「――で、聞いてる? ゆかりさん」
「え? ああ、はい。聞いてますよ」
隣を走っていた弟くんに声をかけられ、慌てて意識を現実に引き戻す。
日課のランニング中に、会社へ戻るための手続きを頭の中で確認している内、いつのまにかぼーっとしてしまっていたらしい。
昨夜から一夜明けて何とかいつも通りを装えるようになったと思っていたのだが。本当にあくまで装えているだけでしかなかったということだろう。
(駄目ですね、やっぱり早く通常業務に戻れるよう手配しないと)
こんなことになっているのは、自分が二人の傍にいるからだ。ならば距離を取ればいいと昨日結論づけて、その手続きを考えていたのだが。
「本当に聞いてたのかよ?」
「ええ、ゆかりさんが信じられないとでも?」
「それじゃあ今日と明日、どっちなんだ?」
……まずい、只の会話だと思っていたら答えを求められるタイプの質問だった。
これならいっそ恥を忍んでさっき聞いておけば良かったか? とはいえ今となっては聞きなおす訳にもいかない。
ちらりと彼の顔を見ると、弟くんはジト目でこちらを見つめ返してくる。
「……やっぱり聞いてなかったんじゃないか? 三人で出かけようって話しをしてたんだが」
弟くんが助け舟を出してくれる。これはもう、聞いてなかったことはバレてるだろうが仕方ない。
兎も角、さっきの質問は出かけるにあたって都合のいい日を教えて欲しいという事だったんだろう。今日か明日、というのは少し性急すぎる気もするが、もしかして昨日あの後仲直りの記念に出かけようという話しにでもなったのだろうか。だとすれば……
「……そうですね、だったら明日の方でしょうか」
尤も、明日本当に二人と一緒に出掛ける気はなかった。きっと二人は気を遣って誘ってくれたのだろうが、正直いても邪魔でしかないだろう。
ただ明日空いているということにすれば、今日中に予定をねじ込んでそれを理由に「行けなくなった」と自然に断ることができるからだ。
(私は馬に蹴られたくはありませんからね)
そんな風に冗談めかして笑い話にしようとするも、胸が締めつけられるような感覚は消えない。
けれど口にしなければ私が我慢していれば済む話だ。だからこれでいい――
「――そっか、明日の方が忙しいなら、やっぱり今日出かけようと思うんだけどそれでいい?」
「へっ?」
予想とは逆の方向へ話しが進み始め、思わず間抜けな声が出てしまった。
「だいぶぼーっとしてるみたいだけど大丈夫か? もう一回言うと、あかりが三人ででかけたいって言ってるから、今日か明日行こうと思うんだけど、どっちの方が忙しいかって聞いたんだよ」
ああなるほど。空いている日じゃなくて忙しい日の方を聞いていたのか。確かに私はいつ呼び出されるとも知らない身だし、空いているという聞き方ではなく忙しい日を聞いたのだろう。
これがプライベートでよかった。もし仕事で同じようなミスをしていたら致命傷だ。
(やっぱり今のままじゃ駄目ですね。早く会社へ戻るようにして調子を取り戻さないと……)
「それで、本当に今日出かけるのでいいのか? 何だったら今日じゃなくて明日出かけるようにしてもいいんだけど」
「ああいえ、大丈夫です。比較して明日と言っただけで、どうせ今日も大した用事はないですから」
――しまった、何で本当のことを言ってしまったのか。
今の流れにおける最適解は、忙しいのが今日だったということにして、最初の想定通り「用事が入った」とキャンセルすることだったはずだ。
思わずそう応えてしまった自分が恨めしい。
(いや、今からでも予定を思い出した事にすればまだ修正は――)
けれど、頭ではそう考えているのに言葉が出てこない。そうするうちに、先に弟くんが口を開いてしまった。
「了解、それなら朝ごはん食べて三十分後ぐらいに出発とかどう? それとももう少し準備に時間が必要?」
「いえ、それで十分です。三十分後ですね」
今度はあっさりと口が動いた。
これでは良くない、という考えはある筈なのに、ずるずると流されっぱなしだ。
……いや、こうなったら認めよう。私は二人と出かけたい、それは事実だと。
(だから、これが最後。これを最後にしましょう。二人のサポートをしたんですから少しいい思い出を分けて貰って、それで最後にしましょう)
