寄生生物を殺す女と、拾われた少女と。

※情事描写文末に♡を多用

1 / 1
血肉咲う

 苔の匂い。

 アスファルトの匂い。

 排気ガスの匂い。

 シンナーの匂い。

 柔軟剤の匂い。

 視界を遮る、穴とシミだらけのコンクリートが溶け出したような灰色の空がぼくらの頭上にフタをして。

 水分子を多分に含んだ大気が涼しく、しかししつこく首筋にまとわりついた。

 人が居なくなって久しい雑居ビルの入り口、そのプランタの中身が溢れ出して、ひび割れたタイルを侵食している。ぼくはその様子を見て、植物の気配すらないうちのマンションよりはマシかな、と思う。

 忘れられた少都会の一角。ほとんど路地裏みたいな生活道路は閑散としていて、静かだった。

 でもその静けさは「ない」というより、「ある」感じで落ち着かない。冬の森奥のように、どこまでも音が吸い取られていってしまうような静寂ではなく、口の中で空気を転がすみたいな、蠢いていて反響するような。

 使い古しの革靴が地面を叩くたび、そわそわした緊張感がぼくをナーバスにした。

 

「……嫌なとこですね」

 

 空気にどろっとした声が混じった。バディを組んでいる同僚の声だった。

 ぼくと似たようなじめじめした雰囲気の女性で、そんな彼女がこうやってぼやくのは珍しい。

 

「そう?」

「不安になります。自分が何してるのかはっきり際立たされるみたいで」

「ああ……そうですね」

 

 ああ。空気の流れと自分の体温。

 正直にいえば、ぼくはその感覚は好きだった。言っていることは分かるという意味でぼくは同意を返す。

 

「粘ついた空気は、ダメなんです」

 

 後ろからぼそりとダメ押しのつぶやき。ぼくは重たげに太った雲を見上げてる。ぐんぐん垂れ下がってきてる。

 ぼくは思った。そうは言うけど、ぼくらのような日陰者が口を開けば開くほど、身の周りの大気は湿って粘着質になっていくんじゃないかって。

 そんなときだった。ねばねばを突っ切る音がした。

 ぼくははなんとなく後ろを振り返った。デバイスは静かなままだったし、ぼくら以外の息遣いも感じなかった。

 それなのに、同僚の頭は潰れていた。

 あ───そんな気の抜けた呼吸音が彼女の断末魔だった。頭蓋が圧迫されて脳から抜け出した呼気がたまたま音波になっただけの。

 それから陰から伸びてきた赤黒い線がコンクリの壁に突き刺さって、血液と脳漿がきめ細やかに模様を作った。

 ぼくは咄嗟にその場を跳び退いていた。意識したわけじゃない。

 次の刹那にはさっきまでぼくのうなじがあったところをあの触手が貫いていた。

 ぼくは走り出す。駆けながら支給品のジャンパの裾を払いのけ、デバイスのグリップを引き出す。

 

[MODE:semi-AUTO can USE cannot FIRE]

[警告:セーフティがオンになっています〈FCS〉]

 

 何千と繰り返した動作で制圧モードをアクティヴ。セーフティを解除。トリガをアンロックして照準。

 ビルの谷間に向けてARのシューティング筐体みたいなそれを構え終わる頃には、ブルートゥースで同期されたコンタクトレンズの上に緑色に塗りつぶされた異形が浮かび上がっていた。

 ぼくは感慨もなく引き金を絞った。

 透明な銃身から紫電が迸って路地を照らす。モータの駆動音がして、建物の隙間で水音が弾ける。

 視界の端で張り詰めていた触手が千切れて萎えるのが見えた。

 溜め息を吐く間もなくぼくはインカムに囁く。

 

「新規寄生体イチを駆除。オペレータイチ名殉職」

 

 梅雨入りの時節だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 エアコンからカビ臭さが漏れ出ていた。

 ぼくはワイパーの速度を一段上げながら、ウインカーリレーが刻む無機質なリズムに耳を澄ませた。信号が赤から青に変わる。水滴にぼやけたLED光が滲み出る。そしたらアクセルを爪先で撫でる。

 その繰り返しを続ける間、ぼくの心は透き通っていた。ちょうどパワーウィンドウの表面を流れ落ちる雨水の緞帳のように。分厚い不可視の膜が、ぼくの意識を外界から切り離して守っていた。

 正直、この中古のアルトがぼくはあまり好きではなかった。オプションも何もない、型落ちして久しい軽自動車が持つ独特の軽薄さが、ハンドル捌きを不安でたまらなくさせるから。そのステアリングも、ライトの点き方も、ギアチェンジの感触も、スタータの駆動音も。あらゆるものが薄っぺらで頼りない印象を与えた。

 しかし今だけは、このアルトの走りが好きだと思える。

 ヘッドライトが乱反射する路面の上を、この車は消え入るように走っていたからだ。存在すら疑ってしまうような足取りのあやふやさが、ささくれたぼくの心にささやかな安らぎを齎してくれた。

 今のぼくは疲れ切っていた。それは仕事が長引いたせいじゃない。

 仕事はむしろ、同僚の頭が粉々になったのにも関わらず、ほとんど平時と変わりなく終わってしまった。変わりがあったといえるのは報告書の提出にちょっとした事情聴取が加わったことと、つまらないカウンセリングの予約表を書かされたことぐらいだ。

 そういうパターンを経験するのだって初めてじゃない。つまりぼくにとっては、同僚が死んでいくところに居合わせるのはそう珍しいことでもないというわけだった。

 それってぼくがおかしいのかと思うけど、たぶんそういうわけでもない。

 ぼくの職場では、みんなの命が安いのだ。

 命は平等じゃない。魂の重さは誰しも同じ二一グラム。将来の保証? 公共事業にでもすればいいんじゃないかな。

 連中口に出しては言わないけれど、心の中じゃこう思ってる。

 死んだやつは運が悪かったのだ。生きているやつは少しだけ運が良いのだ。

 ぼくら───化け物殺しの仕事人としてのぼくら───からすれば、生死の異なりはたったそれだけ。

 ぼくらのやること考えることといえば、サーチ・アンド・エリミネート、いかに引き金を絞るかということだけでいい。ほかは世間とか専門家とか、お上が頭を使ってどうにかする。

 そういう意識が徹底されているから、デバイスを携帯している間のぼくは、さながらベトナム帰りの帰還兵か未来から来た戦闘マシーンみたいな心意気でグロテスクなシューティング・ターゲットを睨みつけていられる。

 だが、シフトを上がって会社を後にすると、じわじわと違和感が肌の裏側を這い上がっていくのが分かる。遅効性の毒物を盛られでもしたように、名状しがたい後味の悪さがぼくの心を雁字搦めにしていく。

 ぼくは思う。死ぬって、そんなに気軽に割り切れることなのかな。

 ワイパーが揺らぐ視界を一瞬クリアにした。シートベルトが胸に食い込む。

 死者の顔に泥を塗るような真似はしたくないが、彼女の死に際はあまりにもあっけなさ過ぎた。

 ほとんどまともに口を利いたこともない相手だ。ぼくがあの同僚の何を知っているのかといわれれば、まるで何も知らないと応えざるを得ない。せいぜい顔つきと苗字と、水に滲むインクのごとき喋り方くらいだ。あとは、飛び出した頭蓋骨の中身の色と。

 だからって命の失われる感覚が鈍くはならない。それはある種、ぼくにこの復讐を続けさせている衝動なのだ。

 この復讐には父と双子の弟の命が焚べられている。

 ハンドルの手触りが強くなる。

 あの日のあの刹那は、今でもまぶたの裏に鮮烈に焼き付いたままでいた。

 身体を包み込む温泉のいきれ。

 冷たくて気持ちいいフルーツ牛乳の瓶。

 軽く火照った自分のほっぺた。

 コーヒー牛乳の瓶を取り落とした弟の虚無に満ちた瞳。

 その顔を覗き込んだ父が縦横無尽に千切れ飛ぶさま。

 幸せそうな笑顔のまま血糊を被った母の口元。

 それから、

 ま白い天井の部屋の薄緑のカーテンの向こうから、

 ぼくを見て、

 化け物と、

 そう呼んだ母の表情。

 

「うるさい」

 

 きつくハンドルを握りしめた。

 はたと顔を上げる。しとしとという雨音にエンジンのアイドリングが巻き付いて調和していた。

 嫌な汗が額に吹き出ていた。ぼくはアクセルワークを若干深める。周囲の景気が見慣れたものへと移り変わっていく。

 

「少し……寒いな」

 

 我ながらわざとらしい声だった。ぼくは空調のツマミを回して切に入れる。それでもカビくさい臭いは車内に充満していて、湿っぽい気流の中にいるはずなのに喉が渇いた。

 梅雨の最中をくぐり抜けながら、ぼくは手の内にデバイスのグリップの感触を思い描いた。

 小学四年生のぼくが、記憶の中の寄生体に向かってトリガを引く。

 そうすると嫌なものはぜんぶ吹き飛んでしまうのだ。

 父の破片も、弟の皮を垂らした気持ち悪い怪物も、血まみれの母の笑顔も、怯えて立ち尽くすぼくも。

 何もかも消えてしまえば楽になるのに。

 ぼくは陰鬱を肚の底にしまいこみ、家に向かってアルトを走らせ続けた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 雨樋を透明な雨粒が叩く音色。

 ぼくはずっ、と鼻をすすった。スーツの襟元から潜り込む気流が肌寒い。

 

「あ」

 

 若干錆びついた鍵穴を回して、ドアノブを引き込む。

 赤茶けたドアの傍を通り抜けると、洗濯かごを抱えた花笑と目があった。

 須臾の沈黙。

 ぼくが後ろ手にロックをかけ直すと、彼女はそのまま目を細め、柔らかい微笑みを口元にたたえた。

 

「おかえりなさい」

「……うん。ただいま」

 

 玄関でいつものやりとり。

 ぼくはこの奇妙な関係にも大分慣れてきたものだな、なんて思う。その証拠に強張っていた肩の力が抜けていくのを感じた。

 花笑は制服───セーラー服───の上にエプロンと、少々ニッチな出で立ちでぼくを出迎えてくれた。危う気な趣味の男にはとびきり需要がありそうな、ほのかに犯罪チックな背徳感を催させるような。

 ぼくはすっかり同居人となった少女の馴染みように苦笑を投げかけて、殺風景な我が家に足を踏み入れた。

 築三○余年。バブル期の名残。ゆっくりと死に至りつつあるベッドタウンに佇むうらぶれたマンション。ここがぼくに宛行われた社宅。

 その住居で現在寝食を共にしているのは、親族でも友人でもない少女、新稲花笑(ニイナカエ)だった。

 

