泡沫の花屋 作:濡れ鴉
雪解けに春の優しい日差しが入り、やっと厳しい寒さから解放され、暖かな陽気となってきた頃。
奥間には、豪華絢爛な七段の雛人形が飾られていて、よく手入れされてはいるが少し古びた感じだ。ただ雛人形の下に敷かれている毛氈(もうせん)はやけに赤々と鮮明で恐ろしいくらい美しい。
綴はその雛人形の前で礼儀正しく膝の上に両手を乗せ正座していて、最上段の右側に置かれている女雛を見上げてじっと見ている。その視線は懐かしんでいるようにも、どこか悲しんでるようにも見える。
ちりーん
「野暮ですね...」
いつも通りの薄笑いはなく、心底そう思った、というように呟いてやれやれというようにゆるりと立ち上がる。
「十二、咲けば、ひと月始まり、十二回れば、夢も現(うつつ)。白も、赤に染まりましょう。私の夢も、その時、叶う。叶えましょう、与えましょう、貴方の夢は、真は、何処?さぁ、お客様をお迎えしないと...」
ふと窓から見えた庭には、二輪の椿が陽に照らされて真っ赤に生き生きと咲き誇っている。
それが目に入った瞬間、綴は嬉しそうに顔を綻ばす。
「行ってきますね、八重さん」
その椿が八重かというように、綴は優しく語り掛けるとその場を後にした。
「いらっしゃいませ」
綴は、鼠色のゴワゴワのパーカーのフードを顔半分まで深く被った、両手をパーカーのポッケに突っ込み背を丸めビクビクと怯えた小柄な男に声を掛ける。男はビクッと身体を震わせて、恐る恐る綴の方へ視線を上げる。
「何を、お求めですか?」
綴は優しく微笑んで、男に尋ねる。
「え?...あ、え、っと...ここは何処ですか?」
「此処ですか?此処は、夢と現の狭間。貴方様は、夢を見ているとでも思って下さって、結構ですよ」
「...夢...」
男はそう呟きながら、視線を落として地面へ向ければ、ボロボロの褪せた藍色のジーンズが見え、泥だらけの白いスニーカーに目が止まる。
「あ...あのぉ〜...僕は、どうして此処へ?...確か...えーと...あれ?」
「...立ち話もなんですから、奥の部屋どうぞ。お茶でも飲んで一息入れてから、考えるのも宜しいかと思いますよ?さぁ、どうぞ」
男はビクビクしながらも綴の射抜くような視線に断れず、コクリと小さく頷くと綴に通されるまま中へと入る。
カラカラカラと戸が閉まると、ぶわぁっとむせ返るような花の匂いに、男は少し咳き込む。
ちらっと、バケツに入った桔梗の花が目に入ったがそのまますぐに視線を外す。
そのまま進んで、奥の畳の部屋。ここへと江戸火鉢の横へ案内されても、キョロキョロと落ち着かない様子の男を横目でチラリ、綴は口元を手で隠してクスっと小さく笑う。
「大丈夫ですよ。何も恐ろしい場所ではないですし...単なるしがない花屋とでも、思って頂ければ...そうそう、お茶でしたね」
火鉢がパチパチと鳴って、五徳の上の鉄瓶から霧のような薄い湯気が出ている。手際よく茶の用意をした綴は、茶托に乗ったほんわか湯気に立つ茶碗を男の方へと差し出す。
「春に入ったと言っても、まだ少し肌寒いですから...温まりますよ。どうぞ」
「あ、はぁ...い、頂きます」
綴が更にすっと少し差し出したので、男は断りきれずに茶碗を手に取って少し躊躇った後に少し口に含む。
ほんのりと甘い茶の味が口に広がって喉へと流れていく頃には、男はほっとため息を付き緊張が解れる。警戒心も一緒に溶けて、拒絶したように被っていたフードをそろそろと下ろす。
男は頬がこけて目の周りのクマが酷く、目が充血してギョロっとしている。あまり髭が生える体質ではないのか、口元と顎に斑らに薄らとしか生えてない。頭はボサボサで、一見これではホームレスかと思うほど酷い見た目である。
「...少しは、落ち着きましたか?」
煙管を吹かしして白い煙を吐き出しながら、綴は男に尋ねる。
「あ、え...は、はい。えーと...美味しいですね、このお茶」
「...ええ、人の心を落ち着かせるような作用があるちょっと特別なお茶なんですよ...熱めのお茶も渋さがあって良いですけど、そういう少し温度が低いお茶も甘味が増して美味しいでしょ?一気に飲むより、甘味を味わいながら、少しずつ少しずつ、口に含んでいけば、舌への伝わる感覚と、喉に伝う感覚がとろりと...そう蜜でも流し込んでいる、そういう感じが得られるはずです。さぁ、残りも冷めないうちに、どうぞ」
