これは「和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件」の二次創作です。
 作者様から許可を得て執筆しております。
 第四一話 アンブッシュ爺の脳天ブレイクから大きく分化した世界が舞台です。
 本編で語られていない部分は妄想で補うスタイル。
 地雷要素マシマシ。
 見てらんねえよォ! のオンパレードでお送りします。

 情報は原作四章 章末・後までの物を用いております。
 原作はこちら➝https://syosetu.org/novel/232822/

 二次創作の都合上、原作伴部君なら自爆してでもしない事をしています。ご注意ください。

 最後に、タグを見てこれはあかんと思った方はぜひブラウザバックを。
 SAN値が減少する恐れがあります。

 ※2021年3月20日 読みにくかったので一部の文と文章の間隔を修正。大筋に変化はありません。
 重ねて追記。鉄鋼怪人様より本作を紹介して頂きました!
 この場を借りてお礼申し上げます!

 ※2021年3月24日
 希望がない(意訳)と感想欄で指摘を頂きました。
 後書きでハッピーになるよと遠い未来の展望は記載させていただいたのですが、読んでいただいた方の心情を鑑みるによろしくなさそうなので、希望はあるよ、ということで、最後の部分に追加を行いました。
 最後の部分の受け取り方が若干変わるかも知れませんが、話の意味に変化はございません。

 ※最後の最後に、この話はタグ「心折」があります。読んでくださる方は十分に心づもりをしてお進みください。


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橘佳世の献身

 太陽が天頂に差し掛かってもその天幕は内部に薄闇を湛えていた。

 

 分厚い布を潤沢に使った構造は人の手になるもので、一度に数百の人が入ろうとも窮屈を感じさせない広さがある。

 所有者が人かそれに比肩する知性を持った存在である事の証左に細かな埃さえよく払われていた。

 

 天幕は、昨今の建築における主流を占める、草原地帯の遊牧民の折り畳み天幕を不格好に真似た物とは一線を引いた。正統な造りで一から作成されたであろう事は当の遊牧民たちが入れば一目瞭然。なにせ、死人からはぎ取った布切れを猥雑に縫い合わせた物や、腐り切らなかった大腿骨や腕の骨が用いられていない。

 

 この天幕は、人の尊厳が陵辱され切った時代にあって、絶滅危惧種並みに希少度合いが高かった。

 

 馬車がすれ違える程大きく作られた入口は劇団等の公演用途もあるのかと想像させる規格外。

 

 内部は樹齢数百を超え、千単位の希少な材木で支えられている。神木に至る寸前の素材だ。付随効果として僅かながらに残留する霊力が、邪なる者の侵入を拒む。

 

 地面すら剥き出しでなく、手織の敷物が踏み入った者の足元を柔らかく保護する。一枚で数十から数百の人を生涯にわたって保有できる価値が秘められている代物を、地面にじかに敷いていた。

 汚れを厭わず、利用用途に沿った運用は持ち主の財力と思想の片鱗を伺えるものだった。

 

 天幕の厚い布は、施された術式もあって、驚くほど音を吸収する。静寂と闇が同居する空間にあって、巨大な鉄檻と傍らに佇む少女がいた。

 

 少女は一見浮浪児であった。

 

 足は裸足。履物は天幕の入り口で脱いだのか、泥汚れはなかった。

一枚大きな布をフードのある服に見立てて、軽く体に巻き付けている。

 布は、よく洗われているが、くすみかかった白地からはどうしようもなく、貧相な印象を受ける。それを、大きな影を蓄えるフードの奥にひっそりと覗く舶来の風体が掻き消す。

 

 可愛らしく、微笑むと年頃の娘を持つ親は骨抜きにされそうな顔を持つ少女だった。だが、今は年相応の柔らかな皮膚を緊張させ、檻の中を覗き込んでいた。

 

 ケーンと狐の鳴いたような鋭い声が天幕を満たす。

 檻から轟いたものだった。呪符を包帯の様に幾重にも巻き付けた檻は鳥かごの丸みを帯びている。内部から不埒な拘束を焦がさんと赤黒い炎が噴き上がった。

 人が中に入ってぐるぐると回れるくらいに広い檻には西洋でいう所の不死鳥によく似た妖がいた。挿絵などで紹介される明るい紅色ではなく、傷つけた動物が流す、膿みかけの血液に混じる赤黒い色合いをした鳥だった。

 

 焦げた人影に足を休め、時折、盛大に炎を舞い上がらせる。炎を抑止し、熱を逃す術式が対応しきれず、炙られた鉄部分が赤熱する。僅かに漏れた熱風が少女に届いた。圧倒的な熱量に下敷きにされた人影はひきつったように手足を伸ばす。生理的な反応で、すぐさま皮膚がケロイド状になり姿勢が固定された。

 

 不満を歌うように再度甲高く鳴くと、足元の人影は質量を損ない、泥に沈み込むようにぐずぐずと消えていく。しばらくすると、そこに何かがあった事を示すのは焼かれた温度差による地面の焦げ跡の色目くらいになってしまう。

 

 その人影が魂の抜けた文字通りの抜け殻であり、舶来の血流れる艶やかな女性であったことを知る者は檻の外で不死の鳥をじっと眺める魂の持ち主だけだった。

 

「お別れは済んだかしら」

 

 天幕に外の明かりが差し込む。従者を伴い、桃色の着物を纏った麗人が入ってきた。舶来の白手袋を品よく両の手に嵌めている。

 

 明暗の順応に檻を見つめていた人影は目を細めた。

 

「ええ、きれいさっぱりと。心残りはありません」

 

 眇(すが)めた目を大きく開き、生まれ直した自身へ馴染み切った証左の様に明るく答える。

 

 彼女にとってかつての自分を火葬に処すことは一種決別の意味合いがあった。

 彼女が騙し、破滅させてきた相手には、諸共心中しようという輩も数多くいた。それらの情念の籠った呪詛は先ほど焼き尽くされた肉体を蝕み、劣化させていた。

 

 今では不死鳥の炎で含めた概念事焼き切ったそれ。現代でいう別れた彼氏のアドレスを消去するに似た行為。されど、決定的に違うのは縁切りを念入りに行って尚、悪縁を結ぼうとしぶとく呪詛が蠢く事だ。

 

 彼女の自意識は魂事残っている。現世にある以上、呪いを放った当人は再度呪を放つだろうし、呪詛の本体が肉体に宿っていないものは一時的に対象を見失った程度の効果しかない。

 それでも今の彼女には一時的にまっさらな肉体が必要だった。これから会う相手に粗相があってはならないという禊(みそぎ)も含まれている。

 

 それだけ特別な相手だった。

 

 麗人は少女の朗らかな声音にもさして興味もなさげだった。「そう」と軽く呟くように朱を伸ばした唇を震わせるくらいだった。

 取り出した扇で口元を隠しながら檻へ向かう。檻から怯むほどの熱量が叩きつけられるも、気にしたそぶりさえない。

 

 まだしも後ろではくはくと口を開閉し、心配の言葉を掛けようか逡巡している狐耳の従者の方が人間味を感じられるだろう。

 

「畜生に転じても、妄執は変わらないのね?」

 

 麗人は扇を閉じると、こつりと懐刀のように檻にあててうそぶいた。落ち着きのない鳥を揶揄しての事だった。

 

 ケーンと再び鋭い鳴き声。

 

「まあ、怖い」

 

 駕籠の隙間から細い首を突き出した鳥の頭があった。下手な名刀より尖った嘴の先が、瞬きすらしない麗人の網膜へ突き立つ寸前で止まっている。鳥は駕籠の隙間を無理に広げて凶行に及んでいた。

 

 本来、大きめの子供くらいはある巨大な鳥では到底突き抜けられない幅だが、炎を爆発的に燃焼させて、自身へ加圧。弾丸の如き物理的威力で以て術式を無視した構造破壊を目論んだものらしい。

 

 だが、檻へ施された防備は素材からして一級品。見事に暴虐を食い止めた。麗人には傷一つない。熱さえも、檻を変形させるのに大半が消費され、残りも直接接触したせいで人に害を及ぼさない程度にまで下げられた。

 

 それでも、ただの人間であれば、瞬間的な熱さに飛び退かせる位は出来たかも知れないが、膨大な霊力で身を鎧に包んだ如き彼女に異変を生じさせるには至らない。結果、鳥に許された戦果は彼女の前髪を僅かにそよがせるくらいのものだった。

 

 されど麗人の知る彼女であれば、一級とは言え、概念的な守護を重ね掛けした程度のもので封じられているのが違和感でしかなかった。

 

 理性を持って異能を行使する彼女であれば、守護の僅かなつなぎ目を炎で焼却し、瞬時に無効化するくらいはやってのける。今の、がちがちと嘴を噛み合わせ、眼球の水面(みなも)へ飛び込まんとする鳥は対極。

 捕えた時はあらゆる拘束具が用を為さず、仕方なしに素手での捕獲を試みることになった彼女の手には、癒えない火傷の痕がある。だが、その時の残滓も、代り映えのない檻生活ですっかりと摩耗したと見えた。

 

 鳥は埒が明かないと本能で悟ったか、檻から離れ、焼却の炎を浴びせようと熱を蓄え出す。

 

 どこまでも力に依った妖の論理に背を向け、麗人、嘗て鬼月の二の姫と呼ばれた彼女は小首を傾げて成り行きを見守っていた少女に問いかける。

 

「首尾は?」

「万事滞りなく」

 

 あくまで厳かな元・二の姫、葵。緩やかに頭を垂れる蜂蜜頭の少女、橘佳世。両者の端的な力関係が天幕の中に如実な陰影を刻む。

 

「そう、良かったわ」

 

 やはり一毫(いちごう)も興味を抱かない口調で不備のない事を褒める。佳世は知っている。葵にとって、彼に関すること以外は全て二の次三の次、下手をすれば、興味のやり玉にすら挙がらない。それほどの時を彼女は彼抜きで過ごしてしまった。

 

 外見こそ、十代の張りと艶を持った肌で繕っているが、内部は成長を終えた古木のように死した感情が堆積している。今の彼女は目的を果たすための絡繰り人形にも等しい。若木へと返り咲き、新たな芽を吹かせるにはやはり失った者が必要であった。

 

 だからこそ、佳世が言葉を弄して、彼を獲得する余地があった。

 

「代価として今より私が存続する全ての時間を頂戴いたします。後の時間はご随意に」

「構わないわ」

 