「雨、大丈夫でしたか? よかったら先にお風呂沸かしますけど───」

 

 言いながら彼女は脱衣所へと消えていく。まさに勝手知ったるなんとやら、といった感じだ。ぼくはネクタイを緩めつつ、それとなく彼女の後ろ姿を覗き込む。

 

「どうしますか?」

「ん……じゃあ、お願いしようかな」

 

 振り返った花笑のポニーテールが揺れ、快活そうな白い八重歯が唇の間から覗く。

 ぼくが問いかけに答えると、彼女は健気な笑顔を浮かべて承諾した。

 実は会社で検疫を受けた際にシャワーは浴びてきたのだが、暇が許す限り落ち着ける時間が欲しかった。

 

「はいっ。ちょっと待っててくださいね」

 

 気丈な返事を見送って、ぼくはちょっと一息入れようと換気扇の向こうの雨音に耳を澄ませてみた。

 で、思い出す。

 そういえば、花笑と出会ったのもこんな日だった。

 まだ五月雨には早い頃だった。ぼくは泥のように重い全身を引きずって帰途に着いていた。その日は大物獲りが決行されて、ぼくは一日に大量の死体袋を清掃業者に偽装したバンへと運び込む羽目になった。

 いろいろなことに辟易していたせいだろう。ビニール傘を掲げる手が妙にふわふわしていたのを覚えている。

 淀んだ視線が地面に這いつくばっていなければ、ぼくは彼女に気が付かなかったかもしれない。

 階段下のガラクタ置き場で一人、体育座りで佇む女の子がいた。

 紺碧に濡れたアスファルトが影を吸い込んでいる。

 鍾乳洞のように垂れだした外壁がスカートの裾を濡らし、鳶色の瞳だけが薄暗い闇の中に浮かび上がっていた。

 それが普段ならどうしていたか分からない。でも疲れ果てていたぼくに驚きはそれほどなくて、気がついたらぼくは自然と彼女の目の前に立ち尽くしていた。

 

『雨、降ってるよ』

『そう……ですね』

『寒くないの』

『寒いです……でも、大丈夫なので』

 

 不思議そうに見上げる彼女の目は、今と比べればぞっとするほどがらんどうに見えて、ぼくはそんなところにいつぞやの自分を重ねて見ていたんだと思う。

 当時の自分は、それを傲慢だと唾棄するだけの気力さえも持ち合わせていなかった。

 

『行くところがないのか? なら、うちに来るか?』

 

 あっけらかんとしたままの彼女に傘を差し出す。ぼくはその意味を深くは考えていなかった。

 

『どうして?』

『さあ? キミがそうしたいと思わないなら、わたしはここを立ち去るだけだし……まあ、つまりきまぐれかな』

『きまぐれ……』

 

 彼女はじっと、差し出したぼくの手の甲を見つめていた。

 ぼくはただ、小麦色の指先が手を取ってくれればいいと漠然と願っていた。

 その理由は、今になってもいまいちはっきりしていない。

 あの日あの後。いつしか雨は雷雨へと変わったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「降り止みませんね」

「ん……」

 

 首筋から湯気を立ち昇らせる花笑の声で、ぼくは我に返る。

 知らぬ間に手元のペーパーバックは残り数ページというところまで来ていて、ヘッドホンから流れていたはずのアン・ネズビィの歌声はノイズ混じりの沈黙に変わっていた。

 口の中にはわずかに回鍋肉(ホイコーロー)の味が居座っている。花笑が腕によりをかけて作ってくれた夕餉を食べ終え、片付けを終えた後、花笑は湯浴みへ行き、ぼくは窓の傍で身体の火照りを抑えていた。無聊を慰めるための日課のようなものだ。

 

「あの、隣、いいですか」

「うん? 構わないけど……」

 

 花笑が傍に腰を下ろすと、風呂上がりの冷めやらない体温を間近に感じた。ボディーソープの甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 ちらりと横目で盗み見ると、花笑の小さくて儚げな横顔がすぐそこにあった。

 

「お姉さんは、雨。好きなんですか」

「まあね。家の中にいる限りは」

「落ち着くから?」

「そうだね」

 

 強化ガラス越しに響き続ける雨音が、そぞろにぼくの意識を惹きつける。

 ぼくはこの小気味よいリズムが好きだった。雨脚の軽快なステップが心の雑音を消し去ってくれるからだ。特にふと物寂しさに苛まれるような夜には、ささやかな安らぎを与えてくれる。

 ぼくはすっと息を吸って、今夜の空気を内側で感じ取った。そのつっけんどんな優しさを確かめるために。

 

「雨はね、あんまり気が付かないけど、ホントはずっとうるさくて……不意にそれを耳にしたときに、なんだか安心するんだ。心臓がちゃんと動いてることを確認するみたいにさ」

「へぇ……その喩え、なんだか素敵ですね」

「やば、クサかったな。恥ずかしいや」

「そんなことないですよ……でも分かります。静かな夜よりずっと落ち着きますよね」

 

 花笑が気持ちよさげに目を細めて頷く。彼女は壁の向こうを眺めて、そこにぼくらの会話から湧き出た理想の宵を思い描いているみたいだった。さめざめとした独りぼっちの夜雨を。

 

「しぃんと静まり返った夜って、恐ろしくなりません? うまくいえませんけど、もしかしてわたしだけが世界から置いてけぼりにされちゃってるんじゃないかって……単にわたしがすごく寂しがりやなだけかもれないけど」

「いや、よく分かるよ」

「ホントですか? お姉さんも?」

 

 ぱっと上げた顔には共感者を見つけた喜びがありありとにじみ出ていて、こっちのほうが微笑まされてしまいそうだった。どこか頑ななところのある気質に比べて、ころころと表情の変わる子だ。

 

「ああ。ぼくもそうだ。ベッドに入って、じっと天井の隅を見つめているとよくそういう気分になる。こうしてていいのかなって、さ。なんだかよく分からないうちに動悸がしてきて……これはわたしが老けてるだけかな?」

「そんなことないですよっ。ええ、わたしもそうです。どうしようもなく怖くなってきて、気づいたら眠ちゃってるみたいな……」

「ああ」

「床につくと異常に死の瞬間のこととかを想像しちゃうんですよね……わたしが今感じてる時の流れの理不尽さって、たぶん老いれば老いるほど強くなっていって狂っちゃいそうだ、とか……って」

 

 花笑は熱のこもった口調で力説し、それからぼくの眼差しを思い出して気恥ずかしそうにはにかんだ。

 

「えへへ……でも、分かってくれる人がいて嬉しいです。仲間がいるんだって」

「ええ? ちょっと大げさだな」

 

 向き直る彼女の紅潮した童顔を直視してしまったからか、ぼくまでちょっと照れてきてしまって思いがけず目をそらす。その際に首元まで垂らした茶髪の先から滴る雫や、若々しい肌を引き伸ばす鎖骨が視界に入ってしまって、ぼくはさらになんともいえない気分になった。

 別に特に自分が同性愛者だと自覚したことはないが。

 そういうのではなく、花笑の持つ若木のような眩しさが自然と引力を発しているのだ。人は無差別に、強烈なイデアを醸し出す存在に何かしらの根底意識を刺激されてしまう。ぼくと彼女の場合では、それがバイタリティだったいうだけの話だろう。

 ぼくはそうでなければならないと強く思っていた。

 ぼくのセクシュアリティがどちらだろうと関わりなく、ぼくはこの関係が壊れることを恐れているに違いない。

 ぼくはもう知ってしまっていた。知らないうちに溺れてしまっているようだった。ぼくが最も忌んでいる事態を引き起こしかねないその甘美さに。

 

「お姉さん」

「あ……なんだ?」

 

 ぼくはたった今認知した動揺を悟らせないように、できる限りの平静を装って呼びかけに応えた。

 

「お姉さんって、一人のときは『ぼく』っていうんですね」

「…………!」

 

 瑞々しく実った唇がいたずらっぽく歪む。

 呆然としたぼくの中で、得体のしれないなにかが蠢いたのが確かに分かった。

 

 

 ◆

 

 

 

「───ふゔッ♡ はーッ、あ゛っ♡ ぎッ♡」

 

 蠢動が、手に取るように判る。

 滲み出し、吸い上げ、調え、掻き回し、ありとあらゆる感覚が波動となって振動している。

 それは快感であり、不快感であり、あけすけで、汚濁であった。

 出口と入り口が反復し、前後不覚が入り乱れ、自分という存在がこねくり回されていく。

 

「あ、ダメッ♡ も、しんどいのにッ、また昇って───!」

 

 それを慰めと呼ぶにはあまりにも不毛すぎた。苛烈な衝動を抑圧するための行為とは裏腹に、そのみ(・)だ(・)れ(・)を正そうと手を動かせば動かすほど、快感への渇きは強くなる一方だった。

 正解を求めるに能う平静さなどはとっくに失われて久しかった。己に残された選択肢はただ一つ、飽きるまで自らの雌を貪ることのみ。

 

「ゔあッ♡ もっ、わかんなぃい♡ でてるッ?♡ はいってるぅッ?♡ ふ、んぅ───ッ♡」

 

 肌の表と裏をピリピリとした快哉が走り抜け、しかし身を焦がす灼熱が内臓から発されている。

 全身の毛穴から吹き出た汗がしとどに流れ出る愛液と混じり合って、大気に溶け、むせ返るような情欲が身体の内側にも外側にも循環し、この淫獄からの逃げ道を塞いでしまう。

 助けを呼びたい。だが、その救いの形すらも理解し得ない。悦楽は枷であると同時に、これ以上ない救済でもあるのだから。

 

「壊れ、え゛ぇっ♡ あ゛ッ、またイッ─────────♡」

 

 かの水音が遮っている。

 孤独の床に溺れているのに、すがるべき雨音が聞こえない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 あくる日、とぼくは快晴の大空を眺めて不思議に思った。

 花笑を拾ったときには、彼女との生活はもっと刹那的な日々になると確信していた。それにも関わらず、今日とてぼくはネグリジェから制服に着替えた彼女を見送り、見送られて出社した。

 雨だれがつきまとう日常を過ごして、それなりに時間は経っていた。

 同居人といってしまえばそれまでだ。

 別に図々しいとか、花笑の存在を疎む意図はない。

 むしろこれは、それはそれで認めるのに勇気がいるんだが、たぶんぼくは彼女との生活を大切にしたいと願い始めている。悪いことではないんだろう。しかしそれは、この世界の殺伐とした盤面の上に生きる者として憚られなければならないことだ。