綴の言葉を聞いていると、何故か男は物凄く喉が渇いて下唇を舌でペロリと舐める。お茶が欲しくて欲しくて仕方なく、我慢できずにもう一口。綴の言うようには飲めず、獣が獲物を目の前にした時のがっついたような感じで、残りのお茶を一気に飲み干す。
「...おやおや」
淀んだ男の目が輝きを取り戻し、浅黒く不健康そうな顔に赤みが挿す。高揚しているように表情が和らいで、興奮したように少し息が荒い。はぁ、はぁ、と口をだらしなく半開きにして吐息。ただ急に呼吸が荒くなって、段々と顔色が青ざめる。
ボトリ
男が持っていた茶碗が畳の上に転がって、くるりと円を描いてゆっくりと止まる。
「あぁ...あああぁぁ。い、い、た、た...」
男は苦しそうに両手を首に纏わり付かせ爪を立て、自分の首に食い込ませる。喉が詰まって苦しいのか、それとも自分で首を絞めているから苦しいのか。男は呻き、目がギョロギョロと忙しなく小刻みに動く。
バタン
男はそのまま畳の上に横倒しに倒れ、ビクビクっと痙攣したように身体を小刻みに震わす。
カン!!
綴は煙管をひっくり返し、江戸火鉢の枠に勢いよく叩きつける。
煙管と木枠がぶつかり合った高い音は部屋に響いて、男にも振動する。
不思議なことに、男の震えはぴたりと止まり、荒い息ぴたり、動きもぴたり、目は虚のままで明後日の方向を見ているものだから、死体が転がっていると勘違いしそうになる。
「何を、そんなに我慢することがあるのでしょうか...吐き出して...楽になったらいいじゃないですか」
煙管をくるっと一回転、江戸火鉢へコトリと置くと綴はゆるりと立って男の方へとソロソロと近いていく。背後に回って男へやけに身を寄せ、背中を片手で優しく撫でながら赤子をあやすように耳元に囁きかける。
「大丈夫...大丈夫」
男も耳に綴の息がかかり、男は止まっていた息をハッと出すと涙目である。そのうち小さな嗚咽が漏れて、目から鼻から体液がたらり。咳き込んでゴホリと口から何か、ねっとりした透明な塊を出した。じわりと畳がそれで湿り、じわじわと侵食していく。
男は楽になったのか惚けたような顔で、半開きの口から体液をダラダラ流しながらゆっくりと目を閉じていく。
「おやすみなさい......一時の間、良いひと時を、良い方と、存分に」
ちりーん
静かで小波のように響き渡るその鈴の音は、ただただ虚しさだけを響かせ孤独を残していく。
「ねーねー、話聞いてる?」
ピンクのヒラヒラしたワンピースを着た男よりも更に背の低い一五〇センチあるかないかぐらいの小柄な女性が、長机を挟んだ反対方向にいる男に話しかける。男はあの時のガリガリよりもまあまぁふくよかで健康そうな顔で、パーカーとジーンズと然程服装は変わっていないものの、清潔感があって髪もきちんと短く切り揃えて整っている。
「あ、う、うん。ごめん。ちょっと、ぼぉーっとしてた。な、何?」
「今日のパフォーマンスどうだった?私が一番だったよね?」
いつも同じことを問いかけるこの女性のこの男に甘えたような声と、両手を胸の前で組んで胸を強調させるようにし、上目遣いで可愛らしく小首を傾げる仕草が、何処か懐かしさを覚える。
「ちょっと!」
「ご、ごめん、ごめん。愛加(あいか)ちゃんが、可愛くて見惚れちゃった」
「えーもぉ〜...他のメンバーの方が可愛いいしぃ〜。でも...そう?そう言ってくれるの、藺草(いぐさ)君くらいだよぉ〜。アイカ、嬉しい!」
「う、うん」
「あ、時間だ!じゃ、また明日ね!」
愛加は藺草の手を軽く握るとパッと離して、可愛い仕草で小さく手を振った。
それを何処か遠くの出来事のように眺めながら、小さく藺草も手を振ってその場を後にした。
地下アイドルというものがあって、藺草はそのアイドルグループの一人のファン、追っかけをやっている。売れるか売れないか、ギリギリの線で、若いのが売りの生産型と周りでの評価をいつも憤慨しながらも、何処かで身近に会えるこの距離感が良くて、あまり売れすぎるのもどうなんだろうと思っている自分が嫌になる。
