狐月の誓い 作:じゃじゃじゃ
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてきた頃。
狐の子とぼくは、ゆっくりと起き上がって、岩の上へと再び登る。
「「……」」
右隣に座って狐の子は、宙を見つめて、何かを考えているみたいだった。
「……すまんな。取り乱してしまって……」
狐の子の耳が、申し訳なさそうに、垂れてしまう。
気にしていない、と狐の子に伝える。
「……何度でも言うぞ。おぬしは、わたしの恩人じゃ……。ありがとう」
狐の子の言葉がはっきりとした声で聞こえてくる。だけど……
「……でも、やっぱり、ぼくは何も……」
狐の子の為に、何もできていない。
それどころか……約束の日までに、狐の子を助け出せなかったのに……。
だけど、狐の子は目を伏せて、ふるふると首を横に振った。
「……おぬしと、」
狐の子がきゅっと袴を握る。辛い記憶に耐えているような表情を浮かべながら、語り出す。
「……おぬしと格子窓越しに、手の平を合わせて、別れた後。……わたしは本当に壊れ、精液をねだるだけの人形へと堕ちた……」
……虚ろな目をして、甘い声でちんぽをねだる狐の子を思い出す。
ずきり、と胸が痛む。
「しかし、約束の日の終わりに……わたしの意識は突然戻った。……そうじゃよな?」
約束の日の交尾が終わった直後に、狐の子は目を覚ました。
間違いない。ぼくは頷いた。
だけど……それなら、どうして、今、狐の子は確認したんだろう……?
狐の子の言葉に少しだけ疑問を抱いていると、狐の子はいきなり……
「……騙していて、本当にすまぬ……!」
と、申し訳なさそうに頭を下げた。
だけどそんな心当たりは全くなくて、困惑する。
「それって、一体……?」
騙していたと言われても、狐の子を責める気持ちは少しも沸いてこない。
……だけど、気になってしまって訊き返す。
心臓が早鐘を打っている。
「……約束の日は、満月じゃったな」
「……うん」
確かに……約束の日は、思わず見とれてしまうぐらいの、きれいな満月だった。
蔵の中には、白い月明かりが注ぎ込んでいた。
満月のおかげで、暗い夜道も仄かに照らされていた。
……だけど、それでも狐の子が伝えたいことが何も分からず、息を呑んで待つしかない。
「……本当は、あの日の夜、交尾の間ずっと……、目覚めて、おったのじゃよ」
「……え……?」
狐の子の言葉がすぐには信じられなくて、思わず耳を疑ってしまう。
約束の日の、交尾の間……ずっと?
だけど……狐の子は、交尾が終わった時に、突然目が覚めたはずだ。
その時までは……その時までは、ずっと変わらず、虚ろな目をして、堕ちたままだったんじゃ……?
少なくとも、ぼくにはそう見えていたけれど……。
……?
「……恐らく、人形になってしまった後も、わたしの意識は、絶えずに、細い糸の様にどこかに残っていたのじゃろう……。月明かりが、それを呼び覚ましてくれたのじゃな……。確かめる術はないが……」
難儀な体じゃな……、と狐の子が付け加える。
「そうだったんだ……」
満月のおかげで、狐の子は、元に戻ることができた……。
心の中で、月にお礼を言う。
だけど……それだけで十分なはずなのに。
あることが、心に引っかかってしまう。
「それなら……どうして、堕ちていた振りをしていたの……?」
約束の日も、狐の子が完全に堕ちてしまったままだと、ぼくはずっと誤解をしていた。
狐の子は戻ってこないと思って、絶望していた。
……ちんぽを自分からねだって、しっぽを振る演技をするなんて、それだけでも狐の子は辛かったはずなのに……。
「……月は、意地悪じゃ」
狐の子が話すのを一旦止めて、月を見る。昨日に比べると、ほんの少しだけ欠けた月だった。
「一晩だけ目覚められたとして、それが一体何になる? ただ、苦しい記憶が増えるだけじゃ……。ならば、またすぐに堕ちてしまいたかった。だけど……」
狐の子は月から視線を外して、声を落とす。
「……つい、気になってしまった。堕ちた後のわたしは、一体どのように扱われているのじゃろう、と……。もしかしたら、あの者たちが、悔いてくれているのではないかと……」
「……」
……。
狐の子が一つ一つの言葉を継いでいく。未だ癒えていない、痛みを伴いながら……。
「……だけど、何も変わっていなかった。それどころか、交尾は更に激しくなっておったよ。……考えてみれば、当然じゃな。誰が、人形に遠慮などするか?」「……月を恨んだよ。こんなことなら、やはりずっと堕ちていれば、良かった。それなら、二度と、苦しまなくて済んだのに……。そう思った」「……どうせ、目覚めていられるのは、今宵の満月の間だけ。……約束の日が、最後の機会じゃった」「再び堕ち、意思がなくなる前に、すぐに死のう。そう考えていると、おぬしの番が回ってきて……」「わたしは約束通り、袂から包丁を抜いた」
「……!」
やはり……ぼくが狐の子との約束を守らないと、決心する前に。
既に、包丁は、袂に無かった……。
見落としていたせいで、狐の子が自殺してしまっていたのかもしれないなんて……。
改めて愕然として、暗い気持ちになる。
……やっぱり、ぼくは狐の子に何もできていない。……それどころか……。
「しかし、おぬし……」
狐の子が顔を上げて、こっちを見る。
……?
狐の子が、かすかに微笑んで、いる……?
