廃墟の病院でひとり目覚めた耀は自らがここにこうしている理由を回想するが……
pixivにも投稿してます。
それは輪廻の如く繰り返す夢。
「耀」
あの人が僕を呼ぶ。
蝶に化けて剥離する魂の片割れを恋い慕うように、玲瓏と澄んだ声で。
姉は美しい人だった。
物心つくかつかないかの頃からよく似た姉弟と言われて育ったが、子供の目から見ても姉の美しさは異端だった。
こんな辺鄙な島には似つかわしくない垢抜けた美人なのはもちろんだが、今思えば周囲と隔絶したその美しさはどこかしら不吉だった。
昔、あまりに周囲から似ていると言われ、疑問に思って鏡を覗き込んだ事がある。
鏡の中の顔を凝視し、自分なりに共通項をさがそうと試みたのだ。
幼心にも漠然と鏡を覗く行為がこの島でタブー視されている認識はあったが、好奇心には打ち克てなかった。
もっとも、禁じられた遊びに興じる愉悦に心の隅で浮かれていたのは否定できない。
自我が発達する思春期には姉との相似を気恥ずかしく思った事もあったが、お姉さんとそっくりねと言われるたび胸裏に蟠る違和感を掻き分ければ、そこにあったのは紛れもなく……世間の倫理に背く禁断の感情、血を分けた肉親への切実な恋情。
本当に美しい人だった。
腰まで伸ばした黒髪が裳裾の如く雅に縁取るたおやかな輪郭。
井戸底の月映えの水面に似て清冽で円かな微笑が、長い睫毛が飾る切れ長の双眸と秀でた鼻梁をはじめ、秀麗な造作を一つ一つ引き立てる。
よくよく目を凝らせば白い頬に物憂く影を落とす睫毛一つ一つまで数えられる気がした。
さしのべられた腕に身を委ねれば、人の生き死にを看取るだけの殺伐とした日々にささくれた心さえ癒される気がした。
最後に声を聴いたのはいつだろう。最後に触れたのはいつだろう。
夢の中、ベッドに腰掛けたあの人のそばに寄り添う。あの人は身動き一つせずベッドに坐している。
長い入院生活でも不思議と褪せず、潤いと光沢を保ち続ける黒髪に手櫛を入れ、指の間を流れるしっとりとなめらかな感触を愛おしむ。
姉さん。
何度呼びかけただろう、追い求めただろう、渇望しただろう。
「耀」
貴女の瞳はまるで水鏡。
どこまでも清冽に透き通っているが、けして僕の上で焦点を結ばぬ虚ろな瞳は、怜悧な月光に磨き抜かれた底なしの水面。
水鏡に映る己と対峙する。
醜く滑稽に歪む表情は痛みを堪えているかのようで、こんな幼い顔をしていたのかと頭の片隅で驚く。
姉は虚ろなのだ。
どんなに注いでも洩れてしまう、想いを捧げてもすり抜けてしまう、僕が死にもの狂いに手を尽くした働きかけは何一つ水面をさざなみだてず空の器を満たさない。
同じ病気に罹患した姉と母を同一視する気はさらさらないが、彼女に対し母を求める子供さながら盲目的な執着を抱いている自覚はある。
僕は絶望と渇望でできている。
姉さん。
貴女を乞う、渇望に狂う。
「姉さん」
水面に一石を投じ、波紋を起こす事を願って厭かず呼びかける。
自己犠牲に見せかけた利己。
僕はエゴの塊。
姉さんを救うためという口実に逃げて今まで何人殺しただろう。
いずれも僕の腕を信用し、疑うことを知らず手術を任せてくれた患者だ。
僕は僕を慕ってくれた患者を裏切ったのだ。
「耀は優しい子だから」
僕には夢がある。
貴女と、亞夜子と、三人で。いつかこの島を出て、どこか遠いところで静かに暮らす。
亞夜子は普通に学校に通わせよう、たくさん友達を作らせよう。
この島にいるから皆おかしくなる、こんな古臭く陰気な病院に一日中閉じ込められているから気が滅入る。
僕が語る絵空事を姉さんは微笑んで聞いてくれた。
でも僕は気付いていた、その笑顔がどこか寂寥とした諦観を帯びていることを。
相槌を打ちつつも付き纏う憂いを隠しきれなかったことを。
島から出られない亞夜子と姉さんの為に行く先々で写真を撮った。
ベッドに散りばめられた写真に猫のように四つん這いになって見入る亞夜子とは対照的に、姉さんは折れそうに細い指先で一葉一葉ごく静かに写真をめくっていた。
