狐月の誓い 作:じゃじゃじゃ
「……これから、どうすれば良いのじゃ……? 何も、分からぬ……。わたしは……、一体……」
狐の子は、体を小さく震わせて、嗚咽する。
暗闇に、狐の子が再び取り込まれそうになっている……。
そんな恐怖を抱いてしまい、心臓を切り裂かれるような思いになる。
狐の子の様子に、戸惑って、どうすればいいのか分からなくなって。
だけど……。
「………君が」
すぐに、震える狐の子の、ふわりとした手の平に、自分の手の平を重ねて、……言う。
「君が、生きていて、本当に良かった…………」
狐の子の命が、一番大切だった。
だから、ぼくは狐の子との約束を果たさなかった。気が付けたから、思い留まれた。
一瞬でも、そんなことを考えてしまった自分は、馬鹿だった。
本当に、愚かだった。最悪だった。最低だった。
狐の子が生きていなければ、どうにもならなかったのに……。
「君が、死んでしまったら……ぼくは……きっと、もう、生きることができなかった」
狐の子が死んでしまっていたら……。
そんなことを今、想像するだけでも、怖くて、足元が崩れ落ちて目の前が真っ暗になる様な感覚に襲われる。
狐の子が、生きていて、本当に、良かった。
……狐の子の悲しそうな、辛そうな顔を見るのは……、もう嫌だった。
「君が生きていてくれて、本当に、本当に、嬉しい……」
はっきりと言わなきゃいけないことなのに、声が震えている。
自分が情けない…………。
「………」
狐の子は、瞬きをしながら、ぼくをじっと見つめていて……。
その、ふわふわとした頬の毛の上を、一筋の涙が伝っていた。
「…………おぬしは、本当に、優しいな……」
狐の子が、袖で目元を拭う。
その表情は、少しだけ緩んだような気がする。
暗闇の気配が狐の子から薄れたように感じて、ほっとする。
「「………」」
静かな時間が、続く。
「だけど……」
狐の子は見上げていた月から視線を離して、
「わたしは、駄目な奴じゃ」
再び、自嘲した。
そんなことない……、とぼくが首を横に振って、狐の子に声を掛けようとしたけれど。
「………のう」
その声は狐の子の声と重なって、途切れてしまった。
「おぬしに、どうしても伝えたいことがある」
周りの空気がぴんと張りつめて、ぼくは息を呑む。
……大切なことを、狐の子は、話そうとしている。
それがすぐに伝わってきて、ただ頷いていた。
「わたしは長い間、村のことを見守ってきた。……しかし、それは昔の話。今は最早、何者でもない……」
狐の子がぽつりぽつりと、話していく。
「いや……例えるならば、今のわたしは、人を奈落の底に突き落とす、祟り神じゃな。……居ない方が良い存在じゃ。……おぬしにも、沢山迷惑をかけた……」
狐の子の口調は弱々しくて、その姿も儚げに見えてしまって……。
狐の子とお別れをした日の記憶が蘇る。
「……これ以上一緒にいては、おぬしに大変な不幸が降りかかるかもしれぬ」
狐の子は前を向いて、それから、ぼくの目を見て、はっきりとした口調で、話す。
「じゃから、今のうちに別れ……」
狐の子がそう言い掛ける。だけど、ぼくは首を横に振った。
「違うよ。君のせいじゃない。ぼくが情けないのが悪い……」
「……?」
狐の子は、きょとん……とする。
……狐の子との、約束の日。
あの日から、ずっと、心に抱えていたことだった。
今まで生きてきて、初めて気が付いたことだった。
「…………今まで、ぼくは、自分の弱さに甘えていて、自分には何もできないと決めつけていた」
ぼくは無力で、弱い。
これと言って目立つ存在でもなく、力も弱く、かと言って頭も良くなくて、病気にもよくかかって、特技は無く、人付き合いも苦手で、身寄りもなく、小柄で背も百五十
……だけど、ぼくは、その弱さに甘えていた。
独りでいるのならば、ずっと弱いままでいても、生きていけるから……。
「自分の出来る範囲でしか、行動することをしなかった。だから、もっと早く、君のことを、……助け出すことができなかった」
けれど、その弱さは、独りで生きている時しか、通用しない。
「……もう二度と、君をあんな目に遭わせない。君に辛い思いをさせない」
ぼくは狐の子のことが、好きだ。
狐の子が悲しそうに、苦しそうにしている姿は、もう見たくなかった。
弱いままだと、狐の子を守れない。守れるわけがない……。
……守りたい、助けたいって願っているだけじゃ、全然足りなかったんだ。
「君を守れるように、強くなる」
ぼくは誓う。強くなりたい。
だけど、ただ力が強いだけじゃダメなんだ。
大切な人を守れなければ、それは強さじゃないんだ。
そして何よりも、誰かを想う優しい気持ちが無ければ……。
……そう、狐の子がぼくにしてくれた様に。
だから、僕は。
狐の子の様に優しくなって……、狐の子を守りたい。
「だから……ぼくと、一緒に、いて下さい………………」
狐の子に頭を下げる。
心臓が暴れている。
頭が混乱している。
呼吸がおかしい。
視界が、くらくらする……。
狐の子は、目を丸くしている……。
「……こんな狐と、一緒に居たいなんて……おぬし、本当に、良いのか……?」
何回も頷く。
狐の子と、一緒にいたい。それが願いだった。
「………………くすっ」
すると、狐の子は頬を緩めて。
「強くなる……か」
それからじーっと、どこかを見つめた。その視線の先は……ぼくの右腕。
「ふふ、それなら少しばかり鍛錬が必要じゃのう?」
言われてぼくは改めて、自分の腕を確認した。
……うん。見るからに細くて貧弱そうだな……。
強くなりたい、強くなる……と、今さっき自分が話したことのはずなのに、狐の子の口から改めて聞くと何だかこそばゆい気分になってくる……。
今の段階だと強くなるどころか、そもそもまず普通の人ぐらいには力を付けることからじゃ……?
