自分自身の感情を殺し、制御して相手に悟られない様にする為に、自分は小さい小さい小僧の頃から泣いた事すら無かった。
勿論、心底笑った事も無い。自分が笑えば彼奴等が何を笑っているんだと言いながら愉しそうに自分を殴り、笑うから。自分はそれが気に入らないからだ。
光は無い、何も無い世界。そんな物は要らない。
だから自分は昔を捨てた。
人を殺し、妖怪を殺し、自分を殺して情を殺す。
全てを殺しながら生きてきた自分に怖い物など何も無かった。
だが…今回、自分はとんでもない奴に喧嘩を売ってしまった様だ。
「……面白いな、面白いぜ…柊よォ…」
白銀に鈍く耀く刃が歌留葉の身体を切り裂き、柊邸宅の外壁を真っ赤に汚す。
飽くまでも抵抗の姿勢すら見せない歌留葉の身体からは、致死量に達する程の血液が失われつつあった。
「……もう諦めろ。アンタだって限界だろうに」
日本刀を振り回す青年が呟く。しかし相対する歌留葉は幾度と無く警告した。
「…大人しくして下さい、命までは奪いません」
先程から繰り返し発せられるこの言葉。明らかに自らの方が有利な筈なのに、青年は嫌な予感がしてならなかった。
「…もう良い。もう終いにしよう」
身体中に斬り傷を作った歌留葉の身体を見据え、青年は剣の刀身を鞘へと納める。
そして歌留葉に向けてこう言い放った。
「桂木祐希……それが貴様を殺す男の名前だ…ッ!」
「!?」
地面を強く蹴り、間合いを詰めながらの居合い。
凄まじい速度で迫る刃。歌留葉は反応出来ない。
辛うじて刃を止めようと動いた左腕はーー
「………さっさと死んでくれよ…なぁ柊…」
ーー宙空をひらりと舞い、震える楓の目の前にボトリと落ちた。
その光景に思わず上擦った声を漏らす楓。自身の血によって顔まで汚れた歌留葉は、力無く自分の落ちた左腕に目を遣る。
只の肉塊へと姿を変えた”元“左腕を見た歌留葉は、傷口を抑える事もせずに音を立てて滴り落ちる血を眺め、呟いた。
「…嗚呼、全く。痛いなぁ…」
これまで引いた事の無かった風邪、未知の頭痛に熱の籠った蕩ける思考。ズキズキと音が聴こえて来る錯覚に陥る程の傷の痛み。血が失われて行くに連れて震える程に冷める身体。全てが歌留葉を責め立て、死を選ぶ様に死神が耳許で囁いている気がした。
「苦しいなぁ…辛いなぁ…」
額から伝う汗が、頬に付着した血液と混じり、地面に落ちる。土に染み込んだそれがゆっくりと染みを作るのを見届けた歌留葉が漸く頭を上げ、桂木を見据えた。
「さて…桂木さん……再三、警告はしましたよ?」
それは余りにも深い、深い深い奈落を覗いた様な…身の毛がよだつ感覚。全身の筋肉が硬直する、本能の警告。
嗚呼、死が近い。
この男は……この妖怪だけは……
格が違う
「さぁ、泣き喚いて許しを乞えば許してあげなくもないですよ?」
まるで切り裂いた様な、不気味な程に口角を吊り上げた歌留葉が呟く。全身の汗腺から大粒の汗が滲み出るのを桂木は感じていた。同時に桂木は自身の身体が心底冷え切るのを感じ、思考を只一つの考え事に回していた。
そうだ、逃げよう
こいつにだけは勝てない
こいつだけは殺せない
こいつになら簡単に殺されてしまう
だから逃げよう
それからの桂木の動きは速かった。踵を軸に身体を勢い良く半回転させると、持ち前の脚力を活かした全力疾走を始める。頭に乗せる程度に被っていた学生帽は簡単に吹き飛び、乱れた黒髪からは汗の飛沫を撒き散らせ、必死に見開いた瞼から覗く眼球は真っ赤に充血していた。
どれだけ走っただろうか?一心不乱に走る桂木は未だに気付いていない。背後に迫る歌留葉に。
「…逃がしませんよ…?」
耳許で囁く、聞き覚えのある声。その瞬間、桂木は自分の身体が宙を舞っている事に気付いた。
そう、先程自分が切り落とした歌留葉の左腕の様に。
「ゲホォッ!!?」
まるで打ち上げられた魚の様に、桂木は口をパクパクと開く。それは背中が地面に叩き付けられた事によって無理矢理吐き出された空気を、肺に送り込もうとする仕草だった。
「…これだけ離れていれば、楓さんに見られる心配もありませんね」
精神を削られる。現在、歌留葉の表情を言い表すのにピッタリな言葉だ。
歌留葉が右腕を上げる、血に塗れて真っ赤に染まった右腕を。桂木は声すら出せない、ぐるぐると回る眼前、桂木はその眼から涙を一滴溢していた。
「特別に、貴方を俺の別荘へ招待しますよ」
狂気に満ちた笑顔。拳が迫る直前に桂木は意識を失った。