「耀の写真、好きよ」
言葉少なに褒められる。お世辞でも嬉しい。
面映ゆさを隠すように姉さんから見終えた写真を受け取り、手の中で意味もなく切り雑ぜる。
「亞夜子も喜んでいた。飽きたら鋏でめちゃくちゃに切り刻んでしまうんだけど」
「ふふ。あの子は貴方にそっくりね。特に子供の頃の貴方に」
「親父もそう言っていた。遺伝だろうか。でも顔は姉さん似だ」
「目元は貴方に似てるわ」
「いや、姉さんによく似ている。僕より姉さんのほうがずっと色白だし、線も細いし、それに……」
特別病室に隔離された母を恋しがり、泣き疲れて眠ってしまった亞夜子を思い出す。
「どうしたの、これ」
遠くへ飛んだ眼差しに違和感を覚えたのか、姉さんが眉をひそめ僕のシャツの袖をめくる。
上腕に青黒い痣がはっきりと浮かんでいた。
「ああ」と呟く。
「ちょっとね。いつもの癇癪さ」
誰の、とは言わなかった。わざわざ言わずともわかる。下手にごまかしても勘が良いから気付いてしまう。単純な親父は騙せても昔から姉さんにだけは嘘が通じなかった。
「……亞夜子がやったのね」
痣を手のひらで覆って目を伏せる。僕はそそくさとシャツの袖をもどし、無言で肯定する。
今日、また亞夜子が暴れた。鋏でめちゃくちゃにベッドシーツやカーテンを切り裂いて、甲高くヒステリックな奇声を発し、ついには担当の看護婦に鋏を投げつけた。
騒ぎを聞きつけ慌てて駆けつけてみれば、亞夜子は今まさに自分の太腿に鋏を突き立てようとしているところだった。
扉を開け放つ音に振り向いた亞夜子は、光沢ある黒髪をぐちゃぐちゃに振り乱し、蠱惑的に光る黄金の瞳に一杯涙を溜めて懇願する。
『いたいのくるしいの耀ちゃん、頭の中ざわざわうるさいの、こいつらはやくどっかやって』
「なんてことないさ」
むしろ僕自身より心配そうな姉さんを宥めるため、自分こそ痛みを感じているような姉さんを慰めるため嘘をつく。
ついさっきまで亞夜子に添い寝していた。
あどけない寝顔を思い返せば胸が痛む。亞夜子の瞳が黄金なのは近親相姦による遺伝疾患だ。それもまた彼女の存在を公表できない理由となっている。ただでさえ迷信深く因習に雁字搦めにされた閉鎖的な島の住民に存在が知れれば迫害は免れぬだろう。
忸怩たるものを感じて黙り込めば、シャツ越しの上腕をぬくもりが包む。
「あの子は……どうなってしまうのかしら」
「僕が治す。必ず」
シャツ越しに痣をなでる腕を掴み引き寄せる。
姉さんは殆ど抵抗なく肩にしなだれかかり、そのままこつりと頭をもたせて、まどろむように目を閉じる。
「姉さんも、亞夜子も、必ず」
できない約束はしない主義だ。できない約束だとは思わない、だからした。
僕は父と同じ破滅の道を辿っているのだろうか。
僕は人殺しだ。私情で患者を実験台にし利用し殺した。医者としての人生には間違いなく終止符が打たれるだろう。
それで、いい。
姉さんと亞夜子と一緒に余生を静かに過ごせるのならそれだけが僕の望み、惰性で呼吸する僕を生かし続けるただ一つの希望だ。
貴女を愛した事を後悔なんてしない。
あの子を世に送り出した事を後悔なんてしない。
貴女と出会えたから無価値な世界に価値が生まれた、生きる意義と意味を見いだせた。
「愛してるよ、姉さん」
額に額を合わせる。睫毛が縺れる距離で視線を絡める。端正な唇に許容の微笑みが乗る。姉さんが笑い、つられて僕も笑い、おくれ毛が舞う唇をついばむ。
笑っているのに泣いているような鏡合わせの表情で、胸にこみ上げる痛みと疼きと熱を分かち合う。
「私もよ。耀」
嗚呼。
貴女を忘れてしまうのが、怖い。
目覚めたら殺風景な灰色の天井が視界に広がっていた。
仄昏く闇に沈む平坦な天井から視線を下ろす。ベッド横の卓にはここへ入る時持参した懐中電灯が放置されている。
唯一の光源が老朽化した壁や床を寂寥と照らし出す。
懐中電灯の光を受け、歳月に摩耗され荒れすさんだ廃墟の光景が暴かれていく。
「………夢か」
どこまでが、夢?
