ユリシーズ・オデッセイ
「ね、見て見てヘレン、
背後から可憐な幼い声がかかり、わたしはサーチライトが照らすマニュピレータの先端から視線を外して、コクピットの上部を仰いだ。しばらくアストロサイトに目を凝らしていると、点在する遠くの星々をルサルカがヘッドアップディスプレイ上で線で結んでみせ、星海のキャンパスに獅子を描き、ほらね? と得意げに言った。
「……ほんとね。わたし、初めて見たわ」
海宙では人間の脳のように常にイオンの嵐が吹き荒れ、無数の微弱な発火によってパルスモジュレーションされている。光などの電磁波は著しく減衰してしまうため、本来なら恒星近傍でたちまち吸収されたはずの光だけれど、海宙の電子的な姿たる脳の海の、対称性と自己組織化によって
わたしたちが目にしているのは、いつかのレオの、陽光炉の輝き。海宙の記憶だ。その記憶が破壊されずに届いているということは、それだけ今は好電性プランクトンも滞留しておらず、海宙が澄んでおり、潮流が穏やかな証拠だった。
ルサルカがしみじみと言う。
「あの座はずっと内戦してるからねえ、見えないほうがしあわせなんだろうけど」
獅子宮が政府としての機能を停止し、事実上解体されて久しい。不可侵条約を破るのを恐れた近隣の座は見て見ぬふりだから、難民は海賊と化し、内戦が終結する見込みもない。
「海賊の音に引っかかっていちゃもんつけられても困るし、さっさとお仕事済ませちゃおうよ」
自分から呼び止めておいて何を言い出すんだか、と思いながらもわたしは黙って操縦桿を握りなおした。
トリガーを引くと、マニュピレータから細い針が飛び出して岩石の奥深くまで突き刺さった。きん、と響いた鋭い高音と針の振動をマイクが拾い、ルサルカがノイズを除いて変換、解析にかけはじめる。その間にわたしはマニュピレータで、サンプルに手ごろそうな石くれを収集器に詰めた。
「うん、やっぱりこれもあれだよ、ヘレン。すごいね、こんな大きいの初めてじゃない?」
ルサルカが各種解析結果をディスプレイに表示した。振動力学に基づくデータマイニングによれば、この漂流物には燃える氷と呼ばれる圧縮された燃料が大量に眠っている。この量なら六等星の恒星プラントを半年はまわせるだろう。
わたしは脳の海を参照しながら応える。
「ソナーの応答が不安定ね……しし座のレグルスの波まで混じってる。見えない潮が多すぎて、今まで誰にも見つからなかったのね」
「どこかに
「というより収束してるんだわ。あのしし座も、遠いから逆に見えてる。ちょっと近づけば見えなくなるはずよ」
「ミラーなんとかレンズ効果ってやつ?」
「そんなところになんとかは入らないわ――。そうね、この時間帯がちょうど、おとめ座としし座の波が打ち消しあってるタイミングなのかも」
「これじゃ、流域の軌道解析も無駄だねえ。レグルスの定格回転数とかピーク時間とか、極秘だし。あのバーで会った海賊から地図買わなくてよかったね、絶対役に立たないって知っててふっかけてきてたよー、あいつ!」
「悪口言わないの、ルサルカ。噂話はほんとだったでしょ」
これほど大きな遊星がほったらかしにされていたのは、無数の波に押し出された結果、よっぽど不規則な軌道で旅行していた証拠だ。絶えず流束があり、だから凍結もない。必要となる動的な時変パラメータが多すぎて、潮の星座暦を作るのも一苦労だろう。
「でもこれだけ大きいと、この子じゃ持って帰れないねえ……」
わたしたちのヒポカムポスは小型だ。アンカーも足らなければ、そもそも遊星の直径は標準的な住居用ドーム一個分のそれぐらいはあり、ヒポカムポスよりも遥かに大きいので牽引できない。押して乗っていけそうな、おとめ座のスピカが作る海流までも少し距離があった。
「音叉だけ刺して、今度、業者に頼みましょ」
握り拳大のミラービーコンブイを遊星のあちこちに取り付けて――あとで回収した際にブイの旅行記録にもいくらかの値がつくので念入りに――、遊星をレンダリング。アルマゲストに観測点として登録しておく。
