狐月の誓い 作:じゃじゃじゃ
それは、紛れもなく、狐の子の声だった。
甘い声なんかじゃ決してなくて、ぼくの知っている凛とした、あの声。
確信する。
目が、覚めたんだ……!!
「――皆。聞いてくれ」
蔵の中がざわめきで満たされていく。
狐の子が元に戻ったことに、その場にいる全員が気が付いたみたいだった。
「……わたしは、本当に、何もやっていない。この村に、災いを起こすことなど、何も。本当じゃ……!」
最初は声を絞り出すようなか弱い声だった。けれど、段々と強くなっていく。
「あんな酷い災害の中、結果的に誰も死なずに済んだのは、紛れもなくおぬしたち自身の力じゃ。間違いない」「……おぬしたちに比べたら、わたしは……何もできてはいない。ただおぬしたちを見守っていただけに過ぎぬ……。……でも、それでも!」「わたしは、この村に仇を成すことなど何もしていない! 信じてくれ! お願いじゃ! この鎖を解いてはくれんか! もう、辛い目に遭うのは……嫌なのじゃ……! もう限界なのじゃ……これ以上犯されたら、壊れてしまう……! だから、頼む……!」
狐の子は前を向き、訴える。その声は切実さと悲痛さに溢れていて……。
………………。
沈黙が蔵の中を支配していく。
「――」
それを打ち破ったのは、誰かの笑い声。
「ははっ。そんなこと、俺たちが信じるかと思うか?」
皆がそして一斉に、狐の子を嘲笑って。
狐の子は呆気に取られたかのようにただぽかんと口を開けていた。
ぼくは今目の前で起こっていることに、思考が止まってしまいそうになる。
「狐は嘘つきだからな。騙されねえぞ」「お前がやったってことは分かってんだよ」「口の中にちんぽ突っ込んで黙らせてやろうか?」「何百回言ったら分かるんだ? 聞き飽きたな」「いい加減認めたらどうなんだ、ああ?」
狐の子をつないでいる首輪を誰かが掴む。
「うぐっ……」
引っ張られた狐の子の顔が苦しそうに歪む。
「止めろ」
ぼくは叫んでいた。
沢山の視線が、視線が突き刺さってくる。
でも、引き下がらない。
「この子は、洪水や干ばつなんて起こしていない。穀物荒らしや、悪いことなんて何もしていない。そんなことをして、この子になんの得がある? それなのに、この子はこんなに苦しめられて……!!! 離してあげようよ。こんなの、あまりにも酷い……!」
自分の中に湧き上がっていく言葉を、何とかまとめて、伝える。
はっきりと、声に出した……。
「「「…………………………………………」」」
今度は本当に蔵の中が静まり返った。
…………あれ……。
絶対に、誰かに殴られると思っていたのに……。
ぼくの言葉を咎める人は、いなかった。
ただ、静かな時間が続いている。
……? どうしたんだろう、みんな……。
……ぼくは、息を呑む。
…………………………。
「……確かに」
だけど、誰かが沈黙を破ってぽつり、ぽつり、ゆっくりと話し出した。
「……こいつは本当は何にもしてないんじゃないかって……」
「薄々と気がついては、いた……」
そして声は止まって。また誰かが話し出す。
いや、誰が話しているかなんて、もう、関係ないのかもしれない。
「洪水とか、干ばつとか、暴風とか……起こせるわけないよな。よく考えると」
「狐にとって、確かに何の得も無いもんな……」
「盗みも、あれは、きっと虫の仕業だったんだろう……」
……説得がだめでも、諦めないつもりだった。
何と言われても、引き下がらないために、ぼくは次の言葉を、探していた。
……だけど。それの必要はもう無かった。
………………。
……そうだったんだ……。
皆も、やっぱり、心の中では、狐の子に酷いことをしたって、考え、。
「……だけど」
けれど声は突然に、ふっと、笑って。
「そんなこと、もう、関係ねえんだよ」「干ばつがどうとか犯人がどうとか、どうでも」「お前、まだそんなこと気にしていたのか? 流石、こんな獣が好きなだけあるな」「今更、馬鹿か?」
……え。
今、何て?
どうでも、いい?
「俺達はただ、この蔵に来て楽しいことができればそれで構わないんだよ。なあ? お前も嫌だとかなんだとかごちゃごちゃ言っておいて、そうなんだろ?」
みんなが狐の子の方を向く。
狐の子はただただ呆然としていた。ぼくもきっと同じ表情をしているのだろう。
耳を疑った。どうでもいい?
