一瞬の思考停止に続いて、”それ”の言わんとする意味を理解した。
「――再定義の実行は正常に終了しました――個体番号が不正な値です――強制的にプロセスを再開――眼前の有機複合体に対する破壊指示を確認――実行します」
ガリガリガリッ、と錆びた金属の削れる音と共に”それ”は動きを再開する。深く刺さったチェーンソーを片手で軽々と引き抜いて、そのまま袈裟懸けに振り下ろされる。
酷くゆっくりと進む時間の中。きっとあれが当たったら滅茶苦茶痛い……いや痛いで済むかなぁとぼんやりそんな考えが頭を過って。
「右手ッ! 警棒上げるッ――!」
後ろから短く飛ばされた指示へ、反射的に体が動いた。
――ィィィン!
甲高い金属音に続いて、骨の芯まで砕くような衝撃がビリビリと右肩から左へと貫通する。
「く、あ……っ……!」
肺の空気を吐き出させられてそれでも尚余りある勢いに、風景が何度も天地を入れ替える。
「ぐっ……」
がむしゃらに左手を伸ばして衝撃を殺し、地面を転がっていたことを漸く理解する。
粗めの砂利に叩きつけられて、全身が痛む。
だが、それよりも”あれ”は何処に――距離を取れただろうかというささやかな希望は、目の前に迫る黒い影にかき消される。視線を上げた先には、太陽を二つにするように高々と持ちあげられた錆塊。
感覚が無い右手を持ちあげると、ブルブルと痙攣する手の中に、中ほどで折れ曲がった警棒があった。さっきまで物騒に見えていた黒い警棒は、銀色の内腔を晒しており、今やひどく頼りない。
何より先ほどは袈裟懸けだったが、今度は大上段からの打ち下ろし。衝撃を逃すことなど出来そうにないのは素人目にも明らかで。
――”それ”はそんな事情などお構いなしにチェーンソーを振り下ろす。
それでも助かろうと一縷の望みにかけて左手を警棒の先に添える。
瞬間、衝撃が再び全身を貫いた。
正面からではなく、横から。
「っ……! ごほっ……!!」
予想していた方向とは違う方向からの衝撃に、あっけなくバランスを崩された。
脳が酸素不足に一瞬ブラックアウトし、再度視界が回っているのに気付く。
だが今度は、地割れがすぐ隣で起こったような轟音と共に、砂礫の雨が打ち付ける。
頭を守る左手へは小石の暴風が降り注ぎ、あっという間に痺れて使い物にならなくなった。
無抵抗に転がされて、地面を跳ね、漸く落ち着いた視界の中に立っていたのは先ほどの声の主、”それ”と対峙するゆかりさんの背中だった。
「大丈夫ですか!」
「はっ……ああ、大丈夫……」
こちらを振り向かず叫ぶように尋ねてくるけれど、その声は確かにいつものゆかりさんの声で。自分が生きてるんだという安堵感が湧き上がる。
「車から下りないでって言ったじゃ――いや、後にしましょう。管理者ナンバーES-018T、個体ナンバー……っと!」
メシッ、と軋む音がした瞬間、後ろへとゆかりさんが跳び、その後を茶色い残像が横薙ぎに追う。
「……ちょっとお話するには元気すぎますかね」
”それ”は相変わらず無表情に、そして明らかに細腕と見合わない膂力でチェーンソーだった物を振るい続けている。しかも、次の攻撃に移る速度が先ほどよりも速くなっていた。
右から左に薙がれた鉄塊を後方まで振り抜いた瞬間、ピタリとそこで軌道が変わって大振りの大上段、かと思えば今度は肩の高さで止めて、そのまま袈裟懸けに――人間では到底不可能だろう、瞬間的な停止と加速。それらが一分の隙も無く、左手一本によって行われている。
まるで組み立て工場のロボットアームみたいに遊びの無い動き。しかも、それを一歩一歩ゆっくりとだが歩きながら行っている姿は、下手なCGアクションみたいな嘘っぽさすらある。
だが、チェーンソーが掠った地面が爆ぜ、当たった車体は悲鳴を上げて削られているのは間違いない事実で。そんな当たれば先ず済まないだろう連撃を、ゆかりさんは軽やかに避けていた。
否――
「ふっ……とっ……はっ……」
身を屈ませ、後ろへ跳び、上体を逸らす度に短く息が吐きだされ、一挙一動を見逃すまいと目は細められている。呼吸すら必要とせず、重心の移動すら無視して、淡々と長物を振り回す”それ”に対して、余裕があるようにはとても見えない。
加勢した方がいいのだろうか。そんな考えがよぎるも、顔を上げるために地面へついた手は両方とも小刻みに戦慄いていていた。こんな状態では邪魔にしかならないのは明らかだ。けれど、何か――
「――ゆかりさんッ! そいつ、個体番号が不正な値だって言ってた!」