売れることはファンである以上嬉しいが、あまり売れないからこそ頻繁にライブで会えて、CDや握手券を買えば、近距離で話もできるし、手を握ってもらえる。
ライブ中はファン全体に笑顔を振りまいているけれど、握手会の時は、自分だけにその可愛さと笑顔が向けられて独占しているような感覚になる時がある。もちろん、彼女は藺草の愛加ではないし、ただ一ファンとして営業しているまでであるのは、承知している。
ただ、愛加はわざと他のメンバーと差をつけるためにバカっぽい感じに振る舞っているだけで、メンバーの中では頭がキレる方。たくみにそれぞれの男が好きそうな振る舞いを、嫌味なく卒なくこなすのだ。
甘えた方が良さそうだなと思えばそうするし、少し冷たい感じが良さそうだなと思えばそうするし、ツンデレが好きそうならと様々に変わる彼女を、コアなファンの中ではカメレオンと呼ぶ人もいる。
ただ、アイドルと婚活しに来ているわけではないので、仕事としてパフォーマンスとして自分達を楽しませてくれるならそれでいいと、思っていた。
そう、あの時のことがなければ、地下アイドルとただの一ファンのままでいられたのだ。
いつも同じセリフを繰り返し、愛加は最後の締めに使う。鉄板、
『そう言ってくれるの◯◯君くらいだよ。アイカ、嬉しい』
である。
愛加が頭がキレるのは、ただ人に合わせるのが上手いだけではなく、ファンの名前を必ず覚えてくること。一度名乗れば、次からは必ず下の名前を呼んで距離感を詰める。
『初めまして!君、なんて言う名前なの?』
が、愛加の初対面者に対する鉄板。
にわかファンも、最初は戸惑うが気さくさで控えめで、うんうんと話を聞いてくれる姿勢な愛加に、推し変するファンも少なくない。ただ、媚びている、馴れ馴れしいと敬遠する人もまたいるにはいる。
でも何と言ってもベビーフェイスで、ゆるく巻いたツインテール、柔らかそうな栗色の髪、色白。ビスクドールみたいなお人形さんが、第一印象で、グループ内でセンターを務め、一番人気なのである。
目が特に大きくて、笑顔全開でファンサと言われる視線を送られた時には、ドキドキしたものだと思い返す。
けれど、いつもはそんな風に思わないのに、ドキドキした、過去形なのである。
愛加と会話して、手を握られて、視線を送られた日は心臓がドクドクと五月蝿いくらい高鳴って、眠れない日もあった。
何故か、過去形で、違和感を感じる。
蛙化現象なんて巷で流行ってるらしいが、そもそも愛加に幻滅するようなことを感じた覚えはないはずと思い返す。
ないはずだと、言い聞かせる。
無い、無い、無い!
心の中で繰り返して、ハッと急におかしくなった。
「クッ、クククククッ、あ、あはは!」
おかしくておかしくて、笑いが止められずに、人通りがある道だと言うのに、遠慮なんて何処かへ忘れたみたいに顔を、灰色の曇り空に向けて笑った。涙が滲んだ。下唇を噛んで我慢しても、涙は抑えられなくて両手で顔を覆った。
視界が急に真っ暗になって、藺草はその場に倒れた。
「大丈夫ですか?」
目を覚ますと、藺草を覗き込んでいる白衣の女性が目に入る。驚いて、ビクッと身体を強張らせたが、声が出ない。
「ここは、病院です。あなた...内木(うちき)藺草さん?でお間違えないですか?」
「...あ、あ、はい」
藺草は、消えてしまいそうなほどのか細い声で返す。
「急に倒れてしまわれて、救急車でここまで運ばれたんですよ。過呼吸になってしまったようですね。うまく呼吸できなくなってしまったようで、酸欠になって倒れたようです。普段もこのような症状あるんですか?」
「え?...いえ、初めてで...」
「...そうですか。念の為、簡単な検査をすると先生がおっしゃっていましたから、詳しいことは先生に伺ってくださいね。今から先生、呼んできますね」
そう言って少し巻き仕立てるような早口で言った看護師の女性は、そそくさと忙しそうにその場から消えた。
それとは真逆で、藺草はのんびりとしたもので、くるり、ゆっくりと辺りを見回す。病室の大部屋で、カーテンが邪魔してよくは見えないが近くのベットは空いていて静かである。
