結ぶ最小上界スープリマム
ジャック・イン。
体重と体温が体内のエーテルサーキットに溶けて、ほどけていく。血液の流れを感じる。消える。
覚醒内催眠の拡張視野が展開される。
システムメッセージ――エーテル波形認証が完了しました。
記号と数字が網膜の裏側を舐める。過ぎ去る。曼荼羅の流束にいざなわれて、虚空に落下する。
システムメッセージ――あなたは現在、サイコマトリックスにジャック・インしています。
事務所のプライベートドメインに接続する。色のない無限広さを持つ開空間に降り立つ。番組案内アナウンスが視界を埋め尽くす。消す。管理者権限でパラメータ入力手続きを呼び出す。クリップボードとペンが現れる。環境コンテキストにチェックを入れる。数値を書き込む。
足元から液体が湧き出る。みるみるうちに空間を満たす。尻尾が濡れる。毛が水を吸う。喉元までせりあがってくる。水圧は、やや高め。浮力はなし。粘度最低。べたつかないように。
感覚受容体集合の定義境界線に関数を付け足す。境界の内側で、液相を気相にする。受容体集合が液体に完全に被覆される。
底面を消す。ゆっくりと沈む。目標を設定する――五マイル直下。評価機雷を読み込む。水中にいくつもの空隙が生まれる。精臓をまわす。瞬時にマッピングする。エーテルが視界を記憶する。視覚情報をオフにする。
システムアラート――エーテル濃度の異常増加を検出しました。ただちにエーテルサーキットの起動状態を確認してください。
流束が発生する。流束は渦になり、潮流となり、文字と数字で形成された肉体を巻き込み、上下左右の疑似感覚を失わせる。
エーテルに導かれるがままに、潜行する。暗黒のなかで流束に乗る。流束に逆らう。身体をひねって、評価機雷を避ける。潜り続ける。四マイル。三マイル。二マイル。一マイル。
目標が近づく。触れる――鼓膜の裏側で呼び出し音が鳴る。
インスタントコール――「チリヅカさん、お夕飯ですよー」
「また言語増税だ」あたしの目の前でWFデイリーニューズの夕刊を読みながらふんぞり返っていた茶毛の仔狐がぼやいた。「しかも課税対象単語まで増えた。連邦政府はいったい何を考えてるんだ」
「……あのさ、先生、ご飯食べてるときに新聞読んでると、またマリーに怒られちゃいますよ?」いさめるのもそこそこに、あたしはチーズマカロニをほおばる。
「あいつら、そのうちただの大気の振動にも税金をかけはじめるぞ」青い虹彩の仔狐――ミーナ・フー・シエナ先生は、あたしの忠告を無視して続けた。「名乗るたびに金をまきあげられる時代もそう遠くはないな。親が低所得層ってだけで、名無しの連中も増えるはずだ」
あたしはやるせなさを感じながら、先生の愚痴に乗ってやる。「べつに、いーんじゃないんですか? ファーストネームありは中流、ミドルネームありは上流って感じで、わかりやすくって」
先生は鼻で笑った。「なら、おまえは中流だな。カサネ・チリヅカ」
肩をすくめるあたし。「あたしの国じゃ、君主にはミドルネームはおろか、ラストネームもないんですけどね……」
椅子をがたがた揺らす先生。「その君主こそ、税金で飯食ってる連中の筆頭じゃないか。なのに自分は脱税か? ちょーっと血が青いからって調子にのりやがって――」
まーたはじまった。あたしはげんなりして、先生の話を右から左にしながらコールスローをつつく。
黙っていればとてつもなくかわいいのに、二言目には延々と政府や企業やあたしの悪口を並べ立てるのは、先生の数多い欠点のひとつだ。ニューヴィルゴ大学の名誉教授をやってるとはいえ、その齢はあたしよりみっつ下の七歳。普通ならミドルスクールの年頃だ。思春期というか、反抗期というか、一番気難しい時期なんだと思う。
あたしだって七歳のときは、よく家出したもんだ。村といっても差し支えないような小さな港町だったから、二時間後には波止場で見つかってたんだけど。
「朝一番にコンテキスト協会にクレームを入れに行ってやる。マリー! 明日は早起きして弁当を作ってくれ! アンチョビはやめてくれ! ピクルスも抜きでな!」
「あらあら、なんですかー、せんせ? ピクニックにでも行くんですか?」先生の大声を受けて、台所からおっとりした声が応えた。「ちょっと待っててくださいねー、スープももうすぐできますから」
途端に先生は夕刊を放り出し、器用にコールスローのニンジンだけをマリーの皿に移しはじめた。
「先生、あんま好き嫌いばっかりしてると、おっきくなれませんよ」
先生はしかめっ面をした。「ピクルスもニンジンも悪魔の食べ物だ。魚とおなじようにな」
「ニンジンが悪魔ってはじめて聞いたんですけど……それに、おいしいじゃないですか、魚。あたしは好きですよ」
昔からよく、海には悪魔が住むと言われるせいか、魚や貝を忌み嫌うひとは多い。でもあたしの実家のような漁村では、海水のせいで農耕もままならない上にまともな樹も生えてないので、お肉なんかはめったにお目にかかれたもんじゃない。うちは漁師の家だったし、あたし自身毎日海に潜っては貝や蛸を捕っていたので、三度の食事が海産物三昧なのは、ふつうのことだった。
テーブルに肘を突いてチーズマカロニを口に運ぶ先生。「そんなだからサイマトを悪魔に乗っ取られるんだ。そして我が事務所も、ただ働きさせられたあげく、とんでもない穀潰しを引き取るはめになった」
悪魔祓い業務という点で、あたしは連邦では右に出るものがいないくらいでくのぼうっぷりを発揮してみせ、先生にはこの三ヶ月でずいぶん――人格的にも――嫌われていた。小言を食らうのはもう慣れっこだったので、適当に流す。「はいはい、悪うござんしたね、能無しの穀潰しで」
あたしの故郷である和国のミサキに敷かれたサイマトが悪魔コンテキストに汚染されたのは、あたしが十歳の成人を迎えた日のことだった。
そのときの悪魔はサイマト内での視覚情報を破壊し、幻覚を見せる類のものだった。エーテルネットワークはパイプラインごと一時閉鎖され、エーテルフォンも冷蔵庫も照明も使えない状況で、辺鄙な田舎にまともなエーテルニクス技術者や臨床精神技師がいるわけもなく、ミサキは大混乱に陥った。
そんななか、高速船で霊魂通信工学会に出席するべくミサキに立ち寄ったのが、先生と、あたしと同い年にして先生の助手をやっているマリーだった。先生たちは汚染されたサイマトに潜るや、あっさりと悪魔を退治してくれた。ミサキには平穏が戻った――かのように思えたけれど、先生は退治料として二十万ドルを請求してきたのだった。当然ミサキにそんな大金を払えるわけがなく、揉めに揉めて紆余曲折を経たあと、あたしが先生の事務所で働いて返す、というところに落ち着いた。
よーするにあたしは売られたわけだけど、まァおかげで辛気くさい小さな町から都会に出てこられたし、何よりマリーのおいしいご飯を毎日ごちそうになってるのであたしとしては文句はない。先生にとっては、潜水ぐらいしか取り柄のない――おまけに先生が苦手とするらしい年代の――狸の小娘が二十万ドルって、かなーり高い買い物だっただろうけど。
「お待たせしましたー」台所からトレイを持った白鳩――マリーが出てきた。事務所のダイニングに温かい香りが広がる。「ガレージで携帯ストーブが埃をかぶっていてくれて、本当に助かりました」
器を受け取って、あたしはたずねた。「結局、どうしてコンロが使えなくなったの?」
マリーがエプロンを外しながら答えた。「ミスリルが腐食したか、劣化したせいだと思います。もう十年も前のお古さんらしいですからね」
「先生の浪費癖が珍しく役に立ったね」
先生はオニオンスープにパンを浸しながら膨れた。「ストーブは無駄な買い物じゃない。去年キャンプでちゃんと使った」
マリーはくすくす笑った。「虫が多いからとか言って、テントも張らずにコーヒー一杯飲んで帰りましたけどね」
あたしは呆れかえった。「それなら最初からサイマト使えばよかったんじゃ――」
「自然を感じたかったんだ、自然を。イメージでつくりだしたものじゃなくてな」
「あのとき、学生の間でアウトドア――今はアウトエーテルって言い方をするんでしたか――が流行ってましたからね。感化されやすいんですよ、せんせは」
と、そのとき、事務所の戸が叩かれた。それも、かなり激しく、切羽詰まった感じで。
先生が舌打ちした。「いったいどこの酔っ払いが家を間違えてるんだ」
マリーは眉をひそめた。「こらッ、せんせ、お行儀悪いですよ!」
先生に目配せされ、あたしは席を立って玄関に向かった。ガラスの向こう側に立っていたのは、酔っ払いではなく――女の子だ。羊の、女の子。八、九歳ぐらいのみるからに学生風の子で、ひどく取り乱しているように見える。
「あの、なにか?」
「こッ、こちらはシエナ教授の、サイマトコンサルタント事務所ですか?」
「はい、そうですが――」
「たッ、助けてください!」女の子は涙をぼろぼろ溢れさせながら訴えた。「妹が、おばけに憑かれちゃったんです!」
マリーに翼で背をさすられながら、羊の依頼人マーガレット・リア・フィッシュ・ハイズビルは、つっかえつっかえ説明してくれた。「ケイト――妹は、高校のクラスメイトから、その幽霊屋敷コンテキストをもらったみたいで……きッ、肝試しをしよう、って、わたしも誘われたん、ですけど、わたしは、とめたんです……出所もはっきりしないものだったので、危ないから、やめようって。でもケイトは、わたしの言うことを聞いてくれなくて」マーガレットは、応接間のかけ時計に目をやった。「三時間ぐらい前でしょうか、ひとりで潜っちゃって、それで――目を覚まさなくなっちゃったんです。何度呼びかけてもレスポンスもないし、意識レベルも低いままで……わたし、怖くなって、大学の友達に相談したんです。友達は先生の講義を取っているらしくって、それで、先生の事務所のことを教えてくれたんです」
先生はやれやれと言わんばかりに首を振った。「うちは教会じゃないんだ、悪霊退治は神父の領域だ。まァ、教会に駆け込んだとしても、一セントの得にもならん長ったらしい説教をされるだけで、何も解決しないだろうが。あんたの妹がクラスメイトからもらったものは、十中八九――催眠内催眠誘導型悪魔コンテキストの一種だ」
鉛筆を舐め、メモを取るあたし。「どうしてそう言い切れるんですか?」
「悪霊がコンテキストに憑りつくなんてありえない」ぺちゃんこの胸を反らして、先生は断言した。「その幽霊屋敷コンテキストとかいう違法言語の噂は、あたしも大学で耳にしたことがある。もともとは何の変哲もないモデルハウスコンテキストだったが、ジャック・イン中に押し込み強盗に殺された和国のブルーブラッドの女が取り憑いた……だったか? ばかばかしい」
「なんで?」あたしはマリーが淹れてくれたコーヒーをかきまぜつつ、首をひねった。
「霊魂通信工学なんてややこしい名前をつけられているから誤解されやすいが、サイマトは結局、ユーザーの脳を並列接続して形成された意識の行列空間だ。意識というのは、脳が精臓を制御する際に発生するEPSI――エーテル波の振る舞いにすぎない。死んだ時点で、そいつのサイマトは停止する。サイマトの基本原理から言えば、脳や意識はあくまで受容する立場だ。パイプラインのなかをやりとりしているのは高伝導エーテル波のゆらぎ、それのみだ。魂やそれに準ずるものがサイマトのなかに侵入しているわけじゃない。本質的に、サイマトと魂は無関係だ」先生はコーヒーを一口飲んで、「それに――悪霊なんてのものも、存在しない。どんな死に方をしようが、弔われた魂は、どれだけ怨恨や未練があったとしても、物理的に、この世のどこにも留まっちゃいられない。棺に納められて焼かれたなら、魂は大気に溶けて焔天に引きずられる。太陽の質量は計り知れないほどおおきい。魂ごときがその重力から逃れられるはずがない。そもそも、だ。こいつの妹がその違法言語を使ったのは真っ昼間なんだろ。太陽は進化論者だけの心臓であり、神だ。太陽が昇ってるときに死者が出てくるなんておかしな話じゃないか」
