「なん、で……」
会いたかった人が、会いたくなかった人が目の前にいることに、思わず口が動いていた。
「何でも何も、俺は代理でもゆかりさんのマスターなんだし、回収課の相棒なんだから」
迷いなくそう言う弟くんに対して、逆に私は言葉に詰まる。
「でも……私、は……」
酷いことを言って嫌われていると思っていたのに、弟くんからはそんな感じを一切受けない。
いや、あるいはまだあかりちゃんから聞いていないだけだろうか。だとすれば……。
「あはっ、なるほど。誰かと思えばあなたが例の! ごめんなさいね? センパイ以外に興味がなくて」
「別にいいさ、そんなのどうだっていいしな」
弟くんは目の前のアカリ型をねめつけると警棒を構える。
「それで、貴方はなーんでこんなところまでやってきたんですかね?」
「何でも何も、仕事の連絡が入ったからだよ。まさかゆかりさんが一人で行くとは思ってなかったから、タクシー捕まえなきゃいけなくてちょっと遅れたけどな」
(……はは、そう言えばそうでしたね)
自分に回収の仕事として連絡が入ったということは、転送設定にしている弟くんにも当然連絡がいくということだ。
少なくともこの仕事の間は彼と会う必要がある。そんなことすらすっかりと忘れてしまっていた事実に笑うしかない。
決着をつけたつもりで、その実全くそうではなかったのだと改めて思い知らされる。
「あはっ、そういえばそうでしたね。わたしったらゆかりセンパイのことが好きすぎて、二人きりになれて忘れてました。けど、貴方も殺さなきゃいけないんですよね。人を殺せるって証明するために」
アカリ型はそう言うと鋭く目を細める。
口元が残酷さに薄く引き裂かれた。
本来ならアンドロイドから、ボイスロイドから発せられる筈のない、発せられてはならないどす黒い気配。それが殺気であることはボイスロイドの自分にも分かった。
「ごほっ、駄目……っ、弟くん……逃げ、て……!」
あの膂力を一撃でも喰らえば、生体型の自分がこうなのだ。生身の弟くんが耐えられるわけがない。
「何言ってるんだ! そんな状態のゆかりさんを置いて逃げれる訳が無いだろ!」
それどころではないのに、弟くんが自分を守ろうとしてくれているということに、胸が熱くなる。自分の事を心配してくれているのが何より嬉しい。
けれど――
「あはッ、あはははははッ!」
「この状況で、何がおかしいんだよ」
心底面白そうに笑うアカリ型に、弟くんが苛つきを孕んだ口調で応じる。
「だって、面白いに決まってるじゃないですか。あなたがセンパイを守る必要なんてあるんですか? 人間がボイスロイドを? 代理とはいえマスターだからですか? それとも同じ回収課のパートナーだから?」
「ゆかりさんを助けるのにそんなごちゃごちゃした理由なんて必要ないだろ」
弟くんがそう答えることを予想していたかのように、アカリ型の口元が深い弧を描いた。
「もし、ゆかりセンパイが貴方とあかりちゃんの仲を引き裂こうとしていたとしても?」
――言われた。
手足の先から凍っていくような感覚が登っていく。
「はッ、仲たがいでもさせたいのか知らないけど、どうしてお前なんかの言葉を聞いてやらなきゃならないんだよ」
「いえいえ本当ですよ? わたしを疑うなら本人に聞いてみればいいじゃないですか」
アカリ型は確認する時間でも与えようというのか、笑いながら構えを解く。
弟くんが振り向いた。
「そんなわけないよな、ゆかりさん?」
答えなければ、そんな事はしていないと。例えそれが嘘だったとしても、少なくとも今はそうするのが最適だから――けれど。
「あ、ぅ……」
私の口から出たのは声にならない喉に詰まった音だけで、それは肯定以外の何物でもなかった。
弟くんは何も言わない。ただアカリ型の方へと向き直る。
「あはは、ね? 言ったでしょ? ゆかりセンパイがどんなに浅ましくて自己中心的な――「黙れよ、お前」
アカリ型の言葉を遮った弟くんの声には、はっきりとした怒りが滲んでいた。
「お前なんかにゆかりさんの何が分かる」
私を絶対に信じてくれるその真っすぐさが、残酷さとなって突き刺さる。
けれど、だからこそどんなに嫌われ恨まれようとも、彼を私の為なんかに死なせてはいけない。
「……違うのっ、弟くん……私、本当に……。だから、一人で逃げて……っ!」
何とかそれだけ声を絞り出す。
なのに弟くんはこちらをちらりと一瞥して、ニッと笑った。
「大丈夫だよゆかりさん、無理しないで。だから少しだけそこで待ってて」
罪悪感が胸を締め付ける、そんな表情を向けられる価値など私にはない。けれど嬉しいと思ってしまっている自分もいて。相反する感情にどうしたらいいか分からず、ただ彼の背を見守ることしかできない。
「あはは、何ですかそれ? わたしは何でこんな苛々するようなものを見せつけられているんですかねぇ?」
それを見ていたアカリ型は、嗤いながらも露骨に不機嫌さを滲ませた。
「そこまでいくと信頼っていうか盲信ですよ? あーあ、折角私が善意で教えてあげてるのにそれすら耳に入らないとは恐れ入りました。でも、それだけセンパイの事を信頼してるなら一緒に死んであげても悔いはないですよね――ッ!」
アカリ型が猛禽類のように目を細めて弟くんへと飛び掛かる。弟くんもそれに合わせて前進した。
ロッドと警棒が激突する音が響く中、彼が叫ぶ。
「ゆかりさんの事は任せたぞ、あかりっ!」
(――え?)
