便器の裏に腕をつっこみウェットシートで床を拭いていると、小さな物をはじいてカランと音がした。
日曜ごとに回ってくる、当番制のトイレ掃除をしていたこときのことだ。
反対側を拭くときにそれを拾う。
「あ、これ……」
白銀色の輪に埋め込まれた小さなダイアモンドが耀いている。母さんの結婚指輪だった。何日か前に「どこかへやっちゃったの。家の中だと思うんだけど……」と、あごまであるショートボブの髪をいじりながら、弱ったふうに言っていたものだ。
とりあえずポケットにしまって掃除を済ませ、手を洗うついでにそれを洗ってから母さんに返した。
「これ」と指輪を見せると、母さんは少したれ目のおっとりとした目を見開いて、はっと驚きをみせる。派手ではないが愛嬌がある顔に、子供みたいなリアクションが似合った。
「わ、ありがとう。どこにあった?」
「トイレ。掃除してたら出てきた」
「あー、それじゃ掃除したときだね。ありがとう、よかったぁ」
母さんは安心したように息をついて、リングを左の薬指にもどす。ほっと肩を下げながら、自分の手をまじまじ見ていた。水仕事をしていても、ハンドクリームを欠かさないおかげかすべらかな手だ。
「ほんとだよ。外だったから良かったけど、中に落としてたらもうどうしようもないんだから」
「ほんと。これからはもっと気をつけるわ」
会話を聞いていた父さんが、食卓で飲んでいたビールから口を離して、
「千尋ぉ、出てきたのか」
「ええ、裕君が見つけてくれたの」
「しかし指輪なんてなくすかあ?」
「汚しちゃいけないと思って外したのよ」
「じゃあちゃんと置いておけばいいだろう」
父さんが首をひねる。母さんはむっとふくれながら「あれこれしてたらどこにやったか忘れるだから」と父さんに甘えるように詰め寄った。その様子を尻目に、俺は風呂へ向かった。
両親の仲が良いのはいいことだが、はたで見せられているとうんざりもするものだ。
水曜日の四時間目は体育で、夏も近くプールの始まらないこの時期は、とにかく昼食の弁当が食べにくい。窓を全開にして風を通しても汗はひかず、土と汗と制汗剤と、それから食べ物のにおいが、教室の中に充満していた。
「食欲なんてわかねーよな」と文句を言いながら、育ち盛りの中学生である俺たちは、バクバク弁当を食べていた。
そのときふと、日曜日のことを思い出したのだった。
「裕二?」
「ん?」
「どうしたの、ぼーっとして」
「ああ、いや……ちょっとな。体動かしてすぐ飯ってなあ」
「でも五時間目の体育もきついぞ」
「それはある」
そうだ、先週もこんな会話をした。そして夕飯が冷麺となにかで、さっぱりしていていいなと思った。その夕飯の席で父さんが言ったのだ。「千尋、指輪どうしたんだ?」と。
母さんはパートは水曜と土日が休みなので、このところ水曜日に掃除に精を出したり、半身浴をやってみたりすることが多かった。そのときだろうと、しかし不安そうな様子で母さんは、「見つけたら教えてね」と言っていた。
水曜日に当番制のトイレも掃除したのだろうか?
気にもしていなかったことが、ふと気になってきた。ありあまる時間で普段しない掃除をやったりするのだろうか。
家で一人のとき、母さんは何をしているのだろうか。
奥歯の隙間に入った胡麻一粒のように、気になり始めるとそればかりを考えてしまう。
午後の授業は国語とホームルーム。一度抜けたくらいどうとでもなる。
俺は残った弁当を胃に収めると、帰り支度を始めた。
「悪い。暑さで体調悪くなったから帰りましたって言っといて」
「帰るの? 今日なんか発売日だっけ」
俺たちは楽しみにしている漫画とかゲームの発売日に、こっそり学校を早退することがときどきあった。かわりにノートを取って先生に嘘をつくのは、お互い様の仕事である。
「そういうんじゃないけど。まあちょっと気分悪いってのは本当」
そういうことにして学校をあとにした。担任は話のわかる人で、節度さえ守ればいちいち家に連絡を入れたりはしない。
近所で火事があると聞けば見に行く野次馬のような気持ちで家へ帰る。
そして玄関扉の前で、俺は困ってしまった。普通に帰宅して気付かれてしまうと、一人で何をしているかを見られないではないか。
どうしたものか……外壁を登るには高過ぎるマンションだ。
とにかく中の様子をうかがおうと、廊下に人の姿がないのを確かめて、扉に耳を当てる。
こもったような音がする。妙な賑やかさは、テレビかラジオの音だからだろうか。
この音にまぎれていればいけるのではないかと思い、俺はそーっと時間をかけて鍵を開けた。そしてもっと慎重にドアノブを回して扉を開く。
薄暗い玄関に、扉の隙間分の光が差し込む。照らされたそこに、見覚えのない靴があった。スニーカー。男物だろう大きさ。
なにかとてつもない不安に襲われる。俺はなおも慎重に扉を閉めた。
じっと息を殺していると、突き当りのリビングから、ドア一枚を隔てた昼の情報番組にの音声と、それにまぎれた母さんの声、ときどき男の声がする。
靴を脱ぐ。忍び足て近付いていくと、「ああっ」と、友達の家で見たAVで聞いたような、女の気持ちよさそうな声がした。
女の……?
