狐月の誓い 作:じゃじゃじゃ
約束の日まで、あと三日。
目を閉じて横になって、けれど意識は冴えている。
突然がばっと跳ね起きる。
夢を見ていたのかもしれないけれど、ちっとも思い出せなかった。
見ていたとしてもきっと悪夢だ。いい夢なんて見れる訳が無い。
そもそもまともに眠れなかった。
蔵から帰ってきて……どのぐらい時間が経った?
起き上がって、蓄えていた保存食、粟を団子のようにして乾燥させたものを食べる。
わざわざ炊いている暇なんてない。いつも以上に味がしなかった。
無理やり飲み込んでからすぐに草履を履いて家を出る。
まだ空は暗く、明け方にすらなっていない。
冷たい風が肌を撫でて身震いする。そしてぼくはまた一造さんの家に歩き出す。
◆ ◆ ◆
一造さんの家の壁にこうして寄りかかっている時は生きている心地がしない。
もしも誰かに見られたら……。そんな不安と緊張に絶えず取り憑かれている。
夜空を見て時間をやり過ごす。
ずっと眺めていても月は全く動いていない様に思えてもどかしい。
暗闇とか、不気味さとか、色々なものに耐えながら夜を過ごしていく。
こうしている間にもあの子は削られていっているのに……。
狐の子をほったらかしにしているような気分になってくる。
けれど、今は待つしか方法は無い、そう自分に言い聞かせようとする。
だけど、それはぼくの勝手な言い訳だ……。
とにかく耐える。辛い時間が永久に続く気がする。
いや、辛いなんて言葉は、ただ待っているだけのぼくが使う資格はない。
居眠りなんてすることもなく、そもそも眠れる状況でなく、何千夜も続くような空っぽの時間が過ぎ、空がじわりと青くなってくる。
……朝だ。
……今日ぼくは殺されるかもしれない。その日がやってきた。
改めてそう意識すると、怯えに支配されそうになってきて、深く考えるのを止めにする。
例え日は登っても、あくまでここで動かずに耳を澄ませるだけだ。
朝日が昇ってからも長かった。一造さんが帰ってこない。
畑や田んぼに向かう人の話し声とかが、どこからかぽつりぽつりと聞こえ始めている。
もうそんな時間なのに、帰ってこない。
……もしかして、蔵で何か有った?
誰かが鍵をなくしたとか?
それとも、まさか、狐の子が……?
色んな可能性が現れては消えて行って……不安しか残らなくなっていく。
あの子は無事だろうか。もしもあの蔵で何かあったなら、一番危ないのは文句なしにあの子だ。
……やきもきとして、いてもたってもいられなくなってくる。
◆ ◆ ◆
それから何分経ったんだろう。
……やっぱり変だ。しびれを切らして、一旦蔵の様子を見に行こうと立ち上がった時に。
じゃり、じゃり……、と、こっちに近づいてくる誰かの足音。
一造さんだ。姿は見えないけれど直観がそう告げている。再び腰を下ろして、じっとする。
がらっ、と扉が引かれて床を踏む音が、すぐそばでしている。
さっきまでとは比べ物にならないぐらいの、滅茶苦茶な重圧が体にのしかかってくる。
全ての感覚が研ぎ澄まされていく。
いつでも動き出せるようにぼくはほんの少しだけ地面から腰を浮かせる。
ぎいいいいい……。
床板がこじ開けられる音。幽かに、ちゃり、と鍵が板とこすれる音。
まだだ、まだ下手に動いちゃダメだ。
バタン! ……。
そしてまた部屋の中を、誰もいないような沈黙が支配する。
もどかしく待つしかないあの時間が再びやってくる。
……もしかして、今日もまた、寝てしまったのか、一造さん。
笑い事じゃない。本当にそうならば……困った。
いや、ただ困ったで終わっていいはずがない。
この状況をどうするか……改めてひたすら考える。
鍵は絶対に今日盗んでおきたい。今日もダメなら、きっと明日も明後日もどうせ盗めないだろう。
今日だ、今日しかない。今日やらなければならない。
と、すれば……やっぱり、今、一造さんの寝ているところに忍び込むしかない?
でもあまりにもそれは危険だ。無事に忍び込めたとしても、床板を外した時の音できっと一造さんは起きてしまうだろう。
それじゃ……一造さんが外に出るように促してみるとかは?
畑が荒らされてるとか適当な嘘を吐いてみて……。
そんなことを考えていると……。
!
再び玄関の扉が開く音がする。
その音を聞き逃さなかった。
足音がどこかへと遠ざかっていく、扉が閉まる。
そして再び訪れる、ぼくの心臓の音以外何も聞こえない静寂。
……どうして? どうして今、一造さんは外に出た? 何の前触れもなく。
昨日はこの時間はずっと寝てたっていうのに?
今日は畑を耕しに行った? いや、蔵に忘れ物を取りに行ったとか? それとも……。
考えている暇なんて無い。ぼくはすぐに立ち上がって一造さんの家の玄関に回る。
辺りを見回しても誰もいない。本当に一造さんはどこかへ行ってしまったみたいだ。
いや、それともどっかに隠れててぼくが忍び込むのを見ようとしているのか?