自分がやっとベットの上と納得して、なんとなく状況が飲み込めてきた。
ただ何故倒れたかなんてどうでもよくて、居心地の悪いこの真っ白な清潔感漂う部屋からすぐにでも出たかった。
暫くして、医者がさっきの看護師を連れてやってきた。なんだか説明されたが右から左、よく覚えていない。はっきりしない藺草に、少し戸惑ったような表情の医者をぼんやり眺めて、一通りの話が終わって検査をした。
特段問題がなく、それでも念のために一泊した方がいいと言うのを振り切って病院を退院した。
財布には小銭しかなかったが、最近は便利なものでバーコード決済ができ、難なく出て来れてほっと胸を撫で下ろす。
ポツ
病院を出た時、額に冷たいものが落ちてくる。何かと片手で拭うと、透明な液体。
雨か。
そう思って空を見上げれば、灰色が濃くなって雨雲、黒くなり出している。
これはすぐにでも降りそうと、パーカーのフードを深く被って、少し肌寒く感じてブルブルっと少し身体を震わす。身を屈め、両手をパーカーのポッケに突っ込むと小走りで走り出した。
ポツポツ ザー ザー
雨は的中通り、本降りになって雨脚も強くなってきた。確かにライブ会場は家から徒歩圏内ではあるが、これでは流石に歩いてというか、小走りで走ったとしても風邪を引いてしまう。
どこかで一休みしてからか、コンビニで傘を買うかと迷う。
丁度というか、この通りはラブホが立ち並んでいる場所で、コンビニと言ってもそうそう近くには無い。ギラギラしたネオンが見えるだけで、傘を買える雰囲気でも無い。
どうするかと、また迷う。
そういえばここを抜けて少し行くと、古びたビジネスホテルがある。室内もそこそこオンボロで安いため、ラブホみたいに使う若者が多いのが嫌で使ったことがない。そもそも、歩けばいい距離なのだ、使う必要もない。
ただその日は豪雨で、流石に無理だとそう思ったのだ。
手頃な値段だし、雨に濡れて、病院であれこれ聞かれて疲れたし、少しここで休んでからでもいいかと足を向けた直後だった。
目の前に、愛加がいるのが見えた。
当然、あのヒラヒラした可愛らしい衣装なんて着ていないし、それこそ少し濃いめの灰色のパーカーに黒のジャージでどっかの少し擦れた若者っぽい。トレードマークのツインテールは解いて、黒いキャップを少し深めに被っている。
それで何故、愛加だと分かったのかは分からないが、ずっと何年も...そう、三年は見続けてきたのだ。
まだ藺草が社会人でスーツを着ていた時、慣れない営業に会社を辞めようかどうか迷って、先輩が毎度開く飲み会が嫌で雰囲気が真逆の秋葉原方面へ向かった時に、ビラを配っている愛加と出会った。
所謂、一目惚れ。
それから会社に通いながら、夜の部のライブには必ず行くようになった。
自分がここまでハマるとは思っていなく、ただ、丁度枯れた花に水が注がれたみたいに潤ったのが良かったのか、そう、藺草の中で愛加が生き甲斐になったのだ。
それからは愛加に気に入られようと必死で、彼女が欲しいと言っていたものをリサーチして、SNSもこまめにチェックして、将来のためと貯金していた金さえも崩して、貢に貢いだ。ブランド志向が強い、愛加は金がかかったのだ。
それでも何処か彼氏面できる、という錯覚が麻痺して頭を痺れさせる。プレゼントを貰えると知ると彼女は喜んでステージでは見せない女の顔、小悪魔みたいに可愛く笑い、二人でこっそり会ってくれる。
念の為に言っておくが、本来は運営に止められている。そもそも藺草だけではないし、といっても運営は少し腹黒い所があってか、表面上ではそう謳っているだけで、見ぬふりしているし、一種の擬似的な軽い恋愛ゴッコで固定数ファンを繋ぎ止めるならいいと考えてるらしいと聞いたことがある。
ただ流石に一線を超えると制裁があって、アイドルは辞めさせられて、その相手はボコボコにされたとかなんとか風の噂で耳にした。
だからちょっとの優越感を楽しむだけで、何処かのナンパ師みたいなことをする人間はその噂の性もあって誰もしなかったし、やっぱり、ステージで輝いてる彼女達が好きで、穢れた噂で光が鈍く塗り潰されるのが嫌で、時には男だからそういう気持ちになりそうでも抑えてきた。他もそうだと思うし、そもそもそこまでの勇気もないというのが実際のところかもしれない。
