母屋から少し離れた所に、小さな露天風呂がある。
今は亡き父が作ったもので、簡易な脱衣所と小さな浴槽、そして裸電球の照明があるだけの粗末なものだが、それでもここから見える景色は格別だ。
見下ろした先にある小さな町の灯り。そして空に見える無数の星々。天地に広がる光は、一つ一つは決して大きくはない。しかし寄り集まり、空と地の狭間に向かって一つの流れを形成する。
その様が、何とも美しい。
ましてや冬ともなれば、積もる雪が電球の光を反射し、暖かな光を放つようにすら見える。
晴れた日に電球の灯りを消せば、代わりに月明かりが優しく照らす。
父は彫刻や絵画のような人の手による美しさをとんと理解しない者だったが、こういった自然や風景の美については並々ならぬこだわりが有ったのだろう。
しかし湯は母家の湯沸かし器から引いたものだ。温泉を見つけることはできなかったと見える。
それでも、この景色は素晴らしいとしか言いようがない。
「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この左之助の目には値万両、万々両…」
「左之助。今は冬じゃし、宵はとうに過ぎておるぞ」
ふと溢れた芝居の一節に、無粋なツッコミを。
後ろからかけられた声に振り返れば、その古風な言い回しにそぐわぬ容姿の少女が、酒盆を片手に立っていた。
朱の混じった肩口までの黒髪は、照明の光に艶やかに輝き、一糸纏わぬその姿の、雪のような肌の白さを一層引き立てている。
体のラインは未だ・・・というかおそらくこれからも女性らしさを得ることは無いのだろうが、わずかな胸の膨らみと申し分程度に張り出した腰骨が、どうしようもなく女であることを匂わせている。
肉付きは完璧だ。あばらが浮き出るようなこともなく、かといって余った肉があるわけでもない。上から下までなだらかな曲線を描いている。
まるで彫像か何かか。性倒錯者が見れば鼻血を吹いて卒倒しかねない完全さである。無駄な毛一つなく、その肌のきめ細やかさは上等の絹のようだ。
そうして目線を下から上へとやれば、これもまた美しい。
黒曜石の如く黒い瞳はくりりとして大きく、大粒の宝石のよう。
眉の細さ、すっと通った鼻筋などは言うまでもなく、肌の白さにその桜色の唇が何よりも際立って見える。
一つとして特別なものはない。しかしそのバランスたるやまさしく黄金比と呼ぶに相応しいだろう。
だが何よりも目を引くのはその頭、髪の間から伸びるごつごつとした山羊の角だろう。
頭の上の方から生えて耳のあたりでぐるりと巻いている。
これは飾りやなにかではなく、実際にこの少女–おやまさんと僕は呼んでいるが、その頭から直に生えているものである。
そう、おやまさんは妖だ。
本人曰く齢千年を超える山羊の大妖だそうだが、この近辺でそういった伝承を聞くことが無かったので、どこかから流れてきたのだろうとは思う。
しかし以前流れ者の凶暴な妖とやりあった時などは、まさしく大妖と呼ぶに相応しい力を見せてくれた。
僕の身の丈ほどもある大きな猪であったのだが、張り手の一撃で沈めてしまった。
その後三日ほどは猪の肉を堪能したものだが、それはそれ。
とにかく、おやまさんは大妖なのである。
「どうした左之助、そんなに見つめて。穴が空いてしまいそうじゃ」
そうやって身をよじり、恥じらうそぶりを見せる。
「ははは、穴ならすでに空いているであいたぁ!」
流石に下らなかったか、手刀が脳天を直撃する。頭が割れそうに痛い。
「くだらぬ。わらわは斯様な下ネタは好かん」
「スイカ割りの季節でもないのに、僕の脳天が割れたらどうするんですか」
「その時は」
と、舌なめずり。血のように赤い舌が覗く。
「食ろうてやるよ。骨の髄まで、余すところなくな」
「そう言う時は妖っぽいですよね、ほんと」
酒盆を湯船に浮かべると、僕と同じく肩まで湯に浸かる。
「ふぅ・・・」
吐息すら艶かしい。新雪の肌がゆっくりと朱に染まっていく。目の前の、僕の肩口までも背の届かない小さな女が、存在全てを以って誘惑しているように感じる。
だから、僕も本能の赴くままに–
「わきゃっ!?」
「一人でいると寒いですよ、もっと近くへ」
その腕を掴んで引き寄せる。
少し驚いたようだが、引き寄せられるままに胡座をかいた僕の脚の上に座る。
なにやら抗議するように若干睨まれたが、それすら愛らしく思える。
「急に手を引くなど、びっくりするではないか」
「すいません、おやまさんが余りにも魅力的で愛らしかったのでつい」
というと今度は顔を真っ赤にして黙りこくってしまう。
