狐月の誓い 作:じゃじゃじゃ
◆ ◆ ◆
良く晴れた朝。
小鳥たちの鳴き声が山の中にこだましている。
まばゆい朝の日差しが木々の隙間から漏れていた。
「……九十八、九十九、五百。終わりじゃ」
狐月の声に合わせて、やっとのことで、ぼくは木刀を振り下ろす。
勢いそのままに地面に膝をついてしまう。
汗だくになっている。
呼吸もなんだかおかしい……。
「切先が揺れているのが、もう一歩というところかのう。……青……?」
心配そうな様子で、狐月がそばにしゃがむ。
「……生きとるか?」
狐月に肩をぽんぽんと叩かれて、ぼくはすぐに立ち上がって、
「ま、まだ大丈夫……」
と、声を枯らしながら説得力の無いことを言う。
そして、再び木刀を握って、朝の素振りを続けようとした。
だけど狐月は少し呆れたような表情をして、
「こら。倒れてしまったら全て終わりじゃろうに」
ぼくの手からするりと木刀を奪って、袋にしまった。
「でも……」
「最初の頃よりは、見違えるぐらいに上達しておるよ」
そんな狐月の言葉に、むしろ素振りを続けたくなってくる。
けれど我慢して、狐月と一緒に朝ごはんの支度を始めた。
◆ ◆ ◆
狐月が小川に沿って生える背の低い草むらに腰を下ろす。
夏の朝日を受けて、川は底まできれいに透き通っていた。
狐月は、白地に水色の文様が描かれた動きやすそうな着物を少しまくって、草履を脱いで、ぽちゃり……と、水面に足をつける。
一瞬ぶるっと体を震わせて、流れる水の涼しさに目を細めている。
狐月の隣に座って、川に釣り糸を垂らす。
「釣れるかのう?」
狐月もいそいそとした様子で、持ってきた釣り竿を準備している。
「今日は負けないよ。天気も晴れてるし」
晴れてる日の方が、良く釣れることが多い気がする。
ぼくがそう宣言すると、
「ふっ、釣りに必要なのは天気じゃなくて、技術じゃよ」
狐月はもっともなことを言って、同じく釣り糸を垂らした。
狐月は釣りが好きになって、ぼくとよく、どちらが先に釣れるかの勝負をしている。
実力は、大体五分五分というところ。
二人ともそんなに上手ではないから、いつまで経っても釣れない日だって結構有る……。
「お、かかったぞ!」
だけど今日の狐月は違った。
早くも一匹の魚が狐月の釣り竿にかかり、狐月はそれを逃さずかごに入れる。
「ふむ。これはイワナじゃな」
狐月は自然の名前を沢山知っていて、少し見ただけですぐに言い当てられる。
ぼくは狐月の釣った立派な魚を、驚嘆しながら眺める。
「まさか、そんなに早く釣れるなんて……。ぼくの負けだよ」
「ふふん。当然じゃ」
狐月は両手を腰に当てて、鼻を高くする。
「始めてからまだ十分も経っていないのに……すごい」
ただ感心していると、
「コツがあるのじゃよ」
狐月が得意げにそう言った。
「え、それって……、どんなコツなの?」
今までそんな話は聞いたことがなかったので、尋ねてみる。
一見すると、釣り竿も糸も、普段使っているのと変わらない様に見えるけれど……。
「ふふ、内緒じゃ」
だけど、狐月は首を振る。
そう言われてしまうと、余計に気になる。
できることなら、教えて欲しいな……。
そんな期待の目線に気が付いたのか、狐月はもったいぶった口調で続ける。
「これは特別な方法じゃからな。どのみちおぬしは使うことができんよ」
あれ、それって……。
「もしかして、それって、術……」
釣りの勝負をする時は、術を使うのは反則だって、確か狐月の方から言い出していたような……。
つい疑ってしまうと、
「あ、あはは! そんなことない! 疑うのではないぞ!」
狐月が明らかに慌てた様子でそれを否定する。
だけど全然ごまかしきれていなくて、そんな様子がかわいらしかった。
「!」
そうこうしている内に今度はぼくの手元が瞬時に震える。
どうやらこっちもかかったみたいだ。
「おお! そっちも、大物じゃな!」
その後ぼくも魚を一匹釣り上げ、それから二人で木の実を沢山拾って、朝ごはんにすることにした。
◆ ◆ ◆
「「いただきます」」
棒に刺して焼いた魚を、狐月はやけどをしないように慎重に、一口かじる。
「うむ。おいしいぞ」
そして、満足そうに頷いた。
そんな狐月の言葉に、今日の火の番のぼくは嬉しくなる。
自分の分の魚をほおばってみる。
うん。まだ熱いけれど、ほくほくとしていておいしい。
