狐月の誓い 作:じゃじゃじゃ
狐の子は、自分の首元に刃物を突き立てて、自分の首を縛っていた鉄の首輪を、他を一切傷つけずに首輪だけを、瞬時に壊して。
それから。
ぼくが再び目を開けた時には。
蔵の中は血だまりに染まっていて、皆倒れていて、誰もぴくりとも動かなくて。
何の声も聞こえてこなくて。
狐の子だけが、小さな包丁を持って一人窓から注ぐ月明かりに照らされて佇んでいた。
ぼくは瞬きをするのも忘れて、ただ狐の子の方を見ている。
何も考えられなかった。
何が起こったのか、それだけが理解できて、だけど色んな感情が止まっていて。
みんな、みんな、死んでいる…………。
狐の子が、包丁を持って、そして、一気に飛びかかって。
目にも留まらぬ速さで、反撃すらも受け付けないで、それで、それで……。
立ちくらみも起こらないし、体も震えないし、声すらも出ない。
時間が止まってしまったかのようにぼくは何もできず、ただその場に立ちすくんでいた。
息さえもできているか怪しかった。
ゆらり、と虚空を眺めていた狐の子が、振り返ってこっちを見る。
表情は普通で、何を考えているか読み取れなくて。
いつの間にか、狐の子は真っ白の小袖と、赤色の袴を着ていて。
けれど元々きれいだったはずのその服には少しだけ返り血がついていて。
でも狐の子には傷一つついていなくて。
狐の子と目が合った。
そして、一歩一歩と、狐の子が、ゆっくりと、近づいてくる。
手には包丁。
――殺される?
怖い。……怖い。
……だけど、逃げることができず――その場に膝をつく。
すぐ目の前には狐の子が。
ぼくは目をつむって、動かずに、ただその時を待った。
――カラン、と包丁が床に落ちる音がする。
空いた右手を、狐の子はそのままゆっくりと差し出した。
「――行くぞ」
左手をぎゅっと引っ張られて、そのまま狐の子は蔵の外へと走り出す。
暖かくて、ふわりとした狐の子の毛の感触。
???
ぼくは状況がつかめないでただその後を付いていく。
涼しい風が頬を撫でる。
暗い獣道を、満月が仄かに照らしていた。
後姿の狐の子が今、どんな表情をしているのか……分からない。
けれど、離れないように繋がれた手を強く握り返している。
◆ ◆ ◆
もう、何時間走っただろう。どの方角に走っているのかすら今は分からない。
山をもういくつも超えている。だけど、不思議と息切れはしなかった。
どこに行くのか、狐の子は何も言わなかったし、ぼくは何も訊かなかった。
空は段々と明るくなりはじめ、森は目覚め次第に木の声、草の声、虫の声、獣の声、鳥の声、そして狐の子とぼくの足音に満たされ始める。
狐の子が走るのを止める。
見れば目の前には小さな池が有った。
そのほとりには鹿や、獺たちが水を飲んだり、腰を下ろしてのんびりとしている。
まどろんでしまいそうになる景色だった。
狐の子は何も言わずにそのほとりに座って、水を掬ってゆっくりと飲む。
その隣に座ってぼくも水を飲んだ。
『ごめんな』と獣たちに謝ってから、狐の子はゆっくりと、袴を着たまま、池の中に入り、ついた血を落とす。
魚が跳ねる波紋にかき消されて、水面はすぐにまた元の色に戻った。
狐の子は、池から出てきて、袴の水を切ってから、隣に腰を下ろす。
「「……」」
沈黙が漂う。
狐の子の横顔を覗く。
やっぱり無表情で、何を考えているのかは、全く読み取れなかった。
ただ、黙って狐の子は水面を見つめていた。
あんなに走ったのに全身は不思議と痛まず、意識は冴えて眠気さえもやってこない。
◆ ◆ ◆
空が橙色に染まって鹿や獺たちが水辺を離れてどこかへと戻っていった頃。
狐の子は立ち上がって、ぼくの手を握って走り出す。
再び辺りは闇にゆっくりと染まっていって、森は静かになっていく。ぼくたちも静かだ。
自分達の身長と同じぐらいの高さの大きな岩を見つけて、狐の子はぴたり、と立ち止まってから、その方へとゆっくりと歩き出す。
その後ろを歩く。
岩に登った狐の子の隣に腰掛ける。
今、山の高いところにいるらしい。
それに、岩のすぐ近くには木がまばらなこともあって、岩に登ると視界が開けて、遠くに続いていく山の影がぼんやりと見渡せた。
狐の子は月を見ていた。
やっぱり何を考えているかは分からないけれど、今度は少なくとも何かを考えているっていうことだけは分かった。
黙って狐の子の言葉を待つ。
自分の気持ちの整理すらもできていなかった。
ぼくはもう村には帰れない。帰れるわけがない。
――狐の子は今何を考えているんだろう。どうしてぼくを連れてきたのだろう。
狐の子の目は今、闇をたたえた虚ろじゃなくって、月明かりを映して輝いている。
でも、狐の子は元に戻ったのか……?
何も分からない。
全てが終わってしまって、その全ては戻りそうになかった。
ぼくは狐の子に道具を渡した。狐の子はそれで、それで……。
……。
「おぬし」
ふと、突然に狐の子が口を開く。ほんのりと照らされている横顔。
「走ってきて、疲れたか?」
その声には約束を交わした時のような凛とした雰囲気がにじんでいて。
「……ううん」
ぼくは首を振る。横目で狐の子をちらっと見る。
「……そうか。……」
狐の子はそこで、ふう、と一息をついて、また、言葉を続ける。
「おぬし、わたしと初めて出会った日に……」
「……?」
「何故、子種を出さなかったのじゃ?」
「……」
その質問はあまりにも突然で、言葉を失ってしまう。