体重がかかり、錆びたベッドがぎしりと軋む。寝起き特有の極端に緩慢な動作で乱れた前髪をかきあげ、ゆっくりとあたりを見回す。
あっけなく断ち切れた夢に、未練とは似て非なる虚しさを覚え上体を起こす。自嘲の念に苦く口端を歪め、あの人の髪がすり抜けていった掌を見おろす。
「幻痛か」
外科手術を受けた患者がなくした部位の痛みを感じるという脳の誤作用、錯覚。
僕に訪れているのも同じもの、広義では同じ現象だ。喪われたものを悼む痛みだ。
病院に焼き付く残留思念が過去の夢を見せるのだろうか。
入眠した意識に干渉し網膜に幻を結ばせ、過去の残響を鼓膜に甦らせるのだろうか。
虚脱感、無力感、喪失感。
ゆるくかぶりを振って夢の残滓を追い払えば、壁の扉に自然と視線が吸い寄せられる。
この向こうに秘密の小部屋がある。僕と亞夜子の秘密基地。そこには紗幕に覆われた天蓋付きの小さなベッドがある。
院長の肝煎り患者として特別な待遇を受けていた亞夜子には贅沢な程広い病室が用意され、そこには巨大なベッドが鎮座していたが、僕とふたりきりのときはむしろ隠し部屋のベッドで寝るのを好んだ。ふたりで寝るには窮屈な小さいベッドで体を寄せ合って眠るのだ。
いつしか亞夜子に添い寝するのが習慣となった。
僕は子守唄なんて知らないから、かわりに沢山の写真を見せた。旅先で撮ってきた写真。海、山、平原……赤煉瓦の瀟洒な街並みやカフェを映した異国の写真もあった。
素人が撮影したと一目でわかる平凡な構図に亞夜子は目を輝かせて見入り、僕の袖を引っ張ってはいちいち説明を請うたものだ。「耀ちゃん、ここはどこ?」「これなあに?」「綺麗なあお」「へんなたてもの」「ねこだわ。あくびしてる。へんなかお」……そして最後に決まって「いつかつれてってね」とねだるのだ。
「………」
あの子は姉さんとは違う。
姉さんはそんな願い、一度も口にしなかった。はなから夢物語だと諦めている、その潔さが酷く哀しかった。
亞夜子のように感情を剥きだしてやつあたりしてくれたならまだしも救われたが、姉さんの中からはいつしかその感情さえ抜け落ちてしまった。
姉さんは優しい人だから。
姉さんこそ、優しい人だから。
枕元に投げ置かれた手帳の存在に気付く。
使いこまれ擦り切れた黒革の手帳……警察の手配を逃れ帰省した僕の数少ない所持品だ。
何気なく頁を開き、日記を兼ねた覚え書きに目を通していく。
手帳の大半を占めるのは姉さんの容態、亞夜子の様子だ。
ぱらぱらと頁をめくる。他愛もない覚え書きと走り書きの合間にちらつく名前に目が留まる。
何故だろう、その名前だけが現実と地続きの生々しい存在感をもって目に飛び込んでくる。
『霧島 長四郎』
インクの滲んだ字に親指の端で触れる。
この名前には覚えがある。本土に渡ってからも執拗に僕を追ってきた男だ。
指を触れて初めて、彼の名前を書き込んだ部分だけが筆圧で薄っすら窪んでいることを知る。
親指でそっと辿り、口の中で繰り返す。
『逃がさないぞ、灰原』
なら、追ってこい。
『絶対に捕まえてやる』
挑戦を受けて立とう。
面白い男だった。正義感が強く義理堅い。僕とはあらゆる面で正反対、どう転んでも相容れぬ男。
本来交わらぬはずの道が交ってしまったのは、皮肉にもあの事件がきっかけだった。
手帳の最終頁に写真が一葉さしはさまっている。写真を抜き取り眼前に翳す。
そこに映っていたのはまだ若い男。黒い背広にノーネクタイ、無精ひげを散らした男臭い容貌。獲物を狙う猛禽の如き眼光の鋭さに威圧感が伴う。
興信所に頼んで隠し撮りした一枚だ。後生大事にとっておくつもりはない、飽きたら捨てるつもりだった。
「探偵が探偵されるなんてお笑いだな。顔に似合わず間抜けもいいところだ」
なのに何故、いまだに手帳に挟んであるのだろう。肌身離さず持ち歩いているのだろう。
自分にしつこくつきまとう男に興味があった。
次いで、誰に頼まれたわけでもないのにあの事件の背景を調べる物好きについて知りたいと思った。
世の中には知らない方がいい事もあるというのに、このどこまでも頑固で愚直な男は、駆り立てられるように真実をもとめてやまなかった。
「……馬鹿だな」
都会の雑踏を横切る横顔につ、と親指を滑らせる。
「本当に、馬鹿な男だ」
彼を駆り立てていたのは何か。
正義感か、信念か、それとも……薄幸の未亡人への献身的な愛情か。
彼と僕は相容れぬ人間だ。そのくせどこか、とても似ている。いやになるほど似ている。
この島に、否、僕などに関わらなければ平穏無事に暮らせたのに彼はあえて茨の道を歩んだ。
わざわざ警察官をやめて私立探偵となり、僕を追い詰める事を選んだのだ。
霧島長四郎の人生を狂わせたのは、僕だ。
「長四郎」
戯れに名を呼んでみる。
写真からは笑顔が想像できない。はたして彼が笑うことはあるのだろうか。仮にあるとしても、その笑顔は僕に向けたものではないだろうと断言できる。
僕達は敵同士だから。
天敵。宿敵。いや、違う……
「好敵手か」
そう呼んでも構わないだろう、長四郎?
