「ただいま」
「おかえり~」
父さんはまだ帰ってないようだ。
「葵、なんかあった?」
「何って……何が?」
自宅に帰ると玄関まで出てきた母さんが話しかけてきた。
胸を持ち上げる様に腕組みをして立つ姿は、モデルとかグラビアアイドルを見ているようで、いい歳しているのに一々女を感じさせる。
サキュバスなので仕方がないことだが、母親なので気持ち悪い。
同時にその血を引く俺も同じようにみられてるんだと思い知らされる。
俺の胸もまだ大きくなるんだとか……
今でも走る時に痛いのに、これ以上大きくなると考えただけでゾっとする。
切り落としてしまえればどんなに楽か。
「なんか元気なさそうだけど」
「何でもねぇよ」
母さんの視線がチラリと俺の手の方に移った。
素手で人を殴ったばかりの拳は、少し痛みがあり腫れてるかもしれない。
この瞬間まで拳のことは特に気にしていなかったため、腫れているのかどうかは自分の目で確認していない。
「ふ~ん……」
そんな俺に母さんは目を細めながらそう言うだけだった。
殴ったのは事実で、こうして視線を向けられるという事は、多分母さんは誰かを殴った事を勘づいているんだろう。
だけど言及してこないのならわざわざ俺から何か言う必要はないか。
「柚斗君の試合どうだった?」
俺の心配は杞憂で本当に気付いていないのか、あえて触れないことにしたのかはわからないが、拳の事は特に触れずに話題が柚斗の話に移る。
今日柚斗の試合を見に行くことは母さんに言っていたため結果が気になるんだろう。
「頑張ってたよ」
もちろん試合を見ておらず、結果も確認していない俺は曖昧な返事しかできない。
「勝ったの?」
「……いや……最後まで見てない……」
「ふ~ん……」
何か言いたげだが母さんはまたそう言うだけだった。
このことに関しては自分自身なぜそうしたのか言葉にできる自信がない。
だから俺は詳しく聞かれたくなくて、母さんが何か言う前に靴を脱いで母さんの横を通り過ぎ、自分の部屋へと入った。
母さんが何かを言っていた気がするが、それは扉を閉めるのと同時で、俺の耳には入ってこなかった。
部屋に入ってすぐベッドに倒れ込んでからかなりの時間が経った。
人を殴った興奮からなのか、全く眠くならない。
ずっしり体が重くてベットから起きる気もしないのに不思議な話だ。
単純に生理な上、性的にも物理的にも腹が減っているからかもしれないが。
この静かな部屋で唯一の騒音である時計のカチコチという針の音が妙に耳に刺さる。
普段は気にならないのに五月蠅くてイライラしてきた。
もはや寝られないのは時計の音のせいなのかとすら思ってしまう。
そしていい加減寝るのはあきらめて、起きて何かするかと思い始めたころだ。
ブルルとポケットが震えた。
俺は帰ってきてからずっとズボンのポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出す。
暗闇になれた目にスマホの光が眩しくて顔を背けてなれるのを少し待つ。
目を細めながらスマホの画面を確認するとメッセージの通知だったようだ。
『僕の試合どうだった?』
柚斗からだ。
メッセージと共に表示された時刻は02:15。
『見てない』
一瞬躊躇したが、俺は正直に答えた。
『今から公園来れる?』
『何時だと思ってんだよ』
『起きてたしいいじゃん』
『何の用だよ』
『話がある』
帰ってきて着替えもせずにベッドに倒れ込んだため、直ぐに外に出られる。
初試合を見なかった負い目があるし、どうせ寝られなかった。
『わかった』
そうメッセージを送ると俺はベッドから身を起こした。
部屋を出るとリビングの椅子に座った母さんが一人グラス傾けていた。
母さんがこんな時間に出かけるなんて許してくれるはずがない。
これでなかなか門限には厳しい親だ。
どう言い訳しようか。一度部屋に戻って寝るのを待つか。
やっぱり諦めるか。そんな事を想っていると、
「いってらっしゃ~い」