そう考えると、少しだけ足取りが軽くなった気がした。
――――――
お出かけ先は車で三十分ほどの距離にある水族館だった。
水族館としてはそこまで大きな施設でもないらしいが、それでも見上げるくらいの高さはある建物だ。
入場料が手ごろらしく、この辺りでは家族友人問わず定番のお出かけスポットであり――当然デートスポットでもあるらしかった。
(うーん……やっぱり断るべきだったでしょうか)
近くを行く如何にも恋人同士らしき二人組を見送って、一足先に入場ゲートをくぐった弟くんとあかりに目をやる。自分の場違い感を改めて自覚させられた。。
まるで夫婦の邪魔をする小姑ポジションではないのか。
「ゆかりおねえちゃん、早く早く!」
そんなことを考えていると、入場ゲートの向こうであかりちゃんがぴょんぴょんと跳ねながらこちらに向かって手を振っていた。弟くんもどうしたのか、という感じでこちらを見ている。
「そんなに急かさなくても今行きますよ」
どちらにしろここまで来て今更、というのも不自然すぎる。二人の邪魔にならない程度の位置をキープしながら一緒に回ればいいだろう。
そう考え直してチケットを機械に通して入場した瞬間、あかりがやってきて右手を捕まえられた。
「今日は一緒に楽しもうね、ゆかりお姉ちゃん!」
「え、いや私は……」
慕ってくれるのは嬉しいが、自分はあくまで二人の添え物だ。少なくとも弟くんはあかりと手を繋ぎたいだろうし、私が手を繋いでいては邪魔になる。
(でも、あかりちゃんがもう片方の手で弟くんと手を繋げば――っていやいやいや)
あまりにも自分に都合のいい妄想に、頭を振って考えを打ち消す。
とはいえあかりちゃんの方から手を繋いでくれたのを私が振りほどく、というのも憚られる。ここは弟くんに助けを――「困ってるのだけど」と表情に浮かべて彼の方に視線を向ける。
「何だ、俺とも手を繋ぎたいのか? それなら俺は左手を」
「え、いや違――」
まさかの弟くんに左手を捕まえられる、なんだこの状況は。弟くんはもう少し察しがいいと思っていたのに、何故よりによってそんな解釈をしたんだ。
というか傍目にはどう見えているのだろうか。子供と両手を繋いだ両親の三人親子セット? だとすれば子供役は私になるけれど、年齢で考えればあかりちゃんが子供で私と弟くんが両親を――って違う!
よく分からない行動をされたせいでよく分からない考えをしてしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 折角二人でのお出かけなのにこれはおかしいんじゃないですか!?」
「え、何が?」
「何がも何も、何で一番肝心な弟くんとあかりちゃんが手を繋いでないんですか!」
「じゃあ何だ、皆で手を繋いで輪になるか?」
「いや違いますよ! そんなことしだしたら完全に奇行ですよ、滅茶苦茶目立ちますよ! そうじゃなくてですね、何で私が真ん中なんですか。手を繋ぐにしてもせめて端っこでしょう?」
わざととぼけたような弟くんに思わず熱くなってしまった。
もしかして揶揄われてる? あかりちゃんの前なら反撃されづらいだろうとでも思っているのだろうか、なら――と、そこであかりちゃんに手を引かれた。
「何言ってるんですか、今日は二人じゃなくて三人でのお出かけですよね」
「えっ……あ」
自分の中では完全に二人+一人だったので思わずそう言ってしまっていたらしい。
「だから、ゆかりお姉ちゃんが真ん中でもおかしくないと思いますよ?」
「でもそれだとあかりちゃんが弟くんと――」
「だって三人で出かけてるんだからそんな日もありますよ、おにいさんとは今度手を繋げばいいんです」
あかりちゃんは屈託のない笑みでそう言い切った。
そうか、自分で勝手に今日が最後にしてしまっているだけで、あかりちゃんからすれば今後何度もあるお出かけのうちの一つでしかないんだろう。
自分が真ん中で二人に手を繋いでもらっていてもいい。そう認められると、心臓の当たりに温かさが広がった。
(そう、ですね。どうせ今日が最後なんです。それに二人がいいって言ってるんですから、少しぐらい役得を頂いてもいいですよね)
それに、二人の元を早々に離れようとしていることを悟られる訳にはいかない。