何を彼が言ったのか理解する前に、優しくて温かな両手が私をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫ですか? ゆかりおねえちゃん」
「あかり、ちゃん……?」
あれだけ嫌な事を言ったはずなのに、あかりちゃんが浮かべているのは、心の底から私のことを心配している、そんな表情だった。
「なんっ……で、ですか……」
力の入らない左腕で、あかりちゃんと距離を取ろうとする。良心が悲鳴を上げて、耐えられそうになかった。けれど。
「駄目ですよ、無理しないでください」
逆に抱きしめられる力が強くなる。温かさに痛みが和らぐような気がした。
……けれど、私にそんなことをしてもらう資格などない。
「さっき、あかりちゃんのことも、弟くんのことも……あんなに、言ったのに……」
「だってあれは演技だったんですよね? 席を立った時、ゆかりさん今にも泣きそうな顔してましたから」
「――っ!?」
完璧に騙せていたと思っていたのに、そんな表情をしていたのかと自分が情けなくなる。
それに――
「ちがう、んです。本当に私、弟くんのことが……っ。ごめんなさい、最初は本当に、二人の手助けがしたかったのに……」
いや違う、ことここに至っても私はまだ嘘をつき続けるつもりか。
「……いえ、本当は最初から、羨ましかったんです……あかりさんが生き生きとしてるのが、同じ自我個体のはずなのに、全然違って……だから、私にも弟くんみたいな人がいればって――弟くんが欲しいと思ってしまって」
車内で思い至った、悍ましい自分の本音。
まるで子供のような理屈だ。他の子どもが持っているものが輝いて見えて、それを自分も持っていればと欲しがるような考え方。
なにもあかりちゃんから完全に弟くんを奪ってしまいたいとまで考えていたわけではない。
ただ少し、今からでも弟くんのような存在がいれば、あかりちゃんのようになれるのかなと考えて。
けれどそんな我儘な願望はあかりちゃんに関係ない。結果として自分が彼を奪おうとしていた事に変わりはなかった。
「私は、あかりちゃんを――あかりさんを裏切ったんです。弟くんが、あかりさんの恋人だって分かってたのに……すきに、なってしまって……」
ぼろぼろと涙が零れた。
申し訳ないからか、それが叶わないからか、自分の醜さに嫌気が差したからか、それは分らない。
ただ自分では止められずに溢れる涙を、そっとあかりちゃんの指が拭った。
「知ってますよ、ゆかりお姉ちゃんがおにいさんのことを好きだって事は」
優しい声で、あかりちゃんはほほ笑む。
「ゆかりおねえちゃんがおにいさんのことを話す時は、いつもとっても楽しそうでしたし、一緒にいる時は自然な表情を浮かべてましたから」
「だったら、なんで……裏切った私を……」
どうしてそう分かった時に私を責めなかったのか、どうして今も優しくしようとしているのか
「裏切ってなんてないですよ」
あかりちゃんの手が優しく私の髪を撫でる。
「だって、私がおにいさんと上手くいってないことを相談した時も、それこそ自分のことみたいに考えて、色々やってくれたじゃないですか」
「けど……私は、弟くんとも肌を重ねて……っ、しかも、それで好きになってしまって……弟くんは、あかりさんのものなのに……」
どんなに優しい言葉をかけられようと、その事実は変わらない。だからもうこれ以上惑わせるようなことは言わないで欲しかった。
どうせ、何を言って貰おうと弟くんの隣はあかりちゃんで占められているのだから。
「それは違いますよ。弟くんは誰のものでもありません。ただ私が好きだから隣に居るだけです。だから、ゆかりさんもおにいさんの恋人になればいいじゃないですか」
「え……?」
「そうすれば私に遠慮なんてしなくてもいいですよね?」
あかりちゃんが言った事が一瞬理解できず、固まってしまう。
「そんなの、結局あかりちゃんから弟くんを取ってることに……」
「違いますよ、私は私でおにいさんと付き合ったまま、つまり三人で付き合おうってことです」
予想外の返答に一瞬反射的に否定しかけ、すぐに考え直す。
それは一般的に言わせれば爛れた関係なのだろう。知られれば、人から後ろ指を指され、噂されるのは避けられない。
けれど私からすれば、それは弟くんの隣に居ることができる唯一のチャンスだった。
だから思わずその言葉に手を伸ばしかけて――首を横に振った。