 それに、ぼくらがいっしょにいるこの現状は、花笑自身の問題の延長線上にある。

 ぼくは家出先の家主だ。彼女が居候になっている理由はいちおう把握している。そしてそれを許容することを決めている。

 問い詰めるまでもなく、ぼんやりとでも説明してくれたのは花笑の気遣いの顕れだろう。彼女と母親の家庭環境だったり、そこに介在する母親の相手や、金に困った叔父の存在など。憎しみのはけ口にこそなってはいないが、これだけの期間帰らなくても文句を言われないくらいにはないがしろにされていることも。

 そういう身の上を話してくれたとき、ぼくは嬉しかったし、同時に自分のことを引き合いに出して暗い気分にもなった。いつか来る、「元に戻る」ときの気分を想像するとなおさらだ。

 今日の出勤コースはそっちのフェーズ。

 清々しいまでに晴れ渡った空の代わりか、ぼくの心の中ではひやっとするような黒雲がうんと膨張して息をつまらせていた。

 

「───えー、それから、本日よりPEXデバイスに関する規定の更新により、通常シフト時間外でも執行資格を取得している人間ならば駆除装置を携帯することが可能になりました。これに合わせまして、従来の駆除装置を新規格品に一斉更新することが決定しました。つきましては、設備管理部の久山部長から新型デバイスについて簡潔に説明していただけるということですので」

 

 出社してさらにげんなりした。

 ちらりと壁に掛かった時計に目をやる。壊れているのか、秒針が動いていなかった。

 そこでは、手垢と錆にまみれたパイプ椅子の鉄臭さがやけに鼻についた。狭苦しい会議室にはこの椅子の臭い以外にホコリと、濡れたアスファルトと、饐えたバナナみたいな香水の香りが充満していて、ぼくは今にも目を回してしまいそうだった。

 会議室に押し込まれた同僚の何人が同じ思いをしているのかは推し量れない。しかし少なくとも気分良さそうな態度のやつは一人とていなくて、ぼくなんかはいやに湿った骨組みの上で行儀よく座っているだけでやっとだった。

 室長を始めとした上の連中はそんなぼくらの気など知りもしないといわんばかりで。のそのそと、感情の読めない仕草でホワイトボードの前を行き来する。

 そのうちの一人がまた緩慢な動作で椅子を引き、マイクを引き継いでプロジェクタの前に立った。禿げ上がって脂ぎった頭皮と、寸胴の体つきを隠すかのように纏った作業服が特徴的な中年の男だった。逆にいえば、ひどく典型的で、珍しくもない記号みたいな人間だということだ。

 

「はい、設備管理部の久山です。先の通り、従来型PEXデバイスの大型アップデートのですね、【exterminator ver1.25】の主な仕様変更点についてごく簡単に説明させていただきますね」

 

 久山がリモコンを操作すると部屋が薄暗くなり、投影される画面がWIN系のホーム画面からパワポに切り替わった。

 

「まず、CADモデルをご覧いただければ分かるように、このヴァージョンイッテンニーゴーでは従来型デバイスユーザからのフィードバックを元により実戦的なフォルムへと変更を施しております。これにより従来型で指摘されていたサムセーフティやシステムマスタ等スイッチの操作性について問題を改善しております。また、後述するオプション類を搭載可能なハードポイントも新たに組み込みました。今後を見据えた拡張性の高い設計となっています」

 

 不快感が増す。久山の声は目の詰まったシュレッダーの呻きにそっくりだった。中途半端に注意は引くが、耳障りで仕方がない。

 それに投影機の青い光。禿頭に反射して目の奥に突き刺さってくる。神経越しに直接脳みそをいじられているイメージが額の裏に張り付いて動かない。

 ああ、気分が悪い。

 吐きそうだ。

 

「また、本体形状の変更に伴いましてOSを始めとした制御系にも若干手を加えておりますが、こちらは今までと使用感が乖離すぎしないように調整しておりますので、その点はご安心ください。主にレスポンスの向上、オプション装備への対応といった機能改良を施させていただいた次第であります」

 

「さて、今回の目玉ともいえるオプションについてですが、この度技術部のほうが開発しましたですね、【初期寄生型特定パルス判別システム】、略称【PPDS】を用いた新型センサを第一弾として用意させていただきました。身も蓋もない言い方で説明させていただきますとですね、これによって従来のデバイスに搭載されていた索敵センサ群では捜索できなかった寄生初期の宿主についても察知することができるようになった、というわけですね」

 

「完成後間もないシステムということで精度について不安があるかもしれません。実際のところ携帯用に小型化せざるを得ないため、感度に完全に抜け目がないとは残念ながら断言できませんが、未寄生対象に対する判別結果の正確性は九七.六パーセントに及びます。その点においてはご心配いただく必要はないかと」

 

「寄生体の駆除と研究は我々の使命です」

 

「今回のアップデートによって皆さんの働きをより効率的で確実なものに───」

 

「───寄生体が蔓延することは我々人類の危機、ひいては世界そのものの死を───」

 

「───寄生体を殺しましょう。着実に、入念に───」

 

「──────あなた方オペレータの、迷わずデバイスのトリガを引ける信念が必要なのです」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 どこかで蝉が鳴いている。

 会社を出るとき、ぼくはそれが脇の下にあることに気がついた。

 見慣れない形のグリップを持つデバイスだ。

 鈍った思考回路がなんでそんなものを持っているのだろうと疑問を呈したが、ぼくは立ち止まったりせずまっすぐ愛車の元へ歩みを進めた。

 とにかく体調が悪かった。眩惑感が止まらず、ひどい寒気がした。それなのに目元は熱っぽく、ときおり吐き気に苛まれる。

 記憶は会議室で設備管理部の中年が呪文を垂れ流し始めた辺りからあやふやだった。退勤時間になるまでどうやって過ごしていたのかが定かじゃない。意識が明晰になったときには既にエントランスの外にいて、ギラついた夕日が地平線からこちらを伺っていた。

 そう、新型デバイス。携帯が許可だか義務化だかなんだったか。

 胸元を締め付けるショルダーホルスタの感触は既知のものだったが、その重みが平時とは違った。そもそも外回り用のジャンパを脱いでいるにも関わらずホルスタがそこあること自体が異常だった。

 この常ならざるプレッシャが、ぼくの不調を悪化させた。

 うげ、とかおえ、とかこぼしつつなんとかアルトを走らせる。

 走行中、差し込んでくる西日が強すぎて、何度も視野がチカチカした。危うく信号無視しそうになったし、土手を突っ切ってきらめく川の水面にダイヴしなかったのは幸運だった。

 マンションに着き、通過儀礼のポスト確認をサボってエレベータに乗り込む頃には、もうグロッキィ程度では済まないコンディションにまで落ち込んでいた。

 

「……おかえりなさい……って、大丈夫ですか? ひどい顔色ですよっ」

 

 血相を変えて花笑が駆け寄ってきてくれる。ぼくはその手を借りてベッドまで行こうとし、その前にトイレに倒れ込んだ。

 やっとの思いで便器に両手を着き、ホワイトアウトしかける脳みそを支えて盛大に嘔吐(えず)く。口の中が不定形な吐瀉物で満たされ、舌が名状しがたい酸味と苦味で麻痺した。

 

「お姉さん! しっかりして、お姉さんっ!」

 

 神経が宙に浮き上がったふうな感覚に襲われた次の瞬間、花笑がぼく呼び止めるのが聞こえて、それからぼくは自身の頭から蹴りだされた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 身体が満足に動かない───警告。トリガに指を掛けろ。

 意識が昏迷している───警告。トリガに指を掛けろ。

 ぼくは半ば無意識的に右腕の動かし方を探り当て、時の流れの埒外でデバイスのグリップを探した───警告。トリガに指を掛けろ。

 あった。ぼくは重たくて分厚いまぶたを持ち上げる。

 同時にホルスタからデバイスを引き抜いて───。

 

「お姉さん」

 

 手を止める。電灯を背に受け、花笑がぼくの顔を覗き込んでいた。

 

「目が覚めましたか」

 

 栗色の眉が心配そうに歪んでいる。心なしか声音も震えているように思える。

 

「ぁ……ぼく、は……」

「すごい熱です。病院に行った方が……」

「う、くっ……」

 

 ひんやりした彼女の指先が額を撫ぜるのと同時に、ぼくは軋む上体を起こした。

 喉がざらつき、空気に味がする。姿勢が動くとガスが抜け出そうとするみたいに頭痛がする。

 シーツで手を滑らせると、花笑が慌てて支えてくれた。

 

「ダメですよ、もうしばらく横になっていてください」

「でも……」

「お願いです。お姉さんに何かあったら、わたし正気じゃいられません」

「なん、それ……けど、ごめん」

「無理しないでください。大丈夫。お水持ってきますから。ほら、スーツ、脱いでください」

 

 意味もなく吐息を排出してみる。掠れた声しか出ない。

 最悪の気分だった。

 彼女が世話焼きなのはありがたかったし、ある意味癇に障る部分だった。長年一人暮らしをしてきたのもあって、どういう顔をしていればいいのか分からない。

 逸るぼくを花笑は宥め、上着を剥ぎとろうと肩に手を置いた。ぼくはそれに従おうとして、脇に擦れるホルスタの存在を思い出す。花笑はぼくの本当の職業を知らない。任務中に着用するジャンパに書いてある通りに、世間でのぼくは不動産屋の調査員ということになっている。

 見栄を張るようだけど、彼女には、イカれたやつだとは思われたくない。

 

「待って、それ自分でできるから」

「いや、でも」

「お願い。すごく喉が乾いてきたんだ。ごめんだけど、お水もらえないかな」

「分かりました……すぐ持ってきますから、着替えも一緒に」

 

 花笑は少々釈然としない様子だったが、それどころじゃないみたいで、さっさとキッチンに向かっていった。多少の罪悪感が心を蝕む。

 ぼくはほっと溜め息を吐き、いそいそと上着を脱ぐ。関節が悲鳴を上げていた。どこの筋も痛くて、ホルスタのベルトに手を伸ばすのにも一苦労だった。尾定に手をかけても、力がうまく入らないせいでなかなかベルトが外れない。微かな焦りが食道に居座る吐き気を刺激する。

 

「このっ」

 

 爪が傷むのを承知で無理やり革をつまみ上げて、ようやく圧迫感から開放された。心なしか呼吸が楽になる。

 そこで脱力してしまって、ぼくはなんとなく、なんでこんなことになっているんだろうかと考えた。おそらく風邪か何かだろうが、ここしばらく体調を崩していなかったし、そんな兆しも感じなかった。久山部長の話が長すぎたせいか?