折角釣ったのに、焦がしてしまってはもったいない。だから、魚を焼く時が一番緊張する。
どうやら今日は大丈夫みたいだ。だけど油断していると、たまに炭になったりする……。
◆ ◆ ◆
旅を始めてすぐの頃。
……狐月は、『わたしは、何も食べなくても平気じゃから』と言って、本当に水しか飲まないで、ごはんをぼくに全部くれようとしていた。
でも、狐月がお腹を空かせているのに自分だけ物を食べているのは……嫌だった。
だけど、狐月は『腹など減っとらん』と頑なで……ぼくは悩んでいたけれど……。
ある夜中、ぐうう、とお腹の音が鳴ったのをぼくに聞かれてしまってからは、狐月はこうしてごはんを一緒に食べてくれるようになった。
ごはんを食べている時の狐月は、いつもすごく幸せそうで、それを見るたびに心が安らぐ。
◆ ◆ ◆
朝ごはんを食べ終わった狐月とぼくは、さっきの川に戻って水浴びをした。
それから、再び山の中の獣道を歩いていく。
木陰が日差しを防いでくれているから、それほど暑くはない。
狐月は気持ちよさそうにしっぽを少し揺らしている。
まだ乾ききっていないしっぽからは、と小さな水滴が、ぴちゃん、と涼しげに跳ねる。
長い黒髪を風になびかせる様子に、思わず見とれてしまって、石につまづいて転びそうになってしまう。
狐月は笠を上げて、風に舞って擦れて音を奏でる緑を眺めていた。
「どうかな、その笠?」
「ああ。しっかりと編めておるよ」
狐月はかぶっている笠をさわさわと撫でる。昨日ぼくがやっと編み終わったものだった。
「それは良かった」
笠を編んだりとか、糸で何かを紡いだりするのは、畑を耕したりするよりかは苦手じゃない。
狐月に褒められて、少しだけ誇らしい気分になる。
「最初は失敗ばっかりだったがのう、ここまで上達するとは」
笠を脱いだ狐月は嬉しそうに目を細めて、その裏側をじっと覗いている。
「狐月が教えてくれたお陰だよ。こんな笠が作れるなんて自分でも思ってなかった」
「ふふっ、正直言って驚きじゃ……」
そう言う狐月は、本当に驚いたように慎重に、笠を触っている。
そんな様子につられて思わず笑ってしまう。
狐月と出会ってから、もう一年が経っていた。
秋が来て、冬が来て、春が来て、そして再び、夏が来た。
ずっと、どこへ行くのでもなく、あての無い旅を続けている。
いや、行ってみたいところは有った。
◆ ◆ ◆
「………………のう、これは、どこかで聞いた話にすぎんが……」
――あの日。岩の上で、朝日を眺めながら、狐月は言った。
「……この世のどこかに、わたしの様な獣と人間が、助け合いながら、仲良く生きている国があるらしい」
ぼくはその話に目を見張り、息を呑む。
「そんな国が、あるなんて……」
そんな話、今まで、聞いたことが無かった。
……だけど、もし、それが本当なら。
狐月を獣だからって、虐める人が、いない……?
「それどころか、獣と人間が結ばれることもできるみたいじゃな」
狐月がそう続けたので、
「……そうなんだ……」
平静を保った振りをして返事をする。
だけど、心の中では、『結ばれる』という狐月の言葉に、過剰に反応してしまっていた。
別に、狐月に、深い意味はないかもしれないのに……。
……狐月と、結婚。
でも、流石にそんなことは一度も考えたことがなかったし、ぼくは狐月と一緒にいれるだけでも、それだけで十分だし……。
だけど……。
なんて考えていると、
「おぬしはどうじゃ? それとも、わたしじゃ不満かのう?」
狐月がいきなりそんなことを尋ねてきて……。
「い、いや、え、えっと……ぼ、ぼくは、狐月のこと、大好きで、その……」
どう答えたらいいのか分からなくなって、焦って混乱して、
「出来ることなら……狐月と、結婚、したい………」
咄嗟にそう答えてしまって、今度は自分に困惑する。
いや、今のは、嘘じゃなくて、紛れもないぼくの本物の気持ちだったけれど……。
狐月さえ良ければ……結婚、したい……。
……でも、いきなり結婚したいなんて言ったら、狐月を困らせるだけだろ……。
狐月の方も、やっぱり答えを求めて本気で尋ねた訳じゃなかったらしく、きょとんとしていて。
……自分の早合点に、顔から火が出てしまいそうになる。
けれど、狐月は照れたように、しっぽをぱたぱたと振って、耳を動かしていて……。
「……そ、そうか。……わたしも、おぬしとなら、嬉しい……」
そんな声が、かすかに、聞こえた……?