「はァ……」
なんだかよくわからないけど、先生に言わせれば、悪霊なんてものはいないそうだ。
先生はソファに深く腰かけた。「どうしてうちに来たんだ。もっとまっとうな精神技師なり言語業者を呼べばよかっただろ。第一、あんたの親は何してるんだ」
マーガレットはうつむいた。「父や母は忙しくって、しばらく家に帰ってこないって、連絡があったんです……その、増税の件で、てんやわんやしてるらしくって」
マリーが怪訝そうにたずねた。「失礼ですが、ハイズビルさんのご両親のご職業は?」
「ふたりとも、オラクル社のチーフエンジニアです」
なるほど、とあたしはひとり得心した。マーガレットの居住まいや服装からして、上流階級なんじゃないかと思っていたのだ。名前も長いし、ね。
苦い顔をするマリー。「それなら、うちに来て正解でしたね。天下の定理開発企業であるオラクル社の者が、子供だましの悪魔コンテキストとはいえ、違法言語を使っただなんて明るみになってしまったら、企業イメージはがた落ち、てんやわんやじゃすまなかったでしょうから」
「はい、わたしも、怪しいとは思ってたんです……」マーガレットは唇を噛んだ。きっと、本気で妹さんを止めなかったことを悔やんでいるんだろう。
先生は足を組み、ローファーをぷらぷらさせた。「ま、助けてやらんでもない。だがうちは高いぞ。時間外だし、口止め料も上乗せしてもらわないとな。しめて一万ドルってとこか」学生に払えるわけがないとでも言いたげな、意地の悪そうな笑み。
「そ、そんな大金――」マーガレットは青ざめている。
マリーもすっかり閉口していた。あたしは嘆息した。「先生、依頼受ける気、これっぽっちもないですね」
「じゃァ、カサネが受ければいいだろ。金をもってこない限り、あたしはやらない」
たぶん――先生がマーガレットの話を聞く気になったのは、単純に悪魔がらみだろうということで、興味があったからだ。最初から事例を聞くだけ聞いて、マーガレットは追い返すつもりだったのだ。
先生はニンジンと魚のほかに、大学生、特に女子大生という生き物が大嫌いだった。大学で教鞭をとっているくせに、だ。理由は以前にソロリティのパーティで何やら揉めたせいらしいんだけど、詳しくは知らない。でもそのおかげで、マリー以外のあたしぐらいの女の子は、みんな嫌われているというわけだ。
「あッ、あのッ」マーガレットが上着を漁る。「これじゃ、だめでしょうか」
ポケットから出てきたマーガレットの手に握られていたのは、ブローチだった。ただし、ただのブローチではない。台座に特大のエメラルドが乗ったブローチだ。
あたしは唖然とした。「……これ――、本物?」なんと言っていいかわからなくて、とりあえず確認してみる。
「はい、誕生日に、父に贈られたものです」
マリーは苦笑した。「さすがはオラクル、ですね……十五で屋敷が建ち、二十で墓が建つ、って言いますし……でも、よろしいんですか、ハイズビルさん? 大切なものでしょうに」
マーガレットはコーヒーテーブルにブローチを置いた。「友達に聞いたときから、覚悟はしていました。ケイトを助けていただけるなら、かまいません」ブローチはエーテル灯の光を、ウン万ドルの緑の輝きに変換している。
「あのさ、マーガレット。あたし、宝石の価値なんてわかんないけど」あたしはおずおずと切り出すも、「これ、一万ドルどころじゃないんじゃ――」
「受けよう!」だしぬけに、先生があたしを遮って立ち上がった。「一刻もはやく妹さんを救い出してやろうじゃないか、我々の手で!」
十秒前まで気だるげだった先生の顔は今や活力にあふれ、完全にふんだくり屋のそれだった。青い虹彩にはドルマークが浮かんでいて、そうでなければエメラルドの輝きにくらんでいた。
あたしとマリーは顔を見合わせて、おおきくため息を吐きだした。
サイマト――サイコマトリックスは、二十六年の大陸エーテルインフラの完成とエーテル波形認証法、EPSICLの可決によって二十九年に開発された、エーテルネットワークを媒介にした精脳行列空間とも呼ばれる仮想空間……まァ、眠っているときに見る夢のようなものだ――模倣子の地図だとかいう別称もあるらしいけど、模倣子がなんなのか、あたしはよくわかっていない――。
サイマトが夢と大きく異なっている点、それは、本人がサイマトのなかで自由に動けること――こういうの、明晰夢っていうんだっけ?――と、他人とサイマトでの体験を共有できることだ。
サイマトを使えば遠く離れていても複数の相手と会えるし、物理パラメータをいじれば現実とはかけ離れた世界を作って自由に遊ぶこともできる――むしろ現実にきわめて近い物理定数コンテキストを使いたいと思っても、オラクル社が特許を取ってるので高くつく――。あるいは、市販のサーガコンテキストであたかもファンタジー小説のなかのような剣と魔法の世界を友達と冒険したりもできるし、企業なら時間とコスト削減のためにサイマトのなかで製品の研究開発をおこなう。
サイマトのなかではリソースの概念もないし、思考そのものでやりとりするから時間の流れがすごくゆったりしている。言語も低恣意化されるので、肉体と精神の概日リズム差――これに関しては公正労働基準法で厳密に定められているにも関わらず労組と企業の間でよく争点となるそうだ――さえ気にならなければ、サイマトは情報伝達や娯楽、学習、そして設計開発のツールとしては最適だ。
欠点があるとすれば、サイマトのなかには精素成型金属――ミスリルが存在しないこと。ミスリルは、エーテルを通す性質を持っている。サイマトはエーテルのなかで再現されている行列空間なので、ミスリルそのものを読み込むことができない。エーテルは思考、すなわち魂をやりとりするので、精素工学ではこのことを、魂に対して透過性があるとかいうらしい。
それと同様に、サイマトはいわば脳と意識のなかの世界なので、搭載してるコンバット・エーテルサーキットなどの肉体補償回路の機能は使えない。厳密にいえば、回路を起動させても現実の身体能力が強化されるだけで、サイマトにいる意識だけの自分にはまったく効果がない。
といっても、これらの欠点はもちろん、マイノリティなひとたちにとってだけ、だけど。サイマトは言わば制御下におかれたカルテジアン劇場で、そのスクリーンには好きなものをなんだって映し出せる。ミスリルやエーテルサーキットが想定どおりの挙動をしなくて困るのは、その開発職に携わってるひとたちぐらいなものだ。
ただ、サイマトと精素回路は互いにまったく影響を及ぼさないとは限らない――それが、コンテキストウィルスだとか霊魂学的ゾンビだとかいう別称も持つ、悪魔コンテキストだった。
サイマトはイメージとコンテキストで自由に設計できる万能な空間ではあるんだけど、ほんとに何でもありってわけじゃない。倫理からおおきく外れた行為、創造などはサイマト法で禁じられていて、そういう恣意性の高いことをいざ実行しようと思っても、サイマトの中枢システム側の正規通過フィルタで思考マスキングされてしまう。サイマトから持ち帰ることが許されるのは、道徳的な記憶と記録。それが原則なのだ。
ところが悪魔コンテキストが破るのは、そのサイマト中枢のフィルタ。破る、って言い方はもっともらしくないかもしれない。乗っ取る――これも違う。犯す。肉体を犯す、細菌みたいに。悪魔コンテキストは、細菌のサイマト版だ。言語業者は、本を食う虫にたとえてバグって呼ぶらしい。
悪魔にしたってバグにしたって、あたしはいまひとつピンとこないネーミングだと思う。だってサイマトは夢みたいなもんなんだから、悪夢じゃないの? って。まァ、たぶん、エーテルニクス技術者や言語業者、連邦の役人の立場としては他動的にしたかったんだなあ、とは推測できるけど。
さてさて、問題の悪魔コンテキスト――バグ?――は、普通のコンテキストソフトとおなじように扱える。サイマト空間の環境を書き換えられ、記録できる。そして、サイマトのシステムに対して支配的に機能する。おかげで、プライベートドメインに侵入され、サイマトに保存していた企業情報を盗まれたり破壊されたりなどの被害も絶えない。
また、悪魔コンテキストはフィルタにも作用する。仮想と現実の境界を曖昧にする。サイマトは思考が体験した思考の中身だけをやり取りするものだけど、悪魔コンテキストを応用すれば思考そのもの、脳の制御を可能にする。それによって何が成せるかと言えば、そう、エーテルサーキットだ。
悪魔コンテキストはエーテルサーキットを感覚的ではなく、解析的に制御するのだ。エーテルサーキットを悪用されないために設定されたリミッターも外せる。それ用に出回っている回路設計図と合わせて、本来の規格を超えた改造、変質もできる。悪魔は、現実世界でも着実に猛威を振るっていた。
ほかにも、サイマトは精神疾患や神経障害の外科的治療に一役買っている反面、悪魔コンテキストがそれらの病理となったという報告もある。
そして、悪魔コンテキストの厄介なところは、必ずしも誰かの悪意の制御下にあるとは限らないことだ。あたしの故郷ミサキがそうだったみたいに、悪魔はサイマト内に何の前触れもなく、場所を選ばず出現する。脅威と混乱を振りまく。その手の連中からすれば悪魔コンテキストの制御は容易らしいんだけど、すべての悪魔が、というか大半の悪魔が、人為的に活動していないのだ。悪魔はいうなれば、サイマトの天災のようなものだ。
悪魔の正体は諸説ある。偶発的に発生した意味を成さない文字の羅列だとか、慣習によって壊れた言葉だとか、言語学的デトリタスだとか、サイマト接続中に命を落とした死者の念だとか、殺菌しきれなかったエーテル内の細菌、ほかには、太古の呪文なんてのもある。一番有力なのは、水棲生物独自の言語。
サイマトの中枢システムには、三次元空間把握に長け、非常に知能の高いイルカやクジラの脳を用いている。だから、未だ解明しきれていない、もしくは海中で発達過程にあった言語のせいで不具合が生じている、という説だ――聖職者なら、海には悪魔が住んでいて、海で生きるイルカは悪魔の言葉を使えるから、とかなんとかのたまうんだろうけど――。
なんにせよ、悪魔の根源、発生の原因はよくわかっていない。スマートエーテルネットワーク省――SENDやコンテキスト協会は根絶しよう、防止しようと躍起になっているけれど、今のところ、その働きに効果はまるでない。まァ、おかげで、あたしたちのような悪魔祓いだの祓魔師だのと呼ばれるサイマト専門のコンサルタント――あたしはまだ助手見習いだけど――が食っていけてるんだろうけどね。
マーガレットには、ハイズビル家のドメインアドレスだけ教えてもらって、ひとまず家に帰っていただいた。妹の側について、仕事がうまくいったかどうか確認してから、後日報酬のブローチを頂戴する手はずだ。
きっちり事務所の戸締りをしてから――ジャック・イン中は眠っているのとおなじように無防備なので、防犯は抜かりないよう注意しなければならない――自室に戻って、エーテルでシーツを汚してしまわないようタオルを敷いてから、ベッドに横たわる。エーテルデバイスグローブをはめる。サイマト端末の差込口にミスリル片の記憶媒体を挿入する。枕元のケーブルを引っ張り出して、首筋のエーテルサーキットに繋ぐ。プラグのミスリル部分にエーテルを通す。
ジャック・イン。おなじみの落ちていく感覚。
