「柊さん……柊さん、起きてください柊さん…」
私の目の前で、椅子に腰掛けて眠る一人の青年。
綺麗な黒い髪を揺らし、その髪の隙間から整った寝顔を覗かせる。
そんな彼の肩を優しく揺さぶるが、彼が目を覚ます気配は無い。
只でさえ珍しい寝顔なのに、どうやら相当眠りが深いらしい。
今なら…と心の内で呟き、私は彼の綺麗な黒髪に触れてみる。
サラサラとした、だけど柔らかい、女の私が嫉妬する程に綺麗な髪だ。
時間にして五分間、彼の髪を満足行くまで堪能したので、そろそろ彼を起こさなければ。
「柊さん、ほら起きてください」
彼の白い頬を、優しく撫でる。
彼は何故か頬を撫でるとすぐに目を覚ます。
頬を撫でながら名を呼び続けていると、彼は長い睫毛を揺らし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……済みません鈴仙さん…また眠ってしまっていたみたいで…」
ぼんやりと宙を見上げ、彼は白魚の様な指で目許を擦る。
その動作により、はだけた衿元から覗く鎖骨に触れたい欲望を抑え込み、私は彼に向けて笑顔を作る。
「ふふっ、良く眠ってましたね。楓さんの検査、終わりましたよ?」
「そうですか…ありがとうございます」
そう言って彼は柔らかい笑顔を作る。
自然に見える彼の笑みは本物では無い。それは解っている。解っているのだが、私にそれを指摘する勇気は無い。
何故なら過去に一度だけ、彼に訊いた事があるから。
(柊さん、何故貴方は無理矢理笑顔を作るの?)
彼にそう訊いた事があった。
僅かな疑問。いや、きっと私は彼に本当の笑顔を向けて欲しかったのだろう。
厚かましく、浅ましい考えだ。
そして私は、そんな浅ましい質問をした事を激しく後悔する事となる。
私は彼の表情を忘れない。
違う、忘れられないのだろう。
あの氷さえ温く感じる、冷淡な無表情を。
「……あの、俺の顔に何か…?」
そう訊かれ、私はハッとした様に彼の顔を見る。
心配そうな表情で、私の顔を見詰める彼の眼は、緋色に輝く宝石玉の様で美しい。
だけど……その瞳に私は映ってはいない。彼が見ているのは、私自身ではなく、いきなり黙り込んでしまった目の前の兎と言う存在なのだ。
「…いえ!何でも無いですよ」
飛びきりの作り笑い。
「そうですか…」
何でそんなに心配そうに私を見るの?
「あ、楓さん…」
ほら、私に何か欠片程の興味も無い癖に。
「歌留葉さんっ!検査結果異常無しでした!」
「そうですか、良かったですね。後もう少し静かに話しましょうね。聞こえてますから」
「は、はい、ごめんなさい…」
楓さんは凄く可愛い。
彼女を見る彼の表情も…凄く豊かで…其は決して誰にも見せない様な表情で……やっぱり実感するんだ。
私では彼女に敵わない。
「あ、永琳先生が歌留葉さんを呼んでいましたよ」
「永琳さんが…?分かりました。あの、鈴仙さん…」
この気持ちは…どうすれば良いのだろう。
どうすれば正解なのだろう。
きっと答えは無いのだろう、だけど私には判る。
「鈴仙…さん…?大丈夫…ですか…?」
またそんな顔をする。
止めて、勘違いするから。
だからこの気持ちは…この胸の中に仕舞っておくのが…一番良い。
もう勘違い何か…したく無いから。
「…はい!大丈夫ですよ♪」
歌留葉さん、貴方達に…幸あれ。
鈴仙さんに楓を、半ば強引に押し付けてしまい、申し訳無い気持ちを心中に抱きながら、俺は永琳さんの待つ診察室(?)の扉の前に立っていた。
恐らく、先程の居眠りではだけてしまったであろう衿元を正し、扉を二度叩く。
室内から永琳さんの声が聴こえたのを確認すると、入室の意を伝えてから扉を開けた。
「柊、良い知らせと悪い知らせ。どちらから聴きたい?」
開口一番がこの言葉である。
予想だにしなかった質問をされ、俺の思考は一瞬混乱した。
だが永琳さんの真剣な表情を見ると、質問の意味を問うよりも質問に答えた方が良さそうだ。
「…良い知らせから、お願いします」
「そう……良い知らせはね、彼女、楓の記憶が戻った事よ」
……成る程、確かにそれは良い知らせだ。
彼女もきっと喜んでいるに違いない。
だが…腑に落ちない事があった。
「…永琳さん、確かにそれは喜ばしい事です。ですが一つ疑問があるのですが…」
「ええ、大体解っているわ…」
「…楓さんは、さっき検査結果異常無し。確かにそう言いました…」
「それを踏まえた上で伝えるわ…悪い知らせ、それは彼女自身が記憶を放棄……いえ、消去した事よ」
「記憶を……消去…?」
「…稀に、極稀に…余りにも大きな心身的ショックを受けると、その時の記憶を脳が勝手に消去する事があるの。私は精神的な医学に詳しい訳では無いから詳しい事は解らないのだけど、恐らく彼女は過去…若しくは此方の世界へと来る直前…」
「……事件か何かに巻き込まれた、と?」
「可能性はあるわね…」
「……………」
「…良い?彼女は凄く不安定よ。気丈に振る舞ってはいるけれど、見ず知らずの土地にいきなり放り出されて平気な人間はいないわ。それに彼女は……闇を抱えている、だから……いえ、無理にとは言わない、出来る限りで良いの、彼女の支えになってあげて…」
「………」
「貴方が人嫌いなのは知ってる、でも彼女には貴方しかいないの。お願い…」
「……分かりました」
「柊…!」
「でも……何れは現実と向き合って貰いますよ…」
「……そうね、判っているわ」
「………では、俺はそろそろ…」
「ええ、また来週…ね」
「はい、ではこれで」
永遠亭からの帰り道、夕陽が照らす竹林を、彼女の手を引いて歩く。
すっかり暖かくなった気温と、それよりも暖かい彼女の手の温もりを感じながら、俺は何を思うのだろう。
自分自身に問い掛けても、返ってくるのは俺の言葉とは思えない、甘ったるく吐き気を催す様な戯れ言ばかりだ。
「あの…歌留葉さん?」
「…何でしょう」
「永琳さんと、どんな話を…?」
「……貴女の事について、ですよ」
「わ、私ですか…」
「ええ、随分良くなった、と」
「そうですか……ならもう少しで記憶が…?」
「……恐らく」
「…そう、ですか…」
俺の手を握りしめる彼女の力が、少しだけ強くなった気がした。
だから…俺も少しだけ強く握り返してみた。
真っ赤…真っ赤真っ赤…嗚呼、真っ赤。
「私の心は真っ赤よ………ねぇ、歌留葉」
真っ赤真っ赤真っ赤、何故なら貴方が…
「貴方が悪いのよ………ねぇ、歌留葉」
死は…平等に訪れる。
真っ赤な死が…ねぇ……