「……よかったですね、あかりちゃん」
壁向こうに聞こえていた、隣の住人のことなど考えていない嬌声が止んだのを契機に、ゆかりは壁へと背中を預けた。
弟くんが声を荒げているのが聞こえた時はどうなるかと思った。もしかしたら明日――いや、夜にでも介入する必要があるかとも思っていたが、今のを聞く限り無事一件落着といったところか。
「ただ、今度から声には気を付けるよう言わないと」
そう嗜めるように言いながらも、口元には笑みが浮かぶ。
聞こえてきたあかりの声は幸せそのもので、直接訊くなんて野暮なことをしなくても、二人が抱えていた問題が解決したんだなと分かった。
「やーっと二人とも素直に……とはちょっと違いますけど、本音をぶつけ合えたんですね」
弟くんもあかりちゃんも、お互いの気持ちが離れたりしていた訳ではない。ただ、ちょっとしたすれ違いが少しばかり行き過ぎただけみたいなものだ。
「良かった、本当に……良かった」
これから先もまた小さな問題は起こるかもしれないけど、二人ならきっと大丈夫だろう。間近でそれぞれと向き合ってきたからこそ、はっきりとそう断言できる。
これで、私のちょっと過剰な手助けも終わり。後は予め与えられた通り、定期的に様子を見るなど最低限のサポートをすればそれで大丈夫だ。二人に積極的に関わる必要がない分時間もできるし、元の業務に戻るまで少しゆっくり過ごそう。
そうだ、元々上司からはそう言われてたんだしそれがいい。ベッドで何をするでもなく横になって時間を過ごすというのは最高の贅沢だろう。
そんな風に出来る限り楽しいことを考えようとして――身体の芯から冷えていく様な感覚がだんだんと広がっていくことに気付く。
頭が重く、視界が暗い。
「……なんで?」
もう二人に時間を取られる必要はないのだ。それはただ単に仕事が一つ少なくなっただけに過ぎない。
そう、二人と積極的に関わっていたのは仕事だからである。二人のサポートをするという仕事。
仕事だから、二人の関係がこじれないように弟くんへセックスを教えたし、あかりとも肌を重ねただけだ。
二人が住んでいる部屋に行ったのも、様子を見るためであって経過を確認するためだ。
三人で出かけたのはあかりからの要望があったからで、それ以上の理由はなかったはずだ。
そうだ、全部いつも通りの仕事。だからやっぱりいつも通りに、その場その場に合わせたキャラクターを演じて最適を振舞っていただけ。
なのになんで、二人と距離をとらなければならなくなってこんなに苦しいのか――
――いや、本当は分かっている。
「もう、自分自身すら騙せないんですね」
全身から力が抜け、ずるずると壁を伝って座り込む。
二人の存在はゆかりの中で大きくなりすぎてしまっていた。
弟くんと同じように、人と同じように扱おうとしてくれる人は彼以外にも何人もいた。だがそれを拒絶して尚それを貫き通し、あくまで人として歩み寄ろうとしてくる人間は初めてだった。
最初の頃こそ、過剰に干渉してきてうっとうしいとすら思ったし、なぜ放っておいてくれないのかと苛つきもした。だがそれでも近くにいようとする彼の存在
はいつの間にか遠慮しなくていい存在へと変わり、いつの間にか一緒にいて安心する存在にまでなってしまっていた。
あかりも、本当に人懐っこく構ってきてくれて、本当の姉みたいに慕ってくれて。自分がボイスロイドどころか本当に人間の姉になったような錯覚さえ覚えてしまうほどで。
完全な自我を持たない失敗作である自分も、まるで彼女と同じになれたような気がした。
胸の奥がズキリと痛む。
痛かった。
損傷を知らせるデータとしての痛みではない、辛くて苦しく、そして苦い、本当の痛み。二人に出会う以前にこんなもの感じたことはなかった。
お陰でこの間は情けない所を弟くんに見せてしまった。ただ切られただけであんなに怯え、彼に甘えてしまうなんて。
はるか昔は、痛みを感じれないことがコンプレックスだった。完全自我がないからこそそれを感じられないと、だから感じられるようになれば、そうではなくなると。
だけど今は、こんなものない方がいいとしか思えない。
そして感じれるようになったのは痛みだけではなかった。快感というものも同じようにいつの間にか理解してしまっていて。
そもそも生体ではあっても生物ではない自分に性欲なんてものはないと思っていた。二人の練習になればと身体を使っただけ。なのに――
自らの股に手を伸ばすと、じとりとした感触が伝わった。
「二人がしてるのを聞いてこんなになるとか……はは、本当に笑えますね」
当てられた――とでもいうのだろうか、膣奥がひくつき、孤独を埋めて欲しいと疼いている。躰が熱を求めていた。
あかりちゃんのお日様みたいに温かな体温が恋しい。
弟くんに力強くぎゅっと抱きしめられたい。
だがその願望は、今や二人を引き裂くものだ。自分勝手な横暴でしかない。
(間違えるな。私が躰を重ねたのは、あくまで弟くんに自信をつけさせるため、そしてあかりちゃんが弟くんとうまくいくようにするため……ただ、ちょっと手伝っただけ――)
そう、手伝い。主役は自分ではない。自分はただの二人のサポート役で、お隣さんで、ただそれだけだ。脇役に過ぎない。
さらに極言すれば、私の立場にいるのが他の誰であったとしても、私と同じ行動をとっていれば二人は上手くいったのだ。それが私である必要などない。
私は交換可能な存在だ。ずっとそうであったように、今回も同じだけ。何も変わらない、ただいつも通り。
だからその場で必要とされるように演ずるのである。ずっとそうしてやってきたではないか。
「……そう、だ。今回は偶々、演じるのが上手くいかなかっただけ。少し加減を間違えて役に入りすぎてしまったみたいなものですから」
言い聞かせようとしても、重苦しい気持ちはなくならない。
大丈夫。苦しいのには慣れている。苦しくてもそれを無視し続けていればその内何も感じなくなるのは良く知っている筈だ。
だから私はいつも通りの笑顔を作る。いずれ来る二人との別れで笑えるように。今までの自分に戻れるように。
けれど、上手く笑えてるかは分からなかった。