──大正二十年、如月某日。
「…………」
布団から身を起こし、脱いだ衣服を身に纏う少年。彼は若くして十四代目葛葉ライドウの名を継いだデビルサマナー(悪魔召喚士)だ。
「……ん、ライドウさん……?」
眠い目を擦る馴染みの遊女に彼は、『起こしてしまってすまない』と、遊郭を後にした。
* * *
「錠平。あまり小言を言いたくはないが……学生が廓遊びとは感心せぬな」
ライドウのお目付け役兼補佐の黒猫、ゴウト(業斗童子)が翠玉の瞳で自身の相棒をチラリと見遣る。彼は猫の姿をしているが、その正体は葛葉一派の禁忌を犯した人間である。
「……分かっている」
先程ライドウが枕を共にした遊女は、かつて遊郭で起きた悲しい事件の関係者である。
彼女は事件の終わりに、『もしいつかこの店においでになることがあれば、この菊水をご贔屓に』と言った。
そして事件の解決に一躍買ってくれた同僚には、『不幸な身の上など珍しくもない話。それでも助けたいなら店に金でも落としてやれ』と言われ、その言葉が胸に刺さったライドウは、彼女の許に通うようになったのだ。
「今や菊水は、引く手数多の看板女郎。うぬが顔を出す必要はあるまい」
「……ああ」
──寅の刻ではあるが、冬の朝なのでまだ薄暗い。
ライドウは雪明かりを頼りに駅まで歩き、始発に乗って筑土町まで戻った。
そして、自身が所属している組織──超國家機関ヤタガラスの命により、身を寄せている鳴海探偵事務所の扉を静かに開いた。
「こら、不良少年」
白いスーツ姿の男が、ライドウの朝帰りを窘める。とは言え彼の帰宅時間も、似たり寄ったりなものだろう。寝巻に着替えてはいないし、顔が赤く、酒の匂いをプンプンさせている。
「……なんてな。ま、硬いことは言わないけど、その代わり昼間ちょっと頼まれてくれる?」
『オカルト専門』の看板を掲げている鳴海探偵事務所は基本、通常の事件はお断りしている。だが意外と人情派な鳴海は、街の人に頼まれると嫌とは言えず、結局依頼を引き受けてしまうのであった。
「幸い、今はデビルサマナーの仕事は入ってないみたいだし……いいだろ? ライドウ」
ライドウはまだ学生だ。故に本業の予定が入っていないのであれば、高等師範学校に顔を出すべきなのだが……鳴海以上にお人好しなライドウは、彼に頷きを返した。
「おお、ライドウ! お前ならきっと引き受けてくれると信じてたよ! じゃ、起きたらでいいからさ。さっそく豆腐屋のリリーちゃん探しを頼むな」
言い終えて鳴海は欠伸を噛み殺し、自室へと去って行った。
リリーちゃんとは、豆腐屋の女将が我が子のように可愛がっている、白い長毛種の猫だ。名前こそ可愛らしいが、この辺りのボス猫で、家出の常習犯だったりする。
ライドウは少し仮眠を取った後、その猫を探しに行くことにした。
* * *
昼前に起き、ゴウトと共にリリーちゃんを探しに出たライドウ。
煮干し片手に、街をうろつく。だが頼みの綱は、餌よりゴウトの鼻だろう。犬ほどではないが、猫の嗅覚も充分優れているのだ。
「……この辺り、強く匂うな。リリーとやら、よく来ているのではないか?」
などと言いながら鼻を鳴らして歩くゴウトの目に、ふわりと白く、チラつくものがある。
「……むっ!?」
探し人ならぬ、探し猫を目前にして、捕まえるべく飛び掛かるゴウト。しかしその手に触れた感触は、柔らかな毛ではなく、もちっとした柔肌であった。
「きゃあっ!?」
「うおっ!?」
女性の悲鳴と共にゴウトの驚きの声が上がる。直後、女性はその場で尻餅をついてしまい、ゴウトは地面に着地した。つまり女性はゴウトに飛び掛かられ、転んだ形だ。
「……いたた」
ツラそうに眉を寄せる女性の頬に、ゴウトの爪痕がくっきりと浮いている。それを見て彼の相棒であるライドウが、慌てて謝罪する。
「すみません……!」
「す、すまぬ……!」
女性に怪我を負わせた当人であるゴウトも即座に詫びるが、彼の言葉は普通の人間には通じない。『ニャー』と聞こえるだけだ。
「……! ああ、いえ……どうかお気になさらずに。大丈夫ですわ」