心臓が、ばくばくと跳ねている。
……聞き間違えじゃ、ない……?
「……えっと……、その国は……」
だけど、ぼくは恥ずかしくなってしまってその話を続ける勇気が出なくて……、話題を戻してしまった。
「その国は、どこにあるの?」
今まで他の国どころか、村から一度も出たことがないぼくには、見当がつかなかった。
きっと想像もつかないような場所にある。それだけが、何となく理解できた。
「それが……」
狐月が、自信が無さそうに言う。
「北にあるというのと、深い森の中の道にそびえる二本の白樺の大樹が入り口だということ。……わたしには、これくらいしか分からぬ」
狐月の大きな耳が、垂れてしまう。
「それに……あるんじゃない。あくまで、あるらしい、あるかもしれない、じゃ……」
あると決まったわけじゃない。それに、仮にあったとしても、想像がつかないような場所にある。
「そんな、途方もない、話じゃけれど……」
狐月の言う通り、それは確かに、気が遠くなってしまうような道のりに思えた。
だけど……。
「その、もしも、おぬしさえよかったら、探してみないか? その国を」
狐月が尋ねる。
答えは決まっていた。
「もちろんだよ」
狐月が自由になれる場所がある。
それだけで十分だった。
「……そうか。そう言ってくれると、嬉しいぞ」
朝日に照らされる中、狐月は岩から降りて、ぼくを手招きした。
「それでは、早速出かけよう!」
◆ ◆ ◆
その日から、ぼくたちはこうして旅を続けている。
海で泳いだり、栗拾いをしたり、かまくらを作ったり、色んな寄り道をしながら……。
手掛かりなんて殆どない、途方の無い旅でも、狐月と一緒にいるだけでどんな時間も、楽しかった。
「……」
山の中の獣道を歩いていた狐月とぼくは、ぴたりと足を止める。
視線の先に立っていたのは……古びた小さな祠。
途端にぼくの意識は現実へと引き戻される。
祠を作っている木は、朽ちかけていて、背の低い石の台座には、苔が生えている。
まるでそこには何も無かったかのように、打ち捨てられている様に見えて……。
……。
狐月とぼくはしゃがんで、その周りに伸び放題になっていた雑草をむしった。
それから、石像に幾重にもかぶさる苔を取ってあげる。
「「……」」
祠の掃除を終えて、再びぼくたちは無言で歩き出す。
……暗い気持ちになってしまう。
…………狐月はもう、神様には戻れない。
長い間自分が守っていた村を、あんな形で出なければならなかったのだから……。
……。
狐月はとても元気なように見える。
けれど、辛くて、苦しくて、痛ましい記憶がよみがえることも、有るはずだ……。
……………………。
気持ちが沈んで、俯いてしまいそうになるのを何とか堪えて、平静を保とうとする。
だけどすぐにばれてしまったみたいで、狐月がこっちを向く。
「おぬしは本当に心配性じゃのう……。大丈夫」
その言葉にぼくは顔を上げる。
すると、狐月はぽん、と自分の胸を右の手の平で叩いた。
「わたしはもう、おぬしに何も言わずにいなくなったり消えたりしない。どれほど辛くても、苦しくても、もう二度と、死のうとしたりなどしない」
はっきりとした口調で、狐月は言う。
「わたしは、生きるよ」
そして、狐月はそう言い切ってから、明るく笑った。
『生きる』。
と、狐月は誓う。
ぼくの胸につっかえていた物が、するりと、ほどけていく。
「むしろ、おぬしは自分の心配をした方が良いぞ? ……もしも、勝手にわたしの下を離れたら……」
狐月が、くくくく……と、妖しげに笑う。
「百鬼夜行の主にでもなって、どこまでもおぬしを脅かしてやるからのう……!」
「怖いよ、狐月……」
声を低くして脅かす狐月の迫力に、ついついたじろいでしまう。
だけど反対に、狐月の笑った顔を見て、気持ちが、すっと軽くなる。
……狐月があの暗闇から逃れられたと、ぼくが確信することは、できない。
だけど……。
狐月なら、きっと、どこでもやっていける。そんな気がする。
◆ ◆ ◆
――それから、またしばらく歩いて。
「……!」
不意に立ち止まった。
「これは……」
狐月が驚きの声を上げる。
その視線の先、歩いている道の両脇に……。
