母さんが死んだ日、家族は終わった。

 なら、僕が母さんにされた日には、どうなるのだろう?



 才有る立場に甘んじ、感情を拗らせ家庭を蔑ろにしながらも確かに彼女を愛していた偏屈な父親と、この世でたった一人、自身に無償の愛を注ぎ、成長を見守ってくれていた母親とまだ共に在りたかった息子。お互い唯一の支えを失って、残された二人の人生は大きく狂いだす。

 過去を引き摺る親子が織り成す、歪なドメスティックラブストーリー。行き着く先は、果たして何処か。

 

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※https://www.alphapolis.co.jp/novel/799059376/730640306の方で書いていた作品の一括版です。行間、場面展開等に違和感がある場合が御座いますがご了承を。


父さん、僕は母さんにはなれません 〜息子を母へと変えていく父、歪んだ愛が至る結末〜

 

 

  師走の冷たい空気、朝の日差しの中、線香の匂いと、だだっ広い殺風景な居間にチーンと響く仏具の音。もう何度目か分からない、母の遺影に手を合わせるルーティン。

 

 ……母さん。

 

 ここで行うのは今日、この時が最後になる。母がこの世を旅立ってから三度目の冬、父の一方的意向によって家の売却と引っ越しが決まったから。

 

 「おい、何をしている」

 

 少し離れた所から刺々しい、圧迫感のある男の声が首筋を刺した。僕は徐に振り返り、目を伏せたまま「別にいいじゃないですか」と無機質に口にする。

 

 「何がだ」

 「手を合わせるくらい許して下さいよ。この家では、今日が最後なんだから」

 「…………ふんっ」

 

 早く準備を済ませろと言い残し、彼は去っていく。

 

 ────宗教は自由だが、そこに母さんはいない。それが真実だ。

 

 この仏壇がこの居間に置かれた初日に彼、父の残した言葉である。あの男にとって、最早これは置物に過ぎないのだろう。

 

 ……分かってるよ、そんな事。

 

 この家で過ごした時間と記憶だけは名残惜しむ筈。その気持ちだけは共有出来る筈だと、そう思っていたんだけどな。

 

 割り切れるんだね、そっちは。いいね、冷めていて。

 

 僕は此方に目もくれず黙々と片付けを進める、ひょろりと縦に長い痩せこけた白ワイシャツの後ろ姿を僅かに恨めしそうに睨んだ。

 

 

 

 父は細胞医学分野の教授である。ニュースには決して大々的に出て来ないけれど、一部の人々からは凄い凄いと伝え聞くし、調べれば堅物そうな白衣姿の仏頂面写真と共に小難しい記事がほんの少し出てくる、そんな一端の権威である。

 幼い頃は漠然と尊敬したものだ。物言い、立ち振る舞いも知性に溢れた、遠い世界の人物として。

 

 父は滅多に僕と関わらなかった。食卓を共にした事さえほぼ記憶に無いと言っていい。典型的な家庭を疎かにする仕事人間。その認識を得たのは一体幾つの頃だったか。まあその点はどうでも良いとして、とにかく父親らしい事は僕には何もしてくれない人で、正直父親という認識は殆ど無かった。母さんが倒れるまでは。

 

 十一歳の夏の日の事。

 

 「母さん! 大丈夫⁉︎ ねえ母さんってば!」

 

 学校帰り、台所で倒れ伏したままピクリともしなかった母の姿は今でも鮮明に記憶に残っている。何度声を掛けて揺すっても返事の返らない、力無く押されるだけのあの身体を。

 直ぐに救急車を呼んだけれど、発見が遅かったらしい。命は取り留めたものの、病室のベッドの上で、母は目を覚さなかった。

 

 消毒液と何か変なニオイが混じった、鈍く沈んだ空気の病床。訪れない目覚めを待ち望んでいた僕の下に、大いに遅ればせながら彼は駆け付けた。

 

 「どうしてもっと早く救急車を呼ばなかった?」

 

 そう詰め寄られ、胸ぐらを掴まれた。発見時の話は聞いた、もっと適切な処置は出来なかったのか、仮にも俺の血が入っているのだろう、何故出来なかったと。

 それが恐らく僕の知る限り彼に向けられた初めての強い感情だった。鼻の頭までずり落ちた銀縁眼鏡の奥で燃えていたのは、これまでの人生、後にも先にもこれ以上の物は御目にかかれないであろうと思える程に激しい憎悪と怒り。掴む腕は今にもくびり殺さんと握られていて、息遣いは獣の如く荒々しく、恐ろしかった。けれど、

 

 僕だってそう思ってるよ。もっと早く帰っていれば、もっと何か処置が出来ていれば、なんて事は。けどさ……今更来た癖に何を言ってるんだこの人は。

 

 優しくてご飯の美味しい、怒るとちょっと怖いお母さんだった。生まれてからその日までずっと、殆ど女手一つで僕を育ててくれた、大好きで大切な、唯一無二の母親だった。

 

 なのにこの人は何だ? そんな母に、寄り添えていたのか? 大層稼げてるのか知らないけど、居なかったじゃないか、いつもいつも。なのに、何を言ってるんだ?

 

 理解し難い理不尽な相手に対する怒りが恐怖を上回り、僕は思わず震える声を絞り出し、皮肉っぽく言い返した。

 

 「あなたが側に居たなら、出来たかもしれませんね」

 

 思いっきり殴られた。不思議と痛みは感じず、スカッとしたのを覚えている。結構流血したし意識も失ったが、それより何より、周りから悪者として扱われる彼を想像して、いい気味だとしか思わなかった。まあ彼の周囲の人間が彼を守ったのか、大した騒動にはならなかったけれども。

 

 彼の血を引く僕も勿論決して良い人間では無い。しかし良い大人が、それも仮にも医者の肩書きのある人間が病院で暴れるなんて。どうかしているだろう。

 

 ……そう、本当にどうかしている。彼はそういう人間だった。

 

 母が倒れてからは家で顔を見る機会が増えた。お見舞いに行った病院でも。決まって鉢合うと目を合わせず去って行ったが、何度も何度も、母に特別な感情を向けるその様を見る様になった。

 

 「リナ……絶対、俺が助けるからな……」

 

 ある時母の手を握り、うわ言のようにそう呟く彼を見た。家で資料に埋もれたまま眠りに付く姿も、台所で酒を片手に涙する姿も目撃した。些か過剰でパフォーマンスの様にも思えたが、月日を重ねるうち、どうやら母に対するその思いだけは本物なのだと、そう信じざるを得なくなった。

 

 だったら何故。

 

 同時に疑問も深まるばかりだった。それ程愛しているならば何故、ずっと家を開けたまま母と共に過さなかったのかと。

 

 その答えを訊く前に、十二歳の冬、母は亡くなった。

 

 以来父は生気を失い、また滅多に顔を合わせなくなった。無論全く機会が無い訳では無かったが、僕自身も重要な何かがすっぽり抜け落ちてしまったみたいで。何も気力が湧かず、助けるとか言ってたじゃないか、などと責める気も、嘆き悲しむ気も起きなかった。

 

 

 

 ただただ、地続きの灰色の上を生きている。虚に色褪せた過去を振り返るだけの、どうしようもない現在を。

 

 「…………っ」

 

 もう、これだけか……ようやく、追い付いたんだけどな。

 

 僕の成長と、目標である母の身長の刻まれた玄関横の柱の傷跡。引っ越しの支度が済み、最早残っている家族の痕跡はここだけとなった。

 しかし思い出は消えない。何も無くなった様に見える箇所にも、そこかしこに沢山詰まっている。

 

 伽藍堂な空間を前に、僕は静かに切なさと虚しさを胸の奥にギュッと押し込める。

 

 「何をしている。置いて行くぞ」

 

 開いたドアの向こう、憎まれ口しか叩けない哀れなやつれ顔の男に急かされた。

 

 僕がまだ中二なんて立場で無いなら、その選択肢もあったんだけどな……。

 

 「……さよなら」

 

 行ってらっしゃいと微笑みかける母の幻影に、僕はそっと蓋をした。

 

 生まれ育った我が家に別れを告げ、父の運転する車の後部座席に乗れば、そこから始まったのは退屈な長旅。行き先は分からない。訊く気も起きず、聞かされてもいない。最早どうでも良い。

 

 「……はぁ」

 

 消え入る様なため息一つ。高速道路、窓の向こう。横切る山の木々の景色をただぼーっと眺めたのを最後に、重くなった瞼を閉じて眠りに落ちる。

 

 暗転。幾許かの間を経て、次に目が覚めた時。

 

 「…………っ?」

 

 周囲の状況は一変。見知らぬ部屋のベッドの上、掛け布団一枚を被せられて寝かせられていた僕は、口を専用の猿履で塞がれ、手脚を何らかの枷で拘束されていた。

 

 ……事故? いや、違う有り得ない。

 

 まず暈けた視界に入ったのは、自分の身体の横から伸びていると思わしき複数本の管。辿れば病院でよく見る輸液バッグが数個ぶら下がっている。点滴か、薬物か。内容は窺い知れない。絵面から事故で病院に運ばれたのでは想像したけれど、果たしてこの世に怪我人に猿轡をして拘束する病院があるだろうか。

 

 拉致、監禁? 僕が寝ている間に何かあって、攫われた? そんな事ある?

 

 「ううううっ……んうううっ……」

 

 何処からか吹き込む仄かな暖気は感じられるけれど、乾いた空気は少し冷っとしていて肌寒い。身じろぎしようとするが、腕と脚がベッドに張り付けにされていて身体を殆ど動かせなかった。

 

 「っ……ふぅっ……」

 

 焦点が合ってきた。首から上だけは動かせそうなので、頭だけを転がして辺りを確認する。

 

 すぐに分かるのは、やはり一般的な病院やクリニックでは無いという事か。六畳一間程度の広さもそうだが、木目調の床のフローリングや間取りがどう見ても普通の一軒家の一室の規格だ。

 

 けれど明らかに通常と異なる点もある。部屋の模様に合わない、入り口となりそうな鉄のドアが一つあるのだが、ドアノブが一切見られないのだ。窓らしき物も一つあってカーテンの向こうから光が漏れているものの、揺れるその光源も何処か人工的でハリボテに見える。時間を確認したいのに時計が無い辺りも含めて、やはりそういう意図がある部屋なのかもしれない。

 

 しかし、それ以外が釈然としなかった。なんせ照明が適度に明るい上、他の家具は無駄に充実していて小綺麗過ぎるのだ。分かるだけでも大きい物は手前から箪笥と白いクローゼットと姿見、それに本棚だろうか。家具全体、角という角に緩衝材が付けられていたり、医学書がずらり並ぶ中に中途半端に少女漫画の単行本や料理本が混じっていたりする妙な本のラインナップが目を引くがそれはさておき。全体的に淡い色調も含めて何処か清廉としていて真面目だが可愛らしい、女性的な部屋の模様をしている様な……少なくともぱっと見ならそう判断してしまう要素が揃っている気がする。

 

 「ん……?」

 

 身体を何度か動かそうとして気付く。服を着ていない。地肌が布に擦れる感触がする。道理で寒い訳だ。それに何というか、重怠い。眩暈と吐き気もするし、下腹部の辺りが鈍麻した様な、そんな体感がある。

 

 風邪とは違う。毒か、薬だ。

 

 幼い頃、ちょっとした先天性の疾患を直す手術で一度だけ全身麻酔を受けた経験があるが、まさにその時の起き抜けと同じだ。頭がぼんやりとして、末端の感覚がイマイチ遠い。断定は出来ないが、何かされているのは間違いなさそうだ。

 

 なんで? 何の為? っ……頭が回らないっ、考えないといけないのにっ……!

 

 まずい事態に直面したという実感が焦燥を煽る。しかし何が出来るわけでもなく、時間は刻一刻と過ぎていく。

 

 誰が、何の為にこんな事を……父を脅して、身代金でも要求する気……?

 

 と、その時だ。静かな部屋の中、突如ガチャリと目立つ音を立ててドアが開いた。そこで見えた顔に、僕は目を見開いて驚愕する。

 

 「……っ⁉︎」

 「………………」

 

 それは紛れもなく父自身だった。誰かに脅されているのか、そこに意志があるのかは窺い知れないが、彼は無言のまま虚な目でじっとりと此方を見下ろし、ひたりひたりと極力小さな足音で幽霊の如く白衣を揺らして近付いて来る。

 

 「ふぐううんっ⁉︎ ううふううううっ⁉︎」

 父さん⁉︎ どういう事だよっ⁉︎

 

 言葉は当然猿轡に遮られ形にならない。強引に身体を起こそうと力を入れても拘束を破るには至らないので、ベッドの軋む音とみっともないくぐもった声が閉所に木霊する。

 

 「…………」

 

 対し枕元に立った父は口を開かない。相変わらず生気の無い顔でただじっと見下ろして来る。あまりに不気味で、やがて僕は押し黙って次の動向を待つ様に身構えた。すると直後、何の前触れもなく掛け布団が掴まれて捲り上げられる。そこで露わになった自身の身体の大きな変化が目に入り驚いた。

 

 「んふっ……んんっ⁉︎」

 

 胸板、みぞおち、臍の更に下だろうか。麻痺した感覚のある下腹部に、シワに沿って目立たず綺麗にされてはいるが、よく目を凝らすと身体を真っ二つに横断するかの如き大きな手術痕がある。

 尚最初に目が行ったのは其方だが、更に驚愕すべきはその先。少し膨らんだ腹の向こうに、あるべき影が無い。

 

 はっ、はぁっ⁉︎ ……見間違いじゃ、無いっ?

 

 何度も首を持ち上げて確認するが、間違いない。股間にある筈の玉と竿、男性器が無い。切り取られてしまったのか、見慣れた凹凸が忽然と姿を消してしまっている。

 

 「ふっ、ふっ、ふぅっ……ううっ……!」

 

 その事実を前にして呼吸が荒れ、視界が揺れる。何だこれ、何で。嘘だ。悪い夢だ。極限の動揺で酸欠になり末端が痺れだす。

 最中、父はスッと注射器を取り出し、ブスリ。針先を僕の腕に突き刺した。

 

 「んぐう゛うううっ⁉︎」

 

 声を上げたが痛みは殆ど無く、薬液が入って来る感覚だけがやや鮮明に与えられた。尚それもあっという間で、一体何を入れられているのか、疑問を持ち始めた時にはもうピストンは押し切られていて、間も無く僕の皮膚から針は抜かれた。

 

 「ふっ、ふぅっ、ふぅっ、ぐううっ……」

 

 全身が震え出し、涙と冷や汗が頬を伝い落ちていく。湧き上がるのは恐怖と不安。訳も分からないまま自身の生命が、尊厳が脅かされているという根源的嫌悪。

 

 なにをしたっ、なにを、されたんだ、なにをっ……!

 

 父はそんな僕を無感情に俯瞰し、観察する様な視線を向け続ける。否、見ている様で見ていないのだろうか。何にせよその眼差しは濁り切っていて温度は皆無だ。知っている筈の人間なのに、何を考えているのか全く分からない。

 

 なんなんだっ、ふざけんなっ、ふざけんなよっ……!

 

 「ふぅーっ、ふう゛ぅーっ、ふうう゛うううううぅっ!」

 

 あまりの理解し難い状況に一転恐怖は振り切れて怒りに変わり、僕は狂った様に喚き散らした。ただその様を見ても相手の顔色は一切変わらない。汗を吹き出して震える僕の身体に今一度布団を掛けて整えると、冷淡に視線を切ってドアの方へ歩いていく。

 

 まてっ! どこへ行くっ! まてっ! まてええええええええええええっ!

 

 くぐもった叫び声は無論届かず、父は結局一言も発さぬままその場から立ち去った。僕は張り裂けた心を紛らわす為叫び続けたが、注入された薬の影響か、はたまた精神の限界か。やがて力尽き、再び意識は暗転した。

 

 そしてその時、ショックの反動からか脳裏で淡く幸福な家族の夢を垣間見る。

 

 「────く、りっくん、どうしたの?」

 「……かあ、さん?」

 「リク、キャッチボールするか?」

 「…………だれ?」

 

 リク、りっくん、リク、りっくん。理想の世界は何度も僕の名を呼んで、取り留めのないありきたりの物語を次々模っていく。しかし母以外あまりに拙く、杜撰であった。違和感を抱いた瞬間脆くも崩れ去り、僕は拒んでも醒めない悪夢へと浮上する。

 

 ────夢であって欲しいのに。

 

 祈る様に目蓋を開いた。そこには夢の中以上に現実味の無い鮮明で異様な部屋の光景がありありと広がったままで、心は囚われ、押し潰されていく。

 

 「ふっ……ふぐっ、うっ…………」

 

 こうして汗と涙で濡れた枕の冷たさの中、愛憎と狂気狂乱に塗れた監禁生活が幕を開けた。

 

 

 

 父だけではない。僕の母さんも、元は同じ様に実験的な医療研究に携わる人間だったという。

 

 「母さん、母さんも父さんと一緒のお仕事してたって本当?」

 

 未だ見ぬ父に憧れを抱いていた幼少のある時、そう尋ねた事がある。母はええ、とにこやかに答えていた。どんな研究をしたのか、どんな発見をしたのか。訊けば楽しげに、僕に分かる様掻い摘んで答えてくれた。

 

 しかし、無知で馬鹿な自分は続けてこうも尋ねた。

 

 「何で今は一緒にお仕事してないの?」

 

 僕は今でも度々思い出す。はぐらかそうとも考えたのかもしれない。けれどそうせず、様々な言葉を飲み込んで「何でだろうねー……」と答えた、母の寂しげな笑みを。

 

 

 

 身体の自由を奪われたまま、更にまた暫し朦朧とした時間が経過した。一頻り泣いて、疲れて眠ってを一度経た僕はほんの僅かばかり落ち着きを取り戻し今一度辺りを確かめたが、そこで些細な変化に気付く。

 

 …………何なんだよ、ほんと

 

 父以降、部屋に訪れる人影は未だ一人も見ていない。しかし目が醒める前には何も無かった筈の枕横の小物入れの様な棚の上に、ある物が置かれていた。

 

 ……黄色い、スイセンの花。

 

 病室で目を覚まさない母の横に、この様な形でいつも花瓶に挿されていた光景が脳裏を過った。甘く優しい花の香りが胸騒ぎを誘う。凝った演出。そう考えるには些か趣味が悪いのだ。

 

 これ、用意したの父さん……?

 

 眠っている間に何者かが訪れていたのだろうか。父以外の人間が用意した可能性も無くはないけれど、あからさまで不必要なアピールに、信じたくは無かった最悪の線が色濃くなる。

 

 実際様子は変だった。やらされてるっていう感じでも無かったし。もし、この監禁が父の主導なら────イヤだ、考えたくない。

 

 思考を逸らし、先程見た物は全て幻だと自分に言い聞かせる。そうだ、薬物。何か盛られてるのだから、きっと幻覚を見たに違いない。アレも父に見えていただけの赤の他人で、自分の身体も何かの見間違いだ。

 

 そう思っていないと正気を保っていられそうに無かった。幸か不幸か、薬物が原因と思わしき頭の霧が晴れてきているのだ。齟齬を感じつつも、背筋を走る悪寒が鳴らす警鐘を無視出来ない。

 

 そもそも、犯人が誰かは重要じゃない。それよりも、今はとにかくどうやって助かるかを考えないと。

 

 身を捩ったり、手を捻ったりしながら、拘束の綻びを無我夢中で探す。無駄だ、動きそうに無い。そう思っても少しずつ揺らしたり、力の方向を変えたり、試行錯誤を繰り返す。

 地道な作業のみが唯一の精神安定剤になる。突破口は中々見つからない。けれど今はそれしか出来ないから、無心で続ける。

 

 「ふっ……ぐっ……」

 

 しかしある時、部屋を煌々と照らしていた照明がゆっくりとその光を失っていき、辺りは真っ暗闇に落ちる。

 

 「っ……ふっ…………?」

 

 光源が一切無くなって何も見えなくなった。心拍数が上がり、心臓の音と自分の身体が揺れる音だけがやけに五月蝿くなる。

 

 落ち着け、大丈夫、暗くなっただけだ……。

 

 きっとただの消灯時間。そう自身を納得させ平静を装いつつも、一体何が来るのかと身を強張らせる。と、次の瞬間。ぷしゅー……っと、部屋の何処かから静かに気体が漏れる音がし始めた。

 

 「ぅっ⁉︎」

 

 咄嗟に息を止めてはみたものの、当然ずっとは止められない。緊張していたのもあって比較的早々にぷはぁっと口を開け、吸い込んでしまう。

 

 花のとは違う。何だ、この甘ったるい変な臭いっ。何が狙いのっ……。

 

 薬物の類いか。吸った途端身体がジンジンと痺れて熱くなってきた。折角抜けてきていたというのに、また頭に靄がかかってきた。

 全身の血流がドクドクと脈打って、吹き出しそうな勢いで駆け巡っている。経験に無い、異常な興奮だ。

 

 「ふっ、ふっ、ふぅっ」

 

 息が浅く、荒くなってくると、一面の黒の中にぼんやりと薄桃色の光が見え始める。眺めているだけで意識は薄らいで、酩酊していく。

 

 っ、あっ……。

 

 灯りの中から光景が浮かび上がる。その形がはっきりする頃には現実との境も無くなって、やがて変な声がし始めた。卑猥な、女の人の声だ。

 

 あっ、はぁっ、はんっ、んっ。

 

 僕の股の上で、何者かも分からない美少女が浅ましく上下に跳ね、それに合わせて股間に境界の曖昧な刺激が走り甘く痺れる。無論行為の感覚など味わった事が無い。画面の向こうの知識な筈だ。けれど、現に気持ち良くて皮膚が泡立ち、頭が蕩ける。夢以上に朧げなのに、現実以上に生々しい。

 

 何で、こんな事……。

 

 吐こうとした言葉はたちどころに解けて吐息と失せる。異常を異常と認識出来ず、心が流されていく。

 

 いや、いいか。このかんじ、きっともうだめだ。りゆうなんて、どうでも…………。

 

 理性は呆気なく快楽の奔流の中に溶けた。剥き出しになった感覚は責め立てられ続け、然程時間はかからずに飽和し、迫り上がる。そして次の瞬間、ビクンッ! 腰の奥から頭の天辺まで突き抜ける様な痙攣と共に、射精の感覚が訪れた。

 

 くぁっ、ああっ!

 

 じんわりと股間に熱が広がっていく。全てが曖昧ではっきりしないのに、あまりにも心地が良い。思わず気の抜けた声を出してしまった。

 

 ……っ、あ、れ…………?

 

 しかし違和感。射精感があったにも関わらず、独特の萎えた感じが一切しない。じーんと身体の芯が熱く痺れたまま浮遊感が続いている。

 どういう事かと疑問に思ったのも束の間、股間への刺激が再開する。

 

 うっ、へあっ?

 

 女の人の形が、朧げに大きな白い影へと変わり始めた。おかしな事に、ややフラットな凸が刺激を受けているという感覚も、何かに皮膚を貫かれ、肉を無理矢理開き押し広げる様な形で内部に刺し込まれているみたいな、凹への刺激に切り替わっていく。

 

 あっ……? はっ、あっ?

 

 痛みと圧迫感が鮮明になってきた。上手く息が出来ない。しかし尚もお構いなしに往復は繰り返され、患部は擦れて熱を発する。

 

 うぐっ、あ゛っ、あぁっ。

 

 内蔵が潰されたり、掻き回されたりしている。くぐもった声が押し出されて止まらない。抵抗しようとしても全く力は入らず身体はされるがまま、甘んじてグロテスクな暴力を受け続ける。

 

 いはぃっ、いはいぃっ、い゛っ、いひぃ゛いいっ。

 

 ぐっちゅぐっちゅぐっちゅ、変な音がする。熱い。痛い。苦しい。けれど仕方ない。僕は調理されて食べられるだけの食材らしい。お腹でシチューが作られてる。ぐっちゅぐっちゅぐっちゅぐっちゅ。変なニオイもする。血生臭いニオイと甘ったるい香りが混じり合って、溶け合って。オエッと吐いて、咽せて咳き込んだ。

 

 やえ゛へっ、っえ゛ほっ、っ、えはっ、あ゛ぁっ。

 

 意識は暗んでは苦痛で引き戻されてを繰り返しながら、少しずつ、確実に赤混じりの黒に染まっていく。音もニオイも遠ざかっていく中、不意に気付いた。自身の苦悶の声が、何処となく先の女と似ていると。

 

 あっ、あはっ、はひっ、ああっ。

 

 その瞬間、痛みの中に快感が芽生えた。赤混じりの黒の中に、ちかっ、ちかっと白が明滅して、骨の髄を痺れさす。それは次第に大きくなっていき、バチバチとスパークする様に連続して弾け始める。

 

 あがっ、がっ、ああっ、はあぁっ!

 

 身体が灼けて、バラバラになっていく。普通なら死を連想する状態なのに、そう感じる余裕すら解けて溶けてしまって、挙句股座の方から溢れて漏出する感覚に襲われる。

 

 あっ、ああ゛ああっ、ああああああぁ……!

 

 自身の裏返った絶叫も遠のいていき、遂には水の中程にしか聴こえなくなって、浮かんでは沈んでを繰り返す様になった。どれだけ叫んでも完全には沈まない。終わらず続く。どこまでも、どこまでも。

 

 そうして僕は気が遠くなりそうな程長く、半死半生の水面の上を揺蕩った。

 

 それもやがては落ち着いたが、安らぎは訪れない。地獄はまだほんの序の口の淵、始まったばかり。

 

 「はぁ……ぁ……」

 

 眠った、起きたという感覚は無かった。あるのはただ薬が抜けたという体感のみ。時間感覚に次いで生物にとって重要な睡眠まで壊されてしまったのだろうか。はっきり分かるのは、ようやく意識が定まったという事だけ。

 

 こうまでして追い込んで。一体何の目的で……っ、電気が点いてる。眩しい。

 

 煌々と照らす照明に目を細めたが、瞼を閉じても明るく感じられる。耐え兼ね不意に手を動かした。そこであれ、と気付く。

 

 っ、もう、縛り付ける必要はない、ってか……そりゃ、いざとなったらガスで眠らせればいいもんね。

 

 いつからか、どうしてか。理由は分からないけれど、幸いな事に口枷含め全ての身体の拘束が外れていた。輸液パックやそれに繋がる管なんかも跡形も無く片付けられており、視界が些かすっきり、さっぱりしている。

 

 いや、だったら何でこれまで縛ってたんだ……? 今までは、動かれると困る事があったのか?

 

 疑問はある。あるけれど、何はともあれ息苦しさと窮屈さから解放されたのは喜ばしい。僕は早速掛け布団を退かし、何度か寝返りを打って固まった身体をバキバキ鳴らしながらほぐした後、手を付きながら徐に重怠い上体を起こす。体力が酷く落ちているらしく、その一連の動作だけでも一苦労で少し疲労感があった。

 それでも何とか起こして、ベッドの上に座ったまま視線を下ろす。すると、さらり。伸びた黒髪が肩を撫でた。

 

 うっ、ウソ……髪、こんな伸びてんの……?

 

 どれだけの時間が経っているというのか。分からないが相当だ。毛量があるせいで物理的に頭が少し重く感じる。

 

 ……現実、なの?

 

 あり得ない程の変化に息を呑みつつ、下げた視線を改めて股座に向け、まじまじと見て愕然としてしまう。未だ幻覚の続きと思いたいが、やはり無い。十年以上当たり前の様に股間にあった、所謂男のシンボルが見当たらない。

 

 「うぇっ、すかすかする……って、んん゛っ、なんか、声、変……っ⁉︎」

 

 発声した瞬間、新たに声変わり前の少年時代の如く高くなった声の変調に気付いたのも束の間。驚いて顔を上げれば、まるで計ったかの如く正面の壁に姿見が置かれていて、そこに痩せこけた裸体を晒す人間が映し出されていた。

 

 「えっ、僕、こんな……」

 

 照明に照らされ艶めく伸びた黒髪を肩甲骨の辺りまで降ろしたその姿はまるで女性の様で、一瞬、訳が分からなかった。連動する動きと割とそのまんまなやつれ顔で辛うじて自分だと理解出来たが、それ以外、まるで関連の無い別人にしか見えない。

 

 なんだこれ……えっ、なんなのこれ……?

 

 髪の毛を手で撫でる。サラサラしていて、少し良い香りがする。どうやら手入れされているみたいだ。

 

 きっ、気持ち悪い……いや、違う、それよりもっ……!

 

 彼方此方疑問符と嫌悪感が尽きないけれど、諸々二の次。見たくは無いが見ない訳にもいかず、恐る恐る股を開く。

 

 「っ、うわぁっ……」

 

 何度目を瞬いても変わる事は無い。映るのはやっぱり、太腿の付け根の間には剃られたのか毛の一本も無く、陰茎の影も形も無くなったつるりとした股間だった。

 尚、それだけでも十分ショックだが、更によく観察するとその少し下、陰嚢があった筈の箇所に、淡く白に近い薄桃色をした、縦に付いた皺のない唇の様な膨らみがあるのが目に入る。触れて位置を確認するついでに、その中央の谷間に縦に一本入った切れ込みを指でなぞれば、酷く生々しいこそばゆさが走った。

 

 っ……! 本当に、自分の身体なの、これ……?

 

 凄まじいクオリティで再現された、女性の陰唇。より現実味を増す取り返しのつかない空虚な手触りは、場所は違えど心理上の胸に空いた穴と似ている気がした。

 一層の喪失感に襲われてほろほろと涙が溢れ太腿を打つ。ぴちゃり。未だ少しばかり熱ぼったい皮膚に冷感が刺さり、背筋が微かにびくんと跳ねた。

 

 「っ……うぅ…………」

 

 悔しさと怒り、恐怖と悲しみ。扱い切れない負の感情が胸中で渦巻き、暫し目を伏せ涙ながらに呻いた。更に、めそめそめそめそ、啜り泣く声はまるで女子のそれで、際限なく気分が悪くなる。

 

 もう嫌だ……死にたい、死なせて欲しい……。

 

 元より生きる理由のない人間だ。それだけに、肉体を冒涜された屈辱とあまりの惨めさに心はあっという間にへし折られてしまった。もう立ち上がれる気がしない。絶望に染まって、間も無く涙は枯れ果てる。

 

 どうやって死のう……どうやって…………。

 

 自殺方法を考える為、徐に顔を上げて辺りを見回す。ただ目が留まったのは目的のものではなく、またしても花瓶に挿された花だった。

 

 ……ダメだ。死に切れない。

 

 刹那、不意に枯れ枝の様な心にふっつと憎悪の火が灯った。

 

 死ぬなら、その前にあのクソ親父に一矢報いてからだ。

 

 感情をバネにして立ち上がる。そして、ふらり、ふらり。壁に手を付きながら、おぼつかない脚取りで部屋の物色を開始した。

 

 

 

 尚、やはりと言うべきか。鑑みられる状況は何れも芳しく無かった。

 

 まずこの部屋の模様の中、最も浮いている冷たい鉄のドア。確認したはいいが、案の定施錠されている。そもそもノブの無い、つんつるてんの扉である。何か小さな投入口として機能しそうな四角い模様が付いているだけで、手が掛かりそうな出っ張りが一切見られない。

 押したり、スライドさせたり。数度試して早々に諦めた。模様すらびくともしなかった。ふうっと一つ息を吐き回れ右した後、ドアを背にして寄りかかる形で一度辺りを見回す。

 

 ……ほんとに、こうして見ると普通の部屋にも見える。

 

 無論そうでは無い事は分かっている。次に窓を確認しに行って、それを確信し項垂れた。

 

 「……はぁ」

 

 カーテンの先は、磨りガラスの向こうに光源が存在するのみ。せめて鉄格子であれと思ったがそれすら無く、そもそもが窓に見せかけたただの壁の窪みという有様であった。

 

 推察するに、地下なんだろうなぁ。

 

 これではここが何処なのか、検討するヒントすら得られない。運ばれている間の意識も全く無かった以上、何処ぞの推理小説やドラマ、アニメなんかの主人公の様に、自分が運ばれている間の情報から現在地を逆算するなんて手段も取れない。

 

 間違いなく、凄く手の込んだ事をされてる。気が滅入る。

 

 幾度もはぁ、と震え混じりの吐息が口から漏れる。現状を理解する度、悲壮と恐怖に追い付かれそうになる。脚を止めても迫って来るのに、一体どうしろというのか。

 

 「はぁっ……っ…………」

 

 震える身体を押して、兎に角何か状況を良く出来る物は無いか探す事にした。意味のある無しなど考えず、ただ無造作に、空き巣に入った泥棒の如く箪笥の戸棚を開けたり閉めたりして中を確認していく。

 

 「服だ……けど、これ、女モノ……?」

 

 全裸で肌寒い今、服は有難い筈だったが、広げて愕然とする。

 

 「服、服……これも服だ……ぅっ、これっ、女モノの下着⁉︎」

 

 最初の印象通り、この部屋のコンセプトは女子の一自室で間違いない様だ。幾ら他を探しても、中身は全て女性の衣類で埋め尽くされている。

 ほのかにそれっぽい、懐かしいミルクの様な甘やかで良い香りまでふんわり淡く漂ってくる。触れているだけで言いようの無い禁忌を感じる。こんなの、着られる筈が無い。

 

 なんなんだこれ……僕を、女の子にしようってのか?

 

 自らの発想に薄ら寒さを感じてまた身震いした。本当に意味が分からない。いっそただの怨恨で、苦しめる為の拉致監禁であって欲しいけれど、これはダメだ。そうではないと裏付ける要素が、狂気が滲み出ている気がする。

 

 っ、理解、したくないっ……!

 

 嫌悪感に耐えかね、またしても心は逃避を選んだ。今すぐここから逃れたい。その一心で震える手で部屋を物色し続ける。クローゼットの中や、小物入れの様な小さな棚の中。ベッドの下等も隈無く覗き、好転材料を探し求めた。

 

 しかし、見つかる物といえば男の頃には縁の無かった物、気が滅入る様な物や、見たく無かったばかり。

 

 これは化粧品……これは、生理用品? これも化粧品? これも、これもか……? 

 

 これでもか、これでもか、と、よく分からないモノだらけ。徐々に考えるのが億劫になっていく中、

 

 これ、マッサージ器具、じゃ、ないよね……?

 

 一部目に余る酷い物が混じっていたお陰で、一周回って気分はマシになった。

 

 はは、この棒状の猥褻物、これなら鈍器に使えるかな。バッテリー充電式みたいだし、解体して罠とか作れないかな。どうせまた入って来るんだろ父さん。はは、ははは。

 

 否、追い詰められて頭がおかしくなってきただけなのかもしれない。何故こんな物を置いているのか。そんな事これっぽっちも考えず、僕は暴力に思考を逸らして使えそうな物だけ床に転がし笑った。

 

 「最悪だ、ははは……はぁ」

 

 一頻り空元気を絞り出したら、くーっと大きくお腹が鳴った。

 

 そういえば、ここに来てから何も食べてないな……。

 

 あの大量のチューブの中には栄養剤も含まれていたのかもしれないが、それが無くなった今、僕は食事を摂る必要があるのだろう。

 

 何でだろ、空腹感が凄く落ち着くや。ああ、喉も乾いてきた。

 

 久々のまともな感覚に肩を撫で下ろしたその時、ドアの一部分、下の方が突如微かな駆動音をたてながらスライドして開いた。身構えたのも束の間、そこから食事らしき物が出て来て、すぐ閉まる。

 

 「…………へ?」

 

 三色サンドイッチに野菜ジュース、そして唐揚げ入りのサラダ弁当だろうか。割り箸まで備え付けられており、コンビニで買って来た事が容易に想像出来るラインナップだった。

 

 「だっ、ちょっ、おいっ!」

 

 僕は大慌てでドアの前に駆け寄って叩き叫び、それから聞き耳を立てた。しかし、何も聴こえては来ず。恐らく居たであろうドアの向こうの存在の感知は叶わなかった。

 

 「くっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 体力が落ちているのか相変わらずすぐ息が切れる。跳ね上がった心拍数を落ち着かせながら、送られた食べ物を見下ろし熟考する。

 

 タイミングが良過ぎる。監視は……まあされてるんだろうな。

 

 既に部屋のあちこちを探したが、今までそれらしいカメラは見当たっていない。

 神経質になり過ぎているだけかもしれない。しかし、ここまでされた事を考えると監視カメラが無い方が不自然だ。この部屋の壁は不自然な隙間が多いから、それらの何処かに隠されていてもおかしくないと思う。

 

 しかし、何故コンビニ飯?