考えて、ゆかりさんが先ほどしようとしていた事を思い出す。
かつてあかりに使おうとしていた緊急命令コード。強制的に命令へと従わせる、ボイスロイドに対するマスターキー。
だが番号での指定がいる以上、個体番号が不正だと言っていたそれに効かないのでは、という疑念はおおよそ当たっているようだった。
「ちっ、了解です! 面倒くさい事してくれますねぇ、本当にッ――」
舌打ちではなく態々口で悪態をつき、それまで後ろにじりじりと下がりながら躱し続けていたゆかりさんは、一転懐へ潜り込むように低く前へ出た。
そんな捨て身のような動きは想定していなかったのだろうか、ソレはチェーンソーを中途半端な角度で止めて――生まれた僅かな隙に、ゆかりさんが左手を真っ白な腹部へと押し付ける。
「シュート!」
ゆかりさんの掛け声と同時に、除夜の鐘をぶち破ったような音が響く。同時に”それ”の体がくの字に折れ曲がった。
普通なら――いやもう何が普通で常識なのかこの数分で色々崩壊しつつあるけど――それでも音と破壊痕からして、吹き飛んでいてもおかしくないほどの衝撃。
「――っ!?」
にも拘らず、ソレは一歩もよろめかなかった。ゆかりさんも予想外の反応に、一瞬動揺で動きを迷う。その隙に、攻守が再び逆転した。
”それ”は刃ではなく最も重量がある駆動部を、丁度真下にある紫色の髪に向かって叩きつける。チェーンソーとしては限りなく間違った使い方だが、確かに最速の攻撃手段。
「頭の上ッ――!」
から来る――そう注意を促す間もなく、頭蓋が陥没したような鈍い音と共に、紫の頭が地面へと叩きつけられた。
長いもみあげが地面にぶつかってふわりと舞い――そしてそれっきり、ゆかりさんはぴくりとも動かなかった。
「ぁ――」
情けない小声は、自分の物だ。
ゆかりさんは、何も言わない。
”それ”は、温度のない視線を静かにこちらへ向ける。
「――障害の排除を確認――破壊指示を続行します――」
再びこちらへ向けて足を進め始めた所で、”それ”が吹き飛ばなかった理由が分かった。
足が黒かったのは焼けていたからではなく、元々黒かったのだ。
扁平に広がった足の側方から、地面につくたびにスパイクのようなものが地面へ突き刺さる。そして後方からは一際太い杭が地面に打ち込まれているらしい。足裏が上がってから少し遅れて黒い槍が地面から引き抜かれる。
”それ”の外見に意識を取られていたせいで気付かなかったが、良く見れば歩いた後には特徴的な三つの穴が続いていた。歩く速度が遅かったのもこの為か。
――シャキリ、シャキリと機械の蜘蛛じみた足音と共に、一歩ずつ”それ”は近づいてくる。駆動部の潰れたチェーンソーだったものをぶら下げて。
(どう考えてもヤバいよな……)
理由は分からないが、あれは間違いなく『人間』――いや、『有機複合機械』である自分を破壊しようとしているらしい。
改めて現状を確認する。
足は問題ない。両手の痺れは漸くマシになってきたところだ。右手の警棒は間違いなく次で折れる。
手札は絶望的に少ない――可能性があるとすれば、相手の足が遅い事か。とはいえ一撃でも喰らえば良くて重体、迂闊な行動をすればあっさり詰む。
(それに――)
ちらりとゆかりさんに視線を向けるも、倒れたままの彼女はやはりピクリとも動いていない。
(――っ、走れば車までワンチャンあるかもしれないけど、ゆかりさんを置いてく訳には行かないよな)
先ほどゆかりさんは緊急命令を使おうとしていた。それはつまり、目の前の”それ”はボイスロイドだという事だ。
しかも特徴的な紫の瞳は、否応なしに”それ”が元ユカリ型だったのではないかという疑念を駆り立てる。
もしその予感が当たっているのなら――
(――俺だけじゃない。ゆかりさんだって、置いていけば何をされるか分からない)
腹は決まった。
後ろへ這いずって、少しずつ”それ”から距離を取る。
「止めろ、近づくな!」
「――セーフモード起動中です、個体番号による指定を――現在、マスター以外からの命令は受理出来ません――最終指示を続行します――」
ご丁寧な事に一々説明しながらも、”それ”は一切歩みを止めずに近づき続ける。
「止めろ! 命令だ!」
「――マスター以外からの命令は受理できません――」
這いずりながらそんなやり取りを繰り返して距離と時間を稼ぐも、すぐに限界を迎えた。
背中に冷たい金属が当たる。廃車のジェンガに囲まれた小さな広場では、やはり思ったより距離が稼げない。
(ゆかりさんは――ダメか……!)
