「…………あぉぉ」
再び一時間後。
アパートにたどり着いた時、既に十数段の階段を上る元気は残っていなかった。
というかもう倒れ込む元気すらない。
そうか、人間真の限界に至ったら、そのまま動けなくなるんだ。「慣性の法則」とはこういうことか。そして、これが真理へ至るという事――!!
「一人で上れそうには……無いですね」
世界の真理に一歩近づいてガクガクとうち震えている肩の下に、ゆかりさんが何事か呟いて腕を差し入れ階段を昇らせる。
「おぉん……。あおぉ……ん」
「一段登る度にトド化する方が疲れません?」
そう言われても、足底に体重がかかる度勝手に出てしまうんだから仕方がない。
「あぉぉん……」
そうやってどうにかこうにかフラフラと家の玄関までたどり着いたところで、ゆかりさんがカギを出そうとして、それより先にドアが勝手に開いた。
立っていたのは帽子を被って出掛け支度を整えたあかりで。
「あっ、おにいさ……おにいさん!?」
「あおぉぉん……」
あかり、ただいま。と言ったつもりが、口から出たのは気持ち悪い鳴き声だけだった。
「あー……ごめんなさいあかりちゃん。ちょっと体力を見誤って、いきなり飛ばし過ぎました。水をあげて少し休ませればまた復活しますよ」
「で、でも……大丈夫ですか、おにいさん?」
人を乾燥わかめみたいに言うゆかりさんとは対照的に、あかりは心配そうに顔を覗き込んで、汚れているのも気にせず手を伸ばして支えてくれようとし――その手をゆかりさんが遮った。
「おおぉん……おおぉぉん……」
「今触ったら駄目ですよ、あかりちゃん」
耳元で行われる悲痛な抗議を無視して、ゆかりさんはあかりへ年上らしく語りかける。
「今からあかりちゃんは、お仕事に行くつもりだったんでしょう?」
「それはそうだけど……」
「心配なのは分かりますし、あのマキさんならちょっとくらいは許してくれそうですけど……それでも遅刻はダメです。彼の事は私に任せて、ね? ちゃんと落ち着いたら連絡してあげますから」
「~~っ、分かった。 ごめんねおにいさん、ギリギリまで待ってたんだけど……行ってきます! ゆかりおねえちゃんも、おにいさんをお願い!」
暫し躊躇したあかりだったが、とうとう申し訳なさそうな顔を浮かべて横を通り過ぎて。
「あっ、お味噌汁と卵焼き用意してるから、落ち着いたら食べてね。お姉ちゃんの分も用意してるから、良かったら一緒に食べて!」
隣でくるりとターンして、こちらににっこり微笑んだ。
そんな天使の笑顔をされたら、思わず疲れも吹っ飛んでしまう。
「――ありがと、ごめんな忙しいのにわざわざ。しかも一緒に食べれなくて」
せめて少しでも感謝の気持ちが伝われば、と拭った右手で帽子の上から軽く頭を撫でると、あかりは頬を染めて首を横に振った。
「んーん、私が働き始めた時、おにいさんも疲れが残らないよう応援してくれたし……」
「あー、まあ、あれは……」
マッサージの事だと察した瞬間ちょっと気恥ずかしい空気が二人の間に漂い――それを責める様に脇腹をゆかりさんの肘が強めに小突いてきた。
確かに頭撫でたり惚気たのは悪かったけど、もう少し手加減が欲しい。
「っ痛……ともかく、あー……そうだ。晩御飯は用意しとくから一緒に食べような?」
「うん! じゃあ今度こそ行ってきます!」
小走りに階段を下りていく音が消えた後で、ゆかりさんがしみじみと呟いた。
「……本当にあかりちゃんはいい子ですよね」
「だよなあ。朝ごはんも作ってくれたみたいだし、冷めないうちに食べようか」
「それは……私もって事ですよね?」
「そりゃそうだろ、あかりがゆかりさんのもって作ってくれたんだし。それにゆかりさん昨日ご飯作るの面倒って言ってじゃん」
「それはそうですけど……。分かりました、シャワー浴びたらまた来ますから」
「分かった。カギは……そうだ持ってるんだったわ」
これで今後はいつでもゆかりさんの襲来を警戒しないといけないのか、と嘆息しつつ、玄関で別れるのだった。
――――――――
「あ、来た来た。先食べてるから」
ドアの開いた音に、玄関へ向かって呼びかけると、ややあってゆかりさんが入って来た。
……良かった、普段の格好だ。昼からまた走らされるとかは無さそうだと内心ほっとする。
