小沼高希様作『図書庫の城邦と異哲の女史』の二次創作になります。
※小沼様より許可を頂いて掲載しております。
便りが無いというのは、存外寂しいものだ。
薬瓶の首を持ち、何も入っていないそれを意味もなく回しながら、ただ時間だけを浪費する。やることなどいくらでもあるし、やれることもたくさんある。
だというのに手につかないのは、あの子が帰ってくるのがそろそろであると──否、今日であるとわかっているから、なのだろう。
不思議な子だ。
この衙堂へやってきてから、私の生活は一変した。嵐のようだとは言わない。空を巡る星のようだとも思わない。ただ、どこか希薄で、抱き留めておかなければどこぞへ浮いていってしまうような、美しい蝶のようなものだと感じている。
不思議な子なのだ。発する言葉には力があり、確実に世界を変える知識を持っているのに、どこか自虐的で自信がない。借り物であろうと先人の知恵であろうと、身に着けているのは彼女自身であるというのに、それをまるで"飾り付けられたもの"であるかのように目を伏せる。
自らを着飾っている自覚がないというのはなんともし難いものがある。もしそれを自覚しろと強く踏み込めば、彼女は離れていくのだろう。花にとまっている内にしか蝶の美しさを焼きつけられないように、近づけば、声を出せば、何かこちらから行動をすれば──たちまち、瞬く間に彼女は空の彼方へと還っていってしまう。
難しい。
不思議で、難しい子。
そんな彼女が此度、鋼鉄の尾根へと向かう次第になった。向かう次第となって、今日、帰ってくる。
便りがないというのは……やはり寂しいものだ。
孤独には慣れたとばかり思っていたのに、たった一人、あるいは二人いなくなっただけで、私の周りはまた静かになってしまった。静かで、静かで、静かで──心の落ち着かない、静寂。
あの子だ。あの子が、私に静寂をもたらした。あの子が私の静寂を苦痛に変えた。
今までは平気だったのに、不思議で難しいあの子のせいで、私は静寂に耐えられなくなってしまった。
強い感情だという自覚はあるし、不当な押し付けであることも認識している。
けれど──そんなものを抑えつけられるのであれば、あの子と初めて顔を合わせた時の私は、その感情を見透かされるようなことはしなかっただろう。
まだ。
この心には、熱があるのだと、ただそれだけのこと。
小さな溜息を吐く。
何も入れていないのだから当然空である薬瓶を覗き込み、空であることに落胆する。
最近は歓楽街へも出かけていない。空虚だった。見目麗しいそれに心惹かれない自分が。
まるでこの薬瓶と同じように、初めから何も入っていなかったから、中の物が抜け出でたら、やっぱり空虚に戻ると──そう突き付けられているような感覚に陥って、以降歓楽街へは近づくこともできていない。
図書庫の城邦。
世界単位で見ても有数の街と呼べるくらいには巨大な街の、あらゆる頭脳の集まる場所。
それが。
それが、たった一人を見失った程度で、これとは。
お笑い種でさえある。喪ったわけでもないのに、ただ離れているだけなのに。
もう自嘲するまでもない。
どうやら私は──。
ノックが為された。
三度。扉を叩く音。叩いている位置で背丈までわかる。
わからないだろう。彼女にも、彼にも。私がこの扉を開けるのにどれほどの決心とどれほどの固唾を飲んだのか。どれほどの力を込めて椅子から立ち上がり、どれほどの力を込めてこのドアを開いたのか、なんて。
わからない。
けれど、開いた先にいた二人を見て、思わず抱きしめてしまった。いや飛びついた。飛び上がって飛びついた。潰してしまった可能性もある。それくらい勢いよく、はしたなく。
「……連絡の一つぐらい、してもよかったじゃないか」
「……してない?」
していない。
当初よりあちらへの滞在期間が延びた旨も、今どうしているかも、あちらで何をやらかしているのかも何も聞いていない。印刷物管理局や外交局から私に元に手紙が回されることなんかあるわけがない。
このまま絞め殺してやろうか。
──なんて考えが浮かぶくらい、私の気持ちになんか欠片も気付いていない二人。
仕方がないから離してあげるけれど、本当はもっともっと──なんて。
夕食後の話だ。
少しだけ、と。少しだけ話があるんだ、と。
留まってもらった。少年にだけ帰ってもらったから、何かを察されている可能性はあるが。
相も変わらず呑気なこの子には溜め息も出るけれど。
「……改めて聞くが、本当に何もなかったんだな?」
「ないよ。珍しい、トゥー嬢がそこまで気にするなんて」
「内心ではいつもこんなものさ」
「……もしかしてまだ酔ってる?」
「ずっと」
抱き寄せる。
