……此処は…何処だ…。自分は…一体……?
鈍く、重い頭を何とか覚醒させ、桂木はゆっくりと目を開く。
血と錆で汚れた壁、薄暗い電灯に照らされた憎き相手の屈んだ後ろ姿。それは何故か逆さを向いていた。
否、違う。
桂木自身が逆さを向いてる。
そう、桂木は足首を縄で縛られ、宙ぶらりんに吊るされていた。
(…何だ…?)
「御早う御座います、桂木さん」
一度の瞬き、その瞬間で歌留葉は立ち上がり、桂木の目の前に移動していた。
弱々しく、傷口を押さえている歌留葉を見た桂木。その瞬間、桂木の顔が蒼白く染まった。
「片手で桂木さんを逆さ吊りにするのは、いくら俺でも些か骨が折れましたよ」
完全に止血出来ていないのか、石造りの床に水滴が落ちる音が響く。
袖は真っ赤に染まり、息遣い荒く肩を上下させる歌留葉は今にも倒れそうだ。
「…化け物が…」
口を開けば悪態が飛び出す。既に固まった鼻血を自由が利く右腕で拭い、桂木は歌留葉を睨み返した。
「その化け物を狩って生きている貴方も充分、化け物ですよ」
苦悶の表情を浮かべる桂木とは対照的に、歌留葉は笑みを浮かべる。表面だけで作った笑顔、それは桂木に言い様の無い恐怖を否応無しに与える。
「…桂木さん、一つ訊いても良いですか?」
歌留葉の顔から笑みが消えた。
「何故、俺を殺そうと…?」
核心を突く問いに、桂木は口を結ぶ。
此処で依頼人の情報を漏らせば、依頼人にまで危険が及ぶ可能性があるからだ。
「………」
「…言えない、と?嗚呼、何となく判りました」
桂木は歌留葉の目を睨み続ける、視線を外せば何か良からぬ事が起きると理解しているからだ。
「貴方の私怨で無いから、ですよね?」
悉く読まれる思考。歌留葉相手に下手な隠し事など無意味なのだ。
頭に逆上った血が、耳鳴りを起こさせる。このままでは状況は悪化の一歩をただ進むだけだ。なので桂木は両手が自由な今の内に脱出を試みる事を決めた。
「…柊…お前さんには関係無い事だ」
声が…出なくなりつつある。
予想以上に衰弱しつつある自身に、桂木は少しの焦りを感じた。このままでは動くことすら出来なくなってしまう。そうなれば終わりだ、ただ死を待つだけになる。
(どんなに小さくても良い、何か…何か隙を…)
だが不意に動けば目の前の妖怪を刺激しかねない。だから桂木は慎重にならざるを得ない。得物を持たず、況してや宙吊りの人間に勝ち目など無いのだ。
「まぁ、貴方がそう言うのならそろそろ始めましょうか」
そう言って床に転がる何かを掴んだ歌留葉の右手には、桂木の最も信頼しており、尚且つ商売道具であり何度も命を預けた物が握られていた。
「桂木さん、俺……鮟鱇の吊し切りに興味がありましてね…?」
柄を握り、刃を下に向けると重量により鞘が滑り落ちてカラリと音を立てた。
鈍く耀く刃、美しい刃文を見た歌留葉が呟く。
「良い刀です」
そう言って満面の笑みを浮かべる歌留葉。桂木は思った、関係無いと。隙を探している暇など無い。今すぐ動かなければいけないと。
「あ…ああ……畜生…ッ!」
身体を勢い良く曲げ、右手と左手で足を縛り付けている縄を掴む。結び目が見当たらないのを素早く確認すると、天井に近く、剥き出しになった鉄骨に縄が結び付けられているのを発見した所で、床に刀を突き立てた歌留葉に脇腹を軽く殴られた。
「…ッ!!」
「やっぱり腕を自由にしていたのは失敗でしたか…全く、堪え性の無い人ですね」
脱力して再び宙ぶらりんになった桂木の学ランを力尽くで引き剥す。白いブラウス一枚になった桂木は歌留葉に向けて拳を放った。だが人間の殴打が歌留葉に通用する筈も無く、桂木の右拳は軽々と受け止められてしまう。
「何度も言いますが、お痛が過ぎますよ?桂木さん」
「ッッ!?!?」
桂木の拳を、歌留葉は一回転させた。桂木の手首から鈍い音が室内に響く。声を漏らさない様に歯を食い縛る桂木、これで彼は右手を使えなくなってしまった。
「成る程…我慢強いんですね?」
床に突き刺さる刀を引き抜き、歌留葉は刀を軽く振るう。
すると感覚が無くなり始めていた桂木の手首に鋭い痛みが走る。桂木は見たく無かった。見てしまえば声を抑えられる自信が無かったからだ。
「嗚呼、それとも痩せ我慢ですか」
溜まりに水滴が滴る音。段々と大きくなる痛み。辛うじて動いていた指先の筋肉が動く感覚が消え失せていくのを桂木は理解した。
「ハァ…ッ…ハァ…く…ッ」
「差し詰め、血抜きと言った所でしょうか。良い顔してますよ桂木さん」
まるで噴水の様に止めどなく溢れ出る血液、歌留葉とは違い、普通の人間である桂木にとって腕の切断は、生死に関わる重傷なのだ。
(痛ぇッ!!こんなに痛ぇモンなのかよ…ッ)
溢れそうになる涙を堪え、初めて瀕する死の際に、桂木は絶大な恐怖を覚えた。しかしもう遅い。後悔など何の役にも立たないのだから。
「さて、次は…」
桂木は簡単に限界を迎えた。何故なら”左腕“さえも自らの肉体では無くなってしまったから。
「ぐあああああッ!!!」
「五月蝿い…」
一突き、喉へと突き刺さる切っ先。
切っ先を抜くと喉の小さな傷からは少しずつ血が溢れ、切り裂かれた気管からは空気が漏れ始めた。
「う゛ごぁ゛けほッ゛」
口からも血を吐き出し、更に床に血溜まりを作る。
痛みと出血、呼吸のし難さから桂木は痙攣を起こす。
「人間がこんなに脆いとは…予想外ですね」
血の付着した刀を床に放り、自分の肘から切断された左腕を診る歌留葉。既に血は止まりつつあり、腹や肩の傷も閉じ始めていた。
「…永遠亭に行かないと」
突然、鉄扉を叩く音が響き渡る。
その後、直ぐに少女の物と思われる声も耳に入った。
『あの、誰か居らっしゃいますか?』
その声に、歌留葉は聞き覚えがあった。
「…犬走さん?」
その問いに、鉄扉の向こう側の少女が反応する。
『あれ、その声…』
歌留葉はゆっくりと鉄扉に向かい、閂に手を掛けるとこう言った。
「…ええ、今開けますよ」
その顔に飛び切りの作り笑いを貼り付けて。