「ありがとう、ゆかりさん」
そう言いながら、弟くんは畳に頭が付くぐらい深いお辞儀をしている。それも正座で――いわゆる土下座である。
「……ゆかりさんが悪質クレーマーみたいなのでやめてくれないですかね」
あかりちゃんのアルバイトも今日で三日目。
弟くんの様子を見に彼の部屋へと赴き扉を開けて貰った時点で、何だか今日は丁寧に対応してくれるなとは思っていた。今まではちょっと鬱陶しそうな目を向けていたのに。
和室に通されるや否や、コレである。
「いや、本当にゆかりさんにはここのところ助けられてばかりだったから、さ」
漸く頭を上げた彼は真剣さを伝えようとしてか、私の目を凝視していた。の割に、口が幸せで緩みかけているのだが……まあ、それを態々指摘するほど野暮でもない。
「それは仕事の内ですから、お礼を言われることでは無いですよ。……まあ、にしても随分と手のひらを返した対応だとは思いますけど」
「……それは、うん。それについても本当に今まですいません」
誤魔化すように彼は頬を掻いて、今度は口元も引き締め頭を下げなおした。ちょっとした意趣返しのつもりだったのに、そこまでされては本当に私がクレーマーで無理矢理土下座させているみたいではないか。
「別に怒っているわけでも気にしているわけでもないですから。ちょっと言ってみただけなので、頭を上げてください」
頭を上げるも、彼の顔はどことなく気まずげだ。
「いやでも、本当にちょっと今までは苦手な印象を勝手に持ってたからさ」
苦手、というのも嘘ではないだろうが、自分はあかりちゃんと過ごせないのにという嫉妬も大いにあったと思うのだが……勿論馬に蹴られたくは無いから、口にはしないけど。
「まあ私の事はどうだっていいんです。それより――随分上手くいっていたようですね」
本題に切り込むと、彼の気まずそうな笑みが一瞬驚きに変わって、すぐに口の端が緩み始めた。
「っ――もしかして、そんなに分かりやすく表情に出てたりするかな?」
「出てますね」
「……いや、うん。本当にアリガトウゴザイマス」
恥かしさに舌が回らなかったのか、最後妙に片言じみた発音になった弟くんだが、実際の所はここに来た時点で上手く行っている事など知っていた。
「それ以前に、ギシギシアンアン聞こえてましたからね。毎日毎日」
「っ――!? うっそだろ!?」
「本当ですよ。ここ防音はしてますからうるさいって程では無かったですけど。あ、してるんだなー……程度には聞こえますし」
本当の所、私の部屋に音が少ないというのも聞こえてしまう原因の一つではあるのだが。それを知らない彼は顔を赤くして、何とも気まずそうに視線を彷徨わせた。
「お、おぉ……それは、その……ご迷惑をおかけしまして……」
「いえ、別に私は気にしませんから。むしろ、上手くいってるんだな、と安心しました」
「あー、うん……それはもう本当に……特に、ゆかりさんが教えてくれたマッサージでほぐしてそのまま後ろから、っていうのが上手くいって。それからは普通にもできるようになって……」
どうやら、私が用意した秘策は成功したようだ。
下半身の血流を良くして、ついでにGスポットを一番突きやすいバックで出来るように。それだけでなく、上手く出来るか不安を感じてしまっているあかりちゃんをマッサージでほぐし、セックスするんだと緊張させないように。と弟君に説明したアレだ。
「上手くいったのなら重畳です」
尤も実際の所、私の少ない経験を元にしているので効果のほどは怪しい。彼の自信に繋がれば御の字と思っていたのだが――
少しおまじないが効き過ぎただろうか、という懸念はどうやら的中してしまっていたらしい。
「それなんだけど、上手くいくにはいった――と思いたいんだが、やっぱりまだ不安でな……」
弟くんが表情を歪めながら気まずげに切り出した。
「不安?」
「いや、何というかあかりがもしかしたら感じてる演技をしてるだけなんじゃないかって」
一瞬「そんな言い訳までして、もしかして私とのセックスに嵌ったんですか?」なんてからかい交じりに断ろうとして、彼の手がきつく握りしめられているのに気付いた。
私が答えあぐねている間にも、一度堰を切ったら止められないのか、彼の口からは不安が溢れる。
「それに、スパート……っていうか、こっちがイきそうな時とか、結局あかりの事より自分の事優先になってたなって、毎回後にならないと気づけないんだよな」
……やっぱりただ惚気話を自慢したいだけでは?
