その後、ゆかりさんと二人になる機会が無かったため、結局ゆかりさんが俺の答えに対してどう思っているのか聞くことは出来なかった。
だが、やはり自分が邪魔になっているという思いはやはりあったのだろう。
「……なあ、本当に良かったのか?」
「もう……何度も良いって言ってるじゃないですか」
少しご立腹な様子のゆかりさんだが、自室の卓袱台上に広がる光景を目の当たりにすると、やはり申し訳なさが湧いてしまう。
いつぞやのゆかりさん歓迎パーティーの時と同じく、中央に大きな鍋が鎮座する横。そこには野菜や豆腐と並んで、ででん、と如何にもうやうやしく置かれた竹の皮の包みが。
そしてその前でキラッキラに目を輝かせたあかりが、わきわきと手を蠢かせて包みの結び目に手を伸ばしていた。
「ね、おにいさん! 用意も出来たし開けましょう!」
そう言いながらも我慢できないのか、既に指が包みを開きにかかっていて。
茶色の竹皮の中から、艶めいたおいしそうな牛肉が現れた。
「わぁ……っ」
あかりが思わず歓喜の溜息を零すのも納得で、肉にはキメ細かなサシがバランスよく入っており、改めてこうして見ると如何にも高級肉といった佇まいである。自分だって数えるほどしか見たことが無いし、ましてやあかりにとっては完全に初体験だ。
「ほ、本当にいいんだろうか……何でもないこんな日に……」
「弟くんは大袈裟ですねぇ、高いと言えば高いですけれど、百貨店で買ったり、高級店で食べればもっと値段するものもザラにあるんですから」
「い、いや……それは比較対象がおかしくないか……」
勿論こんな贅沢税がかかりそうな物を、最近出費のかさんでいる一大学生にも、バイトを始めたばかりの一少女にも買える筈がない。ゆかりさん……いや、ゆかり大明神様の寛大な御出資によるものである。
この間の歓迎パーティーのお返しなんて言っていたが、値段的にとても釣り合っていない。こういうのはお金じゃないとのことだが、差が大きすぎるとやはり気になってしまう。
そうなると、やはり邪魔したお詫びも含まれてるのではないかと思わずにはいられなかった。
「……そんな目で見なくても、裏なんてありませんよ」
「いや、そういうつもりではなかったんだが……どちらかというと、気を遣わせてしまったのかなって」
いつの間にかゆかりさんを見る目つきが窺うようなものになっていたらしい。
「気を遣ってるのは弟くんでしょう? いいんですよ、ゆかりさんはお金を使うことがあまりないですし。それに、遠慮も確かに美徳とされてはいますが、遠慮のしすぎというのも却って失礼になりますよ。ここはあかりちゃんみたいに素直なのが一番です」
言われて視線をやると、もう待ちきれないといった感じにあかりがこちらをキラッキラの瞳で見つめていた。というか現に待ち切れていなくて、はぁはぁと上気した口元から涎が垂れている。
「もう……入れて、いいですよね?」
……なんかちょっとえっちだ。
「いやちょっと待った! お肉が楽しみなのは分かるけどすき焼きは先に葱に火を入れて……って、肉の量も一気にそんな入れる物じゃないから!?」
「あはは。ほら、弟くんがちゃんとやってくれないと、このままじゃあかりちゃんが生のまま食べかねない勢いですよ?」
「わー! ちょっと待ったあかり! やるから! 俺がやるからあかりはちょっと待っててくれ!?」
――――――
「流石に、食べ過ぎたな……うぷ」
〆のうどんも終わり鍋がすっかり空になった所で、食べ過ぎに若干張った腹をさする。
めったに食べれない高級肉という事で、ついつい満腹を感じながらも箸が伸びてしまった結果がこれである。
「うぅ……もうお腹いっぱい……」
それは右隣のあかりも同じようで、珍しく苦しそうな声を上げて後ろへ倒れ込んだ。
あお向けになったお腹は、妊婦……とまではいかないもののぽっこり膨れていて、どれだけ食べたか改めて良くわかる。
