あ、結衣ちゃん。僕の耳には、確かにそう聞こえた。ショッピングカートの走る音、バーコードリーダーの鳴き声、蛍の光。その中でも、確かに、あの人はそこにいたのだ。あの人の声は、およそ三年ぶりに聞く。一年が三回。最後に話した時より幾分か暗い印象だった。
「ルルちゃん……?」
彼女は既に大学生になっているはずだった。去年は受験生として毎日遅くまで勉強していたようで、日付が変わる頃でも部屋からは灯りが漏れていた。
「結衣ちゃんだよね」
彼女の声が間近に聞こえたのは、正に隣にいるからだった。
「まだ、モンスター買い溜めしてたんだ」
「……夜中も勉強してるから」
「えらいね、でも辛そうだよ」
辛そうなのは一体どっちだ。彼女のほうだって、僕と同じで引け目を感じているのだ。
彼女は突然僕のカゴを取り上げて、肘に取っ手を掛けた。外向きに折れ曲がった手首が妙に艶っぽくて、一方でその手首の青白さは彼女の苦悩を表出させていた。
「私だってちゃんとバイトしてるからね」
そう言ってヒールを鳴らしてセルフレジに向かう彼女は、時間の流れを残酷なほどに見せつける。数秒間ぼーっとしていた僕は、駆け足で追いかけた。今日はうちに来るかと、彼女はそう聞いてきた。僕にはそれを拒否する理由がなかった。僕と彼女の家は道路を一つ挟んでいるだけだけれど、父親には彼女に勉強を見てもらうという旨を伝えて、今夜は彼女のところに泊まることにした。
「結衣ちゃんご飯はもう食べたかしら」
彼女のお母さんが食器を洗いながら聞いてくれた。うちと秋月家とは家族ぐるみの長い付き合いだったので、どちらの家も互いに信頼しきっているのだ。僕はお腹いっぱいだと伝える。すると、夜食が欲しかったら言ってねと返事があった。
「いくよ」
彼女は僕のパーカーを引っ張って、不機嫌そうに階段を昇っていく。彼女は両親とうまくいっていないのかもしれない。僕にはそう思われた。
部屋に入ると、何故か彼女はそのままベッドに向かう。部屋は前に来た時よりもシンプルになっていて、ギターもケースにしまわれたまま埃をかぶっていた。
「おいで、結衣ちゃん」
僕は肩がくっつくくらい近くに座った。
「ごめんね、ずっと一言も交わさなくて」
彼女はなぜか申し訳なさそうな具合でそう吐き出した。確かに僕たちが数年間口を利かなかったのは否定しようもない事実だ。でも、彼女が悪かったわけじゃあない。悪かったのは先生、いや、僕だった。当時の僕は、高校一年目にして留年の危機にあった。そして、それを避けようとして、先生の「言いつけ」をしっかりと守らざるを得なかった。それが一本一本髪の毛をむしるような感じで酷く僕の自尊心を傷つけ、自己嫌悪に向かった。僕が汚らわしい存在であるような気がして、僕とかかわると呪われてしまうのではないかと不安になって、どんな人間も邪険に扱うようになった。僕はせっかく気を使ってくれていた当時の彼女と、大好きだった彼女と、顔を合わせたくなどなかった。これが、彼女を怒らせてしまい関係が冷え切った。これがすべてだった。
「それは、それは、僕が謝らないといけないことだよ」
「言いたくないならいいの、でも、どうしてあの時に無視したのかだけ、それだけでも聞かせてほしくて」
「あの時……」
今、先生は首が飛ばされてしまっている。もう過去の話なんだ。思い切って――。
「留年しそうになってて」
彼女の二の腕が、強く触れた。
「それで、もうどうしようもなくて、先生と」
彼女の手の平が、僕の手の甲に重なった。
「先生と、無理やり」
ルルちゃんの指先に力が入った。
「無理やり……させられて。何日か、進級を賭けた試験だって言われて、でも本当は試験なんてしてなくて、ただ先生を満足させるためだけに」
「それから、もう自分の身体を蹂躙された気持ちで、自分がどんな独裁者よりも嫌われるべきだと思い始めて。どんどん自分が嫌になって、僕はルルちゃんから離れないとルルちゃんを穢してしまうから」
こんな独白、次にするとしたら目の前にカツ丼を置かれて、両親が泣いているぞと言われたときしかないだろう。部屋の空気が止まっているかのような重さで、一刻も早くこの部屋を抜け出したかった。僕が体重を前に動かしたその瞬間、ルルちゃんは僕の腕を引き寄せて後ろから抱きしめてきた。汗ばむような気温なんて、ルルちゃんの体温の前ではもはや何の意味もなさない無力な存在になった。
「ありがとう」
話してくれて――。ルルちゃんはしっとりとした声音で、耳元で言った。一気に抱き寄せられてこんなことを言われると、僕は何が起こっているのかうまく理解できなくて、ただルルちゃんが買ったビタミン剤を見つめていた。
「私も、辛くて、後ろめたくて。一回意固地になって、受験のストレスもあって、結衣ちゃんのこと考えたくもないのに考えちゃう時が多くて。だから、今日声かけて――」
「良かった?」