「さ、帰りましょうか。今から戻ればスピカも
コンソールを操作し、静粛性の高い調査モードから通常の探索モードへスイッチ。フォーストロークエンジンが目覚め、コクピットが軽い振動に見舞われるとともにスクリューが回転、
ルサルカもスピカまでの航路を算出し、ピンガーを打つ準備を進め、
「あたし、お腹ぺこぺこー。ね、ヘレン、せっかくお宝見つけたんだから、今日は奮発して天然もののお寿司にしようよ!」
「そんなの、あと十個あの遊星を見つけてきても無理よ。あとね、ルサルカ。そういう共食いネタは絡みづらいからやめてってば」
げんなりして後部座席に首をまわすと、艶やかな金髪の毛先を弄びながら、悪戯っぽく翠緑の瞳を細めるルサルカのあどけない顔を見つけた。わたしと目が合うや、いっそうにやつき、十分に溜めを作ってから、
「お寿司のネタだけに?」
嬉しげに尾びれをくねくねさせつつ、人魚が言った。
自動航行モードにしていたヒポカムポスが
『入港手続きを開始します。艦長は声紋照合を行ってください。繰り返します。艦長は声紋照合を行ってください』
いつの間にかスピカの領海に踏み込んでいたらしい。口元を手の甲で拭いて、倒していたシートから身を起こそうとすると、わたしの首筋に再び汗ばんだ二の腕が絡みついてきた。
「ちょっ、ルサルカ、離してってば――んぐ」
熱く濡れた柔らかな唇が、かぷ、とわたしの唇をはんでくる。柔らかな肉質をした発育途上のふくらみがわたしの胸を押し潰し、腰にまわされた尾びれにはさらに力が込められた。
『警告。声紋照合を行えない場合、直ちに貴艦を停止させてください。繰り返します。直ちに貴艦を停止させてください。入港許可を持たずに当領海を侵犯した場合、国際星海宙法条約に基づき、攻撃を開始します。繰り返します――』
穏やかな声音が一転して、まくしたてる口調に変わった。
わたしは慌ててルサルカの肩を掴んで口を引っぺがし、マイクに向かって怒鳴りつけた。
「ヘレン! ヘレン・ユリシーズ・エノーラ!」
『――認証。海宙調査協会、ヘレン・ユリシーズ・エノーラ会員本人であると確認しました。船舶登録アカウントLyla-218-ENOLAの第十三ベイへの入港を許可します。おかえりなさい。アルマゲストの開拓記録を自動同期します。現在、スピカは十八運転時三十二分、陽光炉はピークフェイズからサプレッションフェイズへ移行中です。
淡々と大気供給計画を告げるアナウンスをよそに、ぎろりとルサルカをねめつけた。
「ばかルカ! もうちょっとで海の藻屑にされるところだったでしょ」
「だーいじょうぶだって。ヘレンは心配しすぎ! 悪くても通報されたぐらいだよ」
「航海士免許剥奪されたらどうやって食べていくのよ!」
頭をひっぱたこうとするも、ちろりと小さく桃色の舌を覗かせたルサルカは、尾びれをくねらせ、見かけよりも俊敏な動きで後部座席に逃げ戻った。
「今日は絶対、鯨肉のハンバーグにしてやるんだから」
「やーん、料理されちゃうー!」
反省の色も見せずきゃらきゃら笑うルサルカを無視し、シートを起こしてキャノピーをブラインドからフィルターへ切り替える。
ディスプレイいっぱいに、莫大な光量を漏らして回転する巨大なシリンダー型の鋼鉄、
ヘッドアップディスプレイに点線で表示された入港軌道に沿って、ヒポカムポスを誘導させる。
シリンダーの底にぽっかりと開いたレヴィヤタンの大口をくぐりぬけ、運輸、防衛、交通ベイを抜けて、民間用の第十三ベイに滑り込むと、入港手続きを受けて待機していたカプセルドックがわたしたちのヒポカムポスをアームでホールドし、格納。入港ルーチンに従って水抜きしながらハンガーへ運んでいく。