天まで届きそうなほどに、立派な白樺の木が二本、そびえ立っている。
そして、その木の向こう側にも、道は続いている。
ここはまだ、森の奥のはずなのに……。白樺を境目にした向こう側で、森はぴたりと終わっていて、その代わりに草原が広がっていた。
何の案内も、導きもない、初めて訪れる場所だったけれど。
ここに向かって歩いていたんだ……。
そう直感したのは狐月も同じだったみたいで、目線を交わして頷き合う。
慎重に、ゆっくりと、白樺の木を潜って、向こう側へと降り立った。
ちゃんと地面に足が着き、じゃり、と小さな石を踏む感触。
「おお……」
道の向こうを狐月は興味津々に眺めている。
「もしかしたら、ここがあの国の……?」
目を凝らして眺める。視界を阻むものはない。
草原の遥か向こうに、かすかに畑が見える様な気がするけれど……広がる大地を終わりまで見通すことはできなかった。
だけど、確かに、道はどこかに続いている。
先が分からない方が、楽しいのかもしれない。
「さあな……。全く別の、普通の場所かも知れぬよ?」
そうは言うものの、狐月は嬉しそうに目を輝かせている。
行こう。
早速、一歩一歩と進んでいこうとした。
だけど、不意に、後ろから、狐月に肩を叩かれる。
振り返れば、狐月の表情は曇っていて、急速に不安になる。
「……おぬし」
「……うん」
「さっきはああ言ったが……おぬし、本当に、良いのか? こんなわたしに、ついてきても……。……去るのも、おぬしの自由じゃぞ?」
笠を脱いで、狐月に言う。
「ぼくは、狐月と、一緒にいたい。――大好き、だから」
未だに好きというのには照れて、上手く言い切れない……。
すると、狐月も自分の笠を外して、ぴん、と耳を立てた。
「――そうか。ありがとう。わたしも、おぬしに、ずっと一緒にいてほしい。おぬしのことが、大好き……じゃぞ」
狐月はそう言って、はにかんだ。口元からは牙がちらりと見える。
その表情に、鼓動が跳ねる。
『大好き』。
その言葉が頭の中を巡る。
……ぼくはまだ、全然弱い。
狐月を守れるほど、しっかりとなんて、していない……。
……。
強くなろう。
強くなって、狐月を守る。
この先何が有っても、絶対に。
ぼくは心の中で、改めて誓う。
歩こう、と狐月に声を掛けようとした。その時。
ちゅ。
頬に、柔らかい感触が、走る。
――!
今、こ、狐月が…………………………。
……いつの間にか、殆ど距離がないぐらいに近付いていた狐月が、そっと、ぼくから一歩離れる。
そして、ぱたぱたぱた……と激しく揺れている自分のしっぽを胸元に抱いた。
「……ううっ、や、やっぱり、まだ、恥ずかしいものじゃな………」
狐月は、まだ暴れているしっぽに顔をうずめて、照れている。
「う、うん……」
嬉しさが余り過ぎて、混乱して、思考がごちゃごちゃになって、まとまらない。
狐月は、狐月は、とっても、とっても、かわいい…………。
顔が火照って、ぼくはろくに返事もできなくなってしまっている。
そのまま何分も時間は過ぎて、照れる気持ちは一向に引かず、むしろ加速していく……。
「と……、とにかく、行こう」
このままだと全身が熱くなって、蒸発してしまいそうだ……。
そう判断して、狐月に声を掛ける。
「う、うむ。おぬしの言う通りじゃな……」
狐月もまだ、恥ずかしさは引いていなかったみたいだけど……。
ゆっくりと、しっぽから手を放して……それから。
そっと、狐月はぼくに右手を差し出した。
左手でそれに答える。
ぼくたちは手をつなぐ。
やっぱり狐月は、ふわりとしていて、暖かい。
涼しい風が狐月の頬の白い毛を撫でる。
前を向けば、太陽に照らされて、道はきらきらと輝いていた。
「……のう、青」
狐月が、ぼくを見る。
目が合って、胸がどきどきする。
「これからも、よろしくな」
そして狐月がほころぶ。
それは、悲しみも絶望も諦観も、虚ろさもすべて打ち消してしまえるほどの、爽やかな笑顔だった。
「こちらこそ、よろしくね。狐月」
はっきりと、答えた。
「それでは、行こう、青!」
「うん!」
そうして狐月とぼくは再び歩き出す。
目の前にはどこまでも草原と青空が広がっている。
おしまい