冬の迫る山奥で、彼は私に愛を囁きながら、一番聞きたくなかった言葉を口にした。
※この作品は、「未題 - 或ル白狼天狗ノ手記ヨリ」(https://syosetu.org/novel/195208/)の幕間です。未読の方は、そちらからお読みください。
※ミッドナイトノベルズにも掲載しています。
※一応R18ですが、エロシーンはほぼありません。
音を立てないよう、ゆっくりと弓を引く。
変わり者の半妖から譲ってもらった、見慣れぬ素材の弓。
奇妙な形をしているが、大きさの割には強く、よく当たる。
逃げるなよ、と念じることはしない。しないよう努める。
思えば思うほど、決まって逃げられる。そういうものだと学んだ。
いや、もしかしたら、昔から知っていたかもしれない。
ただ、呼吸を止め。
無心で、指を放つ。
一瞬の風鳴りの後。
わずかに山がざわつき、どさりと黒い影が地面に落ちた。
日の傾きかけた山を、今日の成果を背負って、私は歩いていた。
山鳩が五羽、野兎が二羽。一抱えの山菜に木の実、それと薪。まあ、上々だろう。山野を駆けるのは、今も私のほうが得意だった。
それでも、と足を止め、眼前に広がる山の景色を見渡す。
夕日に照らされて、なお赤く映える木々。薄く雲を流す高い空。かすかに白をまぶした、遠い山並み。
冬は、もう近い。できるだけ蓄えは増やしておかないと。
炭や毛皮を交換に出すことで、山には無いものも多少は手に入る。それで今年の冬も乗り切れるだろうか。乗り切らなければ。
軽く息を吐いて気を引き締める。背負子を担ぎなおし、私はまた歩きだした。
茸はいまいち見分けに自信がないので、今も手を出さずにいる。私はともかく、間違ってでも彼に食べさせるわけにはいかない。
山かげに細くたなびく煙。その源を目指し、足を運ぶ。
簡素な柵で囲われた、やや開けた土地。小さな家と、その周りに広がる畑。
畑の手入れをしていた人影が、立ち上がり、私に手を振る。
私も手を振り返し、家へ向かう足を速めた。
人里を中心とした幻想郷の構造、その遥か周縁。人どころか妖怪すら住まぬ山の奥深く。
そこが、私と彼に与えられた、唯一の安住の地だった。
「今日、天狗が来たよ」
囲炉裏の前での、遅い夕食。
鍋をつつく手を止めて、私は彼を見た。
「……誰です?」
「さあ、名乗らなかったから。君の知り合いだと言ってたけど」
知り合い。私との関係を、そんな風に説明する者は、天狗では一人しか思い当たらない。きっと、あの人だろう。
「君の様子を聞かれた。どんな調子かって」
「それで?」
私は目を伏せつつ、先を促す。
ここは博麗大結界の内側、つまり広義の幻想郷ではあるけれど、人妖の住まう領域の中からは見えない土地。外の世界と幻想郷との隙間に位置し、道を知る者でなければ辿りつけない、一種の隠れ里。
だから、そんな場所に建つこの家を、私の留守中に訪れ、彼と接触したということは、むろん単なる取材などではなく、天狗社会の、いや幻想郷の維持に関わる者の意を受けた、特別な目的があるはずだった。
「話したよ、ありのまま。……そうなる理由も聞いた」
彼は、ほんの少しだけ、ためらうように間を置いて、そう言葉を続けた。
「……そうですか」
私は囲炉裏の火を見つめたまま、できるだけ感情を込めぬように答えた。
少し前から、完全に空は飛べなくなった。
かつての腕力が出せなくなった。耳と尻尾を隠せなくなった。
遠見で見通せる距離も、短くなった。そのうち使えなくなるだろう。
「人を喰わずにいると……そうなると」
囲炉裏の中で、薪がぱきりと割れた。
「……このままだと、君は」
「いいんですよ、それで」
彼の言葉をさえぎって、そう言い切る。
「それでいいんです。……私は、天狗で……妖怪であることより、あなたを選んだんですから」
私は顔を上げ、彼の目を見て、笑った。
それが疑いなく、私の本心だった。
畏怖の念のみに依拠する妖怪も、もちろん多くいる。けれど、長い歴史の中で神格に近いものを得た今でも、やはり天狗は──特に私のような白狼天狗の本質は、人を喰って
それでも、私は人を喰うことを捨てた。
彼と共に生きるとは、そうすることだと思った。
妖怪の山を離れたことで、人肉の供給は絶たれたが、喰う機会がなかったわけではない。こんな幻想郷の外れでも、いや外れだからだろうか、ときおり外來人を見つけることはあった。しかし私は、彼らを襲ったりはせず、むしろ無事に人里へ辿りつけるよう、心ある者のところへ送り届けるだけだった。まったくもって、妖怪失格なのだろう。それによって得られるものも、幾らかあったとはいえ。
「それに……そんなすぐに、その時がくるわけじゃないですよ」
笑みを保ったまま、再び鍋に箸を伸ばす。
「たぶん、あなたが彼岸へ渡るよりは後の事です。だから……気にしないでください」
妖怪としての力は失いつつあるけれど、まだ体は人より強い。耳も鼻も鋭いままだ。