手帳に写真をしまいつつ扉を睨みつける。靴音。
壁に穿たれた扉が乱暴に開け放たれ、反射的に懐中電灯をひったくる。
「誰だ!」
鋭い声で鞭打つ。靴音がやみ、眩い光を浴びた長身の人影が咄嗟に顔を覆う。光に暴かれた人影を凝視、静かな衝撃に息を呑む。
「……灰原」
「霧島」
ゆっくりと、男が顔から手をどける。足を使って調査しているのだと一目でわかる革靴、ラフに着崩した黒い背広、襟元を寛げたノーネクタイのシャツ。
喉仏が鋭く尖った首の上には、驚愕を湛えた精悍な顔が乗っかっている。
何故この男がここに?
その疑問はすぐに氷解する。決まっている、追いかけてきたのだ。
「……見つかったか。鬼ごっこは俺の敗けだな」
負け惜しみとも揶揄ともつかぬ言葉が口をつく。懐中電灯をおろし、音を立てず傍らにおく。
「さすが元警官、執念深さに脱帽だ。でも、しつこい男は嫌われるぞ」
男はすぐには口をきけないでいる。聞きたい事がやまほどあって選びかねているのだろう。
何故出会ってしまったのだろう。
本来出会うはずがなかった、交わるはずがなかった。
ひょっとして、まだ夢を見ているのだろうか。それと気付かず夢の延長線上にいるのだろうか。
「……こんなところに隠れていたのか。どうりで見つからないわけだ。迷路だな、この病院は」
「子供の頃はよくかくれんぼをして遊んだ。姉さんは僕がどこに隠れても必ず見つけてくれた。かくれんぼはおしまいよと、最後には必ずむかえにきてくれた」
霧島は渋い顔をする。
犯罪者の過去語りには興味がないらしい。わかってる。ただの嫌がらせだ。
「物好きだな、お前も。こんな何もない廃墟に一人で隠れひそんでいたのか」
この病院はいつから廃墟なのだろう、いつから誰もいないのだろう。
姉さんは、亞夜子は、あれだけ沢山いた患者たちはどこへ行ってしまったのだろう。
何か大切な事を忘れている気がする。とても大切な事を。
「慣れれば意外と快適だ。患者の悶え苦しむ声やナースコールが聞こえないからぐっすり眠れた」
僕はこの男を待っていた。
この男の訪れを心のどこかで予期し待ち望んでいた。
男が深く息を吸い、意を決したように大股に一歩を踏み出す。靴底に踏みにじられ、一面に堆積した埃がじゃりっと音を立てる。
「鬼ごっこはおしまいだ。お前は本土で指名手配されている、逃げられないぞ」
「生まれ育った島に帰ってきて何が悪い」
「お前は人殺しだ」
こみ上げる激情を抑制し、低く静かに事実を突き付ける。
「それで?」
「『それで』?」
無表情に繰り返す。片方の眉がぴくりと動く。大股に突き進んだ男がベッドに手を突き、無造作に片腕をのばしてくる。
「お前は医者だろう。自分を信頼していた患者をだまし利用し殺した、心は痛まないのか?」
「今さらだな。月幽病を治す為に必要な事だった、だから実験に使った、それだけだ」
冷たく嘲笑えば、シャツの胸ぐらを乱暴に掴まれ力づくで引き寄せられる。眼前に男の……怒気を滾らせた霧島の顔が迫る。
「何も知らない子供にまでお前は、お前たち親子は」
わざと露悪的な態度で挑発してやれば面白いように乗ってくる。シャツを掴む拳が憤りに震える。
冷めた目でその拳を見返し、突き放すように指摘してやる。
「階下で何か見たのか?」
霧島が絶句する。図星か。
一瞬力が緩んだ隙に拳に手を添えて引き剥がし、ため息を吐く。
「あの子には可哀想な事をした。一応言っとくがあれは親父のした事で、俺の仕業じゃない。俺が実験に使った中に子供はいなかった」
月幽病の治療法を見つける為に人体実験に手を出したのは否定しないが、まだそれほど症状が進行してない少女の頭をいじくるほど悪趣味じゃない。
「父親が勝手にした事だと?」
「どう思ってくれても構わない、思いたいように思えばいい。何を信じるかは自由だ。誘拐犯の言い分は信用できないという気持ちはわかるがな」