 そうこうしているうちにも花笑は戻ってくるだろう。そして家出先の家主のため、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるに違いない。

 ぼくは覚束ない足元を必死に床に突き立て、ふらふらの足取りでハンガーラックに近寄る。そこに上着を架け、その下に隠れるようにショルダーホルスタを引っ掛けた。

 その一連の動作を行う過程で、ぼくは新型デバイスとやらのグリップを握った。

 たった一瞬だ。ホルスタのベルトがちゃんと上着に隠れるように調整した。その際に持ちやすいグリップに触れた刹那だった。

 先程のベッドの中での捜索は失敗だったらしい。きっと指先がグリップに届く前に花笑の呼びかけがぼくを起こしたんだ。

 生体電流を感知したデバイスがスリープ状態から復帰する。それに伴ってブルートゥースによるスマート・コンタクト・レンズ(SCL)との接続も再開し、各センサの感度状況が視野内のインタフェイスに溢れかえる。

 

[警告:感知範囲内に宿主の可能性がある反応を検出〈PPDS〉]

 

「は?」

 

 ぼくは思わず素っ頓狂な声を上げた。

 PPDSなんて聞き慣れない名前、いや、新たに取り付けられたオプション。それは表面に出てこない寄生体の存在を暴き出すための装置で、つまり今ぼくの周りのセンサの効力が及ぶ限りの近辺には寄生されている人間が居て。

 空き部屋だらけのこのマンションで、センサの有効半径内にいる人間はいうまでもなく、ごく限られていて。

 具体的に言ってしまうなら、それはぼくとぼくの同居人の少女くらいで。

 指向性レーダーのマーカーは、キッチンの方を指し示しているように見えた。

 

[警告:感知範囲内に宿主の可能性があ]

 

 そのとき、どす黒い感情が芽生えるのを悟った。心の表面から剥がれ落ちたかさぶたや不純物が渦巻いて、焦燥を包んで別の何かへと変容する。

 ぼくは弾かれるようにグリップから手を離した。そしてマスタスイッチをサスペンデッド・アニメーションに。デバイスの電源を完全に落としてしまう。

 数秒経ってSMCがスタンドアロンになった旨を表示し、視界が元に戻ったところで、ぼくはベッドに尻もちをついた。

 反動で身体がバウンドする。頭痛が頭蓋の裏側でシェイクされる。

 呆然としていた。

 頭が真っ白になっていくのが手に取るように分かった。ずるずると、がらがらと、きゅうきゅうと、いろんな音で囃し立てながら脳の領域が壊れていく。ぼくの現実が、暮らしが、花笑がいる領域が。

 そんなタイミングに限って、足音は部屋に迫ってきた。

 

「すみません、お待たせしました」

 

 そこには花笑がいた。

 当たり前だった。セーラー服を着た、健康的な小麦色の肌の少女がいた。その顔つきはまだ幼げで、大きな二重の目に引き締まった睫毛がよく映える。ポニーテールの茶髪が揺れていた。童顔に反した発育の良い身体が、ぼくのために寝間着とグラス一杯の水を持ってそこに立っていた。

 

「あの……」

 

 嘘だ、と思った。何かの間違いだ。

 久山も言及していた気がする。PPDSはまだまだ新興の装置で、PEXデバイス用に小型化したせいで精度も完全ではないと。

 だからありえないことなのだ。この健気な少女の肉体に、あの悍しい怪物が秘められているなんてことは。

 ひどい冗談だ。

 それなのにどうしてか、ぼくは笑えない。

 頭の中に響いてきた。

 

『寄生体を殺しましょう。着実に、入念に』

 

 

 

 ◇

 

 

 

 相変わらず吐き出す息には熱がこもっていた。

 あれから数時間が経って、部屋には夜の帳が降りていた。カーテンの隙間から差し込む青白い月光がぼくの鼻筋を横切っている。ぼくはその光の無機質さが羨ましかった。

 そんな夜更け。ぼくは口をつぐみ、神妙に天井の隅を見つめていた。

 壁紙の染みを数えているほどに余裕はなかった。頭は花笑と宿主反応のことでいっぱいだった。

 手の中の感触をよく確かめる。柔らかな布団で覆い隠したお腹の上には、スリープモードに移行した新型デバイスが抱かれている。外装の強化プラスチックの手触りは若干ざらざらしていて、金属のフレームが汗ばんだ手のひらに温められてぬるくなっていた。

 薬を飲んだおかげか、意識は冴えていた。

 とはいえ身体の調子が戻ったわけではなく、まだ眠って休まなければならないところ。しかし満足に眠るどころか、目を閉じてまどろむことさえ出来そうになかった。

 理由はいうまでもないだろう。

 指先でひんやりしたトリガの輪郭をなぞる。軽量化のためのホールが三つ空けてある。

 鼓動は一定でも、考えはひたすらざわついていた。

 胸中では二つの人格がせめぎ合っていた。居間の窓ガラスにしなだれかかって気だるげに文庫本をめくるぼくと、コンクリートジャングルで悠然とデバイスを照準するぼくが互いに侵食しあっていた。

 彼らの争点は一つ、PPDSの下した判定を信頼するかどうかだ。

 寝間着姿のぼくがいう。花笑が寄生されているわけがない。化け物のはずがない。トリガに触れる機会など永遠に訪れはしない。

 スーツ姿のぼくがいう。新稲花笑は寄生されている恐れがある。その可能性は否定できない。いずれぼくはトリガを絞らなければならなくなる。

 視神経の奥で何度もリフレインしている。ぼくが花笑を殺す場面を。

 ぼくは無表情でデバイスを構える。サイトの向こうには怯えた顔で震える花笑がいて、ぼくにこう問う、「お姉さん、どうしてっ」

 ぼくは応えない。

 沈黙を貫いて、ゆっくりと引き金を絞る。指の腹がホールに詰まるまで。

 数瞬と経たずにスパークが起こって、生温かい血が降りかかる。

 ぼくは何もいわない。ただ目を瞑って顔をそらす。

 ずっとそれの繰り返し。ぼくが彼女を撃ち、たくさんの彼女が悲しげにぼくを見据えたまま四散する。

 耐えきれずにぼくはかぶりを振った。そんなこと許されるわけない。ぼくは彼女を撃てない。撃てるはずがない。そして、それでも、ぼくは彼女を殺さなくちゃならない。中の化け物と共に。

 くそっ。畜生。技術部のくそったれ。

 お前らが余計なことをしなければぼくはこんな葛藤をせずに済んだ。上層部の連中が勤務外時間のデバイス持ち出しなど許可しなければいらないことを知らずに済んだ。久山の不快な演説を聞かずに済んだ。

 気づかないうちに花笑が裏返り、ぼくが殺されていたとしても、それでよかったとすら思う。花笑を撃たずに終われるのなら。それは逃げでしかないと分かっていても。

 どうやったって、花笑は助けられないんだ。

 何らかの経路で人間の体内に侵入したやつらの胚は血管を彷徨い、脊椎へと定着して強固に結合する。宿主の身体は徐々に寄生体に蝕まれていき、あるとき殻を破る。十分に成長しきったタイミングで背中を突き破り、不要なパーツを排除して外界へと飛び出す。それは意識を残したままの頭脳や、皮膚や、一部の臓器で、それらを引きちぎりながら這い出てくる。そのときが、宿主の最期だ。

 現在、定着した胚珠を排除する方法はなく、やつらの侵食を食い止める方法も見つかっていない。そもそも寄生されていることを誰も認知できないのだ。ぼくらにできるのは震えて眠るか、飛び出た化け物を吹き飛ばすことだけだ。

 つまり、どう足掻いても花笑は死ぬ。ぼくに選べるのは、もろとも逝くか、先んじて楽にしてやるかという、蛇足じみた対処の仕方のみ。

 

「……冗談じゃない」ぼくは自らに言い聞かせるように呟いた。「冗談じゃ……」

 

 気を紛らわせようと耳をそばだてても、リップノイズの余韻ばかりが部屋に響いた。今宵に限って雨の降らない、静かな夜だった。

 しかしまた、静寂は残酷で、求める音は掻き消し、忌むべき異音をこぞって耳に届けたがる。

 

「───ぅ───ぁ──────ッ───」

 

 突然だった。

 最初は空耳かと思った。壁の奥から何かが聞こえ始めて、ぼくは身構えた。仰向けのまま肩をいからせ、グリップに正しく手を沿わせる。決して無駄な音をたてないように、布団に包まって息を潜めた。

 限界まで神経を過敏にさせて壁の向こうに集中する。闇に包まれたものの形を炙り出すように。

 

「あっ───ひぅ───は、ぁ───」

 

 声。それも花笑の声だ───判別した途端、心拍が一際激しくなった。

 辛うじて拾える声は断片的でひどくこもっていたが、少なくともそれが尋常な話し声でないことは明白だった。もっと切羽詰まっているというか、それは電撃的で。

 

「うぅっ──────あ゛ッ♡」

 

 それはまるで、苦痛に喘いでいる最中みたいに思えた。

 押し殺しているけれど抑えきれない。耐えしのごうとしているが耐えきれない。そんな苦悩が紛れているように錯覚してぼくはとうとう身体を起こす。

 どれだけ慎重に動いてもやはり微かに布擦れはして、だが徐々に迫ってくる声音のほうが大きかった。

 そこに混ざる、怪しげな水音も。

 

「はっ、あ゛あ゛っ、ぅ──────♡ く、あぁっ♡」

 

 くちゅくちゅくちゅくちゅ……肉でもこねるような生々しさと、水滴がタイルを叩く鈍い音。

 脳内に響き渡る警鐘に反して身体は流れるように動き、ぼくはデバイスの重みを確かめつつドアの前まで歩み寄っていく。

 そこでぼくは足を止め、戦々恐々とドアに耳を添える。

 

「あっ、あっあっ、はァ───ンっ♡ ───っくぅ♡ イっ♡ ぅ、ねえさ、あ゛あ゛ッ♡」

 

 鮮明で鮮烈な息づかいが、ちょうどそのとき一際激しくなった。

 扉の向こうでなんらかの液体がびちゃびちゃとしとどに流れ落ち、声にならない叫びが悶え続けている。

 ぼくは絶え絶えの呻きの中に、たしかにぼくを呼ぶニュアンスが混じっているのを聞いた。

 ぼくは扉の前で葛藤した。この先の光景を見るべきか否か。

 そんなもの、答えは最初から決まりきっているというのに。

 ぼくはそっとドアノブに体重をかけて、扉を押し開けた。

 

「ぅ───ぁ───」

 

 廊下には部屋よりも深い暗闇が充満していて、ぼくは体温の気配だけを感じながら目を凝らした。

 一歩踏み出すのには勇気がいった。ひょんなことですくんでしまいそうな足を奮い立たせるためには、やはりデバイスを持っている安心感が必要だった。

 呼吸は殺した。裸足の裏で床の軋みも殺した。

 一歩進むたび、滞留した空気を頬に受ける。とても湿り気が強い。それに、異様な熱気も含んでいる。

 吐き出すものがいるからだ。

 