待っている間にさっさと防護環境フィットスーツを身に着けなおして、水抜きが終わるなり始動キーにもなっているカード型PDAをスロットから抜き取り、ヒポカムポスから降りた。電磁遮蔽タイルの皮膚を持つタツノオトシゴといった風情のヒポカムポスが腹部に抱えた収集器を遮光ケースに移し、ケースの検問手続きをしながら、艦内で身支度しているであろうルサルカに向かって声を張り上げる。
「ルサルカー、わたし、サンプルをゲートに通してペンデュラムフォトニクスに分析頼んでくるから、先に帰っててちょうだい」
「えー、やだー! あたしも一緒に行くー」
「わがまま言わないの、あそこは
ヒポカムポスからひょこりと現れたルサルカはなんと、凹凸の乏しい白い裸身をドッグの固体照明の下にさらしていたのだ。
「そんなこと言ったって、着なおすの面倒だし、これ、窮屈なんだもーん」
むくれながら、指先でつまんだ光沢の少ないをフィットスーツひらひらさせるルサルカ。低回転数で遠心力の弱い
どこでも脱ぎたがるのはルサルカの悪癖のひとつだった。
「素っ裸の子を連れて行くわけにはいきません。っていうかドックから出せません」
「じゃ、スーツ着れば連れてってくれる?」
ルサルカが、くりくりしたエメラルドグリーンの瞳を爛々と輝かせ、期待のこもった眼差しでわたしを射抜いた。
「ぐ……っ、もう、仕方ないわね……」
ルサルカに甘いのが、わたしの悪癖のひとつだった。
「この辺りでも
ペンデュラムフォトニクスに試料を預け、
そしてルサルカが言及しているのはおそらく、ペンデュラムフォトニクスに設えていた研究者用のアクアルームだろう。一画だけ、海水を薄めた電解質の
「さすがに働くときだけでしょ。住んでないマーメイドも、いなくはないだろうけど」
「陸暮らしなんてちょっとぞっとしないなあ……動きづらくって仕方ないもん」
「給料はいいだろうけどね、この区画」
マーメイドには、レヴィヤタン中のどこを探しても仕事がある。そのように制度が作られているし、それでなくともすべてのレヴィヤタンがマーメイドによってまわされるように設計されているからだ。マーメイドは絶対に食いっぱぐれることなどない。
イオンに満たされた海宙では、音や振動の運動情報だけが頼りだ。進歩した波形解析技術抜きでは、一寸先は闇でしかなく、まとまった資源や燃料も並大抵の労力では得られない。海宙を可及的速やかにモデリングし、生きていく手段を見つけるため、最終的に獲得したのが、ひととイルカを融合したかたち、マーメイドだ。
そして、本来、いさな寄る浦たる海宙の探索を目的に発達したマーメイク技術は、その高度解析能力によって脳の海で外化空間記憶および演算し、これまで分離不可能だった非線形分離問題を解決したり、多層集積ネットワークを構築するのにも一役買っていた。それがドルフィン・ニューラルネットワーク、DANNとレプラコーン・ネットだ。
たとえば先ほどの解析官のように、マーメイドは信号や波形に対する卓越した感応と、電解質に相互な干渉性のある皮膚や臓器をもってして、汽水以外の外部デバイスに頼らず脳の海にダイブできる。アクアルームはマーメイド専用の、エレクトロニックユーザインタフェースと言えた。
意識と感覚でそのまま干渉し、情報操作、入出力できるわけだから、それはひとの脳を結晶化するよりも桁違いに効率がよく、DANNと脳の海を併用したグリッド・コンピューティングは海宙モデルをネットワークとして早々に実用化させた。脳の海の演算処理能力と記憶容量――こちらは現段階では信頼性に欠けるけれど――に制限は無いから、各解析の主軸にもなった。
マーメイドなくして海宙での文化的生活も、この先の発展も望めない。したがって、ひととの保障制度を明確に区別し、マーメイドは貴重な存在なのだとして社会的にも手厚く保護された――そもそもマーメイクに必要な経費が馬鹿にならないので――。蚕食鯨呑の勢いで、人魚たちはその地位を確立させていった。