「声かけないよりずっと」
ルルちゃんは僕を抱いたまま、横になった。ベッドの反発が心地よい。
「結衣ちゃんが嫌ならすぐ言って。私は、結衣ちゃんとまた、したい」
僕は先生と関係を持って以来、男性が怖くて仕方なかった。隣の席の男の子とは筆談するのが限界だったし、バスの運転手が男性のときには酔った気分がした。でも、不思議とルルちゃんと性交渉をするのには抵抗がなかった。進んでしたいかと言われればそれはまた別だけれど……。
「怖くないよ、大丈夫。ひどいことなんて絶対にしない」
そういうことじゃない、そうじゃない。それ自体が怖いわけではないのに。
「結衣ちゃん? ……そっか、まだ、自分自身が嫌なのかも。私が綺麗にしてあげるから」
その言葉を聞いて、血液がすべて新しくなった感覚がした。
「電気だけ、消して」
ルルちゃんは一度僕を離し真っ白なLEDの光を消して、薄暗い部屋にする。僕はルルちゃんに服を一枚ずつ丁寧に脱がされた。そして互いに下着だけになって、ベッドに背中を預けた。ルルちゃんの肌は相変わらず官能的な白さをしていて、ルルちゃんがベッドに入るその瞬間の太ももや髪を耳に掛ける仕草は背筋を震わせるのに十分すぎる魅力があった。
「ほんっと、かわい」
そう言ってルルちゃんは僕の首にちゅっちゅっちゅっとキスマークを付けていった。そして鎖骨、二の腕、肘の裏側、手の甲にも。
「なんでそんなところっ」
肘の裏側なんかは特にくすぐったくて、ふやけた声が出てしまう。ルルちゃんは僕の反応を楽しんでいるように見える。キスしたあとにはその場所を一度舐めるのが好きになりそうだ。
「嫌いじゃない……でしょ」
ルルちゃんはブラを取り払って僕と身体を重ねて、僕の舌をしゃぶりまわしてきた。腰をくねらせながら、豊かながら整った形の胸を押し付けてくる。僕は頭に酸素が回らない気持ちになった。
「もう忘れたの? お鼻で、息できない?」
そういえば前にした時、それを教わった気がする。ルルちゃんのひどく蠱惑的でエッジの効いた声で言われると、胸の奥のほうがきゅんと喜んでしまう。
「あれっ、期待しちゃったかぁ」
ルルちゃんは僕のパンツの中に手を入れて、僕の一番女性らしいそこの入口だけを薬指の先端で撫でまわした。こんなことをされても濡れないなんて、そんなことは想像し難いだろう。唇を固く閉じて漏れ出る嬌声をこらえようとするが、執拗に僕の舌が求められてしまうせいで声は我慢できない。
「あれちょうだいっ、前に使ったあれ」
僕は快楽がもっとほしくなって、二人で快感に溺れたくなった。こんなおねだりができるようになったのもあの卑劣な先生のせいだ。
ルルちゃんは僕の期待通りに凶悪なそれを準備して、まず自分の股に苦しそうに入れた。僕はルルちゃんの手を引き寄せ、男性器を象った硬い棒と自分の性器とをこすりつける。
「いれちゃうからね」
「やっ……ぁああぁああ、押し込んで、もっと」
僕はルルちゃんと恥骨を押し付けあった。奥までじっくり入り込んでくるし、膣が形を覚えて馴染んでいく感覚がした。
「ね、動くよ」
女性らしい腰使いで僕の膣をゆっくりゆっくり刺激する。ルルちゃんが腰を振れば振るほど、もっと激しく求められたくなっていく。
「あう……んんっ……はぁ、ルル、ちゃん」
ルルちゃんが僕のことを大事にしてくれているのがようやく実感できて、僕の視界がうるんでくる。そんな目でルルちゃんを見つめたのがよほど嗜虐心をくすぐったのだろうか、ルルちゃんは細長いきれいな指に力を込めて、僕の腰を強く掴んだ。
「ごめん、我慢できそうにない」
我慢できないのは僕もだ。うん、と女の声で返事をすると途端にルルちゃんは荒い吐息だけを聞かせるようになった。ぱんぱんぱんぱんと腰をぶつける音が、くちゅくちゅと愛液にまみれた膣がかき混ぜられる音がする。ルルちゃんの動きはまったく優しくないけれど、愛されているのが分かる。大切にされながら乱暴にされるのがたまらなく嬉しかった。
「もうだめ、やめて、くるからっああぁだめだめだめだめ、いきそうっ」
身体の芯を悦びが駆け上がっていく。
「いっしょにいこ、ね」
ルルちゃんも気持ちがいいみたいで、呂律がすこし回っていない。僕たちは同時に絶頂に達して、お互いの身体に体液をかけあってしまった。
「気持ちよかった?」
「うん、でも僕もそうだけど、疲れたでしょ」
僕は仰向けのまま、ルルちゃんと密着しながら掛け布団で体を隠した。先生との過去、将来への不安、そういったものを考えなくても良くなった気がして、いつもより幾分も幸福だった。ルルちゃんは僕より動いて疲れてしまったのか、可愛らしい寝息を立てていた。
翌朝、ルルちゃんがシーツを洗おうとしたそのとき、ルフナさんが「髪の毛、茶色だけじゃなくて黒いのもついてるわ」なんて言うものだから、僕たちは顔を見合わせて逃げ出すようにして各々の学校に向かった。