、判ってるわよね?」
その言葉と共に、八雲紫は身に纏っていた着物を脱ぎ始める。
俺は深い溜め息を吐き出しながら自らの着流しの組紐を解くのだった。
不意に襖に眼が往く。
すると少しだけ開いた襖の隙間から紅い眼が覗いていた。
嗚呼、其処で視ている化狐さん。
代われる物なら代わって呉れ。