 

 手に取って確認してみると、冷めた感触が手に伝わって来た。賞味期限が気になるけれど、ラベルは全て丁寧に剥がされており伺い知る事が出来ない。

 

 買い置きした物を出してる? まあ、手間を考えたらそんなもんか……?

 

 ただその割には無駄にバランスが考えられていて、こちらの健康状態に配慮している事が窺える。部屋の子綺麗さと同じだ。気味が悪くて仕方が無い。

 

 それ以前に、百歩譲ってそうでなくとも、得体の知れない相手から送られた物だ。気軽に口は付けられない。安全面でも、プライド的な面でも。

 

 「っ…………」

 

 僕はぐっと堪え、それを尻目に物色を再開しようとした。が、如何に物が豊富と言えど、既に探せる場所は殆ど探している。これ以上は無駄だ。

 

 どうしよう、何か工作でも始めるか? でも、監視されてるんだとしたら全部筒抜けだから、大掛かりな物は出来ないしな……。

 

 それが前提だとするならば、カメラを探して死角に仕掛けを施すか、布団の中で、何か武器を────いや、無理があるだろう。

 

 強硬策は通用する気がしない。自分で考えていて、そう思ってしまった。

 そもそも元よりこうして自由を与えている時点で、向こうには反撃されないという絶対的な自信があるのだ。ガスで意識が混濁した時以外入室して来ないという懸念も、複数人数である可能性も捨て切れない。

 

 情報が足りなさ過ぎる。動く為の情報が。

 

 諦観が心を覆っていく。最中、その気持ちとは全く関係無しに、身体は尿意を催し始める。

 

 ……そういえば、この部屋トイレが無いのでは?

 

 嫌な事に気付いた。思えば尿瓶の様な類いも無い。排泄は考慮されてないのか、そんな馬鹿な。

 

 「おい! 誰か! 居るなら返事してくれ! トイレに行きたいんだ!」

 

 一時的に外に出してくれたりしないかなどと一縷の望みを抱きつつ、ほんの思い付きでそう言葉を発した。するとその直後、駆動音と共に本棚の横の壁が開いて便座の様な物が存在する小さなスペースが出現。僕は戦慄し絶句した。

 

 「…………はっ」

 

 それから僅かな間を経て、震える声を絞り出す。

 

 「あっ、はは……いるんだな」

 

 何故こんな仕掛けを作っているのかはこの際どうでもいい。今だけなのか、ずっと付きっきりなのか。分からないけれど、確信した。今、まさにドアの向こうに、自分を見ているか、はたまた単純に部屋の前で見張り番をしている存在が居ると。

 

 「なぁ、だったら答えてくれよ。父さんなのか、それとも他の誰かなのか。目的は、何なのか……!」

 

 当然答えは返って来ない。部屋の冷たい空気はしんと静まったままだ。

 

 「なんだよ、いるんだろ? 返事してくれよ……!」

 

 ここに来て幾度も迎えていた精神的限界。それが今一度振り切れる。「おい! 本当に何なんだよ⁉︎ この部屋、この身体! 元に戻せよ! 外に出してくれよ! おい!」と、爆発した感情のまま、弱々しくも目一杯叫び、強くドアを叩く。が、何を言おうと、何をしようと。うんともすんとも返事は返らず、代わりにトイレの扉が閉まる。

 

 「っ、そうじゃなくてっ……! 何でも良いからなんか言えよ! なあ! 言ってみろよ! 答えろ! 答えっ……っ、答えろよぉっ……!」

 

 太腿を熱い液体が勢い良く流れ落ちる感触がしたが、最早気にならなかった。同じく流れる汗と涙が冷たくても、身体の熱は冷めず。ドアを叩いて、叩いて、叩いて叩いて叩いて、狂った様に叫び続けた。体力上そう長くは持たず、喉も手も痛み、減衰していっても。泣き崩れ、力尽きても尚、叩いて、叫んで、また叩いて。

 

 「ふざけんなっ……答えろっ…………くそっ、くそっ、くそぉっ……!」

 

 やがて言葉もあやふやになって、声も出なくなる。と、その時。

 

 『食べなさい』

 

 何かスピーカーを通したかの様な、微かなノイズ混じりの音声が部屋に木霊し、耳を疑った。

 

 「えっ……」

 

 今、一番聴きたくない声だった。聴き間違い? 否、間違える筈もない。回数こそそう多く無いものの、不服ながら昔から馴染みのある声だ。関心をこれっぽっちも抱いていない、父の冷淡な声。

 

 「はっ……あぁっ……⁉︎」

 

 尚、それだけだった。以降、どれだけの質問や罵詈雑言を投げ掛けても返事は皆無。僕の言葉や行動は、鉄のドアに跳ね返されるのみに終わった。

 

 

 

 昔、僕は父に誉めて貰いたくて、満点のテストの答案用紙を見せに行った事があった。ほぼ月に一度程度の僅かな頻度で垣間見る顔だ。再三に渡って言うが、当然ながらその頃もほぼ父という認識は無かった。

 ただ当時は殆ど先生みたいな認識に近かった。様々な人から、「君の親は凄い」と、仮にもそう言われる人物であったから。幼い僕はそんな彼に認められたくて、機会を伺って、愚かにも自慢げに見せに行ったのだ。

 

 「父さん、これ……」

 「なんだ?」

 

 相も変わらず銀縁眼鏡の奥の威圧的な眼光に臆しながらも、震える声で言った。

 

 「っ、テスト、100点、取れて……」

 「なんだ、そんな事か」

 

 結果は無体な物だった。疲れてるからそんな事で話し掛けないでくれ。父はそう冷たくあしらった。

 

 悔しかった。更に言うと悔しいだけでなく、寂しかった。心の何処かで、やはり父性を期待していたんだろう。その日は涙が止まらなかった。

 

 けれど未だ純粋な僕は思った。大した事がないから、振り向いて貰えないんだと。だから認められる為に努力して、以降も何度か結果を出して。数少ない機会に根気強く報告した。

 しかしいずれもそっぽを向かれ続けて────ある時、諦めた。いや、諦めたとは少し違うか。

 

 「……なんだ、それは?」

 「えっ?」

 「そのブレスレットだ」

 「えっ、えっと……お母さんから、今回の試験の御守りにって……」

 「…………」

 

 凍りつく様な視線は掲げた賞状ではなく、手首に付いたそれに向けられ、すぐにふいと逸らされた。それよりもと返事を求めたが、ダメだった。彼はその場から逃げる様にして立ち去っていったのだ。

 

 当初はその言動が全く理解出来なかったけれど、後に想像した。もしかしたら、彼は僕に嫉妬していたのではないか、と。

 

 思い込み過ぎだとすぐに一蹴しようとしたけれど、し切れなかった。直感的に何処か嫌気が刺したのだ。

 その時に出来た、僕の彼に対する印象の中の大きな痼り。それが気持ちを鈍らせた。以降、褒められたいと思う事は無くなって、報告は行わなくなった。

 

 

 

 疲労困憊、ぐったりとドアに寄り掛かる僕の頭の中を、先程聴こえた言葉が幾重にも回る。

 無様な僕に対して露程の愉悦も無く言い放たれたあの命令口調。ボイスチェンジャーなどではない。直感と推察、双方で確信がある。あれは確かに、父の声だった。

 

 「……くぅっ」

 

 やっぱりな、なんて達観出来ればどれ程楽だろうか。ショックで心がぐしゃりと歪んで、胸が重く痛む。

 

 ここまで酷い人ではないと、そう思ってたのに。

 

 クズなのは分かっていた。けれどそれ以上に、臆病で小さな人間だとも思っていたから、これだけ大それた行動は起こせないのではと。希望的観測を多分に込めて考えていた。

 

 でも、動機があるんだ。何もかも飛び越えるだけの、強い動機が。それさえ有れば、アイツは────

 

 活けられたスイセンの花。去勢され、女体に整形された肉体。女性的な部屋での監禁。揃ったあらゆる情報が想像上の父の内面と結び付き、最も異常で、最も嫌悪すべき答えに向かっていく。避け難い程に、はっきりと。

 

 ありえない。嫌だ、そんな事。頭の中で形にする度、拒絶反応で頭と内臓が締め付けられて、苦痛が滲み出す。受け止め切れない。

 

 「う゛ぐっ……ぅ゛ぇえええぇっ…………」

 

 胃は空っぽなのに、喉の奥から酸っぱい液だけが込み上げて口から溢れた。

 一頻り出して落ち着けば、胸元から足元にかけての広範囲に冷感を覚え、同時につんとした臭いが鼻をつく。視線を下ろせば、失禁に嘔吐。二種類の液体が混ざり合い、水溜りを作っている。酷い有様だ。

 

 「っ……はぁっ……」

 

 僕は羞恥に顔を顰めて嘆息しつつ、良かった、向こうの嫌がらせも役に立つではないか、と。自分の体液で濡れた下半身と床を箪笥の中の服を使って思いっきり拭いてやった。

 

 ふっ……子供の頃でも、ここまでやりたい放題にした事は無かったかも。

 

 そして散らかった部屋の中央にそのまま転がり、少しだけ目を閉じて眠ろうとする。がしかし、眠れない。空腹ですぐ目が覚めてしまう。

 

 うぅうう、空きっ腹が痛んできた……。

 

 まさかこんな形で飢えの辛さを痛感するなんて思わなかった。人は追い詰められると、こうもままならないのか。

 

 ……仕方ない、か。

 

 徐に身体を起こし、部屋の端に置かれた食べ物と向き合うと、胸に手を当ててまたふうっと息を吐く。

 

 思いの外、落ち着いている。というより、深く沈んでいる。これ以上はもう無い。あっても意味は無い。心の底からそう感じて、どうやら漸く感性が鈍ったらしい。強がりなのかもしれないが、重苦しさが幾分か無くなってきた。

 

 腹の虫はくーくー鳴り続ける。僕は少し考えて、決断した。

 

 言う通りになるのは癪だけど、食べよう。

 

 自力での脱出は不可能。ならば、長期戦を覚悟の上、ある程度従順を演じて隙を窺う他ない。

 恥とプライドを捨てて耐え忍ぶ。其方に思考を切り替える。全ては、逆襲の為に。

 

 ……注射痕は無し。変な薬とかは、入れてないか。まあガスでどうとでもなるんだろうし、態々食べ物に入れる必要はないよな。

 

 念の為の確認を済ませると、僕は臥薪嘗胆の志を燃やして、コンビニ飯を殊更念入りによく噛み完食した。

 

 そして空腹が満たされ暫くすると、再び睡魔に襲われ始める。薬物による物では無い。単純に満腹と、疲労によるものだ。

 尚、それを見計らったかの如く照明も落ちていく。

 

 今度は眠れ、って事なのかな。

 

 物言わぬ部屋の外の人間の意図を汲み、僕はまたその場で横になる。

 

 ベッドに入れとは言われて無いから、いいよね。

 

 あわよくばこのまま寝たふりで奇襲を狙えないか、などと僅かに考えた所で、許さんと言わんばかりに部屋のあちこちからガスの噴出する音が。

 

 っ……一応、布で防げないか、試し、て…………。

 

 手に握り締めた服を口元に当てたものの、間も無く酩酊。暗闇はぐんにゃりと歪んで、僕は呆気なく眠りへと堕ちていく。

 

 く、そぉっ────

 

 

 

 それからまた、ピンク色の夢を見た。そういう類の薬物を使っているのだと客観的に認識したのも束の間。

 

 「どうしたの? ぼーっとして」

 「へっ?」

 「ほら行こ!」

 

 僕はどういう訳か小中通して淡い恋心を抱いていたクラスメイトの女の子に腕を引かれ、甘美な虚構の世界へと没入していった。

 

 穏やかで支離滅裂な夢の連続だった。先日の夢とは違い不思議な程に生々しさは無く、不鮮明で何処か遠くて、けれども異様な幸福感だけはある。そんな夢だ。

 

 「おーい」

 

 女の子の呼ぶ声がする。現れるのはもっぱらあの子、サトウさんだ。

 

 まったくもって、彼女とは親しい訳では無い。僕の一方的で密かな片思いだ。だからきっと、こんなのは全部自分の妄想でしか無いのだろう。

 しかしそれら一切を気にせず、僕は学校で仲睦まじく手を握り合い、デートと称してショッピングモールを歩く。陳腐で、理想的な幻想。

 

 したかった事が次々と形になる────あくまで、画面の向こうで。

 

 ドラマティックな二人だけの世界で、唇と唇が重なる。その直前にそう認識してしまった僕は、気付いたにも関わらずその映像の前で不意に劣情を催し、反り勃ち張り詰めた自身の肉茎を握り締めようとした。

 

 瞬間、その手は空を切り、目が醒める。

 

 「っ……はぁっ……はぁ……ふぅっ……」

 

 荒い息、激しい拍動。視界が揺れる中、いつの間にか被せられた掛け布団を退けて、右手の行き先だった箇所を見れば。そこには勃起した陰茎などは無く、つるりともぬるりともしている、浅ましくて虚しい現実の輪郭があった。

 

 虚脱感と熱ぼったさの中、僕は自分が今寝汗ぐっしょりのベッドの上に居る事を認識し、更に下半身の湿った生暖かさと、つんとしたアンモニア臭に気付いて羞恥する。

 

 っ、ぅっ…………!

 

 これが監禁生活三度目の起床だった。

 

 

 

 女性は男性よりトイレが近い、なんてのはよく聞く話だけれど……自分がそうだなんて認めたくない。きっと飲み物に利尿剤でも入ってたんだ、そうだろう。

 

 初っ端メンタルを削られ悶々とする中、身体を起こして辺りを見回す。また昏睡中に人が入った様だ。散らかした物、汚した物全てが綺麗に片付けられており、ついでにドアの前には水の入ったペットボトルと、コンビニで買ってきたであろう朝食のラインナップが置かれていた。

 

 っ、寒い……。

 

 身体の芯は火照ったまま妙な感じだけど、体表は冷感に襲われる。何せ未だ全裸だ、濡れた下半身は特に寒い。

 

 北風と太陽かよっ……どうしても、僕の判断で着させたいんだな。

 

 態々ベッドに運んで布団をかけるなんて事をしているのだ。眠っている間に服を着させる事など造作も無い筈。なのにしていない、という辺りに、何か悪辣な意図が感じられて仕方がない。

 

 何でも思い通りになると思うなよ。

 

 僕は改めて心を強く保ち、全裸のまま朝食を済ませた。

 

 尚、食事を終えれば寒さは和らいで気にならなくなる────なんて事はなかった。

 

 っ……ヤバいっ……震えが止まらないっ……。

 

 奥歯が微かに打ち合わさってカチカチと音を鳴らす。もしかしたら風邪をひいたのかもしれない。薬の影響と区別が付きにくいけれど、ぼーっとした熱っぽさの中に悪寒が混じってる気がする。

 

 いや、もしかしたらも何も、こんな環境下で裸のまま過ごしてるんだ。ひいて当たり前だよねっ……っ。

 

 「うっ……トイレっ……」

 

 寒いせいですぐ催す。しかも、大きい方も来ているみたいだ。お腹まで冷えてしまったのだろうか。キュルルルル。音を合図に特有の苦痛が増してきた。

 漏らせば惨事だ。僕は必死に声を上げる。

 

 「トイレっ……トイレ開けてっ……!」

 

 底意地の悪さを散々垣間見ている故、助け舟は出ないかに思われた。しかし、思いの外すぐ引き摺るような音がして、本棚横の壁が開きトイレスペースが露わになる。

 

 「っ…………!」

 

 大慌てで駆け込んで便座に座り込む。そして習慣から不意に開閉部の境目に手を伸ばしたが、掴むところなど何処にも存在せず。「ドアっ、閉めてっ……閉めらないのっ……⁉︎」と困惑した所で限界が来た。

 

 「ぅっ……!」

 

 結局、今一つ落ち着かないまま、僕は盛大に汚い水音を立てて大小同時に用を足す事に。

 

 「……ぅわぁっ…………」

 

 えも言われぬ恥ずかしさに思わず声を上げて悶える。公開用便な事もあるが、それ以上に、改めて気付かされる感覚の違いが酷く、はしたなく思えて仕方が無い。

 

 何だこれっ……蛇口が無いせいで、どうしても肌を伝って垂れ流す感じになるっ……!

 

 思い切って出さなければまともな水流にならず、股筋を伝ってお尻の方へ行ってしまう。正確な意味で、漏らしているみたいだ。

 

 「ぅっ、はぁっ……!」

 

 下痢も相まって、臀部表面は不快極まった。凄く貶められた気分だ。

 

 一体、どこまで人の尊厳を踏みにじれば気が済むんだっ……!

 

 怒り、恥、寒気、ないまぜになった震えの中、何とか出す物全てが出されて一応の安堵を得る。が、事はここで終わりではない。

 

 臀部の不快感がどうしようもなくて、僕はウォシュレットのボタンを探す。すると、有難い事に一般的な位置にあったので、特に意図せずいつもの気分でおしりと書かれたボタンを押した。

 

 駆動音が鳴り、直後、ノズルから尻穴に向けて水が噴射。

 

 「っ⁉︎」

 

 当たってすぐ驚いた。これもまた勝手が違う。普段の角度だと、当たった水流が股の方に行ってしまう。

 くすぐったさを感じ、慌てて強さを弱めつつ、腰を前後に動かして上手く当たる様に調整する。すると程なく不快感を洗い流せたので、ボタンを押して水を止めた。

 

 「……ふぅ」

 

 一息吐いて視線を上げる。トイレットペーパーも目の前にキチンとあった。いつもの要領で巻き取った後、股の前から尻の下に手を入れて濡れている箇所を拭いていく。

 

 「くっぅっ………!」

 

 習慣通りに無心で行おうとしたが、ダメだった。抵抗感、拒絶反応が強い。下半身のシルエットを否が応でも意識させられてしまう。

 無意味に目をギュッと瞑って、身を強張らせながら尻の上に押し当てた紙を這わせる。むにっ、むにっ。筋張った硬さの無い、柔らかな感触が返る。

 

 筋肉が落ちただけ。それだけなら良い。けど、問題は────

 

 粗方尻が済んで、いよいよ避けていた股へ差し掛かる。と、濡れた紙が恥丘の輪郭に触れた瞬間、

 

 「ふひぅっ……!」

 

 治りかけの傷口を不意に擦った時に近いが少し違う、何とも言えないひり付く様な刺激が走って、ビクンッと、大きく背筋が跳ねた。

 

 直感した。これは認めた瞬間、重要な何かが一気に瓦解すると。

 故に必死に自分に言い訳する。邪な思いが全く湧かなかったと言えば嘘になるけれど、自分の身体だ。気味の悪さが上回っているし、何より体調が悪い。だから如何わしい反応じゃない、純粋に、くすぐったかっただけだ、と。決して間違いは無い、最もらしい理由を並べて平静を保つ。

 

 でも、この感じっ……濡れた紙でそわそわして、指で直に触った時よりキツいっ……!

 

 「うっ……ふっ……!」

 

 恐る恐るやっているのが余計良くないのかもしれない。思い切れたらもう少しマシな可能性はある。しかし、怖くて出来ない。

 

 どうにもままならないので、一体世の女性はどうやって普段排泄を済ませているのか、そもそも今の自分の身体は女性のそれといって良いのか等々。仕方の無い事を考えて、うだうだ胸中で文句を吐き捨てながら、どうにかこうにか少しずつ慎重に水気を紙に吸わせていく。と、その最中。

 

 うぅっ……本格的に悪寒が酷くなってきた……。

 

 こそばゆさによるぞわりとした震えが身体の芯で残って、重怠い悪寒に変わる。いよいよ気分が悪い。吐き気もする。

 

 履き物は無いしもういいかとある程度拭けた所で思い至り、便座から立ち上がって水を流した後、トイレスペースからふらりと出て行く。直後に背後で駆動音が鳴り響き、トイレが閉まった。元の本棚横の何も無い壁に戻った様だ。

 

 どういう仕掛けだまったくっ……ぅっ。

 

 「っ……けほっ」

 

 息が苦しい。深めに息を吸ったら咽せるように咳が出た。

 

 ダメだこれ……きっと熱出てる……。

 

 脇を強く締め、腕で自身を抱き震えながら小便臭いベッドを目指す。汚いとか言っていられない。布団を被らなければ。

 

 「こほっ……うぅっ…………」

 

 倒れ込むようにベッドに転がり込んで布団に包まる。一部少し湿っていて冷たいし臭うけれど、無いよりは遥かにマシだ。

 

 咳き込みながら薄目で天井を見つめた後、ゆっくりと目を閉じ考える。こういう状況に陥った場合、向こうはどう動くのか、と。

 一応、これだけ手間を掛けてるのだから殺すつもりはないだろう。だから、癪だけどきっと、何処かのタイミングで応急処置に来る筈。

 

 思考しながらじっと耐える時間が続く。意識は朦朧としていて何度か浅い眠りに落ちるも、すぐ咳き込んで目が醒める。

 

 ……来ない。

 

 待てども待てども、何も来ない。何も起こらない。不安になってきた。

 

 どうしてだ……?

 

 誰かの助けを望み、縋っては諦めてを繰り返してしまう。ただでさえ弱っていた心が更に弱っていく。

 

 僕、このまま死んだらどうなるんだろう…………。

 

 ふと、今と同じ様に風邪をひいて寝込み、ベッドの中たった一人で心細さを抱え涙した幼少の頃と重なって、その時と同じ事を考えてしまった。

 

 母さん、悲しむだろうな……なんて。今はもう、いないけど。

 

 あの頃は漠然とそう思えた。けれどその唯一の人は、今はもうこの世に居ない。

 改めてそう思うと無性に切なくなって、涙が溢れて止まらなくなる。

 

 と、その時。照明が落ちないまま、ぷしゅーっとガスの噴出する音がした。

 まさかこの音で、ほっとするなんて。不覚を恥じる中、フッと意識は途絶えた。

 

 

 

 それから暫し、期間不明の朦朧とした時間が続いた。またしても、と言いたい所だったが、今回感じたのは異常な恐怖や興奮等とは全く異なる、平常の安堵や優しさ、暖かさだった。

 

 そもそも今までの気色悪い夢とは違い、比較的健全で明瞭な実感があった。常に側に誰かが居て、手を握ってくれた。身体を優しく拭いてくれたし、病衣の様な服まで着せてくれた。

 ふと僅かに醒める時には居なくなっているので、分かるのは朧げな輪郭のみ。何者かは分からない。しかし意識が明瞭でない間は、今までの心細さを埋めるかの如く、常にその存在を近くに感じられた。

 

 かあ、さん……。

 

 そんな訳はない。しかし救いを求める心の成せる技か。どうせ幻だと拒絶しつつも、状況が幼少のある時と重なった為か不思議とそう思えてしまって、そう感じる事が何より幸せだと思ってしまった。

 

 かあさん、おねがい、ずっといて。一人にしないで。

 

 その想いは胸に仕舞わざるを得なかった。自分から手を伸ばそうとしたけれど動かせず、口にしようとしても、何かに遮られて言葉に出来なかったから。

 諸々全て深く追究する事を避け、僕はその幻想に閉じ籠り、そして癒された。

 

 

 

 ふと、目が醒める。変わらずそこにある明るい照明、自身を閉じ込める白い天井が僕を出迎える。

 

 感じるのは見知った体感。布団の中、汗ばんだ身体の火照りと動悸、虚脱感と喪失感。次いで身に纏っている衣が未だ存在する事に安堵し、更にそう感じてしまった、飼い慣らされているかの如き自身を嫌悪する。そして最終的に目減りする期待感を自覚し、落胆した。

 

 ほんと毎回毎回……よくも人に好き勝手薬を盛ってくれるな。

 

 暫く安静にして、取り敢えず心拍が落ち着くのを待つ。落ち着いたら徐に身体を起こして、今一度静かに嘆息する。

 

 「…………はぁ」

 

 早くも、と言うべきなのだろうか。あまりに長かった気がするが、暫定した監禁初日から実に十日が経過した。まあ十日というのはあくまで体感で、落ちる照明と噴き出すガスを見た回数を数えただけの数字だ。朦朧としていた期間も長いので、本当の日数はそれよりずっと経過しているだろうけれど、基準を見失わない為に仮にそう決めている。

 

 というのも、どん詰まりの現状、最早僕に出来ることは限られていて。どちらかと言うと、この気が狂いそうな状況下を如何に脱するかよりも、如何に耐えるかの方が重要なのだ。

 

 立ち上がり本棚へ歩いて、左上角にある料理本を手に取った。三日目に風邪をひいて、六日目だったか。漸く起きていられる程度に回復して、それからはここにある本で時間を潰す様になったが、今この本を取ったのはそれが目的では無い。

 

 十ページ目に折り目を付け元に戻す。願わくば、これが長きに渡る日常のルーティンとならない事を祈って。

 

 

 

 ドア前の所定の位置に置かれた朝食を食べた後、ぐっぐっと軽く体操して身体の具合を確かめる。もう眠気も怠さもない。腹の奥に残る、常態化した変な火照り以外は快調だ。咳ももう出ないし、風邪は治ったと見ていいだろう。

 

 向こうもそう判断したのか、また薬の容赦が無くなってきたしね。

 

 体調を診て加減しているのか、しんどかった間は優しめだったのに、また厳しくなり始めている気がする。現に今朝は久方ぶりに寝覚めが悪かった。

 

 とはいえ、これまでとは違い優しいままの部分もある。病衣の着用が、未だ許されているのだ。元気になったら脱がされるかもと思っていたけれど、これぞ怪我の功名か。有り難がるのもどうかと思うが、待遇が改善されたのは素直に喜ばしい。

 

 まあ酷いことする割には、とにかく死なせるつもりはないってのは一貫してるんだろうな。

 

 「…………そろそろ少しくらい、話してくれませんかね?」

 

 静寂の中、自身の喉から発せられる未だ聴き慣れない透き通った高い声が反響して、直ぐに静まる。返事は無し。いくら待っても返って来ない。

 

 いい加減会話の一つや二つ、あっていいと思うのだけれど。

 

 また一つ溜め息を吐いて俯く。長期戦を覚悟している自分だが、流石に少し焦燥し始めていた。

 理由は簡単。情報が一向に更新されないからだ。未だにはっきりと分かっているのは、この拉致監禁には少なくとも何らかの形で父が関わっており、身代金目的では無い、僕個人の身体に向けられた異質な事案であるという事と、この部屋がその為の空間で、毎日昏睡催淫ガスが出て、眠っている間に維持の為出入りする人間がいるという事くらいである。最初の数日からちっとも進展していない。

 

 その原因もまた単純だ。監禁されてからこれだけ経っているのに、人の姿を見たのは後にも先にも最初の拘束中、暴れる自分に注射しに来たあの時の父の一度きり。会話らしい会話が無く、その膠着した状況が続いているからだ。これでは進展のしようが無いし、いつまで経っても全貌が全く見えて来そうに無い。焦るなと言われても無理である。

 

 とはいえここまで取れるアクションは粗方取った。結果は散々。偶然ひいた風邪が一番成果があった始末だ。自分から動かすのは厳しいと言えよう。

 

 しかし、だ。

 

 しかし、能動的な計画を諦めても、舞い込みそうなチャンスは無い訳じゃない。寧ろこの部屋に出入りする人間が居る以上、かなり太い線がある様に思う。

 

 入って来るのは眠っている間だけ。でも、眠っているとどうやって確信を得ている? もし分量だとすれば、薬は徐々に耐性が付くだろうし、いずれミスが生じる筈。

 

 何にせよかなり難しい事をしているのは確かだ。それ以外にも綻びが出て来てもおかしくない。だから決して希望を捨てず、いつそのチャンスが来てもいい様に万全の態勢で構えていなければ。

 

 「……そろそろ、読むか」

 

 読書し、座して待つ。それが今取れる最高の選択だった。幸いにも本棚には読み応えのある書物が多く、時間潰しには事欠かない。精神の安定に一役買ってくれるし、何なら医学に関する書物も結構ある。この中からヒントが得られる事だってあるかもしれない。

 

 そんなモチベーションを胸に、どれを読もうかと棚に並ぶ背表紙をざっと見ていく。すると不意にその中で一つだけ、真っ黒で何も銘打たれていない大きめで少し出っ張っている物に目が留まった。

 

 「……ん?」

 

 気になって何となく引き出してみたが表紙にもタイトルは無い。ラベリングもされておらず、ただただ黒革めいた装丁が存在感を放っている。こんなのあっただろうか。

 

 前からあったなら、恐らく気付いているだろう。元より綺麗に整頓された本棚だ。その中ではちょっと悪目立ちしていて、後から差し込まれた感が半端じゃない。

 

 直近で入れられたのかな……だとして何の為に。

 

 碌な意図ではない事は察するに余りあった。僕は恐る恐る開いて中身を確認していく。

 

 「っ……これ、アルバムだ……」

 

 恐らく大切な思い出の一場面であろう写真が、比較的無造作にクリアファイルのポケットに入れられていた。最初のページに赤ちゃんが写っており、次のページに行けばいく程、その子が成長していく様子が見られる。

 

 服装、髪型からして女の子である事はすぐ分かったが、途中で面影が一致して気付く。これは、母さんだと。

 

 母さん、こんなだったんだ……。

 

 ころころとしていた頃の母。おかっぱ頭の女児な母。愛嬌を振り撒く幼い頃の母の姿の数々に思わず頬が緩む。

 が、そんな純粋な気持ちで見られたのは最初の数ページ分だけだった。写真の中の母が成長していくにつれ僕の中の母への恋しさが増していき、悲しみが深くなると共に、今鏡に映る自分の姿とどんどん似てきているのを感じ、このアルバムがここに存在する意味、悪辣な意図を察し嫌悪感が膨らんでいく。中学の入学式らしき所でそれらはピークに達して、ページを捲る手が止まってしまった。

 

 本当に、悪趣味だな……!

 

 どこまで冒涜すれば済むんだろうか。怒りが湧き上がり、一瞬アルバムを振り上げ、そこで堪えた。振り下ろさずそっと閉じて元の場所に戻し、深呼吸する。

 

 今更だ。この部屋の物の大半は、僕の神経を狂わす為に揃えられた物ばかりなのだから。一々心を揺さぶられてどうする。

 

 少女漫画の背表紙を尻目に、医学関連のタイトルを中心に視界に捉え、それらを手に取り心を落ち着かせた。

 

 

 

 まだまだ待てる。まだ余裕はある。待っていれば、反撃のチャンスは必ず来る。僕はそう自分に言い聞かせる。事実、そう思えたし、そう思っていた────この時までは。

 

 

 

 …………そういえば。

 

 薬学関連の書物があったので読んでいた所、一部の内容でふと思い出し、考察は薬、ガスの内容に戻る。

 母数も少ないし、偶然、もしくは錯覚の可能性もある。けれど思うのだ。一番最初に吸わされた物と、風邪期間中に吸わされた物、そしてそれ以外。大まかに三種類、それぞれ異なる物ではないかと。

 

 中でもたった一度だけ吸わされた最初のアレ。アレだけは、明らかに違うと断言出来る。

 

 他二つは幻覚作用の強弱と傾向の違いこそあれど、無臭で多幸感の方向性が似通っている。だがアレはそうじゃない。思えば甘い香りも、肉体的な破壊を受けた感覚に陥ったのもあの時だけだったし、幸せというより何処か暴圧的で、徹底的に心身を狂わせる様な、そんな感じだった。

 

 「っ……あー、クソっ……!」

 

 思い出したら身体がソワソワしてきた。落ち着かない。立ち上がって悪態を吐いては、髪の毛を掻き乱す。

 

 落ち着け、何されてるか分からないとはいえ、パニックになっちゃいけない。

 深呼吸を一つ行った所で、ふと下腹部より下、擦れた衣服の中の異様な熱感に気付く。

 

 病衣の下……ずっと腹奥に重く溜まっていた熱いのが、膨らみ始めてる……?

 

 無い筈の陰茎が張り詰める様な錯覚に襲われて、圧迫感から逃れるべく腰をくの字に折ってしまう。

 

 「はーっ……っ……?」

 

 一時的な物だ、暫くじっとしていれば収まる筈。そう楽観視しようとしたが、全く止まらないし、そもそもじっとしていられない。膨らんだ熱を押さえつけようと腹奥が勝手にキューッと締まって、そこから甘く狂おしい何かが滲み出してきてしまう。

 

 あっ、えっ、何これ……まさか、禁断症状……? いやきっと違うそうじゃないっ……!

 

 この感覚は初めてでは無い。夢の中で散々味わった、ただの強烈な性衝動だ。それが今、起きている間に現れているだけだ。

 

 どっどっどっどっ。折角起きて暫くして落ち着いていた心臓がまた早鐘を打ち始めた。「ふーっ……ふーっ……!」と徐々に息が荒くなって、胸の奥が締め付けられていく。

 

 うっ、切ないっ……? 切なくて、苦しいっ……!

 

 止めなきゃ、他の事を考えて気を紛らわせなきゃ。そう自分に言い聞かせて頭を回そうとしても無駄だった。性的興奮が今朝の夢と結び付き、いつものサトウさんとの夢を思い浮かべてしまったのだ。

 現実が薄らぎつつある最近の自分にとって、直近のそれは未だ鮮明だ。振り払おうにも中々頭から離れてくれない。

 

 ただのクラスメイトだった事しか無いのに、遊園地デートに行く彼女だったり、床を共にする妻だったり、果てはメイドだったりOLだったり……側から見て都合の良い妄想だからタチが悪いっ……!

 

 身体が内に内に締められて、内股になった脚がもじもじ擦り合わさる。すると衣服の中でぬるっとした滑りを感じて、堪らず病衣のズボンを脱いだ。

 

 「ふーっ……うっ、うあぁっ……」

 

 とろーっとした粘液が、股座から太腿を伝い落ちていくのを目撃してしまった。その光景は酷くはしたない物だったが、それ以上に自分の股座からかなりの量の粘液が垂れ流される事態そのものが衝撃的で、思わずたじろいだ。

 

 次いで、解放された下半身からむわりとニオイが放たれる。小水でも汗でもない。何か本能に訴えかけ、興奮させる様な……そんなニオイだ。

 

 さわりたい、いじりたい。けれど、肝心の発散させる為の突起部が無い。思い浮かぶ方法が実行出来ない。もどかしい。

 でも、確かに張り詰めている。疼いている。なら、指先でこの股を擦ってみれば────ダメだ触っちゃダメだ、汚いし、気持ち悪い。何で出来てるか分からないんだ、気持ち悪いんだぞ、見るな、こんな、恥ずかしい。

 

 「っ……!」

 

 パチン。葛藤の末自身の頬を打った僕は、問題解決の為至極単純な行動を発想。スクワットを始めた。

 

 そうだっ。欲求不満だと言うのであれば、運動で解消すれば良いじゃないか。鍛えれば落ちた体力も戻せる、一石二鳥だっ。

 垂れているのも汗だと思い込んでしまえ。そんな勢いで行おうとした。

 

 「ふっ……ふぅっ…………!」

 

 しかし、全然出来ない。そもそもの筋力が落ち過ぎている。膝を深く曲げたら戻って来れそうに無い。

 

 「くぅっ……!」

 

 欲情に際して筋トレという発想しか出来ず、その筋トレすら満足に行えないなんて。なんて滑稽で、屈辱的なんだろう。

 奥歯をぐっと食い縛ったのを境に、諸々の発作が少しずつ収まっていく。どうやらおざなりなお陰で何とか気を紛らわす事に成功したらしい。

 

 「っ…………はぁあぁ……」

 

 

 

 一件落着、などと気は抜けず。その後も取り敢えず出来る範囲で、体力の許す限り筋トレを行った。すると不健全極まる環境下での健全な行為は思いの外高い効果を発揮。疲れてうとうとする中ガスを浴びたのだが、体感する如何わしさ、いやらしさなんかをかなり軽減出来た。

 代償として翌朝の筋肉痛は深刻だったが、正気を失うよりは痛い方がマシだ。今後も無理のない程度に続けようと心に決めた。

 

 しかし、同時に心の何処かでこうも思った。堂々と構えていられる時間の余裕は、実はあまり無いのでは、と。

 その懸念は程なく現実の物となった。

 

 

 

 例によってガスで眠らされ、更に翌日、十二日目。

 

 「っ……ふぅっ……!」

 

 目が覚めた瞬間、筋肉痛の肉体の芯がじーんと熱く痺れて動けなかった。夢、ないし幻覚の内容は多幸傾向で変わっていないのに、そこで味わった体験の尾の引き方が一気に悪化し始めたのだ。

 

 前までは現実との落差による喪失感とか、諸々の嫌悪感が先行してたのに……身体が、中々冷めてくれない……!