「あ、へっ、ま、た───♡」

 

 音のする方に進んでいくと、辛うじて慣れてきた視界にそれの輪郭が映る。

 と、同時に、ぼくは足の裏にぬめった感触を覚え、立ち止まり足元を見下ろす。

 床のワックスではない。どこかから差し込んだ光が反射していた。たぶん、あの水音の正体らしい液体が軽く水たまりを作っていた。もっとも、それが単なる水だとは到底思えなかったけど。

 

「か、え……?」

 

 ぽろりとこぼれ落ちたぼくの呼びかけに、その影はびくりと震えて。

 

「あ……」

「花笑……!」

 

 ぼくが傍まで寄ったとき、愕然とした花笑の表情が見えた。

 いや、愕然と形容するには、ぼくの存在が与えた衝撃は軽すぎるような気がする。彼女が地べたにへたりこみ、茫然自失としてこちらを振り返っている理由は、彼女のありさまが何よりも雄弁に語っていた。

 

「やらぁ……!」

 

 ストレートに流した髪は、汗のせいだろうか。乱れてうなじや耳元に張り付き、隙間からのぞく頬は見るからに紅潮している。

 肩ひものはだけたキャミソール。薄い生地が汗ばんだ肌に張り付いて、齢の割に発育の良い体つきが露わになっている。とりわけたたわわに実った乳房の先端が、布越しにその存在を主張していた。

 艶かしく突き出した腰つきにキャミソールのスカートが翻って、日焼けしていない白磁の尻たぶが無防備に晒され。桃尻の形を歪めるローライズは、もはや下着としての意味を為していない。ぬらぬらと怪しげに照り輝く液体が滲み、覆い隠すべき性器の色合いをあけすけにしてしまっている。

 視線を辿った。ぼくの足に絡みつく液体は……体液は。がくがくと痙攣する彼女の股ぐらから並々と溢れ出していた。

 むせ返るような性臭が場を満たす。

 そんなあられもない姿をぼくに見咎められた彼女は、ろれつの回らない舌を突き出して、拒絶の言葉を吐いた。

 

「やぁ……! 見ないでっ、来ないでぇ……」

 

 予想の斜め上を行く景色を叩きつけられて、ぼくは間抜けに瞠目する外なかった。

 

「大……丈夫なのか? さっきぼくを、名前を呼んで……」

「いやっ! 来ちゃ、ダメですッ」

「え……いや、だけど……」

「ぉねがい、します、から……今は……」

 

 上目遣いにぼくを見上げ、希(こいねが)う花笑の姿は、ぼくがいうのもおかしいのだけれど、馬鹿馬鹿しいくらいに扇情的だった。その背徳的な妖艶さは、当惑を超えてぼくまで官能的な気分にさせるようで。思わずぼくは後退って、息を呑んだ。

 間違いない。ぼくは今、花笑の媚態に欲情しかけていた。

 同性の、まだ義務教育を終えてもいないような、そんな少女にぼくは。

 さながら前頭葉をガツンと殴られたような気になった。

 

「あ、花笑? なんで……どうしてそんな」

「ごめんっ、なさい。おかしいんです、わたしっ……変なんです」

 

 潤んだ目で弁明する彼女。唇の動き。

 

「どうかしてるんです……でもっ、どうにもならなくて……もう、耐えられない……っ」

「な、何が……」

「わたしっ、わたし……どうしても、考えてしまうんです……お姉さんのこと」

「ぼく……?」

 

 心臓がうるさくなっていく。ぼくはどんどん狂わされる。意識が花笑に吸い取られていく。

 

「だめだって分かってるのに……眠ろうとすると、いつも浮かんでくるんです。考えちゃうんです、その日のお姉さんを……肌の艶、声の調子、横顔、視線……次々思い出しちゃう。そしたらわたし、胸が苦しくなって、おなかの下が熱くなって、背中がうずうずして……ッ」

 

 そこで花笑は目を逸らし、言おうとした。

 

「そうです、わたしっ、お姉さんのことが!」

 

 だが、先の分かりきった言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 

「──────っ!?」

 

 背筋が仰け反る。

 地鳴りを直に喰らったふうに。肉感的な肢体ががたがたと震えだし、花笑は苦しげに目を見張る。

 ほぼ同時に、ただぶら下げているだけだったデバイスが急に掌の内で身動ぎし始めた。彼女の異変に共鳴するみたいに。

 

「おい、どうしたっ……!」

 

 自分で言ってから思い出す。SCLとのリンクがない自立稼働状態のとき、デバイスはヴァイヴレーションによって敵の存在をユーザに知らしめるのだ。

 すなわち、寄生体の目覚めと死の足音を。

 ぼくは反射でデバイスを構えようとしたけれど、いつもみたいにはうまくいかなかった。

 それは握りしめていたのが扱い慣れない(ふざけるな、)新型だったせいかもしれない(花笑を撃てるわけがないだろうが)。

 バレルが展開して制圧モードに切り替わる前に、ぼくの視野は急激に傾いていった。

 

「うあっ……!?」

 

 足首を何かが強く掴んでいる。

 廊下に叩きつけられてもグリップを放り出さなかったのは駆除員としての意地だ。

 が、と呻いて目を開けた先では、いつのまにかゆらりと立ち上がった花笑がぼくを見下ろしていた。だがその人影からあってはならないものが伸びているのに気がついて、ぼくは戦慄する。

 

「ッ、それは」

 

 腰の辺りからうねる影は、暗闇に忍ぶような赤黒い色をしていた。

 もちろん、見覚えはあった。仕事で、トラウマのフラッシュバックで、嫌というほど見慣れていた。まさに嫌悪感の権化といっても過言じゃない。

 そいつはぼくからささやかな「普通の暮らしと幸福」を奪って、やり場のない復讐の道へと駆り立てた。つい先日だって、ぼくの数少ない同僚の頭をホールトマトのように潰して殺しちまった。

 現代社会でいうまともな人間の絞りカスみたいに生きてきたぼくが、唯一どうしても許せない仇敵が、ぼくの目の前にいるのだ。

 触手だ。

 見間違えようもなく、それは寄生体特有の悍しい触手だった。

 花笑はそんなものを自らの身体に侍らせて、恍惚とした面持ちでぼくを見下していたのだ。

 ぼくの頭の中は真っ赤に赤熱した。

 

「駄目だ……駄目だッ! こんなのっ、花笑、花笑ッ、それはっ! そいつは!」

 

 ひとりでに激昂したぼくは、デバイスを振り回してもがく。

 ぼくが寄生体の脅威から守っている人間だと思っていた花笑が寄生されていたショックとか、寄生体に対する怒りと憎しみとか、花笑を撃ちたくない気持ちとか、駆除員としての冷徹な思考回路とかがぐちゃぐちゃに入り混じって、ぼくは完全に我を失った。

 考えつく限り最悪の予想が現実になってしまったのだ。

 ぼくは撃てもしないのに───ああそうだ、認めよう。ぼくはきっと彼女を撃てやしない───花笑に照準を合わせようと躍起になった。それがせめてもの、やつらへの精神的な抵抗だった。

 だが、それすらも四肢に絡みついた触手が阻んで叶わなかった。

 やがて気色の悪い触手は首筋にまで這い上がり、じわじわと気管を締め付け始める。

 ぼくは薄れゆく意識の中で、必死に彼女に手を伸ばそうとした。

 靄がかった花笑の相貌が、愉悦に浸っているかのように思えたのは、きっとぼくの気のせいだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 むせるくらいの煙草の臭い。泡立った口角。ヤニで黄色く塗りたくられたがたがたの歯並び。

 腐食性ガスに負けるとも劣らない口臭を間近でくらったわたしは、たまらず顔をしかめて後退った。

 

「お、叔父さん、そのお金は」

「あぁ? 文句あるかよ」

「だって、それは母さんがわたしにおいてった生活費だから」

「ごちゃごちゃ口答えしてんじゃねえよ」

 

 拳が振りあげられ、ゴミと皿の散らばったちゃぶ台が悲鳴を上げる。

 

「でぇてぇ、あのアマも何考えてんだか知らねえけどよ、ガキに持たすにゃ多すぎんだよ。万札なんざ」

 

 少し前。いつ帰るか分からない───そんな言葉を投げつけて母は家から旅立っていった。いくらかの、決して少なくはない、でも一家庭が食いつないでいくには心許ない資産から抜き出したお金を持って、お気に入りの服とメイクでめかしこんで。おそらく、そ(・)う(・)い(・)う(・)付き合いのある男の元へ身を寄せに行ったんだと思う。

 リップを片手に、一昨日のチラシの上に放り出した裸の一万円札。それがしばらくの間のわたしの生命線だった。

 間が悪かった、といえばそれまでだ。いつものように、無法者の叔父が金の無心にやってきたから、わたしは慌てて玄関に出ていってしまった。

 叔父はシミと毛だらけの指先でわたしの生活費をつまみ上げる。

 あれがもう、一生この家の家計に戻ってくることがないのは疑いようがなかった。

 

「……ぅーっ、まだ痛えなぁ。もちっとあんだろ」

 

 ちぢれて脂ぎった髪を掻き。痒いところに手が届かない、というふうな態度で立ち上がった叔父は、ぶっきらぼうな手付きであろうことか棚や箪笥をあさり始めた。

 

「やめてくださいっ……! もうこれ以上は……」

 

 印鑑や通帳や保険証や……その箪笥には叔父の手に落ちれば我が家の破滅は免れないような物品が雑多に詰め込まれていた。よもやただ黙って見ているわけにはいかず、わたしは止めようと薄汚れたジャージの裾を掴む。

 

「耳付いてねぇのかこの雌餓鬼(メスガキ)ャァッ!」

 

 驚くほど反応は早かった。

 衝撃が全身に伝達し、わたしの身体は容易く跳ね飛ばされる。

 めちゃくちゃに痛かったわけではないけれど、想定外の刺激が一番恐怖を煽る。怯えたわたしが腰を逃がす前に、叔父は大げさに足を踏み鳴らして目の前でしゃがみ、乱暴に髪の毛を掴みあげた。

 

「見りゃわかんだろ目ン玉もついてねえのかよテメェは! あぁッ!?」

 

 ざらついた咆哮に耳ががんがんして、飛び出したつばが何度も顔を叩く。

 

「虫の居所がワリぃんだよこっちゃッ、溜まってんだずっとッ!」

 

 虚ろな色だ。開いた瞳孔も───顔色も、唇も、ニキビも。ぼんやりとそんなことを考えていたら、ふいに叔父が気色の悪い笑みを浮かべて言った。

 

「あぁ……それともなんだ、お前でヌケばいいのか?」

 

 一瞬、わたしはその意味が理解できなくて。

 唐突に伸びてきた叔父の手がわたしのおっぱいを鷲掴みにして───頭が、真っ暗になった。

 どん底に落ちていくみたいに血の気が引いて、黄ばんだ爪が突き刺さる痛みは明確で。

 わたしはなりふり構わずに家を飛び出した。

 とにかく走った。

 宛もなく。可哀想な自分に同情する暇もなく。

 息を切らせて走り続けた。

 走って。走って。

 逃げて。逃げ惑って。

 胸にやきごてのごとく焼き付いた叔父の手の感触が忌々しくて仕方がなかった。

 そうして雨に打たれて、影の中に逃げ込んで。

 

『雨、降ってるよ』

 

 あなたに出会った。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 自分が決壊していく音がありありと耳に届いてくるようだった。

 微かに空いたレースカーテンの模様を縫って、緑の月光りがこの狂った宵を映し出す。

 理性。記憶。肉体。

 全部が灼熱の炎にねぶられているみたいに、焼け焦げて溶けていく。

 壊れるくらい苦しくて、壊れてしまうから気持ちいい。

 もうわたしがわたしか信じられない。

 心臓はまだ破裂していないのかな。脳はまだそこにある?