「だが……人を殺したのは本当だろう。あの娘たちにした事だって、俺は許せない」
「ああ」
「彼女たちの人生をめちゃくちゃにした償いをしろ」
一呼吸おき、揺るぎない意志と一抹の憐れみを込めた目でまっすぐに僕を見る。
「自首しろ」
思わず笑ってしまいそうになった。
「くっ……は………ははっ」
こらえきれず、実際声に出して笑った。肩を卑屈に痙攣させ、マットに両手を付いて喉を仰け反らせ、暗い天井に破裂するような笑い声を響かせる。
ベッドの正面に黙然と立ち尽くす霧島に遠慮なく失笑を浴びせる。
「自首だと?この期に及んで?この状況でそれを言うのか、どこまでお人よしなんだお前は!あと一歩の所まで追い詰めておいて手柄を逃がすのか、僕を捕まえたくて追ってきたんじゃないのか、ならさっさと縛り上げて警察に突き出せばいい!手錠は?もってないのか?用意がなってないな、ならそこらにあるもので縛ればいい、まともに組み合ったら力じゃかなわないんだ」
なんて馬鹿な男だ、なんて面白い男だ、なんて期待外れの男なんだ。
亞夜子の部屋を通って踏み込んできたくせに、僕の首に実際に手をかけておきながら土壇場で自首を勧めるなど不条理にもほどがある。
これだからこの男は退屈しない、遊び甲斐がある、さあもっと愉しませ……
「灰原」
部屋中に満ち広がる笑い声を制圧し、低い声が届く。
「何故泣く」
頬に滴る湿りけ。
「お前は何故泣いているんだ」
自分こそ痛みを堪えているような顔で、霧島が言う。
泣いている?そんなはずない。
動揺にあとじさればはずみに手帳が落下、懐中電灯の光が一条掃き清める床を写真が滑る。
霧島が無言で見下ろす。見開かれた目に軽い驚き。
しかしそれはすぐに知性を宿した理解の色へと変わり、再び僕に向き直った顔には、悲壮とも言える断罪の念が浮かんでいた。
「もうやめろ、灰原」
何を?
「鬼ごっこはおしまいだ。お前の敗けだ」
透徹した眼差しが顔の上に注がれる。
腰を屈め拾い上げた写真をそっけなく一瞥、すぐに興味を失って僕の膝の上へと放る。
写真の右下にプリントされた日付に視線が釘付けとなる。
「いや……最初から勝ち負けなんて関係なかった。俺はただ必死だった。真実を知りたくて、お前ならそれを知ってると思って」
彼は手がかりをもとめ、僕は希望をもとめた。どこかにあるかもしれない、どこにもない希望を。
逃げていたのはどちらなのか。追われていたのはどちらなのか。お互いを狂おしく求め、走り、すり抜けて。ぐるぐる延々同じところを回って。
「この島に来たのは世話になった人に頼まれたからだ。お前も知ってるだろう、神隠し事件の被害女児の母親、水無月小夜歌だ。彼女は娘の身を案じている。幸薄い人だ……愛していた夫に裏切られて、今の彼女には流歌しか、娘しかいないんだ」
うるさい。うるさい。うるさい。わかったからやめてくれ、さきを続けるな。
耳を塞いで突っ伏したい衝動に駆られる。だが霧島は容赦なく踏み込んでくる、僕が懸命に目をそらし続けた真実を暴き立て突き付けてくる。
「罪を償え、灰原。狂った父親に義理立てする必要なんかないだろう、俺はお前がまともだなんて思っちゃない、患者をだまし殺し実験材料にした卑劣な殺人者だと思ってる。お前がやった事はどう足掻いても正当化できない」
『耀は優しい子だから』
「でも、お前の足取りを追ううちに……お前が残したメモを拾い集めるうちに、気付いたんだ」
『あの子の優しさを良い方向に導いてあげたい』
「……お前を良い方向に導きたいと願っていた人がいる。その遺志を、無駄にしたくない」
―「やめろ!!」―
絶叫が喉を、圧し殺した魂を食い破る。
「灰原っ!」
力強い腕が肩を抱きとめる、霧島が勢い余って僕をベッドに押し倒す、錆びたスプリングが軋みマットが弾む、怒り狂って拳を振るい肩と言わず厚い胸板と言わず殴りつける、頭や顔を殴られても霧島はけっして僕を離さない、壊れてしまうくらい強く強く抱き締める。