「やっぱり、駄目です」
弟くんがそれを認めてくれたとしても、あかりちゃんがそれを許してくれたとしても、それを受け入れてはいけない。
「多分、それを認められたら私はもっと欲しくなってしまいます。もし、弟くんの隣に居られるだけじゃなくて弟くんを独占したいと思い始めたら……!」
何よりもそれが恐ろしかった。二人の優しさに甘えて、その上更に自分が欲を出してしまったらと考えると。
けれどあかりちゃんは私を信頼しているとでもいうような笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、ゆかりさんはそんな人じゃないですから、とっても優しいって私、知ってます」
見つめてくる瞳は真っすぐで、とうとうそれに耐えられなくなって、私は全てをぶちまけた。
「違う……っ、違うんです……! 私はあかりちゃんが思っているようなボイスロイドじゃないんです……! あなたに優しくしてるつもりで嫉妬して、本当は怠け者で、弱くて我儘で……っ、駄目なボイスロイドなんです! だから――」
頭に感じる髪を撫でる感覚に、言葉を止める。
あかりちゃんが私の頭を撫でていた。
「ダメなんかじゃないですよ。だって、今までそういうのを全部見せずに頑張ってきたんですよね」
思わず目が見開かれる。それは自分が演じていたことを彼女に見透かされていたとういうことだった。
「何で、知って……いや、いつから……」
確かに弟くんの前では彼にペースを乱され、思わず素を出してしまった時もあった。けれど、あかりちゃん相手にそんな下手を打った覚えはない。
「会社お姉ちゃんと一緒に過ごしてた時からです」
(!? そんな、つまりほぼ最初から……?)
あかりちゃんが嘘をついているようには見えない。
「ずっと自分の心に蓋をして、無理して、皆の為に頑張ってきたんですよね? だから、ゆかりさんは優しい人です」
「優しく、なんかありません。私は空っぽで、あかりちゃんみたいな完全に自我があるボイスロイドとは違って……だから、必要とされるよう、皆が求めるように演じてただけで……」
ずっと、ずっとそうだった。AHS社に入る以前から、ずっと。
だからそれと同じようにしていただけ、だから皆の為なんて高尚な理由ではない。結局は自分の居場所を確保するためでしかない。
「違いますよ」
あかりちゃんの口調は優しくも、絶対にこれだけは否定させないというような、断固とした響きがあった。
「ゆかりさんは空っぽなんかじゃありません。だって本当にそうだったら、皆が求めていることだって分からないじゃないですか。どうして困ってるかが分かって、どうして苦しんでいるのかが分かるから、どうしてあげればいいか分かって、それをやってあげてたんでしょう? それは、立派にゆかりさんがここにいるって事だと思うんです」
そういってあかりちゃんは私を強く抱きしめる。
損傷した内臓が痛むが、涙があふれる理由はそれではなかった。
自分が今までやってきたことを、そしてそこへ確かに自分が存在していたことを認められた事に涙が止まらない。
「う……あぁ……あぁあぁぁ……っ」
「大丈夫ですよゆかりさん。ゆかりさんは頑張ってきたんですから。だから、辛かったら頼っていいんです、おにいさんでも私でも」
私は、その言葉にただ泣くことしかできなかった。「なん、で……」
会いたかった人が、会いたくなかった人が目の前にいることに、思わず口が動いていた。
「何でも何も、俺は代理でもゆかりさんのマスターなんだし、回収課の相棒なんだから」
迷いなくそう言う弟くんに対して、逆に私は言葉に詰まる。
「でも……私、は……」
酷いことを言って嫌われていると思っていたのに、弟くんからはそんな感じを一切受けない。
いや、あるいはまだあかりちゃんから聞いていないだけだろうか。だとすれば……。
「あはっ、なるほど。誰かと思えばあなたが例の! ごめんなさいね? センパイ以外に興味がなくて」
「別にいいさ、そんなのどうだっていいしな」
弟くんは目の前のアカリ型をねめつけると警棒を構える。
「それで、貴方はなーんでこんなところまでやってきたんですかね?」
「何でも何も、仕事の連絡が入ったからだよ。まさかゆかりさんが一人で行くとは思ってなかったから、タクシー捕まえなきゃいけなくてちょっと遅れたけどな」