システムメッセージ――エーテル波形認証が完了しました。
システムメッセージ――あなたは現在、サイコマトリックスにジャック・インしています。
番組案内をキルして、ハイズビル家のプライベートドメインに接続。
視覚情報が展開する。薄闇。湿り気と冷気の強制入力。郊外の森のなかのようなセットコンテキスト。
背景にはご丁寧にも何種類ものレイヤーが施されていて、短いセンテンスなりに奥行きが出るよう工夫されてるみたいだった。
そして目の前には、古ぼけた屋敷。敷地内は雑草が伸び放題で窓ガラスは割れ、壁には蔦が這い、赤錆びた廃エーテル缶が転がっている、もうなんか、いかにも出ますって感じの廃墟だ。
「ずいぶん凝ったセットですね」隣にジャック・インしてきたマリーが言った。「こういう違法のアマチュアコンテキストって、手抜きが多い傾向にあるはずなんですけど……いわゆる職人さんなんでしょうか」マリーのおっとりした育ちの良いアクセントが、音声的感覚で伝達される。
「いや、流行りの文法とはかけ離れているし、昔からある市販のホラーコンテキストから、セキュリティを破ってそのまま盗用したんだろ。海賊版ってやつだ」先生はNaCl弾――非弁別漸近制御則弾、通称岩塩弾をショットガンの薬室に送り込み、「それにしても――その、やけに暗いな。視覚補助も制限されてるし……」やにわにそわそわしだした。
「そりゃ、暗くないと怖くないですからね。そういうもんですよ」あたしは各種コンテキストを外部ミスリル・メモリから読み込んで写し、悪魔祓いの準備に取りかかる。
先生の言うとおりホラーコンテキストの海賊版なら、たぶん、そういう怖がらせるようなからくりがふんだんに用意されてることだろう。いや、それどころかもっと悪質な仕掛けに改造されていてもおかしくない。ケイトはきっと、そんな罠にかかって、たいそう怖い思いをしているはずだ。危険は承知だったけど、だからこそ可及的速やかにケイトを見つけ出し、助けてあげなくちゃならない。
「じゃァ、お仕事はじめますか――って、先生?」
どうしたことか、屋敷に立ち入ろうとしたあたしとマリーの後方で、先生は屋敷を睨みつけたまま立ち止まっていた。
「せんせ、どうかしましたか、そんな難しい顔をして?」
「あー……、マリー、視覚記憶の書き出しをしておいてくれ」
「いつも通り、記録していますよ?」マリーは小首をかしげた。
「……そういえば、新しく買った対催眠代名詞のスペルチェックをしていなかった気がするな」
「一昨日、わたしとチリヅカさんでやっておきましたよ? せんせがそうしろとおっしゃったじゃありませんか」
「……事務所のエーテルの元栓を閉めてなかったような」
「コンロが壊れたので使ってません。もう、どうなさったんですか、急に。せんせ、いつもそんなこと気になさらないでしょうに」
先生はせわしなく尾を振った。「うう……か、考えたんだが、やはりこの仕事、なんか嫌な予感がするし、やめておいたほうが――」
「今更何言ってるんだか……あ、先生、もしかして怖いの?」あたしはにやつきそうになるのをこらえながら訊く。
「そッ、そんなわけないだろ!」
ずかずか踏み込んでいった先生に続いて、屋敷のなかに入る。エントランスはずいぶんと広く、右手にはカウンターがあり、奥には食堂が見える。反対側はラウンジになっていて、バーが設えられている。ドアマンや清掃員風情の、凍結された人形型NEGS――非意識案内センテンスもいる。
どうやら噂のコンテキストはモデルハウスではなく、ホテルのようだった。でも、ホテル? サイマトのなかで? そんな話聞いたこともない。
つまるところ、このコンテキストは呪われていたのではなく、初めからホラーコンテキストとして設計されたのだろうと推察される。
マリーはエントランスホールの天井を見やりながら、「悪魔は……三階にいるみたいですね」そう断じた。
サイマトは脳のなかで、エーテル波と言語、自我によって構築される空間だ。全身に張り巡らされ、肉体機能を補償する目的のエーテルサーキットをジャック・イン中に起動させても、その効果はサイマト内の意識、感覚受容体に適用されない――ただし、それは三十年代前半の常識だった。
ディテクター・エーテルサーキット。マリーがその身に搭載しているのは、心療外科治療をコンセプトに開発されたサイマト端末専用の回路だ。患者とサイマトで繋がり、神経の応答異常を発見するためのディテクター・エーテルサーキットは、ほかのエーテルサーキットと比較して制御が困難で消耗が激しいものの、こうして悪魔コンテキストの検出にも役立っている。
マリーに先導してもらって、ホテルのなかを進む。
ほんとうに悪魔コンテキストなら、悪質な罠があっても不思議じゃない。保険の利かない悪魔コンテキストでは、より一層の注意が必要だ。サイマトのなかで怪我をしすぎると深刻な精神疾患や人格障害を患う危険性もある。
だからあたしたちは周囲を警戒していた――道中、遠くから叫び声のようなものが響いてきたり、一ダースからの人形型NEGSが揺れたり、あるいは壁に掛けられた絵が動いたりして、最初はあたしも慄然とさせられていた。でも、よくよく観察してみれば、それらが侵入者に害を及ぼすどころか、驚かせる類の仕掛けですらないことに気づくのは簡単だった。
たしかにホテル自体はおどろおどろしい雰囲気を醸し出してはいるものの、この内装って明らかにあれなんじゃないかなァ――なんて思っていると、マリーが耳打ちしてきた。「チリヅカさん、あの、これって」
マリーが指をさして示したのは、動く呪われた絵――ではなく、雄猫と雌犬が裸体を絡ませあっているポルノ動画だ。
「だよね……先生は気づいてない、っていうか、びびりまくってるけど」いつの間にかマリーの影にぴったり張り付いてうつむき、物音がするその都度びくびく震えている先生を横目に、あたしは肯定する。
「そっちには疎いですから……まだ七歳ですし」お香の甘ったるい匂いがするからだろう、すんすんと鼻を鳴らすマリー。
要するに、このコンテキストは――アダルトコミュニケーションセットだったのだ。違法には違法かもしれないけど、それは公序良俗的にちょっとまずいってレベルなだけで、けして危険な代物ではない。ケイトは案外、おとなな遊びに夢中になってるだけなんじゃ……、という気がして、あたしの緊張はすっかり緩んでしまった。
階段を上りつつ、マリーのベルトをがっちり掴んで離さない先生の狭くて無防備な背中を見ていると、不意に、今まで先生に対して抱いたことのない感情がむくむくと鎌首をもたげていた。そして驚くべきことに、踊り場にさしかかったところで、あたしの腕はその感情をあたし自身が自覚する前に実行に移してしまっていた。つまり――あたしは、恐怖からか先生の足の間に巻き込まれた、小さな尻尾の根元をぎゅっと握りしめていたのだ。
「んぎゃああ!?」先生があんまりかわいくない声を上げ、一フィートほど飛び上がった。「な、なななな、なに!?」先生の毛は逆立ち、ほとんど半泣きになっていた。
「あー、いや、すみません、なんでもないです……」
「ふッ、ふざけてる場合じゃない! 間違って撃ってたかもしれないんだぞ! こ、これだからッ、おまえみたいなやつは嫌いなんだ!」いつものようにがみがみと怒る先生。
だけど、青い虹彩に涙を溜め、苦笑しているマリーから踊り場に取り落としたショットガンを受け取っている様はなんというか、こころ苦しさしか感じない。
普段は偉ぶってるあたしの雇い主も、思えばまだあたしより三つ下の、七歳の仔狐だ。おとなげないことをしてしまった罪悪感とはじめて見た――というよりあたしが泣かせちゃった――先生の涙に、いたたまれなさが募る。
マリーが小さく咳払いして、「せんせ、そんなに苦手なものが多いなら、予防接種でも受けたらどうですか? わたしの実家から抗ストレッサーのワクチン一式取り寄せますよ?」
先生は目をごしごしこすった。「……注射は嫌いだ。ワクチンのせいでカサネに好感を持つのもお断りだ。第一、あたしは怖がってなんか――」
先生は最後まで喋ることができなかった。轟音と共に、あたしたちが立っていられないほどホテルが大きく身震いしたからだ。天井がめきめきと軋み、埃を落とす。
マリーはライフルを構えた。「気づかれちゃったみたいですね」
「おまえのせいだぞ」先生がきっとあたしを睨みつけた。
あたしも黙って拳銃を抜く。悪魔に察知されたのはあたしのせいでも、先生が大声を出したせいでもない。先生がショットガンを落とし、幽霊屋敷コンテキストのオブジェクトアラームに引っかかったからだ。あたしたちが呼び出したオブジェクトまでは、隠喩――ダミーセンテンスを用意できない。
天井が裂け、狙い定めた銃口の先に白い物体が落ちてくる。同時に行った一斉射撃は、しかし物体表面から噴き出した炎のような赤い粒子に阻まれる。
「な、なにこいつ!?」あたしは無意識に後ずさる。
赤い粒子が晴れ、あたしたちの前に現れたのは――羊の裸体。ただしそいつは、羽毛のない皮だけのような黒翼を備え、股の間から二股の蛇を生やした羊だった。その顔は、目が血走り歯をむき出し血管を浮かせた尋常じゃない形相だったとしても、少女のものだと判別できる。
マリーは銃口を逸らさず言った。「妹さん、でしょうか?」
「波形解析されたか」先生がうなる。「サイマト端末側から意識をキャッチできないわけだ。しかし子供だましの悪戯に、こんな古典的かつ足がつけば問答無用で無期懲役を科されるようなコンテキストを使うなんてな」
悪魔に乗っ取られたケイトが咆哮し、ホテル全体がびりびり震える。全身から赤い粒子を輻射する。赤い粒子に触れたセットが、次々に分解され、消滅していく。
「下に降りろ!」先生が叫ぶ。
あたしたちが肝を冷やしながらケイトから距離を取ろうとするが早いか、ケイトは翼をはばたかせた。粒子が大気中に拡散し、弾けて、目に見えない何かを破壊していく。
階段の中頃から飛び降りて逃げようとしたあたしは、悪魔の攻撃を受けたわけでも、階段を踏み外したわけでもなく、空中に投げ出された。ふわふわと宙をさまよいながら、手足をばたつかせる。
「ちょッ、なにこれ!?」
あたしは、どれだけ努力しても床にたどり着けなかった――まるで重力が消え失せてしまったみたいに。
「つかまってください!」マリーがあたしの目の前にライフルを突き出した。
ライフルの銃身を握る。引っ張られる。一瞬前まであたしがいた空間を、赤い粒子が通過する。ホテルの壁が消し飛ぶ。なんとか着地して、うっかり床を蹴ってしまわないよう注意しつつ手すり伝いに吹き抜けから一階に降りる。先生が書き出し、走らせたデコイとは反対方向――ラウンジに逃げ込んで、三人して呼吸を整えた。
「せ、先生、あれ、なんなの? あんなのあり?」鼻先に漂流してきたカウチを押しやって、柱に背を預けた。
どれだけ膨大な運動量データを出力できるオブジェクトでも、セットを破壊することはコンテキストの管理者にしかできない。ましてや、重力などの基本環境を捻じ曲げられるはずがない。すなわち。
「あの炎みたいな赤い粒子そのものが悪魔みたいだな。ケイトの意識を使って生成センテンスを紡がせ続けているんだろう――くそッ、厄介な悪魔め」悪態をつく先生。
「こらッ、せんせ、汚い言葉使っちゃダメですよ!」
「マリー、そんなこと言ってる場合じゃないって。先生、あれ倒せるんですか?」
「知らん。だが、ケイトの感覚受容体の処理をオーバーフローさせて、強制ジャック・アウトさせるしか方法がない」
「え、岩塩弾ってひとに撃っちゃやばいんじゃないの? PTSDとかにならない?」
「めちゃくちゃ痛いが死ぬことはない。後遺症もないはずだ……たぶん」