 

 悪感情への慣れか、身体に薬が溜まってきているのか。恐らく両方である事は容易に想像が付いた。だとすればする事は一つ。

 

 「くっ、ぅ……!」

 

 心身に鞭を打ち、痛みを堪えて筋トレで誤魔化した。しかし何とか凌げはするものの、効果は一時的。読書中ふと集中が途切れた時や、トイレで排泄する時。身体を意識してしまえば、再び苛まれる様になる。

 

 う、わぁっ……。

 

 股座の濡れ感が酷くはしたなく、汚らしくて堪らなかった。仕方が無いので、声を掛ければ当たり前の如く開くトイレにいつも通り入ってトイレットペーパーを拝借し、ズボンの中に折り畳んで敷いたりしたのだが。

 

 っ、ダメだ、擦れるっ……!

 

 耐え兼ね、結局出来る限りズボンを履かずに過ごす様になった。結果としてベッドに座れなくもなってしまったけれど、これまた可能な限り立って過ごし、休憩中は寝そべって凌いだ。

 

 これだけでもかなりの支障だが、更に翌日の十三日目。

 

 「はぁー……っ、ふー……」

 

 前日同様に何とも言い難い火照りに悩まされる寝起きの中、病衣の下でひりりとひりついたのは、何と乳首だった。比喩や心理的現象ではなく、物理的症状として乳頭部を微かな痛みと灼熱感が襲ったのだ。

 

 な、なにこれっ……いた、い……?

 

 身を揺すれば、チクリ。衣類と擦れて胸の先から奥まで痛む。覗けば、見た目に少し赤く晴れている様に見えた。

 筋トレで激しく動き過ぎたせいだと思いたかった。が、その深めの痛感と何とも言えない歯痒さがそうではない可能性を過らせる。

 

 でも、気にしなければこれは大丈夫、大丈夫……。

 

 とはいえ筋トレには差し支えたので、折角得た尊厳を自ら手放す痛恨の行為だがやむを得ず、動く時だけ全裸になって運動した。

 

 

 

 起きて、食事して、排泄して、運動して、読書して、眠らされる。昼夜不明の一日のサイクルが淡々と進む中、肉体の熱感に悩む時間が着実に増えていく。監禁を日常化されるだけでも精神は鈍っていくのに、そこで容赦無く薬漬けにされるのだ。どんなに意思を研ぎ澄ましても耐えられる物では無かった。

 

 

 

 十四日目。ふとした時、思考力が徐々に奪われ、いつの間にかぼーっと過ごす割合がその他を上回っている事に気付いた。

 一日の体感時間が加速度的に短くなっている。そこに危機感を覚え焦燥する自分は必死に考えようとした。

 しかし、何が出来る訳でも無し。ただただ耐え難きを耐えるだけで時間が過ぎていく。

 

 「っくっ……ふぅっ…………!」

 

 ひとえに、分からないから耐えられていた。手段は思い付く。けれどこうなってしまった身体ではまだ経験した事が無いから、腹奥で溜まった熱を発散するイメージが正確に付かないのだ。

 

 頭が鈍っているせい、というのもあるだろうが、いかんせん発散を任されていた器官は取り除かれてしまっているのは大きかった。さながら蛇口という概念そのものが失われた行き止まりの水道管に水が送り込まれ続けているかの如き状態。

 故に、やがて訪れる破綻へ向かって、綻びは段々と無視出来ない有様になっていく。

 

 っ、きたないっ、きもちわるいっ……なめくじかよ、ぼくはっ……。

 

 ある時ぬるりとした足元を見たら、股座から溢れた分泌液が垂れて床に移動した痕跡を残していた。その光景に嫌悪出来ている内はまだまともだと思いたくて、僕は必死に悪態を吐いて、発想する。

 

 そうだ……トイレにすわってすごせばいいんだ……これならすわってられるし、よごさなくてすむ……。

 

 いいアイデアだ、何で考え付かなかったんだろう。などと僅かな歓喜に心躍らせながら、ふらつく身体でトイレを呼び開けて、本を片手に中の便座に腰掛けた。

 

 けれどふとした瞬間、思えばとっくにまともでは無かった事に気付く。それもその筈、耐える為に自分の取った行動の数々は、どれもこれも人間として真っ当な道からはかけ離れていたのだから。

 

 ……だったら。

 

 その時、甘えた心の隙間に魔が刺した気がした。いやだめだ、そんなのだめだとすぐに反抗したけれど、震える身体は確実に期待を含んだ行動を始めてしまう。

 

 っ、だめだよね、こんなの……ふかないと……。

 

 ここで寝る訳にはいかないんだ、なんていう今更でズレた意地、もとい建前を作りながら、トイレットペーパーを多めに巻き取り、濡れっぱなしの股座に当てがう。

 

 「んひっ……! っ……!」

 

 ぞくぞくぞわぞわ。いつにも増して深く酔狂な電流が背筋を駆け上がり、身体と声が一緒に跳ねた。快感が滲み出して、忽ち手に取った紙をしっとりと重くする。

 

 「あっ、あてるだけっ、あてて、すわせるだけっ……!」

 

 暫し吸わせ、手元が湿った感触で一杯になったら離す。ふぅっ、と腰が引けて息が漏れると共に、ぬちゃぁっ……。たっぷりの粘液がはしたない糸を引いた。

 

 だめだ、もういっかいっ……。

 

 濡れ紙で糸束を巻き取り、捨てたらもう一度同じ工程を行う。それでダメならまたもう一度。

 

 「はぁっ……! っ、ふっ……ふーっ……ふぅーっ……」

 

 だめだ……ふいてもふいても、おわんない……ぜんぜん、ヌメりけが、おさまらないっ……。

 

 中途半端だった行為が、気分が、回数を重ねる度大胆な方へと傾いていく。そして四度目の紙が湿ったその時、手は煩わしさに耐えかね、くちゅり。股に触れたまま、分泌液を掻き回してしまった。

 

 刹那、腹の奥の熱は荒れ狂い、抑えきれなくなった。「んっ……!」と腰がくの字に折れたのも束の間、勢い良く溢れたかと思えば、キュゥっと収縮。

 

 「っ~~~~!」

 

 その瞬間に雷に撃たれたかの如き衝撃が体内を駆け巡り、肉を震わし、肌を波打たせ、脳髄を白く焼き、尚も収まり切らずに喉から聞き取れない程高い金切り声となって漏れ出す。それが一度じゃ終わらない。キュッ、キュッ、キュッ、収縮は繰り返され、その度心身はバラバラになるのではと錯覚する程の衝撃に晒される。

 

 堪らず口元を手で抑えると涎が端から伝った。真っ直ぐ座って居られなくなり、すぐ隣の壁にゴンと軽く頭を打つ。すると漸く息が吐ける様になって、現象は過ぎ去ったかに思われた。

 

 「ッ……ぁーっ……あ゛ああぁ……!」

 

 しかし、大きな波が通り過ぎただけであり、余波はまだ繰り返し襲い来る。全身は暫し痙攣し、視界は白黒し続ける。僕は肩で息をしながら、ただ落ち着くのを待つ事しか出来なかった。

 

 

 

 「はー……っー……ぅ……」

 

 少し経つと、強張っていた身体が弛緩して、壁から少しずり落ちる。すると漸く、息が整ってきた。

 

 ────なんだったんだ……いまのっ……。

 

 落ち着いたものの、ぼーっと放心した頭は中々働かず。先の体験が何であったかを理解するのに時間がかかった。

 

 「はぁーっ……はぁー……っ」

 

 そっか……いまの、もしかして……。

 

 じんっ、じんっ。患部は熱を持ち、脈打つ度強烈に痺れて、甘やかな陶酔を齎す。その余韻は中々鎮まらない。

 自分の知っている物とは全く異質の体感。だがしかし、恐らく、これこそがオーガズムなのだろう。本能に嫌という程語りかけて来る体感を知識と照らし合わせたら、最早疑い様は無かった。

 

 けれど理解した所で、僕は再び込み上げて来る衝動に戦慄する。

 

 うそ……さっきので、カイショウ、されないの……?

 

 これまでの経験上、一度発散されてしまえばもうそこで終わりであって、こんな風に再度ぶり返す事なんて無かった。いや、ましてや。

 

 っ、さっきまでより、ひどい……?

 

 より悪化するなど、万に一つも有り得なかった。一体どうして。感覚が歪められているにしてもおかしい。先の感覚は絶頂体験では無かったのか。疑問は泡の如く浮かんでは消えていく。

 

 「ふーっ……ーっ」

 

 自分の吐息、濡れた股。必死に気色悪いと否定していた物が、今や拒めない程淫猥に感じられてしまう。最早それ程に思考は惚けていて、纏まらない。

 

 もうむり……ガマン、できないっ……!

 

 「こん……なのっ…………!」

 

 一度覚えたら、抗えなかった。敏感な粘膜を刺激する目的で、指先が直に股座へ伸びる。そして、ぴとり。

 

 「くっぁっ……!」

 

 触れただけで腰に響いた。忽ち身体の芯が痺れて、神経の中枢が快感に支配されていく。

 

 欲求が加速する。くちゅっ、くちゅっくちゅっくちゅっ。手指は少しずつ、少しずつ大胆に、より鋭敏な箇所を探る様にして弄る。水音が立つ程に不快な筈の滑りは快感へと変わり、そこから小水と甘酸っぱい果物か何かが混じったみたいなクセになる淫臭が漂えば、「はうっ……ふっ、ふぁっ、ぁっ……!」と、明確に艶っぽい声音が喉から絞り出される。自制も無駄だ。いけない、ダメ、こんなこと。頭の中に止めどなく色っぽくて女ったらしいニュアンスの言葉で再生されてしまい寧ろ興奮を誘う。

 

 「くしょっ……くそぉっ……ぉっ、っ、んんんっ……!」

 

 意中の女の子の自慰する姿が強固に思い浮かべられて、妄想もその目的も固まってしまった。そうなればもう、後は自分への言い訳を用意するだけ。

 

 もう、しかたないんだ……スッキリしないと、なにもままならないから……しかたなく、するんだっ……。

 

 発散の為の、正気に戻る為に仕方なく行う行為だと割り切った瞬間、全てのタガは外れた。悶々とした妄想の赴くまま、後先も今も何も考えず腰をくねらせ、探し当てた熱く疼く患部の一番敏感な箇所。剥き出しの神経の様な痼った突起を思う存分刺激し始める。

 

 「んっ、おっ、おおおっ……! っ、んふぅっ……!」

 

 ここっ、ここがすごいっ! でんきはしるっ! びくびくするっ! やばいっ、いいぃっ!

 

 さながら鬼頭の名残り、唯一残った芯の部分だ。分泌されるトロトロの粘液を潤滑油にして、くりゅくりゅくにくに、擦り回したり摘んだりする度脳天まで電流が迸り、身体はびくびく痙攣を繰り返す。あまりの快感で涙が溢れて瞳は上ずり、口元は切なさの味に耐え兼ね舌を放り出して涎が垂れる。

 

 「っ、んひっ、ふっ、ぅっ……んへぇっ、へぁああっ、ぁっ、ぁああっ……!」

 

 艶声も自分の物という意識は最早遠くの彼方。意図せずより媚びた印象の物へと変化し、より淫らにエスカレートしていく。そうして聴覚が昂れば嗅覚が、嗅覚が昂れば触覚がと、五感全てが興奮材料に繋がれば、身体は緩急を繰り返しながら徐々に徐々に早まり、上り詰める。そこに俄に恐怖を感じた、次の瞬間。

 

 「ぁっ、くっ、んんんんんんんぅっ!」

 

 またしても熱が溢れて、今度は先程より大きく激しい白い閃光に灼かれた。今までの人生で味わった衝撃と比べそれはあまりにも過剰で、僕は悶えながら気を失っていった。

 

 

 

 果たしてこうなる事に何の意味があるのか。ただの悪趣味な嫌がらせか、それ以外の意図があるのか。一切分からないまま、その経験を境に、僕を司る全ては一気に音を立てて崩れ始めた。

 

 

 

 推定十五日目。最後にトイレの中に居たはずの僕はいつも通りベッドの上で目覚めたのだが、日付けを考えるよりも先にベッドに腹這いになって股座を押し付け、浅ましい行為に耽ってしまった。

 

 「んっ……はっ、あっ……っ……」

 

 でっぱってるとこっ、すれてっ、っ……。

 

 「っふっ、う゛っ、っっっ! っっ…………!」

 

 そうしてやがて訪れる深い絶頂感と、倦怠感と筋肉痛。喉の渇きと空腹も相まって、漸く生存欲求が性的欲求を上回る。

 

 ……くぅっ……おなか、へった……のどからから……カラダだるい……。

 

 もっとも、状況は好転しない。重い疲労と燻る淫熱でぼーっとした頭は漠然と感じていた。これまでの危機の中で最も深刻だ、と。しかしながら最早対処する余裕は無く、食事と用便を済ませる事で精一杯。案の定再びトイレでスイッチが入って、身体を慰め始めてしまう。

 

 「はぅっ……ぅっ、んふっ、ふぅっ……!」

 

 白い閃光に貫かれるあの瞬間が頭から離れない。またアレを味わいたいと、そう願わずにいられない。くちゅくちゅびくびく、止まらない。やればやるだけ快感が深くなって、その先を目指したくなる。

 

 「ぁっ、ああぁっ、あっ……あ゛ぁっ!」

 

 腰をくの字に折り曲げて、また達した。ぷしゃーっと股座から小水が噴き出して、その心地良さに心酔する。

 

 あはっ、ああっ、これっ、だめだっ、だめになるっ……。

 

 快感の底が見えない。余りの深さに恐怖と焦燥を抱き、胸中が掻き乱された。息が詰まって苦しくなる。

 

 いやだっ……もうぜんぶ、いやだっ……!

 

 「はあっ……っ……!」

 

 弱り切った僕の心は最悪の逃避を選んだ。全てを忘れさせてくれる快楽に、しがみつこうとしてしまった。

 

 転がり込む様にしてトイレから出た僕はクローゼットの方へ向かい、そこに仕舞い込まれていた電気按摩に縋り付いて嗤った。まるで自刃用の道具みたいだ、と。

 

 あはは、そっか……これ、このためにあったんだ……。

 

 現実が僕を行為へと追い立て、行為が現実をより深刻な方向へ運んでいく。そんな悪循環が始まればもう、分かっていても止められない。真っ逆さまに転げ落ちていく。

 

 「んくっ……っ、んんんっ! っ~~~~!」

 

 そうして始まった道具を使った行為は、ガスが焚かれるまで終わらなかった。素手より簡単に発散出来ると思いきや寧ろ逆。ベッドの上で楽な体勢のまま行えるせいで、一層終わりが分からなくなってしまったのだ。

 馬鹿みたいに達して、漏らして、気絶しても、快感が凄過ぎて叩き起こされる。止めるには、強制的に眠らされる他無かった。

 

 

 

 次の日も同じだった。そう表現するしか無い程、希薄な時間を過ごしてしまった。そしてその内、きっとその次の日もそのまた次の日も同じだろうと、諦観に堕ちた僕は日付けが数えられなくなって、遂に唯一残っていた基準が壊れた。

 時折今がいつなのかも、此処が何処なのかも分からない不安と焦燥に苛まれれば、またそこから逃避する為に自身を慰める。不安と陶酔を行ったり来たりしていくうち、自己の認識も希薄になっていき、ある時。

 

 「…………ぇっ?」

 

 起き抜けに腹奥を襲う鈍い痛みと血生臭さの中、股の下、赤く染まった布団を見た瞬間、今の自分を自分だと認められなくなった。

 

 「あっ……あああ……」

 

 怯えすくみ、ベッドの上で後退りして転げ落ちて身体を打った。ゴッと鈍く嫌な音がして、腕に強い衝撃が走る。うっとくぐもった声も漏れた。

 上体を起こして右腕前腕部を確認する。ぶつけた所が、忽ち青々と腫れ上がっていっている。けれど痛みがない。それよりも何よりも、腹奥から込み上げてきて全身を這いずり回っている不快感の方が強くて其方にばかり感覚が持っていかれる。未だ継続している狂った様な性的興奮と相まって、兎に角気分が悪くて仕方がない。

 

 「ふっ……うぅっ…………」

 

 血塗れのズボンと、汗でぐしょ濡れのシャツ。例にもよっていつの間にか着せられている病衣の様なそれらを、不快感に堪え兼ね身を捩りながら脱ぎ捨てた。すると幾分かマシにはなったが、今度は濡れた素肌が空気に触れてジンと特有の痺れを伴った淫熱を発し、今まで通り行為に耽りたくなる。にも関わらず、一呼吸もすれば腹奥がズシリと重だるくなって、気が滅入ってしまう。

 

 おかしいっ……なんかへんだっ……。

 

 徐に右手を股に持っていこうとしたが、途中で突っかかって上手く動かない。なので仕方なく左手を持っていき、その手で敏感な箇所を刺激してみた。ぬるり。絵の具に触れたみたいな感触がして、快感と苦痛、入り混じった物が過分に生じ下腹部が痙攣する。一層気分が悪くなって、苦悶の吐息を漏らしながらふと触れた指先を見れば、案の定、ベッドの上と同じ、受け入れ難い鮮やかな赤の色が付着していた。

 

 出血箇所の断定により、自身に起こるはずの無い現象の名前が頭に浮かび上がる。そんな筈ない。きっと何処か縫われていた傷口が開いたんだなどと考えても、症状があまりに妥当で、それ自体を否定出来ない。

 

 赤以外の景色がモノクロに色褪せていく。狂った様に速る心拍に合わせて急速に、単調かつ暗澹とした色調へ変わっていく。

 

 だめだ、こんなのぜったいちがう……自分じゃない……こんな身体は自分じゃないっ……。

 

 這いずって鏡の前に出た。映し出されたのは、乱れた黒い長髪を垂らし憔悴した様子の女子の裸姿。立ち上がれば同じく立ち上がって全身が映る。肉感の柔らかそうな肢体、乳頭周辺の微かな腫れ上がり、つるりとした股座。どれをとっても自分とは程遠い。ほら、やっぱりと安堵しようとした。

 しかし、鏡の中の女子と同じタイミングで吐息を吐いて、吸った直後。「じゃあ今の自分は何?」と、彼女が口にして心臓が跳ねた。

 

 自分? 僕は僕だ、それ以外の何者でもない。普通の男子で────

 

 どろり。自己問答を遮る様に、鏡の中の少女は股の間から血の塊を落とした。同時に何かの液体が自分の足元を打つ音と感触がして、恐怖に心打ち砕かれた僕は素っ頓狂な悲鳴を上げその場に尻もちをつく。そしてそのままベッドの側まで這いずって、顔を埋めて塞ぎ込んだ。

 

 いやだ……ちがうちがうちがうちがうこれはゲンカクゲンジツじゃないウソダウソダウソダ…………!

 

 既に使った事のある手段の効果は薄い。おまけにベッドに染み付いた血生臭さが鼻をつき、逃避の邪魔をする。堪え兼ねてその場を離れて落ち着き無く彷徨き、安心出来る場所を探すも、部屋中何処にいっても臭った。

 それもその筈、自分の身体から臭っているのだ。だから、逃げ場なんて無い。

 

 「はぁっ、はぁぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 呼吸はどんどん荒くなって、末端が痺れ始める。涙が溢れて止まらない。血も止まらない。縮こまって部屋の隅で震えれば、足元に赤い水溜まりが出来いく。

 異常な出血量を前にして、パニックになった脳裏に死がよぎる。僕にはもう、取り繕う余裕は無かった。

 

 「……いやだ、いやだ……! たすけて父さん……! 死んじゃうよっ……たすけてってばっ……!」

 

 捨てられそうな子犬みたいに吠えた。甲高く変化してしまった声で、キャンキャンと。しかし全てを投げ売った必死の命乞いも当然返答は無し。何処へ向けて良いのかすら分かっていないので各方に身体を回して叫んだが、全くもって意味を成さなかった。

 それでも、分かっていても乞い願ってしまう。神様よりも存在の確実な、すぐ近くで自分を見ているであろう父に縋らずにはいられない。

 

 「ごめんなさいっ……ぼくが悪かったからっ、もう許してくださいっ、ゆるしてっ、たすけてくださいっ……!」

 

 只管謝って許しを乞う。悪い事をした自覚なんか無い。でも、現状そう言葉にするしか無かった。

 相手は自分を罰するつもりでこんな事を行っている訳じゃ無いだろう。僕に求められている事は、恐らくもっと受け入れ難い別の事。だから謝罪なんて、全くもって的外れで無意味な行為だ。分かっている、分かっている分かっている分かっている。

 

 けれど、それでも謝った。ごめんなさい、自分には無理だ、もう耐えられないと必死に叫んだ。心が、そう屈していた。

 

 ただただ、無慈悲な静寂が返る。一体どんな気分で僕を眺めているんだ、などと不意に発したが、愉悦に浸っている姿も、心を痛めている様子も一切想像出来ず、ただ無関心な表情で観察する父の顔が浮かんでしまった。

 徐々に声が出なくなって、心は諦観に沈んでいく。

 

 ……なんで今更死にたくないなんて思ったんだろう。

 

 言うまでもない。もう嫌と言う程分かっているからだ。きっと死なせてなんて貰えないと。

 この部屋でずっと過ごしていればどう足掻いても理解させられる。即死手段が徹底的に排除されていて、自死で逃げられない様になっているのだ。いざとなればガスだってある。薬のせいで今暫く死のうという気分にすらなれなかった。

 

 だから恐怖しているのは肉体の死じゃない。精神の死だ。このまま生殺与奪の全てを握られたまま弄ばれ、冒涜され続ける事は、最早死ぬより恐ろしい。

 

 「……ころして」

 

 そうして不意に出た言葉は、先程までと正反対の物だった。

 

 「ころしてくれ……たすけてくれないなら、いっそ、ころしてくれっ…………ころしてっ……ころせっ……ころせぇっ……!」

 

 返事は返らない。それでも僕は譫言の様にころせ、ころせと繰り返す。これまでの人生における父との邂逅を呪いながら、ふつふつ、ふつふつ。

 

 どうして父さんなんかがぼくの父さんなんだ。いつもいつも、ぼくに無関心で。そのくせ時々恨めしそうに見てくる。ころせ。ほんとうにアレは父さんなのか。ちがうあんなの父親じゃない。ころせ。ぼくには母さんだけだ。母さんはアレとケッコンしたせいでフコウになったんだ。ぼくには向けなかったけど、母さんはふとした時いつもさみしそうな顔をしてた。ころせ。病気だってアイツがいてくれれば大丈夫だったんだ。なにが父だ、なにがキョージュだ。ころせ。母さんをころしたのはアイツだ。母さんをかえせ。かえせないなら、母さんみたくころせ。ぼくをころせ。いらないんだろにくいんだろころせよ。ころせころせころせころせころせころせ────

 

 「あ゛あああああああああああああああああああああああああああぁ…………!」

 

 最後にままならない全てを絞り出す様に慟哭すると、僕は脱いだ服を自分の首に巻き付けてキュッと絞めた。瞬間、吹き浴びせられたガスが意識を奪い、心身を狂わす強烈な淫夢の中へ沈められ、溶かされる。そしてハッとして気付いたら、またベッドの上。馬鹿みたいに自分の身体を慰め、浅ましく絶頂した後の自分がいた。数刻の正気の隙に今一度自分の首を絞めて自死を断行しようとしたが、非力過ぎて即死に至らずまた止められて振り出しに戻る。戻されたらまた憂鬱時に頭を床に打ち付けて死のうとして、止められて。

 

 繰り返す。繰り返して繰り返して、何度も繰り返して、無理だと知っていながら死ねない事を証明し続けて────────そしてある時、ぷつり。糸は切れた。

 

 

 

 …………。

 

 今日も今日とてベッドの上。点滴に繋がれて、寝かされている。身体はほんのり熱く浮かんでいるみたいで、心は虚で真っ新だ。何も思い浮かばず、何も思わない。何もかもおかしいけれど、何かをする気も起きない。ただ瞳に映る白い天井を認識し、それをぼーっと見つめるだけ。それだけで時間が過ぎていく。

 

 「………………」

 

 そうしてどのくらい経ったか。一切分からないし気にもしなかったがある時、部屋のドアが開いて、誰かが入ってくる音がした。

 

 静かな足音は近付いて、すぐ側で止まる。そして、その音の主は優しげな男の声で告げた。

 

 「おはよう。起きてるかい、リナ」

 

 既知の声音だった。自分の知っているものとは孕んでいる温度があまりに違うせいでまるで知らない人間の声の様に聞こえたけれど、呼ばれた名前は最も親しい人物の名前で、この場でその名を呼ぶ者はほぼ限定されているので疑いようは無い。虚ろな心は掻き乱され、根こそぎ引き上げられる。

 

 ────リナ。そのなまえは……ちがう、ぼくじゃない。かんけいない。なにも、かんがえたくない。

 

 が、それはとうに限界を迎え、壊れていた。頭の中はぐちゃぐちゃで、何かを掴もうとすると耐え難い苦痛が生じる。反抗などとても出来た状態では無い。故に閉じ籠り、あらゆる全てに蓋をして無視をするしか無かった。

 しかし、当の男は反応の無い僕の手を握って、涙声で言う。

 

 「よかった……ほんとに、ほんとに目が覚めたんだね。本当によかった」

 

 大きな掌の温もりと愛情が伝わってきた。際して、安堵、困惑、疑念、歓喜、恐怖、嫌悪。理由の不明瞭な感情の数々が一斉に乱立して、より一層の混乱が齎される。それを知ってか知らずか、相手は一頻り隣で泣いた後、此方の顔を覗き込んだ。

 

 「何があったか、覚えてるかい? 家で倒れた時の事とか、その直前は?」

 

 こい、つ……!

 

 記憶上より老けやつれているのに、見た事がない程関心に満ち爛々とした妙齢の男の顔。それが見えた途端、僕は錯乱しその喉元に襲い掛かろうとした。けれど、至らない。整理の付かない心身は酷く重く、動かそうとするとあらゆる部位に鈍痛が生じる。肝心の右腕は包帯で固められていて使い物にならないし、起き上がる為の腹筋が何故か痛くて力が入らない。脚も膝が笑うばかりで言う事を聞いてくれないし、変に力むと攣りそうになる。

 結果としてそれらしい拘束は何もされていないのにピクリとも動かず、赤子の如くただ叫び、震え涙するのみに留まった。すると、「ああいい、大丈夫だ。もう大丈夫だよ」と男は心底同情した様子で僕の身体を軽々と抱き寄せ、頭を撫でながら耳元で囁く。

 

 「焦らなくていい。ゆっくり、ゆっくりでいい」

 

 待ちに待った瞬間な気がするのに、複雑な内心だけが蓋の中で暴れて、一切纏まらず散り散りになっていく。まるで処理落ちしたパソコンのように硬直してしまった。それでもふと苛立ちに任せて暴力的行為に移ろうとしたが、腕は軽く相手の背中を叩くだけ。逆に痛みが返ってくる。

 余りに無力で情けなくて、心はより強く深く殻に閉じ籠ろうとした。が、そんな自分を暖かい何かが包んで離さない。

 

 「うっ……あ゛ぁっ…………!」

 

 久々の人肌の温もりは争い難かった。決してそんな優しい人間じゃないだろうに、不思議と落ち着いていく自分がいる。結局もう何が何なのか、訳が分からないまま僕は瞳を閉じ、静かに身を委ね一頻り涙を流した。

 

 

 

 壮絶な体験の後のふとした救済は、錯覚であったとしても絶大な効果を発揮した。恐ろしい事に、この時僕は心の何処かで期待すらしてしまっていたのだ。自分を優しく抱きしめるこの男は、もしかしたら自分を救ってくれる善良な存在なのでは、と。そんな訳が無いのに。

 

 

 

 「改めて。聞かなきゃいけない事が幾つかあるんだが、いいだろうか?」

 

 暫くして落ち着いた所で直ぐに心象は一変する。思えば一言目から不穏だったし、案の定と言えばそうなのだが。彼は何と此方が記憶を失っている事を前提とした様な口振りで話し始めた。

 

 「……僕の名前、覚えているかい?」

 

 耐え難い事態を予感して、心を閉し沈黙を返す。知っている。けれど、答えたくない。認識したくない。

 しかし相手は現実を遠ざける自分に、容赦無く現実を突き付けてくる。

 

 「はあ、言葉は分かっている様で嬉しいよ。そう警戒せず、これからの為に名乗らせてくれ。僕はトシヤ。研究医で、君の同僚だった男だ。そこそこ親しかったんだが……やめよう。そんな嫌そうな顔をされている前で言ったら自信が無くなりそうだ」

 

 こんなに話している所も初めて見た。あまりに不気味で、顔を顰めて身を遠ざける。そうして嫌だという意思を言葉を解さず全身で表したら、一応は伝わったらしい。が、「しかし申し訳ない。まず最初に少しだけ、必要な事を確認しないといけないから」と質問は続く。

 

 「自分の名前は分かるかい?」

 

 再度沈黙。今の自分では、最早自身の名を名乗れない。自分だと思いたくない。

 

 「はいかいいえでもいいから答えてくれると助かるんだが……まあいい、こう聞こう。君はリナという自分の名前を覚えているかい?」

 

 ふざけるな。

 

 「ふ、ふざ、け……」

 

 やっと出た掠れた高い声は、出したそばから立ち所に消え入った。顔を上げて視界に入ったのが、先程まで優しそうだった男の酷く冷めた表情だったから。

 

 「あっ、っ、ちが……」

 

 紛いなりにも期待していたせいだろうか、底知れぬ物を感じ取り思わず取り乱してしまった。対し半ば食い気味にやはり、と彼は目を伏せる。

 

 「最初の反応で疑ったが……やはり、何も覚えていないんだな」

 「…………」

 

 否定も肯定もせず俯いた。妙な圧で身体が強張り、怯えすくんでしまう。本当はすぐ否定したかったのに、出来なかった。

 

 相手は沈黙を肯定と受け取った様で、「そうか……」と神妙に返事した後、大丈夫、心配しないで、と急に表情を和らげ、殊更に優しい笑みを浮かべる。

 

 「長らく意識のない状態を経験した患者さんには良くある事だ。大抵時間をかければ、少しずつ思い出す」

 「ち、が…………」

 「君の場合は幸い、君を良く知る僕が居る。昔話をすれば案外直ぐかもしれないよ」

 「う……ぼく、は」

 「ぼく?」

 

 拙い一人称を紡いだ瞬間、また表情が俄に失せた。そして口調だけは柔らかいまま問い詰めて来る。

 

 「それは、君の一人称かい? それとも、僕の一人称を真似しただけ? 君は自身をわたし、と呼ぶ人間だった筈だが」

 「う、あ……」

 「そうか、それすらも忘れてしまっているんだね……もしかして、自身が女性である事まで、分かっていないのか?」

 

 彼はずいと姿見を引いて、僕の前に出した。映ったその姿は、若かりし頃の母と瓜二つ。以前見た時より更に華奢で、それでいて以前とは比べ物にならない程肉付きが良く女性的な丸みを帯びたシルエットは想像以上にそっくりだ。思わず目を丸くしてたじろいでしまう。

 

 「あっ……あぁっ……」

 「だとすると思ったより深刻かもしれないな……そこまで忘却したというケースは聞いたことが無い」

 「いや……ちが……」

 

 狼狽える僕を、彼は再び抱き締める。そしてその耳元に淡々と吹き込む。

 

 「落ち着いて。深呼吸しなさい」

 「っ、うぅっ」

 「まずあるがままを受け入れるんだ。考えるのはそれからでいい」

 「いやだ……やだぁっ……!」

 

 体格差が如実に現れるせいで、相手は巨大に、自分は酷く矮小に感じられてしまった。パニックを起こし、もがき暴れ、振り解く。そして身体の痛みを押して、布団の中全力で縮こまる。

 

 「…………」

 

 何か追撃が来ると思ったが、来なかった。幾許かの間の後、「悪い、悪かった」と、予想外の謝罪が投げ掛けられる。

 

 「自分からゆっくりで良いと言った筈なのにな。焦ってしまった」

 

 これまた聞いた事のない、動揺し震えた様子の声色だった。辛い思いをさせて悪かった、すまない。謝罪は続きながら、徐々に後退りして離れていく。そして機械の駆動と重い金属を引き摺る様な音の後、その声は穏やかに、

 

 「今日はここまでにしよう。ゆっくり休んで。また明日来るから」

 

 と、そう言い残し、閉じる機構の音と共に去っていった。残された僕は、押し寄せる名状し難い感情の波を処理し切れずただただ震える。

 

 なんで……ぼく、なんで…………。

 

 

 

 以来、療養という名の刷り込みが始まった。

 

 照明が消えて、付いて、恐らく翌日。ふとガスによる嫌な眠りが訪れていない事と、自分の寝床が小便臭い事に気付いた所で、前日の宣言通り彼が現れた。

 

 「おはっ、おっと……やってしまったんだな」

 

 鼻を摘み顔を顰めていそうな声がしたが、僕は一瞥もせず虚なまま情報をシャットアウトする。

 

 「トイレも忘れているか、それもそうだよな……身体、起こせるか?」

 

 いみが分からない。そんなこと、いつもねてるあいだにすまされて────

 

 それでも鈍った内心に疑問を呆然と浮かべてしまい、違和感で気分が悪くなり身体が強張った。すると全く動く気配の無い此方に痺れを切らしたか、「ああもう、仕方ない。失礼」と、男は僕の腰と背中に手を入れて、「せーので持ち上げるよ」と予告。

 

 「せーのっ……!」

 「っ、ぁっ……!」

 

 持ち上げられてしまった。腕の中にすっぽりと収まってしまっている。とてもおかしな感覚だ。別に体格としては特別大きくない筈の男がとても大きく感じられる。何故だか凄くこそばゆい。身じろぎせずにいられない。

 

 「ちょっ、じっとしててっ……はぁっ……! よいっ、しょっ……!」

 

 決して力持ちには見えない細腕だ、流石に堪えているかに見えたが、それも束の間。彼は手際良く僕の身体を近くの椅子の上にそっと座らせた。

 

 「はあー……非力な僕でも持ち上げられるくらい、君が軽くて助かったよ」

 

 以降のシーツとズボン、その下、いつの間にか穿かされていたオムツの交換も、汚れた箇所の拭き掃除も、驚く程テキパキ行ってあっという間に終わらせていく。妙に手慣れていて、思わず目で追ってしまう。

 

 そっか……そういえば、かあさんがビョウインにいたあいだも、こんなふうにやってたんだっけ……。

 

 「ふぅ……褒めてくれても良いんだぞ?」

 「…………」

 

 一致しなかった人物像が不意に一部一致して内心騒つく。慌てて閉ざそうとしたが、上手く出来なかった。

 

 っ、なんで、こんなイヤな気分にならなきゃいけないんだ……。

 

 「まったく……出来ればトイレに行きたくなったら、いや、何か身体が変だと感じたら、夜中でも構わない。枕元のこのボタンを押す様に。って、昨日言うべきだったな……」

 

 何も思わない様に努めさせられている。そう感じた僕は黙って顔を顰めた。すると、それを見た彼は静かにふっと微笑んで言う。

 

 「今日は、何も話したくないよな……いいよ、分かった」

 

 そして、でも、と一つ置いた後、乞い願う様に頭を下げる。

 

 「身の回りの世話は許して欲しい。後食事も、出来れば食べて欲しいんだが……ダメか?」

 

 僕はぎゅっと固く布団を握り、返事を拒んだ。彼は「分かった、暫くは点滴にしよう」と言って、物分かり良く引き下がって見せる。

 

 「また少ししたら様子を見に来る。何か欲しい物があったら言ってくれ」

 

 

 

 有言実行か、彼は焦らなかった。時間はただただ過ぎていき、照明は幾度も消灯と点灯のルーティンを刻んだが、来る日も来る日も甲斐甲斐しく僕の世話をして、まるで心を覗き混む様に軽く話をしては去っていってを繰り返し続けた。

 

 僕は閉ざし無視を徹底していたが、それもある時突然、均衡が破れる。

 

 

 

 「何か体調に変化はあったかい? 顔色は……うん、大丈夫そうだね」

 「…………」

 

 開口一番、何かを判断された様な嫌な感じがして身が強張った。

 

 「そんな睨まないでくれ。他意は無いよ、こう聞く決まりみたいなものだから」

 

 彼はいつも以上に気さくに話し掛けて来る。肩の力を抜き、お互いがリラックスする事を望んでいるらしい。しかし、元々寡黙で冷徹な印象の人間がそんな事をすれば、気味が悪いだけだ。

 

 「はは……既に言ったと思うが、普段は患者と直に顔を合わせる立場に無くてな。手順に不慣れだから、変に思わせる事も多いだろう。でも本当に、医者である以前に一人の人間として、君の回復を願っているんだ。そこは認めて欲しい」

 

 耳障りの良い言葉の数々はこれ以上無い程に酷薄に聴こえて堪らない。それ以上考えるのが嫌な僕は、ひたすら感情の鈍麻に努め聞き流そうとした。が、しかし。

 

 「まあいい。前置きはこのくらいにして……これまで質問ばかりだったからな。今回は君の番だ。何から聞きたい? きっと聞きたい事だらけだろう?」

 「っ……!」

 

 神経を逆撫でする様な言葉に、強引に引き出されてしまった。

 

 「そん、なのっ……」

 山程ある。あり過ぎて纏まらない程だ。

 

 「漸く興味を持ってくれたな。いいぞ、言ってみてくれ」

 

 突然与えられたまたとない機会に、頭の中は一気に煩雑になる。なんで僕をこんな姿にしたのか。なんで今になって姿を見せたのか。なんで、記憶喪失として扱おうとするのか等々、感情的にならざるを得ない、処理し切れない疑問が湧き出て止まらず、その末。

 

 「……なんで、こんな、こと…………」

 

 一括された、フワッとした質問として口から出されてしまった。

 

 「ん? 先程言ったじゃないか。君に元気になって貰う為だって」

 「っ、ちがうっ……」

 

 ききたい事はそうじゃないっ……!