「……なに露骨にほっとしてるんですか」
「イヤシテナイシテナイ」
疑わし気な視線を向けたまま、ゆかりさんはご飯の用意されている向かいの席に着いた。
そして箸を手にしたところで、何故か固まってしまう。
「あー、もし食器が揃ってないの気になるなら悪い。茶碗の予備とか無かったから、ある物でになってしまって」
ご飯も味噌汁も両方同じ深めの取り皿だし、卵焼きに至ってはやたらでかい平皿の真ん中へ、高いレストランで出てくるみたいちょこんと乗っている。
「そういう訳では無くてですね、その……食べていいのかな、と」
「? いや、いいんじゃない? と言っても作ったのはあかりだけど、あかりだってゆかりさんもどうぞって言ってたし」
「……そうですよね、いただきます」
一体何が引っかかったのか良く分からなかったが、一度箸をつけてからはゆかりさんも普通に食べているので、大した理由では無かったんだろうと頭の片隅に追いやってしまう。
「それより、この卵焼き美味しいと思わないか? 前から卵焼きは何回か作ってくれてたんだけど、今回何か急に腕を上げた感じがするんだが。ふっくらしてるし、何か染みる味わいがあるというか」
「そうは言われても……私は前のものを知りませんし」
丁度卵焼きを咀嚼し終わったゆかりさんは、惚気るなよとでも言いたいのか、顰め面でそう言った。
「すまん、ゆかりさんは食べたことないのか。てっきり家に入り浸ってるからつい、食べたことがある物かと」
「流石にあかりちゃん相手にご飯をたかったりなんかしませんよ。――しかしそうですね、卵だけにしては油分が多い気がしますからそれが関係あるんでしょうかね」
「油分って、あー……そういやマヨネーズとか入れるといいとか聞いた記憶があるような?」
「後は塩分が強いように感じるので、運動後というのも影響してるんではないでしょうか」
「ああ、それは十分すぎるほどあるだろうな……」
言われてみれば味も濃く、運動会のお弁当を思い出す味だ。
激しい運動で体が塩分を求めていたのか、言われるまで全く気付かなかった。けれど今までは、比較的健康に気を使って塩は控えめだった気がするのだけれど。
「もしかして、あかりは今朝の事について知ってたり?」
「ええ、朝ちょっと運動させるために借りると伝えておきました」
「あれのどこがちょっとだ……」
「ちょっともちょっとですよ。今日なんて弟くんが体力なさ過ぎたせいで、結局予定の半分までしか達してないんですから」
さらりとゆかりさんはとんでもないことを言った。あれで半分とか、もう半分もやったら死んでしまいます。
相手は人間なんだから手加減を――いや、でも腕以外はゆかりさんも人間と同じって言ってたし、自分もちゃんと鍛えれば走れるようになるんだろうか。
「とはいえいきなり無理をしたところで怪我に繋がるだけで非効率ですし、明日からは先ずあの距離を往復で一時間以内に走れるように鍛えていきますので」
「はいは……い? 待った。明日?」
思わずピタリ、と箸を持つ手が空中で固まる。
「ええ、明日も走ってもらいます。勿論、明後日も明々後日も――これから毎日」
固まった箸先が、空中でカタカタ震えだした。
「ははは、冗談だよな?」
ミイラみたいに乾ききった笑いに対してもゆかりさんはにっこり微笑み返してくれて。
「うふふ、冗談な訳無いじゃないですか」
からん、と手から滑り落ちた箸が卓袱台で跳ねて転がった。
「確かに部長の意向もありましたし、サポート役がいる利便性も認めましょう。ですが私が呼び出されるのは、主に危険度が高いケースにおいてです。その最中に怪我でもされたら困るのは貴方ではなく、ボイスロイドの方なんですよ」
昨日言われた事を思い出す。
そもそも、回収課において現場に向かうのは主に自我を持つボイスロイド達であるらしい。
その理由は危険だからとか、野良ボイスロイドが人間に危害を加えてしまった場合、そのボイスロイドは破棄されるしかなくなるから――という理由は勿論なのだけれど、一番の理由はそうではなかった。
多くないとはいえ未だアンドロイドやAIに対して反感を持つ人間に、攻撃させるための口実を作らない為。