「今たぶんって言いました?」
「言ってない。たぶん」
「待ってください」マリーが先生とあたしの間に割って入った。「悪魔の反応は、三階からずっと動いてないみたいです」
「それだ。そいつが波形解析して、種を植え付けた本体だ。そいつを叩かなきゃ、この悪魔は倒しきれない」
先生は立ち上がった。「あたしが囮になってケイトを引き付けておくから、マリーはありったけの岩塩弾を叩き込んでケイトを強制ジャック・アウトさせろ。カサネは三階の本体を仕留めてこい」
ぎょっとして訊きかえす。「あ、あたしひとりで?」
「なに寝ぼけたことを言ってるんだ。悪魔には悪魔を、だ――こういう時こそ、カサネの本領発揮だろ。給料分は働け、魚女」
「……狸、です」
ひどい言われようだったけど、おかげで状況が把握できた。確かに無重力下は、あたしが得意とする環境に似ている。
先生がエントランスホールに飛び出していった。マリーも、「無茶はしないでくださいね」と言い残して、先生のあとに続いた。
銃に弾を込めなおして、ホールを覗く。先生が飛び回りながら粒子をあわやというところで避け、ケイトをラウンジの反対側に誘導しているのが目に映る。その後方から、マリーが隙をうかがっている。
見ているだけで冷や冷やして、心拍数が上がりそうだった。顔をひっこめ、息を深く吸う。ゆっくり吐きだす。精神を集中させる。精臓をまわす。
システムアラート――エーテル濃度の異常増加を検出しました。ただちにエーテルサーキットの起動状態を確認してください。
ところで――現在のコンテキストが感覚受容体の体験型に落ち着いたのは、通信速度を落としてパケットを確保するためだ。感覚への逆変換は使用者の脳で処理していて、倫理規定を遵守させているのは脳からサイマトへの出力と、コンテキストの環境だけ――逆に言えば、脳への入力に関して、サイマトの中枢システムは直接制限をかけられていなかったりする。
サイマト用に開発されたエーテルサーキットはどれもその盲点をついたもので、脳に入る情報を解析して制御を行い、脳機能を拡張するものばかりだ。
あたしのサブマリン・エーテルサーキットは高価でもなければ、あたしの故郷であるミサキじゃ珍しくもなんともない、サイマトが完成する何十年も昔から存在するものだった。その機能は、主として脳における方向感覚処理の補強。空間識失調を防止し、空間把握能力や、構造記憶力を高め、定量的な姿勢制御を可能にさせる。地味ながら、海に潜って魚を捕るときには非常に便利で助かってたりする。航空機の操縦にも重宝されているのだそうだ。
そして、サブマリン・エーテルサーキットは感覚処理の補強――ゆえに、サイマトのなかでもその機能は有効だ。今のあたしには、空間内を遊泳するあらゆるオブジェクトの挙動と、どう動けば最も迅速に目的地に到達できるかが、手に取るようにわかる。
先生たちがホテルの奥に消えたのを確認してから、ラウンジを出た。セットとオブジェクトを足場にして最短距離で二階に戻り、三階を目指す。
甘ったるい匂いが濃くなってくる――エーテルも混じっている気がする。
匂いのより強い方へと進む。ケイトが廊下に作った大穴を飛び越える。ドアが開け放たれた客室を見つけた。忍び足で部屋に侵入する。
熱気でむっとする。お香とエーテルのきつい臭気と妖しげな紫の照明に、くらくらした。靴の裏に粘稠度の高い液体がへばりついた。ずいぶんぬめった部屋だ。生理的嫌悪感が湧き上がる。
ベッドの上には、犬の少女を模した人形が横たわっていた。人形は一糸まとわぬ姿で、股の間には穴が開いていて、ごぼごぼと白い液体が溢れている。
これは――あたしも詳しくは知らないけど、つまるところ、そっち用の人形なんだろう。あたしたちがこのコンテキストにジャック・インするまで、悪魔に憑りつかれたケイトはこの人形で遊んでいたのだと察せられる。
なら、これが本体に違いない。あたしは銃を構えて、しっかりと人形を狙った。そしてほとんど同じ瞬間に、先生からメッセージが入った。「ケイトがそっちに行った! 早く本体を破壊しろ!」
あと一オンスでも引き金にちからがかかっていたら、というときに、突如として人形が起き上がった。生身の身体じゃ絶対にできない奇怪な動きで、飛び掛かってくる。
危うく飛び退りそうになる。身体をひねってかわし、人形を遠心力を利用して蹴り飛ばす。人形が壁やら天井やらにぶつかって跳ね返る。すかさずサブマリン・エーテルサーキットによる空間把握補助を頼りに、撃ちまくった。全弾命中――人形は空中できりもみして、ベッドに墜落した。
岩塩弾をまともに食らった人形が痙攣を始める。サイマト内でしか存在できない肌が、ぼろぼろと崩れていく。
背後から、耳をつんざく絶叫が上がった。ぼろぼろになったケイトが肩を震わせて立っていた。
あたしは銃を向けるも、すっかり撃ち尽くしていたことを思い出し、ケイトが放った赤い粒子をかいくぐって部屋から脱出しようとした。
そこへ、人形が突っ込んできた。あたしは反射的に湿ったカーペットを踏みしめ、廊下へ飛び――やらかした――、空中で的になる。
人形がへその下、下腹部に刺さる。感覚受容体の皮膚を突き破って、潜り込んでくる。内臓を引き裂かれたような激痛が走る。
熱い。意識が吹き飛ばされる。上へ、上へ。
システムアラート――エーテルサーキットの異常を検知しました。強制ジャック・アウトを実行します。
熱い。熱くてたまらない。
飛び起きた。目がちかちかして、頭がずきずきする。汗とエーテルで全身べとべとだった。肌にキャミソールが張り付いて気持ち悪い。
事務所のあたしの部屋だった。視野の隅に、システムメッセージはない。現実――ジャック・アウトさせられたのだ。
ドアが勢いよく開け放たれた。マリーが駆け込んできて、あたしの顔を見るなり、「よかったァ……」と胸を撫で下ろした。「どこか痛みませんか? 神経異常は? ちゃんとテストしなきゃ――」
ミスリル・プラグを抜き、こめかみを指でほぐした。頭痛はすぐに収まった。「ううん、たぶん、大丈夫だと思う……それより、ケイトはどうなった?」
「強制ジャック・アウトさせました。容態については、今、せんせがエーテルフォンして問い合わせてます。悪魔コンテキストの方も、あのあとすぐに機能停止を確認しました」
「そっか、ちゃんと倒せたんだ……」
マリーは鷹揚に微笑んだ。「今回はチリヅカさんに星ひとつですね」
「起きてたか」先生が耳を掻きながらあたしの部屋に入ってきた。「健康そうでなにより」
「おかげさまで」あたしは肩をすくめた。「ケイトは、どうだったんですか」
「ダメだな」
「だ、ダメって!?」
「エーテルフォンがな。取り込み中なんだろ、一向に繋がる気配がない。ま、大事はないだろうし、あったとしても、あとは精神技師か、言語療法士の領域だ。あたしたちはあたしたちの仕事をした」
「いいのかな、それで……」
あたしは、なんだか納得がいかなかった。悪魔を倒すまでが仕事なのは間違ってはいないにしても、マーガレットは家族を救うためにエメラルドを犠牲に、あたしたちを頼ってきたのだ。きちんと解決してあげたい気持ちはある。
「なんか文句を言ってくるようなら、うちの優秀なヤミ技師を紹介してやるだけだ」
マリーは唇を尖らせた。「確かに資格はもってないですけど、そういう言い方はやめてくださいな」あたしの脇にやってきて、「明日、ハイズビルさんのお宅に行って様子を見てきますから、安心してください。でも、まずはチリヅカさんのテストをしないと。どこか、身体に異常はありませんか?」
「たぶん、ないと思うけ……ど?」伸びをして、足を曲げてみて、あたしはある違和感を発見した。ショートパンツのゴムを引っ張って、おそるおそるなかを覗く。ちょうどサイマト内で人形が貫いた辺りが赤く腫れていて、さらにその下には――。「ッ!?」あたしは、がばっとシーツを手繰り寄せて、腰から下を覆い隠し、両膝を抱いて顎の下に引き寄せた。
不思議そうな表情をする先生。「なんだ?」
「ど、ど、どうしよう、マリー……」顔からさっと血の気が引いていくのがわかった。
「どうしたんですか?」
「ああ、うう、もう、最悪! なんて言ったらいいのか……」がしがしと頭を掻く。
「あの、チリヅカさん、ひとまず患部を見せてもらわないと、なんとも……」
たっぷり五秒は迷った挙句、あたしはかすれた声でつぶやいた。「先生は、出てってください」
「はァ?」
「ごめんなさい。でも、お願い」
「なんであたしだけ――」
「お願い。ほんとに無理だから」
先生は何かを言おうとしたけど、すぐに口をつぐんで苛立たしげな足取りでダイニングへ向かった。
「それで、どうしたんですか?」
マリーと視線を合わせないようにしながら、あたしは無言でゆっくりと下着を下ろした。そうして現れたそれを前にして、マリーは目を丸くした。「これはまた……可愛らしいですね」
「かわ――むしろグロいと思うんだけど」
太さは親指二本分ぐらいだろうか、ともすれば脱毛症にかかった尾に見間違えたかもしれない。そうならないのは、その先端が身体の前面に向かっていて、表面にエーテルサーキットが浮かんでいるからだ。
見たのは初めてだったけど――しかもこんなかたちでなんて――あたしの股間にくっついてたのはいわゆる、男性の象徴だった。
誤解のないよう付け加えておくと、あたしの記憶が正しければ、あたしは生まれたときからついさっきまで、女じゃない瞬間なんて一度たりともなかった。
マリーは手を伸ばして、それを突っついた。どぎつい刺激に、あたしははじかれたみたいに腰を引く。
「すみません、痛みますか?」
「う、うん、かなり敏感みたい」
マリーはそれに顔を近づけてじっと注視し、むむむと眉間にしわを寄せて考え込んだ。「悪魔の本体に襲われたとき――強制ジャック・アウトしたとき、もしかしてエーテルサーキットを起動してましたか?」
恥ずかしさ、それに、グロテスクなそれとマリーのきれいな容貌とのギャップに、耳が熱くなってくる。「してたかも」
「おそらく、そのせいですね。この子はどうやら、ほとんど回路と神経で形成されているみたいです」
「と、いうと?」
「あの悪魔は、違法なエーテルサーキットの設計図も持っていたんでしょう。サイマトのなかでの、ハイズビルさんがどんな姿をしていたか、覚えていますか?」
「羽やら蛇やらが、生えてた気がするけど」
マリーはうなずいた。「単なる拡張オブジェクトかと思っていましたが、あれがまさにそうだったんでしょう。チリヅカさんは回路を開いていて無防備な状態だったので、エーテルサーキットが勝手に設計図を参照してしまって、変質されちゃったんだと思います」
あたしは頭を抱えた。「うう、なんであたしがこんな目に……」
「種の保存、とでも言うんでしょうか、悪魔コンテキスト――特に自然発生したものは、自己複製しようとするきらいがありますからね。悪魔が残すのは遺伝子ではなく、模倣子ですけども。今回のケースは、ああいうコンテキストに寄生していましたから、そんな形状になってしまったんでしょうね」
悪魔が繁殖? するっていうのは初めて聞いたけど、なるほど通りで数が減らないわけだ。本当に厄介な相手だ。
「じゃァ、ひょっとしたらケイトも――」
「その可能性は少ないんじゃないでしょうか。ハイズビルさんはエーテルサーキットを使っていなかったでしょうし、悪魔の本体が破壊されると同時に感覚受容体は正常に戻ったのを確認しましたから」
「ならよかったけど……あのさ、これ、とれるのかな」
「悪魔コンテキストで変質された箇所は、回路科で摘出してくれなくはないですけど、その、手術費はとっても高いんです。悪魔がらみだと保険も利きませんし」