 世界がヒトの形から逸脱していくみたいだ。

 情慾の熱に浮かされたわたしが望むのは解放と忘却で、はちきれんばかりの感情を飲み干してくれるのは、眼前に横たわる女(ヒト)だけだと確信していた。

 おかしくなり始めているのが心だけじゃなくて身体もだと気がついたのはいつ頃だっただろう。

 背骨が皮膚を突き破って飛び出してきそうな痛み。日に日に強くなっていく肉の脈動。

 同時に襲いかかる獣欲の津波。下腹の蠢き、そして胎動。

 はじめは思春期のせいにしていたけれど、正気をかき乱す切なさはどれだけ慰めても抑えられない。

 彼女と溶け合いたい。

 いつの間にかわたしの思いはどこまでも彼女───お姉さん一色に染め上げられていた。

 そうしてついに飛び出した邪念の権化が、意識を奪われた彼女の肢体に絡みついて自由を封じている。

 どうやらわたしは、化け物になったみたいだった。

 

「あぁ…………♡」

 

 手を伸ばし、触れて、確かめて。

 それだけで軽く達しそうになる。

 スマートな輪郭に、怜悧さを感じさせる鼻筋。細く鋭い眉、大きいのに刺々しく、どこか寂しげで、吸い込まれそうになる灰色の虹彩。角ばった耳。控えめに結ばれた唇。

 わたしでは遠く及ばない、静かに成熟された凛とした顔立ちが、苦しげに歪んでいる。

 一見して完成されている大人びたルックス。その中に潜む、時折仄かに滲む幼さが、わたしを憎いほどに狂わせるのだ。

 ずるい、ずるい、ずるい。

 両手を頬に添えて親指で唇をなぞる。

 渇いた果実。それでも肉肉しい弾力で卑猥に弾み、艶かしくわたしを煽る。

 うるませたら、どうなるんだろうか。

 幼稚な好奇心のままに口づけして、衝動的に喰む。

 その瞬間、甘美な衝撃が知覚に迸った。

 

「──────ッ♡」

 

 性感を刺激されたわけでもないのに、勝手に腰が震える。

 それは知恵の実を頬張るのに似ていた。行為そのものの快感に加えて、長い間抑圧していた禁忌を解き放ったことによるカタルシスが悦楽を増幅しているんだ。

 止まらない。捕食と呼んで過言でないくらい、激しく彼女の口腔を犯す。

 力なく萎びた舌、つるつるの歯、なんともいえない温度の頬肉。それらをどちらのものとも判別つかない唾液の蜜に絡めて、隅々まで味わっていく。

 一度顔を眺めたいと思って顎を引けば、無防備な美貌がわたしと彼女の混濁した唾液で汚されていた。てらてらと妖しく輝く粘液が互いの唇の間に糸を引き、橋をかけている。

 あまりにも卑猥極まりないその情景。神経が焼ききれてしまいそう。

 わたしは舌を突き出したまま、上体を動かしてお姉さんの懐へ潜り込んでいく。

 ネグリジェのリボンを外しながらくまなくマーキングしていくように、汗に濡れた肌の上に舌を這いずらせた。

 

「んぁ、しょっぱぃ……」

 

 肩に鼻を埋めると、汗と不純物の味わいとともに、芳醇な体臭が鼻腔から脳髄へと直撃する。

 浅くトリップ。これじゃどちらが犯されているのか分からない。

 口辱から首筋へ、肩から鎖骨へ…………そして重力にたわむ乳房へと。

 

「お姉さん……っ♡」

 

 形の良さに対して可愛らしい小さな乳頭は、むしゃぶりついてくれといわんばかりに上向きに突き出している。

 わたしは乳房に指を沈ませつつ澄んだ桜色のそれを口に含んで、舌の先で転がした。

 

「──────っ、ぁ」

 

 無抵抗な身体がぴくりと跳ねて反応する。

 

「おねえさんも、もっと欲しいよね?」

 

 お姉さんが善がるところ、もっと見せて欲しい。探究心と嗜虐欲がぐちゃぐちゃに癒着して、それは執拗な愛撫へと姿を変えて顕れる。

 舐めて、接吻して、摘んで、咥えて、抓って、吸って。

 彼女に与える快楽が、何倍にも強まってわたしの快楽に変わる。

 赤ちゃんのごとく甘えている傍らで、強姦魔みたいに攻撃的な気分にもなる。

 自他の境界線がぼやけるような、不思議な感覚で、でもそれは道理だとも思えた。

 だって、わたしたちはこれから一つになる。

 

「わたしのも、あげるっ♡」

 

 肩紐を下ろし、キャミソールから自分のおっぱいも露出させる。

 同年代の子から比べるとずっと大きいこの胸は、ある種のコンプレックスでもあった。無駄に人から注目を集めてしまうことが恥ずかしかった。

 今はそんなの関係ない。ぷっくりと屹立した乳首をお姉さんのそれに押し当てながら考える。

 ただ、気持ちいことができる器官ならばどんなだってよかった。

 

「あっ♡ これぇ……すごく興奮する♡」

 

 柔和な弾力を互いに弄び、男が見たら出血多量で死にそうな理想郷をそこに作り出す。

 しなやかな皮膚のハリにもどかしさを煽られ、固く勃起した乳頭が擦れ合えば、電流が快楽神経を疾走する。

 わたしは自らの乳房をもみしだき、その一方で再び口辱を始めた。

 激しい交わりで口角から漏れ出た唾液が谷間に注がれ、ローションの役目を果たして快感を助長する。

 

「ああもう……こっちも、いいよね?」

 

 マイルドな刺激でも、甘受していればすぐに気が気じゃなくなった。

 辛抱きかずに、いよいよ乱れたスカートの裾へと手をかける。その奥、さらに最奥へと。

 すべすべの太腿に、秘所を覆い隠す薄布の肌合いを確かめてみる。

 それを確認して、わたしはほくそ笑んだ。

 

「ああ……おねえさんも、準備できてるね♡」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ぼくを狂わせたのは間違いなく母親の言葉だった。

 ふつうの女の子だったぼくを殺したのは、母の敵意だった。

 ばけもの。

 たったそれだけの罵倒で。ぼくはたった一つ残された希望を打ち砕かれてしまった。

 拒絶がぼくを殺したのだろうか。それとも母の放った文言がいけなかったのだろうか。

 そのどちらもかもしれない。

 傷ついたぼくが縋りつけるのは母だけだった。でも、彼女はぼくを見てもくれなかった。彼女が見ていたのは寄生体で、そしてそれを宿した弟の幻影だった。

 そこにぼくの介在する余地はなかった。

 どこに行ってもそうだと理解するまでに時間はかからない。

 ぼくは幼いながらに学んだのだ。世界は高々と謳われているほど広くはない。みんな自分の居場所を取るのに必死で、ぎゅうぎゅう詰めになりながら細々と生きている。

 孤独はある種の救いだ。独りぼっちでいると、地平線が果てしなく続いているような錯覚に陥ることができる。

 誰も居ない空間は薄ら寒くて、静かで、手応えがない。

 そっちの方がありがたかった。抉られた傷口は見た目よりもずっと深く、じゅくじゅくと膿んでいる。不用意に踏み込んできた誰かにうかつに触れられるくらいなら、そのまま腐って死んでしまったほうがましだと思っていた。

 実際そうだ。これまでの人生が証明している通り、ぼくは一生この空虚な復讐の日々から抜け出せずに終わるだろう。他に生き方を知らないから。

 なのに、外野の人間はよく適当なことをいう。恋せよだとか、愛せよとか。

 ぼくにははなから無理な話だ。

 こんな人間のひとりよがりな生き方に巻き込まれるんだ。その誰かが、ぼくには可哀想でならない。

 本気で好きな相手なら、遠慮なんてしていられないと言われたこともある。本気で欲しいと想うから、愛し合える。エゴを受け入れることが幸せになるって。

 当然だが花笑には、そういう気持ちにはならなかった。

 ぼくは、彼女のことは好きだ。

 ひとりの人間として。同居人として。友人として。女の子として。一緒に居て気分の良い相手だと想う。

 少なからず、女としては倒錯していると言わざるを得ない感情を抱いたこともある。

 それでも、ぼくの中に膨らんだ彼女への気持ちは、親愛以上のものではなかった。

 はずだ。

 

「──────か、はッ」

 

 暖色のフィルタのかかった情景が、走馬灯のごとく額の裏側に映写される。

 

「───ぅ、く、ぁふ」

 

 びしょ濡れの制服が軒先に干され、遠慮がちにシャワーの礼を伝えてくれた日。

 

「あ───あっ───」

 

 初めて夜を越した後の、にわかに安堵をにじませたおはようの挨拶をくれた日。

 

「ふ───ぅっ───く」

 

 玄関を開けて漂ってきた香りに驚いて、はにかみながら夕餉を盛り付けてくれた日。

 

「んぇ───あ───ああっ───」

 

 神妙な面持ちで身の上とあの日の事情を語ってくれた日。

 そしてなにより、

 

「───あッ♡」

 

 雨音が見せてくれた、彼女の儚い横顔。

 

「か、え」

 

 ひゅー、ひゅーと掠れた呼吸音だけが喉元から漏れ出している。

 ぼくはブラックアウトから復帰しても目を開くのが怖くて、薄らにまぶたに隙間を作ってあの子の名前を呼んだ。

 

「かえぇっ」

「……はい、おねえさん」

 

 応えは耳元で、ひそやかな囁きになって返ってきた。

 甘くこびりつくウィスパーボイスが耳の穴から這い上がり、ぼくの理性を犯す。内側から溶かされている気分。

 