好奇心というよりは、もはやそうせざるを得ない絶望感で、俺はリビングのドアに近付いていく。
「ああぁぁぁ……、イいよぉ……、ふかぁ……」
胃の底から出てくるような浸りきった声に泣きそうになりながら、ほんのわずかにドアを開く。ただそれだけのことで、荒い二人の息遣いも、汗ばんだ肉のぶつかる音も、テレビの雑音をすり抜けて聞こえてくるみたいだった。
ソファに浅く腰をかけ、両脚を投げ出しているのは、やはり見知らぬ若い男だった。彼は裸で、ソファに膝膝立ちになり男の上で腰を振っている母さんも、やっぱり裸だった。
綺麗だった。グラビアアイドルの写真とは違う、生々しい肉感があって、その肌を桃色に染めて興奮している姿は、母さんなのに、いや母さんだからか、俺は劣情を催した。
胸は吊られるように膨らんでいる。背筋がなめらかな曲線を描いた先で、パンパンと肉をぶつけながら尻肉をぶるんぶるんと振っている。
男の手が当然のように尻を掴んでいる。もう片方の手で母さんの胸を自分のオモチャのように揉んでいた。
エアコンの冷気に、甘いような酸っぱいような、どこか生臭い、けれども甘美な、頭がぼーっとするような匂いが混ざっている。
「あー……はぁああ…………。んっ、ふあぁ……」
母さんはぽーっと遠い目で、半開きの口から気持ちよさそうな吐息と涎をもらす。腰の動きがゆるやかになり、そしてまた気を取り直したように激しさを増していく。
そんなことが数度繰り返され、男が母さんの尻を二度叩いた。「アッ」と喘ぎ声で応えた母さんは、次第に動きをゆるめて、男のちんぽを引き抜いた。
男は母さんを押し倒すように床に寝転ばせると、母さんの両脚を開いて挿入しなおした。
母さんの脚は男の脚にからみつき、片手が男の髪を掴むように抱き寄せる。
「あ、アア……オっ、おぉ……! イ……ンっ……くぅうう……!」
それが母さんの何を刺激したのかはわからないが、母さんのものとは思えない、深く低い声を喉から絞り出す。
床には二人の衣服が無造作に脱ぎ捨てられていた。俺や父さんが脱いだものをその辺に放置していると「もー」と膨れて片付ける母さんが、シャツもズボンも、そして下着までを床に落とし、まるでそんなことには気付いていないように、あるいはそれが花を添えるように男女は繋がっていた。
男は激しく腰を上下させる。母さんは意味をなさない言葉を、息苦しそうに吐き続けた。
突然男が母さんから離れたかと思うと、馬乗りをするように母さんに跨って、自分のモノをしごいて射精した。胸から顔を汚された母さんは、それが口に入るのも気にしていないように、余韻の喘ぎ声をもらしている。
息を整えた母さんが、食卓のティッシュ箱を取って顔を拭き、男のちんぽを綺麗にし始めて、それはつまり生挿入だったのだということに気が付いた。
「あ、まだ元気」
からかうように、しかし嬉しさを隠しきれない声で母さんは言い、ティッシュを投げ捨てると、さわさわと指先でちんぽを撫でる。男は仁王立ちでその愛撫を当然のように受けながら、
「千尋がエロいから」
「もう……」
「でも、せっかくリビングなんだから、エプロンとかつけてもらえば良かったな」
男はその場に座ると母さんを抱き寄せて、キスをし、体を撫で回す。母さんはくねくねと反応する。
「もう……こんなところで……。バレたらどうするのよ」
母さんが責めるように言うと、男は軽く笑って、
「そんなこと言って、ラブホでヤるより気持ち良さそうだったじゃん」
と、指を母さんの膣内へ滑り込ませた。「アッ」と首筋を伸ばして甘い声を漏らす。
「コンビニ弁当ばっかりだって言うから、気を遣ってあげたのに……」
「それは本当。さすが主婦だね。すごく美味かったよ」
「ね……トウマ君……、どうして、こんな……ところで。先週だって……」
くちゅくちゅと蜜壺をかき回され、母さんは切なげな声で訊ねた。