結果的にレヴィヤタンの内部には、地に足をつけていないと生きていけないひとと宙を泳ぐマーメイドの両者の住み分けができてしまった。ひとが無重力で生涯を過ごすにはまだ日が浅く、そのストレスは計り知れない。逆もまた然りであり、もちろん本物のイルカと違っていくらかの耐性はあるものの、ひとにはない、平面移動をコンセプトにしていない感覚器官や内臓が詰まった水棲生物の胴体に、重力や自重は負荷になる。
マーメイドは新たな形態としては海宙に完全に適合しながらも、共存するには行き過ぎていて、双方が欲するアメニティ性の隔絶は隠しきれなかった。マーメイドが直接マーメイドを生殖するには至っておらず、マーメイドは依然ひとだった。だからあらゆるマーメイドの起源はひとにあれど、マーメイドもまた人類に他ならず、その優劣は歴然でいて、こちら側の社会に歪な構図を生み出した。
劣った原型と、優れた進化の調和は難しく、レヴィヤタンが誰のものなのか、どちらが部外者なのか、文明と社会にどちらの主体性があるのか、わかる者はいなくなっていた。ヒト型である合理性、操作性、感応性が失われた傍らで、目的と用途の重大な齟齬はレヴィヤタンの内部に如実に現れた。
明らかに周囲の景観から浮いていた、閉じた水槽。アクアルームも、そのひとつだ。
ルサルカは通りに営業駐車された
「ヘレンが住みたいなら、あたしはここでもいいよ?」
「わたしは無理よ。引っ越すお金なんてないもの。でもそのうちルサルカが自立して、志望調査書にお金が欲しいです、なんて書けば、処女宮のひとたちはあんたをここに配属するわよ」
「えー、そんなの、やだ! ヘレンといっしょじゃなきゃ、絶対やだ!」
「そんなこと言ったって、いつかは独り立ちしないといけないの」
フリーの
成人すればそうはいかない。保護者など関係ない。ルサルカの、わたしの妹の下には、異動辞令が届く。物心つく前から適正を見初められ、わたしよりも先にマーメイドされるほど優秀なルサルカは、定期能力診断の成績だけを見れば引っ張りだこになるだろう。
マーメイドは社会福祉の鎖に繋がれ、社会保障の檻に封じ込められ、文明の発展に寄与しなければならない。もはやどちらともとれなくなった脳、知性という名のオートマトンに帰属し、誰でもない文化の情報に貢献しなければならない。明確な成果を出さねばならない。周囲の人間は、そういう眼でしかマーメイドを見られない。ひとひとりをマーメイクするのに要する物資とそのひとりに対する福利厚生で、人間十人が生涯消費するエネルギー量に匹敵するからだ。
ルサルカが成人したとき、このままいけば、わたしに何もかも頼りきって生きてきたこの子は、きっと何も出来ない。だからどうにか姉離れさせてようと頑張っているものの、ルサルカのわたしへの依存は加速するばかりだった。甘やかしすぎたわたしにも原因があるのだけれども。
こてんと車椅子の背もたれに頭をもたれさせ、緑の瞳でルサルカがわたしを見上げた。
「あたし、ヘレンとならどこでもいいよ。ずっと、ヘレンについていくから」
「今日ので免許剥奪されて、開発途中の
「いいよ、どこでも。どこにいっても、ヘレンはちゃんとあたしのお世話してくれるでしょ?」
心底わたしのことを信じきった、無垢な笑顔。愛おしく、わたしを魅了してやまない、たったひとりの家族。
「……ばか。わたしがいなくなったら、死んじゃったらどうするのよ」
「ヘレンが死にそうになったら、あたしを食べさせたげる。料理させたげる。ね、知ってる? 昔、人魚の肉を食べると不老不死になるって伝説があったんだって」
「知ってるわ。でもそれ、あちら側で、鯨をえびすさんとか何とか言って神格化してたくせに捕まえて食べちゃってた島国の話だから、とてつもなく信憑性薄いわよ。お寿司もその国が発祥だしね。それに第一、マーメイドを食べたなんて知れたら、スピカだけじゃなくて星団中からお尋ね者にされちゃうじゃない」
ルサルカはくすりと笑って、声をひそませ、