抱きしめる。
彼女は──キイは、黙ってそれを受け入れてくれる。今、何を感じているのだろうか。どうせなんでもない、『基質と分離と分析』の感想をもう少し具に読みたいなぁ、くらいにしか思っていない。彼女の頭の中にあるものなど、技術と、技術と、知識と、あと少しばかりの保険だけだ。
私の事など眼中にない。
「ずっとだ」
抱きしめる。
酒に酔っている自覚は勿論ある。呑まれているのだろうことも理解している。だからわざわざ肉ではなく野菜やグナクを始めに食べたし、食べさせたのだ。酔いが回りやすくなるように。
そうでもなければ言えない。そうでもしなければ、私はまた蝶を眺めるに終わると知っていたから。
「ずっとだよ」
しな垂れかかれば、しっかりと受け止めてくれる。
酔い過ぎていると判断したのだろう。私に肩を貸し、そのまま私の自室の方へとゆっくり歩き始めた。彼女は背が高いから、中々運び難いだろうに。
まだ酔っている。
いいや。
ずっと酔っている。君に。不思議で難しくておかしな君に。静寂を孤独に変えた酷い君に。私に。この変化を受け入れてしまった私に。受け入れてしまったことを苦しんでいる私自身に。
酔っている。
だから、それを理由に転んだ。
自身に与えられた部屋に入ってすぐのこと。特にこだわりのない寝台へ、彼女が下敷きになるように転ぶ。「わ」とだけ悲鳴を零して、転んだ私ごと寝台へと寝ころんだ。
「ちょ、トゥー嬢……?」
「……」
「いや、ここで"寝ちゃったか"ってなるほど、私は軽くないつもりだけど」
「行かないでほしい」
無理なら、言葉で。
偶然を装えないのなら、その腹に顔を埋めて懇願するまでだ。ここをこうして押さえていれば、上手く起き上がることができないことも知っている。
「トゥー嬢」
「行かないでくれよ。寂しかったんだよ。ずっとここにいてくれよ」
「当分は出て行かないつもりだけど」
「そういう意味じゃないことくらい、わかってるだろ」
吐く息に随分と水分が含まれているらしい。
呼吸をするたびに彼女の腹部が濡れていく。吐息か、汗か。
「……トゥー嬢。私は」
「ケト君じゃないと、ダメかい?」
「いや、私とケト君はそういう関係じゃ」
「なら──お願いだ。苦しいんだ。キイ嬢、君が出て行ってから、今日まで、君を想わない日は無かった。気付くのが遅れた。なんとしてでも、何を擲ってでも引き留めるべきだった。そうすればこんな感情には気付かずに済んだのに。君がずっと私の静寂を埋めてくれていれば、私は君との関係を崩さずにいられたのに」
抱きしめていた手が、彼女の衣服をまさぐる。私の意思じゃない。
私の意思じゃなく、私自身の意思だ。
「キイ嬢」
「……」
「心の底から嫌なら、蹴り飛ばすか、頬をはたいてくれ。今の私は、酔っているから」
「……でも、今じゃなくても酔っているんでしょ?」
「ああ。もう、そうとしか見れない。一度失いかけて──気付いた。私はダメだ。次、君を失うことがあったら、私は全てを投げ捨てて後を追うだろう。それが大陸のどこであれ、海の果てであれ──静かな眠りの中であれ」
「それ。ほとんど脅しだけど」
「私に死んでほしくなかったら、今の一時だけでいい。ケト君を忘れて──私に身を委ねてほしい」
彼女は大きく溜息を吐く。
そして、「だから私とケト君はそういう関係じゃないと……」なんて言って。
私の頭を、撫でた。
「別にいい。それでトゥー嬢が後悔しないと言えるなら」
「……」
服の上から。
湿った服の上から、その腹を──舐める。
布のざらりとした感覚の奥に、確かに女性的な肌を感じる。「うひゃあ」なんて声をあげる彼女。
勿論、後悔しない。
既にしている。もっと早くに気付けばよかったと。もう修復できない位置にいることを、彼女はまだ気づいていない。
このまま襲えば関係性が崩れる。だから、それが恐ろしければやめろと、彼女はそう言いたいのだろう。
だけど、関係性などとうに崩れている。
私が君を──。
「私が君を、恋しいと思った時点で、とうに、崩れ去った関係性だよ」
「わざわざ声にっ……」
口を開きながらしゃべる。
衣服に唾液が垂れ、舌は踊り、引き戻した舌が唾液を運ぶ。縫い目からその先の肌が見えるかのようだった。それくらい顔を押し付けて、それくらい彼女を抱きしめて。
「……お腹、外そうか?」
「いい。そっちから、何かしてくれようとしなくていい。これは……私が勝手にやっていることだ」
「そっか」
腹を舐る。右に左に。
舌の唾液が枯れてきたら、一度戻して。まただらだらと唾液を滴らせて、衣服を濡らし潰していく。
それは時折、臍の上を通ったり──それよりも先を掠めたり。
「慣れてる」
