「――ッ」
部屋の中に、拳を握りしめるぎりっ、という音だけが響く。
何とか帰ってきて自室に戻り、けれどそれが限界で。壁に背中を預けたまま頽れてから、俺がやったことといえばそれの繰り返しだけだった。
時間薬なんて言葉があるが、逆に時間を置くほど昏く重たい感覚が心臓を握りしめ、息を詰まらせる。
自分以外に向けられた彼女の笑みだけが、しつこく脳裏にフラッシュバックする。
……自分の不誠実がいけなかったんだろうか。
もしかしてあかりはどこかの時点で俺とゆかりさんがしていることに気付いて、それなら自分もと別の男に靡いたのだろうか。
……いや、或いは自分との行為に満足していなかったのだろうか。
最近はあかりを感じさせられるようになって、それでお互い気持ちよくなれていると思っていた。けれどそれは俺だけの勝手な思い込みだったんだろうか。
実は笑顔の裏に本当は苦しいのを押し込めて、ただ時間が過ぎるのを耐えていただけだったんだろうか。
もしそうだったとしたら、それに気付けなかった自分が情けない。
あれだけゆかりさんからも相手を見て気付くようにとアドバイスされたのに、それすらできていなかったのだから。
これでは本当に、ただゆかりさんと浮気をしていただけではないか。
「そうだよな……そんな奴のこと好きでいてくれる訳がないよな……」
思わず言葉が漏れたというより、自分に言い聞かせようとしたのかもしれない。
そうだ。そもそもあかりにとって俺は、ただ自由になった後最初に出会った男というだけだ。
これまで向けられていた好意も、他に選択肢がなかったから向けられていただけに過ぎないのだろう。
絶望的な気持ちが胃をひっくり返そうとする。
ならばいっそ、あかりに俺以外の男との接触を禁止してしまえば――
「――はは、はははははははは!!」
最高だ。かつてあかりは命令が嫌で逃げ出したというのに、それを許せないと思っていたのに。今度は自分がやろうとするなんて最高の喜劇だった。
ひとしきり壊れたように笑って何かが吹っ切れたのかもしれない、落ち着いたころには諦観交じりの冷静さが頭を支配していた。
(もう諦めろ。お前に出来ることはあかりの意志を尊重することだけだ)
自分はあくまであかりの身元引受人のようなものに過ぎない。少なくともそういうお題目が現実になるだけだ。
それにボイスロイドの社会実験としては、自分から人と交流を深めていく、という方が何倍もデータとして有用だろう。
唯一考えることがあるとするならば、仮マスターを自分ではなくそいつがやった方がいいのではないかということぐらいか。
――カチャリと鍵の回る音がした。
もう帰って来たのかと顔を上げて気付いた。窓の外はもうすっかりと薄暗い。改めてどれだけ自分が同じようなことを延々と考えていたのかと自嘲に鼻が鳴った。
「ただいまです、おにいさん!
