酷く静かな夜の和室へ、壁越しにシャワーの音が響いていた。
壁に背中を預け、一人ぼんやりとその音を聞いていた俺の口から最早今日何度目ともつかない溜息が零れる。
……結局、訊けなかった。
昼、マキさんと出会ってから半ば意識なくふらふらと家に帰りつき、あかりが帰ったらどこへ行っていたのか訊こうとずっと思っていたはずなのだが。
帰ってきたあかりの様子は本当にいつも通りで、普段通りで。
「ただいまです、おにいさん」と再開できたことを喜ぶような笑みを浮かべられて、「お帰り」の後に「どこへ行っていたのか」と言葉を続けられなかったのだ。
もし訊いて、あかりが答えてくれなかったら。もしも誤魔化すような答えだったら。はぐらかされたら。
そうなったらこの日常を自ら破壊してしまうのではないかという恐怖が、唇を凍り付かせた。
事前に「どこへ行っていたのか」という直接的な質問じゃなく「今日帽子忘れてなかった?」と遠回しに訊いてみることなども考えていたが、それすら怖かった。
……いや、そもそも本当はこんなことを考えている事自体が自分の我儘なのだ。
だってあかりがどこへ行ったって本当はあかりの自由だ。
嘘をついてまで、というのは確かに少し気がかりだが、誰だって多少の秘密はあるものだろう。
確かに俺はあかりのマスターではあるけれど、それはあかりが選んでくれたからで、それを理由にあかりを縛っていい訳じゃないはずだ。
…………いや、例えこれまでのことが全て事実だとしても、本来なら普通に訊くことが出来たんじゃないだろうか。
それなのに訊けなかったのは、そんなことはないと思いながらも心のどこかであかりに裏切られてるんじゃないのかと思ってしまっているからで。
そしてその原因は、何より自分自身があかりを裏切っている自覚があるからで――
「くそっ……」
あまりに自分本位で醜い本音を自覚した瞬間、嫌悪感で吐き気が喉を潰し、力なく床へと横倒しになる。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
こんなことになっている現状が。悍ましいほど身勝手な自分が。それでも、あかりが自分以外のところへ行ってしまうのが。
そうやって、自分の中の全てから目を背けようとしたからだろうか。目の前へと意識が集中され、そこでふと押入れがほんの少し開いているのに気づいた。
いつもだったら気にも留めないようなほんの些細な違和感。けれども、陰惨な思考の渦から少しでも現実逃避をしたかったからだろうか。ここのところ押入れに物を出し入れした覚えはないのだけれどと、押入れの戸へ手を掛けて押し開き――
「――っ!?」
押入れの下段に覚えのない、けれど見慣れた一般的な白いビニール袋が置かれていて。
そして袋の口からはショッキングピンクの棒状物体が顔を覗かせていた。
……もう少し棒状物体について詳しく言うならば、円筒状の棒の先端は少し太く張り出し、それでいて抵抗が少なそうな流線型を描いている。そう、例えるなら亀の頭のように。
…………いや、そろそろちゃんと現実を直視しなくては。
これ、ディルドだ。
そう、ディルドである。
エッチな大人のおもちゃのアレである。
日本では古来張り型と呼ばれてるソレである。
主に女性が自慰のために使うコレである。
ディルドだこれ!
想定外のものが出てきたことに多少混乱しつつも、記憶を辿ってみるがこんなものを購入した覚えはない。
確かにちょっと使ってみたいなと思ったことはあるけれど、思った止まりのはずだ。
抑えきれない欲望に突き動かされて無意識に買った可能性は……ない、と信じたい。そこまで病的に執着するほど使ってみたかった訳じゃない、はずだ。
「……だとすると、あかりか? コレ買ったのって」
いやでもあかりが? どちらかといえばゆかりさんが揶揄う為に買って仕込んでおいたと言われた方が納得できるような。カギも持たれてるし。
けれど少し考えて、仮にそうだとすればこんな回りくどいやり方はしないだろうと思う。
ゆかりさんなら、仕込んで早々自分から押入れを開けて「あれ? こんなのあかりちゃんに使おうとするなんて、もっと優しくしてあげないとですよ?」とかやってくる。幻聴が聞こえてくるぐらい容易に想像できる。
だとすればやっぱりあかりが買ったものなわけで。
こんな風に隠していたのだから見られたくないのは何となくわかる。それに一緒に住んでるからって人のものを勝手に見る事自体良くない。
良くはないのだが……。
自然に伸びてしまっていた手は、勝手にビニール袋を掴み上げてしまっていた。
「……っ!」
これをあかりが買ったという事実に、思わず唾液を呑み込んでしまう。
中に入っていたのはディルドだけではなく。
同じくショッキングピンク色をしたコード付きの楕円球、いわゆるローターもあった。
因みに両方新品で箱に入っているのだが、その箱は例にもれず中身を見せつけるように透明なので、中身だけ違うなんてことはありえない。
中身が比較的普通……もといあまりにアブノーマルなものが入ってなくて、僅かに安堵する。
少なくとも、この間のアナル尻尾よりはノーマルだ。相対的に。
だが、それにしてもいつの間にこんなものを……もしかして、今日?
そんなもの持っていたっけと思い出そうとするが、他のことで頭がいっぱいでそこまで意識できておらず、持っていたような気も持っていなかったような気もする。
けど、持っていたとしていつこんなところに置いて――
(――そういえばさっきあかりが帰ってきて和室に入った時、入れ替わりで部屋を出てお風呂を入れに行ったはずだ。まさかその時……?)