 

 「何が違うんだ?」

 「う、え、あっ……」

 

 拒絶感で胸が一杯になって咽喉が詰まってしまい、言葉が上手く出てこない。しかし、それでも一つ、何とか出せる物を絞り出す。

 

 「っ……ここは、どこ……?」

 「どこかと問われれば君の部屋だが……説明不足か。付け加えるなら、君の実家の、君の部屋だ」

 「じっかって……」

 「○○県××市◼︎◼︎町六丁目十五番地の、一戸建ての家。と、言えば分かるかい?」

 「ぅ……!」

 

 ちがう、ぜったいちがうっ……! こんなへやがそうなワケないっ……!

 

 「納得いってない様だな……」

 「じっかなら、なんで、へやのそと、出してくれないのっ……⁉︎」

 「君の安全の為だよ、何も分からない状態で外に出るなんて危ないだろう?」

 

 ちがう、ちがうちがうちがうちがうっ!

 

 「分からなくなんてないっ……! ぼくはっ、おぼえてるっ……!」

 「何をだ?」

 

 食い気味に聞かれた。また表情の失せた顔だ。ひっ、と怯えた声を上げてしまった。知らない優しい顔じゃなく、見知った、いつも向けられていた顔。

 

 「あっ、ぅっ…………」

 

 昔も恐ろしかったが、今は比じゃない。一層身体は強張り、思いを押し込め過ぎた胸が張り詰めて痛む。

 

 「ぼくはっ、あなたの、いうような人じゃ、なく、て……」

 

 恐怖に駆られ、口走ってしまった。すると、彼は数刻の間の後大きな溜息を吐き、心底呆れた表情を作って言う。

 

 「それをどうやって証明するんだい?」

 「ぇ……」

 「僕は君が君である事を証明出来るが……君は自身の認識が確かだと証明出来るのかと聞いているんだよ」

 

 改めての指摘を受け、一気に青ざめていく。奥底では既に嫌という程理解させられている。そう、今の自分はもう、過去の自分と同一であると証明しようが無い。今の自分を否定する事も、現状を正しく把握出来ない故困難だ。だから、相手はこんな手に出ている。だから、自分も言葉に詰まる。

 

 「ぁ、ぁ……」

 「尤も、最初に鏡を見せた際に君の認識が現実と乖離している事は分かってしまっている。気持ちは分かるが、これ以上意地悪は言いたくないし、堂々巡りは出来る限り避けたい。理解出来るかね?」

 「っ……ぅっ…………!」

 

 八方塞がりを強く自覚し、涙が溢れ、身体が震えだす。息が荒くなって、末端が痺れ始めた所で「大丈夫、落ち着いて」と手を握られた。

 

 「この為に僕がいるんだ。君が今此処にこうあると教える為に」

 「うぐ、ううぅ……!」

 「大丈夫、大丈夫だ」

 

 今すぐ振り払いたい気持ちで一杯だ。しかし、出来ない。曖昧な身体の境界を教えてくれる温もりが手放せない。離せばまた、分からなくなってしまいそうで怖い。

 

 「ぅぁっ、はぁっ……はぁっ…………!」

 「大丈夫だ。もう、大丈夫」

 

 仕切りに囁かれる大丈夫の声が染み入って、乱れた心が鎮静されていく。そのまま言葉に従って呼吸を落ち着かせていき、暫くすると、落ち着いた。落ち着いてしまった。

 

 「落ち着いた様だな……よかった」

 「……ふぅ……っ……」

 

 なんで、こんなやつにっ。

 

 「現状、どうやら君の自己認識は思った以上に曖昧で危うい。まずそれを自覚し、少しずつ外殻を形成していく事から始めていかないと」

 

 違う、そんな事ない。そう否定する心の声はとても弱々しくて、もう表面に届かない。

 

 「その為にまず証明といこう。出来ると自分で言ってしまったからね」

 

 

 

 それから暫し休憩を挟み、久方ぶりの食事を取る運びとなる。食べたくないと、そう意思表示をしていた筈なのに。

 

 「朝昼兼用食だ。君の得意料理であり、好物でもあった物を作ってみたんだが……どうだろうか?」

 「…………」

 

 ベッドの前に出された折り畳み式のテーブル。その上にはほぼ週一で作る程に母が好んでいた、里芋の煮っ転がしが出された。前までのコンビニ飯では無い。皿の上に乗っていて、出来立てなのか湯気が立ち昇っている。

 

 りょうり、できたんだ……。

 

 態々白衣を着替えて、エプロン姿で出てきたのだ。恐らく手料理なのだろう。

 

 「キチンと再現出来ている筈だ、食べてみてくれ」

 

 記憶を戻す手助けになるかもしれない、などと理由まで付けて、彼は箸を差し出した。

 

 この匂い、なつかしい。

 

 久々に嗅いだ良い香りが鼻を擽り、自身が空腹である事を思い出させる。堪らず箸を取る為、右腕を向かわせようとした。

 

 「…………ぁっ」

 

 しかし、怪我の癒えていないその腕は痛んで、上手く上がらない。

 

 「? もしや箸の使い方まで忘れたのか? 利き腕は大丈夫だろう?」

 「っ……!」

 

 慌てて左手で箸を持つ。が、当然利き手と違う方の手では上手く扱えず、何度も里芋を挟もうとしては失敗を繰り返す。

 

 「……はぁ。練習、しないといけないな」

 

 一瞬、口調に冷感が戻って背筋が凍った。が、次の「でも今日はいい。折角の料理が冷めてしまうのも忍びない。特別に僕が食べさせてやろう」という言葉には許しのニュアンスが含まれており、再び印象は元に戻る。

 

 「むっ、ぅ…………」

 「……意地を張らなくていい。貸しなさい」

 

 半ば無理矢理箸を取り上げると、彼は僕の代わりに芋を箸の先端に乗せ「はい、どうぞ」と僕の前に運ぶ。

 

 っ、っ~~~~……!

 

 異常な羞恥と屈辱感を覚え、むず痒さに悶えた。しかし、相手は至って真剣な表情のまま此方が口を開けるのを待ち続ける。瞳の奥の感情は窺い知れない。じっと観察されている様でいて、何か圧を感じる。

 

 不意にその瞳の温度が冷たい物に変わるのが怖くなって、僕は口を開けてしまった。直後、待ってましたとそこに煮っ転がしが放り込まれ、口内に熱と風味が広がる。

 

 「ほぐっ……んっ…………」

 

 おい、しい……?

 

 よく咀嚼して味わう。芋を噛み潰し舌の上で転がす度、あの頃の味がする。疑い様も無い程に母の作った料理の味だ。

 

 「お……しい……おいしいっ……!」

 「……それは良かった。まだまだあるから、どんどん食べなさい」

 

 彼の手は此方が欲するままに忙しなく動き続け、そのうち皿の上は空になる。

 

 「おや、完食か」

 「ん……」

 

 ごちそうさまでしたと小声で呟くと、心がふわりと暖かくなった。

 

 嬉しくなってしまった。何だか、初めて他人と母に対する気持ちを共有出来た様で。思わず悲惨な状況にある事を忘れそうになる。

 

 「ありが、と……」

 「どういたしまして」

 

 感謝まで漏れてしまった。僕は最早自分で自分を制御出来なくなっている事を悟る。

 

 ────そっか……。

 

 尚、悟った所でもう、止められない。

 

 そうだよ。このひとは、きっと父さんじゃない。こんなにやさしいのだから。きっとかあさんをよくしってて、父さんによくにてるだけの、まったく別の人なんだ。

 

 これ以上傷付かない為に、この暖かさを素直に享受したいが為に。壊れた心理は遂に危うい虚構を形作り始めた。

 

 「どうだろう? 何か思い出せたかい?」

 

 食器類を片付けた後、彼はふとそう尋ねて来たので、手始めにこくり、頷いた。思い出したというより、覚えている。大好きな味だ、と。迎合し、感情を共有する為の嘘の無い返答をした。

 すると、彼は俄に表情を明るくして言う。

 

 「それだよ、良い兆候だ。五感情報は記憶との結び付きが強い。効果があると思ったよ」

 

 そして、上機嫌で「実は僕も、この匂いで少し思い出してしまってね」と、昔話を語り出す。

 

 「と言っても他愛も無い話なんだが……これは、僕と君が出会ってまだ間もない頃で────」

 

 

 

 大学の同じ研究グループになった彼、トシヤは、ある晴れた昼下がりの休憩中、ラウンジにてたまたまグループの紅一点、リナと二人きりになったのだが。

 

 「キミっていつもそれだよね」

 

 軽食の携帯ゼリーを飲んでいる最中、不意にそう話し掛けられた。彼は酷く緊張したが、平静を装いこう返した。

 

 「別に、普通だろう。他の連中だって似たようなもんだ」

 

 当時は学生の身分、時間も無ければ金も無い。偶々暇が少し出来たところで、食に拘る気力は無かった。

 

 「まあそうだけどさ……流石にほら、コンビニで買って来たカップ麺とか、おにぎりだったりするじゃない?」

 「高いし不健康だろ、あんなの」

 「大差ないでしょうが、はぁ、医者の不養生ここに極まれりだわ」

 

 ため息を吐いて少し離れた位置に腰を下ろす彼女に対し、彼は尋ねた。「そういう君はどうなんだ?」と。すると彼女はしたり顔で持っていた手提げ鞄の中からパウチを取り出し答えた。

 

 「私? 私はちゃんと自炊してマース」

 「……? なんだ、それ……?」

 「昨日作った残り物。じゃがいもの煮っ転がしだよ」

 「……なんだそれ」

 「えっ、知らない?」

 「…………知らない。初めてみた」

 

 彼の家は裕福だったが、親の手料理が食べられる様な環境では無かった。故にシンプルで俗的なその料理が目新しく映った。

 

 「えぇー? 何処の家庭でも見るようなど定番料理だよ? ホントに?」

 「……あぁ」

 

 不意に寂しい様な、何とも言えない気分でそれを眺めていると、彼女はパウチを開け放ち言った。

 

 「……しょうがないなぁ。ちょっとだけ分けてあげよう」

 

 

 

 「────と、そう勧められてね。その時初めて食べたんだ。だいぶ冷めてたけど、あの時食べた味は忘れられなくてね」

 「…………」

 

 本当に取るに足らない、それだけの話。だがそれを語る彼は懐かしげで、幸せそうで。ずっとやつれて影の濃かった顔が、まるで若返ったかの様にハツラツとしていた。

 

 ほんとに、この人は、かあさんを……。

 

 その内心を慮ると共に、無意識に今まで自分に向けられていた冷徹な表情と比較してしまう。昔は、母相手にはずっとこんな顔を見せていたんだろうか。

 

 「ふっ、とまあこんな感じで、忘れっぽい僕でもこうして未だに鮮明に思い出せるのだから、優秀な君ならすぐだよ」

 

 胸の内が何やらもやりとして、僕は無言で俯き眉を顰める。その理由を探し出す前に「そうか、これでもまだ不安か」と彼。立ち上がって本棚へと歩き、何やら一冊取り出すと、

 

 「大丈夫、君との思い出なら幾らでも語れる。君が不安なら、証明し続けようじゃないか。今度は視覚で」

 

 和かにそう微笑んで、空いたテーブルの上でそれを開いた。あの、母のアルバムだった。

 

 「君のアルバムだ。幼い頃の写真が沢山載っているだろう? ……って、なんだいその神妙な顔は。付き合い始めの頃にお互いのアルバムを見せ合った時は真っ赤になっていたのに」

 「…………っ」

 「……悪い、つい揶揄ってしまった。出来ればまた楽しみたかったが、まあ、この辺は君の記憶が戻ってからで…………ここからだね」

 

 幼少期、小中高と飛ばして、大学時代の所で捲るページは止まった。

 

 「ここからが、僕が君と出会ってからの思い出だ。これなんかそうだ、一緒に写ってるだろう?」

 

 指差したのは、白衣を来た人間五人が並んで写っている写真。真ん中で両側を男性に挟まれているせいかまるで場違いな程に小柄に見える、頭ひとつ分以上下の方で賞状を掲げているリスの如き小動物的愛嬌のある笑顔を浮かべた女性がリナで、その右隣のヒョロリと縦に細長い気難しそうなへの字口の男性がどうやら彼だ。

 

 「これがさっき話していた研究グループが出した論文でちょっとした学内表彰を受けた時の写真だね。懐かしいな……君はこの頃から全然変わってない」

 

 視線を彼と写真、双方往復させ顔を見比べていると、「なんだ? 僕は写真の頃より老け過ぎだって?」と見透かした様に肩をすくませた。慌ててそんなに変わってないと伝えたが、「世辞は良い、君が眠っている間苦労した証だ」と皮肉っぽく微笑まれる。

 

 「さておき、既に話した通り学年全体で男子が多く女子の少ない学校で君は目立っていた。本当に大人気だったんだぞ? ほら君の隣の、小太りの彼なんかは────」

 

 

 

 そうしてその後は堰を切ったように、彼の口から学生時代の様々な思い出が語られた。僕が知る由もない、二人が幸せだった頃の話。それがさも自分が体験していたという体で、つつがなく紡がれていく。まるで知らない僕が間違っているかの如く、ごくごく自然に、延々と。

 

 

 

 「……っと、もうこんな時間か。つい話し過ぎてしまった。疲れてないか?」

 

 大丈夫と返事したけれど、疲れは隠せない。頭がぼーっとして瞼が重くなってきた。目を擦っていたのがバレただろうか。

 

 「続きは明日にしよう。幸い、時間だけはたっぷりとあるからな。語り尽くそうじゃないか」

 「…………」

 「トイレは大丈夫か? 眠る前に行っておきなさい。そうだその辺のリハビリも行わないと……」

 

 そのまま眠れるかと思いきや多少無理やり連れられ、トイレの世話をされた。くすぐったいし恥ずかしくて拒絶しようとしたけれど、「なら自分で出来る様にならないと」と言われたら何も言い返せず。促されるがまま久々の排便を行ってからベッドにつく。

 

 「おやすみ、また明日」

 「おや、すみ……」

 

 そう言葉を交わす僕はもう気付けない。彼に対する嫌悪感も薄れ始め、リラックスしてしまっている事に。不安と恐怖に満ちていた確かかも分からない明日が、ほんの少し楽しみになってきている事にも何も違和感を持たぬまま穏やかな眠りにつき、優しい母の夢を見て、明日を迎える。

 

 「おはよう」

 

 昨日と変わらぬ挨拶が、昼夜が存在しない筈の部屋に朝を齎す。その有り難さに、僕も初めておはようと返した。するとおっ、と目を見張った後、「……やはり嬉しいものだな」と彼はしみじみ喜びを覗かせて、ありがとうと口にする。

 

 「体調に問題が無ければ今日からリハビリを始めていきたいと思うんだが、いいか?」

 

 気分の良さそのままに、僕は二つ返事で頷いた。

 

 「よし分かった。じゃあやろう」

 

 

 

 そうして彼の指導の下、健全な日常が構築されていく。まずリハビリと称して数分程度、補助を受けながら無理のない範囲ですっかり衰えた身体を動かし、それから朝食を取る。終われば次は雑談を交えつつトイレトレーニング。

 

 「────っていう事があってね。君のお陰で軍資金が入ったんだ」

 

 ……これ、ひつよう?

 

 昔話を聞きながら食後のトイレを我慢する。それだけの時間だ。我慢している間はリハビリの再開は無いという餌に一応釣られているが、果たしてこれでいいんだろうか。

 

 「どうだ? そろそろ行きたくなってきた?」

 「いや、まだだいじょうぶ、だけど」

 

 とっとと嘘を吐いて手を上げてもいいけれど、どうしても野暮ったくて恥ずかしいし、運動は億劫だから少し先延ばしにしたい。何とも絶妙な釣り合いだ。

 

 「けど何だ? 納得していないのか? まだオムツなのに」

 「そんな、ことは……」

 「自分の膀胱の限界を知る事は重要だ、真剣に取り組みなさい。ちゃんと行きたくなったら手を上げる様に」

 「ぅ……はい……」

 

 とはいえ切りのいい所で切り上げ、また支えられながらの筋トレに移る。

 

 「……はぁっ……っ」

 

 少し動いただけなのにもう力が中々入らない。筋肉はプルプル震えて悲鳴を上げる。

 

 っ、なんか、チカラいれても、ぜんぜん固くならないっ……。

 

 支えとして触れている彼の手で、自分の身体の柔さが分かってしまう。腹部はもう少しゴツゴツしていた筈なのに、返る感触はどれだけ息んでもぷよぷよのままだ。

 

 「ふっ、ぅうっ……」

 「厳しかったら言いなさい。無理は禁物だ」

 「は、い……っ……」

 

 そのせいで弊害も出る。

 

 つっ……ムネの先、いたいっ……!

 

 腹筋に近い体幹を鍛える事が目的と見られるトレーニングだが、やる度少しダボついた病衣が擦れてしまっているせいかそこが擦りむいたみたいにひりりと痛む。

 

 「どうした?」

 「っ、なんでも、ないっ……」

 

 大した動きではない。しかし、弛んだ胸部の肉は少しの動きで大きく揺れる。そのせいで強めに擦れてしまう。

 

 「…………そうか」

 

 それでも何とか我慢して終えれば、昼食を取って暫し休憩に入る。その間彼は「少し出掛けてくる、すぐ戻って来るから」と離脱。そこで少しばかり一人の時間が出来ると、僕はどうにも気になって、ごくり、生唾を飲み込む。

 

 肉が張り詰め、肌が突っ張る感覚。意識しない様にしていたけれど、彼との肉体的接触が増えたせいで、ふと無視出来なくなっていた。

 

 病衣を捲り上げて視線を落とし、気になった部分を確認する。

 

 「……ぅっ…………!」

 

 見て後悔した。なんと胸元は明らかに膨らんで、拳の大きさよりも二回り以上大きな二つの双丘を形成していたのだ。頂上近辺の淡い円もまた最後に見た時よりずっと広がっていて、最早女性の乳房と遜色は無い。こんな物が自分についているなんて、とてもすんなり受け入れられはしなかった。

 

 ただ、同時に不思議に気付く。痛んでいた先端は腫れてると思いきや、意外にも見当たらない。

 

 もしや摩擦で擦り切れてしまったのでは。不安になったその時、部屋のドアが開く音がした。

 

 「戻ったぞ……どうしたんだ?」

 

 慌てて隠した僕は「……な、んでも…………」とはぐらかす。

 

 「そうか…………何か問題があったなら話して欲しいんだが、まあいい。もう少しトイレトレーニングも兼ねて休憩した後再開しよう」

 

 気もそぞろに再びトレーニング。今度は動では無く静、姿勢維持系のトレーニングが行われる。

 

 「ぅ…………」

 「露骨に怪訝な顔をするんじゃない。健康の為、最低限の体力は取り戻さないと」

 

 胸を逸らす姿勢を取り続けていると、ダボついた病衣がその双丘を主張してしまう。

 

 「もう少しだ、頑張れ」

 「っ、く…………」

 

 しかし、彼の態度は尚も真摯なまま変わらない。

 

 また、ぼくがまちがってるんだ……。

 

 そしてそれも終われば、夕食を摂った後、就寝前のシャワー指導。

 

 「そうだ良い機会だ、教えておこう」

 「えっ……」

 

 出入り口横、壁の切れ目が彼の何らかの操作で開き、シャワー室が露わになる。

 

 「ほら、来なさい」

 

 こんなとこ、気づかなかった……。

 

 「何をぼーっとしているんだ? シャワーも、やはり覚えてないのか?」

 「い、いや……」

 「本当か? なら服は脱げるか?」

 「ふぇっ⁉︎」

 「っ、驚き過ぎだ。脱がなきゃ水を浴びられないだろう……ああそれとも、もしかして恥ずかしいのかい?」

 「え、ぅっ……」

 

 恥ずかしいけど、そういう問題じゃ……。

 

 次々と明け透けに問われるデリカシーの無い問いに対し、自分がどう感じていいか分からず戸惑ってしまった。

 

 「……それは申し訳なかった。しかし、眠っている間に君の身体の清潔を保っていたのは僕だ。言い方は良くないが、慣れている。安心して欲しい」

 「そんなの……」

 「恥を思い出してくれたのは嬉しいが、まだ君一人では洗えないだろう? 補助が必要だと思うのだが」

 「っ……おねがい、します……」

 

 洗った後は身体を拭き、着衣指導。

 

 「っ、これ……」

 「? どうした?」

 

 これ、女ものの下着……。

 

 名前は分からない。が、タンクトップに似たシャツの胸の部分に何やら膨らんだ形の物が入っている。そのせいでそうだと分かった。

 

 「ああ、今までは運動しなかったから問題無かっただろうが、その……もう流石に不便だろう?」

 「……っ、そんな、ことは」

 「そうか、しかし不便に感じなくとも着た方が良い。日常生活に戻る為には必要だ」

 「でも……」

 「先程肌を見られるのは躊躇っただろう? これも同じだ、身につけなければはしたないのだよ」

 「ぅっ……!」

 

 自身が性的な目で見られる可能性。否が応でも頭を過り、悪寒が走る。

 

 「幸いこれは着方も難しくない。試しに着てみなさい」

 「…………」

 

 僕は唆されるまま、手を借りつつも自らの意思で、それに袖を通してしまった。

 

 が、着てみたら着てみたで妙にフィットするというか、ぎゅっと胸元が締め上げられて不思議な安心感が芽生える。

 

 「どうだ?」

 「……わるくは、ない…………」

 「ならよかった」

 

 そのままベッドに入り就寝する流れに。すると「今日はよくやった」と彼が僕の頭を撫でた。

 

 「っ…………!」

 「明日も頑張ろうな」

 

 こんなこと、いままで一度もしてくれなかったのに……。

 

 褒められるハードルの低さに驚きながらも、心に歓喜が込み上げる。頬が緩んでしまう。

 

 「おやすみ」

 「おやすみ、なさい……」

 

 

 

 次の日も、またその次の日も続いていく。快適で、至れり尽くせりで、全てを委ねたくなる様な生活。その中で丁寧に教え込まれていく。母さんを、今の自分を。

 

 

 

 毎日毎日。積み重ね続けて少しずつ体力を取り戻し、そしてある日の朝。

 

 「…………ぁ」

 

 血生臭さと下腹部の重怠い不快感で目覚める。布団を捲れば、そこには赤い牡丹の様なシミがじんわりと広がっていた。

 

 うっ、これ、また……。

 

 例によってオムツのお陰で被害は抑えられているものの、助かった気はしない。寧ろあってこれなのかと戦慄してしまう。

 視界が俄かに滲んだ所で、間の悪い彼が丁度駆け付ける。

 

 「っ、少し待っててくれ!」

 

 そして大慌てで部屋と部屋の外を往復し、必要な道具が揃えられた。

 

 「ほら、これ。まずオムツを外してこれで拭きなさい」

 「……ありがと」

 

 拭くものを手渡され、股座の血を自分で拭う。見た目の割に股座表面は痛くはなくて、こそばゆい。

 

 「…………ふけた」

 「そしたら、はい。新しいオムツと、当てるナプキン」

 

 オムツをしているのに必要なのかと疑問に思ったけれど、無いよりは安心出来そうなので指示に従った。

 

 「顔色が良くないな……痛むか?」

 

 無言で頷きを返す。痛みもそうだが、気分が悪くて落ち込みが激しい。何故か涙が止まらない。

 と、その時。彼の腕が後ろから僕を包み込み、その掌が柔和な下腹部にそっと添えられた。何とも言えぬこそばゆさで「ひぁっ……!」と微かに背筋が跳ねる。

 

 「この辺りか?」

 「っ……!」

 

 えも言われぬ羞恥に唇をキュッと結んだ此方に気付いているのかいないのか。相変わらず真っ当な表情のまま続ける。

 

 「この部屋はよく冷えるからな……生理痛は冷やすと良くないんだ」

 「だからってっ……」

 

 態々こんな事をして暖めて貰う必要は無い。そう振り払おうとしたが、その前に掌は離れていく。

 

 「今日は一日安静にしよう。リハビリは無し。ゆっくり休みなさい」

 「ーーっ……わかった……」

 「明日以降も考えないとな……」

 

 

 

 そこで漸く、暫し徹底されていた日程が崩れた。丁度少し嫌になっていた所だったので、僕は比較的快く休養を受け入れたのだが。

 

 「リナ、すまない」

 

 朝食中ふと彼は改まって言う。

 

 「僕は今日ちょっと遠出しないといけないんだ」

 「……ぇ?」

 「先送りにしていて溜まっていた用事に遂に追い詰められてしまってな。少なくとも一日丸々帰って来られない」

 

 俄に驚いた。就寝時間や休憩時間等には自分の側を離れては居たけれど、今の今まで恐らくほぼ付きっきりだった彼が、長時間ここを離れると言うのだ。驚いたし、何となくショックを受けた。てっきりこれからはまた丁重な看病を受けるものだと、そう思い込んでいたから。

 

 「一応食事の心配は無い、作り置きの物を置いておく。鉄分をしっかり摂れるメニューだ」

 

 此方の今の表情をどの様に読み取ったのか。分からないが、彼は今一度頭を下げる。

 

 「……本当にすまない。何分昨日の段階で決めていた事で、キャンセル出来ないんだ。最近は君の容態も安定していたから大丈夫だと思っていたんだが、まさかこのタイミングで月経が再開するとは……」

 「…………い」

 「ん?」

 「っ、いや、なんでもない……」

 

 僕は何かを尋ねようとしたけれど、途中で訊こうとした内容も理由も分からなくなって言葉は霧散した。

 

 何はともあれひと段落付いてその後。朝食を済ませれば宣言通り、彼は出掛ける準備を済ませて「行ってくる」と口にし、僕の頭を撫でる。

 

 「こういう時、行ってらっしゃいと返してくれると助かる」

 「っ……いって、らっしゃい……」

 「有難う。ふっ、寂しがり屋の君を一人にするのはやはり心配になるな」

 

 そんな事はない、早く行け、などと言えたらどれだけ良かったか。飼い慣らされた自分はもう、内心本当に不安になってしまっていて、言葉も出せずに彼を見上げて瞳を揺らし、寧ろその逆の「いかないで」という言葉を口にしようとしてしまう。

 

 「…………厳しいがやはり今日はキャンセルに」

 「っ、いってきて……!」

 

 が、慌てて溢れたのは虚勢だった。

 

 「……なるべく早く帰ってくるから。大人しく待っていなさい」

 

 

 

 哀願の表情は伝わっていた事だろう。もしかしたら、無理を言えば引き留められたのかもしれない。しかし僕はそうしなかった故、彼は部屋から去って行った。

 ドアの駆動する音が鳴り止めば、久々に自分以外の物音が期待出来ない静寂が訪れる。

 

 「…………」

 

 幾許かそれに浸かれば、不意に下腹部を意識して、先程まで紛れていた重怠さが見つかってしまう。溜息を吐きながら楽な体勢を探して寝返りをうつ。

 

 「……ぅーー…………」

 

 それを何度も繰り返す。が、落ち着く体勢は見つからない。すると自然と不安と寂寥感に苛まれ、胸の内に押し込まれていた自己嫌悪が溢れ出す。

 

 ……なんでこんなキブンにならなきゃいけないんだ。

 

 この状況を受け入れれば、あの人に優しくしてもらえる。受け入れる事さえ出来れば何も問題は無い。そう思っていた。

 しかし、こうなると浅はかだったと自覚してしまう。思考停止が生み出した浅ましい心理だったと。

 

 やっぱり、どこまでいっても……ちがう。

 

 自分は女子ではないし、母、リナじゃない。それが抗いようもない現実である。

 

 ぼくは、見てもらえてない。ぼくは、たいせつにされてない。ひつようなのは、ぼくじゃない。

 

 虚しさと切なさが込み上げ、重怠い腹の底に悶々と溜まっていく。ふー、ふーと深めに息を吐いて逃がそうとしたけれど、あまり意味は無かった。よく知る欲求不満。元より薬漬けにされ刻み込まれていたそれが、久々の孤独によって引き出されてしまったらしい。溜まりゆく物は少し前に彼に触れられた感触と重なって、何故か淫熱を孕んで疼きを生む。痛くて気分が悪い筈なのに、それすら錯覚の内側に取り込まれる。

 

 太腿の内側を擦り合わせると、サラサラとしたナプキンの感触の中に何処か滑り気を感じる。それは血液なのか、それとも。

 

 恐る恐る付けたばかりのオムツを外して確認した。すると、白い部分にじんわりと赤い染みが滲んでいて、濃密な血の匂いが鼻をつく。

 

 「うっ……!」

 

 一気にその気が失せて、ナプキンとオムツを元に戻した。そして動作の過程で鏡が目に入り、母そっくりの人間が酷くはしたない格好をしている所を目撃してしまう。

 

 もう、やだ……。

 

 布団を被って不貞腐れ気味に目を瞑る。とにかく目の当たりにした現実が嫌で嫌で仕方なくて、眠ってしまいたかった。

 

 しかし、眠れない。幾ら待っても、意識は沈んではくれなかった。当然である。ただでさえ眠くないのに、そわそわそわそわ、身体が落ち着かず、まるで寝付ける状態では無いのだ。

 

 「……うぅ」

 

 時間が分からない。彼が居ないと、朝も昼も夜も知覚出来ない。冷たい部屋の空気が動かなくて、まるで世界が停滞したみたいに感じられる。

 その中で、腹の奥に沈殿した熱だけが重く渦巻く。時折暴れて僕を苦しめる。

 

 「……ぐすっ」

 

 それでも涙を呑んで必死に堪えた。堪えて、泣いて、また堪えて。そうしたらいつの間にか腹が減っていて、くーっとその虫が鳴いた。

 徐に身体を起こし、ベッド前テーブルの上に置かれていたタッパーを手にとって開ける。

 

 「っ………!」

 

 中身は、あのじゃがいもの煮っ転がしだった。添えられていた箸を漸くある程度動く様になった右手でなく、訓練された左手で取って操り食す。

 

 おいしい、けど……。

 

 冷めたその味は余計に温もりを、人恋しさを思い起こさせる。美味しいのに、彼と一緒に食べた時の方がずっと美味しかったと思わずにはいられなかった。

 

 完食後、満たされた胃袋とは裏腹に心は飢えて渇望し始める。彼の帰りを、彼との会話を。例え求められているのが自分じゃなく、母だとしても。与えられる温もりが偽りだとしても、それが無いと生きていける気がしない。

 粉々の反骨心がそんなことないと弱々しく呟いたが、もうそこに拒絶の力など残っていない。腹一杯に溜まった寂寥感は胸にまで込み上げて、裂けんばかりに張り詰める。

 

 「っ……はぁっ……っ……!」

 

 時間が経てば経つ程、どんどん酷くなる。比例して熱っぽい皮膚がひりついて、何かと擦れる度甘く痺れる様になっていく。どうにもならない現状を慰めて欲しいと、身体が叫び悶える。

 

 しかし、肉体がどれだけ欲求を発しても、その日は心はガンとしてそれにノーを突き付け続けた。自分に色濃く残った母の面影が、僕を離さなかったから。

 

 

 

 ガシャン、ギィー。長らく停滞していた室内の空気が特徴的なドアの開閉駆動音によって動き、「ただいま」という男の低くしわがれ疲れ切った声が響く。

 

 「帰ったぞリナ。起きているか?」

 

 待望と忌諱。二律背反を抱かせ続けたそれが、苦悶の元凶が近付いてくる。

 

 「なんだ、起きてっ……」

 「……っ」

 「……なんて顔をしているんだ」

 

 布団の下に隠していた此方の顔を覗いた彼と目が合った。また一段とやつれただろうか。哀しげで寂しげな表情を浮かべて、またしても僕をそっと抱き寄せようとしてくる。

 が、僕はその手をパチンと払い退けた。

 

 「……悪かった。出来る限り早く帰ると言ったのに、遅くなった」

 

 愛想笑いと謝罪が返った。違う。そこは気にしてない。予定より遅くなったかなんて分からないから。恐らく一日以上の経過はしていない筈だろうし、全然、問題無い。

 

 「やはり君の体調がすぐれない時に離れるべきでは無かったか」

 

 それについても謝る必要なんて無い。自分は行けと言った。心配無いと虚勢まで張って。体調だって熱っぽくて怠いだけ。辛そうに見えるなら、それは内面が、僕自身が原因だ。

 

 何も思っていない訳じゃない。誠意を見せようとしてくれるのは嬉しい。でも、ダメだ。

 自分で自分が分からなくなる。許したいのに許せない。受け入れたいのに受け入れられない。怖くて堪らない。

 

 「すまない、悪かった……」

 

 彼は今一度、的外れなニュアンスの謝罪を零しながら縋り付く様なボディーコンタクトを求めて来た。対し「やっ……!」と、僕は再び反射的に彼を突き飛ばし、拒絶してしまった。

 

 「…………悪かった」

 「ぁ……!」

 

 彼は露骨に表情を曇らせ、その場を去って行った。

 

 

 

 それからというもの、彼と自分が顔を合わせ、言葉を交わす機会はめっきり減った。会うのは朝昼晩三回の食事と、サポート無しの運動の指示監督の時だけ。時折互いに距離感を測る様に遠回しのやりとりをしては離れてを繰り返す、煮えきらない日々が続く様になった。

 

 「リナ、体調は……」

 「っ……」

 「……必要があれば呼んでくれ」

 

 頭は自分が母として見られている事を強く意識し、身体は慰めを求めている。その状態はあまりに人として不健全で、封じていた恐怖や嫌悪を呼び覚ますには十分だったらしい。彼が手を伸ばして来る度身体が強張ってしまい、それを察知した彼は手を引く。それが毎度繰り返され、その度心が傷んでいく。

 

 なんで、そんなカオ……ぼくが、わるいことしてるみたいじゃないか……。

 

 

 

 「はぁっ……はぁっ……!」

 

 増えた一人の時間、荒く熱い息を吐く度理解する。父性愛にも異性愛にも飢え、満たそうとしても母への罪悪感と生理的嫌悪に苦悩し、その元凶たる存在を敵視しながらも同情し、期待し、依存する。混沌とした心理の境でぐちゃぐちゃになっていく自分を。

 子供として優しくされたい。愛されたい。無視されたくない。それが一番な筈なのに、それが叶わないと確信しているから、欲求も自制もどんどん歪んでいく。その欲するままに振る舞った先の破滅を予感し、恐怖に身を強張らせながら、暗く淀んだ劣情を催してしまう。

 

 「ふっ……ううっ」

 

 抵抗も虚しく、遂に手指は膨らんだ胸を揉み、半ば無意識に甘く疼き芯を持つその先端を弄る様になっていた。

 最初は本当に意図は無かった。弄らなければ落ち着かなくて、耐えられなくて。あまりにも手近に存在する、母の要素を感じるその感触に甘えてしまっただけだった。

 

 しかし、返る感覚はあまりにも官能的で、実感して以降は自慰行為に他ならなかった。おかしいのは自覚している。親愛に飢えての行為が、性愛を満たしてしまうのだから。どうしたって母を性的に見てるみたいで、意識をすれば嫌悪に押し潰されそうになった。

 

 けれど、違うのだ。あくまで求めているのも自分で、感じるのも自分。手は母性を、身体は性感を求めている。自分の歪んだ姿から目を逸らせば、こんなに都合良く欲求を満たせる行為は無い。

 

 かあさんじゃない……かあさん、かあさんっ……。

 

 性的快感と、壊され退行した自身の幼さまで結び付けば、もう止まらなかった。

 

 「っ、く、ぅっ……っ゛!」

 

 腹奥に溜まった淫熱は暴れ、脳天を白光が突き抜ける。何度も、何度も何度も何度も。胸だけで身体を仰け反らせ、狂った様に繰り返した。

 しかし一向に発散されず、情欲は膨れ上がっていくばかり。いつしか耐え兼ね股座も下に擦り付けずにはいられなくなってしまい、行為は更に悪化。

 

 んっ……かあさんっ、ごめん、なさぃっ……ごめんなっ……ぃっ……。

 

 遂には母への罪悪感すら、呆気なく歪曲してしまった。

 

 滑落は一度始まれば歯止めは効かない。行為の時間は瞬く間に増加し、果ては夢の中でも自身を慰める様になる。

 

 くっ、ぁっ……。

 

 夢の中でも自分はもう、男の身体では無かった。女の身体で、女の性感を味わっていた。ベッドの上で、シャワー室で、学校で、昔の家で。いつの間にか女体となって、その持て余した肉欲を貪っていた。

 

 ぁっ……っ……!

