今日も今日とて三途の川で死者の魂の運搬作業。
代わり映えのない意識なき青白い人型の魂もとっくの昔に見飽き、休日なぞありはしない勤務をそろそろ怠慢しても少しは容赦してもらえるのではないかと考え始めた今日この頃。
代わり映えなく魂たちから銭を受けて対岸へと送る。
全員を下ろし再び元来た航路を戻る。
しばらく漕いで見えてきた川岸には地平線の彼方まで続く白い線。
今日は特に魂が多いね。
どこかで戦争が勃発したのか日頃の三倍ほどは並んでる気がする。
残業と明日への持ち越しかとうんざりしながら船を漕ぐ。
間もなく着岸するようになり少しばかり漕ぐ速度を遅めた辺りで、視界の隅でなにかが動いた。
ここは三途の川、来るのは死んだ人間の魂のみであり全て意識なく長蛇の列に並んでいるだけだ。
天候もなければ風もない、そんな三途の川で自分以外に動く物など船に乗せる時の魂くらいである。
そんな三途の川で、船も到着していないのに動く物など自分の視界に移るはずがないのだ。
動いた物に目を凝らすと、川岸から百メートルくらい離れた場所で男の魂が船を待つ魂の列から女の魂を引き抜いていた。
それはあまりにも乱暴な引き方で、良くない胸騒ぎに着岸を急ごうと目線をそらして魂の列の先頭へと漕ぐことにする。
やや雑に着岸して動かない魂たちを無視して例の場所へと足を進める。
歩きながら背中に背負った鎌を手に取った。
死神らしい飾りとして買った部分の多い鎌だったが、どうやら今回は使うことになるかもしれない。
魂たちの向こうに件の連中が見えてくる。
こちらに背を向けて男の魂が地面に座っていた。
女の魂はどうやら男の胸にもたれかかっているようだ。
男の腕がしきりに上下に動いており、その仕草を見て触られているわけではないにも関わらず生理的嫌悪が走り鳥肌が立った。
問答無用で斬り捨てようかとも思ったがそれでは一緒にくっついている女の魂も同時に斬ってしまう。
この鎌は魂を斬ることができ、斬られた魂はその存在を失い閻魔の裁きを受けられず輪廻の輪から外れて永久に存在が甦ることはない。
遠目から見ている限り男の体の脇から僅かに見える女の腕は一切動いていない、つまり意識はあらず男に弄ばれているだけ。
ならば女の魂を斬るわけにはいかない。
無害の魂を無断で斬ったとなれば上司にすぐバレて大目玉をくらう。
それこそ不眠不休でこの無数の魂を捌けと言われるほどには。
「――ああぁ!」
上司からの制裁に内心でうんざりしていた時、不意に辺りに響き渡る声が聴こえた。
それは女性の声であり、甲高く悲鳴のように聴こえる。
しかしその一方で、自分も経験のある悲鳴にも思えた。
それは自室に帰りベッドの上で自分の体を慰めていた果てに上げた声。
後者の悲鳴だとすれば、それは自分でも上げたことのないほど大きな声だった。
自分では感じたことのない気持ち良さそうな――。
なにを考えているのか、今浮かんだ思考を首を振ることで慌てて消し去る。
今行わなければならないのは目の前の男を斬ることだ。
若干浮き足立ってしまった心境への八つ当たりも含まれている気がしなくもないが、こんな男は生前もとんだ悪行に手を染めておりどうせ地獄に落ちるのだ、斬っても問題ない。
鎌を力強く握り直すことで思考を切り換え、若干大股に男へと歩み寄る。
近づくことで気づく。
なんと男が女の耳の中に舌を入れてるではないか。
よく聞けば蕎麦を啜るように女の耳の中を啜っているではないか。
その音と光景に常識を破られたように頭を鈍器で殴られた気がした。
な、なんだいこの男は……!