 麗人は悠然とした構えを崩さない。

 気合を入れた佳世が頭を上げると柔らかく笑んだ姫がいた。

 

「どうかなさったのですか?」

 

 親し気な表情を向けられるなどこの場面では思いも寄らない彼女は素で疑問をぶつける。

 

「酔狂ね。たった一度の逢瀬に何もかもを注ぐなんて」

 

 彼女の決意をこき下ろすような葵の答(いら)え。だが、佳世には皮肉にくるまれた激励とも取れるものだった。なにせ、世の暗闇を照らす輝きに目を焼かれた者同士なのだから。

 

「その酔狂に懸けた放蕩者はどこのどなただったでしょうか?」

「褒めてあげたいわね。不確かを下支えする何て地味な事を数十年もした人物を」

「奇遇ですね。私も、私の時節を輝かせる立役者に是非ともお礼を申し上げたいと思っていたのです」

 

 うふふ、あははと、世の男子が見れば、見惚れ、しかる後に含まれる黒さに恋の瞬間冷凍が生じる愛想を交わし合う。

 挑発に当てこすり。彼がいれば盛大に肝を冷やした言葉のさや当ても彼女らには挨拶のようなもの。順位が定まれど、想いの熱情では負けぬと互いに理解しあっているからこその無礼。

 

 狐耳の従者は耳と尻尾をぴんと立てて極力物音を立てないように縮こまっている。

 

「あの鬼は今どうしているのかしら」

 

 目指す者は同じ故に、話の種はさらに別の同類へ飛び火する。

 

「移り気なものです。いくつも見繕って、彼に匹敵するものが無いとどんぐりの背比べにも飽きたみたいです」

「あら、なら近々仕掛けて来るかしら」

 

 警戒線の引き直しが肝要ねと技能事一般に明るい才姫はごちる。とは言え、人数を擁するだけにすぐさまとはいかない。

 佳世の支配領域に敷かれた防諜はズタズタに引き裂かれている。他ならぬ葵の手に因(よ)った。その事について彼女は文句を言える立場でもあったが、鬼月の崩壊に伴う各種禁薬の素材入手難度の低下という実利もあって、歯止めがかかっているのが実情だった。まだしばらく混乱は続いても良かった。

 その為、優先順位は低めだったのだが、引き上げを迫られることになりそうだった。

 

 あの鬼は短気で勘気の跳ねがどこへ飛ぶか分からない曲者だが、物事の推移を予想する聡明さも持っている。いずれ、救妖衆の支配も過ぎ、人の復権が為される時が自身の討伐時と心得ているのだろう。英雄の到来を望むように過去の追想に忙しい。彼の位にほどよく弱らせた人間を育て、彼の人生を模倣するのだと、得意げな話をしていた。

 最も上手くいっているかは支配域の人口が如実に減り、佳世の所へ度々無心に来る辺りお察しではある。

 

 うまくいった積み木を、木目同士がかみ合っていないから。些細と言っていい理由で台無しにする化け物であった。

 

 そんな彼女が求める無理難題だが、彼は実力、人脈、気運を駆使し、自覚無自覚によらず、潜り抜けて来た。再来すると知らせが入ればどう動くか。彼をどうやってか探知した不死鳥の忙しなさを見ればありありと描ける。

 

「勝手ですね。本当に」

 

 人の努力を横からかっさらい、あまつさえまるで悪びれない。お互いに納得ずくの取引を理想とする商人とは相反する盗賊と言っていい気性に佳世はいい気がしない。但し、契約の齟齬を突くのはお互いに許されたやり取りであると、商人の血を引く彼女は心得てもいる。

 物は言いよう。あからさまに欲を貼り付けた在り様が気に食わないのだ。

 

「彼は渡さないわ」

 

 桃色の姫君だった女は笑みもなく断言した。

 枯れ枝を踏み抜くような音が宣言に続く。親指と人差し指でクルミでも割るように二つ折りにされた扇の残骸が高価な敷物に散らばった。

 従者は袂を探ると取り出した道具を使って、慣れた手つきで掃き清め出す。

 

「ええ」

 

 せっせと勤しむ白狐をよそに、同感だと佳世も素直に頷いた。

 葵は流し目で佳世へ意味深な言葉を寄越す。

 

「あなたもそれくらいの情意があればいいのに」

「本当に取りに行くのなら、あなたはここにはいませんよ」

 

 それだけの力も、人脈も彼女は用意できる。伊達に、国の外と危険な商いをこなしてきていない。

 殺気。

 

「それはどちらの意味かしら」

 

 葵は躾切っていない犬に芸を仕込む人間の様に尊大だ。だが、立場の違いこそあれど、今この時ばかりは佳世が、彼女に阿(おもね)る必要はなかった。

 

「随意に」

 

 彼女は柳に風と受け流す。彼女が天幕から出れば、余程の事がない限り断絶する関係。だが、繋がりを持って、利を手繰り寄せる商人としての性が正面からの衝突をこの期に至っても取らせはしない。

 つまらなそうに桃色の麗人は鼻を鳴らした。

 

「気概が有れば、妾の座を用意してもよかったのだけど?」

「ご冗談を、一番でなくては気に入らない方ばかりでしょうに」

 

 つまるところ、現状が彼女にとっての最善。

 

「あなたもそうでしょう」

 

 佳世は誰かを傷つける等無理な、子供らしい細っこい指先を檻へ差し出した。間髪入れず、置いてきぼりにされていた鳥が食らいつく。勢いが良すぎて、肉が捥(も)がれても彼女は姿勢を崩しすらしなかった。

 

 爪の生え際から丸ごと無くなった指。

 流れ出す真紅の液体をぺろりと小さな舌で舐め上げる。それだけで、負傷は幻の様に消え失せた。

 

 不死鳥は恨めしそうに鳴いた。

 

「あ、あの」

「ありがとうございます」

 

 従者の少女がためらいがちに差し出した返り血を拭う為の布を礼と共に受け取る。はじめは人もどきだと区別の意図を込めて接していたが、自身が魔女になった今では彼女にどうこう言う意味はなかった。

 人は自身に降りかかる物事こそ親身になれるという一例なのかも知れなかった。

 

「あなたは変わらないのですね」

 

 近しく思うからこそ気になることもある。佳世は前々から感じていた違和感を解消する事にした。

 何せ、今の自分の在り方とは違う方向へと自らを固定した相手だ。その思考には新しいもの変化を嗅ぎ付ける彼女への足しになるのは間違いなかった。されど、それはもはや時間の使い道が固定された彼女には感傷に過ぎないのも事実。つまるところただの興味本位だった。

 

「い、いえ。私なんて姫様がいなければ、こうしてあの人の近くにいることもできませんから」

 

 返却された布を佳世とそう変わらない小さな手で受け取ると、弱い姿を取った半妖はしょんぼりする。

 世界は霊力も何もない人に厳しい。鬱憤が溜まるからこそ、丁度いい八つ当たり対象として人と妖の狭間にいる半妖は生きづらかった。力では敵わないから影にて敵対されない程度の嫌がらせを継続される。それでなくても、力を尊ぶ妖怪には自分らと同じ妖力を持ちながら、一向に強くなろうとしない彼女は奇異に映っただろう。

 葵に仕える立場があればこそ、目立った傷も負わず、生きてこられた面もある。何より異質なのは、彼女を彼に託した半妖の恩師が高潔な生きざまを貫いて、生きざま故に命を落としたのを知って尚、目立って力を求めない事だ。

 

 守られようというのではない。葵と彼を呼び戻す下準備の打ち合わせをする中、時間の出来た彼女が、鍛錬を行っているのは時折目にする。それでも力の上昇は微々たるもの。本質的に強くなることに向いていない。生物にあるまじき生態を是としているとしか思えなかった。

 元の妖怪が趣向を凝らした絶対的な加虐者として君臨している事をいつかに知ってより、一層その思いは強くなった。

 

「ふふ、だからいいのよ。彼が意識を取り戻した時、浦島太郎じゃ困るでしょう?」

 

 児童教育の本を引き合いに、葵は彼が長い眠りから覚めた時、見知った相手が変化していては目印にならず、混乱を助長すると指摘する。

 しかし、彼女自身そう変わりはない。矍鑠(かくしゃく)たるご様子で、目印としては問題がなさそうである。

 

 三つ子の魂百までと言うが飛び切りだった。

 

 むしろ周りが変わり果て、彼が困惑した姿を愛でたい。そうなってほしいという思惑すら透ける。彼に全てを捧ぐ決意をしていても、次に会うときは未だに鬼月の姫とその従者なのだから。

 

 世話焼きとは少し違うのだろう。子供が遊ぶのを眺める母親のような心境なのかも知れなかった。

 

「そうですか。あなたも時が止まったのですね」

 

 佳世は目を伏せる。従者は背丈も口調も変わらない。

 佳世と葵が積み重ねた変化は所詮外見的、能力的なものだ。本質は彼に焦がれ、そこで止まっている。従者も同じく時が静止した。ただ、範囲が及んだのが、思考、姿、成長性、ほとんど全てだった。

 

 本来の彼女であれば、とうに九つの尻尾を生やせているだろう。元々辿り着いていた力を取り戻すだけなのだ。引いた溝に水を流すくらいに容易かろう。

 

 加えて、姉であり親代わりでもあった凶妖と一緒にいたころと違い、佳世のコネクションから強くなるための栄養源も狩場の情報も容易く入る。それだけ潤沢な資源ある環境にいても、彼と過ごした姿を取り続けているのだから、三人の女の中で彼女が一番頑固者の可能性があった。

 

 半分妖怪だからこそ、時間間隔も緩やかだ。再会した時、彼を慕う女では二番目に変わりない心胆で接する事ができるだろう。一番目は勘気がひどすぎるので実質安全に会える相手では一番かもしれない。

 

 人としての時間間隔を積み重ねた彼女らでは想いこそ保持すれども、下手をすれば彼を可愛らしい孫の様に感じてしまうかもしれない。彼女たちは想いも告げていなければ、恋人でも、ましてや夫婦ですらない。再会してすぐ「ばあばですよー」など矜持が廃る。

 

 傍にいて愛しい心を向けて欲しい彼女らとしては由々しき問題であった。もちろん関係性が変化しようともいかようにも愛しつくす自信はあるが、可能なら別れた頃からの関係を続けて、緩やかに変化させたいのが乙女心である。

 