ぼくの中で何かが、再生できないほどに崩れていく。
関係ないって分かってて、みんな、狐の子のことを、苛めていた?
言うまでもなかった。みんな、そうだった……。
小屋の中を満たしていたのは、同じような意味の言葉、嘲笑、罵倒。
他に何も、何も聞こえてこない。耳を澄ませても、他になにも……。
どうでも、いい。
つまり、狐の子は完全に意味もなくこんなに酷い目にあわされていた……?
腹いせに、いや、それですらもなく、ただ気持ちいいから。
……めちゃくちゃだ。
「分かったか? 狐は黙って人間の言うことを聞いてりゃいいんだよ」
言葉が狐の子の心に傷を残していく。
「狐だの、獣だの言うが……!」
耐えられなくなった狐の子が目に涙を浮かべながら悲痛に叫ぶ。
「人間のお前らの方がよっぽど低俗で下品で最低じゃ! お前らなど、獣にも及ばぬ、けだものじゃ……!」
けれどその声すらも、もう誰にも届かない。
「獣ごときが人間様に何言ってるんだか」
子馬鹿にした調子でそう吐き捨てた男に、ぼくは殴りかかっていた。
だけど、すぐに周りの人に押さえつけられて袋叩きに遭う。
全身を蹴られ、口の中からは血の味がして、鈍い痛みに襲われる。
だけど、絶対に気絶するわけにはいかなかった。
「……わたしが、……」
――狐の子の声が、聞こえる。
ぼくの中から痛みや怒りは引かなかった。
けれど意識は狐の子の声だけに傾く。
ただ、純粋な不吉な予感が、絶望が一気に漂う。
まずい――。
暴力に耐えながら、手足をばたつかせて必死に抵抗しながらその声に耳を澄ませる。
「……わたしが、間違っていたのか……?」
その声からは、それまで、狐の子に残っていたはずの何かが、消えていた。
狐の子を繋ぎ止めていたはずの、何かが。
「そうだよ。やっと分かったみてえだな」「ようやく気が付けて、良かったじゃねえか」「一つ頭が良くなったな」「これからも心置きなく大好きな交尾ができるぞ」「あーあ、また生意気な獣に戻っちまったか」「まだ、お仕置きが足りなかったみてえだな」「もっともっと一生、犯してやるよ」「お前も本当はそれを望んでるんだろ?」
狐の子を追い詰めるようなそんな言葉を聞いてぼくの確信は、焦燥は強まっていく。
「……ああ、そうなのか。……わたしが、…………………………」
狐の子の声は、か細くなって、ついに、途絶えてしまう。
それまで信じていたものが崩れていく。悲しみさえも、消えていってしまっている。
代わりに狐の子の気配は、虚で埋め尽くされていく。
人の合間、向こうに幽かに見える狐の子の姿は、数日前に消えてしまった時よりもずっとずっと儚げで……。
だけどその目だけは決して虚ろじゃなくてむしろ……。
嫌な予感がした。
「全部、お前が悪いんだ」
誰かが言う。
違う。悪くなんてない。狐の子は、絶対に悪くなんてない。
こんなに酷いことをされてまで、信じていたのが悪かったなんて、何にもしていないのに、蔵の中で苛められていただけなのそれで悪いだなんて、そんなこと絶対に無い。
違う。狐の子は悪くない。
ぼくが無理やり攻撃から体を起こし、そう叫ぶよりも一瞬だけ早く。
「……………………………――――」
狐の子がぼそっと何かを呟いた。
その短い言葉に、凍り付く。
狐の子が何て言ったのか、ぼくには、はっきりと聞こえていた。
『死にたい』。
とっさに袂を確かめる。
かさり……。
と、手に触れたのは、一枚の、緑の葉っぱ。それだけだった。
……無い。さっきはちゃんとここに、入っていたはずの包丁が、無い。
無い。無い。無い。無い。無い。
落とした? いや、違う。そうじゃなくて、狐の子に。
……!
ぼくは掴みかかる周りの手を振り払って、狐の子に駆け寄ろうとした。
けれど。
それは一瞬だけ遅かった。
狐の子は、どこかに隠し持っていた包丁の柄に、手をかけて。
その瞳には、絶望と、悲しさと全てが沢山映っていて。
だけど、あの約束の時のように、輝いていて――。
そのまま自分の、ふわふわとした白い毛に覆われた、首元に、刃を突き立て――。
――――。
「死にたいか?」
一言だけそう言い放った。