「大丈夫。きっと、絶対、強くなれるから」
くすりと笑みをこぼして励ましてくれる狐の子を、まっすぐ見ることができない。
きっとぼくの顔は今、真っ赤になっているんだろう……。
恥ずかしさに襲われているぼくを、狐の子は面白そうに眺めて、それから……。
「それに――おぬしは、」
穏やかな優しい表情をした。
「おぬしは決して、弱くなどないよ」
それは、芯を持った、凛と透き通った、狐の子の声。
……またすぐに、否定の言葉が出てきそうになってしまう。
けれど、今まで自分はそういう自嘲にも、甘えていたということに気付いて、それを押しとどめる。
ぼくはまだ弱い。それは本当だ。
……だけど、それは今だけにしよう。
「………一度は」
少しの間、言葉を探している様子だった狐の子が、再びゆっくりと話し出す。
「わたしは、一度は、堕ちてしまった身じゃ。……覚えているじゃろう? 先程の乱れた姿を……」
さっきの狐の子は……本当は震えていたのに、無理に笑っていた。
その記憶が頭をよぎって、胸が苦しくなる。
……だけど。狐の子はもっともっと、苦しかったはずだ。
「……再び、怖くなって、また、あんな風になってしまうかもしれない」
確かめるように狐の子は続ける。
「それに、おぬしにも、とてつもない不幸をもたらすかもしれない……。」
狐の子と目線を交わす。
「………………それでも、良いのか?」
「うん。一緒にいよう……!」
狐の子にすぐに返事をして、大きく頷いた。
「……ありがとう」
狐の子は、泣いていた。
かすれる声で、答える。
「……ぼくの方こそ、ありがとう」
目頭が熱くなっている。じわり、と視界が潤んでいた。
ぎゅっと、抱きしめあって、目を閉じる。
狐の子の頬の毛が、頬を撫でて、くすぐったい。
ぼくの体に、もふもふとした大きなしっぽが巻き付く。
狐の子は、ふわふわとしていて、とてもあたたかくて……。
胸が熱くなる。時間が流れていく。
「あ、あー……」
何かに気が付いた様子の狐の子が腕をほどいて、気まずそうに目を逸らす。
「……? どうしたの……?」
なにか、有ったのかな……。と、心配になる。
「――その、うっかりしてて……」
狐の子はもじもじとしながら、目を逸らす。
?
「……今まで、おぬしの名前を聞くのを、忘れておった……」
「あっ……」
言われてみて初めてはっとする。
今まで、ずっと「君」って呼んでいて、狐の子の名前を、知らないでいただなんて。
思いもよらなかった……。
「迂闊なもんじゃな。わたしも」
狐の子は自分に呆れたように、そして照れたように、笑う。
小さな風にふわふわと揺れる毛。金色の瞳。
口元からこぼれる牙。思わずどきっ、と心臓が跳ねる。
「ぼくの名前は、
今まで滅多に口にすることの無かった自分の名前を言う。
「青か。いい名前じゃな」
誰かに名前を褒められるのは初めてで、嬉しいような、むずがゆいような気分になる。
「わたしの名は、狐に月で、
狐月。きれいで、すてきな名前だ……。
改まって、狐の子、いや、狐月がぺこりと頭を下げる。
狐月におじぎを返す。
その時、
「……あ……」
ふと視界が白んで眩しくなる。狐月が声を上げて、遠くを見つめる。
山の向こうから、太陽が、ゆっくりと登っていた。
森が、こちら側へと少しずつ、夜に隠していた緑色を映していく。
大空は、鮮やかな橙色に、青色に染まっている。
壮大な自然を前にして、狐月もぼくも、しばらくの間、言葉を失って、ただ、その様子を眺めていた。
狐月の左手が、ぼくの右手を包む。
「青……」
狐月に呼ばれて、胸の高鳴りを感じる。
そして、こっちを向いて、狐月が少しはにかんだ。
「本当に、ありがとう」
……狐月とぼくが、これからどうなるのかは、分からない。
だから、ぼくは強くならなければいけない。
狐月を守れるようになるために。
……だけど今、今、この時だけは。
狐月と一緒にいられるなら、それだけで良かった。
――森は日差しを受けて、眩しいくらいに瞬いている。
鳥の声がどこからか聞こえてくる。
夜が明けていく。
狐月と手をつないでいる。
狐月の目は、もう、虚ろじゃない。
だけど映っていたのは、死にたいと願っていた時の、儚い輝きでもなかった。
狐月の金色の瞳は今、澄んで、強く、明るく輝いていた。
「――これは、どこかで聞いた話に過ぎんが……」
朝日を眺めながら、狐月がゆっくりと、話し始める。