「だから、こっそり食べるの! 誰にも見つからないところで、ふたりっきりで、おねーちゃんが、あたしを食べちゃうの。それってすっごく、すてきじゃない? ロマンティックなことじゃない?」
「――っ! ……ルサルカ、は、ちょっと、ずれすぎ。まったく、どこでそんなこと覚えてきたんだか……」
車椅子を押す手に力を込めた。車輪の回転数とともに速度と慣性が増して、ルサルカがきゃらきゃらと無邪気に笑う。わたしは強く、速くと車椅子を押す。
速く、と。早く、と。
ひどくぞくぞくとしたものを感じたわたしを、気取られないように。はやく。
夕食――結局合成肉のハンバーグを作った――のあと、
「どうしたの、ルサルカ、そんな怖い顔して?」
ルサルカはむっつりと唇を真一文字に結んだまま、コードを引っこ抜いた。PDAから、透明感と力強さが同居したガラスのごとき二極的な、澄んだ脆弱さと傷つかない硬質さを併せ持つ歌声が溢れ、住居用ドームにふりまかれる。
最近流行っているマーメイドの歌手の、特にお気に入りの一曲だった。
わたしは思わずしまったという顔をしてしまったけれど、もう遅い。流れてしまった音は元に戻らない。
「……おねーちゃん。またこの雌狐の歌、聴いてたの――?」
「め、雌狐って……マーメイドなんだけど……っていうか、どこでそんな言葉覚えて――」
「質問に答えてよっ!」
ルサルカが声を荒げる。出た、とびきりわがままなときのルサルカだ。こうなってしまっては面倒くさいことこの上ないので、下手に出ることにする。
「ごめんってば。もう聴かないから、ね?」
「……ほんとに?」
「ほんとほんと」
「約束する?」
「するする」
「じゃ、許したげる」
と言って勝手に音楽データを全消去しはじめるルサルカを、わたしは止めようともしない。購入ログまでは消せないからまたダウンロードすればいいだけだし、このやりとりをした回数も五回目からは数えるのをやめてしまっていた。わたしはたぶんそのうち、性懲りもなく歌姫の歌を聴くだろう。
マーメイドが作る音楽というのは、それはもう筆舌に尽くしがたく直情的でいて複雑精緻、精妙かつ情熱に満ち溢れ、歌い手の感情がひしひしと伝わってきて、とにかく素晴らしく感動的なのだ。音に関してマーメイドの右に出るものはいないのだから洗練されているのは当然で、時たま、これ計算されてるな、と感じる歌がないでもないけれど、美しいものは美しいのだから仕方ない。
ところがルサルカは、わたしが他のマーメイドの歌を聴くこと、心打たれることを極端に嫌っていた。いわく、なんだか負けた気がするのだそうだ。まぁそういう用途の音声麻薬(サウンド・ドラッグ)なるものも出回っているらしいので、言わんとすることは理解できる。
「ヘレン、こっち来てよ」
ルサルカがぽんぽんと自分の隣を叩いた。言葉の中にわずかな怒気の残り火を感じて、おとなしく従う。
いそいそとカプセルベッドの中にもぐりこむと、ルサルカが薄い唇を押しつけてきた。小さな舌と、海の水を中和する甘い唾液がわたしの口腔に侵入する。そのまま矮躯を抱きしめようとしたとき、お腹の辺りでもぞもぞとわたしの寝間着のボタンを外そうとしている小さな手に気がついた。
「ん……ちょっと、何脱がそうとしてるの」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど、でもお風呂入ったばっかりだし――」
「嫌じゃないなら、いーじゃん」
二言は許さじと言わんばかりに、再び唇でふさがれる。ついばむように口付けながら、やむなくわたしも、ルサルカの寝間着を脱がしにかかる。
ふたり分の寝間着とPDAをカプセルの外に追い出してハッチを締めると、足元からゆっくりと注水が始まった。トルクフリーエリアのドームはたいていマーメイド用なので、カプセルベッドにはアクアルーム機能が付属していた。