 

 それすらも短期間でエスカレートしていき、見知らぬ男に襲われて、犯される夢が増えた。電車や通学路で身体を弄られたり、連れ去られて窓の無い監獄で陵辱を受けるのだ。勿論経験は無いから現実味が無くて、ポルノ映像を体感する気分で想像上の快楽を堪能する事になるが、快感は完全に女性側の視点で被虐的なものばかり。目覚めて自己嫌悪に陥る様になった。

 

 深刻化すればするほど現実の時間で父を避ける様になり、一人の時間が長くなればなる程内容は生々しくなっていく。そして見知らぬ男は気付けば父の姿をする様になって、シチュエーションは現実に即したものへと変わる。

 

 っ、い、や……いやだっ……!

 

 はっきりと形になって、現実との区別が付かなくなった瞬間、流石に怖くて、決定的な行為の直前で醒めた。そして今更改めて自覚し項垂れる。自身の内面が、完全に歪められてしまったと。

 

 理解し遠ざけた所で、間も無く限界が来る。ある日の就寝時間前。

 

 

 

 「……おやすみ」

 

 消灯時間を伝えに来た彼が、先んじて寝たふりをする僕へ、態々ベッドの傍まで来てそう告げ去ろうとしたその時。僕は遂に慌てて身体を起こし、「まって……!」と、離れていく彼の袖口を細く心許ない指先で引いてしまった。

 

 「…………?」

 

 引き留めておきながら考える時間を要し、少しの間が開く。そしてなぜ止めてしまったのかと後悔しながら、後戻り出来ずに酷く拙く言葉を紡いだ。

 

 「その、ごめん、なさい……」

 「……何がだ」

 「まえ、キツくあたったから……」

 「それは、僕の方が悪いと謝っただろう」

 

 死相に満ちた彼の横顔が悲痛に歪む。少し前ならきっと喜んでいた筈なのに、今ではそれを見ると堪らなく胸が苦しい。ちがう、ちがうと首を振り、自分が何故あんな事をしたのかしどろもどろになりながら説明する。

 

 「ちがうんだ……その、カラダ、おかしかったから……さわられたくなくて……」

 「そう、なのか……? 何処がおかしかったんだ?」

 

 食い気味に詰め寄られて心臓が跳ねる。聞かれたく無かった。今触れられたら気が変になる、なんて。そんな事言える筈が無い。

 

 「っ、とにかく、さわるのダメ……! そもそも、よくないんだよ、そういう、の……!」

 

 そもそも今までがおかしかったんだ。馴れ馴れしく触るな。そんな関係じゃないだろう。そんな言葉を相手を傷付け過ぎない様出来る限りオブラートに包んで、しどろもどろになりながら伝えた。

 

 「……はは」

 

 彼は涙ながらに正気のない顔面に笑顔を作った。そして歓喜した様に声を震わせ言う。

 

 「そうか、そうか。漸く、真に男女意識が芽生えたんだな」

 「っ! ちがっ、そうじゃ」

 「良かった。なら、改めて伝えないといけないな」

 

 この上なく嫌な予感がするのに、胸が弾む。頬が熱くなる。

 

 「ずっと聞きたかっただろう? なんでここまで良くしてくれるのか、って」

 

 聞きたくないのに、聞きたい。辛うじて首をゆるゆると振るが、言葉は続く。

 

 「ふふっ、言わずとも伝わっているかもしれないし、さり気なくもう口にしたかも分からないが、改めて言うよ」

 「や、ぁ」

 「リナ、僕は君を愛してる」

 

 聞いた瞬間、皮膚が泡立った。肉親の生々しい色恋にその子供が立ち会えば、誰しも感じるであろう不快感。それだけならどれだけ良かっただろうか。

 

 「僕のこれまでの行動の大半は、全て君への愛が為だ」

 

 ズキリと傷んだ胸の内、気持ち悪い。羨ましい。虚しい。妬ましい。嬉しい。本当に気持ち悪い。膿んだ感情が次々滲み出す。

 

 「どうか受け入れてほしい。見返りはいらない。ただ、僕が君を愛する事を許して欲しい」

 

 親愛じゃない。向けられているのはドロっとした性愛と依存と、支配欲。分かっている。分かっている分かっている分かっている。

 けれど、欲しい。偽りでも、不潔で醜く歪んでいても。愛が、安寧が欲しい。

 

 気持ち悪い。この期に及んでこんな事。羨ましい。この愛情を真っ当に受けていた母が。虚しい。決して見向きもされない自分が。妬ましい。名前を呼んで貰える母が。嬉しい。形はどうあれ、愛情を受けているという実感が。

 

 ────ほんとにきもちわるい。この人も、ジブンも。

 

 キャパシティを超え硬直する僕の身体が彼の身体に包まれる。なけなしの理性から来る倫理観が胸を刺した時にはもう遅かった。

 

 「んっ、っ…………!」

 

 唖然として開いていた口が、彼のがさついた唇で塞がれた。

 

  「んっ、んんんんっ……!」

 

 眉間に皺を寄せ脊髄反射で離れようとしたものの、強い力で後頭部を抱かれてしまい動けず。思考が追い付くその前に口内にコーヒー風味のザラつく舌先が入り込んで、此方の舌を絡め取った。

 行為の存在は知っている。けれど、こんな感触だなんて知らないし、こんな形で味わう事になるなんて思いもしなかった。それだけに激しくパニックに陥り、その隙にあっという間に引きずり込まれていく。

 

 「んうううっ、ちゅっ、んんんんんっ!」

 

 どうしてこんな事をするのか、されるのか。動機以前に生理的に理解が及ばない。が、お構いなしに容赦無く教え込まれる。舐られ、啜られ、貪られ、脳髄に叩き込まれる。唾液がかき混ぜられる音を。甘苦い味を。生々しい性の触感を。

 

 「っ…………」

 

 そうして間も無く酸欠か、はたまた真の淫蕩か。音は遠ざかり、涙で滲んだ視界はボヤけて、頭がぼーっとし始める。

 

 「んんん……っ、んろ……」

 

 蕩ける。汚くて不快な筈なのに、刺激が頭に響いて下腹部に伝搬し、浮遊感に襲われる。ぺたんと内股で座ったベッドの上、腰がソワソワして浮き足立つ。

 

 だめだっ、いやっ、いやだっ……。

 

 本格的に危機を感じた所で、もうどこもかしこも力の入れ方が分からなくて。舌先を逃がそうとしても逃げ場など無かった。出来るのは一方的な蹂躙が過ぎ去るのを待つ事だけ。そう覚悟し強く目を瞑って耐え忍ぼうとしたが、擦り切れた精神にはそんな余力すら残っていない。あっという間にそれすら蕩かされ、ぼーっとして、身体は徐々に弛緩し後頭部を抱く腕に体重を預けていく。

 

 「んっ……っ……」

 

 相手の腕はゆっくり、僕の頭をベッドの上へと誘った。そしてそっと置かれた後、此方の舌に根本から絡み付いた舌先がぬろぉーっと先端まで滑り、ちゅはぁ、と引き抜かれ唾液の糸引く線と余韻を残して離れる。

 

 「っ……はー……っ……!」

 

 酸素が戻ってじんわりと視界が戻っていく。が、相手は回復を待ってくれない。一呼吸置いて再度貪られる。同時に病衣の中に手を入れられて、片方は胸を、もう片方は股座を、下着の上から弄って来る。惚けていたせいで無防備で抵抗は間に合わない。此方の手はただ相手の手首を掴むに留まり、勝手を許す。

 

 「ぅっ、んっ、んんんっ……! んっ……っ!」

 

 くちゅっ、ぐちゅっ。股座は既に音が立つ程水気を蓄えていたらしい。滑り、卑猥な水音が響く。その中心たる痼りを弄ばれる度、散々自分で弄った胸がくにゅっと形を変え、乳首を指先で転がされる度滑りと音は酷くなって、灼ける様な快感に身体は一々くぐもった声を漏らし、びくびくと浅ましい反応を返してしまう。

 恥ずかしい。こんなの嫌だ、最悪だ。相手は父で、自分は本当は息子なのに。自分の物とは到底思えない程の艶声と共に抵抗する感情が噴き出す。が、入念な下準備によって淫靡な女体に変えられた肉体にとっては性感の炎を燃え盛らせる糧にしかならない。思えば思う程悶えて、股から蜜が滲み出す。

 

 「っ、んん゛っ……!」

 

 と、その時。指先が敏感な突起の下、割れ目の筋に沿って滑ったかと思えば、ちゅぷり。一本、這入った。今まで自分でも怖くて触った事の無い領域に、体内に這入ってきた。

 指の形が分かる。艶かしくうねって、鋭敏な神経に狙いを定め、直接刺激してくる。

 

 ありえないっ、やだっ、やだぁっ……。

 

 ぎゅんっ、ぎゅんっ。否定しても腹奥が締まる。腰が跳ね、背筋をぞわりと電流が駆け上がる。まるで夢に見た、否、夢より遥かに倒錯的な快感の暴力に翻弄される。一切抵抗出来ず、危険な方へ流されていく。

 

 「っ……やぇっ、んっ……っ……」

 

 解されていく股座に意識を向けていると、胸を弄る方の手によってあれよあれよと服は脱がされていって、熱い肌はシーツの冷たさと、覆い被さる男の熱気を知る様になる。

 

 ちがうんだ、ぼくは、ぼくはぁっ……。

 

 自分の気持ちが分からない。止めなきゃ。こんな事、いけない。しちゃいけない。確かにそう思っている。けれどもうぐちゃぐちゃで、ぼろぼろで、拒絶心が建前程の力も持ってくれない。その癖身体の欲求ばかりが強大で、膨れ上がり張り詰める切なさを解消しようとひたすらはしたなく求めてしまうから。やめて欲しいのにもっとして欲しくて、自分の本当が分からない。

 

 心身のズレは最早決定的だった。思った行動はまるで取れず、抵抗の為に突き立てるべき腕は相手の求めに応じ演じる様にその背中に周り、腰は弄ぶ手の方へ向かう。すると、

 

 「んっ……っ~~~~!」

 

 間も無く快感が弾け、背筋が跳ねて脚がピンと伸びた。目の端で星が飛び、チカチカ明滅を繰り返す。そして不自然な痙攣と硬直で察知されたか、暫し口内に絡みつく舌と、此方の胸を揉む手がぎゅーっと絞り上げる形で止まった後、力が抜けて徐に離れた。

 

 「っはぁっ……はーっ……はーっ……」

 

 滲んで歪む視界一杯にやつれた妙齢の男の顔が映る。垂れ下がった眉尻、細まった瞳、紅潮した頬。これまた見た事もない表情だった。

 彼もまた荒く息を吐いている。はぁ、はぁ、熱い吐息が鼻先を撫でる。視線は揺れる。揺れて、不意に重なる。

 

 爆ぜそうな程に早まった心音が鼓膜を叩く中、彼は言った。「……いいか?」と。

 余韻の最中で惚けた自分でも意味は理解出来た。良くない、ダメだ、それだけは。今までは求めていた筈の本能が急激に警鐘を発し、ほぼ脊髄反射でそう意識表示しようとした。が、喉元に出掛かった所で止まる。

 

 ここで、拒んだら……っ。

 

 性感から来る口惜しさだけではない。おかしな事に気付いてしまった。本当に、おかしな事だ。自分は今や避けていた筈の最悪の結末よりも、それを拒んだ後の方が怖く感じてしまっているのだ。

 

 拒まれたら、この人はどうなる……? ぼくは……?

 

 逡巡した。この人は、母さんに縋って生きている。果たしてこの場面で、その拒絶に耐えられるだろうか。

 

 縋るものを失った自身と、先日僕に拒絶された時の彼の姿が重なり、共感すると共に確信した。二度目の喪失は、とても耐えられないと。

 そしてそんな事になれば、一人残された自分もきっと耐えられない。この疼きを抱えたまま、狂い死んでしまう。

 

 「……わたしが、ひつよう?」

 

 初めて、自ら一人称を改めた。元より僕と口にする度態度が冷たくなるのが嫌で意図して一人称を使う事自体を避けていたが、今、受け入れる意図を込めて刹那的に使ってしまった。

 すると案の定、「ああ、当然だ」と、心底嬉しそうな返事が返って、愛おしげに頬を撫でられた。

 

 そっか……いいんだ、これで。

 

 関心を向けてくれるなら、愛してくれるならもう、いい。

 

 「なら……いいよ」

 

 少し強張っていた身体の力を抜き、視線を逸らして言った。半ば自棄で、殆ど一時の気の迷いで、自分が何を言っているのかも分からない内に、自身の嫌悪に邪魔される前に、出来る限り全てを放り投げる様に吐き捨てた。

 

 「……ありがとう」

 

 感謝の言葉の直後、股座に硬い棒状の肉感が突き立てられる。嫌だと腰を逃したのも束の間、しっかり手で腰骨を抑えられて、ずにゅり。めり込んできた。

 

 「あ゛っ、ぐっ……!」

 

 苦痛で声が漏れ、全身痛い程に強張る。痛みの発信地の他、少し前に治った筈の右腕が特に痛んで爪を突き立ててしまったが、相手はお構い無しに荷重を増し、めりめりめりめり、ゆっくりと入り口を押し開きながら挿入って来る。

 

 「い゛っ、や、あ゛ぁっ……!」

 

 痛い。裂ける。嫌だ。もう、無理。

 

 いき、できな゛っ……だっ、あ、さけるっ……!

 

 刹那、ぶちんっ。心と身体が裂けた音がした。

 

 「ぁ゛あっ……!」

 

 抵抗を失った肉の棒は一気にズンっと腹奥まで滑り込む。激痛が走り、自身の喉からは一瞬断末魔の如き金切り声が上がるも、圧迫感ですぐに途切れて呻き声に変わった。

 腹部が下から押し潰されて息が吸えない。涙ながらに口を大きく開け吸おうとするが、それを彼の唇が塞ぐ。

 

 「ん゛っ……ううっ……」

 

 酸欠で視界が眩んで、末端が痺れて痛みが誤魔化されていく。その朦朧とした中で今一度、密着したまま先程行われていた頭を溶かす作業が行われ、強張った全身が解かれた。

 

 「っは……大丈夫か……?」

 

 気遣う声と共にまた頬が撫でられる。酷い事をされている筈なのに、大事にされている実感で胸が一杯になって、強がる言葉が出てくる。

 

 「ぅ゛ぅ……いたいし、くるしいけど……がまん、できる……」

 いやだ、もうやめたい。やめてほしい。

 

 今一度額にキスされて、頭を撫でられた。これ程までに人に求められ、愛された事は無い。幸せが滲み出す。

 

 「大丈夫だ。暫くすれば痛みは引く。心地良くなってくる」

 「う、んっ……!」

 いやだ、そんなわけないっ……!

 

 ふわふわすりすり、愛情たっぷりに両胸が愛撫される。すると重い鈍痛の中、再びこそばゆさに近い快感が背筋を走り、腰に伝達して甘く痺れ始めた。「うっ、ふぁっ……ぁぁっ」と、恥ずかしい声が漏れれば、そこにまた唇が蓋をして、舌と舌が絡められる。

 

 うぁっ、すりすりやばいっ、した、くちゅくちゅっ……おなかっ、ひびくぅっ……!

 いやだっ、きもちわるいっ、きもちわるいぃっ……。

 

 刺激で下腹部が痙攣して締まる様に動けば、自ずと刺さっている物の輪郭が浮き彫りになっていく。太くて硬い、熱く脈打つ強烈な異物感が窮屈な肉の輪を押し広げている様が鮮明に意識出来る様になる。

 

 「これっ、ほんとにはいってっ……ぁっ、みゃくうってるっ……!」

 いやだいやだいやだっ、ぬいてよおねがいぬいてぇっ!

 

 彼は「落ち着いてきたかい?」と今一度投げ掛けて来る。確かに、感触がはっきりしてきてから刻一刻とそれが馴染んでいくのを感じるし、身体の余計な力も抜けて楽にはなってきた。

 けれど、それに反比例して加速度的に余裕が無くなっていくのが分かる。

 

 「わかんなっ、いっ……なんか、むしろっ、そわそわしてっ……あぁっ!」

 「そうかっ……」

 

 返事をした直後、ゆっくりと中のそれは動き始めた。

 

 「後は任せて……委ねなさい」

 

 ぬろぉーっと引き抜かれ、肉の輪が引き摺りだされて捲り上がったかと思えば、ずぶり、また奥へと沈められる。うっ、と声が漏れ、同時に痛みを感じていた箇所のより奥が灼け痺れた。

 

 「ぅっ、ぅっ、ふぁっ、ぁっ」

 おかしいよこんなのっ、まってっ、これだめだってっ!

 「っあっ、あああっ……!」

 

 徐々に加速して、力強くなる。ぱちむっ、ぱちむっ。最奥を突かれて、その度濡れた肌同士が打ち合い、吸い付き合って卑猥な音が鳴る。合わせて自分の口からも意図せず艶っぽい声が押し出されて、相応の雰囲気を醸し出す。

 

 「あっ、ぅっ、ぅあっ、あぁっ!」

 やめっ、てっ、ぇっ、っ……!

 

 一突き毎に何やら腹奥から発火し、身体の芯を衝撃が駆け上がって脳天を突き抜ける。深くて重い。自慰の時に生じる物とは似て非なる物だ。それもまた少しずつ強くなって、次第に無視出来ない程に中枢を灼き始める。

 

 「んぁっ、ぁっ、あっ、はぁっ、ぁっ、っあ゛」

 やぁっ、っ……っっ…………。

 

 流石に怖くなって相手に視線を送った。が、彼の瞳はより強烈な興奮の色しか返さず、止まるどころか寧ろ一層激しく、情熱的になる。

 

 「あっ、んっ、んっ、んんっ、んぅっ、う゛ぅっ!」

 

 裂かれた心身が溶かされ、掻き混ぜられる。苦痛が快感に変わって、脳髄が暴力的な多幸感に支配されていく。何も考えられなくなる。

 

 響く卑猥な声と荒々しい息遣いと、粘質で空気混じりな衝突音が、閉所で立ち込める、むせ返る様な性臭に包まれて一つに溶け合う。次第にそれ以外は何も感じ取れなくなって、そして「うっ! くっ!」と彼のこれまた聴いた事の無い様な切羽詰まった吐息が漏れたのを合図に、ずんっとこれまで以上に深々と挿し込まれたその時。

 

 どくっ!

 

 熱い肉棒は膨張し、内側から圧迫された下腹部が前方向にぐっと張り上げられた。かと思えば数秒後、ぐっ、ぐっ、ぐっ! と激しく脈打ち暴れ、その先端から灼熱が噴出される。

 

 「あ゛っ、っう゛うぅっ────」

 

 その度視界は明滅して、遂には真っ白になった。灼けつく白光が、脳裏で飽和してしまった。

 

 

 

 天にも昇る気分とは正にこの事かと、そう思わずにはいられなかった。本当に、そのまま死んでしまうのではないかとすら直感して少し怖くなる程、気持ち良かった。気持ち良くなってしまった。

 

 後になって分かる。結局の所、この時、この瞬間に僕は死んだのだろう。

 

 

 

 頭の天辺から爪先まで多幸感一色となる中、ゆっくりと降下する。その過程もまた格別で、滲み出る異常なその快感を噛み締める。二回り程大きな相手の身体を腕と脚でぎゅっとするとより強く滲むので、強く強く、逃がさない様に巻き付け、抱き締めた。

 

 どくどく腹の奥、注ぎ込まれた灼熱が満ちて、股の外に溢れ出す。

 

 「っあ…………はーっ……」

 

 これ、だされたんだ……。

 

 過ぎる妊娠の二文字は、自身が男故の現実味の無さと余りに深い余韻の中、再びの口付けによって掻き消された。

 

 「んっ……っっ……っ~~……」

 

 こういう時キスをする意味が分からなかったけれど、理解させられてしまった。ただただ、こうすれば気持ち良くなる様に出来ているのだと。

 

 受け入れ、自ら舌を絡めてしまう。ちゅっ、じゅっと音が立つ度、脳が痺れる。息の続く限り乱暴に舐られて、最後にちゅはっと離されれば、此方の口元はだらしなく舌を出したままになった。

 

 「はー……はー……」

 

 なんでやめちゃうの……? もっと……。

 

 惚けた自分は半ば無意識にせがむ様な眼差しを相手に向け、その顔にゆっくりと焦点を合わせた。

 瞬間、一気に醒める。「えっ……」と思わず声まで漏らしてしまった。目の前の彼の表情が、何故か急に冷たく、冷酷な物へと変わっていたから。

 

 「っ、なん、でっ……っ……!」

 

 そう口にすると、その瞳は震え出し、涙を溢れさせながらみるみるうちに血走っていく。尚も能面の如き表情は動かない。が、毛が逆立ったかと錯覚する程の怒りと悲しみが伝わって来て、戦慄すると同時に困惑せずにはいられなかった。

 

 理解が追い付かず硬直している隙に彼の手元は此方の首筋に伸び、掴んで締め上げて来る。爪がめり込んで激痛を発する程に強く、強く。

 

 「い゛っあ゛っ……っ……!」

 

 急速に薄れ行く意識の中、唐突に訊かれた。

 

 「お前は誰だ……?」

 「っ、ぇ゛っ……?」

 

 何を今更な質問で、訳が分からなかった。貴方がこうしたのだろうに、何故そんな事を訊くのか。

 もっとも、何を思おうと返事は出来ない。もう事切れる。

 

 予感した直後、寸での所で首元を絞める手は投げ捨てる様にパッと離され、うつ伏せになる様に転がされた。気道が急に開いてゲホゲホと咳込む最中、今度は背後から乱暴に胸を握られる。

 

 「げほっ! っ! い゛っ!」

 「誰だと訊いているだろっ……!」

 

 更に、挿入されたままの肉棒が強く、強引に最奥に突き刺さる。いずれも先程までとは全く異なる、愛のない暴力だ。

 

 「がっ、あ゛っ……!」

 

 最中、姿見に映る自身が視界に入り、理解した。

 

 ────ほんとだ。だれだろ。

 

 首を絞められている中、母とはかけ離れた豊かな乳房を揺らしながら苦悶とも恍惚とも取れる表情を浮かべる少女は、おおよそ誰とも似つかわしくなかったのだ。

 

 「……っ、ごめ゛っ……んぐっ!」

 

 訳も分からぬまま許しを乞おうと口を動かしたが、言葉を出す前に再び首を絞められた。そして腹を突き破りそうな程の抽送運動と並行してまた意識を失う寸前まで追い詰められた後、解放される。

 

 「かはっ、っはぁ゛っ! ゆるしっ…………!」

 

 誰だ、誰だと常に譫言の様に訊いてくる。その癖返答を許す素振りは全く無し。此方が何か発言の意思を見せようとするだけで締め上げられ、嬲られる。かと言って言葉を閉ざせば、それもまた気に食わないらしく更に激しい責め苦を受ける事になるので、結局ごめんなさい、ごめんなさいと、気が遠くなる程に延々と、壊れたレコードの様に繰り返した。

 そうしている内、フッと気がつくと、ベッドの上、先程までの自身と同じ様に謝罪の言葉を連呼する彼に強く抱かれていて、ああ、終わったんだなと悟る。お互いぐちゃぐちゃでボロボロのまま絡み合ったその様は、まさに残骸と表現する他無かった。

 

 

 

 尚も無情に日々は続いていく。

 

 

 

 「……おはよう」

 「っ……」

 

 あの日の翌日。自分はまだ彼の腕に抱かれていて、目を覚ました瞬間、そのやつれ顔に挨拶された。昨日の今日なのに、平然と。あまりにあっけらかんとしていて夢現の認識が曖昧になるも、首元や腰、股座に残る鈍い痛みや、漂う濃密な男女の性臭によって現実に引き戻される。

 

 「……照れているのか? おはようと返してくれていいんだぞ? その、キスと一緒に、とか」

 

 また締め上げられる恐怖に怯え、反射的に「ごめんなさい」と返した。すると何故か自然な会話が成立したかの様に彼は「いや、すまない冗談だ」と言って笑い、徐にベッドから出て行くと、時計もしていないのに自身の手首をチラと見た後、「おっと、もうこんな時間か」と、慌てて行動し始める。

 

 「ああ、シャワーを浴びないと……君も、今すぐ一緒にとは言わないが、早く起きて朝食前には浴びた方が良い」

 

 心身はまともに動かなかった。呆然としたままシャワーの音が暫し響いて止んだ後、タオルで身体を拭き大急ぎで身支度を整える彼を眺める。

 

 「……そんなにじっと見て、何かおかしいか?」

 

 笑顔だったが、目は全く笑っていなかった。慌てて首を横に振る。

 

 「……ふ、まあいい。朝食急いで作って来るから、それまでにシャワーを浴びて来なさい」

 

 

 

 酷い話、変わらないなら、いっそ何事も無かったみたく接してくれるならそれでいい。変に変わっておかしくなるくらいならその方が良いとさえ思った。けれど、そうはならなかった。

 

 

 

 ぼろぼろの身体を引き摺ってシャワー前、そこにある少し曇った姿見の前に立てば、現状の自身が映る。首元には手の跡のアザが、その少し下、鎖骨にかけては蚊に食われた跡の様な赤い点が幾つか残っていて、性器や乳房の辺りも突起部分が少し赤く腫れぼったい。痛々しく生々しい少女の姿だ。

 

 あはは……ちくび……まえまでひっこんでたのに、いまじゃずっと出っぱってていたいや……。

 

 「っ、はぁっ……はぁっ…………!」

 

 何もかも洗い流すつもりで、蛇口を捻ってお湯を出し、ズキズキとした痛みを堪えて汚れた部分を何度も洗った。しかし途中で涙が止まらなくなって、お湯に打たれたままその場で暫しぐったりと横たわる。

 

 「っ……っ…………!」

 

 暖かい筈なのに全身の震えが止まらず、頭が重く、胸の奥が苦しくて仕方がなかった。

 ただそれでもお湯に溶けて流されるイメージだけが辛うじて肉体の強張りを解いてくれるので、ぼーっと浴び続けた。浴びて浴びて、無になろうとした。

 

 が、そのまま安らぐ事は許されなかった。

 

 「……ナ、リナ!」

 

 いつの間にか、彼がシャワー室に入って来て怒鳴り声を上げていた。

 

 「ダメだろうそんな所で二度寝してシャワーを出しっぱなしにして! 風邪をひいたらどうするんだ?」

 「っ、ごめんなさい……」

 

 恐怖する事にも疲れた自分は、掠れた声で静かに謝る。彼は「まったく……」と呆れた素振りを見せ一度去っていったかと思えば、今一度タオルを持って現れて此方の身を包んだ。

 

 「大事な身体なんだ。粗末にしないでくれ」

 「っごめん、なさぃ……」

 

 一瞬の冷ややかな口調と迫る剣幕に、また痛め付けられる気がしてぎゅっと目を瞑った。しかし、今回は口元へ感触が滑り込む。

 

 「んっ……っ……!」

 

 長く長く、愛情を注ぎ込まれた後、離された。そして、これで分かったかとアイコンタクトを送りながら、今度はお仕置きとばかりに下半身へ愛情表現を送って来る。

 

 「っ、わかっ……もう、しない、もう、しないからっ……」

 「……よろしい」

 

 此方が微かに嫌がると、満足そうに微笑んで解放した。意外で呆気に取られぽかんとすると、彼は言う。

 

 「もう少し意地悪したい所だが、朝食が冷めてしまうからな。許そう」

 

 

 

 行為を経て、向こうの見る目が明らかに変わった。依然優しさは垣間見えるものの、瞳に宿した期待と情熱は増し、その上で何処か勘繰る様な、そんな視線に変わってしまった。

 

 

 

 「…………」

 「どうした? 早く食べなさい」

 「ぅ、いただき、ます……」

 

 朝食の時。間違えて右手で箸を持ちそうになると一気に冷ややかになる。慌てて左手に持ち替えれば、一応は普通に戻ったのだが。

 

 「どうだ? 君のレシピに少しアレンジを加えたのだが、美味しいか?」

 「う、ん……おいしい…………」

 「そうか、それは何よりだ。少し疲れている様に見えたから、滋養に良い物を入れてある。食べて今日はゆっくりするといい」

 

 ただ、喜ばせたら喜ばせたで今度は歓喜に満ちた、この先を期待した表情を見せ熱くなる。頬にキスをして、頭を撫でて来る。

 

 「うん……」

 

 

 

 常に此方を観察していて全く気が抜けない上、これまで以上に情緒は不安定化。そのせいで私は、従順に受け入れるのみならず、努力を強いられる様になった。

 

 

 

 「リナ」

 「……んっ」

 

 露骨なボディータッチによるスキンシップも増えた。リハビリなんてもう殆ど必要無いだろうに、それを口実として日課の様に入念に確かめて来る。

 

 「いいか?」

 「っ……い、ゃっ……」

 

 そして、ムードが昂ると同意を求められる。弱々しく断っても、従順に受け入れても。此方がどう返してもそれが合図となる。

 

 「頼む、リナ……」

 

 身体が目に見えて弱っている時は手や胸、口で奉仕させられる。

 

 「う、それなら……」

 

 手や胸だけの時は楽だ。指示されるままに、前が苦しげに張り上がったズボンを脱がし、ボンッと勢い良く逸物を露出させる。

 

 こんなのが、ナカに…………。

 

 初めての時は自分の知っているそれとは違う、黒くて太くて長い毛の生えた異形の怪物に面食らった。けれど最中「大丈夫か?」と半ば急かすような心配の声が投げ掛けられたので、慌てて嫌だという思考を捨て恐る恐る触れる。

 

 「う、うぁっ……!」

 

 触れた瞬間、手の中でびくっと跳ねた。驚いて離してしまい、失敗したと思って彼の顔を見上げる。が、特に怒った様子は無し。愛おしげな眼差しが返ったので、安心して再び肉棒を掴む。

 

 あつい、ゴツゴツで、ふといっ……。

 

 片手じゃ手の中に収まらない。両手でしゅっ、すっ、しゅっと徐に擦ってみるが、上手く出来ているかどうか分からなくてまた見上げた。すると「……もう少し、強くて良い」と言われたのでぎゅっと強くしてみる。それでようやく丁度良かったらしく、竿先から滑った汁が溢れだしてふんわりと性臭が香りだす。

 

 「っ、ふっ、いいぞ、そのままっ……!」

 

 そのまま射精してしまう事もあるが、出さないまま彼の興が乗れば、此方の上の服が脱がされて押し倒され、胸の間に逸物が来る。そしてまた言われた通りに、挟んで上下に擦る。

 

 すごく、へんなかんじ……。

 

 柔和な感触で熱く硬い剛直を包んだ感覚は独特で、気分が変になる。が、どちらかと言えば単純な作業。

 

 「……前見た時より随分大きくなったな」

 「んっ……えっ……?」

 「……何でもない。上手だ。そのまま続けなさい」

 

 ぬちゅっ、ぬちゅっ。粘液が塗り広がり、どんどん滑りが良くなる。そうなれば程なく。

 

 「くっ、出すぞっ……!」

 「っ!」

 

 ぶびゅっ、びゅっ! 勢い良く熱い白濁液が出て、谷間の中が青臭さに汚される。凄まじい不快感に襲われるが、対価として頭を撫でて、褒めて貰える。

 

 「っ……はーっ……ふぅーっ、よかった……有難う」

 「ん……」

 

 ただ、口の時は辛い。まずベッドに座る私の前で下半身を露出したかと思えば、剃り勃った肉棒を顔の前に突き出し、頬に当てて意志を伝えて来る。此方は流石に初めて口でする時は「くちは、むりっ……それだけはっ」と抵抗したけれど、それでもお構い無しだった。少し口内を開いた隙に捩じ込まれる。

 

 「んぐっ!」

 「はぁっ、悪い、少し、我慢してくれリナっ……はぁっ……」

 

 そうなれば言葉を発する事もままならず、自分の舌が邪魔で歯を立てる事も叶わぬまま呼吸の苦しい中相手の好き勝手に使われる。

 尚気遣いか、それとも単なる享楽か。時にはそのまま射精するに飽き足らない。

 

 「一方的じゃ、悪いよなっ……」

 

 此方の抵抗が完全に弱まった所で、逸物を咥えさせたままあれよあれよと体勢を変え、彼の頭は此方の股の間に来る。そして、くちゅり。

 

 「んぐぅっ⁉︎」

 

 秘部に口づけされ、お返しと言わんばかりに舌で刺激される。お互いがお互いの股間に口を付けたまま、腰を動かし合う形になってしまう。

 

 「んんっ、んうっ、っうううっんっ、んぶっ、うううっ!」

 やめっ、ちょっ、くすぐったっ、いいっ!

