狐月の誓い 作:じゃじゃじゃ
――それは冗談なんかじゃ決してなかった。
頭を固いもので殴られたような、衝撃が走る。
『殺してくれ』。
狐の子は、確かに今言って……。
「そ、そんなこと、できない」
無理だ、絶対にできない。そんなこと、自分が死ぬことよりもよっぽど嫌だ。
即答すると、狐の子はその返事を分かっていたかのように更に続けた。
「……そうか。……それでは、わたしが死ねるための、道具を持ってきてはくれんか?」
それも、ぼくが狐の子を殺すのと同じだ……。
言葉を失ってただ首を横に振ると、狐の子は寂しげに下を向く。
「……何故、願いを聞いてくれないのじゃ?」
訴えるような狐の子の口調に、ぼくは返事に詰まってしまう。
「……逃げよう、ここから」
今のうちに逃げ出す。どうしてすぐに思いつかなかったんだろう……?
死ぬよりも逃げる方が絶対に良い。
自分のせいで狐の子が死ぬなんて、そんなの耐えられるはずがなかった。
「……無理じゃ。わたしは非力だから、これまで何度も壁や床や扉なんぞを攻撃をしてきたが、未だ傷一つつかぬ……」
狐の子は首を横に振って否定する。
「じゃあ、鍵を盗むのは?」
鍵を持つ誰かの家にこっそりと忍び込めれば、不可能な話じゃない。
「それも無理じゃ。この蔵の鍵はどうも特殊で、術で封がなされているらしく……。普通のやり方で開けることは叶わぬ」
だけど、その提案もあっさり打ち砕かれてしまった。
確かに、錠前には何かの文様が書きつけてあった様な。あれは術だったのか……?
「でも……」
それでも、死ぬなんて。と、言おうとすると、それを読み取ったのか、狐の子は悲しそうに俯いてしまう。
「…………どうして、死なせてくれないんじゃ?」
それは……。君のことが好きだから……。
そう言い掛けたけれど、狐の子の声に遮られてしまう。
「……どうして、どうして、村人たちは、わたしを信じてくれんのじゃ? どうして、精液を注ぐのを止めてくれないのじゃ?」
狐の子に対する罵倒、嘲笑が頭の中に蘇ってくる
「わたしは、この村を、ずっと、見守ってきた。別に、見返りを望んでいたわけではない。でも、でも! 酷い。こんなのはあんまりじゃ……!」
とうとう狐の子の目元には涙が浮かんで、声は震えていて……。
「……だが。それよりもなによりも嫌なのは…………」
少し間を置いてから、狐の子が雪崩のように話し出す。
「……そんな者たちの陰棒や、精液に疼いてよがって、もっともっと犯して欲しいと望む自分がいることじゃ!」「それも、その快感は、欲望は、日に日に強くなっておる。気が付けば、こうして一人でいる時も、まんこを触って快感を求めてしまっている……!」「きっと、わたしはもう持たぬ。だが……、あいにくとわたしの命は、永遠とは言わぬが、とっても長くてな。きっと、壊れようとも精神そのものはそのまま消えることはなく、何百年も、わたしの終わりを許してはくれんだろう……」
狐の子が鉄格子越しに泣く。途切れ途切れに叫ぶ。
「……わたしは、嫌じゃ、堕ちたまま、壊れたまま、ずっと、終わりも知らぬその先を、ただ陰棒をねだって迎えいれるだけの、
ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、狐の子が声を枯らしている……。
その言葉一つ一つは、そのまま矢となって、ぼくの心に突き刺さっていた。
『それでも、生きていればきっといいことがある』。
そんなことを狐の子に軽々しく言える自信は、無かった。
それは……現にぼくも、そうだからだ。
村の端っこでずっとこのまま生きていたって……ぼくの命になにか意味はあるんだろうか?
時々、ぼんやりとこんなことを考えている自分がいたからだ……。
「だから、せめて、自らの手で、意識を保てている内に、ちゃんと死なせて欲しいんじゃ……」
狐の子がじっと、もう一度、こっちを見据える。
「だから……どうか、どうか、わたしの願いを……叶えてはくれんか?」
泣き疲れたような、狐の子の囁くような幽かな声。
ぼくは、女の子を相手にしているとは思えない村人たちの乱暴を思い出す。
そして、狐の子が犯され続けていた時の虚ろな目を。
少し触れただけでも壊れてしまいそうな、虚を映した目。
感情の読み取れない、いや、感情が消えてしまったかのような目を思い出す。
それは、今の狐の子の月明かりを映す目とは全く異なる様に見えて――。
ぼくは、ぼくは、一体、どうすれば……。
◆ ◆ ◆
……自分が頷いていたのか、声に出して返事をしたのか、それとも何もできずずっとその場に立っていたのかは、分からない。
ただ、狐の子は首を傾げるようにして、少しだけ笑った。
「ありがとう」
まただ、また、狐の子の瞳が明るく瞬いている……。
どうして、こんな約束したのに、この子は笑っているんだろう。
穏やかな表情をするんだろう。
狐の子が格子の隙間からそっと小指を立てる。
もふっとした、やわらかそうな茶色の毛に包まれた小さな掌。
ぷにっとした肉球。反射的に小指を絡めていた。
「ゆー、びきりげんまん……」
静かな社に、森に、約束の歌が響き渡る。
不思議と懐かしい気分で満たされていく……。
◆ ◆ ◆