 ではまっさらな状態でもう一度やり直すのが最適解なのかも知れないが、記憶に干渉する術は分の悪い賭けであった。人は連続した時間の中で生きている。どんな悪影響を及ぼすか知れたものではない手法を試すのは厳しい。彼を取り戻した後も人生は続く。霊地を求めて彷徨う妖怪や退魔師崩れなど、外敵に対処しなくてはならないのだから。

 

 だからこそ諸々の制約もすり抜けて、彼と流れた時間を気にせず微笑(ほほえみ)交わせる相手に少々の嫉妬をするのは仕方のないことだった。

 

「うらやましいですね」

「そうねえ」

「えええ?」

 

 愛に飢えた獣達の視線を浴びて、肉中心の食性をした獣に似た半妖は見事にうろたえた。

 

 

 

 

 

「片付けて下さい」

 

 天幕の向こうへ指示を出せば、控えていた従業員たちが巨大な檻を外へ運び出す。刺激を加えられた檻の主はますます激しく暴れるが、運び手は鍛えた半妖たちだ。どうこうなる由縁はなかった。蜥蜴の尻尾を垂らした現場班長の指示の元、粛々と内装が整えられていく。雑然と積み重ねられていた不死鳥の世話具一式が取り除かれ、広々とした空間が覗き始めていた。

 

 かの不死鳥が次に彼にまみえるのはいつだろうか。もしかしたらもう会う事はないのかも知れないと思うと、かの母神へ彼の亡骸を抱えて飛び込んだ彼女に佳世は感謝すべきなのだろう。

 妖怪を利用しつくすその異端の発想こそ、彼を呼び戻すきっかけになったのだから。だが、彼に筆舌に尽くしがたい痛苦を味わわせた事実が謝意を帳消しにして余りある。佳世の唇は言葉にならない白い糸をか細く立ち上らせるだけだった。

 

 彼女たちは変わり果てた。

 

 鬼月の一の姫は彼の復活の触媒となり、必要な要素以外を焼き滅ぼす形で彼と一緒にかの母神から生まれ直した。二の姫は最後まで頑健に妖怪に抗っていた実家を背後の一刺しで滅ぼし、佳世自身は継ぎ足しに継ぎ足しを重ね、どこまでが自分か分からなくなり始めている。

 佳世はこれまで同盟を組んできた相手に向き直った。

 折り目正しい礼を送る。

 

「今日という日を迎えられたことに感謝致します。私がまだ私の内に約束を果たす望みが叶います」

 

 形式ばった物言いは深い謝意の表れ、照れ隠しでもあった。

 

「商人なのに謙虚なのね」

 

 常の彼女が行う商いともいえない取引のような何かを知る麗人は薄く笑った。

 

「充足と富貴は一致しないものですので」

 

 佳世は表情を変えない。今までがなりふり構わなかっただけで、二人が本当に欲するものは両手を回せば包めるくらいだ。ただ、煮炊きした魚の切り身より脆く儚いから、丁重に保護するのに地位と財貨、何より力が必要だっただけで。

 

「もっともだわ」

 

 権力に付随する財宝や、美貌などより、同じくたった一人の男を追い求める乙女はなんら躊躇いなく同意した。

 死の間際に実祖母から意識の転写を受けた彼女は実質二人分の熱を持っている。彼女がそう言った。彼への献身の方向性に違いはあったけれども、理解者を撃ち滅ぼした彼女の心境は如何ほどか。

 木を隠すには森の中と、霊力持ちと半妖に溢れたこちらの領域に流れて来てから、佳世ほどではないが時折昔の事を思い出したとぼんやりしているのを見ることがある。こちらの一角を間借りしてより顕著な哀憐(あいれん)。久遠の膿み。彼女たちは一日千秋の思いで日々を過ごしている。

 金物が打ち合わされるけたたましい音。

 

 侵入者だ。

 

 桃色の姫は柔らかな色彩に似合わない酷薄な表情を浮かべた。「無粋ね」と。

 あわただしく迎撃態勢を整えた従業員たちが、佳世へ最後の報告にやって来る。簡単に二言三言告げ、激励すると、彼女へ心酔する者たちは男女問わず頬を林檎の如く紅潮させた。微笑み一つ、仕草一つで人の群れを誘導できるなら安いものだ。襤褸を纏った姿でも、発揮する魅力に減衰はない。

 商売道具のひとつなのだ。磨きに磨きをかけた彼女自身を起点に全体を操る即興の人形劇。望みを満たすのに、労力にすらなりはしない。

 

 いい日だというのに、招かれざるモノたちは時節を選ばない。

 

 葵が行く。時間を稼いでくれるのだ。

 

 巨大な天幕の入り口で運び込まれる新たな檻とすれ違った麗人は「また会いましょう」と振り返りもせず呟いた。それは佳世へのはなむけか、それとも檻の中の彼へ届ける言葉だったのか。有り得ないと知りつつも、両者に向けてのものだと佳世は思い、裾を握りしめた。

 

 

 

 

 

 天幕の入り口が閉じられると、見るからに複雑な文様を刻み込んだ呪符を貼り付け、両開きの仕切り代わりの布を開かなくしてしまう。彼女はこれから一切を秘め事とする腹積もりだった。

 ただただ広い空間には天幕をすり抜けて来た僅かな光が、夜空の下にでもいるような情景を提供している。佳世はそのことに風情を感じたように淡く笑みを湛えたまま、足音も立てず滑るように行く。

 

 中央部に置かれた物に掛けられた大きな布をえいやと小さな体を一杯に使って引き落とす。巨大な檻と内部にうずくまる獣が晒された。

 

「……っ」

 

 佳世は急な動悸を宥めるように胸に手を置く。紅葉の様に紅潮した小さな手の下では四十八もの不死の命を凝縮した心臓が飛び出さんばかりに拍動を奏で、凱旋を歌う。

 どれだけ時を隔てたか。この時がついに来たと彼女は檻の入口へと小さな歩幅でぺたぺたと向かう。

 

 出入り口の落とし戸は取り払われている。

 

 檻は内部にいる者を閉じ込めるものではなかった。

 

 もてなし、守るための物であった。

 

 黒に輝く不思議な金属で作られたそれは金箔を表面に張り付け、装飾を施されていた。華美な彫り物は内部にも及び、柱の一本から、床、天井に至るまで、何がしかの物語の絵図が展開されている。本来であれば、赤、緑、青、その他無数の色合いで彩る予定であったが、中にいる者が、ことさら仰々しい内装を気に召さなかったので取り下げられた経緯がある。

 

 そう、中にいるものは囚われではなく、客人であった。佳世にとっては最上級の賓客。

 

 されど、檻にいる者の常として、首には申し訳程度の木でできた首輪と鎖が嵌められていた。

 その客は冷たく硬い床ではなく、敷き詰められた柔らかなクッションに臥せっている。体を預ける彼は、体温を奪われぬようにと埋もれる猫のような姿でもある。だというのに、硬い鱗も、鋭い爪牙も極上の羽を詰めた布袋を糸の一つも解れさせていない。獣の姿をした客人が水面に揺れる葦程にも動いていないからであった。もっともこれは彼が、気性が荒くないと言うだけではない。檻の中に置いた水も食事もしわぶき一つ立たず、塊の一つすら欠けていない。

 

 不死鳥の執念が彼を人で言う拒食症に陥らせているのだ。

 

 深刻な問題であった。強靭な妖でも、絶食して生きていけるものもいるにはいる。しかしそれらは元より、生態によるか、後天的に栄養を賄える循環機構をそれと分からぬように用意するモノたちである。彼は、瞼を上げるのも億劫そうで、とても、食事を抜いて体を保ち続けられるようではない。

 

 人であった矜持を引き継いでいるのか、化け物は喰らえども、人はふいと顔を背けるばかり。今までは化け物に救いようがない人をわざと襲わせて、糧にするよう差し向けてはいたが、学習したのか、腹を据えたのか、目の前で悲痛な叫びと血しぶきが上がろうとも食事をとることはなくなってしまった。それでも、人は死なせまいと目の前で襲われているのを弱った体で救おうとするのだから、力になりたい佳世としては本末転倒であった。

 

 もう一度死地に追いやるなど何も知らない蜂蜜頭に戻ったようでもあったから。

 

 佳世は今日拒食にまつわる問題をどうにかし、彼に人間性を取り戻すためにいるのだった。

 

 鎖の終端を引く。大人しい性分の彼は一歩また一歩と嫌がるでもなく、体が重いゆえの鈍足で、檻から姿を出した。

 再誕し、成り立ては周囲に当たり散らす、衝動を制御しきれない暴れ馬のようであったが、肉体と理性が馴染んだのか今ではただ無為に檻で時の移ろいを待ち続ける世捨て人である。悠久の待ち人の零落に佳世は心持ち悲しそうにする。人目を気にしなくてもいいとあって、彼女は被った猫を払い落としたように素の心持ちで彼に向き合っていた。

 

「警戒しなくてもいいですよ」

 

 檻から出てすぐうずくまってしまった彼に彼女は優しく声を掛ける。

 

 その息は乱れていた。

 

 蝶よ花よと愛でられ、移動には牛車を用いていた時分を模した体は非力だ。抵抗らしい抵抗もないとはいえ、巨大な生き物を先導した疲弊で、フードの下で玉の汗を浮かべていた。

 

 ただ、全身の紅潮は運動だけによるものでは有り得なかった。佳世の焦点はしこたま酒を召した酔いどれのように虚ろっていたのだから。

 

 獣は目の前の雌が、自身にただならぬ情動を抱いている事を察したのだろう。閉じ気味だった瞼を押し上げ、彼女を警戒するように視界から外さない。四肢を踏ん張り、剥かれた歯が鋭い並びを見せ、弱い少女の姿をした目の前の人間を威嚇する。

 

 獣の歯から漏れ聞こえる心許さぬと表明する唸りにも少女は頓着しない。

 彼と過ごした時は濃密だと彼女自身が思えども、彼には長い人生のほんの一跨ぎだ。一度死して、再誕の過程で彼女との出来事がすっかりと薄れていることも覚悟していた。

 ならば補えばいい。足りなければ足せばいいのだ。余分になれば練磨すればよく、無くなるモノなら無くならぬよう刻み付け、焼きつければよい。

 彼女はそうやって地位を確固たるものとしてきた。

 今度は彼に対してするだけだ。何も難しくなんてなかった。

 

「あの日の続きをしましょう?」

 