「そんなァ……」
気が遠くなってきた。もしかして、このまま一生こんなものをぶらさげて生きていかなきゃならないの? そんなの嫌だ。っていうか、無理。絶対にありえない。
「でも――」おずおずと、マリーが申し出た。「他に手がないわけでは、ないです。お金はかからないですし、危険もなく、きっと痛くもありません」
「ほんと!?」
「ただ、合法かどうかと問われれば、一歩間違えればある意味で思いっきり犯罪なんですけど……」
「ど、どういうこと?」
「せんせに、お願いするんです」
ダイニングで学生のレポートを読んでいた先生は、あたしが新たに獲得した器官を汚らわしいもの――実際そうなんだけど――でも見るような目で一瞥して、きっぱりと言い切った。「イヤだ」
「そうおっしゃらずに……チリヅカさんも困ってますから」
先生はぶすっとしながらそっぽを向いた。「カサネが困っていようがあたしの知ったことじゃない。カサネ自身が言ったことだろ。あたしじゃ無理なんだって。滅多なことじゃないが、あたしも同意見だ。カサネだけは無理。イヤだったら、イヤだ」
「もう、ふてくされないでください。せんせじゃなきゃ、治療できないんですから」
先生は、握り拳をつくって親指と人差し指だけを伸ばし、ちょきちょきと動かした。「そんなもん、ハサミでちょん切ってしまえばいい」
あたしは思わず、エーテル灯の下に晒していた先生曰くそんなもんを、シーツで隠した。ちょん切ってしまいたいのはまたもや滅多なことじゃないがあたしも同意見だ。それでも、軽く触れただけでぴりぴりとした痛みすら感じるのに、切ったりなんかしたらショック死してしまうこと請け合いだ。想像するだに恐ろしい。
マリーは食い下がった。「もとをただせば、先生が弾を外して逃がしちゃったせいじゃないですか。その責任を取るべきだと思います」
「あたしのせいじゃない。避けなかったカサネが悪い」
「今回悪魔を駆除できたのは、チリヅカさんの働きがあってこそなんですよ。事務所としてはしかるべき処遇をですね――」
「うるさい! ノーの意味はノーだ! 何が何でも、カサネだけは絶対にイヤ!」食い気味にそう叫ぶや、先生は自室に引っ込んでしまった。
「……すごい嫌われようだね」あたしは自嘲気味に笑った。こころのなかではさすがに結構ぐさりときてたけど。
マリーは穏やかな口調で言った。「嫌ってなんか、ないですよ。ただ、ちょっと苦手なだけなんです。せんせはチリヅカさんのことを、嫌いたくないだけなんです」
「どういうこと?」冷蔵庫からミルクを出して、マグカップに注ぐ。羞恥と緊張で、やけに喉が渇いていた。
「以前、せんせがデルタファイイプシロンのパーティに出席した話はしましたか?」
「うん、何があったかは知らないけど……学生にお酒でも飲まされたの?」
マリーは複雑そうになった。「お酒も飲まされましたし、大きな声では言えない薬を嗅がされもしたんです」
「あー……」あたしはミルクをすすった。
「それで、マワされたんです」
あたしはミルクを噴き出した。「ごめん、聞き間違いかな……まわ、何?」
「輪姦です」
「……」
「それはもう代わる代わるたくさんの女の子にもみくちゃに――」
「待って待って! いい、もういいから!」まさかマリーの口からそんな言葉が出てくるとは思いもよらなかったので、あたしの頬はいくらか引きつっていた。「それはまた……大変だったんだね」
「せんせ、かわいいですからね、とっても」マリーは力説した。「でも、大丈夫です。チリヅカさんとせんせは絶対に仲良くなれます。チリヅカさん、小一時間ほど、わたしに時間をもらえますか? わたし、きっとせんせのこころを開いてみせますから」
ほかに解決策がない以上、あたしにはどうすることもできない。こんなものをくっつけたままではお嫁にも行けないので、あたしはマリーに頼まざるをえなかった。
「……わかった、じゃァ、お願いする。悪いけど、すごく当てにしてる」
マリーは大きな胸を張り、片目をつむってみせた。「おまかせあれ」
FTEC――フォールトトレラント・エーテルサーキットと呼ばれる先生の精素回路は、当初――つまり二十年代初頭――は細菌への免疫力をつけるために設計された回路だった。回路をまわすと、循環系と神経系の異常を検査し、精臓が一時的に代替エーテルという高濃度エーテルを分泌する。二種類の濃度の違うエーテルで発生するエーテル圧で、肉体の自浄作用と新陳代謝を高めることができる。それで、風邪や流行り病とは無縁な身体の出来上がりというわけだった。
ただ――FTECは、高価なわりに使いどころが限られすぎ、その機能を有効活用できるのは瘴気溢るる大樹が仕事場の木こりか、精油採掘作業者ぐらいなもので、実用化されはしたものの、あっという間にコンバット系やフラックス系など数多ある汎用性の高いエーテルサーキットに埋もれてしまった回路のひとつだ。
再び日の目を見ることになったのは、開発されてから十年後――サイマトが大陸中に行きわたり、悪魔コンテキストが跋扈しはじめたサイマト黎明期のことだった。
三十一年の十月三十六日に起こったその事件は、サイマト史上初にして最大の被害を連邦にもたらした悪魔コンテキストによるテロだった。当時エオス市内で共和党候補者の討論チャンネルにジャック・インしていた九千人からの市民が、重篤な精神的、神経的な障害を負った。現在も意識が戻らない被害者は、百人余りもいる。
そんななか、ある壮年の猫だけがたったひとり無傷でのジャック・アウトを果たした。その猫が搭載していた回路こそ、FTECだったのだ。
細菌への免疫力――その特性は、サイマト内で思わぬ効果を発揮した。FTECの本質は代替エーテルにより回路の物理状態をフィードフォワードさせ、肉体をひとつの系として精臓が記憶しているノミナル系に追従させることだ。その対象は、脳と精臓がつくりだすエーテル波、すなわち意識をも含む。代替エーテルは、感覚受容体に、外的因子に対する完全な抗体を与えるのだ。
そのちからは、言語業者のなかでも悪魔狩りを専門としている者たちにとってはもってこいで、結果、テロ以前と比べてFTECの普及率は数十倍まで伸びることとなった――と、ここまでが、先生が半年ほど前に、あたしに講釈垂れたFTECの概要だ。
そのFTECが、あたしの治療にどう関わってくるのかさっぱり見当がつかないまま、マリーに言われた通りあたしはシャワーを浴びてダイニングで待機していた。
「チリヅカさーん」お声がかかったのは、マリーが先生とふたりっきりになってきっかり一時間経ってから。
不安と期待を込めて先生の部屋のドアを押し開ける。むっとする熱を持った、エーテルとオリエンタル系のコロンの混じったみたいな甘ったるい芳香が顔に吹きつけた。あの幽霊屋敷を彷彿とさせる匂いだ。
そしてベッドの上にはマリーと――、一糸まとわぬ姿の先生が横たわっていた。しかも先生はただ服を着ていないだけでなく、全身汗みずくで、秘めやかなる幼いあそこはぐしょぐしょに濡れそぼっている。まるでそう、あの人形みたいに。
ぎょっとしてマリーに訊く。「なッ、なに……、してたの? 説得、してたん、だよね?」
大きな染みが広がったシーツの上で、マリーはにこにこしながら応えた。「発情させておきました」
「は、はつ――!?」おそるおそる先生の様子をうかがってみると、青い瞳は焦点が合っておらず顔は真っ赤、完全に放心状態で、意識があるかどうかも怪しかった。「もしかして、なんかやばい薬使ってる……?」
「ただの精神安定剤と鎮痛剤の座薬ですから、ちゃんと合法ですよ。ぐったりしているように見えるのは、心理学的にいろいろと誘導してあげたのと、血圧が下がってきもちよくなってるだけですから。今なら、ドアマットみたいにやりたい放題です」
くらくらしてきた。「ド、ドアマ……あ、あのね、マリー? あたしの治療? やってくれる……んだよね? 先生に頼んで?」
「あァ、失礼しました。説明不足でしたね。その子を取り払うには、先生の回路とチリヅカさんの回路を物理的に接続して」マリーはサイドテーブルのサイマト端末を指さし、「さらにわたしのディテクター・エーテルサーキット用の検査端末を使ってローカルネットワーク上でもシステムを繋ぐ必要があるんです」
「要するに?」
「要するに、えっちしながらジャック・インするんです」
あたしは乾いた笑いを漏らした。マリーはにこりともしなかった。
「……マジ?」
「大マジです」
あたしは先生の裸体から目を反らした。自分の心臓が早鐘を打っているのがわかる。「いや、でッ、でもさァ、仮にそれがほんとだとして……その、悪いよ、いくら治療のためだとはいえ……先生は、あたしのこと嫌ってるし」
マリーはかぶりを振った。「どうしてせんせがチリヅカさんを二十万ドルの代わりに雇ったか、ご存じですか?」
「それは……あたしのエーテルサーキットがこっちじゃ珍しくて、サイマトで使えるからじゃないの?」
「せんせは、ほんとうに嫌ってるひとを雇いません。ましてや同じ屋根の下に住まわせたりなんて」諭すように言うマリー。「せんせがチリヅカさんを雇ったのは、チリヅカさんを信頼しているからです。半年前に、ミサキで出会ったあのときから」
「その信頼を、今この瞬間にぶち壊そうってわけだね」
ようやく意識を取り戻したらしい先生がもぞもぞ動いて、うめき声を上げた。「おまえ、たち……あたしは、合意してない、から、出すとこ出せば、犯罪だから、な……あたしはまだ、未成年――」
「もう、まだそんなこと言ってるんですか」そう言って、マリーは先生の股ぐらに医療用エーテルデバイスグローブを嵌めた手を突っ込んだかと思うと、
「あっ、あっ、あっ、まてっ、マリーっ、まって、またっ、くるか……ら――っ!」先生は陸に打ち上げられた魚よろしくびくびくのたうち、再び脱力した。
経験のないあたしでもなんとなくわかる――たぶん、気をやってしまったんだ。
先生のはしたない様を目にして呆然とするあたしの前で、マリーは真顔でべとべとになった手をぎゅっと握り締め、「チリヅカさん、チャンスは今しかないんです。ここまでやっちゃったら、あとには引けないですよ? 記憶をなくすぐらい、徹底的にやってしまわないと」心なしか、マリーの赤い虹彩は爛々と輝いているように見える。
「で、でも――」あんなものを見せられたからか、部屋の熱気にあてられたからか、だんだん頭がぼうっとしてきた。サイマトで使用したエーテルが抜けきってないのも原因かもしれない。
「もう! 仕方ないですね……」マリーは手袋を外し、あたしの側にやってきた。甘い匂いが濃くなる。手を取られる。引き寄せられる。背に羽がまわされる。
「マ、マリー――んむっ!?」
熱い。最初はそれだけしかわからなかった。灼けるようでいて、ふわっふわのマシュマロみたいな熱が、あたしの唇を覆い隠していた。
一瞬、身体がこわばる。でもそれも、唇をやさしくついばまれ、ほぐされていく。口内に濃密な甘さが広がる。腰が砕けて崩れ落ちそうになったところを、マリーに抱き留められた。
「いい顔になりましたね」マリーはくすくす笑った。「どうですか? やる気、出ましたか?」
「そんな、こと――」息苦しさで言葉に詰まる。心臓が張り裂けそうなぐらい、胸の内側でばくばくと暴れていた。
「でもこっちは、やる気まんまんみたいですよ」
膨らんだショートパンツをさすられ、反射的にあたしは身をすくませた。いつの間にやら激しく自己主張していた一物は、さきほどと比べて倍くらいの大きさに腫れ上がりショートパンツを押し上げ、より過敏になって、切ない痺れを放っていたのだ。身体中のエーテルが集まっているんだろう、重ささえ感じる。そして、かつて体験したことのなかったたまらなくもどかしい疼きも。たぶん、これが欲情しているってやつなんだろう。