(……はは、そう言えばそうでしたね)
自分に回収の仕事として連絡が入ったということは、転送設定にしている弟くんにも当然連絡がいくということだ。
少なくともこの仕事の間は彼と会う必要がある。そんなことすらすっかりと忘れてしまっていた事実に笑うしかない。
決着をつけたつもりで、その実全くそうではなかったのだと改めて思い知らされる。
「あはっ、そういえばそうでしたね。わたしったらゆかりセンパイのことが好きすぎて、二人きりになれて忘れてました。けど、貴方も殺さなきゃいけないんですよね。人を殺せるって証明するために」
アカリ型はそう言うと鋭く目を細める。
口元が残酷さに薄く引き裂かれた。
本来ならアンドロイドから、ボイスロイドから発せられる筈のない、発せられてはならないどす黒い気配。それが殺気であることはボイスロイドの自分にも分かった。
「ごほっ、駄目……っ、弟くん……逃げ、て……!」
あの膂力を一撃でも喰らえば、生体型の自分がこうなのだ。生身の弟くんが耐えられるわけがない。
「何言ってるんだ! そんな状態のゆかりさんを置いて逃げれる訳が無いだろ!」
それどころではないのに、弟くんが自分を守ろうとしてくれているということに、胸が熱くなる。自分の事を心配してくれているのが何より嬉しい。
けれど――
「あはッ、あはははははッ!」
「この状況で、何がおかしいんだよ」
心底面白そうに笑うアカリ型に、弟くんが苛つきを孕んだ口調で応じる。
「だって、面白いに決まってるじゃないですか。あなたがセンパイを守る必要なんてあるんですか? 人間がボイスロイドを? 代理とはいえマスターだからですか? それとも同じ回収課のパートナーだから?」
「ゆかりさんを助けるのにそんなごちゃごちゃした理由なんて必要ないだろ」
弟くんがそう答えることを予想していたかのように、アカリ型の口元が深い弧を描いた。
「もし、ゆかりセンパイが貴方とあかりちゃんの仲を引き裂こうとしていたとしても?」
――言われた。
手足の先から凍っていくような感覚が登っていく。
「はッ、仲たがいでもさせたいのか知らないけど、どうしてお前なんかの言葉を聞いてやらなきゃならないんだよ」
「いえいえ本当ですよ? わたしを疑うなら本人に聞いてみればいいじゃないですか」
アカリ型は確認する時間でも与えようというのか、笑いながら構えを解く。
弟くんが振り向いた。
「そんなわけないよな、ゆかりさん?」
答えなければ、そんな事はしていないと。例えそれが嘘だったとしても、少なくとも今はそうするのが最適だから――けれど。
「あ、ぅ……」
私の口から出たのは声にならない喉に詰まった音だけで、それは肯定以外の何物でもなかった。
弟くんは何も言わない。ただアカリ型の方へと向き直る。
「あはは、ね? 言ったでしょ? ゆかりセンパイがどんなに浅ましくて自己中心的な――「黙れよ、お前」
アカリ型の言葉を遮った弟くんの声には、はっきりとした怒りが滲んでいた。
「お前なんかにゆかりさんの何が分かる」
私を絶対に信じてくれるその真っすぐさが、残酷さとなって突き刺さる。
けれど、だからこそどんなに嫌われ恨まれようとも、彼を私の為なんかに死なせてはいけない。
「……違うのっ、弟くん……私、本当に……。だから、一人で逃げて……っ!」
何とかそれだけ声を絞り出す。
なのに弟くんはこちらをちらりと一瞥して、ニッと笑った。
「大丈夫だよゆかりさん、無理しないで。だから少しだけそこで待ってて」
罪悪感が胸を締め付ける、そんな表情を向けられる価値など私にはない。けれど嬉しいと思ってしまっている自分もいて。相反する感情にどうしたらいいか分からず、ただ彼の背を見守ることしかできない。
「あはは、何ですかそれ? わたしは何でこんな苛々するようなものを見せつけられているんですかねぇ?」
それを見ていたアカリ型は、嗤いながらも露骨に不機嫌さを滲ませた。
「そこまでいくと信頼っていうか盲信ですよ? あーあ、折角私が善意で教えてあげてるのにそれすら耳に入らないとは恐れ入りました。でも、それだけセンパイの事を信頼してるなら一緒に死んであげても悔いはないですよね――ッ!」
アカリ型が猛禽類のように目を細めて弟くんへと飛び掛かる。弟くんもそれに合わせて前進した。
ロッドと警棒が激突する音が響く中、彼が叫ぶ。
「ゆかりさんの事は任せたぞ、あかりっ!」
(――え?)