愛加を見つけた瞬間、愛加に怪しまれないように注意を払って物陰に隠れた。
顔を少し出して動きのない愛加を見張りながら、そんなことを考えていたら時間もそこそこ経ったのかどうかも分からないが、身体付きの良い背の高い男が現れた。
全身黒いパーカー付きのジャージを着て、パーカーを顔半分隠れるぐらい深く被っている。実に怪しくて、片方ズボンの前ポケットに手を入れて、首にはジャラジャラと金のネックレス、でも堂々とした態度で歩いてくるものだから、何処かのヤクザものかとも思えて違和感がない。
男は違和感がなくても、藺草は違和感がありすぎて、じっと息を殺して見ているしかできない。
愛加は男に気が付くと、その男の腕に猫が頬擦りするように擦り寄って腕を組んでそのホテルへと入って行く。
藺草はみっともなく慌ててその後を付いていくと、ロビーにまだ二人はいて受付の最中であった。
男がサラサラと手慣れた手付きでノートに記帳して、奥から出てきた丸眼鏡の白髪で口と顎髭の真っ白な老人に現金を支払うとルームキーを受け取り、慣れたように奥の部屋へと進んでいく。
雨も降っていたからか、急に入ってきた藺草に対して他の面々は興味なさげで、特段怪しまれることはなかった。
二人が受付にいなくなると、藺草も顔を隠しながら少し挙動不審にササっと受付へ向かう。勝手が分からなくて戸惑っていると老人がノートをトントンと叩き、ペンを差し出す。今時、ノートに記入など古臭いなと思いつつ記帳して、老人が手を出してきた。表に書いてあった金額を思い出して、千円札を三枚差し出す。老人は札を受け取るとにやっと急に笑って、奥へ一旦消えて暫くしてからルームキーを持ってくる。
キーを受け取った時には二人の姿は見えなくて、キーを握りしめて途方に暮れて視線をキョロキョロさせてしまう。
急に老人が手招きをするから、藺草は顔を寄せる。老人は藺草の耳元へ片手を添え、口を近づける。
「いつも、一〇八号室だよ」
ボソっとはっきりしない掠れた声で老人は言うと顔を離して、ヒヒっと楽しげな目をして奥の方へ消えていった。
藺草は思いがけない情報を得て、でも、流石にドキっと胸が跳ねて、ドクドクと早鐘のように心臓が動いて変な汗がたらりと背中を伝う。
今ならまだ引き返せるだが、藺草はそうはしなかった。
手の中のルームキーを見た時、一〇九号室だったのだ。
藺草は悪いことをしている罪悪感でさっきまで満ちていたのに段々と薄れて、何処か好奇心の方が勝ってしまっている自分に気づいて小さく笑った。
部屋に入っても特段することがないことに気づいた藺草は、古びたベットの上に背中からダイブして仰向けに寝転がる。
部屋が隣同士だとしても中が見えるわけでもなく、声が聞き取れるわけでもなくと思ったが、立ち上がって壁に耳を当てる。
壁の向こうから女の声が、少しくぐもってはいるが聞こえてくる。聞き間違えるはずもなく、愛加の声だとすぐ気付く。
壁薄いらしくて、聞こえてしまうのだろうと思ってもっとクリーンに聞けないものかと耳を少し壁から離してゆっくりと移動しながらいい場所を探す。
ここは一番聞きやすいと止まって耳を押し当てると、後ろ髪がサワサワと撫でるような感覚を覚える。何かと視線を向ければ少し上の方に穴が空いていて、そこから隣のクーラーか分からないが風が微量に吹いていたのだ。
背の高さからいって今の状態だと覗くのは無理で、藺草はキョロキョロと周りを見渡す。丁度良い、いかにもおあつらえ向きの椅子があって、藺草はそれを持ってくると穴の真下へ置く。椅子に靴を脱いで登り、丁度いい具合に穴が片目の先にあった。
ゴクリ
唾を飲み込んで、藺草は中を覗き込む。丁度良い具合に、隠しカメラでもあったかのような角度で隣の部屋が丸見えである。といっても、ベットがある部屋だけである。
愛加が下着姿でベット上に座っていて、男はベット端正面の床に立って下半身だけボクサータイプのパンツだ。男の表情はフードを被って全く分からないが、愛加は頬が高揚して赤く染まり、見たこともない蕩けた顔をして薄らと空いている口からは小さな舌がちろりと出して唇を舐めている。