母さんは手を振る様にグラスを揺らしてカラカラと氷を鳴らした。
「え?」
「……」
意外な第一声に俺は思わず声が出てしまったが、母さんはそれ以上何も言わない。
「いってきます」
俺は不思議に思いつつも、外へ出た。
「よっ」
公園に着いた。
大人しい柚斗にしては軽い挨拶だ。
試合は激しく打たれたんだろう。痛々しい程に顔を腫らしているが、その声音も表情もどこか晴れやかだ。
「なんだよ……こんな時間に話って」
「なんか寝れなくて……葵起きてるみたいだったし話そうかなって」
「話なんてわざわざこんな時間に会わなくてもできるだろうが」
「そうだね。僕何してんだろうね」
柚斗がははっと笑った。
「試合勝ったよ」
「おう……おめでとう」
気まずくてまるで祝っていないかのような口調になってしまう。
柚斗が勝ったことは嬉しい。よかったと思う。
その気持ちは確かにあるというのに、どこにあるのかわからない。
他に色んな物がありすぎて埋もれている。
「試合見てなかったんだ」
「……ああ」
「どうりで見当たらない訳だ」
そんな俺とは対照的に、体の関係と共にギクシャクする前の親友だったころかのように柚斗は明るく話す。
「用件は?」
もう会話を打ち切りたい。
そう思った俺は、柚斗に本題を話すように念を押した。
「僕さ、もう葵はいないし、ボクシングやめようと思ってたんだよ。痛いの嫌いだし、人を殴るのも好きじゃないし」
何が言いたいんだ?
「でも実際、今日初めて試合して、なんかすっきりしたんだよね。難しく考えているだけで世の中もっとシンプルだって」
要点がわからない話を続けられると、試合後ということもあり柚斗が心配になってくる。
「痛いとか、殴ったら可哀そうとか、相手からしたらそんなの知ったことじゃない。そんなの百も承知でリングに上がって来ている」
「何が言いたいんだよ」
病院に連れて行くべきだろうか?
そう思いながら柚斗の言葉を切り、再び何の用か問う。
すると柚斗は何かを言おうとして口籠り、言いづらそうにしたかと思うと、意を決したようにこちらを向き、口を大きく開いた。
「葵、いつまで彼女に振られたことでウジウジしてるんだよ。女々しいんだよ」
一瞬、時間が止まった気がした。
柚斗が何を言っているのか理解できなかった。
「……喧嘩売ってんのか?」
ずっと腹の底で溜めていた苛立ちの蓋が割れていくのを感じる。
「ボクシング辞めさせられたの僕のせいじゃないのに僕に当たるなよ」
こっちはお前の頭の心配をしてんだぞ?
いや頭がおかしくなったからこんなこと言ってんのか?
「自分から襲っといて女として見るなって無理あるんだよ」
「っ!」
ブチっと何かが俺の中の何かが千切れた。
気付いた時には俺は柚斗の試合で腫らした頬を殴っていた。
俺の拳に合わせて柚斗の顔が横を向く、だが柚斗の目は見開かれたままで、こちらを見ていた。
朝から股から血を出してイライラする俺と違い、柚斗の目からは殴られたことによる感情の起伏は見られない。
怯えも、失望も、何も見えない。
まるで殴られるのが分かっていたかのように、試合かのように。
「いいよ。やろうよ」
「は?」
そう柚斗は買い言葉を言いながら、酷く見覚えのある袋をこちらに投げてよこした。
その袋がここにあることを理解できず、間抜けな声が出てしまう。
「なんでこれをお前が持ってるんだよ……」
「さっき葵のお母さんに借りた」
「はぁ……」
それは俺のボクシンググローブの入った袋だった。
ボクシングを辞めさせられたあの日、家の玄関で床に投げつけてほったらかしにしていた。
暫くは玄関の床に放置されていたが、いつの間にか消えていたので母さんが拾ってどこかにしまっていたんだろう。
俺がベッドに倒れ込んでいる間に柚斗は家を訪れ、このグローブを受け取っていたらしい。
「後悔すんなよ」
この用意周到さ、頭は別の意味でおかしいが大丈夫だろう。
俺は袋から取り出したマウスピースを口にいれ、グローブをはめた。