何を彼が言ったのか理解する前に、優しくて温かな両手が私をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫ですか? ゆかりおねえちゃん」
「あかり、ちゃん……?」
あれだけ嫌な事を言ったはずなのに、あかりちゃんが浮かべているのは、心の底から私のことを心配している、そんな表情だった。
「なんっ……で、ですか……」
力の入らない左腕で、あかりちゃんと距離を取ろうとする。良心が悲鳴を上げて、耐えられそうになかった。けれど。
「駄目ですよ、無理しないでください」
逆に抱きしめられる力が強くなる。温かさに痛みが和らぐような気がした。
……けれど、私にそんなことをしてもらう資格などない。
「さっき、あかりちゃんのことも、弟くんのことも……あんなに、言ったのに……」
「だってあれは演技だったんですよね? 席を立った時、ゆかりさん今にも泣きそうな顔してましたから」
「――っ!?」
完璧に騙せていたと思っていたのに、そんな表情をしていたのかと自分が情けなくなる。
それに――
「ちがう、んです。本当に私、弟くんのことが……っ。ごめんなさい、最初は本当に、二人の手助けがしたかったのに……」
いや違う、ことここに至っても私はまだ嘘をつき続けるつもりか。
「……いえ、本当は最初から、羨ましかったんです……あかりさんが生き生きとしてるのが、同じ自我個体のはずなのに、全然違って……だから、私にも弟くんみたいな人がいればって――弟くんが欲しいと思ってしまって」
車内で思い至った、悍ましい自分の本音。
まるで子供のような理屈だ。他の子どもが持っているものが輝いて見えて、それを自分も持っていればと欲しがるような考え方。
なにもあかりちゃんから完全に弟くんを奪ってしまいたいとまで考えていたわけではない。
ただ少し、今からでも弟くんのような存在がいれば、あかりちゃんのようになれるのかなと考えて。
けれどそんな我儘な願望はあかりちゃんに関係ない。結果として自分が彼を奪おうとしていた事に変わりはなかった。
「私は、あかりちゃんを――あかりさんを裏切ったんです。弟くんが、あかりさんの恋人だって分かってたのに……すきに、なってしまって……」
ぼろぼろと涙が零れた。
申し訳ないからか、それが叶わないからか、自分の醜さに嫌気が差したからか、それは分らない。
ただ自分では止められずに溢れる涙を、そっとあかりちゃんの指が拭った。
「知ってますよ、ゆかりお姉ちゃんがおにいさんのことを好きだって事は」
優しい声で、あかりちゃんはほほ笑む。
「ゆかりおねえちゃんがおにいさんのことを話す時は、いつもとっても楽しそうでしたし、一緒にいる時は自然な表情を浮かべてましたから」
「だったら、なんで……裏切った私を……」
どうしてそう分かった時に私を責めなかったのか、どうして今も優しくしようとしているのか
「裏切ってなんてないですよ」
あかりちゃんの手が優しく私の髪を撫でる。
「だって、私がおにいさんと上手くいってないことを相談した時も、それこそ自分のことみたいに考えて、色々やってくれたじゃないですか」
「けど……私は、弟くんとも肌を重ねて……っ、しかも、それで好きになってしまって……弟くんは、あかりさんのものなのに……」
どんなに優しい言葉をかけられようと、その事実は変わらない。だからもうこれ以上惑わせるようなことは言わないで欲しかった。
どうせ、何を言って貰おうと弟くんの隣はあかりちゃんで占められているのだから。
「それは違いますよ。弟くんは誰のものでもありません。ただ私が好きだから隣に居るだけです。だから、ゆかりさんもおにいさんの恋人になればいいじゃないですか」
「え……?」
「そうすれば私に遠慮なんてしなくてもいいですよね?」
あかりちゃんが言った事が一瞬理解できず、固まってしまう。