女性はライドウを見て一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐさま立ち上がり、その場を離れようとした。
だが、怪我をさせてしまったのだ。当然このまま帰せるはずもなく、ライドウは去ろうとする彼女を説得し、治療するためにと探偵事務所に連れ帰った。
* * *
「本当にすみません……! ああ、なんてことだ! 美しい顔(かんばせ)に、爪痕が深々と……!」
事務所に戻ると、美人に弱い鳴海が事情を知るなり女性の手を取り大仰に嘆いて見せた。
「傷が残ったところで、誰も困りはしませんわ。それにお化粧で隠せますし」
そう笑って返す女性はしっとりとした色気があり、そして白鼠色に雪華紋の江戸小紋。濃藍色の洒落袋帯を巻き、長羽織りを細肩にと上品な装いの中に、レースの半襟を合わせてと、とても洒落ている。
故に、どこぞの高貴な奥方かと思われたが、『その物言いから察するに、彼女は未婚なのだろうか』と鳴海が考えていると、女性が思いもよらぬ話を持ち掛けてきた。
「あの、もし気に掛けて下さるようでしたら……よろしければ仕事のお手伝いをさせていただけませんでしょうか」
「……仕事の手伝い、ですか?」
「ええ。探偵のお仕事とはどんなものなのか、とても興味がありまして。……とは言え帝都に滞在中でのこと。そう長い期間ではありませんが」
(……ふむ、短い間か)
今現在、危険な仕事の予定は入っていない。街の人に頼まれた、気軽に取り掛かれるような、簡単な仕事だけだ。それでも普段であれば『素人の手出しは無用』と断りを入れただろうが、今回は怪我をさせたという負い目がある。そのため鳴海は、彼女の申し出を受けることにした。
「分かりました。ですが、常に依頼が入っているわけではないということを、ご理解ください」
そう『仕事がない時もあるのだ』と、逃げを打っておく。これなら猫探しやお使いといった、子供のお手伝い程度の安全な仕事だけを頼むことが出来るだろう。
そんな鳴海の胸の内など知るはずもなく、女性は『ありがとうございます』と嬉しげに双眸を細めた。そして『遅まきながら』と名を明かす。
「わたくし、千葉雪と申します。よろしくお願いしますね」
「雪さん……綺麗な名前ですね。俺のことはどうぞ、鳴海と呼んで下さい。そしてこちらの書生はライドウ。仕事は基本、彼の手伝いをお願いすることになるかと思います。それと、猫のゴウトちゃん。彼はライドウの相棒なんですよ」
「分かりました。ライドウ様、ゴウトちゃん。よろしくご指導くださいませ」
雪という女性に深々とお辞儀され、ライドウも礼を返す。ゴウトは険しい顔で、ジッと雪のことを凝視していた。
「…………」
あまりに険相たる面持ちで雪を見詰めているため、どうしたのかと不思議に思い、ライドウは首を傾げた。
「……ゴウト?」
「……後で、話してやる」
ゴウトのその言葉にライドウは頷き、了承の意を返した。そんな重苦しい空気を払拭するかのように、鳴海は明るい声をあげて、まだ日も高いと言うのに、雪を連れて銀座へと繰り出した。
「では雪さん。今日は仕事の打ち合わせということで、飲みに出掛けましょう!」
「えっ? あ、あの……はいっ、お供させていただきます……!」
慌ただしく去り行く二人を見送った後、ゴウトは口を開いた。
「昼間から酒とは、呆れたものだ……と言いたいところだが、今日のところはお手柄だと誉めてやろう。うぬに彼女の話をせねばならぬのでな」
ゴウトが尻尾をゆらりと揺らし、ライドウとの距離を詰める。そして話しを続けた。
「先程の出会いだが、偶然でない可能性がある」
「……と言うと?」
「うぬも気付いているだろうが、彼女の霊力は極めて高い」
「ダークサマナーかもしれないと?」
「分からぬ……が、用心に越したことはないだろう」
「同業者では?」
「可能性は低いな。帝都は錠平、うぬが任されている。もし加勢が必要な事態であれば、ヤタガラスから沙汰があるはずだ」
超國家機関ヤタガラスとは、陰陽師や巫蟲師といった、いわゆる異能者を統率し、国家の防衛のため陰で動く秘密組織である。ライドウはその機関に所属している、悪魔召喚士──デビルサマナーだ。
