乱暴に車のドアを開けると起動ボタンを押し込み、携帯に送られた目的地を手早くタッチパネルへと叩き込む。
普段なら音声認識で済ませるし、そちらの方が早い。
けれど、きっと今の自分の声ではうまく認識されないだろう。
バックミラーを見上げると、充血してウサギみたいに真っ赤になった自分の目が映る。
車が自動操縦を始めたのが分かった瞬間に限界が来た。シートを倒し、袖で目元を覆う。
いつものように弟くんがいない一人の今、本来なら自動運転中は監視義務があるが――どうせこんなぐちゃぐちゃな視界では何も見えない。横になっていたって何も変わらなかった。
そして、横になったからといって何も変わりはしなかった。
「っ……ひぐ……」
自分のものとは思えない、情けなくて弱々しい呻き声が聞こえる。
ああ、最悪だ。最高に最悪だ。
咄嗟の演技としてはきっと十二分に目的を達成できただろう。あかりちゃんから嫌われ、弟くんのことをこき下ろし、二人から距離を取る。それを達成したという点では最高の結果だ。
――そして、そのまま最悪の結果だった。
もう、二人には会えない。合わせる顔がない。
それ以上に、もし物理的に会うことがあったとしても、それはもう「ゆかりさん」、「ゆかりおねえちゃん」と呼んでくれた二人ではきっとないだろう。
嫌悪、敵意、軽蔑――そういった視線を二人から向けられているのを想像しただけで、袖では受け止めきれなかった大粒の涙が頬を伝った。
「ごめんなさい、あかりちゃん……ごめんなさい、弟くん……」
誰にともなく口にした謝罪の言葉は、虚しくエンジン音へと呑み込まれていく。
もっと他に方法があったのではないか、たとえこれしかなかったとしても、酷いことを言いすぎてしまったのではないかと、頭の中ではそればかりがぐるぐると廻り続けている。
特に最後の辺りは暴走していたと言ってもいいぐらいに、自然と口から二人を蔑むような言葉が出てきていた。
弟くんが下心であかりちゃんを助けたわけじゃないことくらい、分かっている。
そうじゃないからこそ、突っぱねられても私のことを心配して同行すると言い続けてくれたのだから。
あかりちゃんが彼を誘惑して助けて貰おうとしたわけがない。
彼女と一緒に居た長くもない期間だけで、その真っすぐさは嫌というほどわかっているのだから。
(そんなこと、二人ともするわけがないのに……)
どうしてそんな言葉が自然と口をついたのか。それに適当な答えをくれる人もいなかったし、それを中断させてくれる人もいない。
だからこそ追及は止まらず、思考の深く、深くへと潜り続けて、そして気付いてしまった。
(……ああそうか、私も弟くんに出会っていたかったんだ)
もしも自分があの時、自我を認められない一個体として働いていた時に、勇気を出して逃げ出していれば。もしもその先で彼に出会えていれば。もしも私が私であることを認めてくれていれば。
――もしあかりちゃんよりも先に、弟くんの隣にたどり着けていれば。
どす黒い自分勝手な欲望へと行きついてしまい、自然と口元がゆるむ。
「……ぁは、あははははっ」
自棄じみた笑い声が車内に反響する。そうするしかなかった。
何が演技だ、何が二人の為だ。
「本当は――本当に、あかりちゃんから弟くんを奪いたかったんだ、私」
彼女の代わりに自分がそこへ居たいと、彼の隣を占有したいと思っていたのだ。
彼のことを名前ではなく弟くんと呼んでいたのは、もしかしたら一種の対抗心だったのかもしれない。
自分の醜い欲望に、吐き気すら覚える。
そのくせ、同時にそれが叶わないと分かって、胸が締め付けられる。
「ああ、良かった……二人ともう会わなくて済むんだから……」
二人に会えないという以上に、今や私が二人に会いたくなかった。
そうすれば、気付いてしまったおぞましい欲望で二人を傷つけることもない。
私は……私は元の日常に戻ればいい。ただ仕事をこなして、求められるように振舞って、その繰り返しの日々に。
そうすれば、いつかこの醜い欲望の火も消えるだろう。消えなかったとしても、いつかはそれに慣れてしまえるだろう。その為にも――
「――先ずは目の前の仕事を片付けないといけませんね」
心を殺し、涙を止める。
それらはこれから戻る日常において、仕事において必要ではないものだから。