「そんなの、結局あかりちゃんから弟くんを取ってることに……」
「違いますよ、私は私でおにいさんと付き合ったまま、つまり三人で付き合おうってことです」
予想外の返答に一瞬反射的に否定しかけ、すぐに考え直す。
それは一般的に言わせれば爛れた関係なのだろう。知られれば、人から後ろ指を指され、噂されるのは避けられない。
けれど私からすれば、それは弟くんの隣に居ることができる唯一のチャンスだった。
だから思わずその言葉に手を伸ばしかけて――首を横に振った。
「やっぱり、駄目です」
弟くんがそれを認めてくれたとしても、あかりちゃんがそれを許してくれたとしても、それを受け入れてはいけない。
「多分、それを認められたら私はもっと欲しくなってしまいます。もし、弟くんの隣に居られるだけじゃなくて弟くんを独占したいと思い始めたら……!」
何よりもそれが恐ろしかった。二人の優しさに甘えて、その上更に自分が欲を出してしまったらと考えると。
けれどあかりちゃんは私を信頼しているとでもいうような笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、ゆかりさんはそんな人じゃないですから、とっても優しいって私、知ってます」
見つめてくる瞳は真っすぐで、とうとうそれに耐えられなくなって、私は全てをぶちまけた。
「違う……っ、違うんです……! 私はあかりちゃんが思っているようなボイスロイドじゃないんです……! あなたに優しくしてるつもりで嫉妬して、本当は怠け者で、弱くて我儘で……っ、駄目なボイスロイドなんです! だから――」
頭に感じる髪を撫でる感覚に、言葉を止める。
あかりちゃんが私の頭を撫でていた。
「ダメなんかじゃないですよ。だって、今までそういうのを全部見せずに頑張ってきたんですよね」
思わず目が見開かれる。それは自分が演じていたことを彼女に見透かされていたとういうことだった。
「何で、知って……いや、いつから……」
確かに弟くんの前では彼にペースを乱され、思わず素を出してしまった時もあった。けれど、あかりちゃん相手にそんな下手を打った覚えはない。
「会社お姉ちゃんと一緒に過ごしてた時からです」
(!? そんな、つまりほぼ最初から……?)
あかりちゃんが嘘をついているようには見えない。
「ずっと自分の心に蓋をして、無理して、皆の為に頑張ってきたんですよね? だから、ゆかりさんは優しい人です」
「優しく、なんかありません。私は空っぽで、あかりちゃんみたいな完全に自我があるボイスロイドとは違って……だから、必要とされるよう、皆が求めるように演じてただけで……」
ずっと、ずっとそうだった。AHS社に入る以前から、ずっと。
だからそれと同じようにしていただけ、だから皆の為なんて高尚な理由ではない。結局は自分の居場所を確保するためでしかない。
「違いますよ」
あかりちゃんの口調は優しくも、絶対にこれだけは否定させないというような、断固とした響きがあった。
「ゆかりさんは空っぽなんかじゃありません。だって本当にそうだったら、皆が求めていることだって分からないじゃないですか。どうして困ってるかが分かって、どうして苦しんでいるのかが分かるから、どうしてあげればいいか分かって、それをやってあげてたんでしょう? それは、立派にゆかりさんがここにいるって事だと思うんです」
そういってあかりちゃんは私を強く抱きしめる。
損傷した内臓が痛むが、涙があふれる理由はそれではなかった。
自分が今までやってきたことを、そしてそこへ確かに自分が存在していたことを認められた事に涙が止まらない。
「う……あぁ……あぁあぁぁ……っ」
「大丈夫ですよゆかりさん。ゆかりさんは頑張ってきたんですから。だから、辛かったら頼っていいんです、おにいさんでも私でも」
私は、その言葉にただ泣くことしかできなかった。