 布を解く。見た目に違わず分厚い生地は重みもあって、結びを解けば、重力に従って、流れるように地へと落ち行く。その一連を布の端を摘まんでゆっくりと見せつけるように行う。

 もったいぶった様は、愛しい人の劣情を掻き立てる技巧の極致。

 全てをさらけ出す娼婦の様に、されど時折生娘の様に。

 性に疎いはずの指先がみだらな陰影を生み出していく。

 

 手慣れていて、この場に第三者がいれば、安物の洗いざらしが、レース編みの生地でもあるようにすら錯覚しただろう。それだけ、彼女が秘め事を嗜んだ事実の烙印でもあった。

 

 さもありなん。中身は幾多の男を啜り、肝を生薬に加工してきた隆昌(りゅうしょう)の魔女。されど、今の姿は、

 

「ふふ、思い出してくれましたか」

 

 布奥に秘められていた甘露の匂いが押し寄せる。

 獣はしかと眼を見開いた。

 少女は頬を染め、しおらしく恥じらう。

 

 小さな背丈。意図的に重心を崩した立ち方は不安定故に彼女に見てくれの弱さを与え、男性に力強さを主張する絶好の機会をくれるだろう。

 

 舶来の肌は扶桑国人では出せない白さと皮下脂肪の薄さで、静かな興奮に集結した血流が彼女の頬に化粧に依らない天然の朱を添えている。

 

 蜂蜜色の髪は色彩を失わせる薄暗がりの中でも柔らかい印象を損なわない。空気をふんだんに蓄えた髪は全体的に丸く膨らんでおり、手入れされた庭木を思わせる。手をすき入れればさぞかし気持ちがいいだろう。

 

 少女と女の変遷。移り変わりを流れに逆らわず切り取った魔性の美。あの日、下人が肉の塊となった日。その時の年齢そのままに彼女はそこにいた。

 

「お久しぶりです。伴部さん」

 

 夜闇に浸る様な天幕の内にあって、差し込む小さな光の粒を反射し、小さな裸身は月の如く浮かぶ。

 獣と化した思い人はどのような感情を抱いているか。彼女には自信があった。容姿も、中身も、存分に仕上げて来たのだから。

 

 寒い季節だ。両者の吐き出す息は空気中の微細な埃を湿らせ、真っ白な煙をたなびかせる。それでもこみ上げる熱情に佳世の頬は冷える気配もない。

 

 演目の一環であるように佳世は緩やかに一回転した。

 

 未成熟な肢体にこそ宿る圧倒的なまでの可能性。

 

 若さが持つ瑞々しさ。これから訪れる美貌の花が開く未来が妖しく輝く。

 

 そこが、万雷の拍手で以て迎えられる舞台であるかのように佳世は淀みなく、前も後ろも見せつけた。

 

「いかかですか?」

 

 獣は頭頂から背中に沿って生えそろった鬣(たてがみ)をそり立たせる。鳥類の求愛行動か、猫の威嚇か。何にせよ反応を引き出せたのは上々と佳代は薄く笑う。

 

 佳世と言う少女は元より、密かな恋慕を抱いた老人が評したように蠱惑的な魅力を蓄えている。だが、今の彼女は蜜に群がる虫を集める魅力だけでなく、基礎的な美しさも群を抜いていた。

 

 記憶を元に再現された体で在る。しかし、人の身体は生き物だからこそ、歪で鼻の両端が均等でないなどの小さな不合理がある。それを手ずから直した力作であった。

 

 この体は化粧を載せるには素材がいい。自賛ではないが、佳世は下手な化粧はかえって魅力を損ねると判断し、佳世はすっぴんでまみえることにした。

 

 女性の闘争道具を手放す決断であった。暴挙である。

 

 代わりに体外、体内含めての完成度を上げることに注力した。ただし、整いすぎて別人のように変わる事を厭(いと)い、ほんの少し瑕疵(かし)を残した。それが、結果として彼女を人から外れた美貌の持ち主から、人としてギリギリ許容できる整い方をした顔の持ち主へと為らしめている。

 

 出来上がったのは辛うじて背伸びをすれば届かなくないかもと思わせる、不可能と分かっても同じ土俵に上がりたくなる妖精であった。作られた体で在りながら、人という種の美しさを閉じ込める一点で彼女は完成されていた。

 

 足元に折り重なった布を踏みしめ一歩歩み寄る。妖の理性を損なわせる香を焚きしめた粗末な布は空気中に見えない誘惑を振りまき続ける。

 

 彼は低く唸っていた。

 その声は、弱り崩れそうな人のようでも、そうでないようでもあった。

 

 彼女が焦がれた彼は獣である。理性の服を着た獣で、それは本能を否定する事にはならない。強くなる本能はより良い食事にもとる。

 

 佳世はそっと繊手を差し上げた。筋の少ない二の腕は歯ごたえのよさそうな肉をとろりと垂らす。上腕の筋肉に引っ張られ、隠す所とてない体表の皮が引き締まる。たっぷりの内臓を蓄えた腹が強調された。

 

 完成品とは暴力だ。血筋には霊力持ちがおり、ただでさえ、妖怪の食欲を湧き立てるのに、今では全身余すところなく卓絶していた。

 

 獣は理性の律をかなぐり捨てるように齧り付こうとして、見えない何かにぐわんと押しとどめられた。彼女が即興で張った停滞の術式であった。

 獣の目前では少女が小首を傾げるようにして、小さな口唇に指を立てていた。茶目っ気のあるお転婆の様に片目を閉じる姿はまともな服を纏っていれば、大勢の客を引き寄せただろう。

 

 今は生まれたままの姿で立つ一人の女。

 

 再会の初めは彼女から。この呪は感傷に浸りたかった佳世の子供染みた我儘であった。

 自分で張ったというのに、綻びから効力を失い、中空に解けていく呪を待ちきれないと小柄な体躯が獣の首っ玉に巻き付く。

 

「苦しそうですね」

 

 鼻面を強かに打ち付けた獣は瞳に人がましい輝きを取り戻していた。反対に、人形のような少女は青空めいた虹彩を潤みで滲ませた。

 

「この日の為に、たっぷりと練りこんでありますから」

 

 内なる懊悩(おうのう)に下がりそうな太い首に逃すまいと齧りついて、全身で存在を確かめる。瑞々しい唇をそこかしこに押し付け、証を刻みながら彼の身体を這い回る。

 

「どこからでもどうぞ?」

 

 尖った耳にやって来た彼女は、甘いというには狂気を孕んだ睦言(むつごと)を囁きこむ。

 同時にくねり、すり合わせ、自らをどうしようもなく意識させる。

 

 獣は慄いたようにびくりと振動した。眼球だけが恐る恐る動き相手を捉える。

 

「ふふ」

 

 視界には、言いたい事は言ったと、もはや何の防護手段も講じていない。ただの肉。

 

 小さな舌が、形の良い唇を舐めるようにちろりと覗いた。

 

 彼女は形のない毒を流し込む白蛇であった。

 

 

 

 

 

 かの翁が言った魔性。魔女は正鵠(せいこく)を射(い)ていた。

 

 あの日、ようやく得た恋の相手を砕かれ、集めるばかりだった彼女。希望の灯を失った彼女は、軟禁され、翁の客人をもてなす道具として、女を磨く。従順な彼女に気を良くした老爺が、緩めた締め付け、当時、辛うじて生きていた両親の援護もあり、期を逃さず手練手管を持って全てをこそぎ取った。

 

 閨(ねや)にて舐(ねぶ)られていた女は仮初(かりそめ)。

 

 彼女は焼き付いた輝きを、胸を焦がす想いを諦めきれなかったのだ。

自由を得た彼女が求めたのは、異能の領域。彼女に異能の才はあるにはあったが、高位の術者に比肩するかと言われると悩みどころのものでしかなかった。だから、持ってきて、足した。

 

 もとより、退魔師は先祖から才能の接ぎ木をして今代に家を繋げている。危うげなく妖怪を虐殺する立場も長い辛苦の道のりを踏破したからこそ。

 

 同じことをするつもりは毛頭ない。子孫に悲願を明け渡すなら今も着せ替え人形だった。一代で同等以上の領域に立つには今ある肉を取替えるのが近道だった。

 

 施術の方策は舶来の方式が役だった。彼女に流れる血か、海の向こうのやり方は殊の外あった。人妖問わず屍の山を築き、怨嗟で川を流せるほどに憎悪を浴びるようになって、彼女は扶桑国と嘗て名のあった島国から一部を切り取ることに成功する。

 

 力ある存在であった。今はそうではない。

 

 ほんの少し、異能が使えるだけの脆弱な少女だ。

 佳世は今、何憚(はばか)ることなく人間のつもりだった。

 

 彼女の在り方は人の生存本能が極度に高ぶるご時世にあって、逆行するように愚かしいものだ。

 

 妖怪が欲しがる霊力持ちの肉体をもって、まつげ一つに至るまで極上の姿を作り上げた。

 

 見た目通りの非力。そのくせ、芳醇。数少ない人の領域から半歩でも踏み出せば命はない。妖怪を招き寄せる香を焚き続けているようなものだった。

 彼女に後悔はない。戦いの為ではないから。

 ただ、彼に欲されたい。

 激しい恋情が背を押したのだ。

 

 材料は全て彼女が商人として取引で得た。組織が傾くほどに莫大な対価を支払った。彼女がいる利を知り尽くす者達はこぞって翻意を求めたが彼女は頑として甘受しなかった。今、この寸時を至上にする為なのだ。何を躊躇する事があるのか彼女には本気で分からなかった。

 

 彼は低く唸り続けている。

 本能に弓引き続けている。全身を瘧(おこり)が生じたように震わせていた。

 妖怪が、彼女を見れば、あまりの香味に気をやりかねない。最初の飛び掛かりは不意打ちゆえ仕方ない事として、獣の自制はいっそ驚異的であった。

 

 並みの妖怪変化なら、本能になんの抵抗もできぬ。

 婦女子がいるのだ。食ってくれと言わんばかりに。

 後先考えず、がっつくのが道理。狡猾な妖怪ですら罠であるとの思考が蒸発しかねない。

 

 獣が涎を無意識に垂らした。

 牙が弾け飛びそうな程に食いしばられた隙間から滝のように流れ出る。佳世はそれを掬い、胸元にゆっくりと練りつけた。ほんのり膨らんだ谷間に、欲望の川が流れる。薄く引き伸ばされ、てらてらと光を放つ。