「なにっ、これぇ! へん、おかしいよぉ!」

「そうですかぁ? どこがどう変なんです?」

 

 だめだ。あまねく感覚が頼りにならない。

 じんじんする。ひりひりする。びくびくする。

 思考回路の箍が外れて、火花を散らしながらひとつの信号のみを発し続けている。

 ろれつが回らない。息がうまくできない。考えることができない。

 ざらざらした、真っ白な稲妻みたいな感覚がすべての神経から出力されている。

 これはなんだろう。

 熱さ? 痛み? 冷たさ? 痒み? いや、これは

 気持ちいい。

 そうと自覚した直後、なにもかもが閃光にまみれた。

 

「ッ!? ───ッ!! ──────ッッッ!! あ゛あ゛あ゛あ゛ああああぁっっ♡」

 

 おなかと腰の筋肉がのたうって激しく痙攣し、股ぐらが浮き上がる。木目のタイルが背筋を叩く。

 潤んで揺れる視界がチカチカした。

 びゅるびゅると熱いものが身体から流れ出ていくのが分かる。何かがぼくのあそこを苛烈に掻き回し、それが動くたびに身体が痺れ、電撃が神経の一本一本を丁寧に駆け抜ける。

 淫らな飛沫の出す音色が辛うじて耳に届いた。

 

「うああああああああッ! あああぁお゛お゛おおおおおっ♡」

「すっご、まだ出てくるんだ♡」

 

 ぼくの上で馬乗りになった花笑がつぶやき、粘液の滴る指を舐めとる。

 紺碧の夜光に浮かぶ彼女の口元はサディスティックに歪んでいて。

 もうぼくは認めなくてはならなかった。

 彼女との和やかな日常が詰まったこのリビングで、上書きするように。

 ぼくは、花笑の陵辱の手中に落ちた。

 

「いやだぁ……なんで、なんで」

 

 あられもない様相を呈する肢体を隠そうと身をよじっても、手足には触手が巻き付いていて叶わない。

 羞恥に悶えるぼくを見下した花笑は、色っぽい矯笑を浮かべるばかりで、この狂った宴に水を差す気は甚だないらしかった。

 にべもなく、快楽の余韻が引いていく前に、次の責めが始まる。

 

「あ……ひッ!? だめだっ、それは……!?」

 

 関節に絡まって抵抗を封じていた触手が一斉に動き出し、ぼくは悲鳴を上げた。

 赤黒く隆起した表皮の感覚が生々しく襲いかかる。フォルムも相まって嫌悪感を煽るそれは、怯えるぼくを震え上がらせるには十分な代物だった。

 ずるずると何かを探し求めて移動する触手には遠慮の欠片も感じられない。幾度かの絶頂に達して余すところなく敏感になっているぼくの肉体は否応なしに反応させられ、さらなる醜態をむざむざと晒すことになる。

 歯噛みし、せり上がってくるよがり声を抑える内に、肉鞭の蕾のような先端はそこへと辿り着く。

 

「いや……いやあ!!」

「大丈夫ですよ」

 

 狂乱に陥ったぼくを、花笑は一転して情事の最中に似つかわしくない声音で諌めた。

 

「ここには怖いものなんてありませんから……それに」

 

 小さな掌がぼくの顔面を抱き留める。

 気丈で、健やかで、無垢な精気にあふれていたかの少女の瞳は、深い慈しみと愛おしさに潤んで、今にもこぼれだしそうだった。その瞳孔越しに計り知れない情動の渦が垣間見える気がして、ぼくは彼女が少女からひとりの女へと羽化したことを悟って。

 

「いっぱいイッておかしくなっちゃえば、そんなのどうでもよくなるよ♡」

 

 ねじ込まれた異物が、ぼくを絶望と淫靡の沼に突き落とした。

 

「──────」

 

 世界が急激にスピンする。

 

「あ、あッ、あ゛あ゛」

 

 しとどに濡れそぼったぼくの膣はいとも容易く異形の邁進を受け入れた。

 細い指とは違う、人を撲殺するような肉棒は無慈悲にも道筋をこじ開けて進み、未だ誰にも触れさせてこなかった領域まで至る。

 肉膜(処女)を引き裂かれ、膣癖を抉られ。

 それにも関わらず、ぼくを苛むのは苦痛ではなく、感じたことのない幸福感だった。

 

「うわ、初めて、もらっちゃった……♡」

 

 休む間もなく強烈な抽挿が膣奥を打つ。スポンジが液体を滲み出させるみたいに、ぼくの脳内はドーパミンに浸されて、性衝動の最果てから戻ってこられなくなってしまいそうだった。

 ぼくは快感に満たされていく膣の彼方に、性感の紫電とはまた違った疼きを見出す。

 この疼きは既に高みに昇りつめた性感のさらに上にあって、肉蕾が子宮を励起するたびに大きくなった。

 まるでぼくが、花笑の子を孕みたがっているみたいに。

 そんな、そんなのは。

 ぼくは胸中でかぶりを振る。

 なんて忌々しい(幸せな)ことだろうか。

 

「はぁッ、わたしも、一緒にッ♡」

 

 花笑が腰をひねって、ぼくの性器と触れ合わさせる。

 肉と肉、発熱する肌と肌との接触。溌剌とした雌の証は互いに欲し合う引力を発し、勃起した陰核が摩擦で痺れる。

 抽挿の間隔は早まって、体内のボルテージは異様な高まりを見せている。

 またイくのだろう。でも、今度だけは何かが違う気がした。

 これまでの絶頂とは異なる。内側に収束し発散されるのではなく、こちらから引きずり出されていくような……。

 

「あっ、ああっ♡ かえ、花笑♡」

「……ぇさっ、おねえさんっ、お姉さんッ♡」

 

 耳も目も熱くなって、周りがよく見えないし聞こえなかった。それでも、ぼくは花笑に呼ばれている気がして、彼女の名前を口にした。

 身体は獣性に囚われて、心の冷えたところだけがまだ人らしさを残していた。

 考える。これまで、ぼくらは似ているようで違うと思っていた。

 大人じみていて子供で。子供じみていて大人で。

 庇っているつもりで。庇われているふりをして。

 孤独に酔っていて。孤独を愛していて。

 だがこのときは、正真正銘同じ物を求めていた。

 

「好き」

 

 二人の中で、泡沫が弾ける。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 目が覚めると、随分不埒な夢を見たものだ、と思った。

 ベランダから覗く空はいつの間にか白けていた。穏やかに包みこむような朝日が、部屋の隅に染み付いた陰と混ざり合い、残った暗闇を葬っていく。

 五感というのは残酷で、夢見心地でたゆたう精神を強引にひっつかんでは、ぼく自身の現世へと押し戻してしまう。ぼくが知覚を取り戻したのは、隣に寄り添う自分以外の体温を感じ取ったおかげだ。

 それだけじゃない。一度自分が何者かを思い出せば、ぼくらを取り囲む状況や経緯までも次々に浮かび上がってくる。

 あの生々しい臭いはまだ消えていなかった。躰中がべとべとだし、フロアリングなども同様だろう。

 事後のリビングは、ぼくらが注いだ体液のせいで惨憺たる有様だった。

 妙に渇いた喉元から湿っぽい息を吐き出して、ぼんやりと目と鼻の先の寝顔を観察する。

 これだけの状況証拠を突きつけられたって、やっぱりあの出来事はどこか白昼夢みたいに実感に乏しかった。

 しかし、下腹に刻まれたじんじんとした残り香が、それを現実だとぼくに信じ込ませる。

 セックスの余韻と呼んで良いのかは分からないが。

 何にも替えがたい変革が、ぼくのおなかに宿っている気がした。

 

「お姉さん」

 

 はたと気づく。向かい合った花笑の瞳が開き、まっすぐにぼくを見つめていた。

 彼女はか細い声で謝罪を口にした。

 

「ひどいこと……しちゃいました…………許されるなんて、思ってません」

「ん……」

 

 彼女は言い悩んでいるみたいだったけれど、それはぼくもそうだった。何を言葉にして、何を言葉にしなくても良いのかなんて、そんな難しいことは分からない。

 

「花笑は…………」

「……はい」

「花笑はどうだった? ぼくとのエッチ」

 

 花笑は面食らった顔をして、それからばつが悪そうに眼差しをそらす。

 

「う……その……」

「ん」

「き、気持ちよかったです。ほんとに」

「そっか」

「えと、お姉さんはど、どうでしたか……?」

「きみ、襲った相手にそれ聞くんだ。やっぱり元来の気質なの?」

「いやそんなっ! ……ことは、なくもないです、ね……はい」

 

 昨晩自らがやったことに罪悪感を覚えているのは本当らしく、いつもより歯切れが悪い。

 

「まあ……あれ自体は、いいよ。感じてないなんて言ったって、今更取り繕える次元じゃなかったと思うし」

 

 情事の際の乱れっぷりはめいめい自覚している。もとより衆目に晒すような生肌は持ち合わせていないが、それを差し置いても尋常ではない痴態だった。

 本質はそこではない。

 

「ぼくは……ぼくのそれが、きみのそれと同質のものなのか……明確には言えないよ」

「あ……」

「なあ、花笑。無粋なお願いだとは思ってる。けど、もう一度、言って欲しいんだ」

 

 ぼくは彼女の手を握って、眼差しを合わせた。今度はぼくから。

 

「す、きです。お姉さん。わたしは、お姉さんが」

 

 好き。

 花笑の喋りは調子の強いものではなかったのに、その一言だけは相応しい質量を持って場に落ちた。

 重みのある言葉はぼくの胸中に一石を投じ、逆立った水面にぼくの姿が写っている。

 歪んでいるところと、正しいところ。

 

「……ぼくも」

 

 正誤を求める生き方はしてこなかった。

 そのツケといえばそうなのかもしれない。心の勉強は捗ったことがない。

 だからこれは、この結論は、真実というよりぼくの祈りだ。

 

「きみのことが好きだ。花笑」

「……っあ」

 

 豊かな眉が切なげに曲がる。

 眺めていると、胸が締め付けられるような表情だった。

 

「それは……恋人とかのそれで、いいんですか」

「ああ。たぶん……でも、そうに違いない」

 

 ぼくはありのままを続けた。

 

「きみの想いに驚かなかったといえば嘘になる。ぼくは恋愛感情らしいものを抱いたこともないし、同性同士ってのも、あまり考えたこともなかった」

「……はい」

「ぼくの型にはまった恋愛への感覚を抜きにしても……ぼくは愛に飢えてる節がある。誰だってそうだってくらいのことかもしれないけれど、ずっと誰かに好きになって欲しいとは思ってた」

「…………」

「でもね。ひとつ確かなことがある」

 