「包丁を取られたことに、気が付かないで……、泣いてくれていたじゃろう?」
柔らかい口調で狐の子が話す。
狐の子が戻ってこないと確信した瞬間を思い出す。
絶望に包まれた時のことを。
だけど、それでも、狐の子の手の平のぬくもりは、約束の日のあの時、ぼくの番が回ってきた時も、変わっていなくて……。
それで、自分の奥底にせき止めていた気持ちが、急に溢れ出てきて……。
他の人には隠したはずなのに。
泣いてしまっていたことは、狐の子には、ちゃんと、見られていた……。
「それに……、おぬし、蔵に居る間ずっと……、わたしの心配をしてくれていたな……?」
「……うん」
蔵の端っこの方で座って、ずっと、悩んでいた。
……色んなことに、耐えていた。
「……あんなにも、わたしのことを想ってくれた人間は、長い間でも、おぬしが初めてじゃった。……嬉しかったぞ」
……狐の子のことを忘れるわけがない。狐の子のことが、頭から離れるわけがない。
だって……狐の子のことが……。
「……そして、堕ちてしまう前に、最後の希望を抱いた。……もう一度、あの者たちを、信じてみよう、と思った。……馬鹿じゃな、わたしも……」
狐の子は再び暗い顔をしてしまう。
……二人とも、その結末を知っている。
「……殺してしまった後で、呆然とした。それから……すぐに死のうと思ったよ。……だけど」
狐の子が静かに息を吸って、俯くのを止める。
「おぬしと目が合った時に……ふと、思い留まったのじゃ」
狐の子と視線が合う。
「死にたくない。まだ、生きて、おぬしと一緒にいたい、と……」
狐の子は目をつむって、すう……と小さく息をはいた。
……。
色んな感情と、向き合う。
ぼくが狐の子のことで悩むのを止めてしまっていたら……。
……狐の子は、死んでしまっていた。
そのことを考えると、震えるし、自分の情けなさに、嫌気が差す。
……だけど。
もしも、本当に、ぼくがいたから……狐の子が死なないでいてくれたのなら……。
それなら、……ぼくは、今まで生きていても良かったのかもしれない……。
こんなことを考えるのは初めてだった。
「おぬしは、恩人なのじゃよ」
狐の子は、恥ずかしそうに、しっぽを一回揺らした。
少し疲れてしまったのか、狐の子は肩の力を抜いているみたいだ。
「しかし、おぬしは変わり者じゃな」
それから、呆れと感心の混ざったような目線で狐の子はこっちを見た。
表情は和らいでいて、その声の調子からも、重々しい感じが引いていて、……安堵する。
「わたしなど、例え神であっても、見た目は狐じゃろ? よく助けようと思ったのう?」
「え……」
その言葉に衝撃を受ける。と、いうことは……。
「もしかして……神様、だったの……?」
確かに狐の子は、手をかざしただけで膝の傷を治してくれたりしていたけれど……。
……尋ねると、狐の子は信じられないという風に目を丸くしている。
その反応が何よりも答えだった。
「……じゃあ、おぬしは今まで、わたしのことを何だと思っていたんじゃ?」
「……妖狐……」
狐の子が使う力は、妖術だとばっかり思っていた。
まさか、神様、だったなんて……。
恐る恐る答えると、狐の子はむっと頬を膨らませている。
「その、ごめん……いてっ」
咄嗟に謝ろうとすると、ぺし、と狐の子に軽く頭をはたかれる。
「んなわけあるかい。だれが妖狐じゃ」
心外だという口調で、狐の子がぷいとそっぽを向いてしまう。
だけど、不思議とその顔は爽やかだった。
あれ、だけど、狐の子が神様なら……。
……。
あることに気が付いて、ぼくから血の気が引いていく。
「……ご、ごめんなさい。……その、ぼく、神様と知らずに、今まで普通に話しかけていましたけど……とんでもなく、失礼をしていたのでは……ないでしょうか……」
神様に対して敬語を使ってなかったし、馴れ馴れしく話しかけていたし……。
かなり罰当たりだったんじゃ……。
「今更何を。気にしておらんよ」
だけど狐の子は意外そうな顔をして、首を傾げた。
「でも……」
「気にせんでいい。今まで通りにしてくれ」
むしろ敬語で話しかけられることが嫌そうに、狐の子は顔をしかめた。
「分かった」
ぼくが口調を戻すと狐の子は満足そうに頷いた。
「そう。それでいい。……妖狐か」
狐の子がふっと微笑む。
「もしもわたしが妖狐なら、夜な夜な、おぬしの家に化けて出てやっていたぞ?」
狐の子が冗談めかして、両手を幽霊みたいに、ゆらり……と下げる。
「くくく、怖がる反応が面白そうじゃ……!」
愉快そうに、それでいて不敵に笑う狐の子は、悪戯っぽくてかわいい。だけど、月明かりだけの暗がりの中だと、ちょっと怖い……。
「ふふ、冗談じゃよ。怯えられるのも心外じゃからな」
どうやら怖がってしまったことは顔に出ていたらしく、狐の子は可笑しそうに口元を袂で隠す。
「ふふふ……。……」
だけど、ふっと狐の子から笑顔が消えて、再び真剣な表情に戻って、俯いてしまう。
「……」
それから、長い沈黙の後、狐の子はぽつりぽつりと話し始めた。
「……わたしは、今まで……」
狐の子の顔に再び影が差していた。
「……今まで、何を、してきたんじゃろう……」