壊さないために、強く強く抱きしめる。
力強い抱擁に息苦しさを覚え、ぐったりと四肢を虚脱させる。浅く弾む吐息が至近距離で絡まり合う。
両手首に食い込む爪が鮮明な痛みを生む。揉み合ううち仰向けに寝転んだ僕に膝を使ってのしかかり、ベッドに磔にする。
霧島の頭越しに暗い天井を見上げ、呟く。
「……姉さんは写真を撮られるのを嫌がった」
霧島の顔に疑問符。僕の正気を疑っているのだろう。気にせず続ける。
「撮ってあげようと言ったらやんわり断られた。今なら理由がわかる」
写真に切り取られた顔が歪んでいるのをおそれたのだ。
「馬鹿だった。そんなこともわからないなんて、姉さんの気持ちを何一つわかってあげられなくて」
なんて残酷なことを言ったのだろう。なんて無神経だったのだろう。
「……あの人の顔が、どんどんぼやけて消えていくんだ。俺の中から零れていくんだ。水みたいに」
姉さん。亞夜子。どこにいるんだ。この病院は暗すぎて広すぎる。もう、さがし疲れてしまった。
「なんで思い出せないんだ。あんなに好きだったのに。姉さんなのに」
貴女の為に罪を犯したなんてキレイごとは言わない。僕には僕の理由があって人を殺したんだ。姉さんはそんな事望んでなかったのに、
「でも、一体それ以外に姉さんを救う方法があったか?あったら教えてくれ」
ずっと一緒に居たい、僕を良い方向に導きたいという願いを叶えるには姉さんを治すしかなくて、実験を重ねるしかなくて、その間も症状は着々と進行していって、親父はどんどん壊れていって、姉さんはどんどん忘れていって、僕は姉さんにずっとキレイなままでいてほしくて、寂しがる亞夜子を慰めて
「いくら医者でも全部はムリなんだ、救えないんだ、俺はそんな器用じゃないんだ」
だから、切り捨てた。
自分にとって大切なものと必要なもの、そうじゃないものを選り分けた。
医者なのに。医者だから。僕にできることは実験の名目で人を殺し、標本を量産することだけだった。
「俺がした事は間違いじゃない」
「間違っている」
「間違いであるものか」
「間違っていた」
「じゃあ俺の患者は間違いで俺に殺されたのか、何の役にも立たず腑分けされて死んだのか、あの行為が全くの無意味なら彼等はなんで死んだんだ!?」
霧島の胸に頭をもたせ、呟く。
「頼む。教えてくれ」
霧島は答えない。
「俺が間違っていたというなら、どこから間違っていた。どこまで引き返せばいい」
霧島は答えない。ただ黙って、哀しそうに俺を見ている。
この男は、狡い。ここまで来て、自分だけ正しく在ろうとする。自分が信じる正義をどこまでも貫こうとする。
「夢を、見るんだ」
か細く震える吐息を紡ぎ、霧島のシャツに縋り付く。シャツの胸を掻き毟り、熱い胸板に顔を埋める。
「もうどちらが夢なのかわからない」
病室で姉さんと語り合う夢、亞夜子を真ん中にして手を繋いで歩く夢、「咲いた」患者達が病院を徘徊する夢……
「姉さんの顔を忘れてしまったんだ。今もどんどん忘れていってる。そのうち全部忘れてしまう」
この手はもう姉さんの感触を忘れてしまった。
メスや鉗子の冷たい金属の質感の方が、ずっとリアルに思い出せる。
「お前は現実か?」
虚勢がぼろぼろと剥がれ落ちていく。片頬に手を添え、ゆるやかに顔を起こさせる。霧島はされるがままに従う。
姉さんとは違う肌の質感。頬がざらついているのは無精ひげのせいか。無抵抗なのをいい事に、ストイックに引き締まった顔を自分の方へと導いていく。
霧島の唇は乾いていた。
かさついて、少し、煙草の味がした。
「……気が済んだか?」
「……もう少し動揺してもいいだろうに、可愛げがないな」
「男に唇を奪われて悦ぶ趣味はない」
「その割にはまんざらでもなさそうだが」
