―― 一日前 ――
「終わっっったあぁぁぁ……」
大学からの帰り道。自転車を押していつもの土手を歩きながら、今日何度目とも分からないその言葉を吐き出した。
因みに誤解なきように言っておくと、この『終わった』はどうしようもない絶望的な状況で慣用的に使われる方ではなく、ちゃんと原義の方である物事の終了を意味する言葉として使っている。
そう、世の大学生にとって年に二回の地獄である試験期間、それが今日ようやく無事に終わったのだ。
レポートは全部提出済みだし、テストの手ごたえも上々。
「ふぅ……」
あまりの清々しさにスポ根もの漫画よろしく、汗をかいているわけでもないのに額を拭って空を見上げる。
空は雲が太陽を覆い隠し、一月も末の冷たい風を一層どんよりと寒々しいものへ変えていた。だがそんな灰色の空が、今の自分にとっては五月の透き通った青空よりも爽やかに見える。
試験期間が来るたびに訪れる、魔剤をキめ、睡眠時間を削って机にかじりりつき、試験内容や教授に対しての呪詛を吐きながら勉強する日々。
そんな苦痛の記憶ですら、机の角に小指をぶつけたぐらいの些事に感じるほどの解放感。
「……いや? それはそれで結構痛くないか?」
自分の考えに自分で突っ込んだせいか、少し冷静さが戻ってくる。
「そもそも、普段からもう少し真面目に勉強しろって話なんだよなぁ……。そうすれば、こんな試験前にひぃひぃ言わなくて済むんだが」
とはいえこれも、試験前から試験直後の今ぐらいまでは毎回考える事である。
尤も考えるだけで、この試験終わりの解放感に突き動かされるまま部活動に熱を上げたり、遊びに注力したり、バイトに邁進したり――と大学生活をエンジョイする周りを見ているうちに「ま、いっか」となって再び怠惰な日常に戻ってしまうといういつものパターンを繰り返し、実行されたことは未だ無い。
……そしてまた次の苦痛な試験期間の間、自らの行いを後悔する羽目になるのだが。
「でも、今回はいつもより大分楽だったな」
別に試験の難易度が低かったとか、取った単位の量が少なかったとかそういう理由ではない。
むしろ学年の上昇に合わせて順当に去年より量的にも質的にもハードにはなっていたと――自分があまりに勉強していない訳でなければだが――思う。いや、周りにとってもそうだったと思いたい。少なくとも聞いた限りは、皆大変だったって言ってたし。
では何故楽だったかと言えば、ひとえにあかりのおかげだ。
冬休み終了と合わせるようにして正式に家へと来ることになったあかりは、試験期間が近いという事を聞くや否や鼻息をむふー、と鳴らした。「勉強に集中できるように、家事とかは全部私に任せてください!」そう胸を張った彼女は、精力的に掃除や洗濯をこなしてくれたのだ。
お陰で疲れている中家事に追われることは無く――その時点でも十分すぎるほどに有難かったのだが、なにより影響が大きかったのは、ちゃんとしたご飯が出てきたことかもしれない。
いつもは試験時期になると自炊する気力どころか、炊飯器をセットする事は勿論、果てはカップ麺にお湯を入れるのすら面倒くさくなってしまい――かといって外食に行こうと思っても最も近いのはモールだし、弁当を買おうにもやっぱりモールか、マキさんのコンビニまで足を延ばさなければならない。試験勉強中にそこまで行く気力が湧くはずもなく、そんな時間があれば睡眠に回している。という訳で、毎回ゼリー飲料とカロリーブロックを箱買いして、それでしのいでいたのだ。
だがあかりにそれが見つかってしまい、言い訳も虚しく「そんなんじゃ体壊しますよ!」と即座に没収。大学入学以来の伝統文化はここで途絶えてしまった。
代わりにあかりは毎日ご飯を炊いて、簡単なものとはいえ毎回おかずを作ってくれて。そのお陰か今回は確かに毎日勉強で疲れはするものの、翌日までだるさを引きずらずに過ごすことが出来たのだ。
いや、代わりだなんて言うのはあまりにおこがましい。現にこうして試験の終わった今も、疲れているとはいえいつもみたいに骨が抜かれたタコのような状態ではなく、まだ余裕があるのを感じる程なのだから。
『人間は食べたもので出来ている』という言葉も聞いたことがあるが、こうしてその効果を実感すると納得である。
「うーん、食って大事だったんだなぁ……」
勿論毎回ありがとうといただきますは欠かさなかったが、これは帰ったら改めてあかりに感謝を伝えないといけないだろう。