 ねっとりとして卑猥。生理的嫌悪を掻き立てもする光景。だが、彼の気持ちを確かめられたことを喜ぶように佳世はうふ、と幼気な歓声を上げる。

 それから「忘れていました」と脱ぎ棄てた布をごそごそやって、小刀を取り出す。

 

 獣は鋭い瞳を細め、疑問を表した。

 業物ではある。何がしかの呪いもある。だが、それ以上の価値はない。

 使い込まれ、手入れを丹念に施されていようとも、武器としては落第だ。中妖までなら傷を付けられるだろう。しかし、彼には届かない。

 

「私のはじめてを差し上げます」

 

 再度の提供。今度は趣が違った。セルフサービスではなく、

 

 彼の眼が開かれた。裂けんばかりに。

 

 いたいけな童女の姿をした女は鋭い切っ先を滑らせた。染み一つない白い肌を怪しく輝く刃が割り裂く。呪いを帯びており、止血は意味を為さない。

 

 不退転の決意。

 涼しい顔に大粒の汗を浮かばせるも手元に狂いはない。

 脂肪組織を貫き、内容物を保護する膜を押し破る。開いた腹腔からピンク色の臓物がぞろりと顔を覗かせた。腹圧と自重に従って、まろび出た塊が湿った音を立て、高価な敷物に落着する。

 

 一連はさりげなく香がもっとも濃い空間を狙って行われ、彼は手をこまねかされた。

 

 ぐるると獣が新鮮な内臓を食する躊躇いを見せる。あるいは人としての理性とのせめぎ合いか。幾度となく目を閉じ、開き、懊悩の様。

 

 姿勢を保つ腹の筋膜に暇を出した少女は腰が抜けたようにぺたりと床に尻を付けていた。むっとする血含みの蒸気に紛れて、小水の匂いが立ち昇った。未だ脈動し、新鮮な血液を循環させる薄肉色の腸の塊。その下から腸液が染み出したみたいに透明な水たまりが広がっていく。

 くん、と鼻を蠢かし、獣は急速に首を傾けた。尻尾が垂れる。視線も鼻面も彼女からできるだけ遠ざける塩梅であった。

 

「恥ずかしいです」

 

 少女は初心な娘の様に顔を背けた。

 獣は折れんばかりに太い首を巡らした。

 

 女は精神的な生娘であった。機械的な性交は幾度もしてきた。重ねた年月は女の艶も与えた。それでも、本気で求めた相手との褥の経験は初めてだった。

 だからこその恥ずかしがりよう。

 些か以上に曲がり切った彼女の有様にはそこかしこに潜んだ監視の目の主たちも愁眉を潜めているだろう。もし仮に、彼女の両親が生きていれば、あまりの恋愛観の堕落振りにそこかしこに脳天を打ち付けていたかも知れない。

 

 しかし、彼女には関係がない。踏み越えた線は時間制限付きである。もとより心も、体も、彼に受け渡す予定だった。素直に受け入れない彼の為に、文字通り腹を割る羽目になったが、それはまあ構わない。積み上げた手間を思えば今更だった。

 むしろ段階を踏むほどに味を増す料理を堪能するように彼女の心境は喜びに満ちている。

 

 都合のいい女とは今の彼女に隙間なく当てはまる形容だった。相手の全てを許し、欲しいだけ与える。男の甲斐性の不足を鷹揚に許す自己を褒め称えるように恍惚とした笑みを浮かべた。

 

「ご馳走ですよ?」

 

 空になった腹の内部を晒す彼女は荒い息をついて彼を誘った。未だ、機能を喪失していない背骨と背筋、それに霊力と妖力を駆使し、うんしょと血と透明な水に浮かぶ塊に手を差し入れた。

 

「貴方の為に拵えました」

 

 適当に掴んだ長い紐のようなそれを獣の口元へ誘う。獣は口元へ生きた体温を持ったそれを押し当てられても、硬く口元を閉ざしている。だが、本能は肉欲を隠せないのか、噛み合わさった歯から濁流の様に涎が垂れ落ち、血液交じりの水たまりに新たな色を差加える。

 口を開く衝動を誤魔化すためか、引き毟るように敷物に爪を立てる。

 

「どうぞご賞味くださいな」

 

 いやいやするように顎を反らせる彼に小さな彼女は追いすがった。

 

 

 

 

 

「あら……?」

 

 しばし、命を貪る妖が、命を貪られる側に命を押し付けられる矛盾のつなひきの果て、唐突に少女の腕が垂れた。蝋燭の火を吹き消すようにあっさりと。

 勢いよく横倒しになり、抱えていた重い物が床に打ち捨てられると、一個の生き物のようにうねった。

 もとより矮躯。それも齢僅か十二の少女を模して作られた今の身体はとてもか弱い。命の循環に必要な赤い液体をしとどに流し、腹の内容物から放散される体温は確実に彼女を死の淵へと引きずりつつあった。

 だが、そのくらいでは彼女の瞳に宿る熱を冷ますには至らない。

 心配げに鼻を摺り寄せてくる獣へと彼女は脅しをかける。

 

「ふふ、食べてくれないと私もう、死んじゃいますよ?」

 

 それに、と脱ぎ棄てた際に掌に握り込んでいた小さな符を弄ぶ。

 

「これを破いたら、檻の妖が飛び出ます。そうしたらどうなるでしょうか?」

 

 具体的には不死鳥の檻に施された術式の解除がされる。

 幾度となく素材を取り上げたかの妖怪はさぞお冠だ。先程も佳世の指先を起点に引きずり込み、全身を穴だらけにしてやらんと鬼気迫る勢いであった。本来の肉体であれば、良い所までいっただろう。想定外の脆さが肉の欠片をちぎる戦果しか挙げさせなかったのだ。

 

「グォ!?」

 

 良からぬ事が起こると勘づいたのだろう。彼女が女として誘っても、自らを裂く献身を見せても感情を押し潰してきた獣が目に見えて狼狽した。

 善性の発露に少女は喜悦を持つ。自分が見初めた男はどこまでも本質が善良なのだと知って、反対に卑劣な手法で彼の根幹を暴き立てた後ろ暗さに。人道に背く事だと幼少に道徳を教え込まれた故にほのかな暗闇は彼女にいけない悦びを齎(もたら)す。

 

「えい」

 

 人間だったら言葉に詰まる。そんな有様で無意味に口を開閉する彼へ彼女は隙あり! と自身を叩き込んだ。吐き戻そうとする彼の顎を素早く身を起こし、無理やり閉じて押さえつける。どこにそんな力を隠していたのかという程に万力の締め付けで以て彼の喉が肉を嚥下したのを見ると彼女は満足げに横倒しになり直した。

 

 ひき肉を潰すような咀嚼音が上がる。一度で止まず何度も何度も。

 

 しばし、静寂を満たした音が止むと獣はぶるると唸りを上げる。ただの呼吸に乗った鳴き声で、人には理解できない音階が出ている。彼は人の域から踏み外しかけていた。

 

「駄目ですよ」

 

 ならぬならぬと頭を矢鱈と振り、建てられた柱へ自らを衝突させようとする彼へ、符を見せて牽制する。

 

「お代わりをどうぞ」

 

 機先を制され、抗議を叫ぼうとした口に引きちぎった肝臓を放り込む。

 吐き出そうとする彼に「防音は万全です。誰も周囲にはいませんし、すぐ外にこれと連動した駕籠が置いてあるんですよ」とやはり符をひらひらさせて、雄たけびも封じる。

 

 伊達に人を率いて人と妖怪の悪意を泳いでは来てはいない。意図的に弱体化していることも、鱗を見てくれだけの薄さだけに変化させていることも佳世にはお見通しだった。

 その気に誰にでもなれば弑(しい)される状態。人を傷つけないつもりだったなんて、優しすぎる。

 体を張って止める所存だった。

 

「さあ、どうぞ。まだまだたくさんあります」

 

 血を失い、更に白みを増した隻手(せきしゅ)が緩やかに風を掻き回す。天幕全体に染み込まされた妖の理性を損なわせる香が内向きに放出される。

 追い立てられるようにふらふらとよろめいた獣は逃げ口を探すように、苦し気に肉へ歯を立てた。

 脂汗を垂らした少女が一心不乱な彼に良い食べっぷりだと達成感に溢れた微笑を浮かべる。

 

 上手くいきそうだった。

 肉は彼女自慢の製法で作られていた。材料は彼女自身の成長した肉体が定期的に用意する物が半分。もう半分は彼の親族より提供を受けた。

 彼を作った、もしくは共通項の多い要素、それを胎内で育てあげ、欠片を厳選して、つなぎ目も分からぬように加工したのだ。現代風に言えば、彼の足りない要素を補うサプリメントだろうか。夢中になるのも無理はなかった。

 

 食いつきの良さは一度物言わぬ肉となった物を素体にしていることも無関係とは言えないだろう。生体反応はあるが、意志の類は排除され切っている。死んだ肉なら、殺生を厭う感覚も鈍る。

 今の佳世は憑依した霊魂。感覚を同期してはいるが、あくまで体の保守をしている外部管理者だった。

 種明かしは桃色の麗人がしてくれる。さぞかしいい笑顔で解説してくれるだろう。アフターケアは万全だった。

 

 

 

 

 

 獣が長いものを粗方片した。顔を上げ、一息つく。

 瞳孔は縦に長い。人の物ではなかった。

 

 少女の肉に宿った女は陶然と息を吐く。幻の如き逢瀬に精神を揺蕩わせるからだけではなかった。女の深い所が彼の興奮を察知したからでもあった。

 

 獣の本能は小水にも敏感であった。首の可動限界まで反らしたのは何も人としての規範に乗っ取ってばかりではなかった。

 新鮮な肉は獣性に燃料を注いだ。凶暴な馬並みの長物が下半身より突きでている。視界がかすれだした女の目にはよく映らないが、充分な硬度を持ったそれは、猛り立つ脈動を極太の血管で以て浮かび上がらせていた。後ろ足が沈み込むと地面を蹄の様にひっかく。高価な敷物が採掘用の鶴橋で穿ったように削れていく。無意識の行動ゆえに、宛(あて)がわれた雌が辿る無惨な結末がありありと想像できる。

 

 並の女なら逃れ得ぬ凌辱の気配に、さめざめと泣きだすだろう。だが、佳世は非凡極まる性癖の持ち主だった。

 