 

 舌のザラザラしつつも唾液で程良く滑った感触は、敏感な箇所へ快感を与えるのにあまりも適していた。何かと痛んでいる箇所も優しく吸われたり舐められたりすると、あっという間に甘い痺れが腰から下で飽和し、脳髄が白く焼け爆ぜる。

 

 「っっっ! っんふうううっ! んんっ! っっ~~~~!」

 

 そして何度も何度も達して、苦しくなった所に漸く、喉奥へ白濁液が注ぎ込まれる。意識は当然保たず暗転。その後気付けば、謝る彼が居る。

 

 「悪かった。疲れている君に、こんな…………」

 「…………」

 

 

 

 尚勿論、体調が万全と判断された時は激しく情熱的に抱かれる。

 

 パンッパンッパン。いつから始めたか、どれだけ続けているのか。リズミカルに響く肌と肌の打ち付け合う音と、「んあっ、あっ、ぁっ、ああっ、あっ、っあはぁっ」という自分の喉から発せられる甲高い女の嬌声が冷たいタイル壁に木霊する。その中にリナ、リナと切なげに名を呼ぶ男の声が混じれば、音は一層激しさを増す。

 

 「ぁっ、あっ、ふぁあっ、ああぁっ、あ゛っ」

 

 背後の男に取られた両腕が強く抱かれると、自己肯定感と多幸感で胸が満たされる。赤く腫れ、尖り痼った乳首はひりりと疼き、プラグの入れられた尻穴はひくつく。強い快楽の受容に慣れれば、より淫らに、突き刺さる肉棒の先端を最奥に押し当てる様、自ら腰を動かしてしまう。

 

 もっと……もっ、とぉっ…………。

 

 相手の意図に沿う様に出来ている間は沢山愛して貰えた。がしかし、此方に快感を齎す事が目的に含まれる行為の場合、大抵は途中から暴力的になる。

 

 「何なんだその顔はぁっ……!」

 「っ、ごめっ、なひゃっ…………!」

 

 その日は一度身体を重ねた後のシャワー室内。一緒に浴びようと誘われて、入った所で不意打ちの如く襲われたのだが、暫し続いた責め苦によって淫蕩してしまった自分は、彼の前で自らキスをせがむ様に舌を放り出してしまった。すると相手はその瞬間に豹変。頭に濡れた布を被せられて、水責めにされながら背後から乱暴された。

 

 「そんな顔しない筈だろ? お前はリナなんだから……そうだ、ほら、リナ、リナ、リナ……!」

 「んんっ、んぐんんっ! んんんんん…………んっはぁっ!」

 

 狂気の中にあるにも関わらず、彼の加減は上手かった。必ず死ぬ寸前で私を引き戻す。

 

 「げほっ、ごほっ! っ……んぐっ、う゛っ、う゛っ……!」

 

 咳き込む間は気付けも兼ねてどちゅどちゅ奥を突かれる。これが堪らない。酸欠で痺れた頭に電流が叩き込まれて、一連の暴行を快楽と錯覚させられる。否、本当に気持ち良く感じてしまっているのだろうか。分からないが、息が整ったらまた水責めされる。

 

 やえ゛てっ……や、め゛…………。

 

 止めどない怒声と暴力のシャワーが浴びせられ、彼が果てるまでサイクルする。別の日はベッドの上、目隠ししながら行為に及ぶ中、キスの際此方から舌を絡めた瞬間舌を噛まれ、首を絞められた。そのまた別の日は行為を避けようと自ら奉仕を申し出た所で殴られ、更に別の日は好意中に愛の言葉を返しただけで人が変わった様に暴力的になって、虫の息になるまで嬲られた。

 

 愛情を求めている癖に、此方から少しでも求めれば強く違和感を唱えて乱心する。理不尽で訳が分からなかった。

 けれど回数を重ねる度、その本質を嫌でも理解させられる。

 

 がまん、しなきゃ……。

 

 性愛の赴くまま媚びるのは、きっと母の印象から最も遠い行為である。ある日の事後、消灯後のベッドの上。彼に抱かれながら衰弱し切った自分はそう答えを出して、再び何も感じぬ様心を閉ざした。

 

 しかし、我慢していじらしく振る舞う程、より一層愛でられ、行為に及ぶ率も高まる。結局毎度こじ開けられ、いつの間にか乱暴されてしまう。

 

 かあさんに、かあさんに、ならないと…………。

 

 自然と芽生えた可能な限り彼の望む母を演じるという目的意識が日々強まっていく中、それだけはどうにもならなかった。

 

 

 

 それでも、幾らひどい事をしてきても、翌日には何事も無かった様に優しくしてくれた。ボロボロになった自分を、これまで通り愛おしそうに介抱してくれた。故に焦りは無かったのだが────ある日を境に、彼は自分を愛してくれなくなった。

 

 

 

 「あ……」

 「…………」

 

 自分が不出来なせいで母として見られなくなったのかもしれない。此方を一瞥しても暗い顔のまま、食事だけを置いて目を合わさず去って行く。「まっ……!」と追い縋って引き留めようとしても雑に振り払われた。

 

 「まって……」

 

 今までも何度か似た様な疎遠期間があったが、今回は少々訳が違った。ましてや散々孤独の味を刻み込まれた後だ。鉄の扉を閉ざされ、いつも通り部屋に取り残されれば、膿んだ心のなれ果てからどろりと言葉が溢れ出す。

 

 「まってよ…………いやだよぉ……」

 

 心身は既に彼に依存し切っていて、離れれば震える程に彼を求めた。求めれば求める程離れて行くと、分かっているのに。

 

 「ごめんなさい……ちゃんとするから……ちゃんとっ……っ…………」

 

 また一人虚しく自らの身体を慰める。そうしていないと気が狂ってしまうから。ベッドの上で、シャワー室で、トイレで、当たり前の様に性玩具を使い、乱暴に、激しく、行為を再現する。棒を股の割れ目に捩じ込み、疼く最奥を掻き回しては、揺れる乳房の先端を摘み擦り上げる。ぶじゅっ、じゅっ。淫水の噴き出る音が止めどなく響く。くぐもった嬌声が抑えられない。漏れる、漏れる。止まらない。

 

 「んお゛っ、ぉっ、っんふぅっ、っお゛っ、っ~~~~!」

 

 幾度も達して、白光に満たされる。けれど渇く。達する度、渇いて飢えて堪らなくなる。消灯後も全く落ち着かなくて、体力の保つ限り続けてしまう。

 

 母になろうとしているのに。思いとは裏腹に品性の欠片も無い、母でも何でもない、人かどうかすら怪しい雌の獣になっていく。

 

 いやだ……いやだぁっ……。

 

 このままでは捨てられる。そんな危機感を抱いたある時、ふと目が覚めて一人な事を確認した自分は、今までの様に下着だけ付けて病衣を着るのではなく遂に女物の、恐らく母の着ていた服に袖を通した。

 

 「ぃっ……うぅっ……」

 

 服装はアルバムの物を参考に見繕った為、恐らく問題は無い。ただ、分かりきっていた事だが、母よりももう成長してしまっているのだろう。胸と尻が苦しかった。最近ブラトップもキツくて着崩していた所だ。サイズが明らかに合っていなくて、一部食い込んで痛かった。

 

 しかし、それでも我慢して着た。とにかく反応が欲しかった。愛されなくても構わない。乱暴にされてもいい。とにかく、また興味を持って貰いたくて、その一心で着飾った。

 

 ……かあさん。

 

 鏡で確認すれば、ほぼ完璧な母の姿がそこに映る。その時ふと思った。

 

 かあさん……かあさんっ……!

 

 そっと抱き、矛盾心理に別れを告げる。そうだ、母さんはここに居る。死んでいない。そうだ、母さんが居るなら何も問題は起こらない。母さん、ねえ聞いてよ母さん。もう疲れたんだ。沢山頑張ったんだよ、褒めてよ。ねえ、母さん。

 

 すとん。その瞬間、この部屋の中に来てから初めて、胸の内が何処かに落ち着いた気がした。

 

 

 

 「…………」

 

 ドアが開いて、彼が入って来る。緊張の瞬間、ふと目が合う。

 

 「っ…………リナ……どうしたんだ?」

 

 彼の瞳に光が戻ったのを感じた。

 

 「えっ、と……もうげんきだし、ビョーイはいいかなと、思ってっ……」

 「……リナっ!」

 

 抱き締められた。痛い程に強く抱き締められ、耳元で「もう何処にも行かないでくれ……!」とせがまれる。

 

 「っ……いかないよ。大丈夫だよ」

 

 最初少し取り繕っていたのに、何故かその言葉は自然と出た。その後も何度か本当か、どこにも行くなよと確かめられるが、何れも大丈夫、大丈夫と、まるで母が子をあやす様に口にしてしまう。まるで本当に母が降りて来た様な、そんな気分だ。

 

 胸の内もざわつかない。声は自分の喉から出ているけれど遠くて、けれども近くて、自身に向けられている感覚で。とても落ち着く。

 

 「……リナぁっ!」

 

 押し倒されて、キスされて、激しく求められても大丈夫。母に抱き締められて守られる感触が、心地良い人肌の温度だけが伝わって来て、穏やかなままだ。脱がされて、股座を貫かれても大丈夫。中を掻き回されて、胸を弄ばれても大丈夫。どれだけ身体の中で快感が暴れて、弾けても届かない。自分は母の腕の中。大丈夫、大丈夫。

 

 「リナ、リナぁっ!」

 「だいじょうぶっ……んっ、だいじょぶ、だよぉっ……」

 

 最中、ぽたり。口の中に水滴が落ち、しょっぱさを感じた。汗が落ちて来たのかと思えば違う。

 

 「っ……! そうだっ、その顔だよっ……! リナっ……!」

 

 彼が満面の笑みを浮かべながら、涙を流していた。

 

 「んっ、ふぅっ、ぅっ…………んんっ……?」

 「君はいつもそうやってっ……僕を仕方のない奴だって、笑ってっ……! 見下してっ……!」

 

 母の行為中の表情がどの様なものなのか。一切興味も無いし知りたくも無いので、詳しくは分からない。故にただの推測だが、恐らくは────父である彼が息子に向けていた物と同じ、冷たい視線を向けていたのかもしれない。

 

 「っ、そんな、ことっ…………っ!」

 「はぁっ! いつもっ! そう言って! そう言ってっ……僕を観察するだけして、本当の愛情は向けてくれなかったっ! 自分の子供には、向ける癖にっ!」

 

 腰の動きは今までに無い程に激しくなった。接合部はあり得ないくらいに熱を持ち、腹奥の痙縮が酷くなる。流石の母の口からも言葉が出ず、苦悶の声が漏れ出す。

 

 「くあぁっ、っ、っ、ぁ゛ぁっ…………!」

 「それで? 観察が終わって飽きたら僕を避けてっ……そしてそのままっ、居なくなったっ!」

 「っ……ふぅっ、んふぅぅっ……っっ……!」

 

 しかし、大丈夫。絶頂に追い詰められチカチカと視界が明滅する中でも、他人事の様に言葉を待てる。大丈夫、大丈夫ダイジョウブだいじょうぶ────

 

 刹那、ごちゅっ! っと凄まじい感触が最奥に齎され、灼熱が強烈な圧をもって勢い良く流し込まれる。押し殺された絶叫は喉奥から脳天に抜けて、意識は一瞬ぷつりと切れた。

 

 「っ……はーーっ…………」

 

 一呼吸、熱っぽい吐息で暗転が明ける。すると何やら先程までより首元に重い圧迫を感じ、動けばジャラリと鉄の擦れる音がした。

 

 「ーーっ……?」

 

 首を傾げるなり、背後から彼の声がする。

 

 「もう逃さないからな」

 

 一瞬ぞくりとしたが、自身をぎゅっと抱き締めれば大丈夫。自分はもう、その腕に委ねるだけでいい。

 

 「だから、逃げないってば」

 

 もう何があっても大丈夫。母さんが居る。だから安心して。内なる声は音も無しに強く響いて、不安定な自分達を包んだ。

 

 

 

 母の声、母の言葉が記憶の奥底から蘇り、止めどなく湧き上がる。

 

 「あなたは誰に似たのか、私と違って頑張り屋さんだからね。頑張り過ぎない様にしなさい」

 

 そんな事は無い、母さん程の頑張り屋さんは居ない筈だ。毎日夜中になると部屋でPCに向かって難しい顔をしてるの、知らないとでも思ってるんだろうか。

 

 「もう、また根を詰めて……息抜きを覚えなさい。ほれ、新作のゲーム! 一緒にやろ」

 

 有難う。一時間だけやろうかな。え、もっと? ダメだよ、母さん終わり時を見失うんだから。

 

 「どうしても疲れてダメな時はちゃんと言うんだよ……私に、遠慮しないで」

 

 疲れた時は言うよ。でも疲れた事なんて無いんだ。まだまだ若いからね。ほんとだよ? それより母さんの方が疲れた顔してるじゃないか。ちゃんと寝なよ。

 

 「一人で抱え込むのはよしなさい。もう少し甘えて良いんだよ」

 

 抱え込んでなんかない。申し訳ないくらい、十分甘えてる。

 

 そう、甘えてた。今までずっと、母さんの存在だけが自分の人生の支えだった。

 生きていてくれるだけで良かった。ただ側で見守ってくれるだけで、それだけで良かった。

 

 けれど、それらが遠慮だったというのなら────これからはお言葉に甘えて、良いだろうか。これまで以上に甘える事を、許してくれるだろうか。

 

 

 

 ……あったかい。

 

 ベッド上、布団の中。背中とお腹にまるで啓示の如く温もりを感じ、常に飢えて荒んでいた胸の内が満たされる。

 

 これが、本来あるべき形なんだろう。母さんがいて、父さんがいて、自分はそれをただ体感する。必要なピースが揃って以来、家族は元通りとまではいかないまでも上手くいく様になった。何も無くても同じベッドで眠る様になったし、行為も乱暴な物はある程度少なくなった。

 

 「……おやすみリナ」

 「おやすみなさい、トシヤ、さん……」

 

 ここまで辿り着くのに随分と苦労した気がするけれど、満足だ。お互い何気なく言葉を交わし、穏やかに日々を過ごす。暖かい。今まさに、自分は両親の腕の中に居る。これ以上、何を求める物があろうか。

 

 「…………」

 

 ただ唯一、ふとした瞬間に首元に繋がれた鉄の鎖の冷感だけが邪魔をして来る。行為後は特にそう。火照った身体とそれの温度差があるせいか、気にしない様に、意識しない様に心掛けていても、どうしてもこれだけはノイズになってしまう。もう何も苦しむ必要は無い筈なのに、胸の奥がぎゅうっと締め付けられて、熱い頬をひんやりとした矛盾が伝う。

 

 ……はずして、なんて。言えないよね。

 

 しかし、どれだけ拒絶反応が出たとしても自分はこれを否定出来ない。寧ろ付けたままを望むだろう。外してと懇願し彼の心理を害する事を恐れる以上に、これが何よりも今の幸福を産んでいると理解しているから。

 

 「おはよう……おや、どうしたんだその眼の下のクマは。眠れなかったのか?」

 「あはは……うん、ちょっとね」

 「それは良くないな。何か嫌な事でも思い出したか?」

 「うん……まあね。でも、別に大丈夫だよ」

 「……そうか」

 

 事実、首輪は家族の絆を強固な物とし、これまで以上の自由と余裕を齎した。その証拠として決定的な一言が、彼から告げられる。

 

 「……最近は身体も動く様になったし、そろそろ料理を一緒に作ろうと思っていたんだが」

 「えっ」

 

 体調が万全で無いのなら見送ろうか、などと口にしようとした彼を「待って」と引き留める。

 

 「大丈夫って言ったじゃない。やらせて」

 「いや、しかし……」

 「良い加減世話になりっぱなしで肩身が狭いんだよ。貴方が頃合いだと思ったなら、やらせなさい」

 

 昔自分に向けられていた、真っ直ぐに見つめる母の眼差しの再現。それに対して向こうは一瞬たじろぎつつも、ふわりと表情を和らげ「分かった」と頷く。そして、

 

 「じゃあ起きて服を着なさい」

 

 そう言って此方の手を取り促した。やれやれと従って、軽く身支度を整える。

 

 「別に大丈夫なのに。心配性だな」

 「部屋の外は初めてになるだろう? パニック発作を起こしたらすぐに止めるからな」

 「えっ」

 

 思ってもないタイミングで唐突に機会が訪れた。重い鉄のドアが開いて、彼がその向こうへ手を引く。信じられない提案に未だ唖然とする中、鎖がじゃらじゃらと引き摺られる音と共に身体はあっさり、境界を越えた。

 

 越えれば何という事はなかった。眩しいが一つでは心許ない照明の下、冷たくて狭っ苦しい白壁がすぐ目の前にあって、左を向けば僅かなスペースが、右を向けば上へと続く階段が見える。

 

 「……いいの?」

 「ああ」

 

 彼は先に階段を上がって、天辺の天板を開けた。するとその瞬間、若干薄暗い地下に地上の明かりが入る。光源の素は恐らく同じ照明なれど、自分にとっては何か別の物に感じられた。

 

 「段差に気を付けなさい」

 

 態々引き返して来た彼に身体を支えられながら、じゃらり、じゃらり、ぺたり、ぺたり。誘われるままに一歩一歩階段を上がる。鎖が何処まで伸びるのかとか、そんな疑問も忘れて、じゃらり、ぺたり。

 

 …………あ。

 

 顔が出たその時、開放感で背筋が伸びた。明るくて、空気が軽く感じられて、何処か暖かだ。しかも、それ以上に。

 

 ……あれ、ここって……なんか見覚えが、ある様な……。

 

 何処か懐かしい感じがして目を細めた。それもその筈、辺りを見回せば、その空間は母方の実家で見たキッチンの間取りそのものであったのだから。

 

 「……ぼーっとして、どうしたんだい?」

 

 どうやら、こうする事は想定していたらしい。彼は地上に出る鎖の長さを調節しながら早く上がる様促している。

 

 「……ううん、なんでも。ちょっと、懐かしい感じがしたから」

 「ほんとかい? だとしたら記憶が戻って来てるのかも……!」

 

 素直な感想を口にしたら、やはり良い刺激になるのか、正解だった、もう少し早くこうすればよかったか、などと独り言を呟き歓喜された。

 

 「その調子で行こう。ささ、こっちに来て」

 

 こんなに子供みたく無邪気に笑うなんて。もしかして此方が彼の本当の顔なのだろうか。

 

 「いきなり刃物は、ちょっと怖いか……まあ良い。野菜の水洗いと皮剥き、手伝って貰おうかな」

 「…………分かった」

 

 これでいい。これでいいんだ。改めて再確認し納得して、母リナとして彼に従い動く。

 

 「ピーラーなら大丈夫だろう。ほらこうして、こうやって皮を剥くんだ。覚えてるか?」

 

 幸せだ。きっと、これで────

 

 刹那、一瞬の立ち眩みと共に吐き気が込み上げて来て、膝を折り野菜の入った籠の横、シンクの上に嘔吐した。

 

 「っ⁉︎ リナ⁉︎」

 

 大慌てで抱き止められ、背中が摩られる。大丈夫、大丈夫だから。母の言葉が自分の口から何度も唱えられたが、身体は上手くついて来なかった。

 

 折角得た機会だったのに。結局倒れてふいにしてしまった自分は、また元のベッドの上。失意の中、更に驚愕の事実を告げられる。

 

 「にん、しん……?」

 「ああ、そうだ」

 

 なんと、彼曰くこの身体は孕っているのだという。こうなってから随分と経っている。考えない様にしていたし、その上で心の何処かである程度鷹を括っていた。そうはならないだろうと。

 

 「…………う……」

 

 言葉と吐き気を飲み込む。不安が次々浮かんでは内側で無理矢理に潰されていく。

 

 「生理、随分来て無かったろう? だからもしかしたらと思ったんだが……」

 

 いつの間に取ったのか、彼は血液検査の結果を目の前に出して項目を指差し、それが確かである事を懇切丁寧に説明した。それこそ此方の頭からその知識が抜け落ちている事前提で、妊娠とは何かから、一から全てを、感心してしまう程に詳細かつ明瞭に。

 

 確かに、もう随分と赤く染まるシーツを見て無かった気はするけれど……。

 

 「……ウソじゃ、ない…………?」

 「ああ……!」

 

 此方が理解した素振りを見せると、今一度抱き締められた。不意打ちで一瞬身体が強張る。

 感情が見えず何を思っているのか不安だった。彼は子供に対して素っ気なかった人間だ。気に食わない事態なのではないか。そんな懸念が頭を過ぎった。

 しかし、意外にも彼は喜ばしそうにはっきりと口にする。

 

 「おめでとう……!」

 

 ……え………。

 

 「僕らの子だ、初めての……!」

 

 胸の内がずきりと痛んだ後、掻き回されたみたいに混沌とする。目が回ったみたいにくらくらして、力無く顎を相手の肩に乗せてしまった。

 

 はじめて……? 喜んでるの……? 喜んで、いい……? 喜ぶ、べき……?

 

 自身を抱く腕は歓喜に震えている。ここは、母なら喜ぶ筈。なのに、どうしてか苦しくて仕方がなかった。彼と、父の腕と母の腕、双方に抱き締められていても、まるでその場で自身が消え失せたかの様な取り留めの無い空虚な感覚で心が痛み、涙を啜った。

 

 「うっ……ぐすっ…………」

 

 

 

 幸か不幸か、真か偽か。溢れる涙の理由さえはっきりと分からないまま、扱いは妊婦相応のものへと形を変える。

 

 「ここは冷えるから、出来る限り暖を取れる様にしよう。安定期に入るまでは、とにかく安静に────」

 

 忠告の数々は受け入れられず、言葉は入って来なかった。ただただ検査結果が偽である事を祈ったが、思いとは裏腹に身体は刻一刻と好ましくない変貌を遂げていく。

 

 「ぃっ…………」

 

 告知から数日で、胸が張って痛みだした。元より適正なサイズでは無い下着を着けている為、少し突っ張った感覚が強まるだけで苦しくて息がし辛くなる。

 暑くも無いのに汗をかいて服がじっとりと冷たくなり、寒気に震えていると横から声が掛かった。

 

 「リナ、だいぶ辛いか? 顔が青いぞ?」

 

 そう口にする彼の顔面も蒼白で目の下のクマが酷かった。「……ちょっと、ね」と答えた後、軽く微笑みを称えて指摘したが、無愛想にそうか、と返事だけしてベッドから立ち上がる。

 

 彼はまた少し過保護になり、常日頃から此方を気にかけては割れ物の如く扱う様になった。今まで以上に側に付いて離れず、時折「何か出来ることは無いか」と訊いては、愛を説いたり、昔話をしたり。露骨に落ち着きが無くなった。

 

 「っ……あの、ね……胸が、ちょっと苦しくて……」

 「そうなのか⁉︎ ま、待ってなさい、今……!」

 「いや、別に何も……いいから……」

 「そんなっ……」

 「多分、下着がキツいだけ、だから……」

 「だったら外っ……すまない、配慮に欠けたな今のは」

 

 ああ、いいんだ、外しても……。

 

 母に頼る様になってからも、ちゃんとした服を身に付けていない時は少し乱暴にされる傾向が強かった。その為出来る限り脱ぐ事は避けていたが、仕方が無かった。

 

 「少し……一人になっても……?」

 「あっ、ああ」

 

 漸く許しを得て一時部屋に一人になった自分は、一度母の服を脱ぎ胸元を締め付ける拘束具を解いた。とその時、ふと気付く。

 

 「あ、れ……」

 

 外したブラジャーの布地に、少しシミが付いていた。そこからふんわりと、牛乳を雑巾で拭いた後みたいな腐ったニオイと、甘ったるい香りの入り混じった嗅ぎ慣れない匂いまでして思わずウッと嗚咽する。

 

 「これ、って……っ!」

 

 母乳だった。認識した瞬間視界は揺れ、強い目眩と吐き気に襲われて一度軽く嘔吐しかけたが、吐き出す前に何とか飲み込んだ。

 最早疑いようも無い妊娠の兆候。しかし、自分はその現実を直視出来ず拒絶してしまう。

 

 ちがう……きっと違う。そうだよね母さん……これまで随分と色んな事されたから……身体が、おかしくなってるんだよね……。

 

 母の腕で自身を抱くと、じんわりと乳首の辺りに透明な汁が浮き出た。ティッシュを取り拭うが、拭う度にまたじわっと出てくる。

 

 「っ……! っ……!」

 

 怖くて泣きながら夢中で拭いていたら、途中で「リナ! やめろ!」といつの間にか部屋に戻って来ていた彼の声が掛かって、無理矢理止められた。

 

 「うっ……うあぁっ……!」

 「これは母乳だ落ち着け! 通常よりかなり早いが、子供が出来ると出る様になると言っただろう?」

 「うっ、ううううっ…………!」

 

 彼に自ら抱きついて、その胸の中で泣きじゃくってしまった。こんな取り乱すなんて、母さんじゃない。そう判定されまた痛め付けられるかと思ったが、思いの外、彼は無言で落ち着くまで待ってくれた。

 

 なんで、やさしいんだよ……なんでっ…………。

 

 「……落ち着いたか?」

 「……うん、ありがと…………」

 

 否、落ち着いていない。恐慌が引くと共に、空いた胸の内に切なさが込み上げる。そも、不安だからこそ、行為の快楽に溺れ全てを忘れてしまい気持ちがあるのか。いずれにせよ先程までの憂鬱が反動になったみたいに気分が変に盛り上がって、何だか無性にムラムラしてしまう。

 

 かあさっ……私、は…………。

 

 下腹部が熱い。密着する彼の硬くなった股間部分が当たって、どうしようもなく疼く。

 

 「っん……」

 

 こっそりと自ら腰を動かして、アソコを擦り上げてしまった。内心は一瞬反省する。こんなはしたない事、母さんはしないと。けれど、すぐに慰めの理由を論い、自身を諭してしまった。仕方が無いのだ。相手も硬くしていて、身体はそういうムードにあてられている。だから、これを咎めるというならそれでいいなどと、恥ずかしげも無く並べ立てた。

 いや、それだけでは無い。寧ろ咎めて欲しいとすら思い始めていた。先程までを忘れる為に、被虐感情に身を委ねた方が都合が良かったのだ。

 

 自覚が無かった。どうしようもなく狂ってしまっているという自覚が。

 

 「っ、待ちなさい、何をしている?」

 

 気付かれたっ……いけない、露骨なのは…………避けられてしまう。避けられるのは嫌だ……それならお仕置きの方が良い。お仕置き、お仕置き。母さんお願い、叱って、助けて────

 

 「はぁっ……ごめん、なさいっ……こんな、はしたない……っ」

 

 偶然を無理に装うよりも素直に謝って、上目遣いに一瞬彼を見てから恥じらいながら逸らし、パッと離れてみせた。すると身体は思いの外力が入らず、そのままの勢いで後ろに倒れていく。「わっ、ぁっ」と慌てて声を上げると、また彼が抱き留めてくれた。

 

 「っ……ごめ……なさい…………」

 「謝らなくていい……時期的にホルモンバランスが乱れ易いから、不安定になるのも無理はないさ」

 「ふぅっ……ふーーっ……うぅっ……」

 

 全然制御が効かない。荒く息を吐きながら呻いて、太腿を擦り合わせ、身を捩ってしまう。これじゃ発情してしまっていると伝える様なものだ。なんて、なんて恥ずかしい。

 

 「しかし苦しそうだな……仕方ない。鎮静剤を打とうか」

 

 彼はゆっくりと立ち上がる。「…………おねがい、しま……」と言葉にしようとした、その時。かちゃりとベルトが外されて、素早く逸物が露出し此方の口元に突き付けられたかと思えば、頭を掴まれてそのままずるりと喉奥まで突っ込まれた。

 

 「んぐぅっ⁉︎」

 「っ、僕も、我慢出来そうに無いからなっ……鎮めないとっ……!」

 「ん゛っ……じゅぶっ……う゛ぅっ」

 

 母胎の安全性を考慮した行為は、膣口への挿入を伴わない物が望まれる。これが最善であると説かれて、納得させられた。彼もまた我慢し切れなかったのだ。されど理性を以て判断した。判断した上で、求めてくれた。

 

 じゅぶじゅぶと口内を性処理の道具として使われる。幾度となく行われた酷い扱いと大差無いのに、経緯が異なるだけでこうも違うのか。暗い悦びが脳髄に走って止まらない。

 

 「君が悪いんだぞっ……君がっ、あまりにっ、いじらしいからっ……!」

 「んぶっ、んんんっ…………んんんんぅっ……!」

 

 自分の手はするすると疼く割れ目へ伸びる。くちゅり、濡れた感触が指先に伝われば、もう憚る事は無かった。遠慮無く中指を挿れて、中を掻き回し快感を貪る。すると、程なく「くうっ!」と彼。腰を逸らして逸物を膨らませ、そのまま喉奥に吐精した。

 

 「ん゛っ…………んんんんんっ…………!」

 「ぅっ……はぁああっ…………!」

 

 息の出来ない苦しみに反し、胸の内は嬉しさで満たされる。どろりとした灼熱が喉を通り、無理矢理胃に落ちる感覚ですら堪らなくて、下腹部から脳天へ、短時間かつ刺激も少なかった筈なのに、股座を犯される時と同じ絶頂感を味わってしまった。

 

 「はぁっ……はぁっ…………」

 

 ずるりと引き抜かれる。嗚咽が迫り上がりおえっと吐き出しそうになるが、口元を押さえぐっと堪える。全ては彼と、自身の満足感の為に。

 

 「……今度は君の番だ」

 「んぇっ……っへあっ⁉︎」

 

 押し倒されたかと思えば両手で股を開かれて、そのまま敏感な陰部に口付けされる。

 

 「いあっ、そんなっ……はずかっ…………っぁあっ!」

 「こんな濡らしてっ……母親になるんだぞっ……!」

 「んやっ……ぁっ、ああっ!」

 

 こっそり弄っていた事がバレたのかどうか。分からないまま責められた。此方の弱点は既に把握されていて、ざらついた舌表面の感触に包まれながら敏感な突起を吸い上げられればあっという間に達し、余韻冷めあらぬ内に割れ目の内部から突起の裏側を舐られればまた更に深く達する。はしたない音と声が部屋に木霊し続けて止まらなかった。

 

 「んっ、おぉっ…………やっ、そこっ、はぁっ!」

 

 意識が飛び飛びになれば、いつの間にか場所はシャワー室に移っていて。今度は尻穴に何かを注がれた。

 

 「じっとして力を抜け……だいぶ楽になるっ!」

 「んぐっ……くる゛しっ…………んう゛ぅっ!」

 

 ぎゅるぎゅる腹の中を不快感が駆け巡り、間も無く。腹痛に耐え兼ねゼリー状の何かをぶち撒けてしまった。屈辱感の中全身はだらりと弛緩して硬く冷たいタイルに沈む。

 直後、何事か一切分からないまま背後から腰を掴まれたかと思えば、尻穴に剛直が捩じ込まれた。

 

 「うぐっ……う゛あああぁっ!」

 

 散々玩具は突っ込まれたが、逸物は実に初めてだった。最初こそ痛みを感じたものの、奥をぐりぐり突かれればすぐに快感に変わってしまい背筋が跳ねる。あり得ない、そんな馬鹿な。自分はそんな変態じゃない。等々、胸の内に困惑が広がったが、「くっ、おお゛っ……!」と彼の獣声が聴こえてからは責めは一層の激しさを増し、恥肉が潰され喘ぐ感触以外何も分からなくなって、快楽の奔流に溺れ沈んだ。

 

 幾度となく父と母の名が呼ばれ合い、愛が酌み交わされる。その間、脳髄が快楽に溺れている間だけ、全てを忘れていられた。だから依存し、彼に縋り、出来る限り耽り続けた。

 

 けれど、どれだけ逃げようと現実は必ずその背に追い付き、喉元に刃を突き立てて来る。告知からまた更に月日が経った頃。

 

 「っ、はぁっ…………!」

 

 この頃になると、よく恐ろしい夢を見るようになった。単純に自分の腹部が膨らみ過ぎて破裂する夢に始まり、産まれた子供が怪物になって自身を襲う夢や、自分が産まれて、母さんの姿をした自分がそれを殺す夢。産んだ後の自分は父に捨てられて、子供が次の母さんになる夢。何れも凄惨で、痛みを伴った地獄の体験だった。

 

 「はぁっ……はぁっ…………っ……!」

 

 真っ暗な中目醒めて、何ともなくてほっと一息。などと生温い話で終わるならどれだけ良かったか。起きれば下腹部は実際に張った感覚が顕著にあって、撫でれば日毎に大きくなっていく膨らみの輪郭が確認出来るのだから。

 

 っ、また、大きくなって、る…………?

 

 太ってきただけ。そう考えるのも難しくなってきた。肉が付いたとしても下腹部だけ付くのは余りに不自然だし、何より触れた時の感触でその膨らみが脂肪ではない事が分かってしまう。最近では、錯覚かもしれないが微かに鼓動まで感じる様になってきた。

 気のせいだ、気のせいだと誤魔化しても、その身に起きる現象が真実を告げる。確実に色濃くなっていくそれからもう、逃げ切れない。

 

 「……リナ、またうなされたのか?」

 「ぁ……はぁ……ごめん、また起こしちゃって……」

 「いい……」

 

 夜毎目を覚まし、身を震わせながら涙を流す自分を、彼はそっと抱いて安心させる言葉を唱える。

 

 「大丈夫だ、僕がついてる……大丈夫…………」

 「ぐすっ、うん…………」

 

 単純なもので、優しくされて頭を撫でられると、それだけで嬉しくて幸せを感じてしまう。けれどそんなのは結局気休めでしかなくて。その手が止まって、自分も眠りにつけば再び不安が押し寄せる。

 

 闇の中ぼんやりと浮かび上がる、自分の顔をした胎児に問われる。「なんでぼくが生まれたの?」と。

 

 知らない……そんなの知らないっ……!