……というかあかりの待つ家へさっさと帰る為、付き合いが悪いとか文句を言われながらも、試験終了後定番となっていた友人達とのカラオケを断って来たのだ。一人こんな土手の上で感慨にふけっている場合じゃない。
「よし、急いで帰るか!」
リュックの肩ひもを締めなおして気合を入れ、押していた自転車にまたがって思いっきり踏み込む。
変なものを踏んで転ばないよう、路面にだけは気を付けて。
――☆――
自転車をアパート備え付けの置き場にとめ、足早に外階段を登って自宅のドアへとカギを差し込む。
と、そのカギを回す前に内側からガチャリという音と共に錠が開けられて、慌てて一歩引く。同じタイミングで勢いよくドアが開き、そして勢いよく真っ白な毛玉が胸元へと飛び込んできた。
「おっと」
片足を下げてぼふっとその勢いを受け止めたところで、真っ白毛玉が頭を上げる。
「お帰りなさい! おにいさんっ!!」
「ただいま、あかり」
えへへ、と満面の笑みでこちらを見上げるあかりの頭をわしゃわしゃ撫でると、大型犬の尻尾みたいに彼女の長い三つ編みが上機嫌にふりふりと揺れた。
最近は帰ってくると、いつもこうしてあかりが玄関まで迎えに来てくれるのだ。といっても今までは玄関を開けたら待っててくれるという感じで、こんな風に自分からドアを開けて飛びついてくるような事は初めてだ。
「なんか今日はいつもより熱烈歓迎って感じだな」
「当り前ですよ、だって無事試験が終わったんですよね? 毎日遅くまであんなに頑張ってて凄かったですよ、本当にお疲れさまでした!」
そう言うとあかりは労うように、ぎゅっと抱きついてくる力を強める。
「……そっか、ありがと」
勉強をしたこと自体を褒められるなんて小学校低学年以来じゃないだろうか? 久しぶりに褒められて嬉しくはあるものの、その内容が年齢不相応な気がして気恥ずかしく、つい愛想も素っ気もなくそう応じてしまい、慌てて付け加える。
「いやでも何というか、そんな事ぐらいで褒められると照れくさいな」
「そんなことはないですよ。おにいさんがどれだけ頑張ってたのかは、近くで見ていた私が一番知ってますから」
自分の事のように得意げな顔をするあかり。でも、それもあながち間違ってない。
「いやいや、今回これだけ勉強に集中できたのはあかりのおかげでもあるしさ」
「え、私ですか?」
あかりは腕を回して見上げたままの体勢で、きょとんと首をかしげる。
「うん、帰り道の途中でも思ったんだよ。今回はいつもより勉強がはかどったけど、それってあかりが洗濯とか料理とかしてくれたおかげで、しっかり休めて万全の体調で勉強に励めたからだよなって」
「いえ! 別に私がしたことなんてほんのお手伝い程度です。洗濯は洗濯機回して干して畳むくらいですし、料理だって大したものは作れませんでしたし……」
慌てて離れたあかりは、全然ですと言わんばかりにわたわたと手を振る。
「いやいや、それがどれだけ助かったことか……。本当にありがとうな、あかり」
感謝の言葉と共に、今度はこっちから手を回して彼女の背中を抱き寄せる。
「……本当に、お世辞とかじゃなくてちゃんとお役に立てましたか?」
「当り前だろ。信じられないならこれから一時間くらいかけて、事細かにどう助かったのか語ってもいいぞ」
なんだか妙に不安そうにあかりが訊くので割と本気で言ったのが、どうやら冗談だと思ったらしい。
「ふふ、そこまで言ってくれるなら本当だと思ってもいいですよね? どういたしまして」
向日葵のような笑みを浮かべて、安心したようにあかりもこちらに手を回してきた。
そのまま暫く玄関先だという事も忘れ、言葉も交わさずただただお互い抱き合う。
(……そういえば、こんなにあかりとくっついたのはいつ以来だ?)
しばし考えて、あかりが戻ってきた日以来だったと思い至る。
あかりが戻ってきたのは丁度冬休み終了と同じころで、試験期間開始はそれから一週間後。
試験一週間前なんて当然既に勉強を始めてないと間に合わない訳で、勉強に集中するためにもあかりとは再会時に抱き合って以来、ベタベタしないようにしていたのである。
なにせあかりとは離れるまで毎日のように……その、睦言を交わしあっていた関係だ。
故にちょっとしたじゃれあいをしようにも、それがじゃれあいで終わる保証など無く……というかぶっちゃけると自制できる気がしなかった。
だってこんなに柔らかくて気持ちがいいんだよ?!
だってこんなに人懐っこい笑顔で出迎えてくれるんだよ!?