 溜息をつく。逃した鯛の大きさを嘆く感情が込められていた。

 内腑の多くは彼に捧げ、もはや子袋もまた食(は)まれた始末であった。杭の様に尖り立った彼の熱情を打ち込まれたいと女の雌は求めるが、叶わぬ。有り得たかもしれない未来へと、年月の分だけ妄想達者となった女は欲を出そうとするも、血の気の引いた真っ白な手は回収した小刀を握り直す。

 

 我欲を制しての商人。

 彼女は彼の時間を得るために、文字通り全てを捧げた。もとより取引で得られるのは、女の満悦ではなく、純情な乙女を懐旧(かいきゅう)するための時間だ。

 

 想い人が自身の身体に夢中になって、堕ちかけている現実に満足げな彼女は、ごろりと仰向けに体勢を整えると、未成熟な乳房の間へと血に塗れた刃を差し込み、鋸を引くような手つきで以て肉を裂いていく。

 

 彼女の作り上げた筐体は、栄養の塊だ。人の意識を収める類ではなく、よく下拵えされた料理に近い。だが、彼と最後の一瞬までを共にしたいと願いを汲まれてもいる。意識を繋げていられるように、生き汚くも作られているのだ。

 秘密は駆動にある。筋肉は見せかけに近く、霊力と妖力の膜で全身を覆い、動かしている。人を入れた大きな袋が伸び縮みして、中の人も諸共に動かしていると言えば伝わりやすいだろうか。

 故に佳世は代謝機能が極限まで低下しても十全に刃を突き立てられる。

 

「……ッ」

 

 再度彼女の腹から引き出されたものを、草食動物よりゆっくりと咀嚼(そしゃく)していた獣が息を呑んだ。 あまりの旨さに妖へと傾きつつあった瞳に人がましさがよぎる。止めを刺しているのは自身だというのに、彼女自身が自らに引導を渡そうとしているのは耐え難い心の動きを齎す出来事だった。

 だが、噛み締めた歯は胃の腑へ美味を落とし込むべく、すり合わせ運動をやめようとはしていない。四肢は獲物に飛び掛かる寸前の獣のように力を蓄え出す。それを理性が必死に諫めている。

 

 肉体は本能に軛(くびき)を打たれていた。

 

 佳世は仕上げを敢行する。

 薄い肌を腹まで裂き終わると、包装を破くようにして薄桃の爪を立て、引き剥がす。ある程度の深さまで達したら、谷間をさらに深めるように縦の切れ込みをぐっと掘っていく。カタ、と仕掛けが外れるような音。亀の甲殻を左右に開くように乳房を乗せた骨付きの胸が左右に開く。肉に埋没して分かりづらいが、ばね仕掛けの扉に似た絡繰りがあった。手間を惜しむ佳世が仕込んだものだ。

 大事にしまわれていた拍動の源へと獣の視線が集中する。

 

「私の好んでいた舶来の物語がありましたよね。よく記述される習慣に、愛しい人へ、自分の心を渡す意味を含めて甘い物を送るというものがあるのですよ」

 

 詰まる所、甘い物とは甘味ではなく、気持ち(ハート)である。生の。

 

 人語を話せる声帯があれば、いやそれは違うと冷静に訂正をしていただろうが、薄暗い天幕の内には死にかけの少女と理性が妖に呑まれつつある彼のみ。

 一つの領域を契約により救妖衆から切り取った彼女が人と半妖の従業員らにあらゆる引継ぎを済ませ、人払いすら鬼月の姫が全力で済ませている。誰も、捻じくれた想いの訂正をすることはない。

 幸か不幸か未だ肺は損傷を免れていた。だから彼女は言葉を紡げる。一言ごとに血のあぶくを口の端で弾けさせながら、

 

「あの日の続きをしましょう。……ほんの少しの時間だけ」

 

 少女の姿に自らを押し込めた女は嘗ての密会をなぞるように舌を蠢かす。

 

「はい。あーんして下さい」

 

 甘味を彼の口に運んだ時そっくりの発声。魔性の笑みで、手を伸ばす。あの時とは違い、何も握らない手は彼の巨大な頭を迎える為に目一杯広がり、隠す物とてないと果実へ誘う。死相を浮かべて尚晴れがましいと抑えきれぬ恋慕が彼女を凶行に走らせていた。

 

 呼びかけに応えて、大口を開いた獣が水に飛び込むような勢いで少女に被さろうとするも、空間に固着したように静止した。

 結界ではない。獣自身によるものだ。

 女の胸郭の寸前で、開いた眼を充血させ、鼻息荒い獣の顔がある。

 一際、噛み締めた獣の奥歯からきしむ音がした。建築物すら丸齧り出来る妖の歯が砕けかかっていた。

 

 最後の抵抗。

 

 もはや輪郭くらいしか判別できないおぼろげな視界で、彼の吐息が起こす風を感じる彼女は、仕様のない人と獣の鼻面をやさしく撫でる。乾き始めた血糊がぬめり、粘度を持って、赤黒い色を広げていく。

 

 

 

 

 

 佳世の頬を撫でる微風は止んでいた。獣は息を止めて、抗っている。あくまで戻るまいとする頑なな意思は薬の材料が何であるかを悟った故。食を厭い、徐々に衰弱し、地へと還らんとする。

 

 心の臓を食む。人の。彼が一度目の生を受けた世界では禁忌の一つだった。人でありたいなら踏み越えてはいけない線であった。命の源を目の当たりにして、彼を流し、連れ去ろうとする本能に必死に抗っていた。ここで抑え込めば本当に彼は何も口にせず、痩せこけた家畜のようにあばらを浮かせた躯を晒す。けじめをつけようとしていた。

 

 本能に半ば押し切られ、飼葉桶に突っ込む馬の如く咀嚼を重ねた彼であったが、その実彼の世界では腸を大半摘出しようとも生存の目は有ったし、他の臓器とて片方を無くしても日常を送る人は大勢いた。加えてここは人体実験だけでなく、人よりずっと復元能力に優れた妖を研究した記録もある世界である。文字通り怪しげな治療法を漁れば、欠損を補うことも出来るだろうし、普通の治癒を望んでも、佳世の如き立場なら延命の方策は幾らでも用意できよう。

 彼女は一日をやっとで乗り切る雑人ではないのだから。

 だが、心臓は駄目だ。救える余地が皆無になる。

 

 本来であれば、彼に人を殺させまいとする愛情深き姫も、もはや一人ではない。もう一つの意思に今回の事は利益の壟断(ろうだん)と甘えさせる口実になるやも知れないと含まれている。禁制する者はいなかった。

 

「食べてくれませんか……?」

 

 上手くいく筈であった。理性による遅滞を差し引いても。

 彼をあと少しで救える。肉の飛沫でも舐めれば彼は完全に堕ち切るだろう。確信があった。だが、最後の最後で一かけらを嵌め込むには難渋する頑固さが佳世に立ち塞がった。

 

 薬が効きだしたのか、彼の皮膚の下では肉が湧きたつように変化し始めていた。

 

 

 

 

 

 彼に人を与えるには難儀する。

 人は貴賤なく、通貨兼食料としての価値を付与されるに至っている。

 救妖衆により、朝廷が滅んだ。人の組織的抵抗は目減りし、今は力ある退魔家が各地で細々と抵抗している程度。人肉の入手難度は適当な食い物と引き換えに露天掘りのように手に入るくらいに下がっていた。

 

 用意は容易くとも彼は口にするのを嫌がった。

 彼を知る彼女は妖に形を固定するのが、本意ではないと推測位出来ている。彼とて人の姿へ戻りたいはずなのだ。

 妖でも彼女は一向に構わないが、後の生活を思えば、人である方が、落ち着くのは当然。

 

 佳世は彼の奥底の望みを攫いあげる方針を固めてここにいる。彼の回帰の為に全てを投げ打つ腹積もりだった。その一点は彼にも負けない頑固さを秘めている。

 

 霊力持ちや妖の部位を取り入れ、実力を高めたが、本質的に彼女には取引を行う者としての性があったらしい。脱ぎ棄てる前の肉体を使い潰す勢いで酷使し、一つの儀式を編み出した。

 黄泉竈食い(ヨモツヘグイ)を一種の契約術式として機能させ、人としての要素を補う。強制的に人の側へ引っ張り戻すのはこの方式が手っ取り早い。神ですら、属する世界の法則に抗えないところが特に良い。彼が人ならざる傾きを得たのは堕ちたる神が原因なのだから。

 

 特に、不死鳥四十八匹分の心の臓を圧縮した肉は契約の要だ。是が非でも口にしてもらわねばならなかった。

 

 かの母神から生まれ直した雛と彼。人へ戻す事を目論んだ不死鳥は、霞の様に残った使命感に則って自身を薬とした。それ自体は佳世と同じ手法だが、調薬の技能も何もない彼女は胃の中へ飛び込むと、七日七晩に渡り、蕩けては業火を伴って再生を繰り返す強引さで彼を引き戻そうとした。

 結末は彼が未だに人の姿にあらざる点で明白であった。取り込まれ続ける不死の要素は焼け焦げた肉の修復に用いられ、概念を焼き払う焔は退魔師時代の精密さを欠いていたのだ。

 体内を焼き続けたのは悪手だった。不死鳥に内部から焼かれ続けた彼は口に物を入れるのに重度の精神的外傷を負っている。それこそ本能で理性に蓋をせねば食事もままならない位に。

 

 時は幾何もなかった。

 

 彼の姿は変わらないが、理性的な振舞いが鳴りを潜めだしていた。意識レベルを低下させる事で抵抗としていたが、元に戻る要素が失せ続けていることは明白だった。人の側に依らせるにも元になるものが無くては意味がない。完全な妖怪になれば、それは彼と言えるのか。佳世には言えるが、彼女は彼が変わり果てた己を滅ぼす未来しか幻視出来なかった。

 

 彼が凶弾に飛び散った日から、人の道を少しずつ踏み外し、舶来の魔女と比肩するほどにおぞましい取引の亡者と化した彼女でも、自らの生贄以外には妖としての彼を鎮める方法を用意できなかった。いやしなかったというのが正解に近い。

 彼に自らの存在を永遠の女として刻み付けるという独占欲はもちろん、選択肢がなかったのもある。

 

 嘗ての人格を地続きにしているかのような元二の姫ですら、二人分の愛欲に思考が沈みかかっている。佳世の確実な退席と引き換えに、今の時間を捻出できたのだ。

 いわんや、姫によって、彼の臓腑から引きずり出された不死鳥や、人を見繕っては英雄に育て上げようとする都度、挽肉を拵える鬼などは如何(いかん)。

 