 

 それは元の自分そっくりに成長してまた問う。「なんで僕を産んだの?」と。

 

 そんなの……母さんが……。

 

 「なんで⬛︎⬛︎してくれないの?」

 

 

 

 「…………」

 

 また目が醒めた。照明が付いていて今度は明るい。彼が上から此方の顔を覗き込んでいる。その状況に救いを感じ、息が整わないまま気丈におはようと挨拶すると、渋い顔で返された。

 

 「……酷い顔だぞ、一体どんな夢を見てるんだ?」

 「…………凄く、言葉にし難い夢」

 

 しつこく内容を問われたので、暈し気味に産まれる子供に関する不安を煽る様な夢だと伝えた。が、それで深刻性が伝わったのか、彼は神妙な面持ちで逡巡した後言う。

 

 「……少し、ついてきて欲しい」

 

 そしてまた、地上へと案内された。体調不良を理由にその道は完全に閉ざされていたかと思っていたが、同じく鎖に繋がれた状態で再びキッチンへと上がる。

 

 「…………?」

 

 彼はそこを素通りし、「こっちだ」とドアを開け、その向こうへ手を引いた。

 出ると木目床の廊下が右の方に真っ直ぐ続いていた。これまた母方の実感によく似ていて、初めて通るのに既視感を覚える。

 

 「ここだ」

 

 その廊下の方向へは行かず、彼は左正面突き当たりのドアを開け、其方に導いた。部屋に入れば、そこは診療室の様な空間が広がっていて、横になれる診察台と、何やら大きめの器具やらPCモニターやらが目に入る。

 

 クリニックになってる所まで一緒なんだ……。

 

 鎖が何か重要な機器に引っ掛かかって倒してしまったりしないか、気が気でなくて周囲をキョロキョロしていると、「必要な機材を持って来るから、ここで横になって少し待っていてくれ」と彼。私を置いて何処かへ行ってしまった。

 

 仕方が無いので言いつけ通り寝そべって待つ。するとほんの数分後、ガラガラと滑車を引き摺る音と共に彼が戻って来た。

 随分と仰々しい、これまたモニターの付いた、ハイテク感のある機械だ。それを手で押しながら「待たせてすまない」と前置きして、彼は運んで来たものの説明と、それで何をするかを簡潔に話し始める。

 

 「超音波検査機だ。記憶にあるか?」

 

 首を横に振った。名前は朧げながら聞いた事があるが、その全容はよく知らない。

 

 「これでお腹の中の胎児の状態を見られるんだ。恐らくまだはっきりとした形は捉えられないが……やってみないか?」

 「えっ……う、うん」

 

 紛いなりにも彼は医療従事者だ。この準備に驚きはしない。しかし何故今なのかが解せず、少し戸惑いを隠せないまま頷いてしまった。

 

 尚こちらの困惑を他所に、臨床医でも無いのに彼は手際良く機器を操作してあっという間に準備を済ませると、「よし、じゃあ服を捲って……お腹を出してくれるかい?」と指示。ここまで来て断る理由も無いので黙って言われるがままに従えば、何やら先端がT字状になっている棒状物体の先端を露出した下腹部に当てられ、ゆっくりとその輪郭を撫でられる。

 

 「っ…………」

 

 準備段階でT字部分にはゲル状の何かが塗布されていた。何となく想像はついていたが、やはり肌の上を滑らかに滑っていき、こそばゆさを与えてくる。同時にその動きに合わせてモニターに映るモノクロの影が変わっていく。

 

 「……この辺だな。よく見えるのは」

 

 彼がそう口にした所で影の移ろいが微かな生物的蠢きのみを残し止まった。最初はその形が何を表しているのか理解が追い付かなかったが、「この影が胎児だ」と説明されると、それが途端に意味を帯びる。

 

 「心音も聴けるぞ、これで……」

 

 微かな操作音の後、更にモニターからとくとくと、自分の心音より明らかに早く小さく脈打つ心音が再生された。

 

 「これが、私の…………?」

 

 奇妙な心地がして堪らない。怖くて気持ち悪いのに、優しくて暖かい感じがする。リズミカルなそれに耳を傾けながら、まだそこまではっきりと人の形をしている訳では無いシルエットをぼんやりと眺め続けてしまう。

 

 「どうだ? 少し安心したか?」

 

 曰く、こうした行為が母体の精神安定に繋がるとか何とか。向こうなりの気遣いだった様だ。

 

 「分からない、けど…………」

 

 言葉に詰まる此方の様子に、「…………これからは経過観察は欠かさず行う様にしよう」と彼は判断を下し、検査機を止める。

 

 「あっ……」

 

 無意識の内に手を伸ばしてしまい、モニターが真っ暗になった瞬間喉から口惜しげな声が出た。

 

 「……もう少し見たかったか?」

 「っ……いや、大丈夫…………」

 

 決して、彼の狙い通りの効果があった訳では無い。しかしながら検査を境に何かが芽生え、その後の方向性を大きく変えた。

 

 

 

 「体調は大丈夫か? 少し落ち着いた様に見えるが」

 「えっ……うん」

 「……じゃあ、この間出来なかった料理の手伝い、やってみるか」

 

 此方を気遣っての判断か。彼の方はあまり地下に閉じ籠める様な方針を取らなくなった。願っても無い事に、向こうから積極的に上階での活動を進められる。

 

 「そうだ、じゃがいもの芽の部分、それをピーラーの、ここを使って取って……」

 

 空調が効いていてひんやりしているが、季節は今何なのか。微かに陽の光が隙間から射すカーテンのその向こう側に想いを馳せつつ、自分は半ば上の空なままそれに従い、指導された。背後から手を添えられ、丁寧に、丁寧に。野菜の下拵えの仕方を教えられる。

 

 「ふふ、懐かしいな。昔は君の方が、こうして僕に教えてくれたんだ」

 

 いつの日かあったのかもしれない二人の幸せな時間の再現。愛情の再確認。望んでいた筈の平穏。

 

 「一緒に頑張ろう、お腹のこの子の為に」

 

 彼の一言と下腹部の微かな張りと重みが、それらを失わせる。もう、得体の知れない何かでは無い。自身が責任を持つべき一つの生命で、愛するべき存在なんだ────などと、そう思うと気が気じゃ無かった。

 

 

 

 お陰で今までほぼ全て彼に向けていた注意が、時が経つにつれ胎内に向く様になった。検査時は勿論、料理の手伝いの時も、一人暇な時間も、快楽に依存した身体が禁じられた秘所への乱暴を求め疼く時も、彼との尻穴を使っての行為中も、行為後、彼の寝ている横で自慰行為に耽っている間も。不意に意識して、後ろめたくなって。振り払う様に自身は性に狂ったが、傾向は変わる事無く。来る日も来る日も朝目が覚めて、気付けば自然と診察室に脚が向かう。彼に連れられてではない。どちらかというと進んでこちら側からそれとなく彼が許可を出す様促し、許可を得て連れて行って貰った。

 そうして台に寝そべり、腹の中のシルエットを観察する。

 

 「あっ……動いてる……?」

 

 見る度に影は成長し、確かな形を帯びていく。拍動もそれに応じて大きく力強くなり、機器の助けが無くとも耳を澄ませば微かに胎内を叩く様な、そんな感触が得られる様になってきた。

 

 手、だ……これ、手のひらだ……!

 

 自分はもう、その現実を疑うどころか、自ら進んで揺れ動く影の輪郭を赤子の形として想像して見ずにはいられなくなっていた。その存在は決して幸福を齎すものでは無いと頭では分かっていても、俄に腹の奥底から湧き上がる嬉々とした暖かさが止められなくて、訳もなく歓喜してしまっていた。

 

 「順調に成長しているな。元気な男の子だ」

 

 彼の目にはもう性別の判断も付いているらしい。自分にはまだよく分からないが、目を凝らせば見えるんだろうか。

 

 「あ、ははは……」

 

 そうは思いたくなかった。けれども自覚すれば抗いようも無く、胎の中のそれはいつの間にやら尊くて愛しい、一つの命に変わっていた。

 

 同時に感じ始めた。それが確固たるものになればなる程、複雑な心根が奥底で痼りとなって育っていく事を。

 

 「っ、いっ…………」

 「リナ……」

 

 ある日の診察後、キッチンにまで戻りいつも通り料理指導が始まるかと思えば、背後から服に手を突っ込まれ、胸元を弄られ、母乳パッドを取られる。

 

 「ちょっ、急に何っ……」

 「そろそろ安定期だ」

 「でもっ……」

 

 牛の搾乳みたく、根元から先へ乳房が絞り上げられる。ぴゅーっと汁が出て、服に二つのシミが出来ていく。

 

 「いたっ……んっ、痛いし、服、汚れちゃっ……ぅぅっ」

 「張って辛いだろう? 少しほぐした方が良い」

 

 母乳で張った胸は刺激に痛みで答える。しかしやめてとせがんでも止めてはくれない。背後から首筋にキスされたり、耳を甘噛みされたりしながらあれよあれよと着ているものを脱がされて、僅かな前戯でしとどに濡れてしまったすっかり懐柔された蜜壷を剛直に暴かれる。「んっ、ぅあぁっ……!」と喉から声が漏れると共に久々の快感が脳髄を刺せばもう相手のペースで、最初痛かろうが何だろうが流されていってしまう。

 

 「出てしまっている母乳を変に止めるのは良くない。乳腺炎になってしまうからな」

 「っ、だからってっ……」

 「出し過ぎも良くないが……その場合は冷やして対処すれば良い」

 「そういう、問題、じゃっ……っはぅっ」

  

 背筋は反り返り、腰は勝手に淫猥にくねる。痛いだけだった筈なのに、嬉しくて気持ち良い。いつも通り頭の中がそれで一杯になる。沈んでいく。支配的な泥沼の底へ。

 

 「ぅっ、んっ、んはっ、んっ……くっ」

 「どうした……恥ずかしいのか……?」

 

 けれど、育った痼りがそれを許さない。委ねてしまえば楽だ。いっそ快楽で溶けて欲しいと思っても、それだけは残って心身を苛む。

 

 「僕達しかいないから大丈夫、もっと声、出していいんだぞ……?」

 

 ふわっ、ふわっと鮮烈な快感による浮遊感を味わう度、痼りは叫んだ。このままじゃダメだ。このままじゃ、⬛︎⬛︎が不幸になる。

 

 「っ、はぁっ、あぁっ……!」

 

 意図せず肉壷が締まった。瞬間「くっ、うっ……!」と彼が苦悶の吐息を漏らし、その先に生命が存在するであろう最奥へ熱い白濁が解き放たれる。いつも通り、閃光が走って全ては多幸感に押し流されたかに思えたが、それでも胸の内の声は消えなかった。

 

 ダメだ、このまま、じゃ…………。

 

 何を焦燥する必要があるのか。ここに父は居て、母も居る。自分の時とは違う。何も欠けてはいやしない。

 

 混濁し迷走する中、不意にお腹の中からポンっと、叩かれた気がした。

 

 ────罪悪感なんて、どうして感じる必要がある。私は幸せだ。ワタシは、わたし、は…………。

 

 事後の余韻の中、「……っふぅ……ちゅっ」と首筋と頬に強く愛が刻み込まれて、引き戻される。

 

 「はぁ……汚してしまったな。一度シャワーを浴びに行こうか」

 「っ、ん…………」

 

 彼に抱き上げられ、地下へ運ばれていく。揺れる肢体、幸福な感覚。その筈なのに、頬の熱い刻印に涙の冷感が伝う。良くある嬉し涙だ。こんなに暖かくて気持ち良いのだから、辛くて苦しいのなんて有り得ない。そう思った。

 

 けれども、ダメだった。その後何度もシャワー室で身体を重ねたものの、交合の度に胸の内の痼りによる苦しみは増すばかり。身体が淫欲に染まれば染まる程息が詰まる様な、そんな感覚に襲われ続けた。

 

 

 

 消灯後。おやすみのキスから暫くしたある時、荒ぶる淫熱が落ち着いた所で漸くその正体に辿り着き、噛み締める。

 

 私、お母さんになるんだ……。

 

 再び涙が込み上げ、声を押し殺しながら啜り泣く。自分は既に母さんだ。けれどそれは自分の母であって、お腹の子の母では無い。

 

 こんな、自分じゃ…………。

 

 膨れた腹部を摩り、訪れるであろう未来を憂う。この時、真の意味で自分は母さんを理解した気がした。

 

 でも、きっと、母さんならっ…………。

 

 

 

 気がしただけで、厳密には気の迷いでしかなかったかもしれない。けれど行動は偶然に、されど確実に両親の過去をなぞり、

 

 「リナ……? 何してるんだ…………?」

 

 明かされていなかった闇を暴く事になる。

 

 「何をしてるのかと訊いているんだ」

 

 冷ややかな彼の声が薄暗い廊下に木霊した。何をしているのか。聞かれた事に簡単に返事する。

 

 「えっと、ちょっと、探し物が…………」

 「……受話器に、か?」

 

 話は少し遡って、いつもの診察が終わり、一緒に昼食の調理を始める頃。彼が用便の為に場を離れたほんの僅かな隙を見計らって、自分は動いた。ここが祖父母の家を模しているのなら、もしかしたら外への連絡手段も同じ所にあるのかもしれない、と。少しでも焦燥を晴らす為、居ても立っても居られずダメ元で安直に動いてしまった。

 

 

 

 「あった……!」

 

 クリニックへのドアの反対側に続く廊下の向こう側。磨りガラスから薄陽の漏れる玄関前の横の棚に、やはりそれはあったのだが。

 

 鎖を引き摺り、大慌てで駆け寄って取ろうとした。けれど、ガチャン。

 

 「んぐっ⁉︎」

 

 寸前で鎖が伸び切って軋み、喉笛が圧迫された。なんと悪辣な事に鎖の長さは、ギリギリそこまでに足りない長さに調節されていたのだ。

 

 うそ……あとちょっとで届くのにっ……!

 

 尤も、届かないなら諦めて引き返せばそれで済む。元より確かめるのに然程時間もかからないのだから問題は無い筈と、軽い気持ちで試すつもりでの行動だった。

 

 「…………っ!」

 

 振り返れば、そこに彼は居た。トイレに行くと言っていた筈なのに、無音で自分の背後に立っていて。そして冒頭の一言を発したのだ。

 

 

 

 「…………」

 

 沈黙が訪れる。無言で目の前で立ち尽くす彼。怒っているとも、悲しんでいるとも取れる冷たい呆れ顔を前にしていると、なんて迂闊な事をしてしまったんだろうと後悔が込み上げ、恐怖で身体が震え出す。

 

 「……同じだな」

 

 ぽつり。彼は少し切なげによれた声でそう呟いた。何の事かと考え、口に出して問う前に相手の言葉は続き、徐々に熱を上げていく。

 

 「君はこうなる前も、そうやって僕から逃げようとした事があったな」

 「っ、いや、そんなことっ……!」

 「分かってる。記憶が戻った訳じゃ無い。お腹の子の影響だろう? 分かってる」

 

 鎖を急に引かれた。「ひぁっ!」と自分は声を上げて前方にバランスを崩し、廊下に手を付いて跪く。慌てて顔を上げようとすると、ドンッとその眼前に足音が迫った。かと思えば、「言いたくなかったんだが……仕方ない」という前置きの後、信じ難い話を告げられる。

 

 「その子が初めての子と言ったが、あれは嘘だ。君は昔一度妊娠して、流産している」

 「え……」

 「その時に君は酷く荒れてな…………よく僕を蹴っていたんだ。こうやってっ……!」

 

 語尾が明確に苛立ちに震えた瞬間、ガツンッ。こめかみと頬の間辺りに蹴りを受けた。勢いで軽い身体は硬い廊下に転がって、そのまま壁にぶつかる。鈍い痛みが蹴られた箇所と背中に走る中、追撃を恐れすぐさま「っ、い゛っ…………!」と顔を顰めながら視点を上げると、虚ろな眼差しで此方を見下ろす彼と目が合った。

 

 「あぁ、すまない。力の差はかなりあるから……僕は今の君程痛みを感じた事は無かったと釈明しよう」

 

 先の一瞬の苛立ちが嘘の様にその語気は静かだった。しかし、それを抜きにしても話自体意味が分からず困惑が先行する。

 

 母さんが、流産……? 父さんに、暴力を振るってた…………?

 

 最中、相手は此方の首を絞め上げながら壁に押し付け、今度は心底懐かしそうに言う。

 

 「寧ろ受けている内は快く思っていた。君は非力だからな。戯れか本気か分からなくて、ただ愛おしいだけだった」

 「っ……あ゛っ、ふぅ、んっ…………」

 

 苦しさに耐え兼ね口が開くと、そのまま強引に口付けされる。何処か切れたのか血の味がする口内を、少しの間舌先で乱暴に蹂躙された。そしてその後唇が離れると、絞められた首元が加減される。

 

 「っ……かっ、はっ…………⁉︎」

 「……しかし、ある日を境に相手にもされなくなってな……言葉を交わす機会すら失ってそこで漸くはっきりと自覚した。嫌われたんだなと」

 

 爛々と揺れる暗く濁った瞳には自分は映っておらず、相変わらず此方を通して失われた過去を見ている。クマは深く、瞳孔は開き切っていて正気には程遠い。にも関わらず語りはサラサラと、澱み無く流れていく。

 

 「馬鹿だと謗ってくれたまえ。あらゆる手段を講じてどうにか別居だけは免れ続けたが、それだけだった。君の心は離れるばかりで……結局、僕は仕事に逃げた」

 

 その時スッと、何の前触れも無しに注射器が取り出されて此方の腕に突き刺さる。「っ、まっ……おなかっ、あかちゃっ……っ!」と静止も虚しく、薬液が注入された。

 

 いやだ、何を注射された? 話の流れ……もしかして堕胎剤? いやだ、嘘だ。

 

 「その後暫くしてだ。疎遠な間に君は倒れた。僕は己を呪ったよ────」

 

 声は遠退き、目の前が真っ暗になる。肯定し難い暖かな物。その喪失を想像して、先程蹴られた瞬間よりもずっと重い衝撃を味わったみたいにずん、と心が沈んで、自分が今何処に居るのかすら分からなくなった。

 

 かあさん、わたし…………。

 

 絶望に打ちひしがれ、全てを閉ざしかける。無理だ、もう無理だと。全部投げ出して、楽になろうとした。

 が、何故だろうか。底の底まで堕ちる程に頭は醒めてかつて無いほど回転し、知識の中に希望を見出す。

 

 ────ちがう、きっと違う。堕胎剤じゃない。そんな事をしたら母さんに嫌われるから。母体の安全は保障されている筈。

 

 動揺が正され一気に冷静になる。すると、先程までの話の真偽が見えてくる。

 

 初めての子、流産の話はウソだ。その後すぐ疎遠になったと言っている。それが本当なら自分はここに居ない。断言出来る。

 

 暗んだ視界と音が戻って、彼の声が頬を撫でる。

 

 「────だから決めたんだ。もう絶対に逃げないし、離さない。そう、心に誓った」

 

 真相は分からない。しかし、仲睦まじかった彼らが何かを境に壮絶な仲違いを始めた事だけは確かだ。これまで聞いた話の経緯から推測がつく。その時期も、原因も。

 

 共に研究していた学生時代を最後に曖昧になる昔話、ぱたりと無くなるアルバムの写真。彼に徹底して疎まれ、消された息子、リク。

 

 ────そっか。やっぱり、僕のせいなんだ。

 

 「君が不安で、僕を信じられなくても。逃げたくて仕方がなくても。離さない。例えそれで嫌われたとしても、僕は逃げない」

 

 漸く気道が完全に解放されたが、注射された薬の影響か、はたまた純粋な肉体へのダメージが原因か。衰弱した身体に力が入る事は無い。糸が切れた人形の如くだらりと脱力したまま壁に背を預け、小さく震えるばかりだ。

 

 「くすりっ……たよってぅ、くへにっ……!」

 

 呂律が回らない。鼻で息を吸うと小水の臭いが香り、漏らしてしまった事に気付く。しかし、それなのに相手は気にも留めずに此方の履き物を脱がし、自身も下半身を露出する。

 

 「分からないのなら、思い出せないのなら何度でも教えよう。僕はもう二度と、君を失いたくないんだ」

 

 もしかしたら、今と同じ様な事はあったのかもしれない。彼の束縛的な愛情に危機を感じたのか。それともただ単に妊娠中のノイローゼだったのか。母さんは、彼に抵抗して暴力を────

 

 気もそぞろに推測と想像が脳裏を過ぎる最中、どくんっ。心拍が明らかに早まって肌がぞわぞわと泡立ち始め、ひりつく様な掻痒感が全身に湧き出す。視界は呼吸に合わせて明滅して回りだし、破滅的な多幸感が思考を溶かしていく。

 

 「君だって、本当は僕から離れたくはない筈だ」

 「まっへっ……まっ、ぁ゛っ」

 

 胸を愛撫されて、背筋から腹奥に掛けて電流が駆け抜けあり得ないくらい痙攣する。「はひゅっ、はっ、あぁっ」と口から涎と一緒にはしたない声が垂れる。

 

 こんらつよいくすりっ……おなかの子にも、えいきょうがっ…………。

 

 「ずっと一緒にいよう」

 

 何度も囁かれた毒の様に染み込む言葉が耳元で囁かれると共に、蕩けた股座が熱い肉竿でじゅぶりと貫かれると、「ああ゛あああぁっ!」という自身の絶叫を最後に意識は一気に彼方へ吹き飛び、性感の乱気流に晒された。

 

 「お願……リナっ」

 「やあ゛っ、あ゛っ、はぁああぁっ、ああ゛あぁっ!」

 「愛して……っ、僕は、君無しじゃ…………っ」

 「ん゛っ、ん゛っ、んぐっ、んんんっ、んうぅっ

!」

 「っはぁっ、何処にも…………でくれっ」

 

 甘い淫臭が鼻奥を埋め尽くし、狂った様な嬌声と甘言が反響し、肌と肌のぶつかり合う淫らな水音が飽和する。今まで味わった中で最も濃密な、目眩く快楽の世界。屈服させんと身も心も灼き尽くそうとする彼の責苦が延々と続いていく。

 

 「ぐっ、ゔっ、ゔうううううぅっ────」

 

 しかし、それでも。鼻から血を噴いても、頭が真っ白になって蕩けても。必死に此岸にしがみ付いた。腹の中から自分を応援する様に、何度も何度も蹴り上げるその存在が鼓舞してくれたから。沈み掛けても引き戻されて、踏み止まる事が出来た。

 

 元より破壊され、その中一欠片残った小さな小さな意志。それが荒波に揉まれ、削られ────残されたのは、たった一つの核心だけ。

 

 おなかの、この子だけは…………この子だけは、僕が………………。

 

 

 

 人としての尊厳を賭けた、最後の戦いが始まった。

 

 

 

 十数年前の事。

 

 「いい加減にしてよトシヤさん!」

 「んがっ……!」

 

 広い新築住居でなければ昼間の住宅街に響いていたであろう程の剣幕でリナは激昂し、一回り以上大きなトシヤを蹴り飛ばしていた。ドゴッと転倒した彼が壁に激突する音の後、彼女の甲高い怒号が居間の白壁に木霊する。

 

 「言ったよね? 何度も何度も! その度し難い束縛癖は直した方が良いって!」

 「あっ、あぁ……だからっ」

 「だからって何? 悪化してるじゃない! 私の仕事先にまで脅迫まがいの事してっ……私の家族にまで嘘吹き込んでっ!」

 「違うんだっ!」

 「違うって何? 佐川教授まで抱き込んで! 訴えを取り下げろ……? 冗談じゃない……!」

 

 そこまで口にした所で彼女は息切れし、ぽっこり膨れた腹部を抱えながらフラついて長テーブルに手を付く。そこへ「リナ!」と心配した様子でトシヤは駆け寄るが、「触らないで!」とすぐさま振り払われた。

 

 「はぁっ……別れたくないからって普通ここまでする……? 異常だよ」

 

 ひりついた空気の中、返事は途切れる。ぽたり。リナの目尻から伝った涙が一つ落ちれば、続けて同様にぽたり、トシヤの冷や汗が床を叩く。

 

 「……リナ、ごめ」

 「謝罪は求めてない」

 

 彼の方が先に言葉を発せど、即座に遮られる。最早双方に話し合いの余地は無かった。暫くして荒い息が落ち着いた所で、彼女は冷ややかに告げる。

 

 「はぁ……いいよ、もう。分かった。貴方の望み通り、別れるのは止めてあげる」

 「えっ?」

 「その代わり私にも考えがある」

 

 彼が伸ばした手は彼女に届かず、机の上に置かれていた鞄の中から取り出された数枚の紙面に遮られた。

 

 「その無駄に賢い頭、ちゃんと研究に使え」

 

 紙面は彼に向かって投げ付けられ散らばる。広い上げ食い入るように読んでいけば、そこに書かれていたのは仕事によって彼を雁字搦めにし遠ざける為の口実の数々だった。

 

 「っ、狡い、狡いぞリナっ、これはっ……!」

 「逃せばこれまでの貴方の成果はぜーんぶ他所のモノになるわ。どうする?」

 「こんな酷い事っ…………そんなに、僕の事が嫌いにっ……?」

 「分かり切ってるでしょう? それとも、手に入らない結果のために全て捨てる?」

 

 そこで全てを投げ打って引き続き彼女を支配しに行く程の覚悟は、当時の彼には持てなかった。結局、別れずに済むという現状維持に甘んじる選択を取り、彼は奥歯を噛み締め引き下がる。

 

 「良かった。貴方がまだ研究者で」

 「……僕は、君を」

 「愛してない。でしょ?」

 「…………っ」

 「お願い。お腹の子には貴方の悪い面は見せたく無いの。全てを失いたくないなら従って」

 

 否、純粋に、強かだったのだ。子の害となり兼ねない思想を持つ父親を御し母になると決めた、彼女の方が。

 

 

 

 なお、現在。 

 

 でも、どうすれば……どうすれば、この子を守れるんだろう。

 

 決して母程強くは無い彼では、同じ結果を得る事は叶わない。答えの出ないまま再び陵辱の時間が幕を開ける。

 

 「こんなの、どこでっ」

 「覚えてないか? 昔一緒にセットを買いに行っただろう?」

 

 久方振りの裏切りがバレた後、案の定彼の警戒は再び増し地下への幽閉時間が増えた。しかし前の様に興味が薄れた感じの態度を取られる事は無い。寧ろ常軌を逸した熱視線を向けられる機会が増したり、嘘か真か分からない様な下品で恥ずかしい過去をサラッと話して来たり。心理的距離が雑に接近した様な、そんな状況が続いている。

 

 「そんなわけっ……まってっ、お願いやめっ」

 「君の為だ、我慢しなさい」

 

 冷たいベッドの上、上下共にキツくなった母の服を着たまま性的趣向を感じる縛り方の縄で開脚状態で縛り付けられ、無理矢理太腿に針を刺され薬液を注入される。

 

 「っ! だめっ、だめだめだめだってっ! それだけはっ、赤ちゃんがっ、っ…………!」

 「心配しなくていい。子供に悪影響の出る薬では無い。寧ろ、少し楽になる筈だ」

 「ほん、と……っ?」

 

 投薬されればあっという間だ。痺れる様な感覚がぞわぞわぞわっと全身に染み渡り火照って来たかと思えば、食い込む縄の痛みや下腹部の重みやそれによるちょっとした疼痛が快感に変わり始め、頭は淫らで都合の良い事ばかり考える様になる。

 

 ほんとだ……ちょっと苦しいの、楽に……っ!

 

 違う。お腹の中で子供が暴れている。どんどこ蹴り上げられる。まるで助けを求めているみたいに。

 

 「うそつきっ……こんら、のっ…………!」

 

 清楚感のある白いレースのあしらわれた衣服の胸元、縛り上げられて強調され、ぱつんぱつんに張り上げている双丘。その頂点にじんわりと母乳のシミが出来ていけば、心臓は耳障りな程に早鐘を打ち、その振動が尚更状況を悪化させる。程なく下半身、穿かされたパンストの中も濡れた感触で溢れかえり、焦れて、堪らず根を上げた。

 

 「っ、まってっ……トシヤ、さんっ…………くるしいっ……くるしいよぉっ…………」

 「ダメだ。反省していないだろう?」

 

 分かっていても腹の奥が煩わしくて、もどかしくて、堪らず身を捩りながら媚びた声を発してしまう。自身の頭よりも膨らんだお腹すらも背徳の種にして、浅ましく快感を貪ろうとする、酷く淫猥で、どうしようもない人の形をしたケダモノに成り果てる。

 

 だめ、らの、にぃっ……。

 

 「おねがいっ……おねがい、しますぅっ…………解いてっ……んっ、んんっ」

 

 プライドも何もあったものではない。久々の露骨な薬漬けに抵抗はままならず、みっともない懇願が口を突いて出て止まらない。

 

 これは明確な母への冒涜だ。彼もこの態度は望まない筈。そう思った。だが次に取られる行動はまたしても予想外。股座、パンストの上、ショーツの中への按摩器具の設置と縄による開脚体勢の固定という、下卑た欲望に塗れたものだった。

 

 「えっ、あっ、なんれっ」

 「罰が足りなさそうなんでな」

 

 サディスティックな笑みでその面が歪み、振動が始まる。

 

 「ゔっ、んんんんんっあああっ!」

 「とは言え、昔は厳しくし過ぎて嫌われてしまったからなぁ」

 「あああっ、はあっ、くっ、ぅあああっ!」

 「仕方が無い。甘めに一時間だ。まず一時間、そのままでいなさい」

 「んえっ、まっ、ああぁっ!」

 

 彼は部屋から去って行った。何処か意気揚々と、興奮気味に。

 

 っ……なにが、そこまでっ……っ!

 

 皮肉にも信用と安心が齎した状況だった。おかしな話だが、これまではまだ取り繕っていたのだろう。抵抗の内容が過去の母の行動と重なった事で、彼の中での此方に対する認識がより強固になったのか、あれ以来疑う様な視線が全く無い。今の彼は恐らく本気で此方を屈した母だと思って、悦に浸っているのだ。

 

 これが本性だと言うのなら幻滅せざるを得ないだろう。正常なら。

 

 ちがうっ、かあさんならっ、こんなふうにっ、屈したりっ……!

 

 「っ、わたしっ、ちがっ、ああああっ!」

 

 疑いが完全に晴れたのは、単に此方のせいでもあった。半ば強制的に刻み込まれた母としての口調や振る舞いが思った以上に染み付いていて、今更異なった行動を取る事が出来なくなっていたのだ。

 

 それは母であって母では無い。彼にとって理想の、都合の良いリナという奴隷の振る舞いであった。

 

 ちがうっ、わたしはぼくでっ、わたし、はっ……いやっ、そんなのどうでもっ……いっ……!

 

 「んぐっ、う゛うううぅっ……!」

 

 都合に気付いた所で全ては手遅れだ。開発され切った身体に久々の薬物。腰を逸らしても逃れられない地獄の按摩。深く深く淫蕩に落とし込まれる程に素が出ると思いきや、寧ろ母としての自分が顕著になる。安全な腕の中というイメージ的余裕が剥ぎ取られて、上書きされていく。

 

 「お゛かしくっ、な゛っ……ゔうううぅっ!」

 

 股間から来る電撃に隅々を灼かれて視界は白黒し続け、とっくにおかしい頭が度を越した快楽でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。薬によって齎された、明らかな異常。なのに、当たり前の様により深く強い快感を求めている自分が居て、残された砂粒大のまともな思考を蝕んでいく。

 

 「くっ、あっ、あ゛あああぁあああああぁ!」

 

 

 

 それから一時間後、もとい不明瞭でそれより体感上ずっと長い時間が経過。

 

 「ただいま」

 「うぅ……ああぁっ、ああああぁ…………」

 

 涙でボヤけ、絶え絶えな呼気と共に揺れる視界に彼の影が映るなり、自分は形にならない謝罪の言葉を譫言の様に発する。

 

 「ほえんぁっ、あ゛っ、はああぁっ……」

 「流石にだいぶ堪えた様だな」

 

 按摩が外されると淫蜜が糸を引いた。機器全体がもう照明でてらつく程濡れていて、持ち手の下部分からも一本滴り落ちている。

 

 「こんなに小水と愛液を撒き散らして、おまけに母乳まで……脱水気味だろう?」

 

 息がかかる距離まで顔が近付いてきた。かと思えば、直接指先で秘所を触られ、「い゛んんっ!」と脊髄反射的に身体は大きく反り返って跳ねる。ビクンっという痙攣と共に、ぷちゅり。はしたない汁が噴き出す音がした。

 

 「さ、口を開けてっ」

 

 ペットボトルの水を口に含んだかと思えば、彼はそれを此方の口内に流し込んだ。

 

 「やぇっ……んっ、んっ…………はぁっ、っ」

 「んっ…………ふっ、ちゅっ…………」

 

 それが何度も繰り返される。気が遠く成る程何度も。喉が潤う度頭の中が甘く痺れて、時間感覚が蕩けてしまう。

 

 やめっ、うれしくなっひゃっ……ゆるしちゃっ、いけなぃっ。

 

 漸く終わったらしく「っはぁ……」と、暫し互いにぼーっと見つめ合った。

 滲んだ視界が回る。心臓が高鳴り、強烈な彼への愛欲が溢れて止まらない。

 

 うぁっ、こえ、らめら、っ…………。

 

 「はぁ、物欲しそうな顔をして。まだ足りないのか?」

 「ちがっ……もう、ぁめっ…………っ!」

 

 彼は此方の背に手を回し抱き起こしたかと思えば、ズボンを下ろし下半身を露出。逸物を取り出して膝立ちになると、開脚したままぐったりと彼に身体を預けて座る此方の胸元に押し当て、改まって丁寧な口調で言う。

 

 「ダメだぞ。許して欲しいなら、それなりの態度がある筈だ」

 「っ、なに、を」

 「散々教えただろう?」

 

 縄に挟まっているにも関わらず、胸倉の方から強引に引っ張り上げられて上半身の衣服を胸の上まで捲り上げられた。すると淡い水色のブラジャーにキツく締め上げられ肉の溢れ出した見るからに苦しそうな乳房が露出し、ふるりと揺れて濡れた先端から特有の群れた香りを発する。

 

 「うぁっ!」

 

 熱くて硬い肉の棒が地肌に当たり、その熱と圧迫感で身体が跳ねる。直後、先端はその反応に構う事なく双丘を下から突き上げて、その谷間へと滑り込んだ。

 

 「んっ、くぅっ……!」

 「さあ動いて。満足させてくれれば解放してやってもいい」

 

 怒りと反抗心を抱く余裕は無い。モヤのかかった頭でこの責苦から解放される事だけを考えて、手足を縛られた身体を芋虫の如く扱い谷間に挟まった肉棒を扱く。

 

 「……ふぅっ、んぅっ…………」

 

 動けば敏感に痼った胸の先が彼の身体と擦れる。手脚を使えず、倒れない様彼に背中を支えられている故に逃せない。擦れて甘く痺れる。けれど止められない。刺激を求めて只管動いてしまう。

 程なくぬっちゅぬっちゅ、竿先から溢れた先走りの潤滑油が音を立てて滑り、これまた独特の臭気を発し始める。嗅ぎ慣れた彼の、性行為の象徴たるニオイ。発情が一気に加速して、腹の底で疼きが暴れ出す。

 

 「……おや、もうダメか?」

 

 体力的にも性感的にも、相手の求める域には達しようが無かった。結局途中で腰砕けてその場で息を切らして止まってしまう。

 

 「はぁっ、はぁっ、ごめんらさい……」

 「なんだ情けないな」

 

 ならばと彼は谷間から逸物を引き抜いた後此方の鼻を摘んで口を開かせ、喉奥までそれを突っ込んできた。

 

 「んぐぅっ!」

 「ほらっ、頑張りなさい。此方なら出来るだろう?」

 

 濃密な性臭の風味が口内に広がって思わず嘔吐く。しかし、今はそれすら快感の材料となるらしく、喉の締まる感覚と共に腹奥もまたキュウッと収縮して、下着の中がじゅわりと汁気で溢れ返る。

 

 「ん゛っ、じゅっ、じゅぷっ、ちゅっ……」

 

 愛おしい。不快なのに、口の中の肉棒を舌で抱き締めて飴玉の如く転がすと何故か堪らなく切なくなる。

 

 「ふぅっ、よしよし、良い子だ。その調子」

 