夢と現実の境目が融け出していく。懐中電灯を消す。暗闇で蠢く二つの影、動作に伴う衣擦れの音が二重に耳朶をくすぐる。
ベッドのパイプに背中を立て掛け、上体をずり上げる。じらす指遣いでシャツのボタンをはずし、鎖骨が完全に露出するまではだけていく。
「正気じゃない」
「夢だと思え。……報われぬ恋に身を焦がす馬鹿な男を慰めてやるだけだ」
抵抗は弱い。彼もまた廃墟に発生した特殊な霊的磁場に呑まれているのだろう。
喉仏が隆起し、生唾を嚥下する音がはっきり聞こえる。
「何故知ってる」
「興信所に調べさせた。気付きもしないなんて探偵失格だぞ」
互いが互いを追っていた、追い求めていた。交わるはずのない道、重なるはずのない肌が出会ってしまった事こそ最大の皮肉だ。
この男が欲しい。
「わずらわしいことは忘れてしまえ」
僕は今、欲望を感じている。
僕にのしかかった姿勢で固まった顔を指で辿る。苦痛混じりの葛藤に歪む目元を瞼で隠し、手で覆って言い聞かせる。
「男で試してみるのも悪くない」
節くれだった手をシャツの隙間に導く。乾いた手が脇腹を滑るくすぐったさに喉が笑う。
僕に目隠しをされたまま、シャツの裏側に潜らせた手をゆっくりと動かす。
「っ……」
吐息が上擦る。咄嗟に噛み殺した唇から喘ぎが漏れる。胸の突起が痛いほど固くしこり、汗を吸って貼り付くシャツに形を浮かせる。ふたり競うようにして倒錯した行為にのめりこんでいく。目を瞑る。最初と比べ大分動きが滑らかになった。前戯と表現するのもおこがましい不器用な愛撫に性感を刺激され、ズボンの前が張り詰めていく。
「ね、さ」
突然、唇を塞がれる。唇に唇で蓋をし、舌の長さが許す限り口腔の粘膜を貪り始める。
それでなくても熱く蕩けて敏感になった粘膜は一たまりもなく、飲み干しきれない唾液が口の端から溢れ、仰け反る喉を伝ってシャツに染みを作る。
「ふっ、あく」
「お前も忘れろ」
一方的に言い渡され反発が募るも、抗議さえ許されない。
唾液で潤んだ口腔を発情した蛭のように蠢く舌が凌辱する。頬の内側舌の裏喉の奥まで犯され暴かれ満足に息もできない、
絡み合い縺れ合い憎み合うように交わる。
肩から袖が抜け、外気に曝された肌を唇と手が這う。皮膚が柔らかく包む鎖骨の膨らみを甘噛みされ、微電流に似た甘い痺れが駆け抜ける。
渦巻く熱に溺れつつ丸めたつまさきでシーツを蹴る。撓む背中にしがみつき、肩甲骨のあたりに爪を立てる。
背中が撓う。もがきつつ抗いつつなしくずしに流され溺れていく。
互いのシャツを脱がし剥ぎ取り、一糸纏わぬ裸身をさらけ出す。上半身裸になった霧島。鍛え抜かれた腹筋に続く臍の下、ズボンに隠された部分が固くなっている。
細めた目に一抹の躊躇いが過ぎる。僕は躊躇せず手を伸ばし、霧島自身を口に含む。唾液を捏ねる音が淫猥に響く中、青臭く塩辛い雄の味が唾液に溶けて広がっていく。
男の物を含む事に殆ど抵抗を感じなかったのは現実感が麻痺していたからだろう。
根本に手を添え、反対側の手を動かし、舌と唇を使って抜き差しを繰り返す。口の中で霧島が一回り大きくなる。
ぬるつく顎を拭いつつ、挑むような目つきで命じる。
「来い」
雄々しくそそりたつものが後ろにあてがわれる。
狭く窄まった排泄器官を強引にこじ開けねじ込んでいく激痛と、挿入に伴う圧迫感に息が詰まる。生理的な涙が滲み、踵を跳ね上げてシーツを蹴りつける。
僕は彼を受け入れる。体を繋ぎ手に入れる。今この瞬間に感じる痛みと熱こそ全て、現実の証明。
「つらくないか」
締め付けのきつさに息を荒げつつ、僕を気遣うお人よしにあきれてしまう。
「つらいと言えばやめてくれるのか」
「………すまない」
言葉少なに詫び、誠実な口調とは裏腹の激しさで抽挿を開始。熱く脈打つ剛直が直腸を滑走し前立腺に叩きつけられるたび、頭が真っ白になるような快感が爆ぜ散っていく。
「あっ、あっ、あ」