照れている。目線を合わせてくれない。
だから今度は後ろから抱きしめることにした。
「・・・」
「あたたかいですねぇ」
「・・・」
「どうしたんですかおやまさん、黙りこくって」
「・・・ずるいのう、左之助。分かっておるくせに」
「ふふふ」
口では飄々としたものだが、その実、昂りを抑えるのに必死だ。
抱きしめている腕の内から、じんわりとした温かさが伝わってくる。
当然回した腕はおやまさんの脇を通して胸のあたりを抱える感じになっているので、柔らかな膨らみの感触が直に腕に伝わってくる。
ふわりと髪から甘い香りも漂ってくる。
語彙を失いそうだ。もう失ってる。
「まったくいつまで経っても甘えん坊じゃのう。そんなにわらわが好きかの」
「当たり前でしょう。小さい頃から僕の面倒を見てくれたのはおやまさんですよ」
「昔のようにやまねえ、と呼んでくれてもよいのじゃぞ?」
にやり、と笑っている。
どれ、ここらで一つ仕掛けてみるか。
「はは、それもいいですね。けれど」
「けれど?」
「今はやまねえ、ではなく、おやまさんが好きなんですよ。姉ではなく保護者でもない、一人の女性として」
ぼん。
そんな効果音がしそうなくらい、おやまさんの顔が真っ赤に染まる。
耳まで真っ赤。
勝った。
「〜〜〜〜」
「僕の勝ちですね」
「・・・やられっぱなしではおらぬぞ、左之助・・・」
そう言うと、くるりと僕の方に向き直り、僕の左耳にその小さな胸を押し当てるように抱きしめる。
ふにゃり、とゆるく自己主張する乳房。そして、とくんとくんと、鼓膜に届く心音。生きている証し。
九つの時から聞いているそれは、聞き慣れてはいても安心する。
「今朝方、何やら魘されておったようじゃからの。怖い夢でもみたかの?」
「・・・はは。やまねえにはお見通しなんですね」
「当たり前じゃ。もう何年一緒に居ると思っておるのじゃ」
ため息ひとつ。心配をかけていたのは間違いないのだろう。
「悪夢、と言うのでしょうか」
だから僕の側も、素直にその理由を述べる。
「幼い頃、丁度おやまさんに出会った頃の僕の夢なんですよ。おやまさんによく似た、角のない女の子と、何か黒いものに追われて、雪山を駆け回っているんです」
「・・・そう、か」
なでり、とおやまさんが僕の頭を撫でてくれる。気持ち良さと安心感で溶けそうだ。
そのままに夢の話を続ける。
「そうして山の中のお堂にたどり着くんですが、そこには顔のない観音様が居て」
「ほうほう」
「そうしたら何か、いあ、いあと唱えるお経のようなものが聞こえてきて、そこで目が覚めるんです。いつもいつも、そこで」
目を瞑る。瞼の裏に、まるで夢ではないかのように鮮明に思い出す、黒くて、顔の無い千手観音像。
「あの女の子がどうなったのか、僕にはわかりません」
「怖い、というか、不思議な夢じゃのう」
そう言って頭を撫で続けてくれるおやまさんの目には、どこか遠いものを見るような、何かを慈しむような、あるいは寂しげな、不思議な感情が宿っていた。
ひとしきり僕の頭を撫でると、僕の膝の上からも降り、隣に寄り添って頭を僕の肩に預ける。
「大丈夫じゃ、左之助。その夢には、わらわが居ったのじゃろう?この角は無くとも、わらわがそこに」
「ええ・・・けどあれは」
何か言おうとした僕を遮り、おやまさんは言葉を続ける。
「きっと、わらわじゃよ。だからお主は助かるとも。大丈夫、わらわが必ず、いついかなる時でもお主を支えようぞ。それがわらわの幸福でもあるがゆえ」
「・・・おやまさん」
じん、と心の中に染み渡る。この人は、人じゃないけど、僕のことをこんなにも想ってくれている。
それだけでもう、何も怖くはない。
「ありがとうございます」
「なんじゃ、礼なんぞ。くすぐったいのう」
ケラケラと笑うおやまさん。そうして、不意に立ち上がる。
「酒、飲まずじまいじゃからの。夕餉にそのまま出すとしようか」
「そうですね。今日の献立はなんですか?」
「そうじゃの、良い鱈があったからの、みぞれ鍋にするかの」
「いいじゃないですか。酒との相性も完璧です」
そうやって脱衣所へ、僕らは一緒に歩いていく。
明日も明後日も、きっと一緒に、同じように歩んでゆく。
雨の日も風の日も、晴れの日も、いつだって。
そう考えたらなぜか、無性に心を伝えたくなって。
「おやまさん」
「ん?なんじゃ?」
「愛してます」
おやまさんはくくくっと笑って、僕を屈ませ、耳元に口を近づけ。
「わらわも愛しておるぞ、旦那様。この先ずっと、ずーっと一緒じゃ!」
そう、囁いた。