「むらむら、してますよね。我慢、ならなくなって、きましたよね」
「で、も、先生は……、先生に……」
もごもごと口ごもるあたしの耳元で、マリーが甘く囁いた。「せんせのことなら、心配しなくてもいいですよ。せんせ、処女じゃないですから」
冷静に考えてみれば、そういう問題じゃないのは自明だった。でもそのマリーの一言は、判断力が低下したあたしの脳と、膨張したそれにがつんと響いた。
あたしは生唾を飲み込んだ。「……わ、わかった」
マリーに手を引かれ、ふらつきつつベッドに上る。意識を飛ばしている先生を見下ろす。あれがこんな状態になっているからだろうか、先生の矮躯は、やけに蠱惑的に思えた。
体液とエーテルでどろどろになった先生のいとけないそこに、陰茎を押し付ける。「あ、あれ……滑って――」濡れすぎているのと、過度に興奮しているせいか、うまく挿入できない。
「だいじょうぶ、落ち着いてください。せんせ、下付きですから」
後ろからマリーに陰茎をそっと握られて、導かれる。小さな花びらを歪め、敏感な先端は生温かい粘膜が包まれる。吸い込まれるみたいに、ゆっくりと腰を進める。「う、わ、これ、すご――ッ」たっぷり蜜を蓄え、柔らかく熟した肉ににゅるりと受け止められ、ため息が出るほどの愉悦が下半身全体を支配する。先生の体内に侵入したのは身体のごく一部にしか過ぎないのに、さながら全身を包みこまれてるかのよう。
首筋を温かい吐息がくすぐった。「どうですか? 三つも年下で、未成年のせんせに筆おろししてもらった感想は?」
「ふ、あ、なんか、すごい、先生のなか、熱くて、ぐにぐにって蠢いてて……」
屹立したそれは先生の身体に到底収まるサイズとは思えなかったけれど、先生のそこは根元まであたしのものを飲み込み、淫猥に押し広げられていた。子供を犯しているという背徳感で、頭がどうにかなりそうだった。
「一番奥にこりこりしてるところがあるでしょう? ばっちり開発してあるので、そこをぐりぐり押し潰してあげてください。せんせ、泣いて悦びますよ」
「んわッ!? あっ、えっ、なっ、なにっ!?」体奥を貫かれ目を覚ましたらしい先生が、動揺したような声を上げる。「カッ、カサネ!? ばかッ、んあっ、ほんとにっ、入れっ、るなあっ!」
暴れる先生に構わず、熱に浮かされたあたしはマリーの助言に従って腰を押し付けるや、反応はすぐさま返ってきた。
「あーっ、あっ、あっ、あっ、やだっ! だめっ、そこだめっ!」あたしを押しのけようとしていた先生は、途端に仰け反りつつシーツを握って喘ぎ始める。
「あとは、そうですね、上のほうをごしごししながら、クリトリスをこりこりしてあげると――」マリーが先生の充血したかわいらしい突起をつまみ、下腹部をさすった。
「んやっ!? やッ! だッ! いくっ! やめッ、ほんとにっ、ムリッ! いくっ! おねがっ! がまんッ、できなっ! いくいくいくっ!」面白いぐらいにがっくんがっくん尻を揺らし、ぎゅうぎゅうと陰茎を締め上げて絶頂を迎える先生。尻尾の毛はぞぞぞと逆立ち、そのあどけない顔つきのなかには、歳にそぐわない艶がはっきりと見て取れる。先生の淫蕩に浸る女の子な表情と、あたしを締め付ける手応えに、お腹の底から込み上げてくる熱い衝動を感じた。
同時に、あたしは自覚した。今、あたしは、先生を完全に征服しているんだ、って。
女の子を押し倒し、組み伏せ、泣かせて、よがらせて、支配して服従させてあげるのって――こんなにぞくぞくすることだったんだ。これは男の子もはまるわけだ。
「さ、休んでる暇はないですよ、チリヅカさん。がんがんいかせまくってあげて、せんせの身体を開かせないと、回路は使えませんから」マリーの声は、俄然やる気に満ちていた。
後ろから促され、腰を使いながらたずねる。「……先生自身に、んッ、回路を開いてもらえば、いいんじゃ、ないの?」
「えっちしてるときに精臓をまわして回路を入れるのって、実はすっごく大変なんですよ。すればするほど昂ぶって、激しいいきかたしちゃいますから。自分の内臓に次から次へといかされちゃうわけですからね、意識なんてほとんどないようなもので、回路の制御なんてできたもんじゃないんです。だから、外側から精臓を刺激して回路をこじ開けておいて、検査端末側で制御するんです」
あたしの身体の下で先生が起きては気絶し、痙攣と弛緩を繰り返す。ひっきりなしに愛液をしぶく先生の性器が、いきり立ったあたしの一部をもにゅもにゅと咀嚼する。甘すぎる悦楽に、脳が蕩けそうになる。
「そんな、こと、っく、できるの?」
マリーは満面の笑みで、「そうするように、せんせの身体に教え込みましたから」
「そ、そうなんだ……」半信半疑ながらも、名状しがたい薄ら寒いものを覚えて、あたしはそれ以上追及しなかった。
それに、その必要もなかった。マリーの言葉が冗談でもなんでもなかったことは、すぐに証明されたからだ。
おもむろに先生の汗ばんだ肌の下から、妖しく青い回路が浮き出てくる。甘ったるいエーテルの匂いは、より濃度を増す。
「そろそろよさそうですね」
先生のうなじにミスリル・プラグが接続される。ぐるんと目玉がひっくり返り、足はぴんと伸びて、喘ぐことすら許されず、無制限にトリップし続ける先生。回路が全開になったせいで、いきまくっちゃってるらしい。その恍惚に耽溺する姿は、見ているだけでお腹の芯がちりちりと疼痛を訴え、燃え上がるようだった。
より具合のよくなった先生の膣内で、陰茎がむずむずしはじめた。もどかしさを伴った、尿意のような感覚だ。
そのことをマリーに伝えると、そちらもよさそうですね、と微笑んだ。「変質されたエーテルサーキットに充填されているエーテルが、部分的に開放されかかってるんですよ。そのまま身を任せて、エーテルが放出されると同時に、せんせと回路を結びます」
「な、中に出して、大丈夫なの?」
「ただのエーテルですし、それに――」マリーはくすくすと笑った。「せんせ、まだなんですよ」
興奮が収まらず、呼吸は浅く、早く、心臓は大暴れ。先生を犯す腰が止まらない。意識が陰茎だけに引っ張られる。切羽詰まったじんじんがあふれ――やがて弾けた。
「く、ふ――ッ!」陰茎内の回路が脈打ち、熱いなにかが駆け上り、迸る。びくびく跳ねる陰茎と連動するように膣襞が蠢き、まるでエーテルを吸引されているかのよう。無意識に奥へ奥へと先端を押し付け、先生の内臓をぐりぐり押しつぶす。
あたしのエーテルサーキットにも、プラグが挿し込まれる。ジャック・インする。医療検査用のネットワークだから、意識は保たれたまま、覚醒内催眠の拡張視野が展開される。
システムメッセージ――あなたは現在、検査端末にジャック・インしています。
システムメッセージ――エーテルサーキットの同期を開始します。
「んんんッ!? は……ッ、は……ッ、は……ッ」
途端に、脳髄と精臓に白い奔流が叩き込まれる。絶頂している先生の回路状態までも、あたしの回路が追従しているのだ。
自分で慰めて迎えたものより何倍も何倍も大きなオーガズムの追体験――性感が深く、長く引き伸ばされる。体液を根こそぎもっていかれていくような、強烈な放出感。
果てがないかと思われたエーテルの開放がようやく終わるや、とてつもない疲労が押し寄せ、あたしは先生に伸し掛からないようベッドに突っ伏した。
「お疲れ様でした。たくさん出ましたね」
心地の良い気怠さのまにまに、マリーの柔らかな羽毛に背を撫でられながら、自分が下半身を丸出しにしていることを思い出すまで、あたしは先生のエーテルを嗅いでいた。
バスルームから出てきたあたしに、マリーが声をかけてきた。「マルガリータをつくろうと思うんですけど、チリヅカさんも飲みますか?」
もごもごと応じるあたし。「あ、うん……、いただこう、かな」
「では、応接間で少し待っていてくださいな」普段となにひとつ変わらない、その鷹揚なマリーの笑みを、あたしは正面から見ることができなかった。
本日二度目となる入浴中、あたしは幾度となく自分の股の間に何もぶらさがってないことを確認し、また、再びエーテルサーキットがにょきにょきテレスコーピングされる予兆が何もないことを知ると、ひどく安堵した。
その後、あたしの頭のなかで延々と繰り返し反芻されたのは、治療のことだ。あとになって、タイルに頭をぶつけまくりたくなるほどのとてつもない罪悪感と羞恥に見舞われていたのだ。やっちゃってしまってから悔やんでも仕方ないけど、先生にはほんとうに悪いことをしてしまった。明日、いったいどうやって謝ればいいのか見当もつかない。
それに、と思う。腑に落ちないのは、あたしをそそのかした――治してもらっておいてこういう表現はどうかという気もするけど――マリーのことだ。
物腰は柔らか、おっとりしていて楚々としたいつものマリーからは想像もできない言動。まるで日頃からああいうことを先生としていたみたいな口ぶり――マリーと先生は、ずっと以前からそういう関係だったのだろうか。それにしては、治療のためだととしても、ずいぶんあっさりあたしが先生と繋がることを許したものだ。
マリー・ムトー・ハッシャバイ。あたしと同い年なのにあたしよりも断然落ち着いていて、頼りがいがあり、品行方正で才色兼備、加えて連邦一の臨床精神技師の娘という生い立ちを持ち、本人もまた非常に優秀な技師でもある彼女のことが、あたしは、今更ながらわからなくなっていた。
カクテルグラスを持ってきたマリーが、あたしの隣に腰を下ろした。年代物のソファがぎしりときしみ、オリエンタル系のコロンの芳香がふわりと匂う。フレアスカートから伸びる、マリーのストッキングに包まれた肉感的な太ももと、あたしの膝がぶつかる。「今回はチリヅカさんのおかげで依頼を達成できたことですし、チリヅカさんに乾杯ですね」
「でも結局迷惑かけちゃったし……マリーと、その、先生にも」後ろめたさをごまかすように、グラスに傾けた。口当たりはきりりと爽やか。
「そんなに気に病まないでください。せんせだって、気にしてないはずですから」
「どうしてそう言い切れるの?」
マリーは片目をつむった。「せんせのことは、なんだってわかりますから」
マリーの短く綺麗に研がれた爪を見つめながら、あたしはグラスの塩を舐め、おずおずと切り出した。たぶん、尋ねるなら今しかない。「あのさ……、マリーと先生は、いつも、その、あんなこと、してるの?」
「そうですね」マリーは考え込み、「チリヅカさんが来てからは、週に二、三度ぐらいでしょうか」
「それまでは?」
「ほぼ毎日ですね」
「そうなんだ……」淀みのない即答に、聞いてるこっちのほうが恥ずかしくなってくる。「じゃァ、ふたりは付き合ってるんだ?」
「いえ? そういう間柄ではありませんけど……わたしはあくまで助手ですから」
「え、なら、なんで、その……してるの?」
「せんせのことが、好きだからですよ」にこやかな返答。
「うーん……」なんだか混乱してきた。都会では、そういうものなのだろうか。あたしが田舎者すぎるだけかもしれないけど。「えっと、つまり、変なこと訊くかもしれないけど、あたしが先生とああいうことして気にならなかった、って解釈してもいいのかな」
「もちろん、わたしが提案したことですし。それに」マリーはあたしの手を取って、「わたしは、チリヅカさんのことも好きですから」
鋭い不意打ちに、どきりとする。「あッ、あたし?」