あまりの衝撃に男に対して殺意を覚える。
「なに人の縄張りで悪事を働いてるんだい、色情魔さんよ?」
男の首の横に鎌の刃を沿えて話しかける。
悪人を捕らえる時は声掛け、威嚇、制圧の順で行動しろと上司から教わってはいたが、どちらにしろ制圧はするのだ臨機応変がいつの時代も大切なのである。
男の黒髪を越えて女を覗き見ると、魂たちが着ている衣類は特にはだけてはいなかったが大きく肩で呼吸し息を荒く吐いていた。
その光景に疑問が浮かぶ。
なぜ女は呼吸をしているのか。
通常死んで魂となった人間は生前の名残から生きている頃の自身を型どっているだけで肺などの呼吸器といった内蔵までも構成されているわけではない。
あくまで外見だけなのだ。
そもそも、肉体が消滅し魂だけとなったのだから呼吸器があったとしても呼吸はできない。
そんな魂が呼吸をしている。
あり得ない現象に、唯一原因として考えられる男の魂への警戒心を何段階か羽上げる。
女の荒い息は自分にも既視感があり、しかしそれもまた自分が知っているそれよりも大きなものだった。
なにをどうしたらあんなに気持ち良く――。
「さて、まずはその女の魂を離してもらおうかね」
再び思考が乱れた自分に思わず顔の温度が上がるが、隠すように男の魂へと声をかける。
あたいに余計なこと考えさせやがって、女の魂を離したら斬ってやるよと心に決めて鎌を降り下ろすイメージを浮かべる。
鎌を降り下ろした数瞬後には目の前から消えるだろう。
男はしばらく動かず黙っていたが、自分が不利だと思い至ったのかやがて女をゆっくりと地面に寝かせた。
やれやれ、やっと平穏を取り戻せるね。
内心でそう呟きつつも反面、今日はベッドに入ってから寝るのが少し遅れるかもしれないと尻すぼみに想像を浮かべてしまい慌てて消す。
全くこの男の魂のせいで今日はとんだ厄日だよ、うんざりしながらもこの不快な気持ちももうすぐ終わりと再び男に意識を向けた。
しかし、寝かせた女の魂から男が手を離した時に再び驚かされることとなった。
男の手が離れた瞬間、女の魂がそれまで肩で大きく呼吸していた荒い息が嘘のようにぴたりと止まり、何事もなかったかのように立ち上がってさっきまで並んでいたところへと戻っていったではないか。
なにが起きているのか。
死んだ魂が呼吸していることも、それをぴたりと止めて他の魂たちと同じく再び列に並び始めたことも。
理解不能な事態ばかりに、さすがに上司への報告も頭の片隅に浮かび悪即斬は取り止めた。
とりあえず必要とあらば報告しなければならないため男に理由を訊ねる。
「……あんた、今なにかしたのかい」
訊ねると言う割りには存外に固い声色で断定の抑揚が強い物言いになってしまった。
短い間に立て続けに起こった異常事態に予想以上に自分は慌てているらしい。
魂が呼吸していることもそれが男から離れた瞬間に元ある姿に戻ったのも見た目からは全く想像がつかず、この男から聞かないことにはわからないだろう。
しかし男はなにも答えず身動きも見せない。
答えないつもりか、その考えが浮かびそうであるなら少しばかり喋るまで痛い目を見てもらうだけだ。
男の反応を見逃さないように一挙手一投足をじっかりと眺めていると、ふと頭の片隅になにかが引っかかる。
この男はなぜ喋らないのか、この男が喋らないことには先程の原因が分からないままになってしまう。
女の魂が呼吸をしていた理由をこの男から、男の魂から。
その瞬間、頭の中でバラバラだったパズルが綺麗にはまったように思考の靄が晴れた。
襟足辺りまでの黒い髪をした青白い肌のこの男はあくまで魂なのだ。
魂は喋らないのだから、この男とて喋れないだけなのではないだろうか。
三途の川の船頭である死神の常識をすっかりと忘れるほど未だに頭が混乱しているのか。
しかしその反面。
「…………いえ、なにもしてません」
突然喋り始めた男に驚くことはなかった。