男はそこから微動だにせず、愛加がベットの上を四つん這いで張っていきながら男に近づいて、両手で男の腰に絡みつくと、男の下半身の盛り上がった部分を頬に擦り寄せて口付けをし、男のパンツを口だけでズリ下げる。
男の大きな逸物が露出すると、うっとりとした目で四つん這いの愛加は見上げている。だが、男の逸物は全く反応していなくダラリとぶら下がっているだけだ。
それの何がいいのか分からないが、愛加はそれを見ながら興奮したように自分のショーツに片手を突っ込んで一人、男の逸物を見上げながら陰部を擦ってオナニーをし始めた。
淫靡な霰もない雌の声が部屋に響き渡って、激しく腰をベットに擦り付けてガクガクっと身体を震わせたと同時に、力が抜けたのか顔からベットに落ちてガクリと力が抜けたような感じで横たわっている。
少しして手を抜き出して、愛加は自分の愛液が滴る指を顔の目の前に持ってきて舌をぬっと出してべろべろ舐めて綺麗にしてから、上半身を起こす。暑いと呟いて、ブラジャーを乱暴に脱ぎ捨てて、その豊満な二つの実りを露わにする。既に胸の突起は勃起してツンと立っていて、膝立ちになって太ももを伝う洪水みたいに流れ出ている愛液も合わさって実にいやらしい。
それでも男の方は反応がなくて、それでも愛加は構わずに子犬のようにクンクンと逸物を嗅ぐと、両手で付け根をぐっと持って一気に自分の口の中へ突っ込む。愛加の小さな口にはその逸物は大きすぎてゴホッと咽せ、それでも喉の奥までチュパチュパと下品な音を立てながら飲み込んんでいく。
両手を離して根本まで飲み込む愛加の目は涙目で、それでも一生懸命に口を窄めて男に懇願するような目を向ける。
その時ようやく男は愛加を見下ろして、愛加が苦しそうにゴフゴフと小さく咳き込み涙が頬を伝うとドーンっと愛加の肩を強く押してベットへ突き飛ばす。少し痛そうな表情でその肩をチラリと愛加は見て、その隙に男は仰向けになった愛加の上に馬乗りする。
愛加の視線を自分に戻すように男は愛加の顎を持って正面を向かせる。愛加は分かっていて、その動作が嬉しかったのか蕩けたように笑みだ。
男はその顔を見ると顎に置いていた手をスルリ蛇が這うように首へと這わせ、もう片方の手を重ね愛加の首をグググっと締め付ける。
待ってましたと言わんばかりに、愛加は目が爛々として輝いて見え、だらしなく開いた口からは唾液がツツツーっと流れて行く。
ギリ ギリ
男が力を加えていくたびに、愛加は太ももを擦り合わせてモジモジしている。
男がピタっと手を止めて、はぁーーーと長いため息を漏らした後に腰を浮かす。愛加は、はぁはぁ盛りのついた犬のように息を漏らして逸物をチラッと見てごくりと喉を鳴らしてうつ伏せになる。
男は愛加の臀部が見えると乱暴にショーツをズリ下げ、片方の親指を菊紋へと突っ込む。くちゃくちゃと淫靡な音が漏れ、もう片方の手で臀部をスパンキングする。淫靡な音が大きくなり、片方の臀部が赤くなると親指を抜いて、そこへ逸物を遠慮せずに一気に突っ込む。
くぐもった声、苦しそうでもあり、嬉しそうでもある愛加の声。
男は遠慮せずに、腰を激しく打ち付ける。
ぐちゃぐちゃぐちゃ
男は達してもいないのに、愛加の臀部からは何か仕込んであったかのように透明な液体が流れ出ている。
臀部から太もも裏に伝ったその液体は、お漏らししたようで見ていて恥ずかしさがあるのに、何故か舐めまわしたくなる。
藺草はその時自分の喉がカラカラであるのに気づいて、ググっと口を窄めて少し出てきた唾液をコクリと飲む。その唾液が喉を伝い、下っ腹へと流れていくような錯覚がする。それは単に、藺草の逸物が勃起しただけのこと。こんなに激しく下半身が熱くなることがなくて、本人が単に気づいていないだけなのだ。
こんなにも逸物が熱く痛くなることはなく、戸惑いも少しはあったが、いてもたってもいられずにベルトをモタモタした手付きで外し、ジーンズのチャックを一気に下ろすと両手をパンツに突っ込んで自分の逸物を慰めた。
何処かで不思議な感覚があって、何故ここまで興奮しているのかとか、自分はそういえば性には蛋白な方で初めてできた彼女にもなかなか手が出せずに、イラつかれてフラれたなとか、どうも集中できないし、どうしてか他人事みたいな、自分は自分なのに遠くで眺めているような感覚がした。