「今度こそあなたを集め切って見せます」

 

 一度死した彼は知りもしない。狂乱した彼女が地面と混ぜ捏ねる程必死に彼の脳漿と骨をかき集めようとしていたことなど。

 どのみち彼を人に戻すには黄泉平坂の古事に倣うのが一番なのだ。そのためには人の成分を再誕分も合わせて過剰に摂取するのが望ましい。そして、彼女は薬だった。とびきりの。

 

 

 

 

 

「仕方のない人ですね」

 

 頑迷にかぶりを振る彼に少女は呆れを滲ませるも、その実、手を掛けられる負担を喜ぶようにも振舞い、心の臓を取り外しにかかる。刃傷を残さぬよう、全身に接続された四つの太い血管を素手で引きちぎっていく。鮮血が跳ね、彫像の如く微動だにしない獣の顔に点を付けた。

 

「ごめんなさい。汚れてしまいました」

 

 さんざん撫でまわし、赤黒く染め上げておきながら、今更のように申し訳なさそうにする。無意識に封じ込めて来た被虐の願望を押し付けた詫びだったのか。彼女にも胸の内は推し量りかねた。

 

「さ。どうぞ。あたたかいうちに」

 

 残った霊力と妖力を絞り、眼前へと心臓を掲げる。

 変化の収まった獣は首をぐぐっと近づけてくる。錆びついた戸を押し開くようで、佳世は心の扉を開けている錯覚にほのかな温かみを感じた。

 

 獣の鼻先には彼女が捧げる特効薬。

 

 血と止まない熱情を秘めた筋肉の宝石。命の源を切断された血管から噴き上げる。

 

 妖怪にとってのご馳走。

 

 人間にはただ苦い。良薬。

 

 距離は一寸もない。

 開いた口が彼女へ近づき、

 

「ひゃん!」

 

 少女は見た目相応に狼狽した声を上げた。獣は長い舌で頬を撫でるように舐め上げたのだ。

 甘い物(心臓)には目もくれず、本能に根差した捕食者の行動は鳴りを潜めていた。

 

「な、なあ。なに……を……」

 

 言いかけて、彼女は舐められていない方の頬を伝う感触に今更気づいた。

 

「涙……。なぜ、私は泣いているのですか?」

 

 質問に対する返答ではないだろうが、獣は長い舌先で再度彼女を舐めた。ざらつく舌が、彼女の柔い肌をこそぐ。痛みを感じる程に鋭利なはずなのに、鈍り切った頭は心地よい刺激としか受け取らない。感触を失った手がはたりと崩れ、未だ生きた宝石を床に打ち転がした。

 

「悔しかったんだ。私」

 

 こんな姿は直視に憚ると視線を逸らした彼女は零した。物理的なものと諸共に晒け出した心中であった。

 

 獣はのっそりと立ち上がった。変化により、絡めとられた誘惑の糸を解いていた。

 

「行かないで下さい」

 

 脅しを力づくで排除せんと、人を呼びに行こうとする足をがっしと掴む。

 

「もう遅いです。材料はないですから」

 

 すぐさま作っても間に合うまい。彼女を知り尽くすのは他ならぬ自身なのだから。

 妖の鋭い感覚で偽りなどないと察したはずなのに、獣の目には足掻きが浮かぶ。足でも食いちぎりそうな彼に緩やかに首を振る。代替にはならないと。

 

 常人なら瞳孔を開き、三途の渡し守へと六文銭を渡している頃合い。だが、弱くとも頑丈な体は宿る超常の力尽きるまで彼女を駆動させる。

 目は盲目も同然、自身の声も固い床を通じて頭蓋に反響するおかげで何とか拾えると言った有様。それでも頭脳は血流が完全に内部の酸素を消費しきり、内液が濁り途絶えるまで、彼女に明晰な思考を提供する。

 

 佳世は理解していた。有限が押し寄せてくると。

 だから彼女の返答は彼にとってとても残酷だった。

 

「ここにいて下さい。お願いですから」

 

 命費えるまで共に。ただ、それだけ。それ以上は求められない。

 下手な駆け引きより、情に訴えるのが一番彼に効果的。取引の「と」の字もない利益の享受。渡せるものはもう残っていない。浅ましくねだる自分に佳世は嫌悪を感じた。

 

 彼はどす、と重々しく体を伏せた。彼女の血で腹毛がどろどろになるが気にもしない。まるで「仕方ねえな」とぶっきらぼうに言われたようで佳世は心苦しさに挟まれながらも嬉しくなる。

 

 血の池に浮かんだ少女は一層白くなった肌を晒す。彼が気を利かせて布を掛けてくれた。すぐさま血を吸ってどす黒く変色していくが、佳世の表情は気遣いに綻(ほころ)ぶ。

 

「お話、しましょう?」

 

 獣は深く鼻息を漏らした。やるせなさが詰まっているように湿った響きだった。

 

 

 

 

 

 言わねばならない事があった。

 

「私、悪い子なんです」

 

 冗談めかす。

 そうでもしないと子供の頃の真っ直ぐな自分と現状の落差に言葉がせき止められそうだった。

 

 獣は黙して語らない。だが、聞いてはいる。耳がアンテナの様に音を拾い、尻尾がゆらゆらする。

 

「人を買いました。流通させています。今、人は価値のある貨幣のようなものです。なるべく不幸にならないようにしていますけど、多く集まると雑然としちゃって」

 

 良い人も悪い人も置かれる環境でどちらとも転べる。ヒエラルキーの変化で横滑りするのだ。

 

 脈絡のない始まりにも彼は泰然としている。先を促されているようだった。

 

「最近では人の価値が凄く下がっているんですよ。伴部さんを顎で使える身分でも、秤に乗るくらいの少量のお米と引き換えにできるんですから」

 

 それでも、良い待遇にしろーって喚くんですよ。いやになっちゃいますよね。

 口を尖らせた佳世は近くで伏せた彼の鬣(たてがみ)をわしわしと撫でた。こういう時の女性に逆らってもいい事はないと実体験で知っているのか、彼はされるがままだ。

 

「伴部さんの家族も買いましたし、あなたも買いました」

 

 高かったんですよ―。と愚痴混じりにごちる。

 予想はしていたのか獣は自身が取引の対象になっていたことに特段の反応は示さない。もとより、金銭で取引されて、激戦へ向かったのだから。

 だが、家族を保護したくだりで謝意を示すように軽く頬を擦り付けた。手の代わりに撫でられているようで、「くすぐったいです」と佳世は口ばっかりの抗議をする。

 

「人を買ってぐるぐる回して、不幸せになる人を減らしては方々から経済を回していないって文句を言われて、私思ったんです。人を買わなければ楽なのに、って」

 

 その横顔はまだ世の酸(す)いも知らない潤いに満ちているのに、とても陰っていた。

 佳代の話は核心へ流れていく。

 

「ねえ、伴部さん。あなたは人を買わなくていい世界を知っているんですね?」

 

 確信を持った言い方に答えはない。

 

 それが、解答。

 

 佳世の顔はくしゃくしゃになった。

 彼女は知った。取引で集積した情報が指し示す未来。自身たちの世界が発展した果て。人が人を売り買いする必要のない世界を。

 基礎になったのは人力に依存せず、霊力や、その他の不思議な力を組み合わせた絡繰り仕掛けを考察する一族との取引で得た思想だった。今はまだ夢物語かもしれないが、遠い未来には人以外の力を社会の仕組みに取り入れ、当然のこととして人々は暮らしていることだろう。

 そこには人が道具を使う側としてある。人を道具の代わりにする必要は強いてないはずだった。

 そして、唐突に彼女は理解した。これこそが彼の見ている景色、その一端なのだと。

 

 彼女は人が人を買わずともいい世界を彼が知っていた。いや、その世界の思想にて世界を見ていたのだと理解しえたのだ。

 それはなんてやさしい。そしてなんとも悲しい。現実から浮いた視点だった。

 

 彼女が彼の思想に触れ得たのは、ひとえに彼を目の前で喪失し、記憶の中で日々燻っていく姿を繋ぎとめるため、一挙手一投足、口にした単語一つさえも吟味し続けたからこそだったかもしれない。

 彼の事を知れば知るほど、彼の横に立つには見ている視点も住む世界も違うと確信してしまう。

 

 まるで生まれた時代が違う(全く違う世界の未来から来た)みたいに。

 

 きっと今回知った事なんて彼に関する氷山の一角。

 

 それでも、葵なら、感覚の違いも全て、ひっくるめて肯定する。その上で、この世界で生を繋ぐために、と試練を課す。厳しさも愛情。なぜなら最後、彼にどうしても出来かねる事は泥を被る前提なのだから。

 

 役に立つ、止まりの佳世には到底たどり着けない頂。

 隣に立つ者の世界。

 

 もっと一緒にいられれば。何が好きで、何が嫌いで、何に驚いて、何に喜ぶのか。暗くなった目に形にならない予想図が浮かんでは、全て泡沫と消える。

 彼女は聡い。有り得たかも知れない世界線では、齢十二にして、有力者たちの援助を取り付け、自ら跡目を継ぐ決心を為す程に。

 聡すぎた。

 いなくなる。

 佳世はいない。

 彼の隣に、きっと。

 

「遠いです。伴部さんは遠いんです。とっても遠くて届かないんです!」

 

 八つ当たりめいた慟哭。

 

 ただ黙して彼は聞く。

 

 わんわんと泣いた佳世は勢いままに最大の罪を告白する。

 

「あなたを買いました。あなたの心が欲しいと自分に言い聞かせながら、取った手段はあなたを駕籠の鳥にすること。お笑い草です」

 

 頬を伝い、透明な流れが次々と湧き出て来る。

 

 悔しい。

 彼に安全を確約できない事が。

 佳世の領域は安全だ。だが、薄氷の上で軋みを上げている。契約は押し売りに近い形で行った。締結されたのだって、相手の総大将が、結末は変わらないからと余興の一環として寛容したから。

 

 また一つ涙の粒が眦(まなじり)に集う。

 

 悔しい。

 彼の傍にいられない事が。

 彼の傍に自分がいない事が寂しい。

 佳世の理想は比翼連理の鳥のように睦まじい両親だから。

 今が尽きれば後はもう全部葵の物。

 

 涙の粒は大粒の青水晶のようになる。

 

 たまらなく、悔しい。

 