あかりの元気な声が今は耳にキンと響く。諦めたつもりだったのに改めて声を聞くと吐きそうになって、小声で応じることすらできなかった。
「おにいさん? いないんですか? 靴はあるのにな……」
とっとっと、と軽い足取りが近づいて来て襖が開いた。
「あ、なんだおにいさんいるじゃない……です、か……」
ぱぁっと一瞬華やいだあかりの顔が忽ち強張り、苦しそうですらある心配顔でこちらに近づいて来る。
「どうしたんですかおにいさん! 何があって――」
「それ以上近づくな……いや、近づかないで欲しい」
手を伸ばそうとしたあかりに思わず口調が強くなり、慌てて言い直す。
彼女は、何かした方がいいとは思うもののそれを静止されて、二律背反な状況におろおろと手を空中に彷徨わせる。
「大丈夫、大丈夫だから」
大丈夫な訳はなかった。目の前であかりを見た瞬間、抱きしめたいと思ってしまった。
それこそ壊れるくらい強く抱きしめて、俺以外の所へ行けないようにしてしまいたい。
どす黒い独占欲に、自己嫌悪が募る。息が詰まるような苦しさと、体の感覚が失われるような空虚さ。
これ以上醜態をさらす訳にはいかない。これ以上心配させる訳にはいかない。
なんとか胃液の代わりに言葉を吐き出した。
「……あかり、無理に心配したりしなくていいんだぞ」
「えっ……」
「だから、これ以上俺に気を遣ったりする必要はないって」
困惑の表情を浮かべるあかり。そりゃそうか。結局事ここにいたっても、俺ははっきりと言葉にすることはできなかった。
「だから……マキさんから聞いたんだよ、今日はあかりのシフトが入ってないって」
「っ――」
彼女もそれで察したようだ。
少しでも伝われば、あとはぶち撒けるようにどんどん言葉が出てくる。
「ああそうさ、あかりが仕事もないのに何故か仕事だって嘘ついて外に行ってるのが不安で、お前のことストーキングしたんだよ。ハッ、バカみたいだろ? 何度もただ一人で遊びに行きたかっただけだって自分に言い聞かせて、けれど信じられなくてそんなことまでして、それで……あかりが、ラブホに入るのを……見て……っ」
あかりの表情も暗く、きゅっと唇を噛みしめていた。
それは下手な言葉より雄弁な肯定にしか見えない。
「分かってる、分かってるんだよ! 俺はただ単にあかりと最初に出会えただけだって! あかりが単なる優しさを間違えて認識してただけだって! だから、分かってるんだ。あかりが本当にいいと思えた相手が、自分で選んだ相手が出来たんなら身を引くべきだって……その方があかりの為なんだって分かってるんだ……」
何も分かってない子供の癇癪みたいな吐露に、あかりは漸く口を開いた。
「……ごめんなさい」
はは、そうだ。そうだろう。予想通りの反応。けれど口から氷を流し込まれたような感覚がして、まだどこかに期待を抱いていたのかと自分に呆れる。
いつの間にか視界は滲んで焦点を失っていた。
――だから一瞬それが、あかりに強い力で抱きしめられていると気付けなかった。
彼女の細い腕の一体どこにこれほどまでの力があったのかという程、強く抱きしめられる。
「お兄さんのこと不安にさせて、ごめんなさい……!」
そんな嘘なんて……だけど、耳元で聞こえたあかりの声は今にも泣きそうで、それが嘘ではないと直感できてしまった。
「それなら……なんで……」
「それは、色々説明するよりこれを見て貰えば――」
そう言うと、あかりはポケットから携帯を出してフォルダの中に並んだデータの一つを再生し始める。
パッ、と切り替わった画面に映ったのは、下着姿でベッドの端に座るあかりと、その隣に同じく下着姿で座るゆかりさんの姿だった。
「えっ……?」
意味が分からず困惑している間に、画面の向こうのゆかりさんが話し始める。
『それじゃあ今日は、あかりちゃんのポルチオを開発していきます』
『よ、よろしくお願いします……?』
「は?」
涙はすっかり止まっていた。困惑で。
「えっと……その、全部流すと長いですし……恥ずかしいので、飛ばし飛ばし再生しますね」
そう言うとシーンが次々に飛んでいく。
あかりがゆかりさんに押し倒されるシーン。
あかりがゆかりさんに秘所を弄られているシーン。
あかりがゆかりさんにディルドを挿入されるシーン。
あかりがゆかりさんに――