「だってアクセサリーとか贈ったら、それこそバレるでしょ。でも家にいるときも千尋に、俺のこと思い出して欲しいから」
「あ、そうだ、指輪。先週……トイレでしたとき……なくしたと思ったのよ」
これは本気で怒っているようなで母さんが責めた。それでも息は荒く、まるで誘っているように思えた。
「喘ぎ声でご近所にバレたくないって言うから声を我慢できるように咥えさせたのに、口をはなしたのは千尋だろ」
「そう……だけど……」
「ねえ、旦那さんの席ってどこ?」
「え?」
「飯食うとき」
母さんに案内された席に、男は丸出しの尻をのせて母さんを呼んだ。母さんは「もう」と仕方ないという態度で、男の方を向いて股を開いた。中腰になって自らちんぽを下の口に咥えていく。
「はあぁぁっ……ふっ、んんぅ……」
きゅっと力の入った尻が上下に動く。そのたび首を左右、上下にめぐらせることでしか、快感を逃せないらしい。
「あー、それすっげえやらしい」
「もっ、おっ……ヘンな、こと、いわない……でぇ……」
「そうだ。両手を頭の後ろで組んでさ、一番深いとこまで突っ込んでグラインドしてよ」
「え、ええっ……どうしっ、て……」
母さんは口では疑問を発しながら、言われた通りに手を頭の後ろに持っていき脇を見せつけるように、男のふとももに軽く乗っかりながら、フラダンスを踊るように下半身を動かした。
「はは、変態みたいでやらしー」
と男は楽しそうに、母さんの胸をいじり、脇を舐める。
母さんは男の言うことを素直に聞いている。さっきのトイレで指輪がどうとか……それもトウマという若い男に言われるががままだったのだろう。家に連れ込んだ男に愛されるために、父さんとの結婚指輪をそんなふうに使う母さんを、俺はどう感じれば良いのかわからなかった。
頭はまったく混乱していて、前後も左右もなく、ただ覗きを続けることしかできなかった。
やがて男は母さんを降ろして立ち上がると、食卓に上体を預けさせて立ちバックでピストン運動を始めた。
「やアアっ! はげしっ……ひぃいいいッ!」
確かにそれは激しく、母さんを押さえつけた男の動きにあわせて食卓がガタガタ揺れていた。置いていたコップが倒れて転がる。
「アアっ、イっってる! もォっ! だめぇええッ!」
二度目の射精は遠く、半狂乱に叫んだ母さんが髪を振り乱し、涎や涙をこぼしながら長く連続した絶頂に追いやられた後で、ふいにちんぽをを抜かれて崩れ落ちた母さんを振り向かせて、顔にこすりつけながらだった。
息も絶え絶え、二人はその場に崩れた。しばらくそうしていたと思うと、男が母さんの顔を手で拭い、それからキスをした。
「あ……そろそろ……」
「まだ良くない?」
「ダメよ。気付かれるわけにはいかないんだから……」
終わった。それじゃあこっちに来てしまう。
俺は突然我にかえり、慌てて立ち上がる。覗きがバレてしまう恐怖が俺の頭を支配した。
音を立てないように玄関に向かったが、行為を終えた二人に気付かれずにドアを開ける自信はなかった。しかたがないので靴を回収し、ドアが開きっぱなしの自分の部屋に入って、ベッドの下に潜り込む。
しゃがむ一瞬、股間にゾクりとくる気持ち良さと、気持ち悪いぐずぐずした感触とを味わった。いつの間にかズボンの中で射精していたらしい。なお半勃ちのモノが、ずくずくと疼いていた。
ベッドの下に隠れてから、どれくらい経ったか二人は何事かを話しながら、バスルームの方へと行った。シャワーの音が聞こえてくる。
今なら外へ出られるだろうか。でもシャワーだけですぐに出てきたら……。
狭く空気の通りの悪いベッドの下は妙に暑く、そしてまだ頭の整理が追いつかない俺は、自分が何かとんでもなくいけないことをしているような気になって、身動きすることができなかった。
シャワーの音が止まった。二人の……男女の楽しそうな話し声がする。ほどなくして、声がだんだんと近付いてきた。俺は息を殺す。