そんなこと知らないし分からない。ぼくはもう既に、玄関の戸を開けてしまっている。
とにかく、今しかない。誰もいない暗い部屋、ただ脇目も振らずに一造さんがこじ開けていたあの床のそばに寄る。
心臓が今までとは比べ物にならないぐらい暴れている。
ここだ。他の板との隙間が、他よりも少しだけ広い。
この板の下に鍵と札が有る。部屋中をぐるっと見渡して隙間に差し込む薄い板を探す。
……有った。それは土間に立てかけてあった。
急いで板を抱えて戻って、あの隙間に突っ込もうとする。
けれど手元が震えて、手が滑って何度も何度も何度も何度も上手くいかない。
早く、早くしないといけないのに!
強引に床を板で叩く。ぎっ、と木が軋む音を聞く。入った。
そのまま、てこのように力を籠めれば床板は案外簡単に外れてしまった。
床下には小さな箱のような空間が作られていて、そこに確かに有った。あの鍵と、札が。
瞬時に手を伸ばして両方を袂に入れ、そのまますぐに家を出る……、ところで気が付いた。
まずい。元に戻しておかなきゃ……!
そんなことを忘れるなんて、気が動転している。
一旦また居間に上がって、外した板を床にはめ込んで、それから開けるときに使った細長い板を土間に戻してから、一瞬だけ振り返って扉を閉めて後は走る。山の上へと。
早く。大丈夫だ、誰にも見られていないはずだ。だから今は早く……。
「痛っ……!」
石につまづいて転んでしまう。
膝を見れば血がにじんでいる。ずきりと重い。
だけどそれを無視してすぐ走り出す。頭がぼーっとしていく。
視界がぼやけて殆ど本能だけに操られているみたいだ。
走っているのに、こんなに走っているのに普段とあんまり変わらないほどゆっくりと景色は流れている気がした。ぼくが山の鹿だったらもっと速く走れたのに。
背後からがさりと音がして。
追っ手……? 全身から血が引いていく。
けれど振り向けばそれはただの草むらから出てきた兎だった。
もうどうでもいい。振り返らないで走らなきゃ、ぼくは無駄にただ死ぬ。
余計なことを考えないでただ足を全力で動かして傾斜を上る。
視界の先に蔵が見えてきたときには、一気に力が抜けて崩れ落ちてしまいそうになった。
「……」
格子窓のそばに寄った。
狐の子は起きていて、ぼくのことを見ても何も言わず、でもただぼくは狐の子を見れて嬉しくなって、けれどまだ喜んでいい段階じゃないから、
「今、助けるよ」
と声を掛けるとすぐに蔵の入り口に立つ。袂に手を突っ込んだ。
一瞬、心臓が止まる。
無い。――無い。札は有ったけど、鍵が。鍵が。無い。嘘だ。いや、嘘じゃなくて、でも確かにぼくは一造さんの家から鍵を盗んできたはずだ……。
焦りがぼくの意識を支配していく。袂を探る。走った時落としたのか?
……もしかして、転んだ時? あの拍子に落とした?
だとしたら、あの場所にまだ、落ちているかもしれない、落ちているなら取りに行かなくちゃ……。
混乱しながら蔵に背を向けて走り出そうとした時。地面から小さな音がする。
「あ……」
見下ろせばそこに鍵が落ちている。きっと着物のどこかに引っかかっていたんだろう。途中で落としたわけじゃなかった。
有った……!
それを拾い上げて、一造さんがやっていたみたいに錠に札を被せてその上から鍵を貫いた。
よし……。奥までしっかりと鍵の先端が届いていることを確認するとぼくは鍵を回す。
これで良いはずだ。
――けれど。
鍵は開かない。開かない?
……なんで? なんで? なんで開かないんだ? 鍵をちゃんと回したはずなのに?
札を使ったんだから、開いてもいいはずなのに。なのに。
何度も鍵を回し直したり差し直したりするけれど、やっぱり開かない。
??????
まさか、そんな……。
混乱は解けていき、代わりに残酷な現実が露わになってくる。
直視しなければならなくなってくる。
――開かない。
……鍵が間違っていた?
頭をよぎる可能性。けれどそれは無いって断定できる。
だってあの床下の箱の中には確かにこの鍵と札しか入っていなかったのだから。
でもそれなら、開いていいはずじゃないか!
なんで、なんで……!
駄々をこねたって仕方がない。分かっているのに。
何回も何回もそれこそ鍵の形が変わってしまうんじゃないかっていう程、ぼくは同じことを繰り返す。開かない。開かない……!
――村人たちにお願いしようともしてみた。蔵を壊そうとはしてみた。
駄目だった。だから鍵を盗んだ。
この鍵さえ開けば全てが上手くいくのに……!
「――――」
狐の子が何か言っている。
その声に反応したぼくは、格子窓の前まで戻って、しゃがんで視線の高さを狐の子に合わせる。
見ると、さっきまでは虚ろだった狐の子のまなざしには灯りが戻っていて、不思議と表情は明るい。
今まで見たことのないような爽やかな笑顔だった。
ぼくはこんな状況になのにどきどきしている。かわいい……。
「開け方、分かるの?」
もしかして、狐の子はこの鍵を使って、蔵を開ける方法を知っているんじゃ……?
ぼくは期待を込めて訊く。
でも、狐の子はただ黙って首を振って――微笑んだ。
「ありがとう」
儚くて消えてしまいそうな笑顔だった。