俺は地面に倒れ、夜空を眺めていた。
都会とはいえないが、田舎でもない中途半端なこの町の公園から見える星は限られていて、満点の星空とはいかない。
「生きてる?」
「……生きてるよ」
柚斗が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「満足か?」
俺を見下して。
全く歯が立たなかった。
俺が辞める前、練習で見た時とはまるで別物。
柚斗の拳は俺なんかとは比べ物にならない程、鋭くて重かった。
俺が数発当てても、一発で全てひっくり返される。
俺が辞めさせられた理由の一つである頭の山羊のようなねじれた角、今では寝返りも容易にはできないくらい大きくなっている。
柚斗は相手の拳が危険だと言われたこの角に、拳が当たってもお構いなしに殴り飛ばしてくる。
苦し紛れにこの憎たらしい角を使って頭突きをしたが、柚斗は血を流しながらも純粋にボクシングだけで俺をダウンさせた。
悲しいくらいの圧倒的な階級差と、男女差だった。
この一方的なボクシングともいえない喧嘩の勝者、柚斗は俺の意識があることを確認すると横に座り込んだ。
「ごめん。僕は葵を女扱いしてた」
「……んだよ……」
それが俺をボコボコにしておいて言う事か。
この後犯す気か?
「ボクシングの試合さ、葵に辞めるなって言われたからせめて最後にはやらないとって思ったんだ。
それで実際に試合してみて想像以上に苦しいし痛かった……なんで僕ばっかりこんな思いしなくちゃいけないんだろうって思ったよ……」
それもいいか。
俺みたいな男にも女にもなれず、人を傷つけてばっかりな糞サキュバスにはお似合いだ。
「でももう少し続けてみることにした」
どうせサキュバスなんてビッチになるか風俗に行くしかないんだ。
母さんみたいに上手く相手を見つけて幸せに暮らすなんて、こんな風に生まれた俺ができるはずがない。
「僕は葵の事が好きだ。異性として」
まあ知らない奴に輪姦されないだけましか。
柚斗は俺の事が好きらしいし。
気付かないふりしてただけでわかってたけど。
「でもそれ以上に友達でいたい。親友でいたい」
告白したくせに?
「僕は女の子を殴れないけど……葵は殴れるよ」
◇
柚斗と初めてセックスした日のことだ。
雨でずぶ濡れになりながら帰宅した俺に母さんが話しかけてきた。
「最近柚斗君も律ちゃんも来ないけど何かあった?」
「関係ないだろ」
「律ちゃんと別れた? 柚斗君との関係でもバレたの?」
「……」
「なるほどね」
得心が言ったという風に母さんが頷いた。
「ま、仕方ないわね。さっさと次の恋見つけなさいな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の何かが切れた。
自暴自棄になってたんだろう。
「お前のせいだろうが!」
そしてすぐに後悔した。
育ててくれた、産んでくれた母に絶対言ってはいけない言葉だ。
「ごめんね」
母さんは俺が謝る暇もなく、そう口にした。
「ごめんね。私が子供作ったら……きっと苦労させるのはわかってたんだけどね」
「あ……いや……」
サキュバスと人間の男の間に産まれるのは女ならサキュバス、男なら人間だ。
インキュバスと人間の女の間ならその逆。
「父さんとの子供……どうしても欲しかったの。私のエゴのせいで苦労したよね」
「……ごめん」
謝る俺を母さんは、いいのよと言いながら寂しそうに笑った。
母さんにそう言われ、悲しいのは母さんなのに涙が零れた。
そんな俺の肩に母さんは手を置いて言葉を続ける。
「でもね」
「産まれた以上生きるしかないの」
「私たちは男がいないと生きていけない」
「汚いと言われようが、臭いと言われようが」
「普通の生活を諦めて風俗で働くサキュバスも珍しくない。そこら辺の男に股を開いて、いざ好きな人ができても都合のいい女として扱われる事もよく聞く話」
「幸い、私はお父さんと出会えた」