 ぼくはこの後に及んでデバイスの位置に意識を巡らせていた。

 それは、彼女をどうにかするためじゃない。

 

「花笑じゃなかったら、撃ってた。殺してた」

 

 人差し指を、引き金に添える形にする。

 

「言わなかったけど……ぼくの仕事はさ、バカみたいだけど、化け物の殺し屋なんだ。ちょうど、きみの背筋に取り付いたそいつを撃ち殺すのが仕事だ。そいつに父親も、姉弟も殺されたから。一応、敵討ちのつもりでこれまでやってきた。心持ちを冷酷にしてさ」

「お姉さん」

「当然、信じらんないだろうけどさ。ぼくはオペレータだ。信念ある、オペレータなんだ」

 

 久山のセリフが反復する。愚直にトリガを引けるものこそが必要だと。

 残念ながらぼくはもうそうじゃない。

 撃てない人間が無辜の民を守ることはできないんだ。

 

「撃てないのは、きみだからだよ、花笑」

「信じます」

 

 花笑はぼくの手を握り返して言った。トリガにかけた指を包み込んでそう言った。

 

「普通の人じゃないとは、思ってましたから」

「貶されてる?」

 

 くすり。器から溢れ出たおかしさが弾けて。ぼくらは心から笑い合って。

 生ぬるい朝の空気に幸福を乗せて。

 突如として身体をしならせた花笑が、苦しげに表情を顰めて呻いた。

 

「……やっぱり、撃ってくれませんか」

「花笑……!」

「もう流石に、だめっぽいです」

 

 ああ、やめろ。

 ぼくが思いの丈を打ち明けたのは、きみのそんな相貌を見るためじゃないんだ。分かりあったのは終わらせるためじゃないんだ。

 どうしてなんだ。なんでだ。

 彼女の下からじわじわと広がって、ぼくのところまで流れてくる血はなんなんだ。

 背後で暴れ狂う触手はなんなんだ。どうしてそこにあるままなんだ。

 結局、夢だった方が良かったのか。

 

「撃てない……撃てないんだよ……っ」

「でも、わたしもう、お姉さんをどうするか分かんないから」

「どうなったっていい」

「それは、いやかなぁ」

 

 次第に彼女の口調は余裕を失っていく。

 それでも花笑はぼくに向かって悲しげに微笑んでいた。寂しい目と声音がぼくの心臓を串刺しにした。

 鼓動はどんどんと脳みその血管を叩いて知らせる。残酷な砂時計の流れを突きつけ続ける。張り詰めた息づかいにぼくのほうが引き裂かれそうだ。

 

「撃ってくれないなら、今すぐ逃げてほしいです」

「腰砕けなんだ、走れそうも、ない」

「なら……」

「勘弁っ、してくれ」

「うー、ん……だめ。お、願いします。お姉さん」

 

 視界の端に憎らしい触手がやってくる。必死に衝動をこらえるように震えるそれは、気絶させられている間に手放してしまったデバイスを持ち上げて、グリップをぼくのほうに寄越した。血液がバレルに水玉の模様を作っている。

 受け取れっていうのか。

 そいつで、花笑を吹き飛ばせって。粉々にしろって。好意を抱いている相手を。ミンチに変えろって。

 

「いやだ……!」

 

 朝日が横たえた彼女を照らし出す。

 純白のキャミソールが鮮血を吸い上げて真っ赤に染まっていく。

 破けた腰元から醜悪な肉鞭が飛び出して躍り、次の獲物を探して虚空を貫く。

 青白い顔。長い睫毛の下から垣間見える爛々と輝く瞳。開いた瞳孔が映し出した死の深淵の途方もなさ。

 日和ったままのぼくに、暴れる触手の一本が突っ込んでくる。

 

「がッ……!」

 

 腹に強烈な痛みが走り、重力が一瞬ぼくを手放して宙に放り出す。

 壁に叩きつけられて、肺から空気が抜け出すのを感じた。涙が目尻に滲んでくる。

 

「お姉さん……」

 

 酸欠に喘ぐぼくの前で、デバイスを持った触手が揺れる。

 そんなことをしても無駄だ……気弱に言い張る意思とは別にぼくの身体は勝手に動き出す。

 

「な……で……っ!」

 

 生まれたての子鹿くらい笑う膝と、立たない腰で、ぼくは不格好にその場に立ち上がる。

 ゆっくりと伸びる腕は、引き止めようとしてもどうにも止まらない。自分のものではなくなったみたいに、冷え冷えした繰り糸がデバイスへと導いていく。

 

「やだよ……!」

 

 強化プラスチックのフレームが指先に吸い付いた。

 こんなときにだけ、ぼくらは惹かれ合ってそれぞれを必要としていた。後は引き金を絞る処刑人と、獲物を絶命させるギロチンが一体となるだけだった。

 最後のひと押しをしてくれるのはその獲物自身だった。黒ずんだ緋色の肉塊は、なけなしの理性を振り絞って器具を手渡してくれた。弱々しい力がデバイス越しに掌に重なる。

 人差し指はトリガガードを支えにして、命令を待っていた。

 

「ごめん、なさい。わがままばっ、か、で」

 

 生体認証を終えたプログラムがFCSを起動して、緊急モードでバレルが展開される。

 透明な銃身がぼくと彼女の間にある距離を焦がし、甘い少女の香りが死血と硝煙の臭いで上書きされていく。

 指がトリガにかかる。

 ぼくは既に、自意識の不覚に陥っていた。ぼくは誰だ? 少女の同居人か? 不動産屋に勤めるしがないOLか?

 違う。

 耳元で誰かが囁く。

 ぼくは駆除員だ。寄生体を排除する。たったそれしか生きる意義がない、哀れなオペレータなのだ。

 任務を遂行するためならば、愛する人とて迷いなく殺害する。

 

「ぼ、くは」

 

 化け物。

 母親の唇がワードを形作った。

 

「さよなら、お姉さん」

 

 空間が歪みを生ずる。熱風と紫電が巻き起こる。

 最期の須臾の間。花笑がきれいに笑った。

 トリガが最奥のブレーキに当たる瞬間。

 ぼくの下腹で、しっかりとそれは胎動した。

 胎動し、隆起し、収束し、突出し。

 

「ぇあ」

 

 プラズマの弾丸より早く、ぼくのおなかから産声を上げて飛び出した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ぼくは病室に居た。

 天井から吊られた剥き出しのカーテンレールに沿い、ミントグリーンの不健康そうなパーティションが揺れている。

 傍に空気清浄機があった。業務用の大型機種だ。

 消毒液の臭いがつんと鼻の奥を刺激する。リノリウムの床材が鈍く日光に反射していた。

 病室全体が薄暗かった。間仕切りのせいもあるし、真昼の白日が斜めに差し込んでいるためでもある。

 窓の外は雲ひとつない青空が広がっていて、どこまでも果てしなく続いていた。遮るものは何もない。ビルも、アパートも、鉄塔も、街も、人も、車もすべてなかった。地平線はおろか、建物の足元に地面も見えなかった。

 まるで、病室が宙に浮かんでいるようだった。

 ぼくは目の前のベッドに目をやった。周りのベッドにはすべてパーティションが引かれていて、中までは覗けなかった。

 ベッドには、ぼくの母親が眠っていた。

 嫌悪感が胃の上をちりちりと苛む。同時に小さな違和感を覚えた。

 答えはすぐに出た。母の姿が異常に若々しかったからだ。具体的には、ぼくが小学生くらいの頃。

 よくよく考えると、ぼくの背も縮んでいた。明らかに目線は低いし、爪は丸くつやつやしていて、体毛は全くといっていいほど生えてきていない。

 いつも夢に見るトラウマかと思ったが、どうもそれも違うように感じた。視界に映る物体ひとつひとつにリアリティがないし、逆に臨場感はいつにもまして鮮烈だった。

 なにより母が起きる気配が一向にない。彼女は穏やかな面持ちですやすやと眠ったままだ。

 ぼくが当惑して立ち尽くしていると、隣に人影が伸びていることに気がついた。

 ぼくは慌てて振り返る。

 そこには、ぼくが佇んでいた。

 いや、そうじゃない。ぼくなら分かるはずだ。幼少期のぼくと瓜二つで、ぼくのすぐ後に取り上げられた姉弟のこと。

 彼(・)は間違いなく、ぼくの双子の弟だった。

 

「爾(ミツル)」

 

 彼はぼくの名を呼んだ。ぼくもまた、応えて彼の名を呼ぶ。

 

「莞(フトシ)?」ぼくはそう言ったつもりで、しかし己の声は聞こえなかった。

 

「今更だけど、お別れを言いに来たよ」

 

 感情が乗っていない声で彼は続ける。昔からそうだ。彼は心を表に出さなかった。大方無表情だったし、自分から喋りかけてくることもめったになかった。周りの子や、大人たちには不気味がられることもあったが、ぼくは彼の凪いだ海面みたいな佇まいが好きだった。

 

「ぼくもきみが好きだった……といっても、残滓の身のぼくが言ったって嬉しくはないと思うけどね」

 

 珍しく彼が皮肉げに笑う。

 なぜか彼の手の中にはデバイスがあって、それを興味深げに撫でてみせた。

 

「幼少期の終わりが来たんだ……ぼくはぼくという殻を破って、きみという母胎に溶けた。これは孵化だね。贄との交わりが、眠ったままだったぼくを呼び起こした……そんなところ」

 

 年齢と乖離した難解な語り口。意味不明な言葉の羅列が紡がれる。ぼくの困惑は深まるばかりで、莞はそんなぼくに自虐的な眼差しを向けて苦笑した。

 

「まあ、大したことじゃないからさ……ぼくは、きみという母親に別れと礼を告げていく。ゆりかごの器をくれたこと、ぼくという定義をくれたこと。あとひとつ、化け物ときみを呼ばせたこと。それを謝りたかった」

 

 それだけ言い切ってしまうと、彼の顔つきはいつもの無表情に戻る。

 それから、幼い手がぼくの額に伸びてきて、そっとまぶたを降ろさせた。

 ぼくは抵抗することもなく、黙って湧き上がる微睡みに身を委ねる。

 

「それじゃ、オペレータ」

 

 インカムもないのに、デバイスのシステムアナウンスが響いてきた。

 

[TARGET:ELIMINATED MODE:STAND-BY]

[警告:寄生体反応の消滅を確認〈EBD〉 待機モードへ移行〈FCS〉]

 

 

 

 ◇

 

 

 

 甘い、花の香りがする。

 幸せで、寂しげで、物悲しくて、かけがえがない。そんな儚くて、愛おしい花の匂い。

 降り注ぐ光の中から、誰かがわたしの名前を呼ぶ。

 

「起きてください、お姉さん」

 

 

 

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。