忘却の閃光がすべてを呑みこむ。逞しい腕が絶頂間近い僕を掻き抱く。
「きりし、ま」
息も絶え絶えに名前を呼ぶ。体を繋げたままの男が、僕の頬に優しく手を添え汗に濡れそぼった髪をかきあげる。
「泣くな」
「泣いて、ない」
「俺にはいつも泣いてるように見えた。放っておけなかった」
体は繋げたまま、けれども本質的に分かりあえない。僕と彼はあまりに違いすぎる。歩んできた人生も、培われた価値観も、なにもかも。
もっと早く出会っていれば、あるいは。
「お前のやった事は許されることじゃない。犯した罪は償うべきだ」
でも、と項垂れて、僕の指に指を絡め、きつくきつく締め上げる。まるでそれが手錠の代わりだといわんばかりに、指の股にしっかりと指を噛ませる。
「この手でお前をつかまえるのが俺のけじめだ」
「じゃあ死ぬまで離さないでくれ」
「ああ」
「嘘だったら道づれにしてやる」
霧島が重々しく首肯し、愛情と錯覚しそうな一途さで唇を重ねてくる。
「地獄まで付き合ってやる」
それがどちらの言葉だったのか、永遠にわからない。
目覚めたら不衛生な天井が広がっていた。懐中電灯の灯が仄暗く部屋を照らす。
パイプベッドに上体を起こし、余韻さめやらぬ惰性であたりを見回す。
僕一人分の皺がうねるシーツに情事の痕跡は見当たらない。
「夢……」
どこからどこまでが?
終わりと始まりが繋がった永遠の円環に閉じ込められ、夢の中で夢を見る。
「……これじゃあフロイトが提唱した説を嗤えない」
夢は抑圧された性的願望の充足。
なら僕は、あの男に欲情してるのか?深層心理ではあの男に抱かれたいと思っているのか。
まさか。突飛な説を嗤おうとして、枕元の手帳が目に留まる。最終頁に挟まれた写真の角が覗いている。なにげなく抜き取り、裏返す。
『夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である』
写真には紛れもない僕自身の筆跡で、フロイトの有名な格言が書かれていた。
フロイトはこうも言っている。
「失われた者の代わりは絶対にありえない。どんなに心の中にあいた穴を埋めようとしても、また埋められたと思っても、絶対に、それは最初のものの代わりにはなり得ない……」
姉さんの代わりには誰もなれない。
姉さんの代わりは誰もできない。
ならば僕にとって、霧島長四郎は何だ?
彼の存在は何をもたらし、何を奪い、何を刻み付けていく?
誰も誰かの代わりになどなれない。
誰かを投影して体を重ねても虚しいだけ。
それでも夢で体を重ねた時、僕は彼に抱かれ、ほんの一瞬だけ姉さんを忘れた。
妄念に通じる必死さで大切なものを守り抜こうとする彼の腕に縋り、姉さんの残像を手放してしまった。
「……ああ」
鬼ごっこはまだ続いている。
大気に耳を澄ます。硬く尖った靴音が徐々に近付いてくる、もうすぐそばまで来ている。もうしばらくすればここに辿り着くだろう、僕を見つけてくれるだろう。
ごめんよ姉さん。
どうやら僕はまだ、この病院を舞台に鬼ごっこを続けていたいみたいなんだ。
まだ彼と遊んでいたいみたいなんだ。
何度でも逃げて何度でも追う、その繰り返しの中でだけ実感できる真実があるから。
現実でなくても構うものか。
「約束どおり地獄の底まで付き合ってもらおうじゃないか」
彼だけは喪いたくない。
僕にはもう彼しかおらず、彼にはもう僕しかいないのだから。
靴音が止む。扉越しに呼吸を整える気配を感じる。
錆びた軋みを上げて開け放たれた扉の向こう、愕然と立ち尽くす男の驚きに見開かれた目。
手にした写真を体の横に伏せて置き、部屋の入口で立ち竦む男を穏やかに振り返り、僕は笑って言ってやる。
「おかえり、長四郎」
しばしの別離の涯てに巡り逢えた恋人に睦言を囁くように、永遠に離れられぬ呪いをかけるように。
何度目かわからぬ、その言葉を。