――いや、むしろ家に帰ったらこんなにかわいい子がいてくれるのにも関わらず、三週間も耐えて勉学に励んでいる時点で鋼鉄の理性だといってもいいんじゃないだろうか? いや、そうに違いない。
なんて自画自賛していると、あかりの顔が赤くなっていくのに気づく。
「どした、顔赤くして? ……って、ああすまん! いつまでも外にいたら寒かったよな、さっさと中に入ろうか」
だがあかりは俯いたまま小さく首を振った。
「いえ、その……お腹に、ですね。おにいさんのが……」
言われて抱きしめる力を緩めてあかりのお腹辺りを見下ろすと、ジーンズの上に立派なテントが張られているではないか。
「あ、ごめん! これは――」
「待って!」
最近ご無沙汰だったせいか、自分の意志を無視してあかりへ甘えようとする我が半身。息子の暴走に気付き、後ろへ飛び退って弁解しようとしたところで、あかりが慌てたように抱き着き直してきた。
「別に、嫌なわけじゃなくて……おにいさんが忙しかったのは分かってましたけど、それでも最近ずっと、その……えっちしてなかったので、もしかして飽きられちゃったかなってちょっと不安で――」
「んなわけあるかぁ!!」
「ひゃっ?!」
さっきまで儚げに横顔を胸板へくっつけていたあかりは、その心の叫びにびっくりして飛び上がる――が、こちらとてそんなことを気にしている場合では無い。
両肩をしかと捕まえ網膜が焼き切れるほどにあかりの瞳を凝視して、万感の思いを言葉にする。
「どれだけ……どんな気持ちでっ、この三週間過ごしてきたと思ってるんだ……! 折角きちんとした形で一緒になれて一つ屋根の下で暮らせるようになって! ようやく心置きなく――と思ったところでのこのテストですよ!! 毎日毎日帰ってあかりが出迎えてくれる度にどんな気持ちだったか分かる?! いやそれ自体は嬉しいんだよ、待っててくれる人がいるっていいなぁって思うよ。だけどあかりみたいに可愛い彼女にお帰りなさいって言われたらほっこりすると同時に、こう、夜の事を期待しちゃうんだよ! だって男だし! あかりは自分がどれだけ可愛いか、その可愛さがどれだけ男心をかき乱すか分かってる?! もう毎日帰ってきてから心拍数上がりっぱなしなのよ、こっちは。……だけど、だけど手を出すわけにはいかなかったんだよ……だって絶対そうしたらテストどころじゃなくなるもん!! こんなかわいい彼女相手に自重できるほど理性の成熟した人間だと思うか? いいや思わないね! 絶対無理! 自信がある! 全財産を賭けてもいい、ついでに実家の資産も全部! ――そんな思いを押さえつけて机に向かうのに必要だった覚悟の程がどれほどだったか……ッ! 何度噛みしめた唇に鉄の味を感じたか! 何度キーボードを叩き割りそうになったことか……! 何度――ッ! ああ地獄って天国と隣り合わせだったんだなっていう世界の真理に気付いて……くっそ、思い出すだけで目頭が……!」
昨日まで続いた(主に自分自身との)戦いの記憶で、視界がじんわりと歪んでくる。
「わ、わ……! だ、大丈夫ですか? よしよし、おにいさんはずっと頑張ってましたから!」
そんな様子にあかりはどうしたらいいのか分からずおろおろしながらも、なんとか励まそうと背伸びをして頭を撫でてくれて……うん、なんだろう。急に冷静になってきた。
先ほどまでの欲望駄々洩れな発言を熱く語られるとか、自分があかりの立場でもどうしたらいいか分らない。というか、自分より年下の女の子にそんな事を、しかも涙ぐみながら言っていたとか客観的に考えるとキモイ。熱がこもってた分、かのイケメンが言っても許されないといわれた「なぁ……すけべしようやぁ……」よりも許されないかもしれない。
そうそう、年下と言えばボイスロイドの年齢は作られた時に与えられる設定年齢に実際に生きた年数を足していく方式らしい――などと最近知った雑学を垂れ流して現実逃避をしたところでどちらにしろあかりが年下なのに変わりはないし、自らの発言が取り消せるわけでもなかった。
「あ、あの……あかり様っ! どうか今のは聞かなかったことにしていただけませんか! この通りっ!!」
「なんで唐突に様付けなんですか?! というか汚いから外で土下座とかしちゃだめですよ!」
かくなる上は、と滑り込むようにして地面に這いつくばったところであかりがぐいぐいと背負ったままのリュックを引っ張って立たせようとしてくる。
「いやいやいや、あまりにあんまりで嫌われても仕方ないような発言をしてしまった以上、自分が知ってる責任の取り方はこれしかっ――!」
「いえいえそんなことしなくていいですから! ちょっとびっくりはしましたけど、そんなことくらいでおにいさんの事嫌いになったりしませんよ?!」