自分の家に戻って、寝床に入ったのに、なかなか寝付けない。そもそも寝ていられる気分じゃなかった。
狐の子と約束を交わした後、ぼくは誰にも気付かれないようにこっそりと自分の家に戻った。
まともに何かを考えられる状態じゃなかった。
気持ちを整理するために、一旦横になろうと思ったのに……。
当たり前だ、こんなことがあったんじゃ、普通は眠れない。
代わりに、さっきの狐の子との約束を思い出している。
◆ ◆ ◆
――――。
「さっきも言ったように、わたしは恐らく、十日も保てない」「だから、……持ってくるのは、一週間後の夜伽の時にして欲しい」「それを過ぎれば、きっとわたしは、死ぬこともできなくなってしまう……」
狐の子の言葉に、ぼくはつい疑問を抱いてしまった。
まだ何も言っていないのに、当たり前のように狐の子はそれを読んで、答える。
「あと一週間、ぎりぎりになるまで……信じたいんじゃ、あの者たちのことを……。あの者たちが、自らの行いを悔いてくれることを、わたしが壊れてしまうまで、限界まで、待っていたいんじゃ……」
狐の子は悲しみをこらえているような、どこかすがるような表情を浮かべていて、さっきまでこの蔵の中で繰り返されていた行為、罵倒を思い出し、言葉が見つからない。
さっきのぼくの行動もだ……。
「……ごめん。ぼく、ほんとに酷いことを……」
「いいんじゃよ。おぬしは、気に病むな」
「……でも」
「それよりも。……おかしいじゃろ? 笑えばいい。こんな風に扱われても、まだ馬鹿みたいに信じてしまっておる、愚かな狐を……」
「……愚かなんかじゃ、ない」
ぼくは、はっきりと言い切った。
「そうか……。そう言ってくれると、嬉しいぞ」
ほっ、と安心したように狐の子が表情を緩める。
「待って、待って、ただ待って……、それでも駄目だった時は……」「わたしは、壊れる前に、皆の前で自らを殺そう」「わたしの死ぬざまを見て、あやつらが、自分の行いから、目を覚ましてくれたら……わたしは、それでいい。それで、十分じゃ……」
どこか懐かしそうに狐の子は窓の外の、月を見上げて言う。
自分が死ぬ話をしているのに、優しい表情をして……。
◆ ◆ ◆
――でも……きっと、狐の子の願いは、届かない。
そんな暗い考えが、布団の上に寝ころんだぼくを支配していく。
どうしたら、あんなに酷い扱いをされたのに、まだみんなのことを信じようと、みんなの目が覚めてくれるんだと、そして、命まで投げ出そうと、できるんだろう。
それに、狐の子はどうしてぼくを責めなかったのだろうか。
だって、ぼくもみんなと同じはずだ。なのに、何で?
背負っているものが何も無い、軽い存在のぼくには分からなかった。
それがもどかしくて、自分がたまらなく嫌になる。
けれど、狐の子は、絶対に、絶対に……。愚かなんかじゃ、ない。
愚かなのは……ぼくたちの方だ。
狐の子の言うことを無視して、馬鹿にして、なのに交尾は沢山して、苛めて、嘘をついて……。
狐の子と別れ、一人になったからか、今まで感じたことのないような、激しい自分の感情にぼくは戸惑う。炎が燃える様な感情だった。
狐の子を初めて見た時の、あの時の感情とは、全く違うものだ。
『獣の分際で』って誰かが言っていた、いや、みんなそんなことを言っていた。
でも、ぼくたちよりも、あの狐の子の方がよっぽど人間らしい。
いや、そもそも……。人間らしさ、って、良いものなのか……?
あんな所を見せられて到底そうは思えなかった。
ぼくもその人間の一人だっていうことが、たまらなく苦しくて嫌になってくる。
いや、でも、ぼくは今、人間らしさっていうものを疑っているけれど、ぼくだってその人間で、なのに自分だけは周りの人と違うって自分のことを棚に上げている。
だから、そんな自分が凄まじく嫌だった。最低だ。
……獣の、狐のあの子の方が、ぼくたちよりも、ずっとずっとずっとずっと立派で、大切なものに見えた。
いや、実際そうだ。結局偉そうなこと言っているけれど、人間だって獣、いや、獣よりもずっとずっと下だ……。
狐の子の涙を思い出して、やるせない気持ちになってくる。
何よりも今、許せないのは、あの子が、あんなに酷く、それこそ、壊れてしまいそうになるまで、まるで物みたいに扱われていたことだ。
狐の子が悪いなら仕方ないとかなんとか勝手に思って、ぼくも狐の子と交尾をしてしまったこと。
そのせいで、あの子は自分から死ぬとまで言っているのに。
それを止められないぐらいに、冗談とは思えないぐらいに、苦しめられているっていうのに。
それなのに。
どうしてあの子を苛めるんだろう。
――どうしてぼくはあんなことをしてしまったのだろう。
このままだと、本当にあの子は壊れてしまう。
だめだ、でも、ぼくにはやっぱりあの子を殺すことなんてできない。
できない、できないんだけれど……。
懇願するようなあの子の表情を思い出す。
きっと、あの子の予想は、全部当たっている。
きっと、あの狐の子は、本当に、もうすぐに……。
……。
だけど、どうしよう、どうすればいいんだ……。
いつまで経っても答えは出てこない。
だけど時間はすぐに過ぎ去って、夜明けが訪れる。
約束まで――
あと六日。