(出来る限り秘密裏に準備して、別れを告げるのは可能な限り直近に、それこそ当日の朝くらいにしないと引き留められたりしそうですからね)
それに後ろ髪を引かれ、ずるずる今の状況を続けてしまいかねないほど自分の意志が弱くなっている自覚があった。
だから、今ゆかりおねえちゃんとして、ゆかりさんとして自然な反応をするならば――と、仕方ない風を装って溜息をつく。
「分かりましたよ。じゃあ今日はこれで行きましょうか。それで、何から見るんですか?」
「実は水族館に行くって事しか決めてないのでそこらへんは今から決めます! という訳で先ずは案内板を見て皆で計画を立てませんか?」
「それがいいかもな、と言っても水族館は殆ど順路が決まってるし、どこを重点的に見たいかっていう予定になりそうだけど」
二人に手を引かれてリードされる。
あかりちゃんの手は温かくて、弟くんの手は大きかった。
――――――
「それにしても、思ったよりここまで来るのに時間がかかってしまいましたね」
時刻は昼の三時、少し遅めの昼食を取るため、私たちは水族館のなかにあるレストランへと来ていた。
順路全体の真ん中程にあるこのレストランは、目玉である大水槽の隣に位置し、ホールの片壁が水槽となっている。泳ぐ魚を鑑賞しながら食事ができるというのが売りらしい。
しかもメニューは魚中心なので、場合によっては魚を食べながら、調理前のその魚が泳ぐの眺めるなんていうなかなか業が深い真似を出来る店でもある。
「だって全部じっくり見て回ってますから」
目の前に座るあかりはそう言ってニコニコとした笑みを浮かべる。
確かにどの展示もじっくりと楽しんで回った。
鰯の群れが入った水槽を眺めていたあかりが涎を垂らしそうになっていた所にハンカチを渡した。
クラゲコーナーでは弟くんが意外と好きらしく、三人でベンチに座って暫く眺めた。
私が見てみたいといった水生生物のショーでは、目の前を走るカワウソが可愛い見た目に反して強烈に魚臭かった。
ついさっきの事なのに、思い出すだけで自然と唇が弧を描いてしまいそうになる。
――今日だけでも色んな思い出ができた。これがあればきっと別れも辛くはない。
「ゆかりお姉ちゃん、大丈夫? もしかして疲れてしまいました?」
「え? ああいえ、大丈夫ですよ。ちょっと午前のこと思い出して楽しかったなと」
危ない危ない。またしんみりと考え込みかけていたことに気付いて、話題を探す。
「それで、あかりは本当にサメを食べるつもりなんですか? あんなに好きだっていってるのに」
サメのコーナーで嬉々として写真を撮り、目を輝かせていたあかりは「勿論です!」と大きく頷く。
「好きだからこそ、ですよ。大好きだからこそ味まで知りたいと思いませんか?」
「うーん、それにはちょっと同意できませんね……」
「えー? 自然な考え方だと思うんですけど……」
その理屈で行くと弟くんも食べたいということになりはしないだろうか? ……いや、甘噛みとかは普通にしてそうだけど。
こう言ってはなんだが、あかりの感性はちょっとずれている所があるように思える。
もしここに弟くんがいたら、きっと私の方に同意してくれるはずだ。
「それにしては弟くん、遅いですね」
弟くんはちょっとトイレに行ってくると十分ほど前に席を立って、まだ帰ってきていない。
既に注文は終わっているし、まだ料理も届いていないし焦らせる必要はないのだが、気になるのは確かだ。
(店の近くにトイレはあったはずですし、入店前に見た時はそんなに混んでなかったはず。もしかして掃除中とかで他の所にでも行ってるんでしょうか?)
そんな風に考えていると、ふと目の前のあかりが真剣な目でこちらを見つめているのに気づいた。
「ごめんなさい、ゆかりお姉ちゃん……おにいさんには私からお願いして、ちょっと席を外してもらったんです」
「え?」
一緒に居たのにそんなそぶりなどなかったと思うのだが。ということは、出かける前からそうするように決めていた?
いやそもそも何故そんなことを?
分からない。けれど、何か良くないものを直感する。
「お姉ちゃんと二人でお話ししたいことがあるんです」
それはわざわざ二人きりでないと出来ない、それもあの弟くんにすら聞かせられない、そんな話であるということで。
「ゆかりさんは、おにいさんともえっち、してるんですよね?」
背筋が一気に凍り付いた。