このまま彼と力を合わせて、ひっそりと生きていくことはできるはず。
そうして彼が逝ってから、私は完全に獣に戻り、やがて人知れず野垂れ死ぬのだろう。
それでいいのだと思った。
彼は、何も言わなかった。
洗いものを済ませた私が井戸から戻ってきたとき、彼は炉端に腰を下ろし、何かを胸に抱えこんだような表情で、じっと囲炉裏の炎を見ていた。
なんとなく、声をかけてはいけない、かけるべきではない、そんな思いがよぎったけれど、私はそっと彼のそばに歩み寄り、隣に膝をついて訊いた。
「どうしました?」
「……あの天狗から、もう一つ聞いた」
ああ、やっぱり、と思う。
どこかで予想はしていたのだ。あの人がわざわざ彼に会いに来た、その本当の目的。
「人と交わって山を追われた天狗が……どうすれば山に戻ることができるのか」
そう、その条件は一つだけ。
全てを投げ捨てたあの日、私からも彼に言ったこと。
「……俺を」
「嫌です」
だから、とっくの昔に、その答えも決まっていた。
「そんなことをしてまで……私は、生きていたくありません」
彼の背中に身を寄せ、肩に頬を押し当てて、私はしっかりとその広い胸に腕をまわした。
「私は、あなたと共に生きられれば……それでいいんです」
「……そうか」
だって私はもう、知ってしまった。
あなたを愛し、愛されることの喜びを。
愛する人と共に生きる、その暖かさを。
だから、その愛を嘲り、蔑み、あげつらって笑いものにするような世界に、戻るつもりなど、さらさらなかった。
────それなのに。
「でも俺は……君に、生きていてほしい。俺が死んだ後も、ずっと」
私に愛を囁く、その口が今、そんなことを言う────!
「……っ……ずるい、ですよっ……!」
あなただけが、あなたへの愛だけが、私の全てだというのに。
あなたのいない世界を、生きていけと言うのか。
あなたのために捨てた世界へ、戻れと言うのか。
なんて残酷なのだろう、この人は。
こぼれ落ちた雫が、彼の着物に、肌に染みこんでいく。
「ごめん」
彼の襟元をぎゅっと握った私の手が、重ねられた彼の手にほぐされ、絡み合わされた硬い指の、微かな震えが一瞬、私の呼吸を止めた。
「我侭だってのは、わかってる」
引き寄せられた体が、彼の胸に向き合わされ、強く抱きしめられる。
長い間、薪の燃える音と、彼の心臓の音を聞きながら、私はその暖かい闇の中で、声もなく泣いた。
「……約束は、できないです」
「うん」
そしてようやく小さく答えた私と、それを聞いた彼の腕が、より強く互いを抱き寄せてゆく。
「愛してる」
「愛してます」
涙の味がする唇と、上着の裾から差し入れられた温かい手に、私は自分の全てをゆだねた。
炉端に座る彼の腰の上にまたがり、その背中にしがみつきながら、何度目かのかすれた嬌声を上げた私を抱きしめて、彼もその動きを止めた。
ただ今も、私の中では彼が強く脈動していて、その硬さを、そしてそこから注がれ染みこんでくる熱さを、私は荒い呼吸に喉を鳴らしながら、ぼんやりとした頭で意識していた。
あの日から今日まで、数え切れぬほど受け止め、そして本当の意味では一度も受け止められずに、こぼれ落ちていってしまったものを。
妖怪と人の間に、子はできない。
少なくとも、滅多なことでは。あの半妖のような存在は、本当に稀だ。
ずっと昔、まだ人もまた怪しげな、あるいは神に近い存在であった時代には、そのようなことも多くあったと聞く。また、その当時から細々と、薄まりながらもその血を今に伝えている例も、いくつかはあるけれど。
果てしない夜を重ねても、やはり、その望みが満たされることはなく。
少しずつ胸に刻まれた諦めの重さに、それを請うことも、いつしかなくなっていた。
なのに、何故だろう。
このところ、お腹の中心に、強い熱を感じるのは。
どれだけ交わり続けても、今まで子を宿すことはなかったのに。
体も衰えているはずなのに、なぜ今更、できそうな気がするのだろう。
ふと、思い出す。
共に千夜を過ごせば、人との間にも子ができる。そんな与太話を。
もしかしたらあれは、人を喰うのをやめて千夜、ということではなかったか。
この身は、もはや力を失い、人を脅かす怪異ではなく。
けれど今まだ、獣でもなく。
そんな何ものでもない、境界線上のあわいに、うつほにこそ、私の最後の願いが、幸せが、奇跡が、宿るのだとしたら────
「……赤ちゃん」
彼の耳元で囁くように、私はつぶやく。
「赤ちゃん、欲しい」
胸を押し当て、腕で、足で強く、彼にしがみつく。
彼の体に、また力が満ちた。
太い腕で、しっかりと私をつかみ、揺り動かす。
熱く硬いものが、再び私の奥を叩き始める。
そう、もしもそれを、あなたが遺してくれるなら。
私も、あなたの望むように生きようと、思えるのかもしれないから────
それは喜びか、あるいは悲しみか、分からぬまま、私は啼いた。
誰も知らない、この世界の隙間で。