読み飛ばしのないようご注意を。
――☆――
「行ってらっしゃい、気を付けてくださいね」
「ああ、それじゃあ行ってくる」
玄関先でつま先を蹴り靴を履き整えるおにいさんに向かって手を振ると、彼もこちらへ振り向いて手を振り返してくれる。
「昼過ぎには多分帰れると思う。じゃあ、昼ご飯は頼むな」
「あっ、待ってください!」
「どした――ッ」
ちゅっ――何か用かと無防備に振り向いたおにいさんの頬に、軽く唇をつける。
おにいさんは一瞬呆然として、それから顔を真っ赤にしながら自分が何をされたのか確かめるように頬を撫でた。
「いってらっしゃい、のちゅーを忘れてましたから」
「お、おぉ……久しぶりにされるとびっくりするな」
「テスト期間中は我慢できなくなるかもしれないって言われてたのでしなかったんですけど……」
最初にこれをしたのは、ちゃんとおにいさんと住めるようになった翌日の事。ただ、その時におにいさんが苦悶の表情を浮かべながらそう言ってきたのだ。単位を落としたら逆に私との時間が減ってしまうから、と。
「そうだったな……でももう余裕出来たし、お風呂に続いてこれも再開だな」
そう言うと、今度はお兄さんの唇が私の頬に押し当てられた。触れられた個所からくすぐったい熱が広がる。
「んっ、口にしても良かったんですよ?」
「いやいや、流石にこれから出かけるって時にそこまでは……意識しすぎちゃいそうだしなぁ」
「じゃあ、お帰りのちゅーまでお預けですね」
それを聞いたおにいさんは、少し照れたようにニッと笑った。
「だな。帰ってからは我慢しなくてもいいわけだし――とと、時間が押してるんだった。それじゃあ今度こそ行ってくる」
「はーい、行ってらっしゃーい」
玄関先まで出て、マンションの外階段を下りていくおにいさんに手を振り、姿が見えなくなったところで扉を閉めた。
「……本当に、我慢してくれなかったらいいのに」
扉にもたれかかった瞬間、抑えていた想いが溢れた。ぐっ、とお腹まで呑み込んでいた重石が再び浮かんで胸へと詰まる。
おにいさんは、どこまでも優しかった。
私と最初に出会った時も、人間じゃないと分かっても彼女にしてくれた時も、そして……昨日も。
確かに素股でおにいさんを射精まで導くことは出来た。だけど、その後遠回しに挿入しないと言ったおにいさんが浮かべていたのは、苦しそうな表情で。
そしてなにより、おにいさんの本能はお股の下でどくん、どくん、と期待するように脈打っていた。
「満足させてあげられなかったよね、やっぱり……」
不安感のような、無力感のような……昏くもやもやとした感情が頭を満たす。おにいさんをあそこまで我慢させているのは間違いなく自分のせいだった。
久しぶりのエッチで、痛がってしまったから。ゆかりさんに身体の感覚がずれたように感じるかもしれない、と言われていたのに甘く見てしまっていた。いや、久しぶりに出来るからと浮かれていたのもあるかもしれない。
(もっとあの時、我慢出来てれば――)
それだけじゃない。
情事の後せめて何かできないかと考え、背中を流すからと無理を言って一緒にお風呂に入って、気付いてしまったのだ。背中の爪痕に。
洗うついでに自分の手を当てれば、ぴたりと大きさが一致する。考えずとも、あの時に爪を立ててしまった事はすぐに分かった。
幸いと言うべきか、おにいさんは特に痛がったりもしてなかったけれど――それが逆に胸を締め付ける。
痛いと文句を言ってくれればいいのに。
けれど、おにいさんはどこまでも優しかった。
残酷なほどに。
(――っ、おにいさんのせいにするなんて……)
最悪だ。おにいさんの優しさがなければ、私は今ここにいないかもしれないのに。
「お掃除、しよ……」
自分に言い聞かせるようにそう口にして、自己嫌悪で重い体をのろのろと扉から離す。