「たぶん、息子の部屋にならあるけど……」
母さんがそう言いながら、俺の部屋に入ってくる。ひたひたと床を踏む素足がやけに色っぽく思えた。後から、男の大きな足が歩いてくる。
「あ、あった。油性ペンなんてどうするの?」
「ありがと。そこ、座って」
「子供のベットはさすがに……」
「何もしないって。座るだけだから」
母さんは疑うような声を出しながら、俺の真上に腰かけた。ベッドの軋みがやけに大きく鳴った。俺の目の前には、母さんの足か内股気味に置かれている。男がその正面に立った。
「やっ……あっ……ちょっと、何書いてるのよ……」
心臓がバクバク鳴る。何もしていないのに視界が揺れて、どこを見れば良いのかわからない。ただ気付かれてはいけないという強迫観念だけが俺を支配した。
「旦那とはレスなんだよな。これ、来週まで残ってたら嬉しいな」
「もう……お風呂入ったら消えるよ?」
「うっすらでもいいよ」
男は母さんにキスをしたらしい。母さんから甘い声が漏れる。
「んっ……ちゅ……ん、あー……ぇろ……」
まるで尿意を我慢するように、母さんの踵が持ち上がり、つま先に力が入ったり、逆に脱力したりするのを、すぐそばで見つめながら、弱い排尿感が股間を襲った。ああ……また射精したらしい……。
まるで他人事のようにそう思う。俺が俺であるのは、母さんの不貞を、女の仕草をとる足を見つめる視界だけだった。
俺のベッドですることは拒んでいたくせに、長くねちっこいキスをあっさり受け入れる母さんは、きっと押し倒されてしまえば拒否しないのだろう……。
二人が部屋を出て行った。服を着た男を玄関まで見送った母さんは掃除を始めた。何をしているのかはわからない。でもぱたぱたと慌ただしい足音と、窓を開ける音、掃除機の音、消臭スプレーか何かを振りまく音だけが、呪いのように届く。
掃除を終えると、洗濯機を回し、どこかへ出かけた。俺はそれでも慎重にベッドの下から這い出して、ズボンの股間を水で洗い、しかしバレるのも嫌なのでパンツは湿り気をティッシュで取って、その上に私服のズボンを履いた。
リビングはもうすっかり元の通り清潔で、淫靡なにおいも、不倫の跡も何もない。いや……食器の水切りかごに、二人分の食器が置いてあることだけが、さっきの光景が夢でないことを嫌というほど俺に伝えてくる。
俺はどうにも動く気になれなくて、ソファに座ろうとし、さっきの光景を思い出して、食卓の自分の席に座った。
ああ、でも……さっき母さんはこの正面で……動物のように交尾をして……。
どれだけぼーっとしていたか、玄関から母さんが「裕君? 帰ってるの?」と声をかけてくるのを聞いた。
リビングに現れた母さんは、買い物袋を両手にさげている。俺を認めるとちらりと、水切りかごを見た。
「あ、おかえり……」
「裕君だいじょうぶ? 顔色悪いよ」
母さんはいつもと変わらぬ母さんだった。買い物袋を床に置くと、心配そうに駆け寄ってくる。
「うん、ちょっと体調悪くて……。さっき帰って来たとこなんだけど……」
「そう? 本当に?」
母さんは俺の額に触れる。「熱は、ないか。何か欲しいものある?」
「あ……じゃあ、冷たい飲み物」
「わかった」
母さんはすっかり母の顔で、俺はやっぱりさっきのことは夢だったのではないかと思いそうになる。
冷たいお茶を持って来て、俺の顔をのぞく。
汗のにおいと石鹸の香りがして、俺の股間がぴくんと反応した。水曜の風呂は、いつごろから入り始めたっけ……。
母さんは反応が鈍い俺を心配しているらしい。
反応が鈍いのは、そうでもなければ、何かが弾けてしまいそうな気がしたからだ。
胸の奥か頭の後ろのあたりにある焦燥感に駆られて、母さんを押し倒して裸にひん剥いて、どこに何をあの男に書かれたのか確かめたかった。
そしてまた……、いつも通りの母さんに安堵し、それとなく食器を片付けて証拠を隠滅してみせる母さんに恐怖を覚えていた。