「あかり、大丈夫か?」
「今日はちょっと限界を超えちゃってるかもです……もう動けないかも」
なんて言いつつも、満足そうに口元が綻んでいるのだから流石の健啖っぷりというべきか。
「それならもう片づけとかは明日に回して、布団敷いて横になった方がいいな。ゆかりさんもこんなんだし」
左隣に座るゆかりさんは、つい先ほど机に赤く染まった頬を突っ伏して寝てしまっていた。
彼女に関してはどちらかと言えば、食べ過ぎというより飲み過ぎなのだろうか。すき焼きを肴に飲んだビールの缶が、取り皿の横に並んでいる。
この間の事を考えれば、自分も自重していたし本数が多いわけでは無いのだが……もしかしてあんまり強くないのだろうか。
そういえば、前回ゆかりさんの周りに置いてあった缶はノンアルの物が多かったような。
「ゆかりさん。……ゆかりさーん。おーい」
気持ちよさそうに目を閉じているのを起すのも気が引けるが、卓袱台を端にずらさなければ布団が敷けないのだから仕方がない。
遠慮気味に何度か肩をゆすってみるが、ゆかりさんはぐっすりといった様子で、口元をむにゃむにゃさせるばかりで目を覚ましそうになかった。
「……仕方ないな。あかり、ちょっとゆかりさん寝かせて――?」
「えへへぇ……すぅ……」
振り返りざま声をかけようとして、倒れたあかりのお腹がゆっくりと上下しているのに気づく。
「あかりも寝てしまったか」
畳の上で満足そうな寝顔を晒すあかりに、思わず苦笑が漏れる。あかりが食べ過ぎでこんなになるなんて、よっぽど美味しかったのだろう。〆のうどんもお肉の出汁が効いてると、何度もお替りしてたし。
とはいえ、このままだと風邪を引かないまでも身体が冷えてしまうだろう。
「先にこのままあかりの布団だけ敷いて、ゆかりさんを寝かせてくるかな」
自分の布団はその後卓袱台をずらして敷けばいいか。
重いお腹を押して立ち上がると、あかりを抱きかかえて動かし、布団の上に寝かせる。
「ぅん……ごちそう、さまですぅ……」
結構動かしたはずだがすっかり熟睡しているようで、掛布団を掛けた時のそんな寝言以外、すやすやと寝息を立てているだけだった。
「はは、そうだな。そういえば言ってなかったか。ゆかりさん、ご馳走様です」
眠っているから聞こえないだろうなと思いつつも、声をかけてゆかりさんの肩に手を回して立ち上がらせる。
「やっぱ軽いな……」
鍛えているし、腕は機械式だと言っていたから力を込めて立ち上がったのだが、想像以上にすんなり持ち上がってしまってバランスを崩しそうになる。
自分が酔っているというのもあるだろうが、それ以上にゆかりさんが小柄だというのもあるだろう。自分が背中をかなり丸めなければ、彼女がつま先立ちになりそうだ。
「これなら抱いた方がいいか、っと」
あかりと同じようにお姫様抱っこをし直し、パーカーのポケットから拝借した鍵でドアを開け、彼女のベッドまで連れて行く。
「これでいいかな。ふぁ……さて、俺も寝るか……」
ゆかりさんを横たえ、毛布を掛け。一仕事終わった心地で自分の部屋に戻ろうと立ち上がって踵を返した時だった。
不意に右手の指が、きゅっ――と握られる。
「もう、帰っひゃうんですかー?」
眠そうに薄く開いた眼が、ぼんやりとこちらを見つめていた。
「起こしちゃったか……そりゃあ俺ももう寝るつもりだし」
手を解いてベッドの上へ戻そうとするが、逆にゆかりさんは指に指を絡め、しっかりと手を強く握ってきた。
「やー、です。女の子をこんな暗い中で一人放って帰るなんて、酷いですよー……」
「いや、言い方ぁ! 放って帰るっていうか、むしろ送り届けて手を出す方が駄目だろ……」
目を覚ましたのかと思ったが、どうやらかなり夢見心地らしい。或いは酔っているといった方がいいだろうか。どちらにしろ、瞳と同じくらい蕩けた語調からして、意識があるのか怪しい所だ。
(というか、何か幼児退行してないかコレ?)