生温い汽水の水面が太もも、お尻、背中、首筋と競り上がってくる。閉鎖された空間の中、空気がみるみるうちになくなっていくこの瞬間は、いつまで経っても慣れない。気を紛らわすようにぎゅっと抱きつくと、重ねた唇の奥でルサルカがくつくつと笑ったような気がした。
やがて汽水は顔を覆い、カプセルを完全に満たした。全身が汽水に包まれて、世界から音が消える。わたしは息苦しくなってルサルカの唇を吸った。ルサルカの体温を持った酸素が、わたしの肺をいっぱいにする。
マーメイク技術は実際のところ、ヒト・イルカ・デザインをアイデアとして生まれたものではない。事実、マーメイドは海宙そのものに適しているわけではなく、単体で活動できる生命はプランクトン以外、未だに発見できていない。
マーメイドは模索――というより、インシリコにおけるシミュレーションでひとがあちら側で知ったあらゆる生物を組み合わせて、こちら側の海宙という淘汰圧をかけていった結果、今の形態に最適化されたに過ぎない。
設計試験段階においては、それはもう見るに耐えない肉の塊だったそうだ。ゆえにマーメイドの本質は厳密に言えば、ひとでもイルカでさえもない、生命のかたちの集合体、キマイラなのだ。ひとの叡智を繰り返し加圧し、煮詰めていった、その答え。その、限界。
その名残はいくつかあり、代表的なものがイルカの胴にある細いスリットを通じ、汽水から酸素を得られる気孔だ。これは植物と魚から選択された器官と言われていて、唯一海宙による選択圧で残ったものとされている。
ただ、汽水中での何日もの生活を保証できるほどではなく、なぜなら気孔呼吸する場合は脳機能や消化器官の一部が自動的に眠るのだそうだ。この状態はいわゆる
まさにその制御機構こそが汽水であり、ダイブ時には、汽水は思考と肉体制御を司る一個の脳になるのだ。これこそが、マーメイドを脳の海に感覚で接続させているゆえんともなっている。
ちなみに、マーメイドは文字通り汽水と一体化するために、同じ汽水にマーメイドが二人以上ダイブするのは危険だと言われている。汽水中の電気信号と化した意識がバッティングし、境界線があやふやになるかららしい。
「ね、おねーちゃん、あたしのこと、すき?」
わたしに与える息を震わせ、骨伝導でルサルカが尋ねてくる。
「好きよ、ルサルカ」
わたしの発した声はくぐもっていて自分でも到底意味を成しているとは言いがたかったけれど、ルサルカが聞き取れなかったかもしれないと思うのは、マーメイド相手には杞憂だ。
「あたしも、すき」
頭蓋骨の裏側で反響させ、脳に直接ルサルカが思いを伝えてくる。
無条件に嬉しくなって、愛おしくてたまらなくなって、わたしはよりいっそう強くルサルカを抱く。
ルサルカは頻繁に、こうやってわたしとひとつになることを望んだ。感覚が制限され、こころで繋がることを一番実感できる方法だから、らしい。
ふたりきりの世界、ふたりだけにしか共有できない感覚。ルサルカに包まれ、空気のくちづけ、命のくちづけを交わし、邪魔するものも隔てるものも何もなくなるひと時。
しなやかな尾びれがわたしの太ももやお尻をくすぐり、ほっそりした指が肩をなぞってくる。仕返しとばかりに背筋を軽く引っかいてみたり、すべすべした脇腹を撫でてやる。
ぴったりと触れあった、わたしのそれなりに実った胸とルサルカのぺったんこな胸が交互に膨らんでは縮み、呼吸とともに互いが好きだというきもちが行ったり来たりする。
身体が火照ってきて、わたしの意識まで汽水に溶け出しているんじゃないかと錯覚するほど昂ぶりはじめた頃だった。
「おねーちゃん」
「……なぁに?」
「あんなのより、ずっといーもの聴かせたげる」
肺と肺で交換していた空気が振動を帯びる。
歌、だった。
子守唄にも似た、歌詞のないメロディだけの、鼻歌だった。
しんみりしていて、心が優しくほどけていくような旋律が喉を通り、肺胞を膨らませ、骨を震るわせて、脳を揺らす。
「ぁ……」