「終わりたくない。まだ、これからです。これから、ずっと一緒に」

 

 口からは文字通り血を零し、終わることを拒絶するも、魂の移動に力は減衰し、意識を繋ぐので一杯だった。

それだけの状況に陥っておきながら、心は傍に置いてもらっていない。彼を手に入れておきながら、形だけの成果。 

 

 青水晶がつ、と滑らかな肌を伝う。

 それでもそれでもと心は足掻く。

 

「あなたを縛ったから。だから、だからっ。あなたに全てを捧げることで私もあなたと同じになろうとおもってっ」

 

 まさに童女に戻ったように、あどけない言葉遣いで必死に彼と同じ所まで堕ち、同じ目線に立とうとしたのだと語る。全ては彼を支える為に。

 きっと彼に繋がれれば、彼の翼と合わせてどこまでだって飛んでいける。

 

 比翼連理の鳥なんて、実際にいるはずないのに。

 

 もはや彼女は自身の言葉すらぐちゃぐちゃだった。整合性なんてどこかへ行ってしまっていた。

 彼女は心中で咽び泣く。

 自身の無力を、彼の詰んだとしか言いようのない境遇を何ともできない己を。やっと手に入れた手段ですら外道で、到底彼には報いきれない汚れた代物。なにより、その躊躇する類の手段を協力者である二の姫は寸毫(すんごう)も躊躇いなく実施するのだ。

 想いの強さで何度したたかに打ち据えられたことか。形にならない暴威に屈した彼女は、諦めきれない想いに奮起し、この桃源のような時間を掴み取ったが、それも幕引きが近づいていた。

 

 奇跡は永遠ではない。

 

 

 

 

 

 心のままに泣きはらし、瞼を腫れぼったくした佳世は一つ啜り上げると、些細なお願いをすることにした。

 本当に最後だと明暗しか判別できない視覚で分かったから。

 

「……伴部さん。手を握ってもらえませんか」

 

 無茶なお願いだと分かっている。でも、佳世には鉤爪でも良かった。彼に包まれたいだけだから。

 待ち受ける痛みに平静を装うとする覚悟は裏切られた。

 

 彼女の子供らしいちっちゃな手を、筋張った手が包むのを感じる。

 鍛えられ、柔らかくなんてない。きっと取りこぼしたものの多い、それでも諦めない人の手。不思議と体温の温かさまで伝わって来るようだった。

 

 きっと幻だった。彼は契約を成してない。人に戻る筈なんてない。

 だから、これは佳世の夢。

 幻想ならそれでいいと他愛ない会話をする。口は饒舌に回った。

 

「約束覚えていますか?」

 

 それはいつかの露と消えた結び事。

 

「また護衛する件ですね」

 

 彼も遅れることなく佳世の言葉に追従する。

 やっぱり。

 佳世はならばと元気よく欲望を口にした。

 

「デートです!」

 

「そうでございましたね」

 

「またあーんしてあげますね」

 

「今度は苦くないので頼みますよ」

 

「みたらしでどうでしょう」

 

「言い訳はお願いします」

 

「もちろん!」

 

 こふっと口から血が出た感触。夢のくせにとても現実的だった。

 

「……出発は少し休んでからにしましょうか」

 

「はい。あーっ! こんなところにちょうどいい枕が」

 

「硬いだけだと思いますけど。体も拭いてないから臭いますよ?」

 

「いいんです!」

 

「はいはい」

 

「あたたかいです」

 

「……」

 

「ずっとこうしていられたらいいのに」

 

「…………」

 

「ねえ、○○さん」

 

「………………」

 

 本当は誰にも教えたくないのだけれど。天邪鬼のように澄ました桃姫からこっそり渡された真名を持って彼を呼ぶ。だって、最後のおねだりくらいきちんとしたいから。

 

 皮膚感覚とて、象の皮膚の様に鈍くなっている。

 握ってもらった感覚が遠い。

 

 きっと、現実の佳世は、作りかけの木乃伊(ミイラ)のように伽藍洞(がらんどう)で何にも詰まっていない。幸せな想いなんて、特に。

 

 それでも、

 

「眠りにつく前の口づけ、してくれませんか? 」

 

 今は佳世がお姫様(護衛対象)だ。他の誰でもなく。

 こんな我儘だって許されるはずだった。言い訳だってちゃんと考えてある。

 

「……………………」

 

 音はない。けれど、額には確かに感触があった。

 ひっそりと躊躇うような彼の唇。

 

 むふんと得意げに笑って、仕方ないですねと本式はお楽しみにとっておく。

 未来を思う。暗闇に降りていく。温かい陽だまりのようだ。ちっとも怖くない。

 今の一瞬があらゆる負を押し流す。

 

 ――私、幸せです。

 

 無量の感慨は声にならず、小さな口内で砂糖の様に溶けていった。

 

 

 

 

 

「ったく、しょうがないお嬢様だことで」

 

 話の途中でずれた布を、色々晒され、風通しのよくなりすぎた体に掛け直す。ただのぼろ布なのに、弁償は勘弁してくれよと、金銭感覚に敏感な男はぶつくさと宣う。不貞腐れた口調ながら仕事はきっちりこなす性質なのか手つきは淀みない。

 寒くなりすぎないようにと、檻の中から引っ張り出した寝具代わりの布をおまけにつけようとして思いとどまった。

 動けない。

 

「俺の事は所有物だから離さないってか。最後の言葉と言い、あざとい」

 

 彼女は完全に無意識だったのだろう。伴部に手を回して事切れていた。

 ぎゅっと、離す事の無いように。

 寝顔には邪気の欠片もない。彼の硬い腹筋に顔を擦り付ける形で、満悦の笑みを緩やかに浮かべている。

 悪態とは裏腹に手を振りほどくことはない。

 後ろでは、特効薬を飲み下し、彼を吐き出した獣の抜け殻がごろりと転がる。

 

「あざといな。……本当に」

 

 髪を梳(す)いた。少なからず血潮を浴びたはずなのに、絡まることなく指を抜け出ていく。彼女の命のようで、伴部は顔を伏せた。

 

 眠りを覚ます口づけは出来そうにない。

 

 まだ、夕の紅すら射していない頃合いなのに、薄明かりしか射さない分厚い天幕で人影は一つになったようにいつまでも寄り添っていた。

 

 

 

 

 

「はっぴーばーすでーつーゆー! はっぴーばーすでーつーゆー! はっぴーばーすでーでぃーあ私の可愛い坊や!」

 

 まんじりともしない影から、ぞるぞると這い出るように緑髪の女が彼の首ったけに食らいつく。

 長い髪を海藻のように揺蕩わせながら、どこまでも親愛を込めて、抱きしめる。

 

 人(・)肉(・)は(・)妖(・)の(・)食(・)。黄泉竈食いは食による迎(・)え(・)入(・)れ(・)。神話で所属を変えたのは神(・)。

 

 今は堕ちたる母神の欠片。彼に宿りし、不死鳥の燃やし残り。

 形を取り、肉を得た。男との分離は道理に乗っ取り粛々と。

 

「はっぴーばーすでーつーゆー! ぱちぱちぱちー!」

 

 後の行動はただ母親としての本能のままに。

 愛しい坊やと自身の再誕を言祝ぐ。

 男はしばらくそのままになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、それもつかの間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伴部は拳に力を込めた。人に戻った彼には当初の下人相当の力しかないだろう。だが、それでも、彼は立ち向かう。彼女が残した自分という人の形。そこから別たれた、現世に肉体を持って迎え入れられた、彼の肉体に巣くっていた妖母の欠片へと。

 

 彼は悲劇の元となった妖母の欠片を滅ぼし、彼女の人として生をつかみ取って欲しいという願いを十全に叶えるだろう。

 

 そっと彼女の手を解いた。

 決して離すまいとした抱擁が、彼の意気を汲んだように静かに解けていく。

 

 無言の送り出し。

 

 優しくも、戻らない決意の祝福。向かう相手は堕ちたる神の分体。

 

 これが人に戻って最初の関門。

 

 これから伴部は艱難辛苦に蝕まれるだろう。挫けそうで、心が泥を被ったように潰れそうにもなるだろう。それでも生き足掻き、人としての尊厳を保全する。彼女が惚れた彼は最後まで諦めない人だから。

 

 彼は顔を上げた。

 




後書き
この先はテンションが異なるため、そのまま読まれると読後感を損なう恐れがございます。
よろしければ、深呼吸をするなど、間を置いてお読みください。





おまけ 其の一 
各キャラその後

妖母(?)
直後出入り口でスタンバっていたゴリラ様が乱入。正気に返った伴部とのダブルラリアットを受けて悶絶。

鬼月雛 
ファンタジックビースト姉上。伴部を視認直後に檻をぶち破って、お帰り! をかます。後に彼のペッ(字がかすれて読めない)。

伴部 葵 白
人間代表として元扶桑国の切り取り合戦に参入。お嫁さんと血濡れのバージンロードを踏み歩き、見事人と半妖怪の生存権を勝ち取る。白は付き添い。

俺っ鬼(こ)
アップを始めた。在庫処分だと、うずうずしてウォーミング中。屍がどんどこ積み上がっている。

母なる不審者
母性レーダーに感有。どこかの山から赤ん坊の雪崩が移動を始める。

松重さん家
戦隊ヒーローの訳アリ狂科学者ポジでここぞと見込んだ人間に協力している。
今日も今日とて元気に妖怪を陥れている。

赤穂紫
随分昔にアンブッシュされた。
下手人は子供を装った妖怪。
扶桑国が体裁を為さなくなった頃合いで避難民の受け入れ中の事。
怯えて泣くので、武器を収めて宥めようとした所で一撃。下人の人としての高潔さを真似しようとした結末。
お兄ちゃんやお父様は修羅になった。妖怪及び連なるものに対し、無制限の闘争状態に。
横には救妖衆の元幹部。魔女の領域で面白い事があったようですよ……? こっそり告げ口。





おまけ 其の二

佳世リザルト。
汗フェチ      どさくさ紛れに陶酔。
筋肉フェチ     どさくさ紛れに堪能。
被虐趣味      この上なく達成。
愛人特性(貢ぎ癖) たらふく貢いだ。
妖姦(対象指定)  未達成。

伴部 精神状態
要記憶封印or甘やかし(甘やかしの相手に妖母は含まれない)





ここまでお付き合い下さり誠に有難う御座いました。
救いのある原作はこちら→https://syosetu.org/novel/232822/


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