マリーはこっくりと首肯した。「チリヅカさんは気立てがよくて、いつも楽しませてくれるので、一緒にいて安心できますし、何よりチリヅカさんはかわいいですから。こうしてお仕事できて、とっても嬉しく思ってるんですよ」一言ごとににじり寄ってくるマリーに、あたしはいつの間にかソファの隅まで追いやられていた。
アルコールがまわってきたのだろうか、急速に平衡感覚が失われつつあることを自覚した。心臓が痛いぐらいに跳ねて、へその下辺りが、やけにちくちくする。
あたしは唇を湿らせて、唾を飲み込んだ。「それって、さ……さっきの論理で言うと、あたしと、したいとか、考えたりしたことも、あるの?」
マリーの整った顔が、あたしの瞳を覗きこんでいた。「当然、ありますよ。でなければ、キスしたりしません」慈愛に満ちながらにして誘い込まれそうな、薄い微笑み。「チリヅカさんは? わたしとしたいって、考えたことは?」
うつむく。耳が火照る。「あ、あたしは――」だしぬけに、頬に手を添えられた。持ち上げられる。生温かいものが覆いかぶさってくる。「ん、ふ――ッ!?」
一時間前のそれより、さらに熱く、柔らかい感触。甘やかで、塩辛い舌が唇を断ち割り、口内をまさぐり、歯茎をねぶった。あたしの舌を見つけるや、ねっとりと撫ぜまわす。粘膜が絡み合うたびに声が漏れ、手足からちからが抜けていく。高揚が酩酊を加速させ、あたしから考える能力を奪っていく。
唇を吸われながら、胸元に手のひらが置かれる。マリーの温度があたしの心臓に伝播する。手は徐々に下がっていき、下から持ち上げるようにして寝間着の上から乳房に触れた。指の先が脇と乳房の境界に当たって、あたしはくすぐったさに身をよじった。
マリーがわずかに紅潮した顔を離し、ちろりと赤い舌を覗かせた。陶酔をもたらしたその部分に、あたしの目は釘づけになる。「チリヅカさんって結構大きいですよね。スタイルもいいですし」
ぼんやりしながら、「マリーの、ほうが、ひとまわりおっきいと、思うんだけど……」
「いえ、ほら、和国のひとはみなさん控えめでしたから」
「……マリーって、おっぱい好きなの?」
「そうですね、せんせはぺちゃんこですし、物足りなさのようなものは感じてます」
もしかしてこの子、実は常日頃からそういうところばっか見てたんじゃないだろうか、という考えがちらりと頭をよぎるも、それも再度の口づけに流される。
そのまま舌を吸われ、甘噛みされつつ、胸をやわやわと揉み解される。別段、それ自体が気持ち良かったりはしないのだけど、胸を揉まれているだけでやたらとどきどきして体温が上昇していく。
ついばむみたいに何度も何度もキスされて、乳房を揉みしだかれているだけで、いつの間にか引き返せないところまで押し出され、胸が張り裂けそうなぐらい昂ぶっていた。お腹の内側は痒くて痒くて仕方がなく、もじもじと膝をこすり合わせた。
またマリーの唇が離れた。無意識にマリーの柔らかい唇を追いかけようとしたあたしの唇に人差し指を押し当て、「すっかりスイッチ入っちゃいましたね」マリーが笑った。「して、ほしいんですか?」
息を荒ませ、陶然とした頭ではぐらかす。「……なに、を?」
「してほしく、ないんですか?」じんじん痺れる唇を、指先でなぞられる。
「なんの、こと?」
「せんせみたいに、です」マリーはあたしの口内に指を差し込んだ。舌をやさしくひっかいてその裏側をくすぐり、根元をかきまわしたあと、数を数えるみたいに一本一本歯を撫でていった。「チリヅカさんも、わかってますよね。せんせに、同じことをしてあげたんですから。せんせがどんなに蕩けていたか、覚えてますよね。せんせ、とっても気持ちよさそうでしたよね。気持ちいいんですよ、とっても。されるのって、してあげるよりも、ずっとずっといいんですよ。言うこときかされて、好きって言わされて、甘やかされて、服従させられるのって、わけがわかんなくなっちゃうぐらい、たまらないんですよ。何物にも代えがたいぐらい、しあわせに、なっちゃうんですよ。チリヅカさんも、そうなりたくないですか? なりたい、ですよね? なっちゃっても、いいですよね?」
どきどきする。ぞくぞくする。くらくらする。まるで、言葉でなぶられてるみたい。
マリーがぐっと純白の翼を広げ、あたしを掻き抱いた。ふわふわの羽毛で背をさすられ、びくびくと反る。寝間着の下から腕を入れられ、乳房を直に鷲掴みにされる。熱を帯びたため息が出る。
「しますね?」囁き。
あたしは返答する代わりに体重を預けた。マリーは受け止めようとせず、あたしがマリーを押し倒す形でソファに寝そべった。マリーは自分のブラウスのボタンを外し、胸元をはだけた。黒い扇情的な下着と滑らかでいて輝くような素肌が覗く。たわわに実った乳房からは甘い芳香が立ちのぼっている。
「好きなだけ嗅いでいいですよ」マリーは穏やかな笑みを浮かべた。「知ってますよ。チリヅカさん、好きですよね、このコロン」
髪を梳かれ、耳をあやされ、言われるがまま、深く香りを吸い込む。エーテルとコロンの混じった甘ったるい体臭が鼻腔を突き抜け、がつんと脳に直撃する。アルコールを静脈注射されたみたいに、睡魔にも似た酩酊感が理性を揺さぶった。
これは媚薬で、麻薬だ。あたしは直感した。しかもとんでもなく危ない類の。摂取するものの脳細胞を溶かし、捕食する類の。これ以上吸うとまずい、そういう認識があたしのなかに欠片ほどでも芽生えたのはわかっていたけども、あたしはマリーの谷間に鼻面をうずめ、デコルテに額をこすり付け、ふがふが呼吸するのを止められなかった。
マリーがあたしの耳をかじった。「もう、くすぐったいですよ」甘やかすような声音に、あたしはますます息を吸い込み、マリーの豊満な肢体に身体を密着させた。媚薬が肺を焦がし、腰から下を燃え上がらせた。むず痒さを我慢できなくて、下着をマリーのむちむちした太ももに押し付ける。汗かエーテルか、もしくは別のなにかか、下着がぐっしょり水分を含んでいることを発見するも、やめられない。マリーは知ってか知らずか、あたしのお尻をぎゅっと掴んでますます強く抱きしめた。
匂いを嗅ぎながら、羽に包まれ、頭を撫でられ、胸を揉みほぐされ、腰をくねらせて、太ももに下着をこすり付ける――その行為は際限なくどこまでもあたしを高め、戻れないところまで追い詰めていく。
「和国のひとは皮下脂肪が薄くて感じやすいって、ほんとだったんですね」不意に、マリーが尻尾の付け根をぎゅっと握りしめ、あたしを
制した。あたしは間の抜けた悲鳴を上げて、びくりと身を震わせる。「わたしの太もも、べちゃべちゃになっちゃいました。そんなに気持ちいいですか? わたしの身体が?」
「ふッ……、ふッ……、……うぅんッ、っく」己の痴態を指摘され、頭のなかが真っ白になる。
「教えてくださいな。でないと、続き、できませんよ? 最後まで、してあげられませんよ? チリヅカさんがしてほしくないことは、わたし、できませんから」
「はッ、はッ、はぁッ、ふッ、んんッ、ぅっく」息が詰まる。くらくらが止まらない。舌がもつれる。ひどく錯乱して、自分が何をして、どういう状況に置かれているのかもわからなくなってくる。
「苦しいでしょう? いきそうなのがずーっと続いてるでしょう? そのままじわじわ限界まで高まっていければ、自分でも気づかないうちにいけちゃうんですよ。そしてゆっくりゆっくり、ふかーく穏やかに五分も十分もいき続けるんです。とっても幸せになれますよ。せんせはいつも、最後には涙を流しながら気絶しちゃうんですから。きっとチリヅカさんも、病み付きになると思います。でもこのままだと……それはなし、ですね。苦しいまま、泣きたくなるほどもどかしくて切なくて――それで、おしまいです。そんなのは、いやですよね?」
臓器という臓器が不随意運動を始める。肉体の内部で理解の及ばないことが起こっている恐怖に駆られる。怖くて苦しくて、何に代えても楽にしてほしいという願望だけが、意識を塗りつぶす。
「だいじょうぶですよ、怖がらないでください。わたしはずっとここにいますから。ぎゅってしててあげますから、落ち着いてゆっくり深呼吸してください。自分から息を吸い込んで、自分からいってみてください。自分から求めて……自分から、堕ちてください」
温柔で、甘すぎる抱擁。肺いっぱいに媚薬を吸引する。わなないていた臓腑と筋肉とがほんの一瞬だけ硬直し、間もなく液状化したみたいに弛緩する。指先から脳細胞の隅々まで、うねりを伴った重すぎる多幸感で充填されていく。
「ふッ……これ……ッ、……ちから、入んな……っ」時折自ら得る、あるいはさきほど先生に開放してもらって得た鋭利なエクスタシーとはまったく正反対の、さながらまどろみのごとき温和なそれは、汗腺やら臭腺やらを片っ端から緩めていき、マリーのおっぱいを涎でべとべとにさせた。
「慌てなくていいですよ。たっぷり堪能してくださいな」
じわじわ深みを増す絶頂に、次第に自分がどこにいるのかもわからなくなる。それは故郷の海で波に身を任せてゆらゆらと揺蕩っていたときのことを想起させ、そして半ば実際に、あたしは宙を浮いていた。マリーにお姫様抱っこされて、自室まで運ばれていたのだ。どうも、何十秒か意識が飛んでいたみたいだ。
気づけばあたしは、ベッドに仰向けに横たえられ、ぐしょ濡れになった衣服を脱がされて、同じく裸になったマリーに組み敷かれていた。
達した余韻で動けないなか、何度目かの接吻が降り注ぐ。今度は自分から舌を絡めていく。あたしの胸がマリーの胸で柔らかく潰れた。固くとがった乳首同士が擦れあい、痛いぐらいの刺激を生じさせる。
キスを繰り返す間、あたしの陰毛をさわさわと梳き、内腿をくすぐるマリーの絶妙なタッチは、体内で残滓となり、燻っていた情欲を熾火へと変化させた。
「まッ、まってッ、マリーッ、まってぇ……」首を振ってなんとか唇を引っぺがし、マリーに訴える。
マリーは妖しく笑んだ。「どうしたんですか? そんな甘えた声を出して」
「とまんなく、とまんなくなっちゃうよぉ……」
「そうですね、一晩中虐めたおしてあげるつもりでしたが、今日は最初ですし、これでおしまいにしましょうか」
「こ……、これって?」
「これ、ですよ」マリーは上体を起こし、自分の股ぐらを指さした。そこには、いつかどこかで目にした記憶のある、禍々しいものが――すなわち、男性の外性器がそそり立っていた。しかも、あたしに生えてたものよりも、ずいぶん逞しいなりをしていた。
「な、ななな、なんで、それそれ、それが……」
マリーはちょっとはにかんで、「チリヅカさんのかわいいところを見ていたら、わたしも我慢できなくなってしまいまして」
「そ、そういうことじゃなくって……も、もしかしてマリーもあの悪魔に……?」
マリーはかぶりを振った。「あァ、いえ、わたしは実は天使なので、生まれつき、両方あるんですよ」
「てん……? なに、それ――ひゃん!?」陰核に押し当てられたペニスのあまりの熱さに、あたしはみっともない声を漏らしてしまう。
「別段、病気でもなんでもないので気になさらなくていいですよ。では、はじめましょうか」
ぐいぐいペニスを擦りつけてくるマリーを、あたしは押しとどめる。「まっ、まって、まってぇ、マリー、あたし、あたし、その ……はッ、初めて、だし、その、その」
「あら、そうだったんですか? 確かに今ならまだ引き返せますけども――でも、いいんですか?」マリーは、蜜を溢れさせ続けるあたしの性器の入り口を細指でくちゅくちゅと掻きまわし、あたしに身もだえさせた。「ここ、こんなにあつあつとろとろに出来上がっちゃってますよ? このままだと、すっごく辛いと思いますよ」
「でも、でも、でもぉ……」
マリーはあたしの手を取って、マリーのそれを握らせた。手のひらから伝わる高熱と硬度は、あたしの理性を鈍らせた。