コンコンコン――
ドアがノックされたのは丁度それと同じタイミングだった。
このノックの仕方は――予想をつけつつ扉を開けると、案の定ゆかりお姉ちゃんがドアの前に立っていた。
「遊びに来ましたよ、あかりちゃー……どうしたんですか?」
「え? あっ……」
言われて漸く、自分が今にも泣きだしそうな顔をしたままでいることに気付いて、慌てて笑みを取り繕う。
「……大丈夫ですっ。ちょっと考え事してただけですから!」
けれどゆかりお姉ちゃんは何も言わず、後ろ手にドアを閉めて――ギュッ、と背中に手を回される。
「ゆかり、お姉ちゃん……?」
「そんな顔してて、何もないなんて事は無いでしょう?」
「――っ」
「彼と、上手くいかなかったんですか?」
ゆかりお姉ちゃんはなんでもお見通しと言った感じで、あっさりと原因を言い当てられてしまう。
改めて指摘された瞬間に、抑えていた感情が堰を切って溢れてしまった。
ゆかりさんがもしかしたらと言っていたように、久しぶりのセックスが上手くいかなかった事。そのせいでギクシャクしてしまった事。その後もう一度肌を重ねたものの、一方的に気を使わせてしまい満足させられなかったのではないかという事……
ゆかりお姉ちゃんは背中を撫でながら、黙って全てを聞いてくれた。
「……私、どうすればいいんでしょうか」
「そうですね……」
ゆかりお姉ちゃんは、難しい顔で少し考え込んでから頷いた。
「なるほど、あかりちゃんは彼と対等でありたいんですね」
「対等でありたい……」
「話を聞くに、あかりちゃんはおにいさんからしてもらってばかりで、もっと何かしてあげたいと思ってるように感じたんですが……どうでしょうか?」
「あ……」
その言葉はすとん、と胸へ吸い込まれた。探していた答えが見つかったような感覚に、漠然とした不安が解決策への手掛かりに変わる。
「そうかもしれないです……!」
だけど、その為にはどうすればいいのかが分からない。お料理や掃除を今まで以上に頑張る? 確かにおにいさんはそれでも喜んでくれるかもしれない……けど、出来れば――
「おにいさんの事を、もっと気持ち良くしてあげたい……。してもらうだけじゃなくて、もっともっと自分から……」
出来れば、やっぱりエッチな事で喜んで欲しい。一番強く胸の奥で燻っているのは、そんな思いだった。
「でも、どうすればいいのか見当がつかなくて……何かいい方法はありませんか?」
「……成程」
確かめるように私の目を見据えていたゆかりお姉ちゃんは、それを聞いてゆっくりと頷く。
「ありますよ、いい方法が」
「本当ですかっ!?」
「ええ、そんな事で嘘をつく訳ないじゃないですか」
ゆかりお姉ちゃんは、再び抱きしめてきながら耳元に口を寄せる。
「おにいさんが遠慮がちなのは、あかりちゃんの事を気遣いすぎての事です。前言ったように、今のあかりちゃんは知識と感覚にずれがある状態ですからね」
「はい……」
失敗した時を思い出してしまって言葉に詰まる。おにいさんに触れられても、前とは違うという違和感ばかりに意識が向いてしまい、全然感じられないのが苦しかった。不調の原因の一つだったとはいえ、少しだけあの不正なパッチが惜しいとすら思ってしまうほどに。
苦い記憶を溶かすように、ゆかりお姉ちゃんの吐息が耳朶をくすぐった。
「だったら難しい事はありません、知識と感覚を擦り合わせればいいんです。今まで感じていたものが不正なものに基づいていたという事を身体に教えて、新たな感覚で上書きする……」
確かに、それは至極尤もな理屈だった。今までがおかしかったのだから、それを正しいもので置き換える……でも、どうやって?
心を読んだように、答えが囁かれた。
「……そのためには、経験を積めばいいんです。沢山、ね?」