どこか予想通りといった思考に納得しそこまで混乱しているわけではないことに安堵しつつ、思考は他のことを考える。
長い沈黙から出た言葉は、なにもしていない。
この回答をはいそうですかと信じるのは湖の近くに生息するわはーとまるきゅうくらいだろう。
この男はなにかを隠しており、間違いなくなんらかの能力を持っているのではないかと疑うには充分すぎる答えだった。
もしや死者を蘇らせる能力でも持っているのか。
死者の復活は世界の理に於いて最大の禁忌、最高位の神でさえ叶えることのできない不変の常識。
これを破り死者蘇生を試みた者は皆成果に問わず、例外を作らずどれも世界からの拒絶を受けて凄惨な末路を辿っている。
蘇生などできるはずがないとその思考を一蹴するが、しかしあの女の魂がこの男に触れている間だけ肉体を持たずに命を吹き返していたというのなら呼吸もその後の停止もすんなりと納得できる自分がいた。
そう考えると、女を寝かせた時に意図的に再び命を消して魂だけの存在に戻したのだろう。
もし、もしそうならば尚更この男の魂を消滅させなければならない。
この男をこのままにしておけば間違いなくここにいる魂たちを荒らされて魂のみで生きている人間、生霊で世界が溢れ返ってしまう。
自分の意思で意図的に他人の生き死にを操る男、まさに命の冒涜を行う者を放っておくわけにはいかない。
こちらも少しばかり間が開いたが男に言葉を返す。
「……まあいいさね。さて、本来なら死んだ人間の魂はこの三途の川を渡って閻魔大王様の裁きを受けなきゃあいけないんだけど――あたいの鎌でも魂は消滅させられるんだよ」
その言葉に、男は初めて動きを見せた。
びくりと小さく肩を揺らしただけだったが、こちらの顕著に脅しが成功したことは嬉しい誤算。
立場的優位はこちらにあると明確に理解し、これで男も理由を吐かざるを得なくなるだろう。
そう思い緊張状態を少しだけ解き、ふと僅かに体に入る力を抜く。
その油断が男につけ入る隙を与えてしまった。
力を抜いた瞬間、男はそれまでの地蔵のように身動きひとつしなかった体を一転、軽快に腕を使い反転する。
男がこちらに振り向いたのだ。
突然の出来事に目を開くことしかできずに固まってしまう。
二十代前半とおぼしき風貌は整っても整ってなくもなく、もっと血色の良い肌色ならばどこにでもいるような男の顔立ち。
男の真っ黒な二つの瞳が真っ直ぐにこちらの顔を見つめる。
この男の命を操る能力の発動条件が定かではないのだ、相手に触れることかもしれないがひょっとしたら相手の目を見ることなのかもしれない。
もしそうだとすると男にとんでもない有利な条件を一瞬にして与えてしまったのではないか。
立場の逆転。
彼の意識次第で次の瞬間には命を奪われているかもしれない状況下で数瞬前までの自分に後悔などしている暇はなく、抜いた力を再び全身にみなぎらせる。
しかしすぐにできる行動などありはせず、ただ内心の同様を彼にバレさせないようにするしかない。
「……なに笑ってんだい」
余裕からか笑みを浮かべる彼に平常を装って問いかけるが声は固くなっていた。
そんな状態を見抜かれたのか彼が笑みを深める。
「いえ、あなたの姿をこうして見ることができたので満足しただけです」
予想外の言葉に思わず気が抜けそうになるが、それが彼の狙いなのかもしれないとなんとか持ち返して彼に合わせるようにこちらも笑みを浮かべた。
「なんだいそりゃ」
できるだけの軽口を返してやり、このまま膠着状態が続いても相手に有利になるだけだと結論づけ、この男はあくまでも話すつもりはないのだと理解し報告よりも消滅を優先させて鎌を彼から離した。
これで少しでも油断してくれるといいんだけどねぇ。
内心に悪態を溢しながら力の込めやすい位置まで鎌を振り上げる。
「……まあ、恨むんならあたいの目の届くところであんなことをした自分を恨むんだね」
行動がバレないように挑発するように言葉をかけながら、肩を疎める何気ない仕草に合わせて全力で鎌を降り下ろした。