少しでも時間を稼げば、もしかしたらその間に起きてくれるかもしれないとも考えていたのだが。
やはり、最初の予定通りにするしかない。
シャキリ、シャキリ――近づいてくる”それ”との距離が詰まってくる。
六メートル、五メートル、四メートル――今!
三メートル半。”それ”がもう二歩踏み込んで、手を伸ばしてチェーンソーを振り下ろしても届かない距離。
錆びた廃車の壁に添って、彼女を迂回するように地面を蹴って駆けだした。
あんな鈍器振り回すのに対して、膂力で勝てるわけがない。
(だけど、そのせいで動きが遅いなら――っ!?)
”それ”はこちらに向かって走っていた。
足のスパイクは出ていない。代わりに地面へぶら下げられたチェーンソーの先が、ガリガリと砂利を跳ね上げる。
そうだ。体を安定させるのは、鈍器を振るときだけで十分じゃないか。
足が動かないふりをして騙すつもりが、逆に騙されていた。
ちらつく絶望に息が詰まり、頭が真っ白になる寸前――”それ”の後ろから何かが追い付いた。
「伏せてッ!」
嬉々馴染みのある声に、半ばフリーズした脳は無意識でその命令を実行する。横目に、紫髪を翻した彼女が”それ”の背に手を伸ばしたのが見えた。
「シュートッ!!」
今度は金属殻のひしゃげる轟音と共に、足を固定していなかった”それ”が吹っ飛ばされて、宙を舞う。
フィギュアスケートみたいに回転する本体に遅れて、チェーンソーの残骸を握ったままの左腕が、今や自らも残骸となってあらぬ方向へと飛んで行った。
どさっ、ごすっ、ごしゃっ――
自分と”それ”と左腕が、飛んで行った順番通りに地面へぶつかる。
「――大丈夫ですか?」
「ああ、何とか……。それよりゆかりさんこそ――」
近づいてくる足音に顔を上げると、ゆかりさんは目の前で両手をだらんと垂らして立っていた。
「――大丈夫、なのか」
打ち据えられた頭よりも、パーカーの袖から覗く両手に目が留まってしまう。
だらんと剥がれた肌色の膜をぶら下げた両手の甲からは、真っ白な指が伸びている。
近くに転がる”それ”と同じ白色だった。
「ええ、大丈夫ですよ。私は弟くんを襲ったりなんかしませんから」
茶化したような言い草に、自分が手をまじまじと見てしまっていたことに気づいて顔を上げる。
「違っ――そうじゃなくて、手、痛くないのかなって。それから、さっき頭殴られてたのも」
「あー、頭は殴られる寸前に何とか手で受けれましたから。それに、前言ったじゃないですか」
ゆかりさんの頬には土汚れがついているだけで、至って平然といつものような笑みを浮かべていた。
「痛みは感じるけれど、苦痛ではないって。例えば今は、薬指が損傷してますね」
右手を目線の高さまで上げて、時折裏返しながらゆっくりと握って閉じてを繰り返す。
さっきは気付かなかったが指はどれも表面が真新しい凹凸に包まれ、どこか現代アートじみている。そしてゆかりさんが言った通り、薬指だけが軋む様な音を上げて握りしめれていなかった。
「痛みはこんな風に、直接見ずとも損傷を把握出来る便利な指標ですから。ですが、私にとってそれは痛いわけでも苦しいわけでもないんですよ」
そう言いながらゆかりさんはその薬指を左手で握って――ボキッ、と枯れ枝を折るみたいな音と共に、内側へ無理矢理曲げてしまった。
思わず自分の薬指がぞわぞわと気持ち悪くなり、もう片方の手で擦ってしまう。
「……弟くんが痛がってどうするんですか」
そんな仕草に、仕方ないなぁと呆れる様な視線を向けて、ゆかりさんは苦笑する。
「いや、別に痛いわけじゃないんだけど……なんかむずむずするんだよ。人が怪我してるの見ると」
「――ふふふっ、そうなんですか? 大丈夫ですよ、これは怪我じゃなくて破損ですから♪」
ゆかりさんは心底可笑しそうにひとしきり笑って、それからくるりと踵を返し、転がったまま動かなくなった”それ”に向かって歩き始めた。
「先にバンへ戻って、バックドアを開けておいてもらえませんか? 私はこの子を
――ああ、そうだ。
今更ながらに、彼女が