「別に私一人が人間を守る義務を果たせなかったと言われるのは構いません。ですが、彼らの矛先は間違いなくボイスロイド全体に向かうでしょう『やはりアンドロイドなんて危険だ、即刻国は企業に対して厳しい規制をかけるべきだと』」
今でこそまず見ないが、小学生低学年くらいのぼんやりとした記憶の中には、企業で働くアンドロイドを狙った攻撃のニュースもあった。世界の中ではアンドロイドに寛容な国と言っても、全ての人がそうであるとは限らない。
なによりそうなれば、自我個体の社会参加実験の継続も――あかりと一緒に暮らすことも――怪しくなる。
そう考えれば、拾った箸を握る手に自然と力が入った。
「――そうだったな。手間をかけると思うけど、明日からもよろしくお願いします」
下げた頭の上から、ゆかりさんの少し呆れた様な声が聞こえてきた。
「そうですか、まあ辞めたくなったらいつでも言ってください。私個人としては諸手を挙げて大歓迎ですので。それに頭を下げる必要はないですよ、普段の日課に付き合わせるようなもので、たいした手間ではないですし」
「日課って……もしかして毎日走ってたのか。あんな朝早くから」
隣に住んでいたのに全然知らなかった。ついでに言うなら昼間はうちに来てあかりと駄弁っているらしい、という話ししか聞いてなかったのもあってギャップが凄い。
「……何ですか、そのナマケモノが動いている様を見るような目は。まあ、本当は走るだけじゃなくてもう少し色々あるんですが、そうですね。朝早いのは仕事に被らないようにです」
「凄いな……しかも休暇中なんだろ、一応は。別にあんな朝早くなくてもいいんじゃないか?」
「凄くはありません、下手に生活リズムをずらした方が疲労に繋がるという判断です。それに野良ボイスロイドがいつ出てくるか分からないとはいえ、仕事として指示が下りてくるのは始業時間以降ですから。いつ来るか分からない以上、それまでにウォーミングアップは済ませておきたいというのもあります」
「はぁー……」
何でもない事のように淡々とそう言ってのけるのが、眩しくもあり恐ろしくもある。普段の言動に反して、意外とかなり社畜気質なのだろうか。そう考えるとこれからがちょっと怖い。
「そんな顔しなくても、出来ないことをやらせたりはしませんよ。不合理な努力は嫌いですから」
「そ、そうか。っていうか俺は一体どんな顔してたんだよ……」
「それは――ふふっ、秘密です」
真面目な顔を崩して、ニヤニヤとした笑みを浮かべるゆかりさん。
わざとらしい仕草に好奇心が煽られる一方で、やっぱ知りたくないような気も……。
「ところで、弟くんは今日時間ありますか?」
「……じ、時間はあるけど、体力は無いぞ! これ以上走れと言われても無理だからな!?」
ニヤニヤとしたままな表情に不穏なものを感じて、バネみたいに立ち上がる。走っている時はアドレナリンが出てたのか何とか動いていた脚は、今や生まれたての小鹿よりもプルプルと戦慄いていた。
「足とかもうこの有様で、もう今日は正直歩きたくもな――おほぉっ!?」
話している途中から伸びてきたゆかりさんの指が、つんつんと足をつついてきた。その度に電気が流されたカエルみたいに足がビクンビクンと引き攣って、最後には力なく倒れてしまった。
「本当ですね、ちょっと人工筋肉の試験を見学した時を思い出してしまう光景です」
「冷静な感想をどうもありがとよ! ……はぁ。兎も角、こんな感じでもう今日は走るどころか歩くのも無理だからな?」
「分かってますよ、筋力の成長には回復する時間が必要ですからね。これ以上は無駄どころかむしろ害です」
「それならいいんだが……。で、何か用事があるって事か?」
それを聞いたゆかりさんは、わざとらしく大きなため息をついた。
「仕事以外で私と弟くんの用事と言ったら『練習』しかないでしょう、時間があるならやりますよ」
あー、言われれば確かになるほど――
「――いや無理だって! さっき無理させないとか無駄な努力は嫌いとか言いながら、早速かよ!」
一瞬納得しかけて、ノリ突っ込み気味に切り返す。これは頭も大分回っていないかもしれない。
「いえ、だって動かないのは足でしょう? 今から鍛えるの別の部位ですから」