「柚斗君に添い遂げろとは言わない。あんたが女を好きなのは知ってる。でも男が必要なのはわかってるでしょ」
「あんたが辛かろうが悲しかろうが、あんたには生きてほしい」
「なんだよそれ……」
「親としてのエゴよ」
慰めているのか、諭しているのか。
母さんの言葉にどういう感情で向き合っていいかわからない。
でも俺とは違って、普通のサキュバスとして生まれた母さんも想像を絶するような苦労をして生きてきた。
そんな当たり前のことだけはわかった。
「というわけで葵! 出かけるわよ!」
「はぁ? どこに?」
「いいから! 久しぶりに二人でご飯食べにいこ!」
「いまから?」
「いいから黙って来い!」
そして連れてこられれたのはシャッター街になりつつある商店街の一角。
「あらぁ♡ 久しぶりじゃなぁい♡ 今日は旦那はいないみたいね?」
「ママ久しぶり~」
「え……」
自分の母がママと呼んだ相手、それは女というには余りのもガタイが良く、声が野太い、あまりにも男にしかみえないドレスを着て化粧をした男だった。
テレビでしか見たことのない水商売らしいドレスの胸元は平坦……いや逞しい胸板で膨らんでいる。
「何……ここ……」
「何っておかまバーよ」
おかまバーだった。
「これ、私の息子」
「あんたに似てすっごい美人さんじゃない! 心が男の子なんだって?」
美人と言われてモヤっとする間もなく、出されたコップに入ったコーラに刺さったストローがまた強烈だ。
プラスチック製のストローの飲み口の方に、丸い球が二つぶら下がっている。どうみても金玉を模したストローだ。
「この子最近彼女に振られちゃったみたいでね……」
「あらぁそれは可哀そうにぃ……」
「え? いつ振られたの?」
「なになにどうしたの?」
ソファに座る俺の傍に集まり出す彼(彼女?)達。
そんな俺を元気づけるためか、バーは失恋話大会になった。
「好きな人とはどうなったんですか?」
「告白して玉砕! 気持ち悪いとか言われて散々だったわよ!」
「そのあとどうしたんですか?」
「何も。私が傷ついて終わり! ……ああ……思い出しただけで腹立ってきたわ」
だとか。
「その男、私と付き合ってた癖にやっぱり女がいいって乗り換えやがったの!」
だとか。
出るわ出るわ失恋話。
「アンタは何で振られたの?」
「言いたく……ないです……」
「何? 人の失恋話聞いといて自分はだんまりする気?」
「勝手に話したんじゃ……」
しばらくしたら元ヤクザが街で暴れるゲームで見た古そうな機械で、カラオケをすることになり……
「ほら歌いなさい!」
「いや……俺は……」
「うるさいわねぇ! 男は度胸だろうが! 心に金玉ついてんだろ!」
店を出るころにはもう町から明かりは消えていた。
「疲れた……」
おかまバーの人たちはどう見ても親より年上なのにとんでもないエネルギーだった。
「ふぅ……」
ベッドに仰向けに倒れ込むと、疲れた体がベッドにどこまでも沈み込んでいくような感覚に襲わて自然と息が漏れる。
自分がオカマだろうがなんだろうが、普通の会社に入って働くことは当然できる。
実際、自分を隠して働いている人も、オープンにして働いている人もいるんだろう。
あの店にいる人たちは、そういう社会にはなじめなかった人なのだろうか。
勿論暗い理由なんて何一つなくて、ただ楽しいからあの店で働いている可能性もある。
でもまだ社会をを知らず、人生経験の少ない俺には想像することも難しい。
ベッドに寝ころびながら反芻する。
『最初に言ってほしかったかな……』
律。
『ごめんね。私が子供作ったら……きっと苦労させるのはわかってた』
母さん。
『葵と友達になってからだよ。僕の人生が楽しくなったのは……』
柚斗。
◇
「僕は女の子を殴れないけど……葵は殴れるよ」
でも気付かないふりをしていたいくらい。
「そうか……」
俺も友達でいたい。
そのことに気付いた俺は、
「俺が……子供なだけじゃん……」
恥ずかしくなって腕で目を覆った。