「今これで慰められたら、それはもう、我を忘れるほどよくなれると思うんですけどね。チリヅカさんが今まで味わったことのない、至上の幸福でこころが満たされるはずなんですけども」あたしの正常な判断能力を取り除く、甘やかな耳打ち。「でも、仕方ないですね。無理強いはできません。わたしはチリヅカさんのことが大好きですから。チリヅカさんをとってもよくしてあげられても、それが嫌だとおっしゃるなら、残念ですが、引かざるを得ませんね」言葉とは裏腹に、マリーの指先はあたしの陰唇の周りで円を描き、愛撫をやめない。あたしのそこは、壊れた蛇口みたいに体液を分泌し続け、潤いを保った。
「い、いやって、わけ、じゃ……」
「では、いいんですか? もう、引き返せなくなりますよ? 徹底的に教えちゃいますよ? チリヅカさんのこと、すっごくすっごくよくしちゃいますよ? その代わり、これからずっと、わたしに逆らえなくなっちゃいますよ? 虜になっちゃいますよ? せんせみたいに、わたしに服従、しちゃいますよ? 服従、させちゃって、いいですか? 服従、されちゃって、いいんですか? 服従、されたい、ですか?」
マリーの一言一言が、かろうじて残っていたあたしの理性を狂わせ、惑わせ、袋小路に追い立てる。ベッドに寝転んでいるというのに、あたしは眩暈じみたものを覚え、方向感覚を失い、すっかり錯乱していた。
ただひとつ確かなのは、胎内で切なく主張する、めちゃくちゃにされたいという根源的で破滅的な衝動に負け、「して……、ください」そう口にしたことだ。
いつどこで何を間違ったのかはわからない。けれど、もはや上下関係は出来上がっていた。あたしとマリーは、このときすでに、ただの友達じゃなくなっていた。
「わかりました。それでは――服従、してくださいね」
みちり、と亀頭が恥丘をこじ開ける。強烈な圧迫感が、身体のなかを掻き分け、押し進んでくる。急に逃げ出したくなるほどの、ある予感。
怖気づいて、手足をばたばたさせるあたし。「あッ、あッ、まっ、まってッ、やッ、やっぱりッ、やめ――」
「やめませんよ。してって言ったのは、チリヅカさんじゃないですか」
ずるずるずると粘膜を巻き込みながらゆっくりと、しかし着実に侵入してくる異物――その摩擦が発生させたのは痛覚などではなく、想像以上の快楽と、淫靡さだった。挿入されたことで唐突に、なおかつ初めて、自分が交尾されてしまっていることを認識したのだ。そして、そのただただ圧倒的な、これまでの体験すべてを洗い流す被虐感を。
「んぁッ、だっ、だめぇッ、だめだめだめッ! これだめっ、やばっ、やばいッ、だめッ、これッ、だめッ、抜いて――」
「抜きませんよ。もうわたしは、チリヅカさんを服従させることにしましたので」
「そんッ、そんなッ……、あっ、はあッ、ぅあッ!」雁首が膣壁を削ぎ落とすちから強さで、やがてあたしの最奥――匂いをかいでる最中、ずっときゅんきゅん疼いてたまらなかったところに到達し、「はあんッ!」めちゃくちゃに揺さぶられた衝撃で、あたしは海老反りになる。
「あら」マリーは嬉しそうに言った。「どうやらここが一番弱いみたいですね」そのまま、ごつごつと子宮口を小突き、えぐってくる。
「あーッ、あッ、あッ、あッ、んあぁッ、んぐぅっ、ぐぅッ、うッ、ぅッ」自分がとんでもなくあられもない声を上げていることに気づき、奥歯を噛みしめ、手で口を覆い隠した。
「はあ……チリヅカさん、とってもいいですよ……ほら、チリヅカさんの大好きなところ、いっぱい虐めてあげますから、ちゃんと覚えてくださいね」
「うーッ、うーッ、ぅッ、くっ、ふっ、ふーッ、ふーッ」
「もう、ちゃんと答えてくださいってば」マリーはあたしの手を取って、五指を絡め、「わたしとしてるときは、わたしに集中してくれないとだめじゃないですか」ぐりぐりとあたしの弱点を押圧した。
「うあっ、はああッ、ひぅッ、おッ、覚えたッ! 覚えたからあッ、そこおッ、やめてぇっ! おっ、奥っ、ひびいてッ! ひびくッ!」孕んでいた掻痒感がすべて解放される――あたしのなかの大事なものが、すべて開けて零れていく感覚。これこそ、あたしが待ちわびていた喜悦で、まぎれもない性感だった。
マリーは攻めの手を休めることなく、うっとりした面持ちになった。「かわいい……かわいいですよ、チリヅカさん。好き……んッ、好きです……」
喘ぐことに忙しないあたしの口を、唇でふさいでくるマリー。性的ではない、どこか愛情のこもった口づけの連続、その合間、こころに刷り込むみたいに好き好き連呼されて、身体の芯の一番柔らかいところを緩急つけて重点的にいたぶられ、マリーへの愛おしさが急激に込み上げてくる。それが訪れるのは、時間の問題だった。
巨大な波の予兆。今となっては抗おうという気は湧きおこらず、ただその瞬間を待ち構えるのみだった。でも、待ち望むそのときはいつになってもやってこなかった。
達しそうで達しない、あと一押しというところで、だんだんピストン運動がゆっくりと、一番弱いところだけは絶対にはずしてくる動きへと変わった。軽く腰をゆすり、最も感じる部分を膨張した先端に押し付けようとしても、マリーは腰を引いてそれを許さない。そして波が鎮まりかけるとみるやいなや、臓器ごと押しつぶすようにペニスを食い込ませ、あたしに新たな火を灯す。
焦らしに焦らされ、あたしは息も絶え絶え、ほとんど涙ぐんでしまっていた。なまじ達する予感とその規模を知っているがために、この生殺しはますます辛いものになっていた。
このとき――あたしは、マリーに二度と逆らえなくなっていたことをようやく実感した。あたしの肉体はもう、マリーに支配されてしまっていたのだ。
「チリヅカさんの泣きそうな真っ赤なお顔……とってもかわいいですよ。あのときのせんせと、おんなじ表情をしてます」
「こッ、こんなのお……ず、ずるい、よ……もう、ゆるして……楽に、してよ……」
「なんのこと、ですか?」必死の懇願にも、マリーはあくまで知らんぷり。
マリー自身は絶対に何も強要しない。それでいながら、女の子に自分から弱いところを捧げさせ、従うように仕向け、服従を誓わせるのだ。女の子を完全に屈服させて堕とす手管、奥底を征服するセックスを、マリーは心得ていた。先生もたぶん、あたしと同じように――。
腰を浮かせて、マリーが奥の奥を攻めやすい角度になる体勢をとった。「いかせて……、いかせて、ください……」
マリーは慈しむような、それでいて曰く形容しがたい畏怖を誘う微笑を浮かべ、「いいですよ。でも、チリヅカさんのほうからお願いしてきたんですから――後悔しないでくださいね」ぐちゅり、と最奥を穿った。
「は――ッ、――ッ、――ッ!」保たれていた均衡はあっけなく崩壊し、波濤は到来した。喉を晒して仰け反る。目の前では火花が散り、歯の根は合わない。臓器が全部吹き飛んで、撹拌されてるみたいな、あたしが今まで知りえなかった感覚。
「はあ……チリヅカさん、腹筋が波打って、すっごく深いいき方してるのがわかりますよ……」
絶頂して、びくつき、敏感になっているところを突かれまくる。「や……ッ、は……ッ、とめ……ッ、まっ、まだ……ッ、いって――」
マリーは子宮口だけでなく、他の性感帯をも探り当て、執拗に狙いうちしてきた。たったの数分間であたしでさえ知らなかった弱点を全部掌握され、教えこまれる。
「だ……め……ッ、またいッ、いくッ、いった……ッ、いっ、いってる……ッ、また……ッ、いッ」
脳内麻薬がとめどなく噴き出し、脳がぐずぐずにとろけていく。いくことしか考えられず、いくことだけに全神経を集中させられる。抜け出そうとどれだけもがいても、内臓を串刺しにされて逃げられるわけがない。あたしはこの地獄の責苦をもたらす相手にしがみついて耐えるしかなかった。
冷める気配のないオーガズムの連続に自分のなかの何かが綻び、開けていくのがわかった。おそらく、マリーにされた分だけで、今までに自分で達した数を遥かに超えただろう。
「わたしたち、身体の相性は抜群みたいですね」いきっぱなしで無防備になったこころに語りかけられる。「最初でこれですから、もっともっと馴染んで、よくなったら、どうなっちゃうんでしょうか」
「息……ッ、できな……っ、くるし……っ」
「こうしてせっかくいき方を覚えたんですから、これからは毎日しましょうね。いっぱい開発して、命令して、服従させて、躾けて、かわいくして、しあわせにして、好きって言わせてあげますね」
友達だと思っていた子に組み敷かれてセックスを教えられ、所有された、その事実がさらにあたしの官能を暴発させ、次の頂をいざなう。
「ぎゅ――ッ! んぅ――ッ! ――ッ!」
「返事は?」
「はあぁ……ッ、はッ、はいっ、はいっ……、いっく、いくっ、いったッ、好きッ、好きですッ、またいくッ、いくいくっ、いきますっ」
「わたしも、好き、ですよ……」それまで腰を振り立てていたマリーは、あたしの恥骨を潰す勢いで突き当りまでみっちりと蹂躙しつくし――熱い迸りを子宮口に浴びせかけた。膣粘膜が自然とペニスに絡みつき、絞り上げる。むせぶほどの悦びが意識を洗い流す。
エクスタシーの嵐が収まり、疲弊しきったあたしに、マリーが顔を寄せてきた。あたしはその唇を拒むことなく、受け止めた。そのキスが今日一番優しいものであることが、なんとなく、わかっていたから。
ダイニングでWFデイリーニューズの朝刊を読みながらコーヒーを飲んでいると、寝癖でぐちゃぐちゃになった頭の先生が自室から出てきた。時計を見やると、ちょうど十時。つい一時間前に起床したあたしは偉く言える立場にないけれど、朝一番にクレームを入れるなんて話はどこに行ったのやら。
先生は寝ぼけ眼を擦りながら、うめくように訊いてきた。「……マリーは?」
「お弁当を作って、買い物に行きましたよ」新聞を畳んで、テーブルの上の、サンドウィッチが詰まったバスケットを指した。次いで、隣の椅子を引いてやり、「髪、やったげますから、こっち来てください」
胡乱げな目であたしを一瞥したものの、先生は意外と素直にとことこあたしの前にやってきて、ブラシとネクタイを寄越してきた。先生の瑞々しい茶毛を梳かしながら、こうやってしおらしくしてたり、昨日みたいにお化けで怖がってたりするときなんかは、ほんとにかわいいんだけどなあ、などとしみじみしていると、「また宝石強盗か。このご時世に仕事熱心なやつらだな」新聞を流し読みしつつ、先生がぼやいた。「ところで、あいつはいつになったらエメラルドを持ってくるんだ」
「起き抜けからずいぶん殊勝ですね。……って」ふと、あることに気が付いて手を止める。「そういえば、毎回高額を吹っ掛けますけど……回収できたためしはないですよね?」
「それをカサネが言うのか」
「失礼な。あたしはちゃんと働いて返してくつもりですよ」
「どうだかな」鼻を鳴らす先生。「いつもとんずらされたり、うちの事務所が小規模なのをいいことにうやむやにされてきたが、まァ、今回は別だ。相手はいいとこの小娘で、こっちはちゃァんと弱みを握っている。あのエメラルドはどんな手を使ってでも頂いてやる」
どう聞いても誤解しようのない悪党な口ぶりに、あたしは思わず苦笑した。
自分の首で形を作ってやったネクタイを先生の首にかけ、締めてやる。と、同時に、事務所のドアが荒々しく開かれた。戸口で息を切らしていたのは、マリーだった。
「ど、どうしたの? 珍しく慌ててるけど……」
「そ、そのッ、ハイズビルさんの、お宅に、様子を見に、行ったのですが――マーガレット、などというひとはいない、と追い返されまして、気になって、お役所で調べてみたん、ですが」マリーは深く酸素を吸い込み、「その……すでに――マーガレットさんは、亡くなられていました」