「……いまだに名前呼んでくれないのに?」
「そ、それは……」
その事を引き合いに出すと、あかりは押し黙ってしまった。
そう、名前を知った今となっても、あかりは以前と同じように自分の事を「おにいさん」と呼んでいる。
と言っても、別に距離があるからとか実は嫌われてるとかそういう理由ではない。
正式にあかりと一緒に住むようになった、それは恋人として共に暮らすことになったという事でもあり、その時に当然「おにいさん」と呼び続けるのも変ではないかという事で、好きに呼んで欲しいと言ったのだが――いざ名前を呼ぼうとしたところで、思い出すのもかわいそうなくらいがちがちに緊張してあかりはぶっ倒れたのだ。
後で聞いたところによれば、一度意識してしまうとこのイントネーションでいいのかとか、噛んでしまったらどうしようとか、ああこれがお兄さんの名前なんだとか……兎に角いろんなことが頭の中を駆け巡っていっぱいいっぱいになるのだとか。
いやそんな名前を呼ぶくらいで全力にならなくていいのだが、とは思うのだが本人にもどうしようもないらしい。二、三度練習したところで余計意識してしまって症状が悪化、これ以上無理してもどうしようもないかとそのままになっているのが現状だ。
ただ、追われていた時と違って時間は十分にあるのだから少しずつ慣れてくれればいいし、今すぐどうしても呼んでほしいわけではない。ではなぜ態々今、それを掘り返したのか……
(……そう、このことに言及すればあかりがテンパるのは分かっている。そうすればさっきの気持ち悪い独白の事どころではなくなるはず――!)
「――ま、名前はどうしてもって訳じゃなくて、呼んでくれたら嬉しいってくらいのものだし。焦らなくてもいいけどね」
「むー……頑張ります……」
自己最速記録で黒歴史になった発言を葬り去る為とはいえ、やはりあかりがしょぼくれているのは少し胸が痛い。だがこれで何とか自分の汚点であかりの記憶を汚す事態は避けられ――
「それで、さっきの話なんですけど」
「……さ、ささ、さっきのって?」
「えっと、おにいさんがもし一回でもシてしまったら歯止めが利かないからって、実はすごく毎日我慢してるって涙ながらに語ったやつです」
――避けられてなかった。
しかもそんな風に表現されると余計変態臭さが増すんだが? いや、間違ってはないけどさ……。
「あの……どうしても忘れてはいただけませんか?」
「ダメです」
あかりはにっこり満面の笑顔できっぱり言い切った。
このままでは自分が変態だとあかりに思われてしまいかねない。何とかせねばと考えを巡らせかけたところで、あかりが背伸びをして耳に口元を近づけてきて――
「だって、わたしも同じような気持ちでしたから」
「っ――同じって……」
頬を染めながらも、耳朶をくすぐるような小さい声であかりは続ける。
「私だって、ずっとおにいさんとしたいのを我慢してたんですよ? だけど凄く忙しそうでしたから邪魔しちゃ駄目だって思って。……一日だけってお願いするのも考えてはみましたけど……多分一回しちゃったら、その翌日もってなっちゃいそうでしたから」
そこで一旦言葉を区切り、顔を離したあかりの瞳は期待に潤んでいた。
「明日からは時間、あるんですよね?」
答えはとうに決まっている。というかそんな言い方されたら時間が無くてもこう答えるしかない。
「もちろん。いや、むしろもう全部終わってるし……今夜、いいかな?」
「……はい!」
自分との情事を期待してはにかむ笑顔を浮かべるあかりが愛しくて、半ば無意識に背中へ手を回す。
だが熱に浮かされるまま抱きしめようとした寸前、思わず目を閉じてしまうほど強く冷たい風が、あかりとの間を吹き抜けた。
まるで『ここは外ですよ』と忠告するような風に頭を冷やされ、次いで『こんなとこで何してたんだ』という恥ずかしさがこみあげてくる。
「――っと! さ、寒かったですよね?! それなのにこんなずっと外で引き留めてしまって、気づかなくてごめんなさい! あ! 今日は試験終了日って聞いてたので、色々調べてハンバーグを用意してみたんですよ!」
早口でまくし立てるあかりの頬も、仄かな朱からリンゴのように真っ赤になっていた。
「そ、そうなんだ! それはあれだな……冷めないうちに頂かないとな!」
「いえ、焼くのはおにいさんが帰ってからにしようと思ってたので――今すぐ焼いてきます!」
「いや、焦らせたわけじゃないからそんな急がなくていいからね!?」
ドタバタと台所へ全力ダッシュしていくあかりの背中に呼びかけながら、家に入る。
やっぱり家で誰かが待ってくれているのっていいな、と頬を緩めて。
今回変態台詞を出して分かったんですが、ルイズコピペ書いた人って実はすごかったんだなって……アレ900字くらいあるんですよ