いやいやと首を振って手に縋り付いてくるゆかりさんの姿からは、仕事の時のカッコよさも、だらしない時の悪戯っぽさも想像できない。
「やーだー! いーじゃないですかぁ、少しくらい一緒にいてくれてもー……」
その癖いつもの丁寧語なものだから、背伸びしているお子様感が二割増しである。
こういうのも絡み酒と言うのだろうか。何にしても、今無理矢理引き離そうとするのは得策でない気がする。眠そうに細められた目は若干うるっとしていて、下手したら泣き出しそうだ。
少し考えた結果、どうせこの様子ならすぐに寝落ちするだろうと了承する。
「……あーもう、寝るまでだからな?」
「ほんと? おとーとくん、大好きー……!」
「――っ」
瞬間、不安そうだったゆかりさんの顔が満面の笑みで花開いた。
揶揄うでも営業的でもない、気の緩み切った……恐らく心からの笑顔。
ほにゃりと柔らかな表情、そして『大好き』というゆかりさんらしからぬ真っすぐな好意の言葉の不意打ち。それらがアルコールで緩んだ心の隙間に染み込んで、心臓が変な跳ね方をした。
「それじゃ、いっしょに寝ましょー」
「まっ、ちょっ……!?」
予想外の動揺に碌な抵抗も出来ずベッドへと引きずり倒されると、胸元へサラサラとした髪が押し付けられる。
「えへへ、おとーとくん、おっきい♪」
楽しそうにぐりぐりと頭を擦りつけるゆかりさんの様子に、改めてこれは正気じゃないなと確信する。
ちょっとだけこの様子をこっそり録画してやろうか、なんて意地の悪い考えが頭を過ったが、ゆかりさんのあまりに純真な様子を見ているととてもそんな事をする気にはならなかった。
(しかし、意外というかなんというか、ゆかりさんがこんなになるなんてな……)
勝手にもっと説教臭い感じなのだろうかとか予想していたのだが。
子どものような彼女を見ていると、自然に手が腕の中の頭へと伸び、気付けば撫でてしまっていた。
「んっ……」
触れた瞬間こそ警戒するように一瞬強張ったが、小さな体からはすぐに力が抜ける。そのまま撫でていると気を許した猫のように体重が預けられ、暫くしてすー、すーと規則正しい寝息が聞こえてきた。
もう少し寝入るまで待ってやるかと、頭を撫で続けていると、こちらのシャツを握りしめるゆかりさんの手が目に入る。
(ゆかりさんって、こんな小さかったんだな……)
勿論体格的に小さい事は今までだって分かっている筈だった。
けれど、どことなく余裕があって、仕事中毒で、人を揶揄うきらいがあって、ちょっと強引で、でも優しい所もあって、けれど家事は全然ダメダメで……。そういった色んなフィルタが外れたゆかりさんは、小さな一人の少女だった。一人の少女に過ぎなかった。
無理して履いていたハイヒールを脱ぎ捨てたような彼女の寝顔は、安らかで、けれど少しだけ寂しそうに見えて。
「……んぅ」
(っと、しまった。強く撫で過ぎたか?)
そんな気持ちが手にも籠ってしまったのだろうか。
閉じていたゆかりさんの目が再び薄く開く。
「あー……おとーとくんったら、何寝てるんですかー」
「いや、寝てたのはゆかりさんじゃ……」
……やっぱ完全に出来上がってるな、これ。
どうしたものかと考えている間に、ゆかりさんはんーっ、と寝ぼけ眼で起き上がる。そしてベッドに手をつき、こちらの上へと覆いかぶさってきた。
無防備な素顔は普段より幼く見える筈なのに、お酒で上気した頬が月明かりに照らされて、煽情的にも見えてしまう。
さらりと零れた髪束を耳へ掛けながら、小ぶりな唇が上弦の月を描く。
「ほら、今日もちゃんと練習しなくちゃですよー?」
「いや、練習って……ゆかりさん酔いすぎだし、今日はもう寝た方がいいって」
「むー、全然酔ってなんかいませんもん」
起きあがろうとするゆかりさんを再び寝かせようとするが、酔ったのを意地でも認めないせいで、ベッドの上で押しあうことになる。
こんな時でも地味に力のあるゆかりさんに押し負けないようこちらも力を増していくうち、段々と顔が近くなってしまった。アルコールの混じった吐息に鼻孔をくすぐられ、ドギマギと心臓が不規則に跳ねる。
「っ、やっぱ結構お酒のにおいするし、寝た方がいいって」
「むぅ……そんなにゆかりさんとの練習が嫌だっていうんですか……?」
「いや、そういう訳ではないけど……ゆかりさんは今酔ってるんだし、そんな状態でヤるのはマズいって」
「だから酔ってませんよー……!」
酔っている人に限って絶対酔っていることを認めないこの現象は何なんだろう、一体。
兎も角このままでは埒が明かなそうだ。もういっそこのまま練習に付き合った方がいいだろうか。この調子だとどうせ早々にさっきみたく寝落ちしてしまうだろうし。
そう考えなおし、溜息交じりに寝かせようとする手から力を抜いた。