馬か犬にでもなって蹴るか食うかでもしてやろうか、と一瞬魔が差すも。彼の手は握りしめられたままで、その表情は酸素を求めて喘ぐ様に苦し気だった。
(確かに、弟くんやあかりちゃんにとっては、今まで出来ていたことが出来なくなって……否、当たり前の前提が崩れたようなものですからね)
初めから上手く行き過ぎたが故に、出来ないところが目についてしまうのだろう。
(幸せかと思ってましたけど……なかなか、この二人も難儀なもの抱えてますね)
「――分かりました。もう少しだけ練習に付き合ってあげましょう」
「……ありがとう」
弟くんはそれを聞いて安堵したような、断わってほしかったような微妙な表情を浮かべながらも、深く頭を下げただけだった。
(ここで前回みたいに悩んでくれたら、私も断われるんですけどね……。全く、この二人は何でこう……変な所で頑固なのだけ似てるんでしょうか)
彼が目の前にいなかったらため息をついているところだ。部長は休みついでに楽しんで来いとか言っていたが、これはむしろ手当を要求できるんじゃないだろうか。
(まあ、下手にそんな事言ったらもっと休めとか休暇を延ばされそうですし言いませんけど)
少し荒療治にはなるだろうが、ここで弟くんには、私がいなくとも大丈夫だとしっかり教えなくてはいけない。
「では、ここでする訳にもいきませんし、私にも用意がありますので、三十分後に私の部屋へ。鍵は開けておきますので」
――――――――
「――入るぞ?」
宣言通り鍵を開け放したままのドアを捻ると、相変わらず部屋の中はいつもの甘いような香りが漂っていた。
(この香りにも、慣れてしまったな……)
最初はまるで異世界にでも迷い込んだような心地がしたものだが、こう頻回に嗅いでいるせいか、ほのかに香る程度にしか感じなくなってしまっている。
そのくせ、パブロフの犬みたいに節操ない下半身だけは既にこの先の展開を予想してガチガチに固くなっていた。
アパートに住んでいる人が少ないとはいえ、外から普通に視線が通るところで勃起しているのは不味い。返事はないままだったが部屋に入り、ドアの鍵を閉める。
「おじゃましまーす」
少し大きめに呼びかけてみるが反応はなく。惰性で奥の寝室へ向かうも、そこにもゆかりさんはいない。
カーテンは相変わらず閉められていて、ベッドサイドの小さなテーブルの上ではゆらゆらと蝋燭の灯りが揺らめいていた。
「この匂い、蝋燭からだったのか」
鼻を近づけると、熱気と共に濃密な甘い香りが鼻孔をくすぐって頭がくらりと揺らめき、慌てて距離を取る。そのまま嗅いでいたら意識が朦朧と蕩けるような気がしたからだ。
「……媚薬、じゃないよな。うん」
詳しくないが、多分アロマキャンドルとかいう奴だろう。今までのもこれで理性を絆されて――なんてことは無い筈だ。
と、そこまで考えて舌打ち一つ、頭を軽くこつんと叩く。
「ゆかりさんのせいにするとか……」
あかりとのセックスで不安に思ったのは自分だし、そのために練習を続けるように話を向けたのも自分だ。そのくせまだ、そんな事を言っているのか。
このまま苦々しい表情を浮かべていては、またゆかりさんに何か言われるだけだ。ベッドへ腰かけ、気持ちを切り替える為のきっかけを捜して部屋を眺めるも、
「相変わらず……何にもない部屋だな」
薄暗い部屋に置かれていたのはキャンドルの乗ったナイトテーブルと、作業用らしき机と置き型PC。後は今座っているベッドだけという生活感の薄さである。机の上もタブレットとファイルが数個几帳面に並んでいるだけで、住んでいるというより中途半端なモデルハウスと言われた方が納得出来るほどだ。
こんなに何もない部屋で、彼女は普段どのように過ごしているのだろうか。
「趣味とかあるんだろうか……」
「特にないですね」
「おわぁっ!?」
独り言のつもりで呟いた言葉に応じられて、慌てたはずみにベッドの上へひっくり返った。上下逆さまに見える顔が不満げに眉を垂らしている。
「び、びっくりした……! 気配消して近づくのは止めてくれよ……」
「……別に気配を消しているつもりは無いのですが」
座り直し改めて視線を向けると、ゆかりさんはお風呂上がりなのか、バスタオルだけを巻き付けた格好で立っていた。
「っていうか、その髪、着け毛とかじゃ無かったのか」
いや、正確に言うならタオルに加えて、長いもみあげをリボンで纏めている。
「付け毛もしますが、これは自毛ですね。本当はここも短い方がシャンプーも楽なのですが、もみあげのエクステは付けるのが面倒くさいので」
「面倒くさいって……もしかして後ろ髪がベリーショートなのももしかして」