「君が来る前は、よく歓楽街へ行っていた」
「男の人?」
「どちらでも。名前も覚え合わない」
「それは、後腐れが無くて良いね」
無抵抗に。
それでもまだ、なお、頭を撫でてくれている彼女。背が高ければ腕も長い。いつの間にか半分程起き上がっていた上体は、けれど私を跳ね飛ばしたりはしない。
「……少し、瘦せたな」
「舐めながら言うことがそれ?」
「十分な食事ができなかったのか?」
「そんなことは全く。ただ、単純に肉体労働が多かった」
「……ダメだ。これは……私のなんだから、勝手に減らさないでくれ」
「私のだよ」
腹ばかりを舐る。
勇気が無かったのかもしれない。今更過ぎる話だが、どちらへ行くにも怖さがあった。何を恐れるか。関係性の崩壊も告げ、本音も晒したというのに、まだ、何を恐れるか。
顔を上げるのが、怖かったんだ。
「顔、上げて」
だからその瞬間の言葉に心臓が跳ねた。思考を見透かされているかのように。だとして、もう吐き出してしまったのだから問題はないはずなのに。
「……いやだ」
「いいから」
「……顔を見たくない」
「いいから、ほら」
頭を撫でていた手はそのままに──もう片方の手が、顎の下に入る。
この姿勢では力が入らない。持ち上げられる。
ああ。
私の顔はいま、どんな酷いことになっているのか。
彼女の顔は──。
「近、」
「んー」
触れ合う。
わからない。目を瞑っている。ただ、慣れていない動きでこちらの歯を割ろうとする肉芽の感覚は。空気を多く混ぜてしまう、言ってしまえば下手な部類のそれで、けれど懸命にこちらを探る。
目を開けると。
目を瞑っている、彼女の顔がそこにあった。
「──ごめん、経験ないからさ、難し」
彼女の口が紡げたのはそこまでだ。
唇の動きで相手の口が開かないよう抑え込み、歯茎をざらりと撫でて彼女の頬を引き攣らせる。これで扉は開いた。私の肉芽が上下の歯門をこじ開けて、中で縮こまっている彼女を引き摺りだす。舌を舌で舐る。口蓋を、頬裏を。
口の端から零れる唾液などどうでもいい。
舐める。
舐る。
口蓋垂までもに舌を伸ばせば、流石の彼女も咳き込んだ。咳き込んで、思わずといったように私の肩を押す。押して離す。
「ケホッ、けほっ……そ、そんな深くまで入れたら、誰でもこうなるって……ぇほ」
「苦しい?」
「だから、これは誰でも苦しいから」
「もう、やめてほしい?」
見つめる。
どろどろだ。
口の端も、肩も、腹も。
私の唾液でどろどろ。
だから問う。
言って欲しくて問う。
「拒んでほしいの?」
「……」
「わからないんだ。自分じゃ」
「……ああ」
受け入れて欲しい。そういう関係になることを望んでいる。
拒んでほしい。こんな私は私じゃないと、蹴り飛ばしてでも目を覚まさせてほしい。
相反する気持ちが──彼女が、私を拒むように、そう誘導するようなことをさせたがる。
もし、今、あの口に手を突っ込んで、喉をこそいだら、どんな反応をするのだろうか。
もし、突然下を触って、まさぐったら、どんな顔になるのだろうか。
もし──私が。
「はじめに謝っておく」
「何を。全部私が悪い」
「私は慣れていないから、やり方を知らない。知識では知っているけれど、経験がない。だからそれが、快楽や、愛情に繋がらないまま……失意に染まる可能性もある。それでもいいなら」
「──よくない」
「ああ、やっぱりか。じゃあごめんね、トゥー嬢。やっぱり私は」
「なぜ……抵抗しない」
その肩に。
首に。
手を添わす。絞めはしない。ただ、さする。
「拒めば、私が壊れてしまうと思った? 本心を告げたら、もう私が戻ってこないと、だから自身を捧げると、そう思ったのかい?」
「……多少は。今のトゥー嬢の目は、とても薄暗い」
「私を気遣って、身を差し出す、か」
「いや、そんな贄みたいな意味じゃなくて」
急速だった。
冷めていく。沸騰しかけていた血が冷たくなっていく。
起き上がって、よたよたと……後ろに下がる。
わかる。
その目は、心配だ。
親愛かもしれないけれど、決して。
「──寝る」
「え」
「けど、一緒にいて欲しい。……いてくれ。今日くらい」
彼女を通り越して、寝台に横になる。雑に毛布を体にかけて、隣で未だ呆気にとられたままの彼女に背を向けて。
「……朝起きていなかったら、泣くからな」
とだけ告げて。
埋まりはした。
薬瓶は、何かが入った。けれどそれは空虚でなくなったというだけで、毒の類だったのかもしれない。
ただ。
眠るまで、直前まで──私の頭を撫でる、その温かい手だけが。
どこか、不思議で、難しくて──悲しくて。
終ぞ彼女の方を向けないまま、私の意識は闇へと落ちて行ったのだった。