自分の身体は穴の向こうの痴態を見て、激しく腰を振って逸物を慰めているのに、心だけが冷めていく。
はっと気づいた時にはダラリと自分の逸物は元気なく垂れているのが感触で分かって、両手をパンツから引き抜くと両手は性液でどろりと濡れていた。
いつのまにか達して、今はもう興奮すらない。すっきりしたような、しないような感覚でとりあえずは、穴の向こうをまた見た。
二人は情事終わっていて、男が部屋を出て行く所だった。愛加はまだ余韻に浸っているのか何処か惚けたように視線が合っておらず、霰もない姿、真っ裸でベットの上に仰向けで大の字になって寝ている。
バタン
ドアが閉まってようやく夢から覚めたように正気になったのか、愛加はよろよろとベットから這って出てシャワールームだろうか奥の部屋へ消える。
藺草は何故かいてもたっていられず、椅子から降りて部屋を出ようとするが、足がもつれて床に倒れる。性処理したままのだらしない格好だと気づき、ドロドロの両手をパーカーで拭うと急いで身支度をして部屋を出た。
ガチャ
ドアは案の定、空いていた。
男が鍵を絞める音がしなかったのをちゃんと藺草は聞いていて、それで急いで来たのだ。
もちろん、愛加と話をしないといけないとその時は真剣に思ったからだ。
シャワーの音が止んで暫くして、愛加がタオルで髪を拭いながらベットルームへ出てきた。
当然着るものは、床に転がっているのだ真っ裸だ。
「なっ!!」
愛加は藺草が目の前にいることに心底驚いた顔と声を上げて、髪を吹いていた手が止まり大きな目を見開いて固まっている。
「...やあ、愛加」
何故か自分は冷静というか、いつもの少し控えめというか遠慮した態度はなく、何処か沸々と煮えたぎる熱い、怒りかなにかが腹の底をグツグツとさせて気持ち悪い。
そう発した時に、自分の顔が笑っているのに気づいて驚きもあったが、おかしくてしかたなかった。
「男と、随分とお盛んだったね」
いつもなら絶対言わない言葉が、スルッと出た。いつもの自分が聞いたら軽蔑するような、嫌な感じでねっとりとしている声で、はっきりと愛加の目を見て言っている。
愛加は怯えた目になって、片手で胸を、もう片方の手で陰部を隠して少し後退る。
「怯えなくても平気だよ。運営には絶対言わないから」
愛加は藺草の言葉にビクッと反応して、恐る恐る近寄って目の前にいる藺草を見上げる。
「...条件...」
「条件?」
「要は...あんたもヤリたいんでしょ?」
「はぁ?」
藺草が求めていた言葉ではない言葉が愛加から怯えたような声で発せられて、サッと血の気が引いて一瞬で冷めた。これが蛙化現象かとか冷静に思えるのが不思議で、虚しくなって顔をグシャっと歪ませる。
「あ、ご、ごめん...黙っててくれるなら...藺草...君は、よくしてくれてるし...一回スッキリさせよう?溜まってるんでしょ?慰めてあげる」
あぁと声には出さなかったけれど、心で呟いて、げんなりした。目の前の女は、もう愛した愛加ではなくて、ただ自分を守ために見繕って怯える子羊だと。虚しさで言葉も出ず身動きできずにいると、何を勘違いしたのか愛加は藺草の意思を無視して藺草の手を取ってベットに向かおうとする。
そこで何かが、
ブツ
っと切れた。
愛加の手を振り払って、藺草は床に愛加を仰向けに突き飛ばす。カーペットが敷いてあっても痛いらしく、ぶつけた肘を庇っている。
起きあがろうとするのを馬乗りになって押し戻した藺草は、愛加の怯えた目に涙を浮かべた顔を見た瞬間、何故か興奮する。
あの男とは違うが、愛加が普段見せない顔を見られて、何故か優越感を覚え、男が首を締めたように自分も愛加の首を絞めていた。
ギリギリ
愛加は苦しそうで、しきりに藺草の腕を手で叩く。
「さっきは...あんなに興奮してたのに...ね」
愛加はその言葉でビクッと身体を強張らせて、挙動不審に目をキョロキョロしている。
「いつも見たいに、こっち見てよ...沢山、君のために貢いだんだ...ファンサしてよ...ちゃんと...僕を見て...」