「成程。だが、ぶつかったのはこちらだし、やはり偶然では?」
「勿論、気にしすぎということもあるだろう。それに、霊力の高い人間の全てがデビルサマナーの職に就くわけではないしな。霊媒師、預言者、イタコ、他には……繁殖という用途もあるか」
「繁殖?」
「うむ。霊力継承のためのな。ようは、より強い遺伝子を残すための交配だ」
「より強い遺伝子……」
「ああ、例えばうぬが彼女との間に子を成せば、後の帝都も安泰であろうな……とは軽口が過ぎたか。すまぬ」
「……いや」
「まぁ当然のことながら、只人として生きる者もいる。だが相手の目的や素性が明らかになるまでは、警戒するに越したことはないだろう」
その言葉にライドウは、どこか上の空で頷いた。
* * *
夜になり、ぐでんぐでんに酔っぱらった鳴海を、雪が連れ帰った。
「大丈夫ですか? 鳴海様」
「あぁ……すみませんねぇ、ご迷惑おかけして……。ヒック……! らいろぉ、たらいま~!」
「すみません、ライドウ様。飲ませすぎてしまったみたいで……」
鳴海をソファーに座らせ、申し訳なさげに眉を下げる雪。彼女は酒に強いのか、あまり酔いが回っていないようだ。
「いえ、それよりもう夜遅い。宿泊先までお送りしましょう」
「ありがとうございます。ですがどうか、鳴海様のお傍に。……おやすみなさい、ライドウ様。ゴウトちゃん」
お辞儀をし、雪は去って行った。
「…………」
断られはしたが『女性に夜道を一人で歩かせるなんて』と、その背を追おうかとしていると、鳴海が『うぅぅ……水ぅ……』と苦しげな声をあげたので、ライドウは自分の代わりにジャックフロストに彼女を送らせることにした。
「ジャックフロスト、彼女の護衛を頼む」
「ヒーホー! オイラに任せるホー」
管から飛び出し、雪だるまの悪魔は探偵事務所を後にした。
「ら……らいろぉぉぉ……水ぅぅ……、早くぅぅぅ……」
ソファーで横になり、喉の潤いを求めて手を伸ばす鳴海にライドウは、グラスと共に胃腸薬を手渡した。
「き、気が利くぅぅ……」
身を起こし、勢いよく水で胃薬を流し込む鳴海。彼はしばらくすると、『フー……』と長い息を吐いた。
「あー……、生き返った……」
本人はそう言っているが顔色はまだ悪く、ゾンビみたいだ。それを見てゴウトは眉間に皺を寄せたが、ライドウは床に就くよう勧めた。
「もう寝たほうがいいですよ」
「おぉ……ライドウは優しいねぇ……。だが、ま。先に報告だけでも」
「報告?」
「……ああ、雪さんのこと。色々聞いてきた」
「……!」
「彼女、帝都には先祖の墓参りに来たんだって。そのついでに観光しようということで、東京ステーションホテルに泊まっているらしい。……でな? ここからが大事な話だ」
薬が効いてきたのか、すっかり血色が良くなった鳴海が真剣な面持ちになる。その緊張感が伝わり、ライドウは姿勢を正す。
「彼女さ、独り身なんだって! いやぁ、まぁ年の頃からして早くに亭主を亡くしたとかかもしれないけどさ。これってまぁ、ラッキーだよね?」
目尻を下げて話す鳴海の脇腹目掛けて、ゴウトが突進した。
「ぐふぅ……っ!? ゴ、ゴウトちゃ……──」
最後までは言葉にならず、鳴海はその場に倒れ伏した。今日はもう起きないだろうと思い、ライドウは彼に毛布を掛けてやった。
「まったく、珍しく仕事をしてきたかと思えばすぐこれだ」
ライドウは『まぁまぁ』と執り成し、ジャックフロストの帰りを待った。
* * *
「ヒーホー!」
勢いよく事務所のドアが開くと共に、元気よく手を挙げながらジャックフロストが部屋に入ってきた。よく見るとその手には、ミルクキャラメルの箱が握られている。
「お帰り、ジャックフロスト。彼女は?」
「無事に送り届けたホー」
「それは良かった。……で、その菓子はどうした?」
「お見送りのご褒美にもらったホー。ライドウにも一粒あげるホー」
『ありがとう』と受け取ったライドウだが、その表情は硬い。
「悪魔に菓子を渡すとは……錠平。彼女、視えているな」
「……ああ」
「警戒を怠るでないぞ」
「……分かっている」
頷き、もらった菓子を口に入れる。……甘いはずのキャラメルは、どこか少し苦かった。