「――えっ、待って。何これ?」
何で俺は恋人と知り合いのレズセAVを見せられているんだ。
思わず真顔であかりの方を向くと、彼女は頬を赤く染めて。
「……これが、今日ホテルでしてきたことです」
動画の録画記録を見る。確かに今日だ。
「分かった。いや、分からないけれど」
何をしていたかは分かっても、何でこんなことをというのが全く分からない。
「えっと、順番に説明すると――
そもそも、これが始まったきっかけはあかりが戻ってきてから二回目のセックスらしい。
一回目で殆ど痛みしか感じれなかったのに対し、二回目はかなり気持ちよかったとのこと。それは純粋に嬉しい。練習もしたし。
だが、あかりにとってそれはあまりに気を遣われたものであると感じてもいたらしい。
自分の身体で気持ちよくなって欲しいのに、気持ちよくなるのは自分ばかり。とどめになったのは、最後に俺が無理させないようにと遠慮してしまったことと聞いて反省する。
兎に角そういう訳で、俺のことを気持ち良くしてあげたい、もっと好きなようにさせてあげたいと悩んで、それをゆかりさんに相談したらしい。
まあ他に相談できる相手もいないだろうしそれは分かる。
「――で、それを解決するためにはあかりの性感帯を開発してやればいいと、ゆかりさんに言われて」
「はい、ただ一人だと限界があるのでゆかりおねえちゃんに手伝って貰って」
「何だそれ……」
あまりにも想定外な答えに、思わず脱力する。けれど、一方で体中に安堵の温かさが廻った。
押さえ込んでいた反動で、思わずあかりに抱き着いてしまう。
「ひゃっ!? お、おにいさん……?」
「良かった、あかりが俺以外の奴を好きになったかもって思って……俺……」
応えるようにそっと、背中に手を回される。
「本当に、誤解させてごめんなさい。私が好きなのはお兄さんだけですから」
「いや、あかりが謝ることじゃない。俺が勝手に疑って、後をつけたりなんかしなければそもそもこんなことにはなってないし……」
「それは……! 私の方こそお仕事だって嘘ついて出かけてた訳ですし」
「でもそれだって何か理由があったんだろ?」
「うっ……それは……」
あかりがピキッ、と動きを止めた。
「何か言い辛い理由なのか?」
「いえ、そういう訳ではないんですけど……本当にごめんなさい」
先に謝るような理由ということだろうか。先ほどまでではないが、そんな風に前置かれると緊張してしまう。
「その……先に言ったらおにいさんがまた気を遣うんじゃないかなって」
「あー……なるほど、確かに……」
言われてみればそうだ。あの時の俺はただあかりに苦しんで欲しくない一心だったから、きっとそんなこと言われても「大丈夫」の一点張りだっただろう。というか今ですら、そんなに気を遣わなくてもいいのにと思ってしまっているし。
「後もう一つ理由があって……」
そこであかりはぐっ、と言い淀む。こちらの方が言い辛い主な理由ということだろう。
「……ゆかりおねえちゃんが相手だとしても、私がお兄さん以外とするのは嫌かなって思って」
「いや、それは……」
「その、さっきも私がお兄さん以外とそういう仲になったと思って泣いてたみたいですし」
「うぐ……」
確かにそれを言われると言い返せない。さっきまであれだけ取り乱していたのだから。
「……大丈夫だ。少し驚いたけど、平気だから」
逆に言えばあの映像を見ても驚いただけで、怒りや絶望のような感情は湧いてこなかった。女同士だから? 相手がゆかりさんだから? 具体的な理由は分からなかったが、そうであったことに安堵してすらいる。
一方のあかりも、それを聞いて安心したようだった。
「そっか、良かった……でも、おにいさんを不安にさせたのは事実ですし、ごめんなさい。今度からは隠し事はなしにしますね」
にこりと笑みを浮かべて言われた言葉に、今度はこちらの胸が塞がる。
言うまでもなくゆかりさんとのことだ。
秘密にしていればあかりは傷つかない――そうゆかりさんには言われたけれど、今や隠すこと自体があかりを傷つけるのではと思ってしまっている。
いや、もしかしたらそう思うことすら、隠すことに耐えられなくなっての自己弁護なのかもしれない。
だけどこれ以上あかりに嘘をつきたくないというのは確かだった。