意識がルサルカの歌だけに縛られはじめる。くたっと力が抜け、身体中の筋繊維の一本一本までもが緩んでいくのがわかった。それはまるでまどろみのようで、わたしを心地よく安らがせ、こころを開かせた。
サウンド・ドラッグ。
聴いたのは初めてだけど、その類だろう。その強力な向精神音声を、肉体の内側から聴かされているのだから、効果は覿面だった。呼吸だけでなくこころすらもルサルカに委ね、わたしはすっかりリラックスさせられていた。
そのまま朦朧としていると、一瞬、ルサルカがくすりと笑ったような気配があり、そして、旋律が急変した。
「く、ふ……っ」
ざわり、とへその下をまさぐられるような感覚。次いで、頭の中をちりちりと焼き焦がし、胸をきゅんきゅんと締め付ける、得も言えぬ切なさ。
その切なさは止まることを知らず、わたしの中できんきん共鳴して増幅し、血肉を揺さぶった。
「んっ……、んんっ……んーっ」
無防備になったこころへ、熱い官能の蜜を流し込まれ、合わさった唇の間から泡がこぼれる。かくかくと下半身がひきつる。重力があれば腰砕けになっていたところだ。
音のかいなで内臓を愛撫されながらも、恥ずかしさともどかしさで頭がどうにかなりそうになっても、わたしには抗うすべも逃げるすべもなかった。ルサルカが与えてくれるこの甘い毒の空気がなければ、わたしは溺れ死んでしまうからだ。
「んっ、んっ、んっ、んんっ」
わたしが自分で慰めようとしたのを先読みしたのか、華奢な腰にまわしていたわたしの腕が離れた瞬間、ルサルカが手首をぎゅっと捕まえてきた。もじもじとすりあわせていた太ももの間にも、尾びれが断ち割ってきて、まったく身動きが取れなくなる。そのまま壁に押し付けられて、無慈悲に甘い調べを教え込まれていく。
「んっ! んっ! んんーっ! んーっ!」
触られてもいないのに、かきむしるほどにめちゃくちゃにしてほしいと、臓器が征服されることを求め、ぐねぐねとうごめくのがわかった。わたしの心臓が早鐘を打っていることは、隙間なく押し当てられた胸からも、喘ぐような息継ぎからも、ルサルカに知られているだろう。
オーダーメイド・サウンド・ドラッグとでも言えようか、わたしのためだけに変調し、調律された響きによって効率的に的確に確実に感情を高められ、理性を真っ白に染め上げられたわたしは、あっさりと登りつめる。
「んぐっ、くっ、っ、っ、――っ!」
ルサルカの身体の下でがくがくとはしたなく痙攣し、思考を濁らせる。そんな状態になっても、ルサルカの歌声は途切れもしない。甘美な音色で容赦なく、達した余韻をより深くより熱くより長引かせてくる。
「ふっ……、んくっ……、んぐっ……、っ……」
音だけで軽く意識を飛ばされ、同時に叩き起こされ、断続的に絶頂を塗り替えられ続けていると、それは訪れた。
「っ!? んぅっ!? ――っ!?」
ルサルカの歌が染み込んで特に反応していた辺り、体内の最深部、下腹部の奥の奥で、ぷつっ、ぷつっ、と次々に何かが生まれてくるのを感じた。
「う……そ……っ、これ……」
ここまで強烈に体感したことはなかったけれど、わたしは本能で悟ってしまっていた。この感覚が意味する現象を。
「だっ、だめっ、だめえっ! たまごっ、でちゃっ、すとっぷ! すとっぷしてえっ!」
ほとんど泣きながらもごもごと哀願する。ごぼごぼとわたしの訴えが、うたかたとなって溢れていく。だけど、ルサルカには絶対に伝わっているはずなのに聞き届けてくれる様子はなく、それどころか、マーメイドの胴から伸びた肉の管をわたしのほころんだ陰部にあてがっていた。
その管は、マーメイドの内臓を性交の刺激から保護するために選択された、男根を挿入して精液を吸引するための外性器だった。普段体内に収まっているそれは、持ち主が過度に興奮すると外部にテレスコーピングされるのだ。
ルサルカは何のためらいもなく外性器をわたしの膣に押し込んだ。かすかに走った痛みは、挿入に伴う膨大な熱量にすぐに押し流されていく。