「いやそりゃそうかもしれないけどさぁ!? 腰動かすにも足の筋肉は使うだろ?」
「大丈夫ですよ、そこはちゃんと考えてますから。それに、前回あれだけ熱心に『あかりの為にゆかりさんをイかせる』って息まいてたじゃないですか」
「ぐっ、それはそうだけど……」
いや待て。間違っては無いけど、そこまで略されると自分がただのゲスにしか聞こえないんだが? ……いや、実際理由はどうあれ、恋人以外と関係を持ってしまっている時点でクズだとは思うけど。
「それにこれから一週間くらいは毎日そんな感じになると思いますし、その間にもあかりちゃんと出来るようにする秘策、知っておきたくないですか?」
「……それはもう脅迫では?」
「失礼な、折角気を効かせて色々考えたんですから」
ゆかりさんはわざとらしく拗ねたようにそっぽを向く。絶対に断れないと分かったうえでの確信犯だろコレ。
とはいえ確かにゆかりさんとの『練習』が必要な状況になってしまっている現状は、自分が試験勉強にかまけてあかりとの時間を軽視してしまった結果な訳で。秘策とやらを聞かないという選択肢はやっぱり選べない。
「――分かったよ。それで? またゆかりさんの部屋に行けばいいのか?」
「ええ、それで。では片づけが終わったくらいに来てください。玄関はまた鍵を外しておきますので。ごちそうさまでした」
ゆかりさんは手を合わせると、食器はそのままに和室を出て行こうとする。
「いやせめて自分の食器は片づけて行ってくれよ」
が、彼女は心底不思議そうに首を傾げて。
「でも、昨日普通に来てもいいって言ってたじゃないですか? それに、ご飯もたかっていいって」
「前半は言った気もするけど、後半は間違いなく言ってないよ!?」
「あれ、そうでしたっけ? うふふ」
「絶対分かってるだろ、その笑い方! というかさっきあかりにはたかったりなんてしないって言ったばかりじゃんか!」
「まあそこは弟くんですし? それに私が心配だから仕事について来るって言うのなら、食生活も心配してくれたっていいじゃないですか。……まあ無理にとは言いませんし? 辞めてもらえるなら、止めてもいいんですけどねー?」
……くっ。絶対に話しが違うと思うんだけど、何か微妙に理がある気もする絶妙なラインのせいで、いい反論が思いつかない。
「分かった、いいよ。一人分も二人分も変わらないしな。その代わり大したものは作らないぞ?」
「そうですか? 私としてはカップ麺にお湯を入れるという作業が無くなるならなんでもいいですけど」
どんだけ嫌いなんだよ、カップ麺にお湯を入れる作業。
「では、そういう訳で片付けもよろしくお願いしますね」
ゆかりさんはそう言うとさっさと玄関から出て行ってしまった。ご丁寧にしっかり鍵までかけて。
「……何か少しずつ浸食されてて怖いんだよなぁ」
ご飯を作る約束を取りつけられて、部屋の鍵を握られて。
その内あかりがいない時間はゆかりさんに拘束されてしまいそう、なんて考えが過って背筋を震わせる。
尤も、それらの裏には仕事に同行するのを辞めさせたい、という意図があるのは何となく分かる。一言辞めると言えば、多分ゆかりさんもすぐ止めてくれるんだろう。
(けれど、ゆかりさんにもしもの事があったらって考えるとな……あかりも懐いてるから悲しむだろうし)
野良ボイスロイドに取りつけられていた腕の事を思い出し、もしもゆかりさんがあんな風になったら……と考えると、ゾッとしないのも事実だった。
それに幸いと言うべきか、ゆかりさんも元々一人で動いているわけでは無く、今は人員などの問題でそうなってしまっているだけらしい。
(部長も、暫くすればゆかりさんに同行できる人員も確保できるだろうし、そうなるまでの繋ぎって言ってたからな)
正直勢いもあって同行するとは言ったけれど、素人が経験者に敵う筈もない。そうなったら言われなくてもさっさと辞めるつもりだ。
「……ま、一時的なことと思って暫く我慢するしかないか」
幸い料理はそこまで手間じゃない。鍵を持たれてるのは……あかりとの時間に割り込んでこないならもういいや。毎朝走らされるのは――
「――ああそうだ、米粒が固まる前に食器洗わないとな」
どうやら人間、本当につらいことは脳が考えるのを拒否するらしい。