 褒められて、頭を撫でられる。苦しめられているのに嬉しくなってしまう。酸欠の頭が、彼への好意と依存心で満たされる。

 

 こんな自分を愛してくれる唯一の人。この人をもっと喜ばせたい。喜ばせて、愛されたい。

 

 どうすれば喜ばれるかはもう身体が覚えていて、勝手に実行される。舌先で逸物の首の筋の裏側をなぞったり、先端、尿道を刺激したり。悍ましい行為を、平気でやってのけてしまう。

 

 「うぉっ、くぅっ!」

 

 どぷっ。熱くてドロドロの粘液が喉奥に射出された。勢い良く胃の方まで流し込まれ食道が火傷したみたいに灼熱感を覚える。

 

 「んぐぅっ……! んくっ、んっ…………」

 「っ、おおっ……」

 

 抵抗せず嚥下する事にもすっかり慣れてしまっていた。その方が苦しくないし喜ばれる。一石二鳥だから。

 

 「んくっ、んくっ…………ちゅっ」

 

 咳き込む事なく上手く飲み干せた所で、逸物が抜かれた。口元が一気に寂しくなる。ゾクゾクゾワゾワ、欲求はピークに達して、身体は張り詰めた風船みたくふわつき今にも破裂しそうだ。

 

 「んっ……ふーーっ……うぅっ…………」

 「リナ……」

 

 「トシヤさん」と甘ったるく返す。そう呼ぶだけで彼は喜んでくれるから。欲しい時は何度でも呼ぶ。そう決まってる。

 

 「リナ、愛してる」

 「っ……わたし、も…………あいしてるっ……」

 

 一切の嘘の無い言葉が交わされて、押し倒される。股座に指が当たった瞬間、快感が弾けて「んあ゛っ!」と腰が跳ねた。

 

 「ふっ、ふぅっ!」

 

 鼻息の荒い彼は、痙攣する此方の腰を押さえ付けながら秘裂を露出させんと下着をずらし、その箇所のパンストを破くと、一度出した後にも関わらずその硬さを増した剛直を割れ目にあてがって刺し貫いた。

 

 「あっ、んっ、はあぁっ…………ああ゛あぁっ────」

 

 心底心地良さげな吐息が自身の喉から漏れ出た刹那、頭は真っ白になり、その中に都合の良い幸せな未来を想起する。

 

 

 

 「トシヤさん、ご飯出来たよ……っ」

 

 エプロン姿の自分が炊事して、その最中に彼に犯されて、胃袋の前に子袋を満たされる様。

 

 「一緒にお風呂……入りますっ……?」

 

 共に湯船に浸かり、行為に及ぶ様。

 

 「トシヤさんっ、ここじゃ恥ずかしいってっ……」

 

 旅行先、雄大な自然の中で行為に及ぶ様。

 

 トシヤさん、トシヤさん、トシヤさん。妖艶な面で彼の名前を呼ぶ、母に似た何か。紛れもない自分の、本当の姿。幸せの数々は全て快楽を求めた性行為で埋め尽くされていて、それ以外の光景は浮かばず。また、その行為の結果生まれる筈の存在の姿の陰も形も無かった。

 

 自分が気持ち良ければ、愛されればそれで良い。

 

 白い閃光が脳髄を灼く。末端まで快感で痺れて、自身の獣めいた嬌声と淫らな水音がぐわんぐわんと耳の裏を回る。自分の中身と外とがひっくり返って、全てが下腹部で、快感が何処までも響く。

 

 いいんだ。きもちいいし、もうぜったい一人にならない。さみしくならない。ずっといっしょ。カレとずっといっしょにきもちいいことするんだ。

 

 決心。決心決心決心。これで決まり。それ以外の全ては不要。要らない。きもちいい。もっと、きもちいいだけにしよう。それでいい。あぁっ、んんっ、いいっ、いい。あはっ、ああぁっ。あんっ、っ、んんんっ────────

 

 全ては真っ白な愛欲に染まって、そこには母でも僕でもない、ただ彼と繋がっているだけのケダモノが残る────筈だった。

 

 …………どう、して。

 

 どうしても、消えなかった。消せなかった。幼子を抱く母の面影と、膨らんだ自身の腹の感触。トクン、トクンと、確かに強まっていく拍動が、自身を度々此岸に引き戻す。何故か期待して、堪らず求めてしまい、そして機会を得られた暁にはうっとりと眺めてしまう。

 

 ……ああ。

 

 白黒の映像は疑いようも無い程に愛らしい赤子の像を映し出していて、時折元気そうに動く。トクン、トクン、トクン。慈しい心音が、荒々しい愛欲の渦から安らぎと眠りへ導いてくれる。

 

 水面に浮かび、揺れる様な脱力感が訪れると共に、その面影が母と子、双方の抱き、抱かれる感覚に包まれる。幾度と無く自身を護ったイメージ。それが薄く、されど強く、これが最後だと言わんばかりに、鈍い痛みを伴ってメッセージを発する。

 

 やめてよ……痛いよ、無理だよ……僕には…………。

 

 母の面影が少し悲しげに、されど優しく微笑んだ気がした。

 その瞬間、白い帳が開ける。

 

 静寂。濃密な事後の性臭立ち込めるベッドの上、横向きに寝そべっている自分はシーツを握ってまた涙を流していた。一体どれ程の時間性に狂っていたのか。今となっては知る術も無く、事ここに至っては考える意味も無いので疑問は露と消える。

 

 「んっ……!」

 

 背中に体温と鼓動を、股倉に圧迫感と刺激を感じる。抱かれている。後ろから抱かれたまま眠りについていた様だ。胸下に腕が回されていて、抱き締められている。離れようと少し動くとギュッとされて、痛みと快楽、幸福と愛欲が再び自身を支配せんと迫ってきた。

 

 逃げる、否、自分はふっと勢い良く息んで、背中側に彼を押す。体重の増した身重な身体が体重をかければ、じゃらり。枕横でとぐろを巻いている首枷に繋がった鎖の余りが鳴って、意外な程あっさりと自分は彼の上に乗っかった。

 

 「っ……なんだリナ、重いぞ……」

 

 彼が起きて寝起き特有の通らない掠れ声を上げた。けれど気にしない。筋肉痛や外傷によるアザや腫れなんかであちこち傷んで熱っぽく重怠いが、幸運にも手脚は自由。手を付いて腰を浮かし、ゆっくりと上げる。ずるずるずりゅっ。

 

 「あっ、んっ、はおぉっ」

 「なんだ、っおっと?」

 

 挿し込まれていた逸物が抜けると共に支柱を失ったみたく腰が砕けて一瞬バランスを崩すが、彼に腕を引かれて落下は回避した。

 

 「はぁっ……ふぅっ……」

 「危ないじゃないか。ベッドから落ちたらどうするんだ」

 

 優しい。愛おしい。染め上げられた心身は狂おしい程の情愛の炎に灼かれて悶えた。自分より大きく骨張った身体の上でするりと身を捩って向き直ると、うっとりとしたまま顔を合わせ、膨れたお腹を横にずらしながら自ら口付けしに行く。

 

 「はん……ちゅっ……っふ……」

 

 甘く切ない熱が脳髄を駆け抜けて、己をいつもの淫蕩へと向かわせる。くちゅくちゅくちゅくちゅ。絡み合う舌と唾液とが、今まで幾度となくそれに呑まれてきた事実を呼び起こす。抵抗は叶わない。こんな酷い有様なのに、自分は、私は、僕は、彼を愛してしまっている。

 

 自由な手脚と、痛いのに空いて物足りなさそうに疼く股倉が、そして何よりこれまでの自身の行いが証明している。否定は出来ない。しようとしても快楽の糧になるだけで殆どその意味を成さない。

 重なり合った唇を解き恍惚の吐息を漏らすと、太腿に触れる硬い肉棒を見付け、それを手に取り再び蜜壺へと導く。

 

 「ん、はぁっ……!」

 「寝起きから激しいなっ……っ」

 

 下の口が満たされ、多幸感と充足感が背筋を駆け上がる。はち切れんばかりに膨張し風船の如く丸くなった腹部と、ぷっくり膨らんだどどめ色の乳輪から乳汁滴る豊満な乳房が大きな痙攣でふるんっと揺れた。

 

 「はぁっ……はあっ……!」

 

 くたり。挿入後の衝撃で彼の胸板に腹部を預け、またゆっくりとずらして沈む。

 

 ────だから、ごめんね。

 

 お腹の中の赤ちゃんに心の底から謝って、荒い息を吐きながら再び彼の頭を抱き寄せキスをする。その動作の中で、首枷からじゃらつく鎖、その余りを彼の喉回りに二周程巻いた。

 

 「がまん、できない……もっと、いいこと……んっ、させて……んっ」

 「…………?」

 

 一線を越える。もう二度と戻って来られない程に、自身を狂わせる。そう、僕は彼の息子。だから彼に倣って、彼の様に狂愛に殉じ自身を騙す。

 元より線上で踏み留まっていた事、いや或いはとうに踏み越えていたか。思いの外呆気なく、自分は静かに頭のネジを外せた。

 

 「っ⁉︎」

 

 呆けた彼の顔が俄かに険しくなった瞬間、手に持った鎖を力一杯引いた。ぎちゃっと金属が擦れ噛み合う音がして彼の首が締まり、「かっ……!」とその喉から潰れた空気の音が漏れ、程なく苦悶を上げながら暴れ出す。

 

 「かぁっ……!」

 

 馬乗りになった身体がひっくり返りそうになるが堪える。幾度と無く行為に及んだ体勢であり、これまでは此方から奉仕しようにも簡単にひっくり返されていた。しかし此度は自身の衰弱を差し引いても本当に振り切れた全力で望んでいた事に加え、お腹の赤ちゃんの重さと度重なる行為による彼側の衰弱のお陰もあってか、向こうの力をほんの少し上回る事が出来たらしい。

 

 「んっ、どうっ……? きもちいい……?」

 

 自分が首を締められ犯されている時を思い出しながら彼に尋ねた。返事は当然返らず、代わりに潰れた声と太腿への引っ掻きの応酬が返って来る。

 

 「いたっ、痛いよぉっ……!」

 

 口元はリナ、リナと動いている。誰がどう見ても苦しそうな様子。だがしかし、淫らに歪めた自分の視点では、苦悦という名の一種の快楽反応に受け取られた。

 

 「はぁっ、わたしもそういえばっ、爪立てちゃってたよなっ……あはっ」

 

 最初は苦しい方が大きかった。けれど段々と気持ちいい方が大きくなって……気付けば苦しいのも痛いのも快感になっていた。

 彼もその筈だ。現に股倉を刺し貫いている剛直は今までに無いくらいに張り詰めて膨張している。性的興奮が伝わって来る。

 

 「いいよっ……もっときもちよくなろっ……ん……!」

 

 わざと自重しない。自分の腕力じゃ力不足かもしれないから。だから目一杯、背筋を反って体重をかけて加減無しに引っ張る。相手も気持ちいいと信じて、息みいつも以上に皺くちゃになった彼の顔を只管慈しみながら。

 

 「んあっ、はっ、ああっ、あああっ!」

 

 彼が暴れれば暴れる程、中の肉棒も暴れてそこで爆ぜる様な痛みと快感が生じる。気付けばそれに合わせで自分も腰を動かしていた。濡れた肌と肌が打ち合う聞き慣れた打音と共にチカチカと白い閃光が脳裏を掠め始め、絶頂が迫り上がる。

 

 「あはっ、いいっ、トシヤさんんっ、もっとっ、もっとぉっ」

 

 濡れた視界が揺れて前が見えない。顔が見たいのに。絶頂の瞬間を見て、その時に口付けしたいのに。

 

 「んおっ、おっ、ん゛っ、んんんっ! ふっ、ゔっ、ゔっ!」

 

 やがて言葉を模る余裕も無くなって、喘ぎ声は獣の如く変わり、その頭の中は欲求で埋め尽くされる。もっと、もっともっともっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと────

 

 灼けた蜜壺の奥、これまたいつも以上に剛直の先端は膨らんで反り上がっていく。太過ぎて、或いは体力の限界で腰は止まり、深々と刺し込んだまま動け無くなった、その刹那。彼の方の腰が反り上がり、強く、強く硬直したかと思えば、

 

 …………どっ!

 

 どくっどくっどくっ、連続する痙攣と共に、大量の熱い液が解き放たれた。

 

 「っあ゛っ…………ん゛んんんっ……!」

 

 堪らず自身も絶頂。背を反り返らせ上を向き、舌を放り出して最高の快楽を享受する。

 

 あっ……もう、だめっ……。

 

 彼の腰が痙攣しながら脱力していくのに合わせ、全身の力が抜けてゆっくりと前に倒れ込んでいく。お腹がつっかえて中途半端に止まった後、横にするっと逸らして再び彼の胸板に密着。そして、

 

 「んあっ……はあぁっ……」

 

 恍惚の中、暫し余韻に溺れ沈んだ。

 

 

 

 微睡の中、ゆっくりとした暗転を経て、醒める。

 

 

 

 ────あ、れ……。

 

 また眠ってしまっていた様だ。彼を枕にしてしまっている。重く無かっただろうか。「っ、ごめんなさいっ」と徐に飛び起きて離れる。ずちゅっ。挿入されていた逸物はかなり柔らかくなっていたものの、引き抜いた瞬間激痛が走った。

 

 「っい゛っ……身体中凄く痛いや……はは……」

 

 それを感じさせまいと堪え、愛想笑いを向ける。彼は目を開けたまま、土色の顔をして動かない。

 

 「はしたなかったし、強引だったよね……ほんとごめんね……?」

 

 これはきっとお仕置きされるだろうな、などど、痛みを考えで誤魔化し、身構えつつ謝った。返事は返らない。「……あはは、無視しないでよ、ねぇ」と身をゆすったり、ぺちぺちと叩いたりしたが変わらず。ぴくりとも動かない。

 

 「……あはっ」

 

 笑い声は震えて潤んだ。分からない程に狂えている事を祈ったが、ダメだったらしい。次第に胸は締め付けられ、痛切な後悔の念と罪の意識に押し潰される。

 

 「ごめんね、トシヤさん……ごめんね……」

 

 演じても、演じ切れない。耐えられない。

 

 「ごめん、父さん…………僕は、母さんにはなれません……」

 

 懺悔の直後、愚かな己を罰する様に、腹部から身を裂く様な激痛が走った。

 

 「ふっ……ぐううぅっ……⁉︎」

 

 堪らずその場に蹲る。形容する言葉の全てが生易しく感じる程の痛苦だ。声を上げる事も、息を吐く事すらもままならない。

 

 「はぁっ……ふぅっ、ふっ、うううぅ……っ!」

 

 脂汗がどっと出て、涙に濡れた視界は俄かに白んで揺れる。意識が飛びそうだが、それすらも許されない。張り裂けたかに思えた腹が今度は張り詰めて、排便を極限まで我慢した時の様な強烈な不快感を伴った疼痛を与えて来る。虫のいい事に反射的に父に助けを呼ぼうとして、止めて、そしてやっぱり「だれか……助けて……」と声を漏らした。当然、助けなど存在しない。逃げ場の無い地獄が心身にのし掛かる。

 

 「ふぐっ、ゔううっ……くうううっ……!」

 

 嘆き、悶絶し、横たわって尚悶え苦しんだ。するとそこでふと股間から大量の水が漏れている事に気付いて、漸くああそうかと悟る。

 

 産まれて来るんだ……こんな、時に……っ。

 

 「ぐっあ゛っ……あ゛ああああぁっ!」

 

 身体が排便の要領で不意に息むと、ミシミシと背中の骨が軋み再び万力で裂かれるかの如き激痛に襲われる。

 

 産まれない方がいい……こんな所に、産まれたらダメだ。

 

 耐え切れない自分の勝手な口実などでは無く、心の底から祈らずにはいられなかった。神様、いるならどうか殺してくれ、自分諸共今すぐに、と。未来と自身を悲観しても仕切れず、今すぐ死んで自分が地獄に落ちる方がよっぽど良いと、儚い空想の救済を願った。それ程までにもう、救いようが無いから。

 

 「ふーーっ……ふーーっ……ううっ、ううううううっ……!」

 

 涙が堰を切ったかの如く溢れ出した。純粋な肉体の痛みでは無い。心痛だ。恐るべき事に、腹の中の赤子を思うと、肉体の苦痛を心痛が凌駕したのだ。殆ど毎日、激しい行為の後や眠る前等聴いて安心した暖かい心音と、人の形を帯びていくモノクロの映像。それらの数々が脳内でフラッシュバックし、哀切で胸が張り裂けんばかりに痛んで、嗚咽し、顔をベッドに伏せずにはいられなくなった。

 

 もう許して、もう許してよと口元は同じ言葉を何度も細々と紡ぐ。死んだ方がマシ。そう思えたらどれだけ良かったか。死すらも救いに感じられず、それでも終わりを願わずにはいられず。これぞ真の生き地獄ではないか。

 尚も自分の運命は悉く思い通りにはならない。身体はそれ以外に苦痛から逃れる術を知らんと勝手に息んで、裂いてでも赤子を出そうとしてしまう。

 

 「うううあ゛ああああぁっ、はあ゛あああああぁっ!」

 

 絶叫と共に生々しい音と共に液状の何かが排出される。赤子では無い、惨めにも糞尿である。しかし気にする余裕は無い。もう頑張らなくて良いのに。諦めて良いのに。命はそんな甘えを許してはくれない。

 

 「はあ゛っ……あ゛っ……ぐっ…………!」

 

 自分の腕は、いつの間にかぎゅうっと強く父の脚を握っていた。此方の体温が上がっている為か、より冷たく、硬く感じられる。

 

 「父さん……トシヤ、さんっ……!」

 

 もう何を言っても動いてはくれないであろうその身に微かな期待を寄せ、救いと罰を求め、咽び泣いてはまた息んでを繰り返す。

 やがて徐々に息みは要領を得て、少しずつ、少しずつ洗練され始める。

 

 「ふーーっ……っ……ふぅっ……っ~~~~!」

 

 思考し絶望する余裕が削り取られていく。頭はぼーっとして、ただ自身の呼吸と鼓動ばかりが聴こえる様になる。ひっひっふー、ひっひっふー。出産の為の知識なんかは思い出して実行したりはしてみたものの、それもやがては忘れて。ただ無心で努める。

 

 「うっ……ぐっ……! …………はぁっ! っ、はぁっ、ああっ……ふぅっ……ふーーっ、っ…………!」

 

 肘と膝を付いた四つん這いで息んでは呼吸を整え、偶に崩れ落ち父の脚を枕に休んでは、這う様にベッド横の壁を使って体勢を立て直しまた息む。漏れ出す呻き声は枯れ、末端は痺れて弛緩し、余計な力はもう入らない。気の狂いそうな疼痛にも慣れて来た。労力は殆ど排出のみに注がれ、文字通り気が遠くなる作業となり延々と繰り返される。

 

 「はぁ……はぁ……っ、あぁ……」

 

 体力の限界か、目が霞んで暗くなってきた。

 

 もうがんばった……十分、だよね……。

 

 「はぐっ……ゔうっ……」

 

 一抹の悔しさが込み上げたが、涙は既に枯れ果てて出てこない。体勢も変える余力も失せ、壁を背に寄りかかったまま肩で息をするに留まる。いよいよか。予感し静かに瞼を閉じたその時だ。

 

 ……ずるっ。

 

 不意の脱力か、それとも無意識の息みによるものか。何れにせよ何かが上手くいったらしくそこで股間から少しだけ何か大きな黒い塊が滑り出し、今まで入り口だった場所を内側から押し広げた。頭は「っ、えっ……」と思わず困惑したが、身体は違った。

 

 「はっ、ぐっ……!」

 

 少し気を抜くと戻りそうな所を、腹は反射的に最後の力を振り絞った。すると壮絶な激痛がぶり返すと共に、更にずる、ずるると、外に出て来る。

 

 「あっ、がっ、あ゛っ……!」

 

 瞳を白黒させながらも最早後戻りは出来ず、強く目を瞑り、シーツを握り締め力一杯息んだ。が、それでも一息では出て来ない。力尽き、一度横に倒れる。倒れたままでは力が入らない。何とか張って体勢を整えようともがく。

 

 起きなきゃ……っ。

 

 指先は偶然父の掌に触れた。徐にそれに指と指を絡めてギュッと握り締めると、不思議と力が湧いて来る。「ぐっ、あああっ……!」と猛々しく声を上げながら身体を起こし、その場で再度肘膝付いた四つん這いの体勢を取ることが出来た。

 

 「ふっ……ん゛うううううっ……!」

 

 愛情、憎悪、恐怖、幸福、これまでの様々な感情が交錯し、迷いとも決意とも取れぬ何かが胸中に生じる中、強く深く息んだ。刹那、

 

 ずるるるっ、ずりゅんっ!

 

 重さとも相まってか、塊は勢い良く滑り出してベッドの上に落ちた。

 

 「っ……ふぅ……」

 

 一気に腹の軽くなった身体は虚脱してその場に蹲る。達成感、安堵感がじーんと疲れ切った頭に染み渡り、静かに目を閉じた────────

 

 ────が、それも束の間。まだだ。確認せねばと湧き上がる使命と好奇心に突き動かされ、泥の様な身を徐に起こし、産み落としたと思わしき場所に目を向ける。

 

 「っ、ああ……」

 

 感慨も一入だった。自身の股倉から伸びる尾の先、白黒の影でしかなかった存在がそこに色を持って現れていたのだから。

 

 あは……男の子だ……僕そっくり……。

 

 愛しさに満ち、全身がふわりと浮く様な錯覚に陥る。今すぐにでも抱き締めたい。そんな気持ちに突き動かされ、ボロボロの筈の身体は子の元へ擦り寄った。

 しかし直後、一気に不安の黒い靄が押し寄せる。

 

 「あ、れ……?」

 

 赤子が、産声を上げていなかった。

 

 「えっ、あっ、あぁっ…………」

 

 浮ついていた感覚が途端に底の無い奈落に晒される。産まれて来ない方が良い。そう思う瞬間も確かにあった。しかしいざ産み落とし、顔を合わせた今、感情はもう子の生存以外を望む事などあり得なかった。

 

 計り知れない喪失への恐怖が迫る。静かに気を落としていられる時間は無かった。あたふたと辺りを見回し、ある筈も無い助けを求める。が、再三分っている通り存在しない。既に自ら断ち切ってしまったのだから。

 

 「うそっ、どうしようっ、どうしようっ……!」

 

 気もそぞろに赤子の胸元に触れた。柔らかくまだ暖かいが、そこにあの鼓動が殆ど感じられない。微かに感じられるが弱々しくて、今にも止まってしまいそうだ。

 

 「なんでっ……どうしてぇっ…………!」

 

 泣きながら大急ぎで濡れたその小さな身体を布団で拭き、腕の中に抱く。自身の嫋やかに膨らんだ胸元に丁度収まるそのサイズに再度愛おしさが込み上げるが、噛み締める暇は無い。赤子はそのままぐったりして、刻々と手足の末端が青く変わっていく。

 もうパニックになって、横たわったまま動く事の無い父に縋り付いた。「ねえなんでっ……父さん、おしえてよっ、ねえっ、トシヤさんっ、ねえってばっ…………!」と。

 

 「昨日までうごいてたのにっ……げんきにうごいてたのにぃっ…………!」

 

 自分のせいなのか。自分の行いが、この子を殺したのか。

 

 「いやだっ……! いやだいやだいやだぁっ……!」

 

 それはあんまりだろう。この子に罪は無い。死ぬのは自分だけでいい。

 自責の念に耐え兼ねて、自分は幼子の様に駄々を捏ね、譫言の様に助けを求めた。

 

 「たすけてとおさんおいしゃさんならたすけてよねぇたすけてっ、このままかあさんのときみたくなるのやだよねえっ、おきてっ、おきっ」

 

 そのまま焦燥の中たった一つ。破綻した精神は、窮地に光を見る。

 

 

 

 「かあさん、かあさんっておいしゃさんだったんでしょ?」

 「少し前までねー。みんなが知ってる様なお医者さんじゃないけどね」

 

 幼き日、純朴な瞳で母に投げ掛けた疑問。

 

 「えー? それってどんなおいしゃさんなの?」

 「うーん……そう言われると答えるの難しいなぁ」

 「しにそうな人とかを、ふん、ふん! ってやってたすけたりするんでしょ?」

 

 小さな手で母の胸を押して、何かのドラマで観た心臓マッサージのシーンを再現して見せた自分。対し、

 

 「そうねー、ちょっと違うけど……まあそれも出来なくはないよ!」

 

 興が乗った様子で正しいやり方を教えてあげると、愛情たっぷりに母は言った。

 

 

 

 「かあさんっ……そうだかあさん、かあさん……」

 

 かあさんは、じぶんだ。この子の母は自分だ。助けはない。自分が、やらなきゃ。

 

 こんなことを考えている場合では無いと急激に頭が冴えて、自身に喝を入れる。

 

 「っ、しっかりしろっ、ぼくが、やらなきゃっ」

 

 幻想の母のイメージはもう湧かない。頼れるのは過去の記憶だけだ。そう自覚した所で、ある程度確かな知識が脳裏に迸る。

 

 「っ、そうだっ、これ、そうだ……新生児仮死……そんなに珍しい事じゃないって書いてあった……出てくる時、水を吸い込んじゃったのかも……!」

 

 本棚の中、少し多めにあった小児医療関連の本。細胞分野が多い中、異質で目を引いた新生児の蘇生手順のガイドブック。母の部屋を再現している以上必然だったのかもしれないが、導かれている様なそんな気がして。童心と結び付き、鮮明に思い出せたそれを記憶通りに辿る。

 

 「肩に枕をしいて……踵を軽く叩くっ」

 

 祈りを込めて、ぱちん。反応無し。

 

 「お願い、息を……っ」

 

 更に胸部を下から上へ、手の甲で摩るように動かして刺激を与える。

 

 「息をして……泣いてっ…………」

 

 暫し行うが、結果は同じ。それどころかどんどん顔が青くなっていく。

 

 「だめっ、だめだよっ、息をっ、息をしてっ……!」

 

 こうなってしまった場合、基本的にバッグとマウスという専用の器具によって呼吸を促す手順が推奨されている。が、器具の無い場合は、難しいが仕方ない。

 

 「っ…………!」

 

 赤子の口を開き、そこに口付けして吹き込み過ぎないよう優しく、胸部がほんの僅か膨らむまでそっと息を吹き込んだ。

 

 「……はぁっ、お願い、お願いっ…………!」

 

 産声はまだ上がらなかった。

 

 「っ、まだっ!」

 

 胸骨圧迫、心臓マッサージに移る。中指と薬指の2本で、胸骨の下半分の部位を胸の厚さのおおよそ3分の1くぼむくらいの強さで、毎分100回のペースで圧迫する。

 

 「ふっ、っ、ふぅっ!」

 

 少し早過ぎたかもしれないが、あっという間に完了。反応が見られないので続けてもう一度人工呼吸を行う。

 

 「っーー…………!」

 

 間髪入れず繰り返す。繰り返す。その更に下に描かれていた時間毎の救命率グラフを振り払い、無我夢中で祈りながら。

 

 お願いっ、おねがいおねがいおねがいっ! 息をっ、息をっ…………!

 

 単に執念であった。気力体力の限界などとうに超えていて、身体を動かしているのがやっと。先程親を殺めた掌は傷んでボロボロなのに、それにも気付かず、ただ小さな命を救おうと動いた。

 

 「っ、はっ、っ!」

 

 何セット目かの胸部圧迫、その瞬間だった。けほっ、けほっ。弱々しい咳き込みの後、産声は上がった。

 

 「っ……あぁっ…………!」

 

 そっと胸に抱き、共に涙を流しながら覚悟を固める。この子を助ける為に、今ある全てを捧げようと。

 

 「動かなきゃっ……助けを、呼ばなきゃっ…………!」

 

 徐に立ち上がろうとして、くらり。目眩がして倒れそうになるが、壁の方に寄りかかって何とか凌ぐ。ゴンと強く頭を打った気がしたが、感覚はとうに失せていた。

 

 

 

 その後暫くの事は朦朧としていてよく覚えていない。付いたり消えたりする薄ぼんやりとした光の中、自分は必死に必要な行動を取り続けたのだろう。

 

 「っ、う…………」

 

 ツー、ツーと遠くから静かに延々とビジートーンが鳴り響く中、再び目が覚めた。ここは恐らく廊下、電話前の所だ。壁を背にして座っている。冷たい筈だが、感じない。薄らとした暖かさに包まれている。

 気がつくなり胸の先に甘やかな刺激を感じ視線を落とす。

 

 「……ふふ」

 

 焦点が合わなくてよく見えないが、赤子が自分の乳房を小さな掌で押しながら、先端を加え力強く吸い上げているのが分かる。もう堪らない位にむず痒い感じの暖かい気持ちが込み上げて来て、思わず微笑んでしまった。

 

 我ながらどうしてここまでやれたのかとふと疑問に思いつつ、はぁ、と一息吐いて、首に下げたキーチェーンの感触から断片的な回想に耽る。

 

 「…………」

 

 彼のシャツの中にあった、一見ロケットペンダントにしか見えない代物。表面のボタンを押せば地下室の扉を遠隔で開閉可能で、それを押して鍵だと気付いた。

 側面の小さなボタンを押せばパカリと開いて、中の若かりし頃の父と母のツーショットが見られた。

 

 「……あ、れ…………?」

 

 それからどうしたんだっけ、と思わず不安になる。記憶があまりにも曖昧なのだ。赤子の抱っこに悪戦苦闘した事や、重い鎖を引き摺りながら歩き回って、届かない電話に何度も立ち向かった事。そして最終的に性玩具を使って何とか電話を引っ掛けて取り、素手では届かないダイヤルの110を押して助けを求めた事。途切れ途切れに辿れるが、それ以上が分からない。事件か事故か投げ掛けて来た受話器の向こうへ伝えた言葉は何だったか。兎に角最後に「今すぐ向かいますので」と、そんな返事を得た所で意識を失ったのだったか。

 

 ちゃんと助け、呼べたかな……?

 

 助けがまだ来ていない以上、もしかしたら本当は電話は繋がっておらず、自分の妄想、ないし幻覚の中だけでのやり取りだったのではないか。そう思い至って胸中のそわつきは限界に達し、念の為今一度動こうと考えたが、鉛の様な身体はどれだけ力を込めてももう指先一つ動かせなかった。

 

 だめ、か……。

 

 頭は今一度赤子の方へ向き、懺悔を始める。

 

 ごめんね、あんまり出せなくて……。

 

 もう身体に余力が残されていないせいか、母乳の出も悪そうで申し訳ない気分になる。よく考えたらそもそもこの身体、薬物で穢れているし衛生状態も良くない。身体中臭くて汚いままだ。

 けれど赤子はそんな事を気にする素振りも見せず、一心不乱に吸い付いている。飲んじゃダメと引き剥がす事も出来ないので、自分はただただ心配する。

 

 お腹とか壊したりしないといいな……産まれてから暫くは、大丈夫なんだっけ……?

 

 障害なんかが残っていないか。臍の緒、いつの間にか変な所で千切れてるけれどこのままで大丈夫だろうか。心配し始めると不安は尽きず、胸の奥が苦しくなって来る。

 

 「ごめん……ね……っ……!」

 

 枯れていた筈の涙が溢れ、血の如き熱を伴い滴り落ちた。否、或いは本当に血なのかもしれない。視界が少し赤い。

 

 「っ……ふぐっ…………」

 

 薬か、はたまた死に掛けているせいか。冒涜され尽くした肉体は最期まで自分を穢すつもりの様だ。痛みは無いが何故か身体は快感に浮ついていて、胸を吸われている刺激を性感として受け取りぴくぴく浅ましく痙攣している。凄く惨めな気分だ。

 

 「んっ……うぅっ」

 

 察していた。裂ける様な陣痛の瞬間から、自分はもう長くないと。何せ偽物の母胎だ、出産に耐えられなかったんだろう。

 

 こんなやつから産まれたなんて……最悪だよね…………。

 

 今更ながら産み落とし、生かしたのは勝手だったと後悔が押し寄せ、将来に責任を持てない自身を呪う。なのにそのくせ愛おしくて、狂おしくて。無責任な感情もまた溢れ出す。

 

 「ごめんねっ……りくとっ…………!」

 

 父はこの子に元の僕の名前を付けるつもりだった。自分の存在が消え失せるみたいで当初は酷くショックを受けたが、今では唯一自分の生きた証だ。とはいえそのままでは忍びない。故に敢えて踏襲した上で一つ付け足した。本来の自分を重ねつつ、それでいて同じ不幸な道を辿らない様にと。勝手に名付けたそれを呼んで、勝手に幸福を祈り感極まった。

 

 ビキンッ。その瞬間脳裏に閃光が走り、身体は大きく痙攣した。紛れもない快感だったが何処か破局的で、背筋はほんの少し反り返った後、少しずつ、少しずつ力を失って壁をずり落ちていく。

 

 「っ…………! ぁ…………!」

 

 声も上げられぬまま床にゆっくりと倒れた。出来る限り耐えたつもりだったが、なんたる事か。首の座らない赤子も一緒に転がって、胸元から此方の顔の辺りに来てしまった。

 乳を取り上げられた赤子は目の前で顔を皺くちゃにして泣き始める。その面影は何処となく父そっくりだ。自分にも少し似ている。手を伸ばしてあやそうとしたが、ダメだ。その力すら出ない。言葉も、息を吐く事もままならず、「ぅ、ぁ……」と呻き声だけが漏れた。

 

 ごめんっ、ごめんよ……なかないで…………。

 

 心が痛んだ。身体はふわふわして浮く様な心地良さの中にあるのに、胸の内だけがずんっと床に沈むみたいだ。

 

 ひどいよね、そうだよね……あぁ、ううぅっ。

 

 涙は出ないが一緒に泣くしかなかった。情けないけれど、自分に出来る事はもうそれだけらしい。幼い頃みたいに、それこそ目の前の赤子と同じ位に幼く咽び泣く。

 

 「ぅ……ぅぅっ…………!」

 

 よくやった。そう母に頭を撫でて貰いたかった。けれどこの様では、きっと叱られてしまうだろう。

 

 叱られた時の事を思い出そうとした。しかし、おかしな話。母が僕を叱った事なんて殆ど記憶に無くて、懐古されるのは泣いてる時、そっと抱き締めて泣き止むのを待ってくれていた時ばかり。

 

 しかってよ……かあさん……しかってっ……ぼく、とおさんをっ……。

 

 黄昏時の如く全てが暗んでいく。瞼が重くなり眠くなってきた。赤子の泣き声も段々と遠くなって、遂には殆ど聴こえなくなる。自分は、僕はただその微睡の中後悔と悲しみに溺れ、悲痛に叫び続けた。

 

 ごめんなさいとおさん、かあさんっ、ごめんなさいっ……ごめんなさっ……!

 

 その時、柔らかな感触が頬を撫でた気がした。小さな手だ。何とも慈愛に満ちている。

 

 暗澹とした視界にぼんやりと光が灯って、徐々に明るくなっていく。荒み切った心は穏やかになって、聴こえなかった音が遠くから聴こえて来た。とんこんとんこん。扉を叩く音か、鐘の音か、はたまた足音か。それらは万華鏡の如く自身の周りを回って、動かなかった手足を軽くした。

 

 あ…………。

 

 赤子が純朴な瞳で真っ直ぐ此方を見つめている。それは赤子の様でいて、鏡に映った自分の様でもあった。違いに手を伸ばし、そっと胸の中に抱き締める。相手は微笑んで、自分もまたキャッキャと笑った。

 

終

 

 

 

 

 




拝読頂き有難う御座います。父の手記のエピローグ入れる予定だったけど蛇足感があって控えてたりします。

普段はアルファポリスで文章こねこねしてるので興味がありましたらそちらも見ていって下さい。作品が他にも幾つかありますので。

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