そして外性器はわたしのもっとも深いところへ到達し、入り口をかぷりと噛んで、ちゅうちゅうと吸いついた。まるで、そう、子袋の中に放出された卵を、飲み干さんばかりに。
「……っ!? だっ、め……よっ、こんな、のっ……たべないっ、でぇっ……」
涙が汽水に溶け、喉から嗚咽が漏れ出しても、ルサルカは唄い、わたしの卵巣に命令を出し、強制的に働かせては差し出させた卵子を貪りつづける。それは、タツノオトシゴの交尾を逆再生しているような光景だったろう。
妹に無理矢理犯され、じゅるじゅると子宮をすすられ、ひとつ、またひとつと卵を食べられるたびに、罪深く悲痛で破滅的なエクスタシーがわたしを押し上げ、涙を流させた。
体内と体外の両方からいじめられ、愛され、大切なものを無遠慮に食べられても、空気のないこの水槽の中ではわたしは無力だった。甘い接吻を受けたまま、人魚のからだに縋りついたまま、ルサルカが満足するまでただひたすら卵を排出する、肉の塊でしかない。
生殺与奪を握られながら泣きじゃくるとともに、倒錯した、あまりにも倒錯した被虐の悦びに酔い痴れ、人魚の歌が終わるまで、ゆっくりと捕食されるしかなかった。
カプセル内が水抜きされ乾燥しきっても、わたしはルサルカの平坦な胸に顔を埋めたまま、すすり泣いていた。汽水でべたつくわたしの頭を撫でながら、ルサルカが困惑した風に謝る。
「ね、ヘレン、ごめんってば。あたしが悪かったから、もう泣き止んでよ」
「……あんた、わたしに何したか、わかってんの?」
「わかってるって。反省もしてるよ」
「……もう、しない?」
「それは約束できないけどさあ……」
「……ばかルカ」
白い指がわたしの目元をぬぐって、エメラルドの瞳がわたしを覗き込んでくる。
「ね、おねーちゃん、あたしのこと、すき?」
「……好きよ」
「あいしてる?」
「……愛してるわ」
「そーしそーあいだよね?」
「そうとも言うわね」
「あたしと、そいとげてくれる?」
「……うん」
穢れのない微笑を前に、わたしはそう返すしかなかった。何の穢れもない、何の束縛もない微笑を、前にしては。
「……えへ。あたし、おねーちゃんのはじめてもらっちゃったんだよね」
「まぁ、そうなるわね……誰かさんのせいで感動も何もなかったけど」
「おねーちゃんも、あたしのはじめて、もらってね?」
「……おっぱいがおっきくなってきたらね」
「ううん、そういうことじゃないの。それも大事だけど、おねーちゃんは、誰よりも先に、あたしを食べなきゃいけないの」
「まだそんなこと言って――」
「あたし、本気だよ。おねーちゃん、ぜったい、あたしを食べてね? だから、食べるために、あたしをお世話してね? 肥えさせてね? おねーちゃんを、食べさせてね? あたしのこと、ひとりにしないでね? あたしと、そいとげてくれるもんね?」
「……」
ルサルカの想いを、無知だと断じることはできなかった。ルサルカの気持ちをわたしが解釈していいはずがなかった。それは傲慢だし、ルサルカを冒涜する行為でしかない。
この子はただ底抜けに、純粋なだけなのだ。おとぎ話の住人のように。
「あたしはおねーちゃんだけが食べていいんだから、おねーちゃんはあたしだけが食べていいんだよ? 結婚しちゃやだよ? おねーちゃんの卵、ぜんぶちょうだい? ほかのひとにあげないで、あたしだけに、ぜんぶ産んで?」
「……、……わかった……、……わかったわよ」
「約束、だからね?」
そしてふっと思い出したように眉を八の字にして、
「でもこれって、よく考えたらあたし、姪か甥を食べてることになるのかなあ?」
「……そういう共食いネタはグロいからやめてってば」
「んふ。でもそれって、すっごく、えっちじゃない?」
くすくすと、さぞおかしそうに笑みをこぼして、わたしの胸に頬を寄せてくる。
ルサルカはそのまま眠りに落ちるまで、わたしの血潮が奏でる鼓動に耳を傾けていた。