だとすれば嘘をついてまでこっそり出掛けたのもこれを買いに行ったのが恥ずかしかったから……?
都合がいい解釈な気もするが、そう考えると少し気が楽になった。
(でも……こんなの買うってことは、もしかして俺、まだあかりのことを満足させてやれてないのか?)
けれど今度は別種の悩みが浮かんできたところで、背後から襖の開くスッ――という音が響いた。
「おにいさん、お風呂空き……まし……た……よ?」
あかりの声から段々感情が消え、そして、静寂が部屋中に反響する。
とっくにシャワーの音は止まっていた。
秒針が何周したのだろうか、と思うほどの間があって――俺は、漸くまるで錆びついてしまったネジみたいな首をぎこちなく振り返らせる。
視界に入ったあかりの顔が真っ赤なのは、間違いなくお風呂の後だからという理由だけではなかった。
「あ、あのっ……それ、は……っ!」
口元をもつれさせながら、何とかあかりはそれだけ口にする。
けれど間違いなかった。それだけでこれを誰が買ったのかは十二分に分かってしまう。
再び、気まずさで部屋の中が無音になる。
身動きする音どころか、風の音すらしない。まるで凍った時間があかりとの間へ広がっているように。
けれど動けないでいるのに、むず痒いような気まずさだけは増していくという二律背反。
結局、あかりより先に耐えられなくなって白旗を上げたのはこちらだった。
「あー……その……何だ。別に、こういうの買ってもいいと思うんだが……」
「うぅ……」
ぼふん、とあかりの頭から羞恥の煙が噴き出す。すでに真っ赤だった顔が、今や信号みたいにほの赤く光っているようにすら見える。
……すまない。本来なら勝手に見たこちらが悪いのに……。
そんな罪悪感が、思わず口を滑らせてしまった。
「いや、買うのはいいんだ……けど、もしかしてこういうの買うってことは、あかりの事満足させられてなかったのかな――って」
瞬間、あかりは顔を赤くすることも忘れたように口をはっ、と開き、こっちに向かって飛び込んでくる。
慌てて両腕を広げぽすん、と柔らかな熱を受け止めた。
「おっ、と……あかり?」
こちらの背中へ手を回し、力いっぱい全身でぎゅう、と抱きしめてくるあかりの頭に向かって呼びかける。
「……そんなことないです!」
力が込められ震える声が、見上げてきた。
顔を真っ赤にしながらも、けれどその眼差しは真剣で、真っすぐ心の奥底までを曝していて。
「おにいさんとのえっちは、気持ち良くて、楽しくて……幸せ、です」
自分の顔の温度も急上昇しているのが分かる。
「そ、そうか。それならいいんだけど…………けど、じゃあ何でこんなの買ったんだ……?」
そして、気恥ずかしさを誤魔化すためにまた余計なことを聞いてしまった。
「それ……は……」
一瞬ぎくっ、と体を強張らせたあかりは、心の距離まで取るみたいに一歩離れ、それから視線をくるくると彷徨わせる。
顔色も呼応するようにいよいよ赤く、それこそもはや蛸というより発色剤を効かせたタコさんウィンナーレベルの紅さで、指先同士を捏ね合わせている。
そのまま暫く、うーうー鳴くタコと化していたあかりだったが、とうとう観念したように少し顔を俯かせて。
「そ、その……最近はおにいさんがいない時も多いですから……。そういう時用……寂しくなった時用にというか……その……」
なんとか絞り出すようにそう言ったあかりは、こちらを少し咎めるように小さく唇を嘴にし、居心地の悪さを落ち着かせるように足の指先で何度も畳の目を撫でていた。
そんな破壊力抜群に可愛い様子を見ていると、無意識レベルで再度抱きしめたいという衝動が体を突き動かそうとする――が、固く拳を握りしめて耐える。
今の自分にその資格はない、なにせ……
(……酷い……酷い羞恥プレイをやらかしてしまったんじゃないかコレ⁉)
確かに今のあかりは、メンダコなんて目じゃないレベルのカワイイ生物だ。
だがこうなったのは、自分の気恥ずかしさを誤魔化す為につい聞いてしまった事が原因で、そしてあかり自身は羞恥に身体を焼かれていて。
この状態で愛でようというのは、自分で火をつけた火事を自分で消火するようなものである。
自作自演も甚だしい。……けれどやっぱり可愛いのは究極的真理で。
僅かに浮かんだ「やっぱりそれは満足させられていないということじゃないか?」という疑念は、とっくに板挟みの間でクルミの殻よろしく粉々にされてしまっていた。
それよりも今考えるべきは先に謝るべきか、それとも愛でてから謝るべきか――
くぃっ、と不意に服の裾を引かれ、そんな思考から意識を現実に引っ張り戻された。
目の前のあかりは、もう俯いておらず、口元をもにょっ、とさせながらも覚悟の決まった、というか最早座った目でこちらを上目に見つめていた。
「あ、あかり――「あ、あの! どうせなら、最初はおにいさんに使って欲しいんです!」」
割り込んだ大声に一瞬驚きが、次いで興奮が身体に熱を帯びさせる。
この状況で、しないという選択肢などなかった。
ディルドとローターはそもそも言葉の響きがえっち