愛加の視線が、藺草と合う。
恐怖
しかないその目を見た瞬間、怒りを覚えて息を止めて思い切り首を絞めた。
急に記憶が飛んで、目の前が真っ暗になる。
目を覚ましたら、藺草は愛加を締め殺したままの体勢であった。激しい驚きで、慌てて愛加から飛び降りる。顔が青ざめて、慌てて愛加の肩を揺する。
瞳孔が開いて、半開きの口からは唾液が流れた跡がある。
「ひ、ヒィィィイイ!!あ、あぁ...あぁ」
声にならない声が出て、藺草は腰を抜かしてその場にへたり込む。
ガチャ
「あー......君さ...やっちゃったんだね」
部屋を出ていったはずの男が戻ってきて、チラリと愛加を見た後に藺草の目の前に立ってしゃがみ込む。
「まぁ、近々結婚するから...これで後腐れなく結婚できるってことかな。ありがとう。まぁ、関わりたくはないから、内緒にはしてあげるよ。ここのお爺さん、変態だから、相談したら協力してくれるかもね」
ポンポンと呆けてる藺草の肩を男は叩いて、立ちあがろうとしたところを藺草ははっと我に返ってその手首をガバッと強く握る。
「何?」
「愛してたんじゃ...ないんですか?」
「愛...君さ、ここの隣がのぞき部屋って知ってたんじゃないの?」
「え?」
「まぁ...彼女は知らなかったみたいだけど、結構彼女のファンはここで抜いてたみたいだよ。あ...もしかして君が、藺草君?みんながちょっと真面目すぎて、ここは教えられない。潔癖そうだって、言ってたよ?」
「みんな?...は?」
「君だけだよ、真面目に彼女を純粋に応援してたの。他のファンの子は、手は出せないものも不純な気持ちで応援してた...そういうことだよ。男女の関係なんて、そんな綺麗なものじゃない」
馬鹿にされているとカッと頭に血が上って、藺草は男の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけんな!お前に何がわかる!勝手に穢すな!勝手なことを言うな!!」
「...子供だな」
「この!!」
片手を握り拳にして殴り飛ばそうとしたが、体格差があってあっさり片手で受け止められる。
「この!....顔だけの見せかけ男の卑怯者!!」
浮かんでくる陳腐な罵倒を男に浴びせると、男は笑ったような余裕な口元が、急にすっと感情がなくなったように下がる。
「お前に...俺の、何が分かる!!」
静かに余裕綽々で話していた男はいきなり怒気を荒げ、手早い手つきで藺草の首を両手で絞める。
ギリギリギリ
愛加を締め付けていた強さとは違い、息が止まるほど強さ。
藺草は息ができず、抵抗もできず、意識が掠れて、力も入らない。
けれど
何故か、とても気持ちがいい。
そう実感すると、何故かふわふわした雲の上にいるるような心地よさ。
藺草は愛加と同じような惚けた顔になって、目は焦点が合わなくなって、しまいには白目をむいて、半開きになった口からは愛加と同じように唾液をダラダラ流して、
ビクッと一瞬身体を震わせた。
藺草は失禁と頂点に達して、息をヒュッと小さく鳴らして意識を彼方へと手放した。
ちりーん
縁側でうとうとしていた綴は、鈴の音で目を覚ましてゆっくりと目を開ける。
ボト
庭に咲いている青々とした桔梗の花が、花を散らさずそのままの姿で、不思議なことに地面に落ちた。
ちらっと綴は、首を落とされたように落ちているその桔梗を見てから、少し上を向いて西陽を眩しそうに片手で遮って目を細める。
「あぁ...もうこんな時間ですか。魂は、昇天したみたいですね...できなかったことが今回はできて、よかったですね、藺草さん...一度きりの人生...最後はパッと命の炎を燃やしましょう、焦がしましょう...ふふふ...あ...そろそろ、八重さんに桃花酒を振る舞わないと...ふふ...人間とは実に面白い...”従順“...も過ぎれば、怒り、それでもまた“従順”になるとは...不思議なものですね...」
視線を徐々に落としていって、両手をちょこんと膝の上に乗せる。丁度いい具合に、椿が見える。
三つ目の真っ赤な椿が色付いて、綴は満足そうな笑みを漏らす。
「さ、続き、続き」
そう言って立ち上がった綴るは、上機嫌で奥の部屋へと消えていった。