「この方が洗う手間も乾かす手間も少ないですし、後ろ髪の方は簡単に盛れますから」
変な髪型だと思っていたが、どうやら合理性を突き詰めるとそうなるらしい。それとも、極端に面倒くさがりなだけなんだろうか? でもそれならこんな事まで態々……
「別に私の事を知ったところでセックスが上手くなるわけじゃ無いんですから、さっさと始めましょう」
「お、おう」
いつの間にか隣まで近づいていたゆかりさんがベッドに腰を下ろした。シャンプーだろうか、一瞬部屋に充満する甘ったるい香りと違う、柑橘系の爽やかな香りがふわりと漂う。
「服着てたら出来ないですから、脱ぎながら聞いてください」
促されるままに立って上から脱ぎ始めると、それに恥じらうでもなく冷静にこちらへ視線を向けたまま、ゆかりさんは話し始める。
「先ほどの話を聞くに、弟くんに足りないのは観察力と忍耐力です。まず観察力についてですが、弟くんは表情と言葉の内容に集中しすぎている気がしますから、もっと他の所、例えば語調、視線、挙措。それから相手と密着しているなら心拍数の変化や体の反応も手掛かりとなるはずです。先ずは、そう言った所を意識するようにしてみてください」
「ちょ、ちょっと待った! それは……いきなり多すぎない?」
最初少し納得しかけて、滔々と続く説明に頭が追い付けず。ズボンを脱ぎかけた所で固まったまま彼女の方を向く。
「……そうでしょうか?」
不思議そうに首を傾げるゆかりさん。
……いやそんな当たり前の事みたいに言われましても。
ゆかりさんはこちらの反応に困ったと言わんばかりに一瞬眉根を寄せたが、こめかみを二、三度人差し指で叩いてから、口を開いた。
「うーん……それなら、先ずは視線と体の反応でしょうか、一番気を付けて貰いたいのは。顔を見てるなら視線は自然と目に入るでしょうし、体の反応に至っては距離ゼロですしね」
「まあ、それくらいなら……」
出来そうな気がしなくもない。だが、それはあくまで余裕があるときの話だ。
「ただ、興奮してる時に出来るかって言われたら難しいと思うけど」
ズボンも脱ぎ終わって裸でベッドに座ると、それを待っていたかのようにゆかりさんの手が股間へと伸びてきた。
「でしょうね。なので、こうやって同時に忍耐力も鍛えて貰います」
しゅるりと既に勃起していた陰茎に指が巻き付いて――いや、指ではなくもっと薄くて細い。
視線をゆかりさんの顔から下げると、ペニスにリボンが巻き付けられていた。根元へ数周巻き付いて、そして最後にきゅっ、と結ばれる。
「ぅおっ……ちょっ、何して……っ」
「見ればわかる様に蝶々結びです」
いや結び方の種類ではないんだが、と内心突っ込みつつ。強い締め付けに仰け反らせた顔を戻せば、グロテスクな肉茎に似合わぬちっちゃい蝶々が根元へ付けられていた。
「ふふっ、私とお揃いですね?」
「お揃いって……いやいやいや」
よく見れば、肉幹に結ばれたリボンは彼女のもみあげを纏めている物と同じ柄だった。
自分の逸物がちっちゃな女の子の玩具みたいに扱われている。そう意識すると恥かしくてたまらない。思わず結び目へ手を伸ばしかけるが、その途中で手首を捕まえられた。
「あ、取っちゃダメですよ。 今からこの状態でセックスして貰うんですから」
「え?」
今度はこちらが首を傾げる番だった。
「忍耐力って言っても、スタミナというより弟くんの場合は精神的なものですから。出そうで出せない射精寸前の状態をキープして、私をイかせるように頑張ってもらいます」
所謂寸止め、と言う奴か。人によってはご褒美なのかもしれないが――あいにくその手の趣味は持ち合わせていない。
しかもその上で、冷静さを保てと来た。
「な、なかなかキツそうだな……」
ちょっと相談した事を後悔しかけ引き気味にそう言うと、ゆかりさんは露骨なジト目になる。
「まさか、ただ気持ちよーく私とセックスが出来るだけ、なんて思ってたんじゃないでしょうね?」
「いや、そんな事は――」
否定しようとして、反射的にビクンと跳ね上がった息子に言葉を失う。
「……はぁ、まあゴムが付けやすいからいいですけど。前回、前々回はこっちから提案したので少し甘めに対応してきましたけど、今回は弟くんから練習したいって言った訳ですから、厳しくなることは覚悟しておいてくださいね?」
「は、はい……」
まるで教師に叱責される生徒みたいな気分だ。否、みたいというより教えて貰うから実際その通りな訳なのだが。
「ほら、しょぼくれてないでヤりますよ」
ゆかりさんの髪型好きなんだけど、街中ですれ違ったら二度見する自信がある。